盛霊淵は霜冴ゆる気配に身を震わせた。眠る前は湿った熱気がこもっていた寝室もすっかり冷え込んでいる。肩まで被っていたはずの毛布は宣璣とともに腰の方で丸まっていた。道理で寒いはずだ。
時刻はまだ朝とも夜ともいえぬ頃。冬の未明は薄暗くしっとりとしている。身を起こして窓の外を覗いた盛霊淵は、その異様な静けさと寒さの正体を知った。雪が積もっている。
しんしんと降り積もる雪華は街の姿を白く塗り替えている。盛霊淵はその小さな華を眺めながら追憶に耽った。
あれは何時のことだったか。盛霊淵も宣璣もまだ十になったばかりの頃だったと思う。追手がどこの誰なのかもわからなくなり、ひたすらに逃げて逃げて、生き抜くことばかり考えていた頃。その日も同じように雪が降り積もっていた。
肉体を持たず、精神もずっと幼い彤は、終わりの見えない逃亡生活に塞ぎ込んでいた。だからだろうか。空から降ってくるそれを目にした彼は殊更幼い声で歓声を上げた。
「霊淵! 雪だ!」
彤は雪というものに憧れに近い感情を抱いており、それまでずっと空から降ってくる小さなものはすべて雪だと信じていた。大抵彼が雪だと言うものは灰であり、その度に盛霊淵は雪はもっと美しく純粋できれいなものだと説明しなくてはならなかった。
今回もどうせ舞い上がった遺灰かなにかと勘違いしているのだろうと適当に頷いていたが、盛霊淵が振り向くまで耳元で叫び続けようとする彤の様子に盛霊淵は渋々外に視線をやった。
それは正しく雪であった。盛霊淵の痩せた頬は霜焼けで真っ赤になり、乾いた唇からは白い息が溢れる。曇天の中、地面を白く塗りつぶしていくそれは人々の荒んだ心を覆い隠すように積もっていく。
「雪! 今度こそ雪!」
彤は盛霊淵の横でパタパタと羽ばたき、手を叩く。赤毛の髪を揺らしながらはしゃぐ姿は、盛霊淵の失った子供心をそっと擽る。その声は盛霊淵にしか聞こえないが、なんとなく誰にも聞かれたくない気がして、盛霊淵はそっと唇に人差し指を当てた。
「静かにして」
「ねえ、霊淵。外を歩こうよ」
「寒いから嫌だ」
「そんなこと言わないで。お願い! 雪を踏んでみたい!」
彤は盛霊淵の肉体を通さないと雪を踏む感触を知りえない。初めて見るそれに盛霊淵も少しばかり興味があったので、あくまで彤のためという体で銀世界に足を伸ばした。
まだ柔らかく新鮮な雪は盛霊淵の軽い体重をそっと包む。しく、しく、と小さな足音を立てながら二人は歩いた。
「さむい」
「だから言っただろ」
「でも雪っておもしろい」
彤の語彙力は十歳未満のままで、ときどき意味がわからないことを言った。それでも彼が楽しんでいることは伝わってきたので、盛霊淵は「うん」と頷いた。
「霊淵。雪が食べたい」
「はあ? なんで?」
「雪ってやわらかいでしょ。きっと雲みたいに甘いんだよ」
「お前は雲を食べたことがあるのか?」
「ないよ。でもきっと甘いよ」
「馬鹿馬鹿しい。雪は味なんかしない」
丹离から知恵を授けられている盛霊淵からすれば、雪が空中の水蒸気からできていることは自明の理である。しかし同じように丹离の講義を受けているはずの彤はそれを知らず、それどころか勝手に作った夢物語を信じていた。
「食べたい食べたい! 雪が食べたい! たーべーたーいー! りーんーゆーえーんー!」
盛霊淵は一炷香程無視して歩き続けていたが、放置すればするほど騒がしくなる喚き声にとうとう観念した。
その場にしゃがみ込むと、まだ誰にも踏まれていないきれいな雪を掬って口元に運ぶ。しゃく、と控えめな音を立てた雪は盛霊淵の舌の上に乗るとあっという間に溶けてしまった。
「……よくわからなかった。もう一回!」
彤に言われるまま再び雪を食べる。しかし彤はまたしても首を傾げた。
「変だな。味がしない。霊淵、あっち。あっちの雪食べてみよう」
盛霊淵は彤の指さす方向に向かうと、同じようにしゃがみ込んで雪を食べた。
「あっち! あっちのが甘い! 絶対!」
こうして盛霊淵は彤に言われるままあっちにふらふらこっちにふらふらと歩みを進めては雪を食べ続けた。彤がどこの雪を食べても味がしない事実を受け入れたのは半町(50m)ほど進んでからで、案の定盛霊淵は腹を壊す羽目になった。なによりも気まずかったのは、盛霊淵が雪を食べている姿を見て哀れんだ兵たちが、盛霊淵のために必死になって食糧を掻き集めるようになったことか。
盛霊淵は息だけで笑うと、毛布を奪ってすやすやと寝息を立てている宣璣を見下ろした。宣璣はすっかり大人びてしまって、盛霊淵が兄面をする機会も減ってしまった。しかし、これだけの雪を見たら宣璣も幼心に戻るのでは。
盛霊淵は雪の中はしゃぐ宣璣の姿を想像すると、俊敏な動きで毛布を取り上げ、朱雀族長を夢の世界から叩き起した。午前四時の出来事である。
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