2024-12-24 03:30:05
2258文字
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夜に染まるまで

バンユキ/大神結婚ネタ

 結婚することになった、とだけ書かれた簡素なラビチャを見たのは仕事帰りに捕まえたタクシーの中だった。返信しようとしてからこれまで尽く無視されてきたメッセージの数々を思い出し、打ちかけていたメッセージと通話のボタンを交互に見てから、運転手に告げた行き先を変更した。日付が変わる少し前のことだった。

「お前、今何時かわかってる?」
「もちろん。それでも、一秒でも早くおめでとうって直接言いたくて来てあげたんだよ。健気でしょう、僕って」
 開けられた扉に指と足を挟むと、うんざりとした顔はそのままに諦めた様子で通された。玄関に置いてある明らかに女性もののスリッパを横目に見ながら、それで、と言葉を続ける。
「いつなの」
「式はもう少し後かな。挙げようとは思ってるけど、今は色々バタバタしてるから……
「違うよ。結婚するって、いつ決まったの」
 コートをハンガーに掛けるのも億劫でその場に脱ぎ捨てると、万理は文句も言わずにそれを拾った。
 かつてよく見た光景を前に、懐かしさよりも互いの髪の長さや部屋の匂いという、あの頃とは違うものばかりが千の神経を撫でていく。酒でもお茶でもなく、こちらをもてなす気のない透明の水がグラスに入れられてテーブルに置かれた。
「それ、一々お前に言う必要ある?」
……必要とか、関係ない。そもそも急過ぎるんだよ。先に言っておいてくれてたら今日だって来なかった」
「お前、言ってることめちゃくちゃだぞ……。あのなあ、プロポーズしようと思ってるとか、いつしたとか、いつ籍入れるとか……そういうこと、全部逐一報告しろって? それに、彼女がいるのは千だって知ってただろ。俺はもうただの事務員で、もうすぐ三十だよ。いつ結婚したっておかしくないことくらい、わかってたと思うけど」
 同じソファーに腰掛けているのに、見えているものが全く違うことが不愉快で仕方がなかった。神経質に両指を組み、綺麗に塗られた青いネイルを睨みつけながら、隣から掛けられる熱のない声の輪郭をなぞる。
……ずっと会わせずにいたのは、悪かったよ。今度、ちゃんと紹介するから」
「ねえ、なにが違ったの、今までの女と」
 彼女ができたのは知っていた。いつか、モモと喧嘩したときに八つ当たりに万理を呼び出したことを思い出す。その日、万理は付き合ったばかりの彼女と会う約束をしていたにも拘わらず、二人の仲裁を優先してくれたのだ。それからもなんだかんだ関係が続いていたことは知っていたが、どうせいつもと同じで、浮気されただとかヒステリックに泣かれて振られただとかで別れるだろうと信じて疑っていなかった。
 怒らないで聞いてほしいんだけど、と続けた千を、万理は苦い顔で一瞥する。
……僕はお前と上手くいく女がいるなんて思わなかったんだよ。万はいつも僕に対してちゃんとしろとか、女癖が悪いとか言ってきてたけど、僕からしてみればお前のほうが余程たちが悪かった。僕は直す気がなかっただけだけど、自覚がないなら直すものも直せない」
 面倒なことに巻き込まれるとわかっているだろうに、千の呼び出しを受けた万理の姿に、本当は安堵していた。万理の小言と苦言は、いつだって選ばれている実感を伴わせるものでしかなかった。
「お前はいつも自分にとって都合の良い女に、これみよがしに餌を与えて、彼女って甘い言葉で誤魔化してきただけだったからね」
「お前さ……怒らないで聞いてほしいって言う割には、怒らせようとしかしてないように聞こえるんだけど」
 まあ、でも、そうだったのかもな、と平坦に紡がれた言葉に、今度こそ千は打ちのめされた。
 千の知る万理であれば、これだけのことを言われたら少なからず感情的に言い返してきたはずだ。カラカラに喉が渇き、手付かずだった水を一気に飲み干した。苛立ちと困惑に昂っていた熱が鎮火されるように静まっていき、千は空になったグラスを握りしめるように両手で抱く。
……そう。……おめでとう、万。どれだけ忙しくても行くから、式には呼んで」
「ありがと。招待状も送るけど、その前にもいつ頃になるかわかった時点で連絡するよ」
 先に言っておいてくれたら、という千の言葉を律儀に守るような言い草に、苦笑する。そういうところが変な勘違いを生ませるんだ、と文句を言いそうになるが、他の女ならいざ知らず、千に対しての言動だけは誤解でも勘違いでもないだろう。
「万」
「ん?」
「あの頃、僕のこと好きだった?」
「どうかな。お互いそんな適当な言葉じゃ足りなかったから、一緒に歌ってたんじゃないの」
「まあ、そうね」
 指輪を嵌めた万理の手が空になったグラスを奪い取っていく。なに飲む、と掛けられた声に、水でいいよと返しながら千はゆっくりと息を吐く。日付はもうとっくに変わっていて、その時計が昔使っていたものと別のものになっていることを、窓の外から波の音が聞こえないことを、今度こそ寂しく思った。
 ずいぶん遠い場所にきてしまったことだけが明確に縁取られ、一番近くにいたはずなのに家族ではないからという理由だけで真っ先に面会できなかったことの怒りや絶望が、今尚この身を刺し貫いていることを自覚した。また何かあったときでさえ、最初に会えるのは千ではないのだ。そして千に何かあったとき、真っ先に名前を呼ぶのも万理ではない。
 お前はそれでいいの、という言葉は出なかった。ただ視界が滲み、喉が詰まってひくつくのを堪えて、万理が隣に座るのを待っていた。