しゅらま
2024-12-23 20:08:16
18571文字
Public ‪ꪔake you happy
 

【朝菊】‪ꪔake you happy 3

リーマン本田さんがうさりすを拾う話の3話。
※うさりすが過去に可哀想な目に合ってる
※半獣が当たり前の世界

「それじゃあ、今日は早めに帰って来ますから」
「分かった」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 毎日のように繰り返されるこのやり取りにも随分慣れた。最初は気恥ずかしかったし、菊を見送るのも少しだけ寂しかったけれど、今はもうへっちゃらだ嘘、本当は今もむず痒いし心細い。
 そんな思いは笑顔で隠して──菊は仕事をしに行くのだからさすがに弁えている──ドアノブに触れながらこちらに手を振る彼に同じようにして応じた。そのまま菊が扉を開けると、むわりとした熱気が室内に入ってきてしまって、思わず俺は顔を顰める。正気じゃない暑さだ。こんな暑さの中大人は仕事に行くのか? 信じられない。大人にも『夏休み』が必要だろう。

 じりじりと強い日差しがアスファルトを照りつけ、呼吸をするのも煩わしいほどの熱気が蔓延るこの季節──8月。この期間、どうやら人間の子供には『夏休み』なるものがあるらしい。7月の下旬から8月の終わりまで、丸々っと学校がお休みになるらしいのだ。この前、平日にも関わらず子供たちが多く遊んでいる姿を見て不思議がっていた俺に、菊が教えてくれたことだ。

『この季節があまりにも暑いものですから、子供が無理をして倒れてはいけないということで、学校がお休みなんですよ。まぁ部活もありますし宿題も大量に出るんですけどね』

 告げられた内容に、俺は感嘆の声を漏らしながらひとつ頷いた。登下校途中に倒れられても困るし、それなら生徒たちの自主学習にすれば良いという魂胆か。なるほど、確かに理に適っている。

『ふーんじゃあ菊は?』
『え?』
『大人はいつから休みなんだ?』

 菊は一瞬意表を突かれたような顔を浮かべて、それから悲しげに目を伏せた。ゆるゆると静かに首を横に振る様子は何とも言えない哀愁が漂っている。その反応だけで菊の言わんとすることが分かってしまった俺は、ハッと目を見開いて、戦慄く口元に手を当てた。

『ま、まさかないのか!?』
『はい。お盆休みといった長めのお休みならあるんですけど、子供ほどでは
『信じられない。まさか菊の会社は”ブラック”なのか!?』
『どこでその言葉覚えたんですか?』

 テレビ、と素直に答えると、菊は「なるほど」と零した。俺は全く納得できていない。
 ブラック企業。正当な報酬もなく、労働者を馬車馬の如く働かせる悪質な会社のこと。と、この前テレビで紹介されていたのを見た。見ていた時は「ふーん、そういうのもあるのか。大変だな」と思うだけに留まったが、まさか、菊がその被害者だったなんて! 俺の大事な菊に何してくれてやがる。カチコミするしかないか!?
 しかし俺の決意も虚しく、菊はまたもや首を横に振った。

『違いますよ。ちゃんと労働時間も法律の範囲内ですし、残業代もしっかり貰っていますから。超ホワイトです』
『でも
『アーサーさん』

 尚も言い募ろうとする俺を、菊は言葉でやんわりと制した。そして続けてこう言った──大人は皆そうなんです、と。

 大人だからといって暑さに強いわけじゃないだろう、大人にも夏休みを導入するべきじゃないのか、菊が倒れたらどうしてくれる、等々。俺は必死に主張を続けたが、しかし終ぞ受け入れられることはなかった。大人は皆同じことを思っているけど、そんなことしたら社会が破綻してしまうから、らしい。

 菊が出ていった後リビングに戻って、ソファに寝そべり、それからフンと鼻息を吐く。社会とか知ったこっちゃないが、菊が倒れられるのだけは勘弁願いたい。やっぱり夏休みは必要だし、大人もちゃんと休むべきだ。
 でも──ちらりとカレンダーに目を向ける。今日の日付に赤いペンで丸を付けられていて、そこから出発した矢印が、2日後の日曜日にまで引っ張られていた。

 もうすぐお盆休み。大人も休みのその期間、その最初の2日間で、俺たちはキャンプに行くことになっている。
 最初は「こんな暑い中キャンプ?」と怪訝な顔をしたものだが、キャンプと言ってもテントを張るようなものではなく、どうやらコテージに宿泊するらしい。さらに宿泊場所の標高も高く、あまり暑くないとのことだった。まぁ所謂避暑地だ。

『やりたいことがたくさんあるんです。バーベキューに、水遊びに、あとは魚釣りとか』

 菊は目をきらきらと輝かせながらそう語っていた。彼があまりにも楽しそうなものだから、『ばーべきゅー』もよく分かっていないのに、キャンプという言葉を聞くだけで俺まで胸をソワソワさせるようになってしまった。こんな蝉も煩い中の外出なんていつもはとても億劫なのに、今回ばかりは待ち遠しくて仕方がない。
 出発は今日の夕方。車で行って、夜には噂のばーべきゅーもするらしい。菊がすごい量の食料を昨日買い込んでいたから、それを食べ切れるかどうが心配だ──いや、菊なら食べ尽くすだろう。あんな細っこい体のどこに吸収されているのかは知らないが、あいつはああ見えて結構な大食漢なのだ。

「ん? 菊、弁当忘れてる」

 だから、あの菊が昼にお弁当を食べれないなんて、彼が倒れてしまうかもしれないって思ったんだ。
 ぽつりと置かれたままのお弁当箱は、持ち主に忘れられたためか、どことなく悲哀を感じさせながらテーブルの上に鎮座していた。大きめの二段の弁当箱。中身は全て菊のお手製で、お手伝いとして俺も料理を詰めたものだ。そんなたくさんの「美味しい」が詰められた弁当が、忘れられてしまっている。

 届けに行かないと。

 ぐ、と拳を握りしめ、俺は決意を胸に抱いた。
 俺がシロツメクサの花冠を作るために内緒で外に出て、そして菊を泣かせてしまったあの2月。本人からは「連絡さえくれたら一人で出かけてもいい」と許可を貰ってはいたものの、何となく憚られて、あの日から一人で外出したことは一度もなかった。でも、今こそ。
 今まで自分からはあまり使うことのなかったスマホを取り出して、メッセージアプリを開く。そしてビデオ通話の履歴やご飯の写真が連ねられたトーク画面に、新たにお弁当箱の写真を付け加え、それから文字を入力した。

『届けに行く』

 棚に仕舞われていた俺用のショルダーバッグを取り出して、弁当箱を中に入れた後肩に掛ける。家の鍵、よし。水筒、よし。スマホ、ちゃんとある。あとは一応、防犯ブザーも(不服なことに菊に必ず持つように言われている)。
 準備も万端。玄関に向かって、靴を履き、そしてドアを開けた。途端にむわりとした熱気が体を包み、蝉の鳴き声が耳を劈いて、思わず唸り声を上げてしまう。冷房の効いた部屋に戻りたいという気持ちが襲うけれど、それを何とか堪えて、外へ一歩踏み出した。



「暑い

 赤色の信号が緑になるのを待ちながら、額に流れる汗を手で拭い、俺はひとつ息を吐いた。喉がすぐに乾いてしまって、鞄から水筒を取り出してお茶を飲む。ひんやりとした気持ちいい感覚が喉を伝った。
 菊の会社の位置は散歩の時に教えて貰っていたから知っている。徒歩で15分程だからあんまり遠くないけれど、ちょっとの距離でも暑くて辛くて堪らない。でも、それもあとちょっとの辛抱だ。
 ピッポー、ピッポーと音が鳴ったのを聞いて、水筒を仕舞い、横断歩道を渡る。そこからしばらく直進して右手に見えるのが菊の会社だ。
 何階建てかも分からないくらい高いビル。目の前に聳え立つ建物を見て、ごくりと喉を鳴らす。どきどきと騒ぐ胸を何とか鎮めようと深呼吸をして、でもやっぱり鼓動は煩いままだった。

「(よし)」

 ぐ、とショルダーストラップを握りしめ、また一歩を踏み出した。すると透明な扉がひとりでに開いて、ひんやりとした冷気を垂らしながら、俺に早く中に入れと促し始める。ああお望み通り入ってやるさ。俺は何故か負けん気になった。
 挑発通りにロビーに足を踏み入れると、涼しい空気が体を包んで、思わず安堵の息を吐く。が。

「(う、わ)」

 受付嬢、清掃員、ロビーで何やら雑談していたスーツ姿の人々。それら全ての双眼がこちらに向いて、痛いほどの視線が体に突き刺さる。暑くもないのに(寧ろ寒いくらいなのに!)額から汗が吹き出て、さっきの勝ち気な気持ちはどこへやら、途端に「あ」だとか「う」だとか短い言葉しか口から零れなくなってしまった。思考がもだもだとして纏まらなくて、そういえば会社に着いてからどうすればいいかなんて知らなかった、と思い至る。どうしよう。菊。
 俺が人知れずパニックになっている間にも、人たちはこっちに近づいてくる。逃げようにも足が地面に縫いつけられたように動かなくて、せめてもの抵抗に視線を下に向けた。フローリングはピカピカに磨き抜かれて、ゴミひとつ落ちてなかった。

「君」


 目の前でしゃがまれる気配と、男の声がした。低めの声だ。ショルダーストラップを一際強く握る。

「名前は言える?」

「誰に用事か、でもいいよ」

 だけどそれは優しい声色で、身構えていた俺はつい拍子抜けしてしまった。そういえばここは菊の会社だった。あの彼が選んだ場所なのだから、きっと悪い場所ではないし、多分悪い人たちも早々集まらない。釣られるようにして顔を上げると、そこには照明できらきら光るブロンドヘアとアメジスト。それを見て俺は呆然としながら「菊菊に会いに」と口から零してしまった。

「菊本田さん?」
「じゃあやっぱり本田さんとこの子なんだ!」

 菊の名前に反応したのは、目の前の男ではなくその背後にいる人達だった。男と女ひとりずつだ。いきなり現れた第三者と大きな声にびっくりして、つい大袈裟に肩を揺らしてしまう。すると眼前の男は心底申し訳なさそうに眉を下げて、「悪いね」と謝意を伝えた。

「ごめんな。ちょっと、お前ら何してくれてんの」
「ご、ごめんなさいつい」
「噂の『うさぎさん』に会えたと思うと嬉しくて」

 前半は俺に、後半は背後にいた人たちに向けた言葉だった。金髪の男に叱られた彼らはしおしおとした顔つきになってから、俺と目を合わせて謝ってくれた。別にちょっとビックリしただけだからそんなに申し訳なさげにしなくてもいい。それに、俺が気になったことはそっちではなくて。

「噂の?」

 噂って、なんだ。
 俺がひとつ首を傾げれば、スーツ姿の男女は途端に目を輝かせて、ぶんぶんと首を縦に振った。

「本田さんったらいつも君のこと話してるんだよ!」
「そうそう。『もう可愛くて仕方ないんです』だってさ」
「特にフランシスさんなんてよく惚気話聞かされてますもんね。部署違うのになんでですか?」
「さあ。波長が合うんじゃない?」

 目の前の男は「フランシス」と言うらしい。煌びやかなその見た目やあからさまな名前からして、確実にフランス人と見ていいだろう。そのフランシスとかいう男に追求をさらりと躱されてしまった2人は、ちょびっと不服そうな顔をした後、何やら『噂』を垂れ流しているらしい菊についてまたもや語り始めた。

「それにこの前『最近飲み会の付き合い悪くないですか?』って言ったらさ、『家族を待たせてますから』って返されちまって!」
「本田さん、いきなり車持ち始めたでしょ?ほら、前まで免許持ってるだけだったのに。それで私も理由聞いたら『うさぎさんとたくさんお出かけしたいので』って!」

 そこまで言って区切ると、女は両頬に掌を当てながら黄色い声を上げた。男も思わずといった風に感嘆の声を上げて、それから一言「相当好きなんだな」と零した。
 フランシスはその呟きに一つ頷いて、柔和な笑みを浮かべる。一方の俺はというと、呆気にとられたまま、3人のやり取りを目線だけでなぞっていた。そんな俺の意識を眼前の輝かしい風貌の男の声が引き上げる。キクちゃんはさ、と。

「前は外に出るのあんまり好きじゃなかったんだ。多分、今もそんなに好きじゃないと思う」

 びっくりして、ラベンダーの瞳を思わず見返した。だって菊はいつも楽しそうだ。家にいる時だけじゃなくて、一緒に散歩する時も、いつだって。そんな感情が見え隠れしたことは一度だってなかったはずだ。
 確かに菊は気持ちを隠すのが上手い方だと思う──「好き」だとか、そういうポジティブな感情は例外として。負の側面を晒すことはあまりない。でも俺も人の感情には聡い方だから、この一緒に過ごしてきた半年で全く分からないということはきっと有り得ない。菊の気持ちなら尚更だ。俺は誰よりも菊の感情に敏感な自信があった。

「ビックリした?」

 頷く。

「つまりはさ。その苦手を上回るくらい、キクちゃんは『うさぎさん』と過ごすのが好きだったってことだよ」

 ぱちりと瞬いた。

「愛されてるね」

 一度息が漏れて、喉が詰まって、心臓がぎゅうっと苦しくなって、それから顔が熱くなった。鼓動が忙しなくて、うるさくて、耳のすぐ傍で拍動しているようだった。
 菊は俺と過ごすのが好き。知ってる、そんなこととっくに知ってた。だっていつも『幸せだ』って顔に書いてあるし、そもそも自分からそう言ってるし。言われなくてもそんなんよく分かってる。でも、菊が。飲み会なんかよりも俺を優先して、俺と出掛けたいから車を買って、俺の影響で苦手を克服したなんてことは、全く知らなかったから。
 うれしい、うれしい、うれしい! 心がずっとそう叫んでる。ちょっとくらいは静まれよって毒づいたって、ちっとも言うことを聞きやしない。口元の緩みを抑えようと頬の内側を甘噛みした。これも意味なかった。
 ぴこぴこと耳を揺らすアーサーを見て、他の3人は口元を緩め、目元を柔らかく細めた。これは本田さんが溺愛するのも頷ける。

「しっかし、よかったなぁ。今まで二人暮しだったわけだしこれでお母さんもできるかもな」

 だが、そのうちの一人の男が余計なことを口に出した。

は?」

 ぴたり、と表情を強ばらせるアーサーを見て、女が剣呑な目つきを向けながら声を上げる。ちょっと!貴方あまりにも無神経すぎるわ!
 すると男は目を見開いてから勢いよく口元に手を当て、視線をうろつかせながら謝罪を零した。フランシスは2人の様子を見るとやんわりと眉根を寄せ、それから控えめに溜息を吐く。「お前ら、どっちもどっちだよ」

「悪いね、今のは」
「どういうことだ?」
うさぎさん」
「『お母さん』って、なんだよ」

 無作法だとか無神経だとか、アーサーにとってはそんな話どうでもよかった。今更人間に対して失望なんかしない。問題はそこじゃないんだ。
 指先の感覚がない。足元さえ覚束無い。ずっと視界や頭がぐらぐら揺れているような感覚がして、ちゃんと地面に立っているかどうかでさえ危うくて、張り詰めた糸が切れたら今すぐにでも倒れてしまいそうだった。
 アーサーは瞳孔を大きく開きながら、もう一度言った。なんだよ。言い出しっぺの男は未だ気まずそうな顔をしていて、女も視線を逸らし、口を一文字に引き結んでいる。責任を取りたくないようだ。フランシスは困ったように曖昧に笑いながら、まだ決まったわけじゃないんだけど、と前置きをして、事の詳細を話し始めた。

「キクちゃんが女の子に呼び出されてね。まぁ、告白なんじゃないかって」
「菊は?」

「菊はなんて返事したんだ」

 フランシスは首をゆるゆると横に振った。わからない、と。
 強く握り締められたショルダーストラップはとっくにぐちゃぐちゃになっていて、アーサーの手汗で少し湿っていた。ぐるぐるぐるぐる。ずっと目眩がしている。ずっと視界が回っている。ずっとお腹の中で何かが渦巻いている。きもちわるい。

「アーサーさん?」

 遠くから声が聞こえた。低くて、甘くて、落ち着いた声。菊だ。奥から菊が小走りで近づいて来ている。最初彼は輝かんばかりの笑顔を浮かべていたが、近づくにつれアーサーの異変に気がついたらしく、怪訝な表情を浮かべる。アーサーさん。今度は気遣わしげな声色だ。
 アーサーは忽ちその場から逃げ出したくなって、慌ててショルダーバッグを身から外した後、フランシスに押し付けて、勢いよく身を翻した。自動ドアの開閉がまどろっこしかった。
 菊の困惑の声を背中で受け止めたままビルから飛び出し、雑踏の中を駆け抜けた。異常な熱気がアーサーの体を包み、彼のことを引き留めんばかりに喉や口の中に纏わりつく。馬鹿みたいに蝉の泣き声が煩かった。赤信号も、夏の暑さも、全てが鬱陶しかった。



「やっぱり。見つけました」

 蹲るアーサーの体に影がかかる。聞こえた声に一度ぴくりと肩を揺らして、けれど顔は上げなかった。
 菊が隣に座る気配がした。お互いの肩がほんのちょっぴり当たって、何だかほんの少しだけこそばゆい。

「アーサーさんが行くなら家や河川敷かとも思ったんですがふふ、今回ばかりは我ながら勘が冴えていました。ここは私たちが出会った場所ですからね」

 菊は朗らかに笑いながら言うと、賽銭箱に背を預けた。しかしすぐに罰当たりだと思い直して、真っ直ぐに背筋を伸ばす。ここは神聖な場所であるし、何よりもアーサーさんと私を引き合わせてくれた神様の住まいなのだから、出来うる限り礼を以て接したかった。余談だが、菊は定期的にこの寂れた神社に来ては、賽銭箱に五円玉を入れて「ありがとうございます」と呟きながらお参りをしているのである。
 賽銭箱では隠しきれなかった菊の黒髪が、眩い太陽の光をうけてちらちらと輝いている。熱風が菊とアーサーの髪を柔らかく攫い、それに伴って神社の木々たちもさわさわと鳴き声を上げた。

「お弁当、届けに来てくれたんですね」
ああ」
「ありがとうございます。アーサーさんのお陰でお腹がぺこぺこになるのを防ぐことができました」
……別に、食堂で食べればよかっただろ。俺が届けなくたって」

 違う。間違えた。アーサーは拗ねたように言った後、ひっそりと唇を噛んでから、自身の腕により強く額を擦り付けた。

「そういえばそうですね。それでも私はどうせなら、アーサーさんと一緒に作ったお弁当が食べたかったので。どちらにしろ助かりました」

 菊の言葉がアーサーの胸の隙間を埋めていく。菊の言葉はいつだって優しいし、声も柔らかくて、それがアーサーの心を慰めていた。今もそうだ。今もそうだけど、少しだけ苦しい。
 強く腕の服を握りしめる。こんなんじゃ服が伸びる。皺もできてしまう。菊に迷惑をかけてしまう。今も、この後も。

告白の件ですが」

 その言葉にアーサーがあまり身構えなかったのは、菊の声色があまりにも穏やかだったからだ。アーサーは緩慢な動作で頭を上げた後、恐る恐る菊と目を合わせた。菊は優しく目を細めていて、口元には柔和な笑みが浮かんでいる。彼はアーサーの頭を一撫でして、温かな声色で言葉を続ける。

「お断りしました。私は今アーサーさんと過ごすだけで手一杯ですし、それで十分に幸せですから」
本当に?」
「ええ」
「これからも2人だけ?」
「もちろん」

 強く擦り付けられたが故にほんのりと赤いアーサーの額を親指で軽く擦った後、菊は口付けを落とした。自分からやった癖に彼はほんのり顔を赤らめて「これ恥ずかしいですね」とはにかみながら零す。
 アーサーは糸が切れたようにぐらりと体を傾けた。慌ててその体を受け止めて焦ったような声を上げる菊を他所に、アーサーはぼんやりと思った。そっか、そうだよな。菊がそんなことするわけなかった。これからもずっと2人で

 本当に?

アーサーさん。夜に出発予定だったキャンプ、少し早めてもいいですか」
「早めるっていいけど、いつ?」

 すると菊はにっこり笑い、いきなりアーサーの体を抱き上げる。「うわっ」と驚いて声を上げる彼に、菊は詫びを入れながら立ち上がった。菊の黒髪が夏の日差しを強く受けてより輝き、きらきらとした天使の輪を作っている。

「今からです!」
「は!?」

 菊はくふくふと上機嫌な笑みを零し、アーサーの脇の下に手を差し込んだ。そして彼を高く持ち上げながら、一緒にくるくると回る。これは罰当たりな行為ではないはずだ、多分。
 やっと菊が止まった後、アーサーはちょっぴり目を回して、困惑の声を上げる。

「お、お前だって仕事は」
「今日はもう上がっていいそうです」
「そんなことできるのか?」
「あまりできないことだと思います。今回は皆さんアーサーさんのことで悔やんでおりましたし多分、クリスマスに私に仕事を任せたことも気に病んでいたのでしょうね。引き受けてくれるそうです」

 菊はアーサーのことを抱え直した後に言葉を続けた。

「あのときは『なんで私が』と思っていましたが、だからこそアーサーさんとも出会えて、今日貴方を追いかけることもできて。やっぱり良いことはするものですね」
何の話だ?」

 目を白黒させるアーサーを見て、菊は悪戯っぽく笑う。それから石畳の上を少し歩き、振り返って、こぢんまりとした御社殿に目を向けた。人があまり訪れなくてちょっと寂しいこの神社は、それでもほんの少しだけ温かい雰囲気を纏っている。

「神様も案外見てくれてますよね、って話です」
?」

 菊は鳥居をくぐる前に一礼をして、それから低い段差で作られた石階段をゆっくりと降りていった。





「アーサーさん」

ぼんやりと揺蕩う意識を引き上げられ、 アーサーはゆるりと瞼を持ち上げた。窓から差し込む光が眩くて、思わず眉根を寄せ、きゅっと目を細める。指で寝ぼけまなこを擦った後、欠伸を噛み殺しながら、右隣に座る菊を見遣った。座席から伝わるちょっとした振動が心地いい。

「もう着いたのか?」
「もうすぐです。アーサーさん、ちょっと窓の外を覗いてみてくれませんか?」
「窓の外?」

 アーサーは僅かに首を傾げて、そのまま真反対に視線を向けた。そうして視界に写った光景に、彼は思わず感嘆の声を漏らす。
 水の小さな閃きが魚のように重なり合っていた。夏の陽光でちらちらと煌めく様が美しい。水面は青々として澄み渡って、周りの木々と太陽とを映し、そこにもうひとつの世界を作り出している。風に揺られて水面がざわめき、たちまち崩れてしまったかと思えば、またやがて鏡としての役割を果たし始めた。水の中で白い雲がゆっくりと動いている。
 アーサーは熱の篭った息を零し、また「すごい」と賞賛の声を上げる。菊はそんなアーサーの様子を横目で見ると、満足気に頷いて再び前を見据えた。車は温かな木漏れ日の成す道路をゆっくりと進んでいる。

「夏の水面をアーサーさんにも見てほしかったんです。もちろん他の季節でも美しいことに変わりはないのですが、夏は特に空が高く澄み渡っていますし、日差しも強いですから、また違う趣を感じられて、ただ海は人が多いですし、ならば湖しかないな、と。気に入ってくれましたか?」
「もちろん」
「よかったです。あそこもコテージの管理人さんの土地らしいですから、後で許可を貰って2人で行きましょうか」

 菊はアーサーを流し見て、口の片端を釣り上げる。

「魚も泳いでいるかもしれませんし」
食いしん坊」
「よくご存知で」

 そんなやり取りも程々に、2人はコテージに着いた。たくさんの緑に囲まれた温かみのあるログハウス。菊の言っていた通り気温も涼しく、また近くに川も通っているようで、せせらぎの声がか細く聞こえた。
 菊は前倒しで来てしまったことの謝罪を管理人に伝え(一応来る前に連絡は入れてある)、それから「3日間お世話になります」と深々とお辞儀をした。アーサーも倣うように頭を下げる。管理人は菊たちの訪れをにこやかに受け入れ、また湖の許可も快く出してくれた。

 2人が到着したときには既に13時を回っていて、2人で菊の弁当を分け合って食べることにした。しかもそれだけではない。

「それ、なんだ?」
「ふふよくぞ聞いてくださいました」

 コテージのベランダに、なにやら変なものが吊り下がっている。真っ白い布で作られた、四角錐型の何か。しかも真ん中に大きく丸い穴が空いていて、そこから覗くと中にはクッションなどが置かれているのが分かった。
 アーサーが首をひねっていると、菊はぴかーんと目を輝かせ、意気揚々と話し始めた。

「これは『ハンモック』と言います」
「はんもっく」
「はい」

 すると菊はよじよじと『ハンモック』の中へ入り、体制を整えた後、外にいるアーサーに手を差し伸べた。まさか入れって言うのか?そんな今にも落ちそうな不安定な場所に!?
 眉根をグッと寄せて嫌がるアーサーに、菊はけらけらと笑いながら言った。大丈夫です、と。

「大丈夫ですよ」
「だけど
「私がアーサーさんに嘘をついたことがありましたか?」

 アーサーはぐっと喉を詰まらせた。菊がアーサーに嘘をついたことは一度もない。結果的にアーサーの予想を裏切るような行動を取ったことは幾度かあれど、菊が直接嘘の言葉を告げたことは一度たりとてなかった。彼の言葉はいつだって誠実と温かさで溢れているのだ。だから、そういうことを言われると弱い。でも怖いもんは怖い。痛いのは嫌いだ。

今回が初めての『嘘』になるかもしれないだろ」
「なったとして、私がアーサーさんのことを守りますから。絶対に大丈夫です」
「菊が痛い目見るのも嫌だ」
「じゃあハンモックの強度と私の言い分を信じてもらうしかありませんね」
引くって選択肢は?」

 菊は恐ろしいほど完璧な笑顔で言ってのけた。ありません、と。そうしてアーサーはがっくりと溜息をつく。彼は本当に変なところで頑固だから困る──
 一方、菊の言い分としては。アーサーが本当に怖がっていたのなら、こうも強引なお誘いをするなんてことはもちろんしない。ただ彼の翡翠は僅かな興奮と興味を滲ませていたから、ならば是非とも体験してほしいと思ったのだ。でもあくまで彼の気持ちを尊重したいから、これ以上嫌がりそうなら引き留めはしないし、無理やり乗せるなんてことは以ての外だった。
 しかしアーサーは菊の手を取った。菊は優しい手つきで彼のことを引き上げ、2人だけの小さな家に招き入れる。

「うわっ、ぐらぐらする、」
やっぱり怖いですか?」
いや、楽しい」

 アーサーは頬をちょっぴり紅く染めながら言った。中は思っていたよりも狭くて、2人はお互いの肩と肩とがすぐに触れ合う距離になった。窮屈で、でもそれが何だか特別感があって、ちょっと嬉しい。控えめに彼のふわふわな耳がぴこぴこと動く。菊はそんな彼の「愛おしさ」を十分に噛み締めた後、弁当箱を手繰り寄せ、決して零さぬように慎重に蓋を開けた。
 卵焼き、ほうれん草、トマト、それから昨日の晩御飯の生姜焼き。弁当箱を彩る全てが菊のお手製であり、またこれらをいっぱい詰め込んだのはアーサーだった。保冷剤と一緒に入っていたために中身はひんやりとしていて、だけど味はばっちりだった。さすが菊だ。

「菊、量足りたか?」

 2人で全て平らげて、菊が弁当箱を片付けている頃合。アーサーは恐る恐る尋ねた。元々は菊一人で食べる用だったのだ。もしかしたら足りなかったかもしれない。
 それに対し、菊は目をしぱしぱとさせながら「ちょっとだけ」と返す。

「ですが”この後”沢山食べる予定ですし、大丈夫ですよ」
「この後?」

 少しだけ疑問符を飛ばして、それからすぐに思い出す。そうか、『ばーべきゅー』だ。あれだけ食材を買い込んでいたんだから、そりゃまぁ大量に食べるだろう。
 そうしてアーサーがひっそりと胸を撫で下ろしていると、横からいきなり抱き締められて、それから2人で後ろに倒れ込んだ。あまりに突然だったから心臓がばくばくと煩い。菊の言っていた通りハンモックはかなり丈夫で、暫くした後も落ちる気配はなかった。鼓動を落ち着かせながら顔を上げると、思っていたよりもすぐ近くに菊の顔があって、またビックリした。

「菊?どうしたんだ?」
「少し早いですが、お昼寝の時間にしませんか」
前、『ご飯を食べたすぐ後に寝るのは行儀が悪い』って言ってたよな。早速嘘つくのか?」

 アーサーが訝しげな目線を向けると、菊はけろりと笑って、なんでもないかのように言う。

「知りませんでしたか? こういう特別な日は、ちょっとお行儀の悪いことは許されるんですよ」

 なので嘘じゃありません、と事も無げに言ってのける菊に、アーサーは呆れるような感心するような思いを抱いて、結局溜息を吐くに留まった。それから菊の服の裾を控えめに掴んで、恥ずかしさ交じりに言う。

「仕方ないから付き合ってやる」
「ありがとうございます」

 菊は本当に眠かったらしく、暫くうつらうつらと船を漕いでいたが、程なくして眠りに落ちてしまった。珍しい。菊はいつもアーサーが寝るまでは起きているからこうしてアーサーが、菊が眠りにつく瞬間を見届けるのは初めてだった。たぶん、車を運転するのに余程神経を使ったんだろう。俺のために買った車を、運転することに。
 アーサーは静かに菊の頬に手を伸ばす。日焼けなんて知らない彼の肌は人形のように白く、しかし無機物じみているわけでもなく、温かみのある色合いをしていた。するりと撫でると彼が身動ぎしたので、アーサーは慌てて手を引っ込めたが、起きる様子もないのでまた頬に手を添える。すべすべとしていて気持ちいい。次に隈のない目元に手をやり、親指で控えめになぞった。この瞼の裏にはあの美しい黒真珠が隠されているのだ。
 最初の印象は「冬の降雪のような人」、そして今は「春の陽射しのような人」。彼の底知れぬ暗闇の中には数多くの優しさが眠っていることは、きっと菊の周りにいる人皆が知っている。でも彼の奥底にある熱烈な愛情を知り、そして受け取っているのは、ただ俺しかいない。その、はずだ。
 心にかかったモヤを打ち払うように頭を振る。これからもずっと2人だ。嘘のつかない菊がそう言ったのだから、俺はそれを信じさえすればいい。
 アーサーはより菊の傍に擦り寄って、それから力強く目を瞑った。ずっと、こんな閉じこもった2人の世界が続けばいいと思ってる。でもきっとそれが長くも続かないだろうということは、何となく俺にも分かっていた。



「あっ」

 菊の声に釣られてふわりと意識が浮上する。ぱちぱちと数度瞬きして段々とクリアになっていく視界の中で、上半身を起こし腕時計を見ている彼の様子を捉えた。何やら「もうこんな時間」と呟いている。外に目を遣るとまだ空は青かったが、そういえば夏の日の入りは遅いんだった、と思い直す。菊の反応からして相当寝ていたのかもしれない。
 そこで2人の目が合った。菊は目元を緩めた後、未だ横になっているアーサーの体を抱き上げて「すみません、起こしてしまいましたね」と詫びを入れると、彼のおでこにまたもや口付けを落とした。アーサーは恥ずかしいような困惑するような思いで目を白黒させて、頬を紅潮させながら「い、いきなりなんだよ」とぶっきらぼうに返す。こんなこと、いつもやってるわけじゃない。今日の神社にいた時にされたのが初めてだ。あのときは自分のことで手一杯で反応できなかったが、なんなんだこれは。

「嫌でしたか?」

 やっぱり恥ずかしい、と目元を仄かに朱に染めながらも、菊はけろりと言ってのける。アーサーは凄まじい勢いで首を横に振った。

「嫌じゃない!ただ今までこういうことしてこなかったから、疑問に思って」
「そうですね実は今日、フランシスさん──同僚の方から少々助言をいただきまして。キスでもしたら喜ぶんじゃないか、と」

 あの煌びやかな見た目の男のことだ。するとアーサーの脳内でいきなり彼がウインクと投げキッスをし始めたため、すごく癪に障って、幻覚を打ち払うように頭を振った。俺が求めてるのは菊からのもの限定だ。
 一方、いきなり目の前でアーサーに首を振られた菊はほんの少し不安になり始めていた。やはり嫌だったのだろうか、前もって声がけしておくべきだったなと次々と反省点が頭の中に浮かび上がり、どんどんしおしおとした表情になっていく。そんな菊の様子に気がついたアーサーは「しまった」と言うような顔をして、暫く手をわたわたとさせた後、グッと身を乗り出した。
 アーサーの唇が菊の頬に当たる。それはあまりにも一瞬の出来事で、菊が何らかの反応を取る前に、アーサーは素早く元の位置に戻った。彼は相変わらずほっぺを真っ赤にしている。

「嫌じゃないって言った」

 彼は目を僅かに逸らしながら素っ気なく言った。その様子でさえ愛おしく、菊は堪らずアーサーを抱きしめる。アーサーもこの彼の行動には随分慣れたもので、すぐに自身の手を菊の背中に置いて、優しく抱き締め返した。きゅうっと胸が締め付けられて、菊は思わずアーサーの旋毛に唇を柔く当てると、ふわりとシャンプーの香りが鼻腔をくすぐった。自身と同じ匂いだった。
 十秒ほど経ってようやく唇を離し、菊はアーサーの頭上から穏やかに語り始める。

「実は、今日アーサーさんとしたいことがありまして」
「バーベキューか?」
「いいえ。それは明日することになりました」
「え?」

 困惑のままにハンモックから連れられて、そのままコテージの中へ入る。するとダイニングテーブルの上に真四角に畳まれた布が二つ置かれているのが見えて、また彼は首を傾げた。なんだこれは、服か?
 菊は疑問符を飛ばしているアーサーを愛おしげに見つめながらも、彼を地面に下ろし、それから布を手に取って広げた。大人用と思われるものがひとつと、子供用らしきものがひとつ。黒を基調に白い線が縦に引かれた、何の変哲もないデザイン。しかしそれはアーサーが見たことのない形をしていた。

「それは?」
「浴衣と言って、日本の伝統衣装の一種なんです」
「へぇ
「管理人さんが、今日は下町で祭りがあるからと貸してくれたんですよ」
「祭り?」

 菊は朗らかに笑う。

「アーサーさん。私と夏祭りに行ってくださいませんか」


 それから菊に浴衣を着付けてもらい──彼はとても手馴れていて、着付けは一瞬で終わった──帯のちょっとした窮屈感と共に俺たちは坂を下った。俺はスニーカーだけど、菊は下駄というものを履いていて、彼が歩く度にカランコロンと心地よい音が夕方の閑静な坂道に響く。下っている最中、向こうからちらちらと赤や橙色の光が見えて、それがまた好奇心を擽った。祭りに行くのは初めてだった。
 湖の前を通り、段々と人の数が増えてきた頃合。夏祭りの入口に辿り着いた。ずらりと屋台が際限なく並び、人の話し声や笑い声がひっきりなしに聞こえる。それらの合間を縫って、スピーカーから流れる祭囃子の音楽も耳に届いた。

「煩かったり、人混みが怖いということはありませんか?」

 気遣わしげな視線を向けてくる菊を見て、俺は控えめに頷く。確かに人も多いしうるさいけれど、我慢できないってほどでもないし、その煩わしさよりも夏祭りへの興味が勝った。
 はぐれないように手を繋ぎながら見て回ったが、屋台には本当に色々と売っていた。お面とか、お好み焼きとか、ヨーヨーとか、焼きそばとか、たこ焼きとか、唐揚げとか。今挙げた例に食べ物が多いのは、決して俺の食い意地が張っているからではなく、一重に菊がこれらのもの全てを買っていたからだった。ああ、あとイカ焼き。そして彼は一瞬にしてこれらを平らげた。

「美味しかったです」

 俺は改めて菊の胃袋が恐ろしいと感じた。

「あ!アーサーさん、りんご飴ですよ」
「りんご飴?」

 きょとりと首を傾けると、菊はするりと指を右に向けた。ちなみに今の菊の腕にはピンクのヨーヨーが吊り下がっているし、右頭部には茶色い犬のお面が被せてある。俺は黄色い変な動物(ちょっとうさぎっぽい?)のお面で、菊曰く「どちらも日本で有名なゲームのキャラクター」らしい。
 指が向けられた場所を視線で辿ると、そこには赤くつるつるとした丸いものが置かれていた。眩い照明に照らされて、りんごがきらきらと光っている。

「りんごを飴でコーティングしたもので、とっても甘くて美味しいんです」
「へぇ」
「食べてみますか?」
「うん」

 菊は屋台の店主にお金を払って二個のりんご飴を手に入れると、りんごに被せられたビニール袋を取り外し、近くのゴミ箱に捨ててから俺に手渡した。
 俺は数秒ほどまじまじとりんご飴を見つめた後、恐る恐る齧り付いた。ぱき、と飴の割れる音がして、次にりんごの甘みが口いっぱいに広がる。

「甘い」
「よかった。アーサーさん、甘いもの好きですものね」

 俺は僅かに目を見開いた。だって甘いものが特段好きな訳じゃないし、このりんご飴も特別気に入ったわけではなかったから。
 多分、俺は世間で言う馬鹿舌なんだと思う。馬鹿舌っていうか、貧乏舌。甘いとか辛いとかは分かるけど、「だから好き」とか「だから苦手」とかは全くない。「だから」の先が俺にはなかった。そもそも俺にとっての美味しい食べ物の基準はお腹を壊さないかどうかだったから、正直味なんてどうでもよかった。
 それは菊に会ってからも変わらない。味の善し悪しとかは未だによく分からないし、どうでもいい──ああ、でも。
 彼に出会って、初めて温かい物を口にしてから。あったかい食べ物は好きになったかもしれない。そもそも、菊の作った食物だったり、菊と食べたりするものは何だって好きな気がする。

「(あ、)」

 そういえばそうだった。甘いものを食べる時って、いつも菊と一緒だった。



「そろそろ時間ですね」

 空の茜色に紺色が迫ってきた頃合。菊は「少し行きたいところがあるんです」と言って、元来た道を戻り始めた。喧騒から逸れ、のんびりとした時間が俺たちの間に流れる。さっきの騒がしい時間も中々に良かったが、やっぱり俺は菊と穏やかに過ごすときが一番好きだった。
 そして、辿り着いた先は昼間に見た湖だった。

「実はここからでも花火が綺麗に見えるそうで。花火会場はきっと人が多いですから、ここなら2人でゆっくり見られると思います」

 湖は昼間とは違った様相を呈していた。凪いた水面にはダークパープル、ヴァイオレット、ルビーピンク、オレンジなどの色たちがグラデーションとなって映し出され、真ん中にはぽっかりと一番星が浮かんでいる。テレビで見たことがある。これは「マジックアワー」というやつだ。
 湖の前に置かれた石造りのベンチに座ると、程なくして花火が打ち上がり始める。

「わっ

 菊が感嘆の声を漏らしていた。俺も熱の籠った息を思わず零した。ドン、パラパラパラ、ドン。地面を揺らすような大きい音と、火が落ちる声が何度も何度も繰り返される。色とりどりの大輪が夜空に咲き乱れ、また湖にも眩い光を落としていた。
 あまりの迫力に言葉を失っていると、不意にベンチに置いてあった手に彼の掌が重ねられた。ビックリして横を見ると

「綺麗ですね」

 黒曜石と目が合う。菊の端正な顔が花火の灯りに照らされている。ぎゅっと胸が苦しくなって、微かな吐息が漏れ出た。

うん。綺麗だ」
「アーサーさんと見れてよかったです」
「うん」

 俺は再び空を見た。相変わらず美しい花々が咲き誇っている。でも、ずっと。菊の顔が頭から離れなくって。あんなにも大迫力の花火に、俺は全く集中できなかった。

 花火は案外短くて、三十分ほどで終わった。その頃にはもう辺りが真っ暗で、あんなに綺麗だった湖も底知れぬ暗闇を持っている。頼りになるのはベンチの傍に置かれた街灯一本のみだった。
 重ねられた手が離れ、「ああもう帰るのか」と少し落胆じみた思いを抱く。しかし菊は帰りの声を掛けることはなく、俺の目の前に立つと、何やら変なものを掲げた。

「それは?」
「線香花火です。管理人さんが湖の許可を出してくれた時に、一緒に提案してくれたものですから屋台で売っていたので、つい買ってしまいました」

 菊はビニールから薄っぺらい縦長の紙を大量に取り出すと、そのうちの一本を俺に渡した。俺は親指と人差し指でそれを摘んで眼前まで持ち上げて、それからまじまじと見つめた。こんな細っこいものが花火?
 そんな俺の様子を見て菊は控えめに笑う。

「そうですね。正直、先程の花火の後だと見劣りしてしまうかもしれません。地味ですし、あまり長持ちしませんし」

 何が面白いんだそれ。
 そんな気持ちが表情にモロに出ていたのか、菊は口元を緩めて「何が面白いんだって思いますよね」と返した。彼は近くに転がっていたバケツを持ってくると、湖の水を汲み、俺たちの傍に置く。そのまま彼がしゃがんだので、何となく俺もそれに倣って、ベンチから降りてしゃがんだ。
 菊が懐からライターを取り出すと、カチリと音を鳴らして炎がついた。そのまま線香花火に燃え移り、ぱちぱちと軽快な鳴き声を出しながら黄色い火花が散る。

「私も小さい頃はこの楽しさがよく分からなくてぼうっとできる時間は嫌いではありませんし、線香花火も特段嫌っているというわけではありませんでしたが、好きということもありませんでした」

 菊は穏やかな表情を浮かべ、線香花火をじっと見つめながら、俺だけに聞こえるくらいの小さな声で語った。俺は花火もそっちのけで、ただ只管に菊の横顔に見入っていた。

「でもこの線香花火を誰かとすることで火が落ちるまで、空白の時間が出来るでしょう? その時間でその人と話すことができたら楽しいですし、たとえ話せなくても、好きな人との沈黙だったらそれさえも愛おしいから線香花火って、誰かとするからきっと楽しいんです。私も最近ようやく分かりました」

 情けないことに、とちょっと照れながら言う。すると菊の線香花火の火が落ちてしまって、彼は落胆の声を零した。俺のやつはまだ落ちてなかった。もうとっくに終わってるかと思ってた。
 しかしすぐに俺のも火が落ちて、2人を仄かに照らしていた灯りがぱったりと消えてしまう。菊は俺の線香花火を受け取ってバケツに入れた。じゅっ、と鳴く音がした。

「アーサーさん」

 声の導くままに顔を上げた。菊の真っ直ぐな視線が俺を貫く。

「私にとってのその『誰か』は貴方がいいんです。後にも先にも、アーサーさんだけがいい」

 どくりと鼓動が高鳴って、堪らず息が漏れる。ぎゅうっと胸が締め付けられて苦しかった。

「信じてください。私はアーサーさん以外と暮らすつもりはありません」
菊は」
「はい」

 声は震えていた。

「菊は、嘘つかないもんな」

 菊は一瞬意表を突かれたように目を丸く見開いた後、すぐに優しく細めて、それから口元も柔らかく緩めた。

「ええ。もちろん」

 胸がくるしい。
 菊が新しい線香花火を手渡してくれた。そのとき手と手が触れ合ってしまって、俺は大仰な反応をしてしまった。菊はそれを特に追求することなく火をつけてくれて、またぱちぱちという音と共に微かな光が走り始める。でも俺の手はずっと震えていて、すぐに火が落ちてしまって。菊に「今回は私の勝ちですね」と笑いながら言われてしまった。その笑顔もまた美しかった。

 あの日、菊は「自分は引き止めてしまう、アーサーの幸せを邪魔してしまう」と泣いていた。でも優しい菊のことだから、俺が本当に出ていきたいと言ったら引き止めなかったんだろう。泣くかもしれないけど、決して止めない。でも俺は違う。俺は邪魔してしまう。
 邪魔しちゃだめだって思った。別にまたひとりぼっちになるわけじゃないし、菊は俺のことをたくさん幸せにしてくれたから、菊の幸せを邪魔しちゃだめだって。そう思うのに『もう1人の家族』ってのがどうにも気に障って、菊がそいつに一心に愛を注ぐのかと思うとすごく嫌で。妬ましくて、ふたりぼっちじゃなくなるのが怖くて。でもそれを菊に伝えるわけにもいかないから、1人で気持ちの整理をしようって思ったんだ。

 でも菊は「俺だけがいい」って言った。

 今までは菊といると幸せな気持ちになれた。天使に会えたみたいで、俺の視界はいつもきらきらして、心もずっとふわふわしていた。胸が温かくて、これが家族なんだって、嬉しくて堪らなくて。
 だけど、今は。全身を燃やすような熱がずっと胸を焦がしている。こんな熱は初めてだった。熱くて、苦しくて。それは菊に近づく度に強くなる。でも離れると別の苦しみが胸を襲うからダメだった。どくどくと心臓がうるさい。ずっと正体の分からぬ言葉が喉を焦がしながら突っかかっていて、気を抜けばすぐに口から零れてしまいそうだった。それが酷く恐ろしくて、だけど言ってしまいたい気持ちもある。色んな矛盾がぐるぐると体中を駆け巡って、だけど、ただひとつ。花火の明かりに照らされる菊の横顔がとても美しいという想いは、一貫して頭の中にあった。

 彼を見る度喉が渇く──それは、決して熱帯夜の暑さによるものではない。ああ、こんな感情、俺はしらない。これは一体なんなんだ。