魔物の群れが目撃された東の渓谷に向かう一隊とは逆に、イレーナは山の中腹に広がる一帯に向かっていった。その機敏な行動は、騎士団の一員として然るべき行動をとっているというより、何やら焦っているようにも見えた。
とはいえ、このような任務は、今までも何度かあったことらしい。彼女は段取りの説明をさっさと済ませ、ノエたちが何をすべきかを話した後は、すぐさまチョコボを走らせて、行ってしまった。
ノエたちに任されたのは、ドラゴンフライたちの掃討だ。それが終わり次第、村へと帰還し、守りを固める。やるべきことは明確であり、迷うところを探す方が大変なぐらいだ。
更に、イレーナはリンクパールを用いて、シュガーグレイヴに残る本隊に連絡を済ませていた。
飛竜の目撃情報が事実なら、万一倒しきれなかった場合に備えて、遅れて到着する本隊による撃破を狙うということだ。
「……イレーナさん、大丈夫でしょうか」
イレーナの発言を思い返しながらも、東に広がる渓谷に向かうノエの表情は暗い。
「彼女自身、必ず勝てるとは言ってなかったね。とはいえ、『一人では倒しきれないと判断した時点で、村とは異なる方角に逃げる』とは言っていたわけだから、村への被害が出ないように、囮を受け持つつもりなんだろう」
「でも、それぐらいなら、もっとわたしたちを頼ってもいいと思うんです」
チョコボに乗って、目撃者が作ってくれた地図を頼りに、ノエたちは魔物が潜む渓谷へと向かっていた。
村に着くまでは続いていた晴天は、不穏な空気に触発されたように曇天へと切り替わり、一行の視界はちらちらと舞い始めた雪の白と、空を覆いつくす灰色に埋め尽くされていた。
後ろ髪を引かれる思いのノエを、ヤルマルがやんわりと宥めるが、オデットとてノエが感じる心配と同等の感情に心を支配されていた。
「イレーナの武器は槍だ。混戦では、連携の取れない相手が近くにいては邪魔になると判断したのかもしれない」
「ですが、相手は飛竜ですよ」
「本人が良いって言ってるんだ。無理に戻れば、怒りを買うだけだぞ」
オランローが現実的な意見を、ルーシャンはイレーナ自身の心情を、それぞれ理由として挙げる。とはいえ、彼ら自身、どこか納得しきれていないのは、顔を見ればすぐに分かった。
ノエは飛竜と戦い、討ち取った経験がある彼は父ベルナールを背に庇い、立からくも単独で勝利を得ることができた。
だが、だからと言って飛竜が単独で容易に勝てる相手かと言えば、そんなことはない。あれは運が良かったからだ。一歩間違えれば、父の代わりに死んでいたのはノエだった。ノエ自身、それを重々承知している。
一方で、イレーナの言うように、大量のドラゴンフライを一匹残さず倒し切るのは、熟練の冒険者でも難しい。それを踏まえた上で、人手をそちらに優先するという考えも分からないわけでもない。
(……だけど、あの人は、一人で行ってしまったそれは、単純な戦力の問題じゃない)
お前たちは信用ならないと言われた以上、イレーナはノエたちを飛竜と戦う戦力になる可能性は理解していても、背中を預けるに足る仲間とは見做していないのだろう。
たとえ数日寝食を共にしていたとしても、不測の事態おいては尻尾を巻いて逃げ帰る者――彼女は心の中でノエたちはその程度の覚悟しか持っていないと決めつけている。
根深い不信の感情は、一朝一夕で生まれたものではあるまい。きっと、彼女や部隊の仲間たちが、傭兵や冒険者たちに強い不信感を抱かなければならないほどの、何かがあったのだろう。
ただ街に滞在するだけで、法外な滞在費をふっかけたくなるほどの憎悪を抱く、何かが。
だが、それをノエの感情が受け入れるかどうかはまた別の話だ。
いつしか、ノエは手綱を握る手に力を込め、自分の中のもう一つの衝動と自問自答を続けていた。
ノエはチョコボに指示を出し、先頭を走っていたサルヒへと近づいた。
「ノエ、どうしたの」
「向かう先にいる魔物は、ドラゴンフライが十体程度という話でしたが……サルヒさん、前衛を一人で任せても耐えることはできますか」
「……旦那様を前衛と同等の位置に配置すれば、可能だと思う。あいつらは、魔法が少し鬱陶しくて空を飛び回るから厄介。でも、ヤルマルたちの飛び道具があれば、制圧は難しくないはず」
「ありがとうございます」
小声でのやり取りを済ませて、ノエはチョコボの手綱を強く引いた。停止の合図を送られ、チョコボは木立の半ばで足を止める。
「すみません、みなさん。一つお願いがあります」
突如立ち止まったノエに、皆も遅れてチョコボたちに停止を指示する。怪訝そうな皆の顔を見る前に、ノエは言う。
「僕は、このまま来た道を戻って、イレーナさんの元に向かいます」
言葉を放った直後、真っ先に目に入ったのはオデットの顔だった。
怒りとも悲しみとも言い難い、何かを言おうとして多くの気持ちを押し殺した彼女の顔を見るだけで、胸がしめつけられる思いがする。自分の選択は間違っていないかと迷いも生まれる。
ドラゴンフライの群れを六人で討つよりも、二人で飛竜に立ち向かう方がよほど危険だ。
分かっている。全部分かった上で、それでも、と言わなければならない。
(――それを言わなければ、僕は僕でいられなくなる)
そこまで自分の心に嘘をつけるほど、ノエは器用ではない。
一瞬の沈黙の末、まず動きを見せたのはヤルマルだった。彼女は「だろうと思った」と肩を落とし、
「君が言わなかったら、ボクが言おうかと思っていたからね。ただ、竜を相手にするなら弓を得意とするボクよりも、剣と盾を扱う君の方が適任ではあるのだろう」
「……ヤルマル」
「オランロー、君の心遣いは大変嬉しい。だけど、ボクとて一人で竜に立ち向かおうとする彼女を放っておいても何とも思わないと言えるほど、薄情にはなれないのさ」
オランローは苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、やがて諦めたようにゆっくりと首を横に振った。
しかし、ノエは「いいえ」と否定の言葉から切り出す。
「ヤルマルさん。申し出はありがたいのですが、僕は自分一人で行こうと思っています」
「それはまた、どうしてだい」
「理由はわかりませんが、イレーナさんは僕たちを信用していない。そんな状況下で、後方からの支援があったとしても大人しく受け入れてくれないかもしれません。変に気を張って立ち回らせることになるよりは、同じ前衛の僕の方が増援には向いています」
イレーナにとって、ノエもヤルマルも背中を預けるに足らない存在であることには代わりない。だったら、まだ彼女の視界に入っていられる戦い方をするノエの方が、彼女の信用を勝ち取りやすいだろうという判断だった。
「それに、ヤルマルさんが行くとなったら、オランローもついてくると言って聞かないでしょうから」
「それに関しちゃ、君も同じだと思うんだけどねえ」
ヤルマルは、ちらりとオデットを見やる。
オデットは唇をぎゅっと噛み締めていたが、その喉の奥にはノエを引き止めるための言葉がいくつも詰まっているのだろう。
「僕は彼女に約束しました。必ず、彼女の元に帰ると」
ノエは、自分の言葉を確かめるようにオデットを見つめる。果たして、彼女はゆっくりと首を縦に振ってみせた。
無理をさせているとは、あるいは無理を強いられているとは、お互いに承知の上だ。それでも、ノエはこの道を行くと決めた。そして、オデットはその隣にいたいと願ってくれた。
彼女も納得してくれた――ノエが、そう思ったときだった。
「だったら、わたしも兄さんと一緒にいきます」
「――オデット」
「構いませんよね。ドラゴンフライは翅を持つ魔物ですが、飛び道具ならヤルマルさんがいますし、魔法ならルーシャンさんがいます。オランローさんの舞術なら、癒しや障壁を作ることも可能と聞いています」
「いや、それはそうかもしれないが……でもオデット」
「兄さんの足手纏いにはなりません。それに、少数での戦闘なら、治癒魔法は大事ですよ。わたしなら、治癒魔法を使った支援のみに徹底すれば、イレーナさんに不安を感じさせることもありません」
「だけど、飛竜は魔物よりも危険な相手だ」
「その危険な道に、兄さんは向かうつもりなのですよね。それに、わたしは兄さんの隣にいたいと、今も昔もずっとそれだけを願っています」
ノエの約束を、彼の信頼を疑っているわけではない。彼が帰るというのなら、確かにノエはオデットの元に帰ってくるのだろう。
だが、それを彼から離れた所で待っていなければならない理屈はない。
「わたしは、兄さんと一緒に行きたいんです。兄さんだって、わたしと一緒にいたいって言ってくれました。なら、こういう場面があることも、兄さんは慣れてください」
激流のように流れ込んできたオデットの言葉に、ノエは二の句を継げず、数度息を吐くことしかできなかった。
最終的に何かを諦めたかのように、彼はゆるゆると首を横に振る。それは否定のためではなく、オデットを丸め込むための理屈を作り出せない自分を認めるための儀式のようなものだった。
ノエ自身、己の選択が、オデットを死ぬほど心配させるだろうことも分かっていた。その上で我慢してくれと言うのが、どれほど傲慢であるかも理解していた。
ならば、オデットが同じように、わがままを通そうとしたとして、それを拒絶する理屈をノエの手では用意できないことも明白だ。これは要するに、我儘の応酬のようなものなのだから。
「そういうことなら、オデットが抜けた分は、俺がサポートしておく。ちょっとぐらいは、聞き分けの悪い物同士、肩を並べて行ってきたらどうだ」
話を聞いていたルーシャンは「それよりも」と声音を固くして、
「行くなら急いだ方がいい。うかうかしていたら、お前らが到着していた頃には、イレーナと飛竜が接触しているかもしれない」
「……わかりました。すみません、ルーシャンさん。魔物の方は任せます」
「打算を抜きにして動けるのは、若人の特権だ。気が済むまでやってこい。……ただし、お嬢ちゃんに怪我させたら、ただじゃ済まさないからな」
「はい。もちろんです」
命に代えても――と言ってしまったら、またぞろオデットの不興を買ってしまうので、ノエは心の中だけで誓いの言葉を口にする。
チョコボの手綱をあやつり、青年はイレーナが向かった道を辿るように踵を返して駆け出す。その後を、すぐさまオデットのチョコボが追う。
「さて、と。ボクたちも情けない報告はできないよ。しっかり魔物退治を遂行しようじゃないか」
「ええ。私も、ノエに任されたから」
唯一の前衛となるサルヒは、きっと唇を引き結び、ちらちらと雪が舞い始めた林の向こうを見据えた。
***
自分は、バカな真似をしている。その自覚はあった。
だが、どれだけ承知していても、心があいつらに頼るのが嫌だと主張していた。
あの日、自分の部隊が受けた仕打ちを思えば、どこの誰とも知らぬ傭兵など、いつ自分を裏切るか分かったものではない。そう思う己を止められなかった。
(大丈夫だ。飛竜なら、一人で倒したこともある。私一人で何の問題もない)
走るチョコボに手綱を打ち、急げ急げと命じる。それは、飛竜が村に向かう前に奴を倒さなければならないという使命感だけが原因ではない。
心のどこかで、自分の選択は無謀であり、騎士として正しくないのではと疑っていた。
だから、イレーナという女が冷静になる前に、目的地に到着している必要があったのだ。
(あの傭兵どもに頼れば、飛竜をこの場で撃退する確率もあったのだろうか)
数日行動を共にしていて、彼らが優しい心根の持ち主なのだろうとは推測できていた。
こちらを観察するような視線を向けている者もいたが、概ね彼らの態度は友好的であり、本来ならば嫌厭されても仕方ない立場であるイレーナの存在すら、穏やかに受け入れていた。
特に、ノエという名前の青年は、イレーナに対して礼儀正しい態度を一度も崩さず、任務への不平も漏らさなかった。
かといってこちらに従属しているわけでもなく、時に忌憚のない意見を口にし、イレーナと任務について考えを戦わせる姿勢を見せていた。
(だが、それでも、あいつらは……よそ者だ)
部隊の外から来た人間だ。そう思ったら、揺れていたイレーナの心がすっと静まる。
彼らは敵ではない。だが、味方でもない。命を預けるような関係は、自分と彼らの間には築けていない。
――傭兵などという者を信用した、僕が馬鹿だった。
後悔を口にした隊長の背中を思い出し、イレーナは眉間に強く力を込める。
ちらつき始めた雪を蹴散らすように、地図に示された道を駆け抜ける。今考えるべきは、一人でどうやって飛竜を討つか、ということだけだ。
「……救援は呼んでいる。危なくなったら、竜を惹きつけて村とは反対の方角に逃げればいい」
独り言で自らの指針を確認し、イレーナは更に走る。
できるなら、飛竜を見たというのは、何かの間違いであってほしかった。
何せ、竜と魔物では脅威度が格段に違う。魔物は本能で以て人に危害を加えるが、竜は知恵がある。彼らは同じ轍を踏むほど愚かではない。若い竜ならいざ知らず、先達から知恵を授かった個体や、長い時を生きた竜は、それだけで熟練した戦士と同じだけの知恵を蓄えたことになる。
「……見つけた。あれか」
空を突くような針葉樹の群れを走り抜けた先、斜面の勾配がきつくなるにつれ減っていった木々の代わりに、空がよく見えるようになった。
鉛色の雲が覆い始めた天蓋の中、黒々と際立つ影の正体は。
「どうやら、最悪の予想が当たってしまったらしい」
イレーナはチョコボから降りると、軽く首を叩いて避難を促す。今まで数多の乗り手を預かってきたチョコボは、おとなしく命令を聞いて、木立の向こうへと姿を消してくれた。
背に負っていた槍を両手に構え直し、まずはまばらになった木立から敵の様子を伺う。
(数は、予想通り一体か。この辺りでは飛竜は見かけないと言っていたから、群れから逸れた個体か?)
おとなしく飛び去るのなら、無理に事を荒立てる必要はない。そう思い、イレーナはじっと飛竜を観察していた。
だが、動いたのは飛竜の方だった。
「――!!」
その細長い首をぐるりと巡らせ、飛竜はイレーナの隠れた木立を見つめる。
偶然ではない。明らかに、竜と視線が合った。
「……来るか」
自分を鼓舞するために、相手の行動を呟く。
同時に、蝙蝠に似た翼を大きく羽ばたかせ、飛竜が一目散にこちらに飛来する。こちらに向かって振り下ろされたのは、体を支える脚部――その先端にある、鋭い鉤爪だ。
このまま木立に隠れていても、木々諸共爪の餌食になるだけ。すぐさま、イレーナは木立から飛び出し、前に飛び込むようにして相手の攻撃から逃れる。
「降りてきたのは間違いだったな。飛び回っていれば、当たらずに済んだものを」
ただ回避するにとどまらず、イレーナは自身の長い尻尾で姿勢を制御。爪の攻撃が空振りして姿勢を崩した飛竜に、イレーナの槍が放たれる。
かえしがついた槍の穂先は、ただ突き出されて飛竜の横腹に刺さるだけでなく、その傷を広げて抜けていく。
オオオ、と飛竜の絶叫。すぐさま空中に逃げた竜は、自分の敵と定めたちっぽけな人間に向けて、口にためた炎を吐き出した。
炎の吐息となって降り積もった雪の表面が溶けていくも、その領域内にイレーナの姿はない。炎の息が吐かれたと同時に、彼女は後方に宙返りするように距離を置いていた。
足元で風のエーテルを破裂させて飛び退る回避方法は、槍の使い手ならば初歩の初歩として教わるものだ。
飛竜は上空に逃げ、距離を置いている。だが、イレーナはその後を追いかけるわけにはいかなかった。
(……地の利の有利を悟ったか。厄介な者だな)
イレーナが今立っているのは、山の中腹にある、谷底へと切れ落ちた斜面――その最上部だ。勾配こそあれど、ほぼ崖の淵にいると言い換えてもいい。
地面が途切れた先には、ぽつりぽつりと岸壁に岩棚が見えるが、落下すれば簡単に戻れない高さなのは明白だ。
故に、イレーナが自由に動き回れるのは地面が途切れる手前であることに変わりない。飛竜が上空を飛び回り続けていたら、イレーナの槍は届かない。
だが、それは竜とて同じことだ。自分の敵を倒すためには地面に接近せねばならず、飛竜はそのタイミングを図っているようだった。
お互いが武器を、爪を構え睨み合う、
一触即発の時間。隙を伺い、ほんのわずかな綻びも見逃さじと目の前の獲物に集中する飛竜。
対して、イレーナは飛竜をじっと観察していただけではなかった。
「……風よ、我が故郷を吹き荒れる冷風よ」
意識を研ぎ澄ませ、己の内側のエーテルに働きかける。
ひゅうと空気を撫ぜる風に、本来ならあり得ない意思が混じったと竜が気づいたときには、もう遅い。
「行け!!」
イレーナの放った風属性の魔法が、竜の翼に不可視の刃となって襲いかかる。
竜は空を飛ぶ生き物だ。だが、槍や剣を振るう人間は竜に比べれば小さく、その射程範囲は到底竜のブレスには及ばない。ならば、どれだけ威力が小さくとも、魔法は竜に対する有効打の一つだ。
たとえ剣や槍を得物に選んでも、初歩的な魔法ぐらいは扱えるようになるべし――それがピヌヌの部隊の基本方針だった。
風の魔法に襲われた竜は、皮膜の部分を傷つけられ、姿勢を大きく崩す。岩壁に激突しては竜とてただでは済まないのだろう。かといってこのまま奈落に落ちれば、竜は己の体重で自らを潰すことになりかねない。
故に、落着するために竜が選んだのは、イレーナがまさに待ち受ける崖っぷち周辺であった。
口に大量の炎を蓄え、炎の吐息を吐きながらイレーナの元に落ちてくる飛竜。それを真っ向から見据え、イレーナは槍を握る手に力を込める。
炎が放たれる。間髪入れず、イレーナは竜の吐息の中へと飛び込んだ。
視界が一瞬、赤い光に埋め尽くされる。だが、炎を浴びるのが一瞬なら、致命傷には至らない。
「ここなら、届く……っ!」
竜の懐に飛び込んだイレーナ。地面に不時着した飛竜の腹に、彼女が腰だめに構えていた槍が突き立てられる。
竜騎士のように空を舞う術を、彼女は持たない。だったら、姑息な手段でもいい。ありとあらゆる手を使って竜を地上に引き摺り落とし、その体を己の槍で穿つのみだ。
「二度と、私たちの前に姿を見せるな!!」
突き刺さった槍をそのままにせず、今度は上へと切り上げる。ミコッテ族特有のしなやかな筋肉を備えた体は、槍が突き立ったままであろうと構わずに、のびやかな跳躍をイレーナに許した。
かえしのついた穂先は傷を広げ、飛竜の体の半分を縦断した軌跡に沿い、血の雨をイレーナに降らせる。
風の吹き抜ける音に似た竜の絶叫が、イレーナの全身に叩きつけられる。瞬間、耳に轟いた轟音に、彼女は顔を歪めた。
「くそ……耳障りな声で騒ぐな!」
ミコッテ族の耳は、エレゼン族やヒューラン族よりも聴覚の面で優れている。遠くの物音も聞き分けられるのは利点ではあるが、このような至近距離の轟音はかえって毒だ。
耳栓は事前に入れてきていたが、ほぼゼロ距離からの絶叫は耳栓ごときで防げるものではない。
だが、それが、竜の断末魔だったのだろう。飛竜の体がぐらりと傾ぐのが見える。
もうこの竜が空を飛ぶことはあるまい。あとは確実に息の根を止めるだけ――そう思い、轟音に揺れた思考を戻そうとしたときだった。
ばしり、と。
全身を、衝撃が走った。
「――――!?」
体が地面に叩きつけられたときと同じような、あちこちを強打したかの如き痛み。それが何か理解するより先に、今度はイレーナの全身を浮遊感が包む。
「――え」
間抜けな声が出たのは、イレーナの追撃を受けて、ひと足さきに崖を落ちていく竜の姿を見たせいか。
(まさか――)
最後の最後に、竜は仕返しをした。
姿勢が崩れ、崖から滑落するのも構わずに、飛竜はイレーナを破れた翼ではたき落としたのだ。
(私、落ちて――)
落下を自覚し、イレーナは反射的に手を伸ばす。
だが、崖っぷちに指先は届かない。あとは、なす術なく落ちるだけだ。
だが、そう思った彼女の手が、
――しかと、掴まれる。
「イレーナさん!!」
自分が信じないと決めたはずの、傭兵の青年に。
彼らの中でも、人一倍お人好しで、彼なら一瞬信じてもいいのではないかと心を揺らがせた。
その男が今、滑り落ちるイレーナの手を掴んでいる。
「なぜ……なぜ、貴様がここにいる!! ノエ!!」
「……覚えていてくださっていたんですね、僕の名前
崖っぷちで腹這いになり、必死にイレーナの手を掴んだまま、こんな状況でありながら青年は笑ってみせた。不安定な姿勢に、イレーナが怯えないようにと気遣っているのだろうか。
「イレーナさん、今引っ張り上げます。説明はその後に――」
「兄さん!! 今すぐそこから飛び降りてください!!」
崖向こうから続いて聞こえたのは、オデットの声だ。だが、それはこの状況において突拍子もないものだった。
けれども、ノエは迷わなかった。彼は驚きの表情を作ると同時に、すでにイレーナの引き上げのために持ち上げかけていた上体を一転、崖下に飛び込む姿勢へと切り替えていた。
「待て、お前――!」
「イレーナさん、失礼します!」
彼はイレーナの手を掴んだまま、自ら斜面に飛び込んだ。
イレーナを抱え込むようにしてはいるものの、落下の浮遊感に思わず彼女は目を閉じる。
岩壁に岩棚は見えていたが、最上段から一つ目の岩棚までの距離ですらも、準備なしに落下すれば怪我を負う高さはあった。
全身を打ち付ける衝撃に覚悟して、歯を食いしばり。だが、
「痛く、ない……?」
浮遊感が終わり、地面に体がぶつかった感覚はある。なのに、衝撃に付きものの痛みはない。その奇妙な状況にイレーナが理由を問う前に、ノエの「構えてください」という声が飛び込んでくる。
「飛竜のことか? それなら、先ほど私が仕留めたぞ」
「いいえ、違います。オデットは、あれを見て警告してくれたのでしょう」
急勾配の壁に突き出た岩棚に立ち、ノエは剣を抜く。
その視線の先にいたのは――一体の飛竜だ。先ほどの飛竜とは違う、やや大ぶりの個体を目にして、イレーナは瞠目する。
「……まさか、もう一体いたのか!」
「そのようです。どうやら、不安定な姿勢だった僕らを狙っていたようですね。オデットが障壁を張って警告してくれなかったら、今頃爪に引き裂かれていたでしょう」
「では、先ほど落下しても怪我がなかったのは、彼女の魔法のおかげか」
「はい。そうでなかったら、今頃僕もあなたもここに落ちた衝撃で動けなくなっていたでしょうから」
言いながらも、ノエは飛び回る飛竜から視線を逸らさない。
先ほど以上に不安定な、岩棚という足場。おまけに、相手は無傷の飛竜。どう見ても、こちらが不利な状況だ。
「イレーナさん。あなたが共闘を嫌う理由を、僕は知りません。ですが、今だけは、あなたと共にあれを倒すため、協力してもらえませんか」
「…………承知した」
心の片隅で、今もノエを疑う気持ちはある。だが、このような極限の状況下で敢えて不利な選択をするほど、イレーナは愚かではいられなかった。
「ノエ、お前は魔法を使えるか」
「はい。少し時間はいただきますが」
「ならば私がやつを惹きつける。貴様は魔法の準備を進めてくれ」
「わかりました。ですが、あなたが怪我をした場合は、僕が前に出ます」
「それでいい。私も、多少は魔法の心得はある」
素早く持ち場を決め、イレーナは槍を構えて前に出る。獲物二匹を仕留めんとこちらを見下ろす飛竜を睨み返し、イレーナは眦に力を込める。状況は先ほどと変わらない。むしろ不利になっているほどだ。
それに、ノエにもオデットにも、魔物退治を優先しろと言っておいたのに、持ち場を離れるなど、部隊内なら懲罰ものである。
だけど、どうしてだろうか。
(私は認めたくない。だが、彼らは……)
自分の中に生まれた、わずかな安堵。その正体からわざと目を逸らし、イレーナは槍の柄を握り直した。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.