mineml
2020-09-23 21:23:20
1927文字
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【SS】初恋性ストックホルム症候群現未×

タイトル「寛解」

 アトリエに午後の光が差す。
 窓に庭木の木漏れ日がちらちらと当たる。昼過ぎからのレッスンがはじまって、廊下を伝って響いていた子どもらの声は静かになった。葉ずれの音だけが微かに聞こえて、つまり鉛筆を完全に止めて、八千代は白紙のスケッチブックを眺めていた。
 幼少期から通っていた絵画教室は、アトリエを解放して出入り自由にしている。レッスンからは卒業した今となっても、いつでも遊びにおいで、という言葉に甘えて、こうして時たま訪れている。
 通ってくるのは八千代だけではない。
 無遠慮に勝手口が開く。秋のにおいの空気を引き連れて入ってきた人間の顔を確かめもせずに、八千代は剣呑な顔をした。
「やちちゃん来てたんだ」
「うっさいな気が散る……
「元から手ぇ止まってんじゃん」
 スケッチブックを小脇に抱えてイーゼルを立てながら、尚人は八千代に笑顔を向けた。
「いろいろ大変だったね。落ち着いた? 聴取とか」
「とりあえずアホの子でオチがつきそうっすね」
「へえ。途中で音を上げてゲロるんじゃないかと思ってたけど」
「目の前でひとが死んだら記憶も飛ぶわっていう」
 末尾が喉に絡んで、顔を歪める。腹を括って、上げては下ろしていた鉛筆の先を画用紙へ滑らせると、手は耐えかねたように動きはじめた。
 無断外泊などしたこともなかったので、両親には随分気を揉ませてしまった。瓦礫の下から焼死体が出たため、にわかに事件性が持ち上がり話が大きくなったものの、身元がわかる情報はなく、八千代も三日間記憶がないと言い張り、家出先でたまたま死人が出たという据わりの悪い結果となった。
 本当に自分の妄想だったのではないか、と思うたび、婚約した記憶のない婚約指輪が、心臓の上を軽く跳ねる。体温と同化してしまうくらいに、後生大事に首から提げている自分の異常性について、思いを馳せることもある。
……同情ではない」
「ん? うん」
 唐突な投げかけにも軽く答えて、尚人もまた、八千代の向かいで鉛筆を動かしはじめた。それぞれに癖の異なる、ささやかな描画の音が、言葉と言葉の合間を埋める。
「共感でもない」
「うん」
「あまりにも並外れて……いや、途方も……想像が及ぶものではなくて、同情や、共感の射程には、入るわけが……入れてはいけない」
 何度も思い描いた構図をなぞって、墨色の描線は、そのひとの顔を真正面から記していく。気恥ずかしさ、居心地の悪さ、罪悪感を掻き立てる構図、けれど真正面から描かなければならないとどこかで思っていた。
「悲しみ、」
 口に出して、言葉の響きで正確さを確かめる。
「累積した悲しみがあって……
「感化、侵食、あとは中毒、憐憫」
「あー……中毒。あてられた。近いな」
 端的な相槌を拾い、鉛筆の末を噛む。あの、根拠のないただならぬ幸福感の残り香が、書き殴られていた悲しみのレプリカを八千代の鼻先にちらつかせる。
「思い入れの根拠が何もないのに」
「恋って呼んでも別にいいのでは?」
「あーはいはい恋ねはいはい」
「愛でもいいけど」
「それこそ無理では、んな大それたこと」
「ストックホルム症候群を警戒してる?」
 ぎちりと音の鳴りそうな目付きをした八千代にちらと目をやり、尚人は柔和に目元を綻ばせた。
「なぜ病と呼ばれるのだと思う。不都合だからだよ。それはやちちゃんにとって不都合か?」
 八千代はしばらく、黙って鉛筆を動かしていた。
 初対面からたった三日間しか同じ時間を過ごさなかったというのに、驚くほど顔を覚えていて、描くのに不都合がない。ひとの顔を覚えるのが苦手な自分が、と、ふと思い至って、束の間後悔のように瞑目する。
 真正面から描かなければならないはずだ。ずっと、真っ直ぐ顔を向けてくれていたのだから。「たった三日間」を何千回もの間。
 ーー心臓を掻き回される様が、不都合でなくて何だと言う。
 廊下の向こうが子どもらの声でざわめきはじめた頃、尚人はスケッチブックの一枚を景気よく破り取った。
「描けた描けた。やちちゃん、どう?」
「描けた」
 遠慮のひとつもなく、尚人はイーゼルにかかったままの八千代のスケッチブックの隣に、自分の絵を掲げる。
「相変わらずやちちゃんデッサンうまいな」
「皮肉か?」
「いや? やちちゃんがこんな風に描いたなら、このひとほんとにそういう優しい顔するんだろうなと思うし」
 でもほら、と尚人が広げているのは、思案しながらスケッチブックに向かう八千代の姿だった。
「やちちゃん、このひとと同じ顔してんじゃん」
 二枚の絵を眺めた八千代は、やがて呆れたように破顔した。
「全然同じじゃねえよ、節穴か?」