ザ・ニンジャはまだ帰って来ない。台所として使っている一室、その奥の壁を丸い双眸で見詰める。壁なのだから当然隣接する部屋もなく行き止まり。しかし最後に見たのはその壁で、広い背中が板壁へと沈み込みまるで溶ける様に消えたのだ。
恐らく忍術の類なのだろう。初めて見た時は天井へ張りついたかと思えば潜る様に消え、その摩訶不思議さに興奮。小さな背丈は興味本位に掃除道具から柄の長いハタキを使い何度も消えた場所を突き回しそこに仕掛けがないものかと探ったりした。結果として埃や塵が畳へ落ちるだけ、無駄に床を汚し帰還した部屋の主を怒らせてしまったのだった。
あの時のお叱りを思い出したのか自然と肩を萎ませ、同時に消える直前にニンジャが見せた表情が脳裏を過ぎる。
「ニンジャは“さとがえり”しない?」
覚えたばかりの言葉、その意味を理解した上での素朴な疑問だったのだ。そこに悪意はない、純粋に質問をしただけ。眼を見れば分かる。声を聞けば分かる。何も知らないのだ。知る訳がない。しかし何とも、心はそれを分かっていても体は勝手に息が詰まるのだ。
普段通り平静を貼りつけた態度も出来た筈、ニンジャであれば。
異変に気づく。質問した側も。僅かな動揺、その意味は理解出来ずとも触れてはならないことに気づいた。
「……ニンジャ、──」
呼びかけたのではなくその先に続く言葉があったが、本人がそれを聞くことはなく気づけば先述の通り壁の中に消えていた。
一度馴染みの顔の元へニンジャが行きそうな場所を訪ねて回ったが、皆が首を傾げ考え込む様子に諦めすごすごと部屋へと引き下がった。自室でダンベルトレーニングをしていたアシュラマンを訪ねた際には溜息をついて呆れていた。「すれ違う前に戻れ」とだけ言われたが、恐らくトレーニングの邪魔だったのだろう。小さな来訪者に見向きもしなかった。
時は戻り、ニンジャが消えてから壁掛時計の短針が二周。広い畳の上で小さな体を更に縮こまらせて考える。
(何か)
そう、何か。あの“さとがえり”という言葉にその何かがあったのだと。そもそもこの言葉を教えてくれたのはBHで、クリスマスと年末年始は帰省をすることを話してくれた。
“帰省”?
初めて聞く言葉らしく疑問から体ごと傾ける様子にBHは話題を中断し説明する。
つまりは生まれた土地、家に帰るのだと。故郷、実家とも言う。
「そうだな、日本風に言うと“里帰り”か?」
BHは本来バミューダ海域の出身だが、今回は従弟のペンタゴンと共にアメリカへ帰省するらしい。BHの家族も含め親戚一同そこへ集まるのだとか。久し振りに三兄弟の従兄弟たちも集まる。そのことを手振りをつけ嬉しそうに話す様子を見て少女は“さとがえり”は楽しいことなのだと単純な脳にそうインプットした。
後から来たスニゲーターも帰省すると聞いてはコンゴの土産を持ち帰る約束までしてくれた。“おみやげ”は既に嬉しいものと知っているので尚のことポジティブな意味に傾いたのも今回の要因の一つになる。
(皆は帰るのが楽しみだった、でもニンジャは……もしかすると違うのかもしれない)
小さな頭脳を捏ね回しても明確な答えは浮かばない。朧気。当然だ、今まで一度たりともニンジャは少女に対して出身や身内のことを話していない。導き出せるものにも限界があった。
あの時、動揺した様子を初めは怒りに捉えて言葉が少し遅れたが違った。
(寂しそう)
直感でそう浮かんだ。これもまた明確な答えが出ることではないのだが、ただ幼い故の観察眼は妙な手応えを感じていた。それは今少女自身も寂しいと感じているからで……
俯いた先で畳の縁が揺れる。目元を擦る。すると玄関戸口から音がした。いつもの帰って来た音だ。
「! おかえりなさい」
傍から見れば忠犬の様な、一瞬で立ち上がると玄関前に転がり出る。反省のつもりの正座が仇となった。足がビリビリと麻痺して躓いた。ニンジャもまさか派手な前転で出迎えられるとは思っていなかったのか、あの物憂げな表情どころか普段の落ち着いた面持ちすら抜け純粋に目を丸くして驚いていた。
痺れに耐え萎れた様子で倒れた体の脇に手を入れ座らせては「間抜けな……」と、いつも通り毒を吐きながら擦れて炎症を起こす膝を掌で包む。
「ニンジャ、ごめんなさい」
現状から脈絡のない言葉ではないが、恐らく今のことを謝罪しているのではないのだとニンジャは理解した。ただ気不味そうに鳶色の視線を一度逸らしはしたが、今度はどこにも消えずに向き直る。
「……今回の件、お主は何も悪くない。全ての原因は拙者にある。すまなかった」
落ち着いた声色は調子を戻してはいるが、僅かに自身を恥じる様なものを少女は感じた。
しかしそれはそれとして謝ること自体が珍しい。なのでついつい物珍しそうに見詰める視線に気づくと真顔で頬を手で掴む様に挟んだ。痛みに歪み挟まれては潰れた顔のなんと不細工なことか、口角を僅かに上げ仏頂面が綻ぶ。
「そうさな、いつか話せる時が来れば」
短く零すと頬を手で抑える童子を小脇に抱え、少し遅めの夕餉の支度に入った。
その日に限りいつもであれば大人しく待っている少女が忍装束の端を控えめに握り、邪魔にならない範囲で常に傍に立ち調理の様子を眺めていた。右に行けば右へ、左へ行けば左へ。軽鴨の雛。謝罪の通り今回の非は自身にあるのだから文句を言うつもりはない。それはそれとして、そのいじらしい雛鳥の様な行動はニンジャの精神をじっくりと摩耗させたのだった。
もう無言で去るのはよそう、たった二時間で仔犬は軽鴨になるのだから。
「カカカ、以前のニンジャであれば火でも吹いて威嚇の一つでもしていたやも知れんな」
比喩にならない表現を交えては小さな来訪者が去った扉に向かって言葉を放つ。
「──なぁ、そうは思わんか?」
開いたままになった扉の裏、その影から不服そうに腕を組んだザ・ニンジャが姿を現すとアシュラマンは更に気分を良くしてか妖しげに笑みを深める。
「何も逃げることはなかったろう」
「逃げてなどいない、少し時間を置くだけだ。子供は質問を始めると止まらん」
それは逃げているのではないのか?
そう目で訴えるアシュラマンを敢えて無視する様にザ・ニンジャは扉の縁を軽く押し閉めた。
扉が閉まると手に持っていたダンベルを脇に置き脚を組む。
「確かに子供ではあるが莫迦ではない、多少空気が読めないだけだ。寧ろ幼い眼はよく見ているぞ。お前の心中も薄々察しているのではないか?」
態度だけ見れば横柄で普通であれば苛立つものがあったが、その冷静な分析を前にしては苛立ち含め反論は何一つ出来なかった。今言ったことに気づいていない訳もなく、ザ・ニンジャは閉口したまま壁に背を預ける。
流石に火は吹かないが、燻っている過去に煽られあからさまに態度に出てしまうと。それを避ける為にあの部屋を出たのだが、却って探す手間をかけてしまった。どちらが子供なのか。
反省に耽るザ・ニンジャを呆れた様に見遣りダンベルを持ち直す、トレーニングを再開しつつもアシュラマンなりに早々に帰ることを促した。
「戻れ。私のところに痴話喧嘩を持ち込むな」
「は?」
思いもよらぬ単語に本来は軽く流せるものだが真面目故の朴念仁、真に受けたらしい。
「……冗談だ、とにかく戻れ」
冗談の通じなさにフンと鼻を鳴らし敢えて視線は合わせず追い払う様な所作で手を振る。何を言っているのだと訝しげに二度見までしていたが、去り際「面倒をかけた。後免」と詫びてから壁へと沈み込んだ。
その姿が消えた頃合にアシュラマンは再びトレーニングの手を止める。
(……)
冗談の筈が妙に現実味を帯びてはいないか、まさか。そんな横槍の様な雑念を払うべく手に伝う汗を拭ってからダンベルを強く握り直した。
(本物の痴話喧嘩は御免こうむるぞ、私は!)
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