※流血表現 ※死ネタ ※生まれ変わり
※最終的には姫メル
おまけと呼ぶには長くて残酷すぎる話
「キザミ
…!キザミッ!」
飛び散る飛沫など気にも止めず、血溜まりの中をブレイドは駆ける。足袋は誰も元の色など分かりやしないほど赤黒く変色していた。
口には血の味が広がる。全身が鉛のように重い。自慢の長髪は無様に切られ、絡まり犇めき合っている。
そんなことはどうだっていい。
ただ愛しい彼に会いたい。戦場で別の陣の指揮を任せたアイツに。会って、終わったぜと安心させたい。俺様が敵の大将をやっつけたんだ、もう争わなくていいんだと、すぐにでも伝えたかった。その一心だけでブレイドは駆けた。
今回の戦はかつてないほど悲惨だった。敵の大将が残酷非道で、惨い策略に追い詰められもした。それでもブレイドは今こうして立っている。なんとか新宿クラスタの勝利に終わったものの、仲間はほぼ壊滅状態。地獄のような時間は山のような屍と共に真っ赤な幕を閉じた。
「ぶれぃ
…ど
…」
「
…!キザミ!!」
静寂な空間で細々と聞こえた声を辿る。数多の刀が散らばるその中心に、目的の人物はいた。散らばった刀が踝を掠めようがお構いなしにブレイドは疾駆し、崩れ落ちるように膝をつく。触れる体温は冷たいくせに、折った膝部のひだから滲み伝わるキザミの血液は残忍なほど熱い。
震える手で腰布を破り、留まることを知らないほど血液が溢れ出す傷口を、ブレイドは両腕で必死に抑えた。
「あぁくそ、止まんねぇ
…っ!」
ドクリドクリと。
どれだけ腰布を破こうが、すぐに染まり使えなくなる。赤く、赤く。自身を象徴する情熱のような紅色が好きだった。愛しい彼の瞳の緋色が恋しかった。
その色が、今はブレイドの焦燥感を煽るだけの、ただの一色と成っている。
「
…ゥ、レイド
…いぃ
…俺、ッ
…どーしようもない
…馬鹿だけどさァ
……」
「キザミ、いいから。しゃべんな」
「分かん
…だ
……も、だめだっ、て
…」
「しゃべんなって
…!」
壊れそうなほど弱々しいキザミの右腕がブレイドの目尻を撫でる。ブレイドはその手を捉えて必死に縋った。支えるように、逃がさないように。置いていかないでくれと悲願するようにも見えた。
「おまえが
…王に、なる
…っとこぉ
…見れねぇのかぁ
……」
「キザミ
…!」
「ハハ
…くやしー、なぁっ
………」
眼帯が無くなり露になった鼈甲色の瞳。その目尻から涙が頬を伝って血と混ざり合う。
せめてその綺麗な雫は血を知らないまま透明でいてほしいと優しく掬いとっても、己の手に付いていた汚い血と混ざり、また濁る。全てが全て、赤く澱んで消えていく。
途端にブレイドは心が欠けていくのが分かった。不甲斐なくて、惨めで、愛した人すら守れない、欠けた人間。こんな奴が王になるなんて、とんだお笑いものだ。
「
…らしくねぇ顔
…すんなよ
……」
壊れそうなブレイドとは裏腹に、キザミは揶揄って遊ぶ童のように笑う。
最後に見る愛した人の顔がそんなしみったれた表情じゃ、ろくに成仏も出来やしない。笑顔一つでキザミはブレイドに伝える。笑えよ、いつもみたいにさ。呆れたような微笑みも、目が合った時にする満面の笑みも、全てを任せられる頼もしい太陽みたいな笑顔も、俺は全部全部好きなんだぜ?
今にも崩れそうな表情筋を酷使し、そう訴えた。
「ほら
…にぃー、って
……」
先程よりも弱い力で持ち上がったキザミの左腕が、ブレイドの顎に触れた。どれだけ力を振り絞ってもそれ以上は腕を上げられなかった。こんな所でも弱いことが仇になる。最後まで弱い自分が情けなくて、キザミは僅かに表情を歪めた。
「
…言われなくても、出来るぜ」
なんたって、王だからな。
今にも脱力しそうなキザミの両手をブレイドがしっかりと掴み、頬へと導き、くしゃりと笑う。
(
……そうだった。お前はそうやって、ずっと俺を導いてくれる
…)
王になるとこなんてとっくの昔に見ていたんだ。
キザミがブレイドに負けた日、仲間になろうと決意した時、差し出された手を取ったあの瞬間。ブレイドはもう、とっくにキザミの王になっていた。
「ブレイド
…俺さ
……」
今更気付くなんて、やっぱり俺は馬鹿だ
「生まれ変わっても
……」
許されるなら、最愛の王をずっと支えたい
でも、今世ではもう叶わない。だから__
「きっと、また___」
----
『なぁ、俺たちも”また”仲間にしてくれよ!』
メルトの口から自然と流れるように出た台本に無い2文字。目の前で背を向けていた姫川が振り向いていなければ、メルトは自分が言い間違えたとは気付かないほど、違和感すらなかった。
お互いが豆鉄砲をくらった鳩のような顔で呆然と見つめ合った後、あぁっ俺が間違えてたんだったと、メルトは我に返って金田一の方に向き直り謝罪する。
「すんませんっ!もう1回お願いしま
…」
すの発音とほぼ同時に、後ろから大きな衝撃をくらった。なんだなんだとメルトが目をやると、無言の姫川に抱きしめられている。視覚的情報を得たのに尚更現状が掴めない。
「ひ、姫川サン
…?なんかあったすか?」
「
…わかんね」
「えぇ
……」
でもなんか、体が勝手に動いてた。
姫川は続けざまにボヤき、怖いくらいにジッとメルトを凝視する。挙動不審な姫川に少し恐怖を覚えたメルトは、姫川が先輩ということも忘れ訝しげに見つめ返した。
この人、色々主演も務めているのに役の名前も忘れてるし急に抱きつくし見つめてくるし、変わった人だな、とメルトは思った。ブレイド役をすると乗り移ったのかと思うくらいオーラが出るのに、素の状態との落差で拍子抜けしそうになる。
「
…目」
「え?」
「飴みてぇだなと思って」
(
…あめ。雨
…飴?、俺の目が?)
やっと口を開いた姫川の口から発せられたのは、あまりにも突然すぎる目の話。褒められてるのかどうか分からない独特な比喩なのに、メルトは鼓動が早まるのを感じた。
思考が追いつかないままグルグルしていると姫川がゆっくりと手を伸ばしてきて、するりとメルトの頬を撫でた。その手はどこかとても懐かしい感じがして、意図せず目尻が熱くなる。
「綺麗だな」
チカチカと閃耀する視界。
「わりぃおっさん、やり直させて」と立ち上がった姫川の声で、遠くに手放したメルトの意識が戻ってくる。顔を上げて金田一の方を向いた姫川の表情はまるでいつも通りだった。
張り詰めていた空気が緩和して、外野も声を発し出し始める。彼らににとって先程までの一時は、些細な出来事として数分後には記憶から無くなっているんだろう。
ただ、メルトはどうしても忘れられなかった。脳裏に焼き付いて剥がれない姫川の表情と仕草。そして自身の体に感じる異変。
(姫川さん、)
再び定位置に佇んだ姫川の背中を、メルトは問いかけるように見つめる。
なんでそんなに苦しそうだったのか、もしかしてこの張り裂けそうなほどの胸の痛みを、姫川も感じているのではないか、どうして色んな人が見てるからと押し当てた手を、逃がさないとばかりの強さで握ったのか。
__何故、目の前がぼやけて見えるのか。
脳内にツキンと迸る微細な痛みと、何かが込み上げてくる感覚にメルトは襲われる。聞きたいことも分からないこともたくさん波のように押し寄せて、ぐちゃぐちゃ。
メルトは潤んだ瞳を二度瞬いて思遣う。
(姫川さん、俺馬鹿だから何も分かんねぇよ)
胸の圧迫感も、切なさも、辛さも、それを覆すほど愛おしさで満ちてる理由も、メルトには全部分からなかった。
(
……だから”また”教えてくれなんて言ったら、笑われちゃうかな)
-----
__きっとまた、好きになる。
そう零し光を失った鼈甲飴のような瞳。
溶けぬように、壊さぬように、飴細工に触れるくらい慎重な手付きでブレイドは瞼の蓋を下ろした。
生まれ変わっても好きになってくれるのなら、あの日みたいにもう一度手を差し出そう。なんならそのまま抱き締めてしまおうか。ブレイドは目先にいる最愛の鬼人と、対話するように一人紡いだ。
鈍痛の走る背を丸め、湿った睫毛に乾燥した唇をあてがう。
必ずまた見つけるから。
広い世界の片隅で、一人の男は最愛の鬼と小さな契りを交わした。
-----
先日の一件があってから、メルトと姫川はお互いに声を掛け合うことが増えた。それどころか、姫川は暇さえあればメルトの頭に顎を乗せたり抱き枕にしたりと、普段の彼を知るララライの人達からすると異様すぎる光景が常日頃から繰り広げられていた。
聞くと、姫川もメルトと同じく不思議な感情を抱いていた。それの正体がなんなのか、何がトリガーとなっているかは分からない。ただ、
「姫川さん、また触ってますよ」
「
…わり」
姫川はメルトの額と左目を気にすることがやたらと増えた。もしかして禿げてる!?と鏡を見ても毛根は育ち盛りのふっさふさで杞憂に終わったのを、今でもはっきりと覚えている。
とは言ったものの、そんなことはメルトにとって些細なことだった。役者としての大先輩に好かれているのは、この上なく嬉しいことなのだから。
問題は、姫川にもっと触れてほしいと思ってしまっていることだった。指摘するのはそんな邪な気持ちの抑止でもあるが、今日だけでも片手には収まらない回数に達している。
「もーなんでそんなに触ってくるんすか」
「
…わかんね」
「またそれ」
ウーンと唸る姫川を横目に、メルトは台本を開いた。書き込んだ所を見返そうとした意識が「あぁ」という声で再度姫川に向かれる。
「確かめるため、かも」
「何を?」
「あるはずのもの
…?」
「そんなとこなんもないっすよ
…」
あるとしても虫とかにある触角か、あるいは牛とか羊とかの角。でも俺は人間だから、当然そんなもんないっすよーとメルトは吐き捨てた。
こんな調子でちょっと変わった人ではあるものの、メルトは姫川のことは好きだった。けどそれは憧れ的な好きであり、他意はない。別の仕事もあって忙しいだろうに合間を縫って演技を見てくれたり、時間があるときは一緒に残ってくれる日もあった。そういう頼もしさや有り難さが肥大化した”好き”。
言うなれば、歳の近い気さくな兄と対話している感じに近い。
それに、姫川はブレイドだけでなくキザミの解釈も深かった。以前役作りに悩んでるメルトの傍で「自己解釈だけど」と前置きを付けて語ったキザミの人物像は、実際に居るのではと錯覚するほど詳細だった。「小説版も読んでます?」という問いに対して「映像しかみねぇ」「なんつーか、湧き出てくる」と返されたとこから、メルトは(一流は一を聞いて十を知るんだ
…)と関心していた。
「次のシーンやるぞー」
「あ、俺行ってきますね」
金田一の掛け声を合図にメルトがひょいと姫川の抱擁から抜け出す。この状況に慣れてしまった自分がいることが怖い
…と、やるせない気持ちを胸に仕舞い込みながら呼ばれた方へ向かう足取りを早める。
「角か
…」
メルトの背中を見つめながら囁くように言い零した姫川の声は、誰に届くわけでもなく静かにかき消された。
-----
「ハァ
……」
我ながら変な趣味嗜好を持ってしまったと、姫川は唖然としていた。
同業者の、ましてや男と一緒に居て安心する日が来るなんて思ってもみなかったからだ。離れていると寂寞に駆られ、傍に居ると酷く落ち着いた。
取り憑かれたような勢いで引き受けた舞台仕事に、意図せず目で追ってしまう下手な役者。恋衣みたく纏わりつく感情と心の気疎い不一致に、せめて可愛い女の子なら多少は合致すんのかなぁ、と姫川は二度目の溜め息をつく。
「お疲れすか?」
その息が耳にかかったメルトがくるりと振り返り、大きな瞳をパチクリとさせている。
(
…まぁ、可愛い顔ではあるか)
それにしても、黙って抱き締められてるコイツもコイツだ。逃げたり避けたりすればいいものを、嫌な顔一つせず腕に収まっている。腹いせといわんばかりに、きょとんとしたメルトの鼻を摘んだ。「んぃっ」と漏れた声に毒気が抜かれる。
「にゃにすんでふかぁ」
「ふっ、間抜け面」
「ム゙ー!」
腕の中で控えめにじたばたと暴れるメルトを見て、姫川の目を細まり口角はほんのりと上を向いた。
「相変わらずイッッッチャイチャしてるわねー」
甘すぎて見てるこっちが歯痒くなるわと辟易しながら有馬が近寄ってくる。「あぃば!」と向き直ったメルトの籠もった声で鼻を摘んだままだったと気付いた姫川は、離した手をメルトの腹に回した。
「さっきさぁ俺も姫川さんも読めない漢字があってな、有馬分かる?」
「またぁ?まったく
…見せなさい」
「サンキュー有馬!」
「さんきゅーありま」
「ブッ、真似しないでください
…んふっ、あー待って睨まないで!んと、確かここら辺の
…………いっ
…」
姫川の不意打ちにやられたメルトが有馬の鋭い視線に刺され、焦りながらペラペラと台本を捲っていた手が、反射的に引っ込められる。何事かと姫川が視線を向けた先には、ぷくりと膨らんだ一滴の赤。赤い、血。
姫川は気管が詰まり呼吸の仕方を忘れると同時に、一瞬にして全身の血の気が引き、身の毛がよだつのを感じる。
「あーやっちった
…舐めときゃなんとか
…」
「平気かっ!!」
「んぇっ!?」
振り絞ったような声と共にメルトの手首を掴んで傷口を見やる。あまりにも切羽詰まった姫川の声と表情に、メルトと有馬は息を飲んだ。
力強く引き寄せた白い手で一際目立つ赤色は、先程よりも大きさを増していて今にも垂れそうだった。頭がガンガンと警告音を響かせながら姫川の精神を啄む。
(あぁどうして、「
…ゎさん」俺はまた守れないのか)
(また目の前で失って、「め
…わさん」泣く力すらも失くして
…)
「姫川さん!!」
「
…ッ、ぁ
…メルト
…?」
ハッと我に返った姫川は状況を理解出来ないまま、尋常じゃないほど吹き出た冷や汗と浅い呼吸を、ケホとひと咳で出来る限り整える。メルトを掴む手は僅かに震えており、手汗で湿っていた。
何をしていたのだろうか。小さな切創一つで焦燥感に押し潰されそうになるなんて。らしくないことをしたうえに、その失態を後輩に見せてしまった。
ズンと肩を落とす姫川を見かねたメルトが「あの、」と、口を開いた。
「大丈夫っすよ、舐めときゃ治ります」
だからそんなに心配しないでください、と普段通りの姫川が帰ってきた安心感でにへらと砕けるようにメルトが笑った。姫川が目線を落とすと、メルトの腕の掴んでいた所が薄く跡となっていて、申し訳なくなり力を緩めた。指先の血は爪の隙間まで入り込んでおり、見るからに痛々しい。
「だからあの、そろそろ離し
……うぇ!?」
「げっ」
「
…ン?」
姫川の口に突如として広がる、鉄錆のような、異質な味。
傷のある指をパクリと咥えこんだ姫川を見てメルトは顔をボッと赤らめ、有馬は怪訝そうに、姫川は無意識の行為だったのか味覚を刺激する慣れない風味に眉を顰めた。
「ひひひ姫川さん!?!?ぇ、何す、はっ!?」
「アンタたち
…いつからそんな仲に
……」
「なってない!!断じて!!」
「大丈夫、大丈夫よ。誰にも言わないから」
「なにも大丈夫じゃねえけど!?」
ギャンギャンと騒がしい光景を見て逆に冷静になった姫川は、未だ心音に揺らされるこめかみを押さえ、うるさい二人を他所に一人推考していた。
(また
…身体が勝手に動いた)
瞳への執着心、角に抱く焦燥感に加え、血を見た時の自失具合。欠けた部分を埋めるピースなのは確かでも、完成系が分からずじまいなので当て嵌めようがない。
(そもそも血なんて今まで何回も見てきた。目だって色んな人のを見てきたし、角と調べて出てきた画像はどれもピンと来なかった。)
(
……ダメだ。なんも分かんねぇ)
単語を結びつけたら何か見えてくると考えたが、接点の欠片すらなく余計に拗れそうだ。
爪の隙間まで舌を這わせ完全に血の味を感じなくなったのと同時に、姫川は思考を放棄しかけた。
(あ、)
しかけて、一つ。
(全部、メルトが関係してる)
だからなんだと言われたら、おしまい。分かったところで何かが見えてくるわけでもなかった。それでも、バラバラと無操作に散りばめられた単語が一本の細糸で結ばれる。
鳴嶋メルト。
舞台東京ブレイドで初めて共演する当たり障りのない性格の普通の男。飴みたいな瞳に異様なほど惹かれ、それから
…
「姫川さんも!いつまで指咥えてんすか」
そろそろふやけそうですと呆れたように笑うその笑顔がただひたすらに眩しくて、胸が張り裂けそうにも満たされそうにもなる。
(何者なんだろうな)
お前も、俺も。
姫川は形容しがたい気持ちを紛らわすように、目いっぱいの力でぢゅうっと指に吸い付いた。
-----
__心地の良い夢を見た。
辺り一面が真っ黒の中、夢半ばで行き倒れて、いくら手を伸ばしても光に届かなくて
…諦めようとしたら、伸ばした手が誰かに掬い取られて、
いつもそこで目が覚める。
「
…まただ」
寝起きの朦朧とした頭でも良い夢だったとは思うのに、目尻はいつも濡れている。不定期ながらも、メルトは昔からこういうことが多々あった。
慣れた手つきでくしくしと涙を拭きつつ、徐々に覚醒していく意識の中でふと違和感を覚える。
「
…忘れて、ない」
夢の内容を鮮明に覚えているのは、今日のが初めてだった。
「
……ってことがあって、良い夢なんすけど
…レム睡眠ってやつすかね。脳が休まってなくて」
「へえ」
「ぁ、すんません、心配してくれたのに
…全然大したことないんで大丈夫っすよ!」
腕を大っぴらに広げ元気だと意思表示をしたメルトの目元には、コンシーラーで隠されてはいるが本人曰くクマがあるらしい。よほど顔を近付けないと分からないので、今のところ気付いているのは姫川だけだ。
「疲れてんのかもな」
「
………まぁ」
否定は出来なかった。東ブレ舞台を今日あまの二の舞にしたくなくて粉骨砕身で練習していたメルトは、正直疲弊していた。現に姫川の腕の中で縮こまった背中は以前より痩せており、浮き出た肩甲骨が姫川の胸を圧迫して抱き心地が悪い。
「
…初詣でも行くか」
「へ?」
口を噤いだままでいるメルトにそれ以上の深掘りはせず、姫川は軽い口振りで続ける。
「息抜き。もしかして予定あった?」
「な、ないです!」
「んじゃ決まり」
「は
…」
トントン拍子で埋まった予定にメルトはポカンとしている。舞台は年明けからの公演で元旦は休み。深夜参拝するのはむしろ身体に悪いだろうから、行くなら朝。
これは手に入れた抱き枕の抱き心地を戻すためであってそれ以上の目的はないと、意味もなく自分言い聞かせた姫川は甘酒の舌になった口をムグリと動かした。
(初詣って
…もしかして、二人で?)
一方メルトは、高鳴る鼓動にじわりと紅潮する頬を、立てた膝の隙間に埋めて隠していた。
そんなんじゃない。姫川さんのお誘いも、この気持ちも。間違えるな。困惑で揺れるメルトの瞳は覚悟を決めたように一点を見つめる。
ただ、不思議な感情に当てられただけだ。
-----
「うっわー
…やっぱ人多いっすねぇ」
「ほとんど拝殿行きだろ。出店行くぞ」
「ぁ、はいっ!」
数日後の元旦、二人は稽古場近くの神社を訪れた。朝参りということもあってか、参道は人でごった返している。ワンチャン有馬とかも誘ってたり
…というメルトの希望も虚しく、集合場所にいたのは姫川一人だった。やっぱり二人なんだと早まる鼓動の原因は喜びなのか、勘違いをしないという決意の現れか。後者であろうとこじつけて、スタスタと人の流れに逆らう姫川の背中の後を追いかける。
「舞台の成功祈願とかしないすか?」
「俺失敗しないし」
「そぉ
…っすよね」
「あと寒い、早く甘酒飲みたい」
「結構薄着っすもんね
…ちょっと止まってください」
何かを思いついたメルトはキュッと姫川のダウンコートを引っ張り、人の邪魔にならないよう通路の隅まで移動した。
「甘酒
…」と鳴き声を発している姫川の丸出しの首が、先程までメルトが巻いていたマフラーでグルグルと隠される。柔軟剤の良い香りの中に仄かながら存在するメルトの匂いが姫川の鼻を擽り、温かさに漏れ出た白い息が眼鏡のレンズを曇らせた。
「メルトは寒くないの」
「俺はランニング帰りなんで!」
むしろ暑いくらいですと言いながらも鼻先が悴んで赤くなってるメルトを見て、姫川は思わずポンと頭に手を乗せる。「へぁ
…」と声を漏らしてされるがままの姿が面白い。
「礼になんか奢る」
「マジすか!じゃあアイス!」
「そんなに暑いか
…?」
それと
…と口籠ったメルトの視線は、何を捉えることなく右往左往している。
「成功祈願
…したくて
…」
「あ!並ぶの嫌ならいいんです!帰りに1人でやるんで!」などと早口で捲し立てる姿は先程までの衰勢が嘘のように切迫していた。
姫川は待つのも人混みも嫌いではあったものの、捨て犬を連想させる顔でお願いされたら承諾せざるをえない。頭に乗せたままの手をワシャワシャと動かす。
「今混んでるから、後でな」
「〜〜っ!!あざす!!」
笑ってたり焦ったり喜んだり百面相をするメルトを見て、ガチで犬みたいだと笑みが零れる。気休め程度だけで帰ろうとしていた初詣でも、コイツと一緒なら少しくらい長引いてもいいかもなと、姫川は胸の奥底で思った。
「ン〜!濃厚でつべたい!」
「フー
………アチ」
「あれ、姫川さん猫舌っすかー?」
けらけらと笑うメルトの片手には機械的な螺旋を描いたソフトクリームがあり、見てるこっちが寒くなる
…と姫川は手元にある玉こんにゃくに視線を戻す。同じ出店に売っていたそれは思いがけない収穫ではあったものの、姫川の身体を芯から温めた。
「玉こんって不思議だよな」
「何がですか?」
「ただの醤油とコンニャクじゃん」
でも、めちゃくちゃ美味い。姫川は話してる間に食べやすい温度になった玉こんにゃくを頬張りながら黙っているメルトを見ると、目を見開いてわなわなと身体を震わせていた。なにか変なこと言ったかと不安になる。
「醤油だけだと思ってたんすか
…?」
「ああ
…違えの?」
「違いますよ!味醂とか砂糖とか出汁とか、いっぱい入ってるんです!」
「俺料理しねえし
…」
しなくても多少は分かるもんですよと言わんばかりに真っ直ぐ見つめてくる視線がグサグサと刺さっていたたまれない。
「そういうお前はどうなの。料理出来るクチ?」
「まぁ、ほどほどに!趣味で齧る程度のクオリティっすけど」
「ふーん」
「でも!前にアクアが褒めてくれてたんで、味の保証はできます!」
「
…へぇ」
得意げに話すメルトを見据えた視線が鋭くなる。
星野は食ったことあるのか、コイツの手料理。俺は今しがたメルトが料理出来ることを知ったばかりなのに、と姫川の心にモヤがかかる。「ランニング帰りにダメ元で朝食誘ったらノってくれて」などと続けられた言葉が淀みを加速させ奥歯に力が入る。
コンニャクを刺していた竹串がギチリと悲鳴をあげたのが脳に響き、口から出して曲がった部分を見つめた。なんだ、今の。例の不思議な感情ってやつだろうか。でも、いつもみたいな戦慄が走る感覚も、心に空いた穴が刺激される感覚も無い。
意味分からん。だるい。やめだやめ。と目を閉じて気持ちを落ち着かせていた姫川の肩に、ちょんちょんとメルトが触れる。「姫川さん、あれって」と指の刺した方向には見慣れた二人がいた。
「アクアと有馬っすよね
…?」
「
…あぁ、アイツらも来てたのか」
「やっぱり!おーい二人ともー!」
ブンブンと腕を大きく振って駆け出したメルトの背中を眺めながらゆっくりと姫川は歩く。
ふと、眺めていたメルトの後ろ姿が脳内で何かと重なった。
「奇遇だなー!お前らも初詣?」
楽しそうなメルトの声に神経を揺さぶられる。
湧き立ちそうになる脳のせいで一歩が重く、足取りがおぼつかない。
「よかったらこの後4人、デッ!!」
邪魔をするなと言わんばかりに有馬がメルトの脇腹を小突いた。
(懐かし
…………たしかこの後
…小突かれた衝撃で落ちたアイスで二人が言い争って
………やべ、視界歪んできた
………………………あれ、)
なんで、そんなことを知っているのだろうか。
「はいどーぞ」
「
…甘酒?」
「水です」
具合悪い人に甘酒あげるなんてどんな所業なんだ、とメルトは苦笑いを零しながら姫川の隣に腰掛けた。
「人酔いでもしました?」
「いや
…」
弱々しく否定する背中をメルトはゆっくりと摩る。青白かった姫川の顔色は徐々に赤みを取り戻しており、安堵の息を吐いた。
少し前、メルトにフラフラと凭れかかった姫川は意識が朦朧としており、浅い呼吸を繰り返すのが精一杯のようだった。落としたアイスはアクアと有馬が片付けてくれるとのことなので、ひとまずは人通りを避け、姫川を支えながら奥まった位置にあるベンチまで移動し、負担がかからないよう慎重に座らせて様子を伺っていた。
「人酔いじゃないなら熱とか?ぶり返す前に帰ったほうがいいんじゃ」
「平気、たぶん」
トンと寄りかかった姫川の毛先がメルトの首を掠める。急所から直に伝わる擽ったさに歯痒くなり、「でも」と口から出かけた言葉が喉で詰まった。数拍にも満たない時間であまりにも自然に行われた行為のせいで頬に熱が集まる。
「正夢に当てられただけっぽいし、少し休んだら大丈夫
…」
「まさ、ゆめ」
「
……ああ」
ただの正夢で、こんなに?
どんな、なにが、と次々に出てくる疑問符が「それに」という言葉で阻かれる。
「成功祈願、してない
…」
うつらうつらと眠そうに姫川は言葉を紡いだ。
もういいのに、そんなこと。体調不良の方がよっぽど大事なのに。堪らなくなったメルトは何と答えたらいいのか分からず、「眠いなら横になるすか?」と話を逸らす。姫川は応じるように「10分だけ、」と言い頷いた。メルトは首にあるマフラーを枕替わりにしようと考え、抜き取って畳んでいると、突然膝に重量感のあるものが乗せられる。
その正体を確かめるために落とした目線が姫川の視線と交わった。
「なっ
…」
「おぉ
…下アングルでもこれか
…モデルすげー
……」
「〜〜!早く休んでください!」
誰かに膝枕をするのは、初めてだった。
火照った顔を見られたくなかったメルトが、姫川の視界をボスンとマフラーで塞ぐ。「眼鏡が
…」なんて言葉は聞こえなかったことにした。大体、前から思ってはいたけどこの人距離感がバグっていないか、とメルトは一人悶絶した。
(顔あつ
……)
そうやってすぐに掻き乱す姫川が。いや、簡単に絆されてしまう自分自身が、メルトは嫌だった。
ひたすらに熱い。顔も、心も。内側までもが茹だったように熱を帯びてる。
(間違えたくなかったのに)
「そうだメルト
……こんど
……」
姫川に名前を呼ばれる度に、メルトの心臓は自ずと高鳴った。
そもそも、最初から間違えてなどいなかったのかもしれない。
「おれにも
…めし、くわせて
…………」
いつも言葉一つで胸が踊って、表情が綻んだ。
メルトはマフラーを押さえていた手を緩め、濡羽色の毛束を掬い撫でる。
(おれ、姫川さんが好きなんだ
…)
-----
(
……きちゃった)
客入りは上々、それこそ数日前の初詣の日と同じくらいの人が席に座っていくのを、メルトは控え室のカメラで呆然と眺める。
自分の気持ちの整理もろくにつかないまま刻々と時間は過ぎ、舞台公演当日。とはいっても緊張やらなにやらで、恋心なんかを気にしてる余裕はなかった。
「不安か?」
「
…ア、クア」
メルトが声のした方向に振り返ると、ヘアメイクやら衣装替えやらを済ませたアクア_もとい刀鬼が立っていた。舞台が初めてのメルトにとって、漫画の中からそのまま出てきたように細部までこだわられた外見が物珍しくて目を惹かれたのか、アクアを軸にぐるりと回って穴が空くほどまじまじと見つめた。
「すげ、まんま刀鬼じゃん」
「当たり前だろ」
「
…なんか顔色悪くね?」
「アクアも不安?」と首を傾げる仕草からは、原作のキザミにはないあどけなさを醸し出している。
「
……感情演技の練習してただけだ」
「感情、演技
…」
アクアからのアドバイスを受け、メルトがひたすら力を入れた部分である感情演技。キザミというキャラに共感するところを見つけ1ヶ月間ずっと練習してきたとはいえ、いざ大勢の前で披露するとなると話は別だった。
[今日あま]の原作者である吉祥寺頼子の落胆した顔が、足を引っ張っていると言い放った鴨志田朔夜の鋭い瞳が、今でもメルトの脳内で映像のように流れカセットテープのように纏わりついて離れない。
肉刺だらけの拳の震えを、メルトは握り潰すように隠した。
「姫川さんからも色々聞いたんだろ」
「え、おう」
「練習見てたけど、格段に良くなってるぞ。お前の演技」
「
…っ!マジで!」
パァっと効果音が付くほどにメルトは揚々と握った拳を解き、人差し指で頬を掻いて照れる。
メルトの演技が良くなっている。アクアの言葉に嘘はなかった。実際、ラストの一分だけでなく全体的に見ても、及第点に指先を掠めていたメルトの演技は肘まで届くほど上達していた。近い距離で姫川の芝居を見てたことで薫陶を受けたのだろう。
(
…多少近すぎる気もしたが)
「そういえば姫川さんが一向に来ないんだけど、アクア見た?」
「あぁ
…あの人ならコンタクト入れたくないって駄々こねてたな」
控え室で、と指し示すようにアクアは組んでた腕の右腕を解き親指を後ろに向けた。
「もうちょいで始まんのに
…」
「まぁ大丈夫だろ。舞台袖行くぞ」
「ぉ、おう
…」
戸惑いが滲み出ている足取りのままメルトはアクアの少し後ろをついて行く。この時間すら惜しいと言わんばかりに、歩きながらも頭の中で殺陣のイメトレをし、空いた手で刀を振るう素振りをした。
その所作からは稽古初日に見たチャンバラごっこのような動きが見違えるほどに、一振り一振りに重みを感じさせる。
アクアは小さく嘆息しながらその背中に手を回し、力強く背中を押すようにして隣を歩かせた。
(大丈夫
…俺ならできる
…大丈夫
……)
舞台袖の暗がりの中、自己暗示のようにメルトは大丈夫大丈夫と繰り返す。出せる力を全部使い、精一杯稽古に挑んだ。今の自分に出来る限りのことをした。
(でも
…それでも、大顰蹙を買ったら
…)
どれだけ勉強しようと血が滲むほど練習しようと、努力が実ならないなんてことはざらだ。もしそうなったら自分は演技を続けられるのだろうか、とメルトはちぎれそうなほど痛む胸を押さえた。
努力して駄目ならもっともっと努力する、ということは一人でも出来る。しかしながら、本業がモデルであるメルトにとって芝居の仕事を一人で持ってくることは不可能に近い。
ここで失敗したら次はいつ芝居ができるのだろう。そもそも、次なんて来るのだろうか。不安やプレッシャーが渦巻く気持ちをなんとか切り替えようと、メルトは頬を両手で軽く叩いた。
「赤くなるぞ」
「っ、ひめ
……ブレイドさん」
「なんだそれ」
薄暗い中でメルトの目にぼんやりと映る姫川の姿は、ブレイドそのものだった。叩かれたメルトの頬を革手袋越しに労わるように撫でる姫川の手が、メルトの抱えていた不安も解消していく。
ほったらかしていた恋心が刺激されそうになったメルトは、頬を撫でる手を慌てて掴み下げさせ「ぉ、遅かったですね!」と話を逸らした。
「主役は遅れて登場するもんだから」
「ぷっ、遅すぎっす」
あと五分で開幕するのに、と笑うメルトの表情は、もう強ばってはいない。浅かった呼吸もいつの間にか元に戻っていた。
「それでいい」
「え?」
「しんどそうだったから」
「ぁ
…」
「そんな気を負うな。大丈夫だ」
俺がいるから。
姫川は腰に携えていた刀を肩に担ぎ、いつも通りの何食わぬ顔で淡々と言い放った。
すっげー自信
…と苦笑いをしつつ、ずっと傍にいた彼からの大丈夫は計り知れないほどの安心感があり、メルトはその言葉に確かに救われた。
嬉しさやら有り難さやらが一気に込み上げてきて、鼻奥がツンと痛くなる。
「頑張り、ますっ
…!」
「ん、楽しもうな」
姫川はメルトの肩をポンポンと優しく叩いてから初めの立ち位置へと歩き出す。
(やっぱ、好きだな
…)
赤い髪が揺れる背中を眺めながら緊張とは違う意味でドキドキしてきた胸を撫で下ろし、メルトも自分の立ち位置へ移動した。
舞台東京ブレイド 第一幕、後半。
盟刀風丸を引き抜いたブレイドはツルギと一戦交え仲間にしてから新宿に行き、そこで出会ったキザミと戦い、無事に勝利を収める。
(
…なんなんだ)
役者が各々やれる限りの演技をし順調に話が進む中、舞台上でただ一人、姫川は沸き立つ激情をなんとか抑えていた。
舞台袖では暗いのとコンタクトをしていないのとが相まって分からなかったが、明かりに照らされある程度は役者の姿が見える今、キザミを演じるメルトの動き一つ一つが、内なる何かをただひたすらに揺さぶり続けていた。
それに加え、キザミの額にある三本の角に目をやる度に、姫川はまたもや焦燥感に駆られた。
(これか、角って)
どうりで調べてもピンと来ないわけである。あんなにも特徴的な角は、”キザミ”というキャラでしか見たことがない。
訴えるように激しく鼓動する心臓を無視し、表情は崩さないまま演技をそつなくこなす。これっぽっちのイレギュラーくらい、姫川にとってはどうってこともない。
…はずだった。
『なぁ!俺たちも仲間にしてくれよ!』
浅紫の髪が揺れ、付け牙が見えるくらいの弾けるような笑顔が向けられた途端、姫川の脳内にノイズが走る。
『お前が王になった時、』
”お前が王になるとこ”
『俺のポジションは将軍な!』
”見れねぇのかぁ
…っ”
被さるように聞こえてきたのは、全く聞き覚えがない、記憶に存在しないはずのメルトの声。それと同時にノイズとして脳内に流れる、血を流しながら笑う人影の姿。一瞬の出来事だった故に確証はない。それでも、姫川はあれはキザミだと直感で理解した。
もう何が何だか。溢れる動揺を隠しきれなかった姫川は、メルトの手を握り返す瞬間だけ、僅かに表情を強ばらせた。
「気分悪そうっすけど、大丈夫すか?」
「
…ああ」
第一幕後の15分休憩、控え室の壁に背中を預け眉間を揉む姫川の隣に、メルトもそっと寄りかかった。その手には付箋だらけの台本を抱えられていて、読み直し中に姫川を気にかけて来たんだろうと伺える。
「
…メルトさ、」
「はい」
「東ブレは漫画派だったよな」
「そうですけど
…」
「キザミって死ぬ?」
「んぇ!?」
突然投げかけられた質問に、メルトはぐりんと首を姫川の方に向けた。ポッカリ開いた口からは付け牙がチラついていた。
「ぇ、えっ!?死にませんよ!?」
「そうか」
「そうかって
…!?」
でっかい話題の会話がすぐ終わったことに、メルトは未だに着いていけず困惑しきっている。
「質問変える。お前は何か感じたか」
「何かって
…」
「例の”不思議な感情”ってやつ」
「いや
…」
「そうか」
「だからそうかって!?」
「会話する気あります!?」と抗議してくるメルトを横目に、姫川は再び眉間を揉み解す。
映像しか観ない姫川は、アニメ内でキザミがあれほど血にまみれるシーンはなかったはずだと記憶を巡らせる。まだアニメ化されていない漫画ならと思って聞いてみたものの、それだと被さるように聞こえた声の説明がつかない。そもそも、アニメの声優は当たり前にメルトではない。
他にも聞きたいことは山ほどあったが、メルトの見せ場は第二幕の前半。今ここで要らないことを考えさせて演技に支障をきたすなんてことはあってはならない。匁との対決シーン、メルトが一番練習していた場面。その姿を姫川は傍で見ていたので尚更だ。
「メルトの殺陣、見ててやる」
「話が急に飛ぶ
…けど、あざす!頑張ります!」
困惑してた顔が打って変わり、雨上がりの青空のごとく晴れやかな笑顔になる。その明るさにつられるように姫川も小さく微笑んだ。
(まぁ、終わった後で聞きゃいいか)
今はただ、舞台に集中する。
激情も抑えられてるし大丈夫だろうと姫川はあまり深く考えていなかった。
閉幕後、舞台裏でメルトの姿を見るまでは。
-----
カーテンコールから見える景色の中には、涙の流してる人もちらほら。東京ブレイドの初日は大成功を収め、幕を閉じた。
姫川は劈くほど大きいスタンディングオベーションを聞きながら、隅で手を見つめたまま動かないメルトの顔を覗き込んだ。
「抜け殻」
「
……いやぁ
…抜け殻にもなりますよ
…」
視線はボロボロの手を捉えたまま、メルトは姫川の呼び掛けに応える。やり遂げられた安心感、脱力感、疲労感が、壊れたダムのように一気になだれ込んでくる。ただ、それ以上に沸き立つ感情があった。
「楽しかったか?」
「
………ん、」
目線をゆっくりと上げたメルトの瞳は潤いでキラキラと光り、頬から耳にかけて紅潮している。
「楽しかった
……!!」
抜けた中身を取り戻したように、メルトの声は活気付いていた。
「めっちゃ楽しかった!あっという間だった!体感5分くらいで
…上手く言えねぇけど、すっげー達成感!」
「そうか」
「へへっ、またそれ!」
しばらくした後、ひとしきり吐き出して満足したメルトはハァと大きく息を吐いてから、思い出したように手を頭の後ろに回しもぞもぞと動く。
「そうだ、ずっと眼帯してるから目がおかしくなりそうなんすよ
…生地が細かいんで一応見えてはいるんですけ、ど
……………っと、ンーッ解放感やべぇー!」
眼帯に隠れていたメルトの左目はコンタクトをしておらず、本来の色である鼈甲色が現れる。
何回か目を屡叩いたメルトは「左目まだちょっとぼやける」と屈託なく笑った。ずっと黙っているの姫川に気付かないまま。
『キザミの眼帯の下見てぇな』
『
…イイもんじゃねぇよ』
『なーに言ってんだか、それご開帳~
…………』
『待てオイ
…………あっ』
『
……』
『わりぃ
…妖瞳なんて、むくつけだろ』
『
…綺麗だな
鼈甲飴みてぇで、すげー綺麗だ!』
「
…俺と同じ
…真紅もいい
…瞳、も
…」
「、?しんく?赤?」
浮かび上がる言葉を暗唱するように漏らす姫川の声を拾ったメルトが、「姫川さん、コンタクトしてないですよね?」と確かめるように顔を覗き込む。
その無防備な顔に、姫川は手を添えた。まさに、飴細工に触れるほどの優しい手付きで。
「
…知ってる」
「姫川さ、」
「俺はお前を知っている」
-----
しばらくメルトの目を凝視していた姫川は、「後で話がある」と言い残して足早に控え室へと戻った。一人ポツンと残されたメルトは訳も分からぬまま、とりあえず衣装を着替えるために自身の控え室へと駆けた。
話とはなんだろう、演技のダメ出しでもされるのだろうか、もしかして気持ちがバレてしまったとか
…と、メルトはメイクを落としてもらっている時ですらグルグルと目が回りそうなほど考えていた。 話の内容がどれにしたって、姫川の様子がおかしかったことに変わりはない。元々挙動不審な人ではあったものの、あの瞬間は一段とおかしかったな、と姫川の顔を思い出しながら首を捻った。
深紫色に反射していたのは確かにメルトの姿なのに、目の奥にはメルトじゃない誰かを見透かしたような深さがあった。思い出しただけでも呑まれそうになる。
(「お前を知ってる」って何かの台詞なんかな)
いくら考えても答えは出てこない。
ならば手っ取り早く本人に聞こうとしたメルトは、ラフな服装に着替えてから廊下へ出てキョロキョロと見渡しながら姫川を探した。
(いねーなぁ姫川さん
……)
とくに待ち合わせ場所を決めていなかったのが仇と出て、一向に見つけられないまま廊下の突き当たりまで来た。メルトは一言連絡すればよかったなと後悔した。
一旦スマホを取りに戻ろう。そう考え踵を返しかけた足が一歩を踏み出す前に硬直する。
「鳴嶋
…メルト君?」
「き、ち祥寺、先生
……」
振り返った先にいたのはメルトが台無しにしたドラマの原作者である吉祥寺頼子だった。突き当たりに来る途中までで会わなかったのだから、おそらくはすぐ側にある階段から降りてきたのだろう。
メルトはガチガチの体をなんとか動かして「ご無沙汰してます」と言い深々と頭を下げた。声が上擦って居た堪れない。
吉祥寺はそんなメルトを見て遠慮がちに笑いながら「疲れる時にごめんね」と言葉を続ける。
「アビ子先生からメルト君に話があるって」
「俺に
…?」
「ぁ、あの!」
吉祥寺の後ろに隠れていたであろう鮫島アビ子が、ずいっとメルトの前に身を乗り出した。
「舞台お疲れ様でした!刀を掴み取るとこ、原作通りで驚きましたっ
…!その後も、キザミの感情がこっちにも伝わってくるのが凄くて!」
「その
…キザミを演じてくださり、本当にありがとうございました
…!」
鮫島アビ子の言葉は良くも悪くも真っ直ぐである。
思ったことをそのまま言ってしまうタイプ。そんな人の口から溢れんばかりの賞賛を真正面から浴びたメルトは、誰かから直接演技についての感謝や感想を言われるのが初めてだったのも相まって、思考が真っ白になった。何か喋ろうにも震える喉に声が閊えて掠れた息しか出てこない。
何か言わないとと泳いだ視線の端で、2人のやり取りを見ていた吉祥寺も首を縦に振ったのが映った。
「
…ッ、」
その顔は、メルト心に焼き付く失望した顔を上書きするほど朗らかな微笑みだった。閊えたものが嗚咽となり口から漏れ出る。
「俺、の、方こそ
…っ、ありがとうございました!」
勢い深くお辞儀をしたことで、溢れそうになっていた涙がポタポタと床に落ちる。観てくれていた。届けることができた。自然と眉尻が下がり、その分だけ口角が上を向き震える。その間も一滴また一滴と涙が落ちて、床で繋がるのが見えた。
きっと酷い顔をしてるんだろう。下を向いたまま涙を拭うと、水分が割れた肉刺に染みて、痛い。
その痛みが夢じゃないんだと痛感させる。
「おっメルトいた
……え、泣いてんの?」
「ひめ゙かわ゙ざん」
「うわひでー顔」
「ゔぅ〜
…」
「
…でも、いい表情してんじゃん」
「よかったな」とでも言うように頭を撫でる姫川の手から伝わる温もりに、メルトの心臓がきゅうと萎まり、更に涙腺が刺激される。
「アビ子先生、ブレイド役の姫川大輝君ですよ」
「え、気付かなかった
…!役者さん凄い
…」
「どうもです」
役柄と違いすぎて誰だか分からなかった鮫島アビ子と、一回しか顔合わせをしたことがなく二人のことを忘れていた姫川大輝を、吉祥寺が仲介した。
メルトはズビリと鼻を啜りその様子を黙って眺める。そういえば話をしに来たの忘れていた。他の人もいるし話はまた後でかな、などと呑気に考えながら。
「丁度良かった。先生にも話があるんで」
「えっ」
その思考はあっさりと砕かれてしまった。
-----
初公演から数日が経過した休演日の日。
話の内容的に長引くだろうと考えた姫川は、メルトとアビ子を適当な店に呼び出していた。稽古やら原稿やらで忙しい三人の都合が合ったのは夕方からで、窓から差し込む夕影が店内をほんのりと照らしている。
小ぢんまりとしていながらも落ち着いた雰囲気と鼻を掠める檜の香りから、良い店だと伺えられる。その証拠にメニュー表はカタカナまみれ、各々の値段がメルトの想像してた数字の五倍はした。店の雰囲気とは真逆に、メルトの心境は冷静さを失いつつある。
(売れてる人らの金銭感覚怖ぇ
…!)
(ひとまず何か、腹は減ってねぇから飲み物
……これは、多分お酒。こっちは
…分かんない。わ、これ黒い組織にいそう
…コードネームっぽい)
頑張ってカタカナの解読を試みるも、どれも洒落た名前ばかりでメルトには酒か否かの判断が難しい。メニュー表の隅に”サイダー”の文字を見つけた時は一人心の中で舞い上がった。しかも他と比べたらお値段も優しい。それでも高めではあるが。
大人しくサイダーを頼んでから、肩身を狭めて二人の会話に耳を傾けた。
「
……はい。姫川さんの仰るとおり、東ブレには
元になった話があります」
注文に全集中してたせいで直前までの会話を聞いていなかったメルトは、予想の斜め上をいく内容に耳を疑った。舞台の話じゃないんだとか、これ俺いなくてもよくねとか。
姫川は「やっぱり」なんて言っているものの、メルトには何がやっぱりなのかさっぱりだった。
頼んだ飲み物が運ばれてきて、メルトはとりあえず目の前に出されたサイダーにストローを刺してちゅうと吸い付く。二人のはなんかカラフルで高そうだなと思いながら黙って見つめてた。
「うちの実家にあった古い書物なんですけど、いつ誰が書いたの分かってなくて
…元から御伽噺じみた内容だったんです。それを色々改変や着色したのが『東京ブレイド』になります」
「見た目とか名前は割とそのまま使ってます。そうじゃない子もいますが
…。何で残したんだろうってくらいくだらない話もあるんですよ。それも少し日常編のストーリーに織り交ぜたりとかして」
まぁ、ノベライズ版の後書きで何度か話したことはあるのですが
…と口篭りながらアビ子は手元のマドラーをクルクルと回した。グラス内の氷はぶつかり合って涼し気な音を鳴らしている。
「ちなみに書物ってのは今ありますか」
「ぁ、すみません
…今は無くて
………あぁでも、現代語訳したデータならたしかスマホに」
「見せてもらうことは、」
「ン゙ッちょちょちょ待って姫川さんそれは流石に」
姫川とアビ子のやり取りを交互に見つめてたメルトが噎せながら間に割って入る。姫川の発言は、言い換えれば「今後の展開を見せろ」と言ってるようなものだ。漫画家からするとかなりデリカシーのない発言だろう。
いまさら事の重大さに気付いたのか姫川が「あー
…」と言いながら天を仰いでいる。やってしまったと言わんばかりに。
(怒ってませんように
…!)
そう懇願しながらメルトが恐る恐るアビ子の方を見れば、怒るどころか焦ったような顔をしていた。二人を宥めようとした手が行き場もなくワタワタと動いている。
「あの、私は構いませんので
…!」
「
…え」
「えっと
…もともと書物は途中までしか記載されてなくて
…それに、今描いてる話が丁度そこまでなので
…問題ないです」
「そうなんすか
…?」
「じゃあこれ、書物の内容です」
「ありがとうございます」
「ひ・め・か・わ・さん!少しは弁えて!」
差し出されたスマホを早速受け取ってまじまじと読み始める姫川に、メルトは溜息をついた。もういくら呼びかけても曖昧な返事しか返ってこないだろう。
前はちまちましたの苦手って言ってたのに。
「なんか色々すいません
…」
「いえいえ!実はこういうご飯会憧れだったんですよ〜!」
「ご、ご飯会
…?これ
…?」
「誘われた時は話が続くか不安で死にそうだったんですけど、こんなにも楽しいんですね~」
「それなら良かったっす!」
「誘ってくださりありがとうございます〜!まさかブレイドとキザミの役者さんと飲めるとは思ってもみなくて
…
やっぱり何か通ずるものがあるんですかね〜」
「
……んん?」
「役者さんって凄いなぁ
…他の人とも話してみたい
……あっでも大人数すぎると死んじゃう
…」
「んー
…もしあれなら吉祥寺先生も誘っちゃいましょ!」
途中引っ掛かることを言われた気もしつつ、メルトはあまり気に止めなかった。その後も姫川を除いた二人でわいわいと話し込んだ。舞台のこと、キザミのこと、東京ブレイドのこと。
その間、姫川はただ黙々と読み進めていた。
時計の長針が一周しそうな頃。
ストローがグラス底でズゴゴと音を立てたことで、メルトは二杯目のサイダーを飲み干したことに気が付いた。外を見ればとっくに夕日は姿を隠し寒月が朧げに光を放っている。
冬の日没は早いなと思い馳せながら、メルトは姫川に声をかけた。
「姫川さぁん今どのくらいで「終わった」
「そすか
…」
「スマホ、ありがとうございました」
「あ、はい!」
「暗いな
…そろそろ解散するか」
席を立った姫川が上着を羽織り、その流れで上着のポケットから財布を取り出して伝票を片手に会計へと向かった。
メルトとアビ子でグラスを寄せたり椅子を戻してる最中、「一緒で」と耳に入った言葉に二人は目を見合せ、悠々と店を出る姫川の後を慌てて追いかけた。
「姫川さん!?何してんすか!?」
「何って
…タクシー呼んでた」
「いやそうじゃなくて!俺お金
…」
「あぁ
…いいよ別に、誘ったの俺だし。先生は帰りタクシーでよかったですか」
「は、はい」
「もうすぐ来ると思うんで。これ運賃です」
「ううう受け取れません!」
「ストップ!先生困ってるから!」
その後、運賃を渡したい姫川VS受け取らないし飲み物代も払おうとするアビ子、のやり取りが繰り広げられる場を、メルトがやっとこさ収めた。
なんとかアビ子を帰らせたものの、タクシーに乗る際小さく聞こえた「ナチュラルイケメン
…恐ろしい
…」という声には酷く同情した。お気持ち分かります、と。
姫川は平然と爆イケ行動をする。一緒にいることが増えたメルトは、それをいつも感じていた。普通はキュンとくる場面なのだろうが今は疲労感が恋心を凌駕してときめいてる余裕はない。
溜息と呼べるかすら怪しい量の息が出る。バカみたいに疲れた。
「おつかれ」
「誰のせいだと
…」
キッと睨んでくるメルトの目を姫川は真っ直ぐ見つめ返す。その瞳の奥には、舞台袖の時みたく呑み込まれそうな深さがあった。
(あ、また)
「
…作り話じゃなかった」
「?」
「あれは多分、俺らの前世だ」
「
………は?」
「歩きながら話すか」
それから姫川はいつもよりゆったりとした歩調に合わせてポツポツと話し始めた。
存在しない記憶があることも、書物の内容全てに心当たりがあったことも、メルトの言動が時折誰かと重なることも。そして、それが恐らくキザミだったということも、全て。
書かれてた内容には初詣で姫川が立ち眩んだ時の状況と全く同じものも記されていたらしい。あの時は前世の記憶が垣間見えたんだろうと。
一つ一つのピースを当て嵌めながら話す声色は、思い出を語っているように安らいでいた。
「それが今までの変な感覚の正体で」
「んー
…」
「
…信じてねぇな?」
「いや府に落ちはするんで信じてますよ
…でも、それが分かったところでどうしろと
……」
「あー
……………すっきりは、した」
「まぁ
…」
確かにスッキリはした。でも姫川ほどじゃない。
ぐちゃぐちゃだった気持ちが幾度か合点するから信じてはいるものの、実感がない。メルトは今まで姫川のように気持ちが先走ることは一度もなかったのだから。生まれる前からの縁って凄い。と、思っただけで。
メルトが何かを思い出すことはなかった。
前世の思し召し。それがちょっと反映されてるだけ。
「俺らが出逢ったのって奇跡みたいなもんなんすね」
「運命とか」
「
…姫川さんって案外ロマンチストっすか?」
あまり興味がなかった前世でも、好きな人から運命なんて言われたらちょっと嬉しい。
今は何よりも、ちょろい恋心のほうが厄介だった。
「頭使ったら腹減った
……」
「えーもう店出ちゃいましたけどー」
「
…メルトの飯食いたい」
「んぇ」
だから自分の前世とか気にしてる暇なんてなくて、
「俺ん家来て」
「は、」
知ったことじゃないと、メルトは思っていた。
-----
「かき玉汁と、」
「うまそう」
「もやしとツナのナムルと、」
「うまそう」
「鯖の味噌煮と、」
「うまそう」
「缶開けただけっす。あとこれごはん」
「うまそう」
「チンしただけっす」
よくここまでちゃんとした夕食を作れたものだと、メルトは自分自身で関心する。
意気揚々と冷蔵庫を開けて、卵ともやしだけが哀愁を漂わせながら申し訳程度に佇んでいた中身を見た時は絶句した。あまりにもすっからかんすぎる。この人普段どうやって生活してるのだろう。
幸いにも、いくつかの缶詰と基本的な調味料はあったため、なんとか料理自体は出来た。
メルトがテーブルの対面側に自分の分を置いていると、姫川がナムルを口に含んだままモゴモゴと何か喋りたそうにしていた。口の中身が無くなるのを待ちながらメルトは椅子に座り、手を合わせる。
「飲み込んでから喋ってくださいね」
「
………………………、んまい」
「へへっ、どうも」
好きな人に手料理を食べてもらえて、しかも褒められて、心が弾む。
どれどれ
…と箸を掴む手には大して力が入っていない。完全に油断していた。
「毎日食べたい。嫁に来てほしい」
箸がカシャンと音を立てて床に落ちる。
「すんません」と言いながら席を立って屈んだものの、メルトの手は箸を拾わずに顔を覆い尽くすことに使われた。心臓が口から出そうなほど荒ぶっていおり、パンクしそうな頭をテーブルの脚に預けズルズルと脱力した。
深い意味はない。姫川がああいう人だというのもメルトは知っている。それでも、告白じみたことを言われたら浮かれてしまうのが恋というものだ。
(じみたっつか、プロポーズだろあんなん
…!)
震える手でなんとか箸を掴んだメルトは「洗ってきます」と言い捨てて、顔を伏せたままシンクまで逃げた。流れ出る冷たい水が心地いい。このまま馬鹿みたいに熱い頭も突っ込んでしまいたかった。
悶々として必要以上に箸を洗うメルトを他所に、「そういえば」と姫川は口を開いた。
「嫁で思い出したんだけど、書物ではブレイドとキザミが恋仲だったんだよな」
一瞬、時が止まった。
熱かった頭が一気に冷めたのを感じる。あれほど心地よかった水はもはや冷たさが痛いまであった。
「前世で愛し合ってたらしい、俺たち」
悴んだ手よりも、心の方が痛い。
聞きたくなかった。キザミがブレイドを好きだという気持ちの思し召し。それはまるで__
「だから傍にいると落ち着いたのかもな」
最初からメルトの気持ちなんて、無かったみたいに。
-----
『キザミの目、真紅色で俺とお揃いだな』
目の前では燃えるような赤髪が軟風に吹かれ靡いていた。その下で愛おしそうに細まる瞳に見つめられ、息が詰まる。
見惚れるように絡まり合う熱視線。
右頬に添えられた手から伝わる微電流が心臓を高鳴らせる。縋り求めるように手を重ね、顔をずらして手のひらに口付けをした。
赤髪の男は豆鉄砲をくらったかのように目を見開いた。
俺は、その顔を知っている。
『
…やったな?』
その声も、知っている。ここ最近で一番聞いていた一番好きな声。
目尻をほのかに赤らめた彼にしてやったりと胸が踊り、意図せず口が開かれる。
『お互い様だろ。__ブレイド』
ぼんやりとした記憶の狭間で聞こえた声は、紛れもなく、俺の声だった。
(なんで、今更になって思い出すんだろ)
グツグツと沸き立つように痛む脳裏に、メルトの表情は強ばった。高鳴った鼓動はもはや早鐘を打っているかのよう。
聞こえた名の通り、赤髪の男の容姿はブレイドそのものだった。アニメや原作にはなかった場面でも、どこか懐かしさを感じてままならない。
姫川の言う通りならば、今のはきっとキザミの記憶の鱗片なんだろう。鮮明すぎるそれは、不確かだった実感を確信たるものに変えるには十分すぎた。
ただ、暖かい雰囲気のそれに熱を奪われるかのごとく、メルトの心は冷えきっていた。
(
…来るんじゃ、なかった)
来なければこんな、中途半端に記憶を思い出すことも、自分の気持ちを否定されることもなかったのに。
メルトは魂が抜け落ちたように冷めたご飯を口に運び、咀嚼して、飲み込こんだ。それを事務的に繰り返してただ皿が空になるのを待つ。料理に味なんて感じなかった。胃が生ぬるいもので満たされていく感覚が気持ち悪い。
向かいでは姫川が「うまかった」なんて言いながら満足そうに腹を撫でている。その言葉を聞いたって、メルト心は静かなままだ。
「もう遅いし泊まってけば」
「ぁ
…」
家に招かれた時から、期待してたお誘い。
少し前までのメルトなら喜んで承諾していただろう。空き時間にいつでも見返せるよう台本は鞄に入っていたため、一緒に読み合わせできるかな、などと考えていたから。
「
…いや、大丈夫っす」
「ん、そう」
それでも今は、この空間から立ち去りたい気持ちが大きかった。
全てを胃にかき込んだあとに皿を食洗機にかけ、いそいそと帰る支度をした。鞄の中がぐちゃぐちゃになろうと関係ない。一刻も、早く。
あとは上着だけ、と伸ばした手にカサリと何かが触る。メルトのとはまた違う肌触りのそれに目を向けると、姫川が初詣の時に着ていたダウンコートだった。色味が似ていたために間違えてしまったのだろう。
頭では手を退けようと考えいた。
でも指から伝わる触感が初詣の日と__好きだと気付けた時と、あまりにも同じだったから。
名残惜しさについ撫でてしまった。
(あん時、俺の飯食いたいって
…)
(飯食ってる最中にこれとか、)
姫川に抱いている恋心は最初から自分のものだったと能天気に浮かれてた結果がこのザマだ。
「すまん、帰るって聞いたから暖房前に移動させたんだ」
「っあ、そうなんすね。ありがとうございます」
メルトの心境とは裏腹に、なんてことない顔をして上着を持ってきた姫川が言う。目が合わさる前に、メルトは逃げるように顔を逸らした。
「
…具合でも悪いのか」
「え、いやっ
…疲れてるだけです」
「そうか?」
「はい」
「じゃあ、また明日な」
「
…はい。また」
その目に誰が写ってるのか、知りたくなかった。
-----
(風呂入った、歯ぁ磨いた、スキンケア
…した)
なんとか力を振り絞り、メルトはベッドに突っ伏して四肢を放り投げた。色んなことが一気に押し寄せた身体が鉛のようにだるい。
(
…確認、だけ)
公演は明日からまた再開する。メルトは重い身体をのそりと動かし、鞄から台本を取り出した。主人公のクラスタに居るキザミの出番は決して少なくない。ページをペラペラと捲りト書きや書き込んだ文字を確認していくと、ふと今までの比にならない量の書き込みに目が止まった。
以前に姫川の口から聞いた、キザミの解釈を記した走り書き。胸が痛むのはキザミとしての想いからか、押し潰されたメルトの恋心か。
確かめるように一文字ずつなぞる手に一粒の雫が落ちた。
(わかんねぇよ
……もう
……)
真綿で首を絞められるようにゆっくりと息が苦しくなる。噛み殺した嗚咽の分だけ涙が溢れた。
家になんて行かなければよかった。
そうしたら何も知らないまま、勘違いであれど姫川を好きでいられた。
前世なんて信じなければよかった。
そうしたら変なのって笑い話で済んで、また明日からなんてことない日常を送れたのに。
それでも、前世を思い出したことで欠けていた部分が埋まった。寂寞が満たされることはないまま、スライドパズルのようにメルトの心を欠けさせて。
『運命とか』
今思えば、なんて残酷な言葉なのだろう。
まるで今世の気持ちを踏みにじっては潰し、元からなかったことにされたようなものだ。喜んでいたちょろい恋心も、全部勘違い。
『だから傍にいると落ち着いたのかもな』
(
…姫川さんは、最初から俺なんか見てなかったんだ)
きっと、驕っていたのだろう。
姫川に残る僅かなブレイドの記憶が、メルトを通してキザミを見てただけ。それを勘違いしては勝手に自惚れてただけ。そうやってメルトは無理やり自身の感情を呑み込んだ。
そもそも男に恋愛感情抱くの時点でどうにかしていた。ましてや相手はあの姫川大輝。役者として駆け出したばかりのメルトでは到底手の届かない人から隣を許されて、共に過ごす空間が居心地良くて、驕った。
(情けね
……全部俺がでしゃばっただけじゃん)
胸を巣食う蟠りも一緒に流れ出てしまえばいいのに。そう思いながらメルトは手に落ち続ける涙をただ眺める。
(なんだよ、前世からの運命って)
しかしながら、前世がなければ姫川と距離が縮まることもなかったのかもしれない。こんがらがる思考回路を整理しようとして、ふと気が付いた。
(そうじゃん、俺なんかが姫川さんと仲良くなること自体おかしかったんだよ)
(
…………戻ろう)
姫川は記憶が蘇ったからといって恋人になろうとはしなかった。もう別の人生として意識してるのだろう。ならばきっと、元の関係に戻ればメルトの中に残っている微かな勘違いすらも、綺麗さっぱり無くなるはず。自覚したのは距離が縮まった後なのだから。
(元々の距離感って、どんなんだっけ
…飲み会はした
…けど、そういえば有馬からの誘いだったな
……その後も俺から話しかけてばっかで
…)
(うわキツ
……まじで興味持たれてねぇじゃん俺
……………まぁ
…演技下手だし
……………そりゃ
……そ、うか
…………)
身の程知らずな泡沫の微熱恋が、哭恋となり首を絞める。
しかしそれは、メルトがキザミに感化されている今だけの話。
元通りになれば、きっと平気だ。
姫川に見られていなかろうと、大丈夫。
前まではそれが当たり前だったから。
だからどうか、烏滸がましい勘違いなんて
(
…………早く、なくなってくれ)
-----
次の日から、姫川が腕を広げてもメルトがそこに収まることはなくなった。「衣装が崩れるから」らしい。小さなもやを抱えながらも、それもそうかと納得した姫川はやり場を失った手でアクアに引っ付き、「なんか違う」と嘆いた後にアクアの溝落ちチョップをくらっていた。
更に次の日、メルトは姫川でなく鴨志田に話しかけることが増えた。キザミと匁の殺陣シーンは2人にとって一番の見せ所。立ち回りの話をする2人を尻目に、それも妥当だろうと姫川はもやもやを積もらせながら自身に言い聞かせた。
じわりじわりと2人の距離が離されていく。
そのせいもあって、人間の変化に疎い姫川がメルトの異変に気付くのには時間を有した。最初こそ小さな違和感を抱えつつも、姫川から話しかけるといつも通りだったから。
それが確信に変わったのは休演日から5日経った後の打ち上げ。
お互いが話しかけ合っていたことで一度は縮まった姫川とメルトの座席は、休演開けから日に日に遠ざかり、ついにメルトは姫川の位置から一番遠いテーブルの対角線同士にいた。初日とほぼ変わらない距離。話しかけられるどころか、今日なんてまともな会話は舞台上でしかしてない。
(避けられてる、よな)
姫川は対角側のメルトに視線を釘付ける。裸眼でも事足りたメルトの姿は、今ではメガネ越しでも小さなものとなっていた。
「めるとぉ写真撮ろうぜ〜うぇ〜い!」
「うわ鴨志田さん酒くさっ
……長くね?」
「ん〜?ぁこれ連写だわんはははっ!フォルダがツーショまみれで笑う〜ぜんぶ送ったげる」
「ちょ、酔すぎ
…!」
和気あいあいとしながら鴨志田と話すメルトを見て、心に溜まったもやが棘となり姫川の胸に突き刺さる。
(
…俺の場所、だったのに)
メルトの隣を陣取っている鴨志田に視線を移す。少し前までは自分の場所だったのに、なんでどうしてと胸の痛みから不機嫌さを醸し出している姫川の瞳は、ドス黒い感情を秘めていた。
右手にある枝豆を必要以上の力で潰し、中身を取り出して口に投げ込む。
「塩分過多です」
口内の豆を噛み砕こうとした時、不意に横から声をかけられた。
「
…星野」
「一人で食べたんですよね、それ」
いつの間にか傍に来ていたアクアが指差した姫川の手元では、枝豆の殻が真緑の小山を成している。
「
…気付かなかった」
「そんなことあります?高血圧に
…」
「何しにきた」
「
…」
「それだけじゃないだろ、どうせ」
用があるから来た。ご丁寧に飲み物まで持って。
短い話ではないのを、アクアの右手にあるジンジャーエールが物語っている。
「
…メルトのことなんですけど」
あぁ、やっぱり。
アクアや有馬は、メルトのことになると妙に過保護になる癖があるようで。そんな気はしてたという風に、姫川は口の中に残っていた枝豆を奥歯で咀嚼した。
「単刀直入に聞きますが、何したんですか」
「別になにも、」
「そんなわけないだろ」
人間の変化に目敏いアクアにとって、二人に何かあったのは一目瞭然。とは言いつつも、気付いていたのはアクアだけではない。
「みんな心配してるんですよ。なので話聞きに来ました。俺が姫川さん担当で、鴨志田さんがメルト」
本当は有馬だったんですけど同性の方が話しやすいだろうという結果になって、と続けるアクアに、姫川は肺底の空気を全部吐き出すように溜息をついた。
「揃いも揃って保護者面かよ
…」
「他は知りませんが、俺はメルトの友人として、あんたの弟として聞いてるだけです」
(ずりー言い方)
「避けられるようなことは何もしてな
…」
「避けられるというより、戻ったって方が正しくないですか?」
「
…どういうことだ」
「姫川さんがメルトを急に抱きしめた日あったじゃないですか。それよりも前の関係に」
”避けられた”ではなく、”戻った”。
言われてみれば、そんな気がしなくもない。
「俺の見立てだと休演日が怪しいんですよ。あの日からメルトは距離をとるようになった。違いますか?」
「
…え、なにこれ尋問?」
「ほんとに何もしてねぇって」と言いながら姫川は腕を組み、さほど高くもない天井を見上げ唸った。あの日何をしたか、振り返りながら。
「あー
……飯作ってもらったわ」
一番強く印象に残っていたのはメルトが振舞ったご飯。人の手料理を食べたのなんていつぶりか。それもあってか、元々の腕の良さを更に引き立て、めちゃくちゃに美味しかった。思い出しただけで口が恋しくなった姫川は、枝豆に再度手を伸ばす。
「まさか不味いとか言ったんですか」
その手を抑制するように、アクアがペシンと音をたてて姫川の手を叩き払った。
「
……逆。美味すぎて嫁に来いとは言った」
「褒め方どうなってるんだ」
「思ったこと言っただけだし」
「
……」
アクアは少しヒリつく手のひらを上にし、続けてと促すかのようにジェスチャーをした。
「あとは
…東ブレの作者と3人で飲んだ」
「は、謎メンツすぎるだろ
…何話したんですか」
「東ブレの元ネタ」
「あぁ
…小説で見ました、それ。確か実家の書物を元にどうのこうのって
……なんでそんな、」
「前世だから」
「え」
「ブレイド。俺の前世」
そして、キザミがメルトの前世。
その言葉を境にアクアの身体が固まった。さっさと解放されたかった姫川は「どうせ信じないだろ」と言い捨て酒で喉を潤した。グラスを傾け喉を鳴らした後、再度アクアの方を向けた顔が強ばる。
「
…信じますよ」
瞳の中で、小さな一等星が姫川を見定めるかのように輝いていたから。
「
…マジか。非科学的だーって唾吐かれるかと」
「俺のことなんだと思ってます?
…まぁいいか。それで、俺は今ブレイドと話してるってことですか?」
自分も生まれ変わった身として、アクアは話をすんなりと受け入れた。身近に2人も似た境遇の奴がいたなんてと少し驚きはしたが。
言うなれば、こうして姫川と話しているのはアクアでもあり雨宮五郎でもある。姫川も同じというのであれば少しややこしいことになるなと思いながら話を進めた。
「若干記憶があるだけで意識はそんなに無い。俺は俺だし。あぁでも、抱きついた時のはブレイドだったかも
…身体が勝手に動いたっていうかなんというか、妙な感じだった」
「へぇ」
どうやら杞憂だったらしい。目の前の男は姫川大輝に変わりない。
「ブレイドとキザミ恋人だったらしいから、その影響かも」
「
………だからあの日、メルトに近付いたとでも?」
「多分な」
__所詮は前世の思し召しで、深い意味はない。
「安心したんだ。抱きしめた時」と、あけすけとした態度で話す姫川を見て、アクアは眉間に皺を寄せる。無性に腹が立った。それはブレイドとキザミが恋人だったからではない。
「完全にエゴですね」
「
……は?」
「エゴイストだと言ったんです。つまりは姫川さんに認めてもらえたって喜んでたアイツの、メルトの心も、全部利用したってことですよね。今までずっと、自分の為に」
一人の友人が無下にされていたという事実に対しての苛立ちだ。
「そ、
……………んな、こと
…いや、そうなるのか
…」
(
……?)
顔を青ざめ冷や汗を流す姿を見て、少し引っかかる。
抱きついた時のことは否定せずだった姫川が、それ以降を指摘したら途端に歯切れが悪くなった。ずっとブレイドの意思に動かされていたわけではないと無意識で否定するかのように。
もしかしたら、という一つ仮説がアクアの中に生じた。
「
…姫川さんは、メルトのことどう思ってるんですか」
「
………料理が、美味くて
…甘え上手なとことか、すぐ泣くとことか
…ほっとけなくて。俺に向けてくる笑顔がただひたすらに眩しい。ずっと傍で
…笑っててほしかった」
「それなのに俺は
…」と声を窄める姫川に、アクアは安堵の息を吐いた。仮説成立だ。
「なんだ
…ベタ惚れじゃないですか」
「
…でも、それはブレイドの、」
「俺にはメルトが好きだと言ってるようにしか聞こえません。東ブレとしてのキザミしか知りませんけど、甘えたり泣いたりするキャラじゃないですよね」
原作、アニメ、小説版は一通り目を通した。
しかしながら作中のキザミは、強者感があり兄貴分の元気ハツラツな好青年。笑顔という点以外は、姫川の掲げた特徴とはかけ離れている。
(付き合った後で性格が変わるのなら、話は変わるが)
「
……確かに、俺の記憶でもブレイドが告白した時か最期の時か、営んでる最中にしか泣いてなかった」
「今いらないですそういうの」
「料理も下手だった。甘えるというより揶揄われてばっかで、」
「いらないですって」
「俺は
…メルトのことが好きなのか
……」
キザミを好きだったブレイドからの副産物ではない。メルトを好きだと言う気持ちは、紛れもなく姫川の気持ちそのもの。
日常的に抱き締めるようになったのも、初詣に誘ったのも、傍にいると落ちついたのも。全てが姫川大輝として感じていたことだった。
「とっとと仲直りしてください、痴話喧嘩に巻き込まれるのは御免なんで」
そう言い捨て、アクアは席を立ち鴨志田の方にハンドサインを送る。鴨志田はメルトの背をベシッと叩きながら立ち上がり「二次会行く人ー!」と声を張り上げた。その姿からは先程までのへべれけな気配を感じない。
豹変した鴨志田を前にメルトはぽかんとしている。
(
…やば、可愛い)
その表情も、旋毛から指先までもが全部。
気持ちを自覚した姫川を歯止めるものはもう何も無い。故に、秘められた感情が表立って押し寄せてくる。
各々が二次会へと向かう中、「明日もあるので」と逆向きに歩きだすメルトの腕を掴んだ。
「ひ、めかわ
…さん
…」
「一緒に帰ろ、メルト」
話したいことが山ほどある。どうして素っ気なくするのかとか、お前が好きだとやっと気付いたんだとか。当たって砕けてもいい。ただ笑って欲しい。願わくば、また隣で。
目を合わせまいと俯く瞳は、ブレイドの記憶で見た鼈甲と同じ色を揺らめかせている。それでも、好きという気持ちまでもが同じではなかった。
-----
繁華街の賑やかさを背に、姫川とメルトは歩いていた。掴んだままのメルトの腕は脱力しきっており、引かれながらぷらぷらと左右に振れている。お互い何か話すわけでもなく、冬の静けさが2人を包み込んで蓋をした。
姫川はメルトの隣を歩こうと歩幅を狭めるも、メルトも同じように歩くので一向に距離が縮まらない。まるで「隣に立ちたくない」と言われてるかのように。
「
…メルト」
隣が駄目なら正面。
姫川は足を止めメルトを振り返り、掴む手に少し力を入れ逃げ道を塞いだ。ここで離したら、二度と掴めなさそうだったから。
「うちで話したいことあるんだけど」
冷えきった手を両手で握りしめれば、メルトは小さな肩をビクリと震わせそっぽを向いた。
月明かりにほんのり照らされ藤色に光る髪の下で、伏せられた瞳が不安げに揺らめいている。そういえば、目が合わなくなったのはいつからだろう。
「こ、こじゃ
…だめなんすか
…」
吃り気味に聞こえてきた声は月夜に消え入りそうなほどか細かった。目線が泳いだまま向けられた表情は眩しいくらいの笑顔ではなく、月光の影のように仄暗い。
(俺が、そうさせてしまった)
己への怒りと胸の痛みから眉間が歪む。
「駄目」
「
…」
「お願い、メルト。」
我ながららしくないと姫川は思いつつ、曇りが晴れた顔をもう一度見たい一心で言葉を紡ぐ。
こくり、と小さく頷いたのを確認して、今度は腕ではなく手を掴んで歩き始める。冷えた手が繋いだ部分からゆっくりと温まっていくのを感じながら、姫川は自宅へと向かう足を進めた。
-----
「悪い、酒しかなかった。割る用のサイダーでもいい?」
「
……あざす」
メルトの目の前にサイダーの入ったグラスを置き対面側に腰掛けた姫川は、手持ち無沙汰でなんとなく用意した缶ビールの口を開けようとして、やめた。
酒の力など借りずにちゃんと伝える。
とはいえ、言いたいことがたんまりあるせいで上手く纏めることができない。告白なんて以ての外だ。
ちびりとサイダーを啜るメルトの僅かな嚥下音と、炭酸のシュワシュワとした音だけが、やけに大きく聞こえる気がした。どう話を切り出すか悩んでいると、メルトが「姫川さん、」と声を発した。
「俺たちの関係って
…なんなんすか
…」
二人の空気が張り詰めて、静寂に飲まれる。
姫川はすぐに答えらず、言葉が喉に詰まり息だけが漏れた。
「前世の話聞いて、いっぱい考えてたんですけど
……わかんなくなって
………」
姫川との関係、そして己の感情。
休演日以降、メルトはずっと考え続けていた。そして考えるほどに分からなくなり、逃げてしまった。
暑さ寒さも彼岸までというように、公演が終われば劇団員の姫川とモデルのメルトが会う機会は減るだろう。もしかしたら、もう関わることすら無くなるかもしれない。たとえ勘違いが消えずとも、それまでやり抜く。それがメルトの出した答えだったのに。
「っ、すんません変なこと言って
…あの、おれ帰、」
「俺はっ
…!」
勢いよく立ち上がる身体を止めようと、咄嗟に姫川が声を荒らげる。突然のことに肩を大きく震わせたメルトは、動きを止め硬直している。
その後ろ姿をめがけて、声を振り絞った。
「俺は、メルトのことが好きだ」
やっと気付いた、奥底に押し潰されていた感情。
メルトの返事を待つ時間が十秒にも一分にも感じた。
「そう、すか」
__しかし、返ってきたのは拍子抜けな言葉で。
「
…驚かないんだな」
「だって
…だってそれは、ブレイドの意思ですよね」
「メル、」
「俺も、姫川さんが好きでした。
でももう
…分かんないんです
…!!」
微かに見えた希望を突き刺すような叫びに、姫川は口を噤んだ。
「この気持ちが誰のなのか分からない!分かりたく、ない
…!全部キザミの想いだったら、そんなの
…俺の気持ちはどうなっちゃうんですか
……もう
…もう、嫌なんです
…運命とか前世とか
…。おれはっ
…!!
俺は
…キザミじゃない
…っ!!」
泣き叫んでるような痛々しい叫喚が広いリビングで木霊する。
勘違いという感情は、メルトの心と身体を繋ぐ命綱でもあった。だから消えてほしいと願いつつも失うのが怖くて、絡まる思考回路がいつまでも首を絞めていた。
服を握り締めている手は震え、喘鳴に合わせ上下する胸を力強く押さえつけている。
(こんなにも、追い詰めさせてしまった)
筆舌し難い苦しみに心が覆われる。
姫川はメルトと距離を詰め、足元に膝をついては目いっぱいに涙を溜めた瞳を見上げた。伸ばした指先で手の甲に軽く触れ、握りしめた拳を解かすようになぞる。急かさず、ゆっくりと。
「メルト、聞いて」
「嫌だっ!」
「
…聞いてくれ」
ブレイドじゃない。姫川大輝としての本音を、どうか聞いて欲しい。
「
…努力バカなとこが好き」
「
…ゃ、」
「真摯に役と向き合うとことか、チャラそうで実は真面目なとことか」
「やだ
…」
「意外と甘え上手で敬語が下手で、天然なとこがほっとけなくて」
「も、やめて
…」
溢れた涙が静かに頬を伝う。
メルトは弱々しく手を動かし、姫川の口を塞いだ。しかし添えられただけの細い指は隙間を作ってしまい、なんの意味もない。姫川はそのまま続ける。
「キザミじゃない。俺が、俺自身が、メルトを好きだって思ったところ」
「
………」
「きっかけは運命的だったけど、好きになったのはブレイドでも他の誰でもない、俺の意思だ。
……勝手に決めつけられると、困る」
力無く落ちたメルトの代わりに姫川が手を持ち上げる。今度は指先だけじゃなく、手のひら全部で俯くメルトの頬を包み、親指で涙を拭った。
「姫川、さん
…」
「メルトはさ、俺のどんなとこ好きになってくれたの」
「どんな、
…」
どちらともなく、息を飲む音が聞こえた。
「
………頼もしいとこが、かっこよくて」
「うん」
「でも
…意外と、抜けてるとことか」
「うん」
「優しく触れる手とか
…」
「
…うん」
「
…………なまえ、」
「
……」
「名前呼ばれると、
…嬉しかった」
「
…なんて?」
「ッ、メルト
……って、」
治まっていた嗚咽に再び肩を震わせ、温かいものが姫川の指を濡らした。
「
………………おれ、も
…」
「メルト」
「
…、ぁ」
姫川の手に促され、顔を上げる。
そこにある深紫色が映しているのは、メルトだけだった。
目は口ほどに物を言う。お前しか見てないという姫川の瞳は、メルトの阻んでいた障壁を跡形もなく崩すのに十分すぎた。姫川の手に自分のを重ね頬を擦り寄せてみると、伝わる体温が心地よくて、涙腺と共に底にあった想いが込み上げる。
涙を張る瞳は月明かりに照らされ星屑のように光り輝く。
「俺も
…姫川さんが好き、です」
ポロポロと零れる涙が流星のように綺麗で。
いじらしさのあまりに姫川は思わず抱きしめていた。きっかけとなった時とは違い、気持ちは溢れんばかりに満たされている。
「す、き
…っ、ひめか、さんがっ
……」
「
……うん」
「うぁ
…ごぇ、ごめんなさっ
…ずっと、ッにげ、て
…」
「俺もごめん。気付くのが遅くなった」
決壊したように咽び泣く背中を宥めるように摩る。
ごめんなさいごめんなさいと健気に泣き続ける姿に、どうしようもなく胸が締め付けられた。悪いのはメルトじゃない。自分の心を見ようとしなかった俺だ。そう言うと、メルトはふるふると頭を横に振って、また涙を流す。そんな姿がいたいけで、濡れた服から感じる熱さえもが愛おしい。
姫川がいっそう力強く抱きしめれば、メルトもたじろぎながら抱き返した。ひとしきり泣き終わるまで、二人はお互いを離さなかった。
「
…姫川さん、すごいどきどきしてる」
暫くしたあと、すんと鼻を鳴らしながらメルトが言った。身長差的に姫川の首元あたりにメルトは頭を預けているので、煩いくらいの心音が聞こえるのは当然のことだ。
「そりゃあ
…両想いだったわけだし
…」
「りょう、
…おもい」
それ以上は何も言わず、グリグリと頭を擦り付けてくる姿にまた胸が掻き立てられる。首筋を掠める毛先がくすぐったい。
「はぁ、ムリ。心臓ばくはつする」
「ばく
…ふふっ」
胸元でくすくすと笑うメルトの髪を撫でた。
「可愛いなとか、メルトの全部が好きだとか」
「
…うん」
「また料理食べたいとか」
「ん、うん
…っ」
「あと
……ん゙っん、ごめっ酒焼けぶり返してきた
…」
「
…く、あはははっ!きまらないなぁ」
久しぶりに見た屈託のない笑顔。
姫川が望んだそれは、涙も相まっていつも以上に輝き眩しい。
もぞもぞ抜け出そうとするメルトに合わせ、姫川も腕を解く。鞄をまさぐる背中を見つめれば、散々抱き合ったにも関わらず、ちょっとだけ名残惜しさに襲われた。
「のど飴いります?」
「スカスカすんの苦手
…」
「甘いのもありますよ」
ほら、と差し出された手のひらには、蜂蜜レモンと書かれた小さな個包装袋。大人しく受け取ったソレを開けると、透き通った黄色い飴玉が顔を覗かせた。
取り出して翳せば、照明を反射して光沢を帯びる。
同じだ。
記憶の隻眼とも、目の前にある双眸とも。
「運命とか前世とか言ったけどさ、」
「
…はい」
「メルトと出逢わせてくれたって思うと、それも良かったって、思う」
「
…そうですね」
「無くても好きになってたと思うけどな。時短ってことで」
「ふはっ、なんすかそれ」
蔑ろにしたいわけじゃなかった。
だから、在りし日の憶那として大切にしよう。
時折思い出して一緒に語るくらいが丁度いい。
今愛しているのは目の前の彼だけなのだから。
そう胸に誓い、姫川は手を伸ばす。
閉じた瞼じゃない。
血に濡れた手でもない。
口で転がす飴は、鉄の味なんかしない。
二人は唇を重ね、触れるだけの甘い口付けを交わした。