ひさね
2024-12-23 09:06:08
30517文字
Public 当該世界の余録と補遺
 

会議について

本編4話。
かつての仲間達全員と消えた旅について会議する話。

 快晴。昨日と遜色ない程良く晴れた正午。ロイはマリィの手伝いをするとか何とか言って先に出て行ったから、今は一人だった。
 約束通り、見張りの護衛に会釈して城の会議室の中に入る。そこには誰もいない。こつこつと歩いて、会議室に備わったもう一つの方のドアの前に立つ。こちらが外側であるにも関わらず、意外にも人声がガヤガヤ混ざったのが聞こえてきて、思った以上に集まりが良いな、と驚く。それに何をしているのだろう、とも。
 扉をノックすると、カチャリと軽い音がした。それを合図に軽いノブを押して、入ってみれば。
「まさか身分証がなくて入れない可能性が実現しかけたなんてね。盲点!」
「朝から来ておいて正解だったな!」
「人引き摺って朝五時に正門彷徨いてるのは大間違いだろ」
 本当に何の話なんだ。
「シオンだ。昨日ぶり」
 不可解な単語に顔をつい顰めていると、ドアのちょうど前に立っていたレノが声をかけてくる。鍵を開けてくれたのだろう。
 部屋の真ん中にあるテーブルの辺りに人がわらわらと集まっていて、会話も聞こえてくる。久しい顔が集まっていて、自然と顔が綻ぶ。それから漸くソファの位置が昨日と違う事に気が付いた。恐らくロイやマコトがマリィの指揮下で変えたのだろう。三人がけのソファがコの字型に並んでいた。
 既に皆ソファにでも椅子にでも座っているのかと思えば、不思議と一番奥、窓際のソファとそれに垂直になるよう置かれたソファには誰も座っていなかった。
 人集りの中心から鈴が鳴る様な笑い声が上がる。至極当たり前の事を盲点とけらけら言いのけたそれと同じだった。
「身分証とか人を引き摺るとか何の話してるの、あそこ」と後ろ手に鍵を閉めながら、レノに尋ねる。
「結論から言うと、ニア達が朝から半分不審者扱いされながらマリィのこと待ってたっていう話」
「経緯が全然見えなくて困る。あともしかして一番最後に来たの、わたし?」
「うん、そうなるね」
「成る程なあ。意外」
 わやわやと何某かを取り囲む輪に合流しようと、埃が絡まった毛の長い絨毯に足音を吸わせながら進む。丁度わたしごと部屋を見渡せる対面にいた数人がこちらを見やる。
 それを歯牙にも掛けず、話を続ける金髪のツインテールとその隣に座った――丁度入り口に一番近いソファの真ん中だった――長い銀髪の奴は、人に囲われても尚よく目立っていた。
 そのま真正面にあるキラキラ輝く頭部に手を伸ばす。
「てっきりきみ達が遅刻してくると思ってたんだけど」
 パチリ。と、既の所まで伸びた手を払われた。全く視線も寄越さず、流れるようにいなされる。大したものだった。
「ドンケツだからって八つ当たりは止めるんだぞ」
 それから目の前の頭が振り返る。一瞬光った銀糸の髪と眼鏡のレンズがいやに眩しかった。手を振り払った張本人は如何にもな、人畜無害の笑みを貼り付けている。
「八つ当たりじゃなくて気軽な挨拶だったんだけど」
「アイアンクローが? 随分奇特な慣習があるんだな、きみの故郷には」
「挨拶は不審者にこそ有効だとも言うからね」
「顔見知りの筈だし、ケントって名前もちゃんと覚えてると思ったんだけどな」
 はは、と笑声が二つ重なった。それ以外には何もなく、重力に落ちてくボールの様にストンと静まり返る。顔を上げれば、ツインテールを揺らしてこちらの小競り合いをにんまりと見つめるニアと微かに視線がぶつかった。そして視界の端、彼女とテーブルを挟んだソファの下に白い何かが落ちている。
 何だろうと目をやって、漸く立っている面子が多い理由を理解した。
「で、どういう訳でハチをそこに転がしてるの?」
 テーブルの下まで長い白衣の袖が伸びていて、うつ伏せのまま、頭についた茶色い猫の耳以外はぴくりとも動く気配もない。
「ほら、寝相が凄いからさ。ソファの上でも如何なく発揮して、そこに落ちて落ち着いたんだよ。床の上だと途端に大人しくなるし? 床か床以外かの世界で生きてるみたい」
 ニアがパチリとウインクをして指を立てる。相変わらず論点をずらした答えが好きなようだった。
「お、不満そ〜。眉間に皺なんか寄せちゃって」
「こういう顔が見たくてわざとやってるのかと」
「煙に巻けるなら巻くのが悪魔の性だよ。習慣と趣味が半々」
 やっぱり見たいんじゃん、とわたしが言うより早く、彼女はソファの背から腕を伸ばし、立てた指でわたしの眉間をつつく。思ったよりも痛い。
「要は、質問が遠回し過ぎる」
……じゃあ、どういう経緯で、誰がハチを運んできたの?」
「うーん、及第点!」
「こいつ本当に腹立つな」
 自然に溢れた言葉に、「わっ、こわーい」と彼女が間延びした口調で賑やかすように笑うので、深く深く息を吐き出す。既に肩の辺りが重くなってきていた。
 一方のニアは一頻り揶揄い終わって満足した様子で、ゆっくりと話し始める。
「ハチって絶対昼まで起きないじゃん? ケントとあたしはバックレる可能性があった訳だし。だから早めにこの国に着いて皆揃って来たかったから、大体五日前には出てたんだよ。相互監視も兼ねて一緒に列車に乗ってさ」
「ちょっと待ってくれ」
 奥のソファの背もたれの裏で突っ立っていたマコトはあれ、と首を傾げる。
「一昨日、じゃなくて四日前か。四日前に会ってる筈だろ」
「お、そうだねえ。会ってるよ」
 絶対に求められた返答ではないと分かった上でケラケラ笑う彼女に、マコトの視線が狼狽える。辿々しく、「ええと」と意味の無い声を折々重ねて、それでも質問を形作った。
「だから、その。出発日と会った日と、到着日が噛み合っていないんだが、何をしたの、かと」
「あー、そういう事!」
「白々しいなあ。お得意の転移でしょ。死角取るのに良く使ってるやつ」
 ニアが余りにも下手な演技でも中々見ない程、大仰に頷くので思わず口が出た。彼女は直ぐに頬を膨らせたが、瞳は細めたままだ。反応さえあれば満足する、そんな根っからの愉快犯だから何でも良かったのだろう。
「答え取られちゃった。でもそういう事」
……じゃあ何で、いや、何故? 態々戻って行ったんだ」
 わたわた言葉を選ぶマコトの反応に、ニアはゆらゆら尻尾を揺らしている。大層ご機嫌なようだ。答える声も弾んでいる。
「それはね〜、あたしの沽券に関わるからって所かな?」
「と、言うと?」
「事前にここに着くまで相互監視を約束してて、途中離脱したら怪しいし、ちょっと問題でしょ? 流石に」
「その観念はあるのか」
 全くその通りだ。
 ポツリ、と戸惑ったように呟いたマコトに、わたしは頷く。
「妙な所で律儀だから良く分からないよね。悪魔らしいといえば悪魔らしい」
「でしょ〜? なんなら、この手の朋輩の中じゃ意外と良心的な方だよ」
「そんなもんか?」
「言った事だけがちゃんとした約束になるとか、さっきみたいに言った事だけにはしっかり答えるとか。契約だけにはちゃんとしてそうな所は、らしいよ」
 だが、現実。
 ぐるりと回ってくる前に、余計な考えだと気が付いた。息を吐いて、思考をあるべき方向へ向け直す。
「と言うよりも」と言葉を継ぎ直して、話題を戻す。
 一瞬、ニアが左目を眇めて微妙な表情をしたが、見なかった事にした。
「お隣の国って列車使えば一日で着くでしょ。そんな日数見る必要ある?」
「列車がちゃんと機能してればね。でも、ここと違ってあそこは物騒だから」
「物騒なのは前からじゃない。それでも列車が動いてはいるから奇跡だって持ちネタだったじゃん」
「それが、この所何時にも増して苛烈になっちゃってね。列車なんか毎日倒れ放題だよ。その日も例に漏れず脱輪して、途中で放り出されちゃった。幸い砂漠は抜けてたからマシだったけど」
「毎日が大事故じゃん」
 何があったのか。気になったが、頭を振る。今の主題ではないのだから、深く聞く必要がない。それほどの大事故であれば新聞にでも載っているだろうし。
 大きく頷いて、会話を続ける。
……成る程ね。だから早めに出る必要があったと。徒歩や、きみ達の事だから上手い事言い包めて荷馬車に乗ったりすれば、今朝ぐらいには着くから」
「人聞きが悪いなあ。でも、そうだよ。歩いたり、方向が同じ荷馬車に乗せてもらったり、色々した。ハチが起きていられる内は、あたし達がこっちに向かうのを確認してもらいながら歩いてもらって、夜の内は寝てるハチをカキとケントが運んで、を繰り返して漸く着いたのが今朝ってワケ。ふふ、無事到着したのも協調性ってやつかな?」
「ニアは何もしてなくない?」
「えー、やる事やってたよ。身元の照会を誤魔化したりとか?」
「協調に寄与はしてないでしょ、流石に」
 漸く事の全容を掴む。成る程、目を瞑れば鮮やかに見えてくる。協調性から想像されるものとは程遠い光景だが。
 ピクリとも動かない一人を人攫いさなから人を引き摺るのが二人。それを見つめながら、気まぐれで隠した羽根を出してふわふわ浮いて鈴声のような笑い声を上げるのが一人。早朝と言いつつ街頭がついていないだけの未明というべき頃に、そんなあからさまな不審者が三人。そんなのを見つけた城の警備には同情を禁じ得ない。
 あれ、と眉を上げる。
 不審者が三人? 二人ではなく?
「カキも居るの? カキと来たの?」
「勿論。身分証持ってる奴がいた方が良いとか、三人で空中分解しても仕方ないとか言ってついて来てくれたぞ」
 な、とケントがニアがいる方とは真反対の左に首を傾げる。恐らく視線も向けているのだろう。正しい所は、頭を見下ろす事しかできない自分には分からないし、興味もない。
 それを辿るように目をやれば、カキがこじんまりと座っている。丁寧に切り揃えられた黒髪が、彼の早すぎる隠居先での暮らしを物語っていた。引き篭もり過ぎている訳でもなく、上手くやっているのだろう。
 カキはケントの言葉にコクリと頷いて、それから先は何も言わなかった。寡黙な彼らしい返答だった。
 問題児三人を気に掛けるのも、性根が真面目な彼ならば分かる話だ。ケントなんかと親友をやっているのだから、尚更。
 尚更、三人には言いたいことが募るのだが。
「深夜の密入国に一般人を巻き込むの、神経が相当どうかしてる」
「ああ。だから入る時は別行動だぞ。カキと一応ハチが先に手続きとかやって。深夜でも役人がいて凄いんだぞ」
「元々、身元さえ証明できれば出入りできるし。……身分証がなくても真面目に受け答えしていれば、全然どうとでもなるぐらい緩いよ、本来は。物流を夜に回す以上、いないと困るんでしょ」
 その分この国の中で法に触れようものなら、というのは置いておく。
「こっちは身分証明がなくても出入りし放題だけどな。昼も夜も役人がいないから」
「そんないかつい事になってるんだ。お隣さん。前はどこかの門に一人いたのに」
「最近は下っ端から首落としてて凄いぞ。この前は三人やってたし、どんどん増える見込みだな」
「いかつ過ぎない? 一年でそんな変わる……?」
 道草にのめり込みそうになって、寸前ではっとする。まただった。本題はこれではない。この部屋に仲間を集めた主目的もこの話の中にはない。
……まあ、いいや。新聞でも読んどくよ。載ってるでしょ、流石に」
「さあ。文字を読めないぼくに聞かれてもな」
「現代語は読めないの間違いじゃなくて?」
 そう言えば、「何を求められているか分からないな」とケントは肩をすくめた。至極詰まらなさそうに。
 わたしはわたしで腕を組んでふん、と鼻を鳴らした。ただ、一年で激変した事情も、真実であるならばという前提になるのだが、後ろ髪を引かれる気持ちがなくはない。そんな邪念を振り払うように咳払いを一つした。
「で、残ったニアとケントはどうしたの」
「時間空けてから入ったぞ。しれっと」
「あたしと一緒にね」
 到頭ソファの背から身を乗り出すニアに、そこに満面の笑みを乗せるものだから、一歩小さく身を引く。
「そんなに身元を明かしたくないの?」
「だって自分で明かして、相手が認めたら誰でもない者が誰かになっちゃって面白くないじゃん」
「自分の事を悪魔って言うのは良いんだ?」
「あは。それはいーの! あからさまに胡散臭いでしょ?」
 彼女は細くて、先端だけが菱形になっている尾っぽをゆったりと揺らす。楽しそうに。目を細めて。その暗くて赤い目の奥に、何かを燻らせていた。仄かな愉悦が滲んでいる、と思った。その目は、実に悪魔らしかった。
 だが、現実。
 同時に、少し前、思考しかけた事が再びぐるりと脳内を巡ってくる。
 現実、彼女は悪魔ではないのだ。
 彼女は、悪魔の名を被った「何かしら」なのであって、その「何かしら」というものは不条理に限りなく近い存在であって。そうである以上。
 そうである以上、悪魔らしさというもの、その印象を抱える必要はない。誰にも、その役割を求められてはいない。
 だが、彼女は後生大事に抱えているらしかった。
 彼女を見ていると言い得ないものが喉の奥に溜まる感覚がある。
……結局の所、意地でも密入国した奴が三人、じゃなくて二人いるって事なんだけど、殿下としてはどう思います?」
 この喉の塞がりも密入国者達にとんと呆れたからだと結論付けて、窓際のマリィに顔を向けた。青い猫目を少し目を丸くして瞬いたかと思えば、ゆるりと細める。
「お二人らしいと思いますよ。黙認されている事を嗅ぎ付けて、遠慮なく利用する所は、特に」
「いえーい、褒められちゃった!」
「褒められてはいないぞ」
「人の嫌がる事を進んでやるっていう意味だから誉められてるよ」
「物は言い様だな」
 適当な事をつらつら述べながらはしゃぐニアとそれを窘めるケントに、どちらもやった事は同じであるものだから、ほとほと呆れて、マリィを見つめる。
「他所の事にはとやかく言わないようにしているのですが。どんな国であれ、国家である以上、主権は等しいですから。この様な前置きをするのは誤解を与える振る舞いを避けたい、と言うのもありますけど……この国の仕組みとして、公然の事実であるし言ってしまっても差し支えないでしょう」
 マリィは不満気な顔一つも見せずに、わたしが向ける不躾なものを丁寧に拾い上げて、丁寧な王族の理論を口にした。その傍ら、隣を陣取るロイの頭を撫でている。
「この国は密入国者であっても許容します。シオンさんが仰った通り、緩やかな規制である以上、それを体良く利用される事も織込み済みで、その上でそうしています」
「ま、自覚してなきゃあんな刑罰、用意してないもんね?」
 きゃらきゃらとニアが笑う。同時にマリィの言葉が途切れた。何か言いたそうになるのを堪えるように唇をピッタリと閉じていた。
 そして、結局、彼女は頭を横に振った。言っても詰まらない事だと捨てる様だった。
 反面、ニアは話し続ける。
「そんな規則にいっつもお世話になってるからさ、だから今日は素敵なお土産も持ってきたんだよ。丁度良く、行きに見つけたからさ!」
 景気良く笑っているが、ニアが座っている辺りを見ても、物が置いてある様子はない。何時もの出任せなのだろうと、ため息を吐く。
「明らかに手ぶらで来て良く言うよ」
「あはは。明日か、早ければ今晩には分かるよ」
 意味深長な台詞を吐いた途端に、かさり、と音がした。衣擦れの音だった。その発生源に目を向けようと、自然と床の方を見下ろす事になった。
 茶色い頭をガバリ、と起こした少年がキョロキョロと辺りを見渡している。その頭の上でぴるぴると、何よりも目立つ三角の猫の耳が動いていた。糸の様に細い目の中に何が映っているかは不明確だったが、集まった面々の顔を一つ一つにゆったりと顔を向けて、全部にそうしたかと思えば、ふにゃりと笑った。
「おはようございます〜。着いたんですねえ、何とか」
 寝起きのふわふわした声が悠長に響いた。
「さて」
 ハチの声を聞き届けるなり、マリィはぱちり、と手を鳴らした。皆、彼女に顔を向ける。わたしも例外ではなく。
 一瞬にして視線をすべて集めたマリィは、全く狼狽える事なく、すっと目を細めて、堂々たる振る舞いで宣言した。
「歓談の時間も惜しいですが、皆さん揃いましたから、本題に入りましょうか」
 彼女の言葉を皮切りに漸く会議が始まる。

 ***
 
 草臥れたソファに全員が座ったのを一瞥してから、マリィはコの字型の、口が開いた部分に置かれた椅子に座る。ロイは隣のハチの膝の上に大人しく収まっていた。
 皆、妙に黙っていたから、スプリングの軋む音だけが響いた。
「さて、略式ではありますが早速本題に入りましょうか」
 そして彼女は今日の主目的を話し出す。
「本日お集まり頂いたのは、件の旅の事に関してお話を改めて伺いたいと思いこの場を設けました。今回の主題は、旅そのものを覚えているか。覚えているならどの範囲まで覚えているか。以上になりますね」
 今日の主目的を一通り説明したマリィに、対面のニアが「はいはーい」と手を挙げて、司会たる彼女の許可を待たずに口を開く。
「十一人集めた割に話す事は少なめじゃない?」
「適宜皆さんで質問したり対話したりして頂こうかと。皆さんは皆さんで現状を把握できますしね」
「成る程。今日のノルマとしては詳細を伏す、なんて体裁上出方を伺った結果を詳らかにしたいって事かな」
「ニアさんとハチさんに関してはそうですね」
「おや」
 ニアの赤くて丸い目がまるで驚いた様にぱちくりと瞬く。それから、悪戯っぽく口の端を持ち上げた。
「他の人なら話は別だったりする?」
「いえ、個人的に気になる事がありまして。正式な調査結果としてはきっと使わない、詰まらない事なのですが。気になった以上は様子を見るのも良いかと思って」
「成る程ねえ。じゃあ嘘は吐かない方が得策だったり?」
「ふふ、語りたい様に語って頂ければ構いませんよ。ここでは嘘も偽証も不問に付しますから、安心してお話し下さい」
 全員の出身とは全く別の国の権力下に置かれた集会の割に大層な前置きにどよめく、と言う事もなく、皆一様に静かだった。
「嘘を吐く必要なんか」と誰が呟く。ニアがケラケラ笑うのと被さって最後まで聞こえなかった。
「一番手札が揃ってる人の余裕だねえ」
「ご謙遜を。別の方面にはきっと明るいのでしょう? ご協力頂ければ助かるのですが」
「あはは。それは皆の語り次第という事で」
 マリィの言う別の方面とは何なのか、ふと疑問に思う傍ら、ニアはぱちりとウィンクをした。そして話は進められていく。
「本来は司会が一番最後に意見を言うものだけど、別に拘らなくて良いでしょ? 目的はあたしとハチと……後はシオンかな。そこへの情報共有がメインな訳だし、僭越だけど、主催のマリィから話した方が話しやすい事もあるだろうからって、こっちから指定して良い?」
「勿論良いですよ。とは言っても皆さんご存じだとは思いますが」
「ま、ここで明言する事自体が重要だからね。あたし達含め。じゃあマリィから反時計回りで話してもらおっかな。丁度あたしが一番最後になるし」
 誰も異論はないようで、皆黙って頷いた。それを一瞥したマリィが簡潔に話し出す。
「予めお伝えした事の繰り返しにはなりますが、わたくしは旅の事は全く覚えていません。旅に出た事すら記憶にないです。覚えていたのは皆さんの事、ぐらいですね」
……旅の事改めて知った経緯とマリィがやりたい事って皆に話したの?」
 わたしの確認に彼女はしっかりと頷いた。
「ええ。それも含めてちゃんとお話ししました通り、こちらで管理している資料があった事、それが大部分白紙になっていた事、他国でも同様の状態になっている事、その白紙の部分をあり得そうな範囲で記述するのが目的である事。皆さん、相違ありませんよね?」
 全員、概ね彼女の「個人的調査」の段階で聞いていたのだろう。特段、これといった異議も質問も挙がらなかった。昨日マリィから聞いた事は全員の共通事項だと思って問題ないようだった。
 それは結構だが、本題に入ってから皆、妙に神妙な空気でいるのが引っかかる。が、一年ぶりの事、しかも自分も含め何か大部分を忘れている蓋然性が高い事物をはっきり話すとなると、こんな空気になるものなのかもしれない。結局の所、わたしにはよく分からないが、そうなっているのならそういうものなのだろう。
 誰に向けた訳でもない言い訳じみたものを考えていれば、ニアに目配せされて、自分の番が来たと悟る。
 何処まで話して良いものか、吟味しながら言葉にしていく。
「わたしは覚えてるよ。魔物が出てきてからの顛末も、出てきた原因も全部。覚えているからこっちに来た、と言うかロイに連れて来られた」
「つれてきました。あ、わたしもしおんとおなじで、ぜんぶしってますよ」
 いえーい、とハチの膝の上にすっぽりと収まっているロイがピースサインを掲げる。
「へえ。じゃあどういう目的で連れてきたんだ? そこの吸血鬼を」
 ケントが過剰な程の笑みを貼り付けてロイに尋ねるのを繁繁と見ていた。
「まりぃによばれて、しおんをつれてきてほしいって、たのまれたからです」
 ロイはマリィに目を合わせて、長い袖を口元まで持っていてくすり、くすりと笑った。どうやら彼女自身の仕事は伏せるらしい。依頼人がそうする意向ならそれに従うまでだった。
「招かれざる客って訳でもないんだな」
 ケントが吐き捨てた台詞に、よせば良いのに、ピクリと眉が上がる。
「暫定顔見知りに酷い言い草」
「あ、招かれなきゃ入れないんだっけか? 吸血鬼って」
「そんな風説信じてんの? 相変わらず化石みたいなステレオタイプかざしちゃって」
「紋切り型を持て余しているのはきみの方じゃないか? 死ななくて捨てられないから」
「わあ、ふなかっぽい」
 ロイの楽しそうな言葉で、舌先まで出てきた台詞をごくりと飲み干した。銀髪の奴の頭から足先まで一瞥してから、親指で指しながら、ふいと顔を逸す。
「最近気が付いたんだけど、わたし嫌いなんだよ、此奴」
「奇遇だな。ぼくもきみの事嫌いだったんだぞ。つい最近の発見なのも同じで。なんだかな!」
 わたし達が言うなり、「だろうね」とか「やっと?」とか、主にニアの爆笑が湧いて困惑する。ニアはともかく、やっとって何だ。やっとって。
「最近なんだ? 前からやり取り変わんないのに?」
 訝しむように低い声音でレノが呟いたので、周りの反応にそこそこ同じぐらい不服だっただろうケントが食い付いた。勿論、わたしも噛み付く。
「いや、変わったぞ。前はここまで棘なかったし」
「リアルファイトもそこまで意識してなかったよ」
……つまり、前から多少の棘はあったし、リアルファイトも若干は意識してるんじゃん」
 論理解釈として正しい訳ではなかったが、なまじ事実ではあったため、お互い黙る他ない。傍から見れば、分かりやすい事この上ない。ニアの笑い声が一層激しくなる。「これ、今日一かも」と宣って、止まらない声を止めようと息を荒くしていた。
 これぐらい明瞭だった事は理解していた筈だった。それでも、互いの不和を認め難かったのは何故だったのだろう。どちらも体裁を気にする質ではないし、実態を皆も良く知っていたのだから、隠し立てする理由もなかった。
 漸く動きを見せた空気の中で、発信源としては気まずくて仕方がないわたしは、ケントがさっさと次へ進めるよう顎で示したのもあり、ずっと何も気に留めてない、穏やかなままのハチを見やった。糸の様な目では何が見えているのか一見して分かるものではないが、頭の上の猫耳がぴるりと動いたので、わたしの視線に気が付いたらしい。
「はいはーい。ぼちぼち話す、と言っても一先ずそこまで話す事はないんですけど。なので、ニアさん、頑張って声抑えてください」
「が、頑張る」
 ニアがひいひい言うのが収まった頃合いを待って、それから、ふう、と一息吐いてから淡々と話す。
「自分は、まあ、他の人の様子を知りたいので一旦スキップで。……今思ったんですけど、これって殆ど答え、言ってませんか?」
「明言はしてないからね。論理的にはここまでやっておいて何も覚えてない可能性も大いに成立するよ」
「流石に傍迷惑過ぎるって」
 軽口を叩くニアに苦笑する。そんな事が現実になっていたとしたら、わたしの当ては完全に外れてしまう。それに何より、前例のない事実、きな臭い事柄にすら化けるのだ。そちらの方が原因が明確になるだけ、法則よりマシであるには違いないが。
「じゃ、次ボクね」
 ハチを挟んだ向こう側に座っていたレノがつつがなく引き継ぐ。
「ボクも覚えてるよ。シオンほどちゃんとはしてないけど。人体の目とか口とか、最終的には内臓をぶら下げてる魔物が出てきたのとか、親玉を倒して凱旋したとか。魔物が出てきた原因も誰かから聞いたけど、内容は思い出せないや。親玉の真相とか、肝心な事は覚えてなくて、凄く……前よりモヤモヤしてる。マコトもそんな感じだよね」
「おう。その親玉とかに攫われたのも、じめついた地下牢も、牢屋の割に見張りが居なかったのも覚えている。……原因については全く記憶にないが」
「聞いた記憶もない感じ?」
 食い気味にニアが尋ねて、マコトは手を揉みながらおずおずと頷いた。「ふうん」と彼女は呟いて、さながら熟考でもするかの様に口元に指を当てた。
「じゃ、攫われた後の事。レノに聞こっかな」
「ボク? ……どこまで話せば良いの?」
「どこまででも!」
「一番困るやつじゃん」
「じゃあ脱出する時の事にしよう。したんでしょ? 脱出」
「してなきゃ今ここに居ないからね」
 レノは腕を組んで、首を斜めに傾けて、慎重に粗筋からはみ出ない様にしようとしてか、ゆっくりと言葉を選び始めた。
「脱出ねえ。まあ、マコトがさっき言った通り、見張りが居なかったし、丁度ハチの馬鹿力もあったから。檻をメリメリってこじ開けて一旦外に出たよ」
 ハチの名前が出た途端、マコトの眉がぴくり、と動いた。
……シオンがデウテさん、大賢者と城もろとも爆発させたんじゃなくて?」
 怪訝そうに彼はレノに尋ねると、「それは二回目」と話者は目を丸くして、それから、ああ、と小さく呟いた。何かに気が付いて、腹落ちしたような声だった。
 レノは淡々と話を続ける。
「脱出は二回あった、と思ってる。ボクの記憶の中では。力業で出ていった一回目と、…………半分食われかけた後に大爆発で無理やり出された二回目。どっちも力業じゃんね」
 彼の言葉に一切の間違いはなかった。
「半分食われかけ、か。よく覚えてたね。その表現」
 鮮烈が過ぎて公には伏せようと決めた相手方の狼藉すらちゃんと覚えている!
 過度に正確な記憶で、うっすらと気味悪かったものだから、からから笑う様に揶揄ってしまう。あんまりにあんまりなわたしの心情を知ってか知らずか、レノは至極呆れたように腕を組んだ。
「強烈過ぎるの。うっかり忘れたくなる位には!」
 そう言い捨てながら彼は、べっ、と小さく舌を出す。
 周りは黙ってレノの話に耳を傾けていた。誰も口を出さず、何故かテーブルの向こうのケントすら不可解そうな顔をしていた。うなじがぴりりと痺れた気がした。
 ニアとハチ、ロイだけが頷いて、現状を飲み込んでいるようだった。
「ここらへんの、余り気分良くない話。核心の部分は、マコトもあんまり覚えてなさそうだね」
「ああ。……二回、出てたのか。外、というか、城の中に。確かに核心だけ抜けてるかもしれないな、オレ。……本当に覚えてるか自信なくなってきたんだが」
「核心以外は覚えてて話が合うんだから、十分覚えてるって言って良いでしょ。そもそも、ここの詳細はあんまり話してないから今気が付くのも仕方ないって。……ここら辺、感覚麻痺してても本当に気分良くないし!」
 手応えがすっかりない周囲の反応にも案外取り澄ました様子で、レノはニアの方を見て、彼女の表情にうわあ、と零しながら大きく息を吐いた。
「それに、多分これ、ボクが例外でしょ。ほら見て。ニアが滅茶苦茶にまっにましてるもん」
 ほらほらと囃し立てて、ニアを指さす。それに従って見れば、彼女は先ほどの熟考するときの指を口元に当てた仕草のまま、口の端を思い切り吊り上げていた。レノがいの一番にうめいたのも理解できた。
「あはは。だって、想像以上に面白い事になってるからさ。どうしよっかな~って」
 品定めをする様に、目を閉じるか閉じないかぐらいまできゅうと細めてレノを見ていた。それは何かあくどい事を思い付いた時の表情そのものだった。その気まぐれが大勢の役立つ方に向かっていれば良いのだが。
 およそ望めそうもない願望を持て余しながら、わたしは昨日確認したことを改めてこの開けた場で明らかにしようと、質問を口にした。
「で、二人が認識している内では、何時から皆、旅の事を忘れ始めたな~って思っているの?」
 レノとマコトは一回顔を見合わせてから、それから意図に思い当たったのか、二人声をそろえて言う。
「半年前」
「前兆らしいもの、変わった事は特になかったんだよね」
「うん。特にないよ。こっちは至って平和だった」
 レノがきっぱりと、昨日と同じように断言すると。
 不可解さで静まり返っていた空気が、一瞬どよめいた。視界の端でカキの眉がピクリと動いていて。ニアですら丸い目を更に丸くしていた。
 一瞬間前まではそれなりに明瞭だったこの場が、途端に不可解さに包まれる。
 何か、わたしの知らない事が、あるらしかった。
 ニアが口を開いた。心底驚いた時の声の震えが、始めだけ微かにあった。
「ふうん。ないんだ、なーんにも」
「うん。半年前に原因がよく分かんなかった事とか話ってないでしょ。ボクが聞いてないだけかもしれないけど」
「まあ、確かに。その手の話はないよ。……成る程ね、りょーかい」
 レノの返事を聞くなり、ニアはふふん、と鼻を鳴らして尻尾を揺らし、話を終わらせた。どうやら何かを理解して、満足したらしい。またにまにま笑っていた。彼女だけがこの不可解な集会をずっと楽しんでいるようだった。
「ハチは特にない感じ?」
「あー…………そうですね、今すぐ聞きたい事は特にないですー」
 くわあ、と欠伸をする。こちらはこちらで、伸びやかで気ままなままだった。ハチを見れば自然とロイも目に入る。彼女はぱちぱちと瞬きをするだけで、黙って目の前を見据えていた。彼と同様に、乱されている様子は一切なく、彼女の中の思考に集中している様だ。子供らしくない横顔だ、と思った。
「皆さんは何かありますかね? マコトさんに向けたものでも良いですよ」
 ハチの尋ねれば全員、それで我に返ったかの様に、首を横に振る。
 半年前の事。わたしが知らない何かがあるのか。聞こうと思ったが止めた。レノが言う所では、それは旅の喪失と関連がないように思われたし、半年前の出来事ではわたしの忌々しい執筆活動の題材にはなり得なかった。
 それに、知らなければいけない事ならば、何時か白日の下に躍り出てくるだろう。そういう事物は、何時も齎されてきたのだから。自分で選んで、掴めた事は一度もない。
 辺りを一瞥して、ハチは一つ頷いた。
「じゃあ、次にいきましょうか。次は……マコトさん? ソウさん?」
「オレはレノの所で言ったし、質問もないなら重ねる理由もないだろ。ソウで良いんじゃないか」
 マコトは真っ黒な法衣を着た、その身分に見合ったような下がり眉で穏やかそうな顔つきの青年に顔を向けた。
「大体話す内容決めてるとは思うんだが。行けそうか?」
 ソウと呼ばれた法衣の青年は話し出すまでにたっぷりと間を取って、それから、はは、と困った様に笑いながら頬を指で掻く。
……ちょっと、色々覚えている人の話を聞いた直ぐ後だから、全然追いついてないんだけどね。倒してきた魔物っていうのも、経験してきたものっていうのも、おれが覚えている事から想像したよりずっと陰鬱だったみたいで」
 彼のゆっくり話すための癖とゆったりとした言葉の間に、わたしの意識もこの場の懐かしさを思い出し、あの不可解さから漸く帰ってくる。
「別に、親玉以外は鬱! って感じじゃないよ」とレノ。
「世界が何か、大変だったらしいけど。でも一番最後に聞いた事だし、そんな使命とか大層な事も時間も考えないで、好き勝手やってたんだから、ずっと愉快だったよ」
「確かに、愉快だったとも思っているよ。魔物の事は覚えてないけど、旅の合間、宿とか野宿した時に思った事、言われた事はちょっと覚えているから」
 例えば、とソウが口にした瞬間、白っぽい両目と視線がかち合う。それから直ぐ逸れたかと思えば、牧師がしそうにもない冷笑をうっすらと浮かべた。あからさまに嫌な予感がして、早くも顔を明後日の方向に逸す。
「平気で腕吹き飛ばしながら戦う連中がそこそこ居るとか。その一人に自爆特攻が癖の奴がいるとか。彼女曰く、最終くっつくなら飛ばした方が得、だとか。本当に。本当に面白いよね」
「戦闘ジャンキーが多くてごめんよ」
「最後通告なんだけどそれが答えで良いの?」
……本当にごめんなさい」
 ソウに圧をたっぷりと掛けられては逆らえない。色々と制約の多い回復魔法とは全く違った力で怪我の治癒をする、仲間に引き入れたら絶対に離してはいけない存在だったから元々弱い方だったが。何時ぞやに暗い森の中、一応計算づくで飛ばした腕を、諸々の事情で心労が溜まっていた彼に中々厄介な所に投げられて不便な思いをして以来、こうも圧を掛けられてしまってはすっかり敵わなくなってしまった。……そもそも彼を酷使するような真似をした自分の非が大きいし、ちゃんと後ろめたいからでもあるのだが。
「そんなバイオレンスな所、ボク見た事ないんだけど」
 レノがきょとんと首を傾げるのも無理はない。はは、と苦笑を絞り出してレノの疑問に答える。
「レノとかミカとか、特別な理由がない未成年の前ではやらないようにしてたから……。流石に不味いじゃん、人体が欠損する所を見せるのは。まあ、魔物のせいで全部台無しなんだけど」
「その分別はあるんだ?」
「あるよ~、流石に」
「最低限ではあるけどね。深夜に事後報告してくるし」
「この節は、本当に申し訳なく思っています。本当に」
 ふらふらわたしが言及から逃げるのを阻止して満足したようで、ソウはゆったりとした口調に戻してレノに言った。
……でも最低限の線引きだったから、やっていけたのかもしれないけどね。おれだって同類なんだろうし」
「同類って……まあいいや。戦闘とか魔物関係ない部分は大体覚えてるみたいな感じだけど、そう捉えて良いの?」
 レノの言葉に、彼は困ったように眉を下げて首を横に振った。
「ううん。覚えているのは本当に旅の主目的から離れたちょっとした事ばっかりだよ。そこから連想した事と、後は経験則で推測しているだけ」
「経験則って……」と呟いて、レノはちょっと躊躇った様に目を伏せた。それから深呼吸を一つして、顔を上げる。
「じゃあ、旅を陰鬱だって思ったのは何で?」
 きっぱりと尋ねたレノにソウは小さく笑った。
「陰鬱でもないと変われそうになかったから」
 そう呟いて、隣の少女をちらりと見やる。すると、気が利く彼女はそれに気が付いて、茶色い中に金色の星が覗く瞳をぱちり、と瞬かせる。それから彼女は元気の良い満面の笑みを浮かべて、頷いた。
「分かった。ちょっとわたしの話を挟ませてね。わたしはソウくんと覚えている傾向は同じだよ! 日常系って言うのかな。冒険しているときじゃなくて、宿とかで共同生活している時の事はちょっと覚えているみたい」
「例えば?」
 わたしが聞けば、長い髪を結わえた少女――ミカは指を立てて何を話そうかと瞳を右上に逸らす。数秒「うーん」と考えた後、ぱちっとわたしの目線に彼女に棲む星を合わせてきた。
「例えば! シオンちゃんの本の整理を手伝っていたら珍しい装丁の本を見つけたとか」
「そんなこともあったね。人皮装丁本がうっかり見つかった奴」
「そうそう。装丁の意図も、最終的に博物館に寄贈しちゃったのも、貴重な経験で面白かったよ」
「親友の糧になったならそれは良かった」
 ふふ、とはにかみながら朗らかに笑った。そして、ミカは日常について話すのに相応しい、和やかで穏やかな雰囲気のまま話を続ける。
「ケントさんの料理を食べようとしたらケントさん本人に止められた事もあったな」
 絶句。ケントの料理というワードに周囲も困惑気にざわつき始め、突然引き合いに出された当事者も眉を潜めている。何故そんな事を、と考えるのは皆同じらしい。が、わたしの親友はそんな様子を気に留めずに可愛らしく笑っている。
「ちょっと待って。何でそんな死に急ぐ真似をしたの?」
「こればっかりは本当に同感だな。よく分かんないんだぞ」
……ふふ! 今日は秘密」
 口の前に指を立てる彼女にいやいや、と首を振ると、彼女はそれをぱっちりとした目で見た後、さらりとスルーしてケントの方を向いた。意外にちゃっかりしている所があるのだ。苦笑しつつ彼女の先の言葉を聞く。
「それにケントさんには教えたから」
「何の話だ?」とケントは何時もやる風に何とも思っていない思案顔で頭を傾ける。だが、彼女はそれも流していってしまって、「きっと分かっているかなって。念押しだけしようと思って、それだけ!」と告げた。ケントは顎に手を置いて、瞼で半分ほど細めた目をミカから逸らす。厄介事を見なかった事にする様に。
 周りはカキを除いて、ケントの料理の事で好き勝手、本当に自由奔放に話しているので、この会議の体裁を被った同窓会は一番の盛り上がりを見せていた。
 一人、輪から離れているカキを見る。彼は周りの軽口にも重たい口をそのままにして、わたし達が座るソファの、その後ろの辺りをぼんやりと眺めていた。後ろには窓枠ぐらいしかないので、窓の外でも観察しているのだろうか。半月のような黒々した目が合うのが何ともなしに気まずかったので、ミカの方へと戻す。
「それで! ここから本題なんだけど」
 軽口の切れ目に台詞を巧妙に差し込んだ彼女は、再び視線と沈黙を一身に受けて、話を進めた。
「わたし、宿の中の事は結構覚えていて。だから確かめたい事があって。それがレノくんの質問に繋がってくると思うんだけど」
 笑顔を絶やさないミカは、この時も人懐っこい笑みを浮かべていて。
「皆、誰にも言わないで抱えていた事があったよね?」
 随分クリティカルな事を聞いてきた。
 沈黙が急に重くなった、気がした。全員、それを感じたのか、眉を下げて困った様に微笑んでみたり、訝しげに眉間をピクリと動かしてみたり、腕を組みかえたり。何処か落ち着きがなかった。澄ましていたのは秘密がある事自体、通常運転な隣人とお向かいの二人位なもので、何時も通り遠巻きに眺めている様だった。
 言わない事がある。常に足元に何かを潜ませている。そんなやや剣呑な空気、胸襟を開かない性質は世界を確かに救った後でも変わりがない。
「それは」とおずおず開口するマコトを殆ど遮る形でミカは続ける。
「言わなくて全然大丈夫だよ。あるかないかだけが問題だし、大体わかったから満足!」
……質問の意図は?」
「んー、何だろう。旅の始まる前と終わった後の状態とか変わった事は覚えているのかなっていうのが、それかな。旅だけを忘れているのか、そうじゃないか、忘れた範囲の特定にもなりそうだね。様子を見た感じだと、変わる前、変わった後の自覚はあって、本当に旅の事だけ抜けているって事で良いのかな」
 眉を下げて苦笑する彼女の言葉に誰も答えない。それをミカは肯定と解釈した様で、満足気に小さく頷いた。
「それで、ここからソウくんとレノくんのさっきの話に戻ってくるんだけど」
 そして彼女はソウの顔を見上げた。両目の星が部屋に差す光を受けて、爛々と金色に光っている。
「後は、流石にソウくんが話すんだよね?」
……そう言うなら、そうしようかな」
「もう! 質問だって同じだったから、ソウくんが聞けば良かったのに」
「はは。ミカの方がちゃんと効くと思って」
「もしかして事前に段取りを決めてた感じ? 質問の内容把握してたみたいだし」
 わたしがふと気が付いた事を口にすれば、ソウは腕を組み直してあっけらかんと「そうだね」と答えた。
「嘘がなしじゃないなら談合もなしではない、よね?」
「開き直っちゃって! 腹が黒いね〜」
「悪どくはないでしょ、悪どくは」
 弁明と言うには薄っぺらい意見をソウが言うと、マリィはただにっこりと目を細めた。そして沈黙。
 要するに、この場の主人が認めたのなら何も言える事はない。
 紛う事ない追い風を受けながら、ソウはレノを見て言った。
「旅が世界に関わるって話は終わりまでなかったんだよね?」
「うん、そうだけど。……それが?」
「仮に、そういう使命感とか言い訳があったら、抱えるものを抱えていられたのかなっていう話。皆、公私をきっぱり分けるから」
……まあ、確かに切り替えはできるとは思うけど」
 話が見えない、と眉を顰めるレノにソウは職業柄、問答には手慣れていたために、そして核心に入りやすくするために、和らげた声でゆったりと話す。
「そこに世界が入ってくると、仕事とか使命とか、公の色が濃くなってくる。そして、秘密にして抱えるものは文字通り私的なものだよ。大概、自分を内観すれば出て、開けっぴろげにすべきものじゃない。例えば、やけに強迫的なこれからの身の振り方、進退とか、それを考えた時の妙な焦りとか。逆に終わった事に対する郷愁と罪悪も仲間だね。とにかく自然には言わない事が当てはまる訳だけど」
 ああ、とレノが小さく呟いた。眉間に寄せていた皺はなくなる代わりに、左目を眇める。自分の経験から納得も理解も出来るのから苦々しいと自嘲を含んだ様だった。彼の様子をちゃんと双眸に認めた上で、ソウは教会の説教染みた調子で悠々と続ける。
「それが陰鬱に引きずり込むって分かっているから、世界なんて大義名分が目の前にあったら、持ち込みすらしなかったんじゃない? 何ならその大義名分を、明らかに邪魔な私情から目を向けないために都合良く使ったし、旅に一年も掛けなかったでしょ。公私をきっぱり分けるから」
 以前は、その公で、自分から進んではしなかったシニックな物言いを憚らないソウに、レノは軽く息を吐いた。それから後は分かり切った理屈を聞くだけか、と眠たげな眼を取り繕わず、真っ直ぐ法衣の青年に向ける。分かっている事を先取りして詰まらない諸事を断ち切らないのは、律儀な彼らしい。
「話を聞く感じ、一年でも早い方だとは思うけど。ともかく、自己内観しない以上、陰鬱になる事もなかった。その代わり、持ち込んでいないから、終わった後に残るものは変わらずに残ったままだろうけど、現実そうではない。と言うのは、マリィが良く分かっている筈、だよね?」
「ふふ、そうですね」
 確信に至っているからか、ソウの話の振り方には迷いがない。急に話の引き合いに出されたマリィもつつがなく、朗らかにソウの言葉を肯定した。
「訳もなく開き直れる程、わたくしの人間も理性も出来ていません。矢張り、経験がなくては。それにここで会ってみて皆さんの雰囲気も随分変わったな、と思っているんです、不思議と。出会ったきっかけはすっかり抜けてしまっているのに」
 彼女は彼女で、消えた旅をちゃんと喪失した立場として話を求められる事を予測していたのだろう。言葉への迷いがなかった。王族といい、聖職者といい、人の表に立つ役目を負う者は、勿論良い意味で頭と口が良く回り、大したものだと感心する。旅の当初では二人とも、明瞭に話さないようにと専心していたのだから、尚更感慨深い。
「と言う事で、一通りは分かって貰えた……みたいだね」
「うん。要は嫌な事が何とかなった自覚と、そのきっかけと労力を消費した時期が空白の一年に結び付けられたからって事でしょ。ある意味まとまった時間でもあったしね。マリィのお墨付きまで付いたから、良く」
 いとも簡単に纏め上げたレノに、彼は元の困った様な笑みを向けた。たっぷりと彼独特の間が空いて、それからゆっくりと頷く。
「なら良かったよ」
「微妙な間が気になるなあ」
「はは。まあ、ゆくゆく分かるだろうから良いかなって」
……何だろう、そういう牧師っぽい所、いや、含み? 初めて見たかも」
「それはちょっと辛いなあ」
 ソウは苦笑して、つとケントの方を見やる。ソウが話を始めてからずっと話者の顔を凝視していたのに、話者本人も気が付いていたのだろう。そうとなれば尋ねない訳にもいかない。
「で、ケントは何か気になる事でもあったのかな」
「あるにはあるぞ。ソウだけというよりマリィにも。でも、後でで良いや。話が長くなりそうだしな」
「あら、わたくしも。ふふ、面白そうですね」
……おれ個人としては余り受けたくないんだけど」
「え! 酷いぞ」
「いや、きみの質問って足元見られている気分になるからさ。実際見てるし」
「ぼくはそれでどうこうする腹黒じゃないんだが」
「うん、まあ……。悪どくはないんだけど。悪どくはないだけなんだよね」
 率直に含みに含めた物言いをするので思わず笑ってしまった。それでケントから向けられた目は何時も通り鋭いが、今更気にもならない。足元を見ている事自体は否定しないのが実に賢しい奴だった。何だかんだソウもそれを拾い上げたからため息を吐くし、隣のニアも若干笑っているし。
 笑みを含んで煽るのも一興だったが、それでは収拾がつかなくなる。ただでさえ遠回りをしている会合がこれで終わらなくなっては詮無い。だから浮かんだ言葉をぐっと飲み干して、ケントの隣で今日は一言も発していないカキに声を掛けた。
「それで、カキはどう?」
 半月の弦を真横にした様な目がこちらを見つめる。それから微かに首を傾けて、言葉を選んでいるらしかった。それでも目線は外さないまま、案外間を空けずに彼は口を開いた。
「覚えていない。貴女に関する事は忘れたくないと言った手前、心苦しくはあるが」
「本当にお別れの時の言葉だね。変わらず熱烈で何より。皆の事は覚えてた?」
「ああ。……程度としては概ねマリィと同様の状態だ」
 簡潔簡明に答えながら、吸い込まれる程真っ黒な目がふと外れてケントの方へ向けられる。それを受けた本人も朗々として「ぼくも」と続いた。
「ぼくも覚えていないんだぞ。ちょくちょく覚えている前提で話が進んでたけど」
 辺りがまた一瞬ざわついたが、それもすっかり耳に入っていなかった。口元がひくついて不快だとは感じていた。
「嘘過ぎる」
 思いがけない台詞に知らず知らず尖った声が出て、ああ駄目だなと一瞬で先を悟る。でも出てしまったものは今更取り戻せる訳もなく。わたしの言葉だって待っていた様に、うっすらと笑みを浮かべた彼奴は矢継ぎ早に言葉を重ねていった。
 こうなれば、自棄でも既定路線に乗るだけだった。
「ちょっと、皆して夢を見過ぎなんだぞ」
「訳の無い事だとは思わないけど。鏡で顔見たら?」
「穴は七つあるし、何処に問題が?」
「大体全部」
「何を根拠に?」
 それから、衝撃的とはいえ自分も全く冷静ではないな、と頭を押さえた。
 そう、全く彼の言う通りで。対外的には嘘と言える根拠がない。そんな掴める様な尾は出さないから厄介だった。でも。とは言え。逆接ばかりが頭の中を席巻してどうにも抑えが利かない。確証自体はある。あるからこそ厄介だ。理由も端的に言えない訳ではない。言えない訳ではないが、整合性があるか、全員に理解される内容かと言えば、突拍子もないものだった。
 要するに。
……提示出来ないから腹立つ」
 分が悪いのである。
 相手の眼鏡の奥で光る目を見ていると思考がまとまらなくて、それにむかっ腹が立ってどうにもならない。沸き立つ気持ちに逆らえないから、すっと立ち上がった。心配そうにカキがわたしの顔を見上げる。何か気の利いた事でも、と思ったが肝心なときに言葉は出ないもので。だから、曖昧に笑うしかなかった。
「ちょっと頭冷やしてくる。隣の部屋で。丁度一周したしニアとハチ借りてって良い? ちょっと話しながら整理しないと大分駄目」
「お、あたしとハチも? 良いよ、あたしも身の振り方考えたいし付き合ってあげよう」
「呼ばれたから行きますよー」
「ふふ、良いですよ。丁度議題自体は一通り話しましたし、後は……後回しにしたケントさんの問いでも聞こうかと思っていましたから。そこにシオンさんが気になる事がないなら、ゆっくり返答を考えて下さい」
「有難う。気にかけてもらってアレだけど、大体大丈夫」
 引っかかる所は大体分かるし、とはあえて言わなかった。それこそリアルファイトになりそうだったと言うのもあるが。
 じゃあ許可も出たから、と行こうとすると、袖をくいくいと引っ張られた。目線を下ろせば、まだハチの膝に乗っかったままのロイが言った。
「わたしもいきます?」
「や、ここで話聞いてて欲しいかな。後で教えてよ、何話してたか。ここ離れて一年経ってる訳だし、色々と気になっている事はわたしもあるし、ロイもあるだろうしさ。……余り厄介な暴走はしないで貰えれば」
「やったあ。いつもよいこだから、そこはもんだいありませんよ」
……う~ん、まあ、うん! そうだね、よろしく頼むよ」
 既に昨日、かなりエンジンを飛ばしていた様な気がしなくもないが、なかったことにして頷く。ソウが大分、かなり気まずそうに目を逸らしたが、それも気にしない。
 そんなわたしとは裏腹にロイはご機嫌にぴょんとハチの膝から飛び降りた。
 そして、のそのそ立ったハチと、何時の間にドアの前に立っていたニアを見て、大分テンションが高くなっているなあと苦笑しながら、マリィの後ろを横切っていく。その時、わたしを見るカキの目が気の毒そうな色を帯びていて、また視線がかち合えば少し申し訳なさそうに微かに伏し目になった。
 気に病まなくとも良いのにな、と思いつつ部屋を後にした。

 ***

 ぱたりとドアを閉めるなり、少し冷えた空気が鼻先を掠める。狭苦しい隣室とは打って変わった広い空間と長い机、整然と並んだ十以上ある椅子。密室性を重視する必要性がなければ、ここで話していたのかもしれないし、もう少し酸素も頭に入れやすかったのかもしれない。
 頭に上った血で火照った顔を冷ましていれば、ちゅんちゅんと鳥の声が閑散とした部屋に響いていた。未だ昼下がりで、壁にかかった豪奢な時計盤を見るに、時刻は二時半頃を示す。時計が良く手入れされているのであれば、既に二時間以上使っていたのか、と微かに驚いた。人と話すと目に見えて時間の進みが早く、体感だけが追い付かないのがもどかしくもある。
 今は使われていない暖炉の前に二人がいるので近寄った。そして、訳はないが声を潜めた。
「彼奴、嘘。凄い嘘過ぎる事言ってたけど、どう思う?」
「いやはや、面白いね。派手に嘘吐いてて! 想定以上で、来て良かった」
 けらけら、鈴が鳴る様な声でニアが笑った。その言葉通り、会合中、レノの発言の一瞬間を除いては、唯一ずっと楽しそうにしていた彼女らしい振る舞いではあるが。
「妥当というか、想像に難くない範疇ではありますよね。特に意味無く場を引っ掻き回すのが好き……と言うよりもそうする性質がありますし、ケントさん」
「ハチの分析は確かなんだけど。でも、それにしたって今、嘘を吐く理由が分からない。……皆が皆忘れているなら、体裁上は? 分からなくもないけど? 何で? 今なの? レノとマコトの話聞いてたよな彼奴」
「まあまあ落ち着いてくださいよー」
 ハチが暖炉の前に一脚だけ置かれていた椅子の背を持って、そのまま百八十度回してわたし達の方に向けてどっかりと座った。城の中の振る舞いとして、中々大胆で、そういえば何時もそうある様にしてきたよなと感化されて、わたしはわたしで長机に腰掛けた。立ち話は矢張り、疲れるのだし。ニアは先程からにまにまし通しで暖炉を背に鼻歌でも歌い出しかねない様子だった。要するに非礼を諫める者がいないのだ。この中には。
「とりあえず、さっき出た話を整理すると」とハチが話し出す。
「レノさんとマコトさんが概ね旅のあらすじをちゃんと覚えていそうで、覚えている精度はレノさんの方が高い。次点でミカさんとソウさん。こっちはあらすじよりも、そこから外れた、旅と比較してみれば細々した事を覚えていそうですね。そして覚えていない、自称を含みますけど、そういう人がマリィさん、カキさん、そしてケントさん」
「マリィが来た時点で完璧に消えてないな、とは察したけど。まさかレノ程ちゃーんと覚えている、というか旅の存在が消えてない人間が居るとは思わなかった!」
「そうだよね、わたしも昨日聞いて驚いた。……一応確認だけど、二人は残っているんだよね」
「そりゃあ勿論」
 ねー、とニアがぱちりとウィンクすれば、ハチもふんふんと頷いて呼応していた。予測通りの返答にほっと胸を撫でおろす。
「良かったよ。二人とも覚えてなくても、雰囲気を呼んでそれっぽい挙動できそうだから、本当に良かった。……本当に!」
「これって遠回しに厄介って言われてる?」
「遠回しじゃなくて直接的に厄介って言ってると思います」
……二人も忘れていたら、それはそれで気が楽だったんだけど。明瞭な原因があるって断言できるから」
 思った以上に感傷的な響きを持った言葉に、ニアはまた笑声を上げた。ずっと笑いっぱなしで疲れないのかと見当違いの方向に思考をくゆらせながら、背もたれに体を預けようとして、ふと机に背もたれがある筈がないと思い至り、慌ててバランスを取り直す。それを見た彼女はまた笑った。
「まあね。人間だけ忘れるなら自然法則、世界の仕組みだから仕方ないって言うしかないけど、あたし達も忘れれば明確な事件だもんね。それこそ魔術とか、ケントが乗り気で首突っ込んできそうな奴。それに、事件なら取り戻せる蓋然性も高いし」
「ニアの言う通り。本当に何で、って言うだけ無駄だけど。どうしても、言わずには居られない」
「天も雑だよねー、人間には不条理な喪失を押し付けて概念、存在、エトセトラ。根こそぎ掠め取っていく法則を適用するのに、人間以外は蚊帳の外。おまけに今回は回収が雑と来た! 人間以外にそんな所見せつけて、本当に何がしたいんだか」
「人間であれ、人間以外であれ、何もする気はないんじゃないんですか。理由はないか、あったとしても太陽が眩しかったとか、星が白かったからとかですよ。不条理って厄介ですね」
「はは、言えてる」
 ハチのほのぼのした口調に似合わないニヒルな発言に、ニアは緩く腕を組んで頷いた。
 二人ともさっぱりとした語り口だった。諦観がない。その点で割り切っている、とは異なるが、でもそれをどう表現すべきか、どう飲み込むべきか分からず、喉元に靄が溜まっていく。不快感。何となく、昨日から感じているもの。わたしの直感があまり考えないよう言ってくるし、それが今は妥当だと思う。ソウの言葉を借りる訳ではないが、今は陰鬱になっている暇はないのだ。
 だから、それに目を向けまいと口を開く。
「でも、なった以上は仕方がないし、目下の問題を考えないと。ニアとハチが回答を伏せた理由も知りたいし、レノの発言の時の空気を踏まえると半年前何かしらは合ったらしいし?」
「ありゃ、気が付いちゃった?」
「鈍くても流石に分かるって」
「あはは、でも教えてあげない」
……一年ぶりに故郷ある土地に戻って来たひとにそれは酷じゃない?」
 極々素直に不平を述べればニアは閉じた口に人差し指を当てた。尻尾がふらふら揺れている。
「じゃあ、あったよ。とだけ言おうかな。それ以降は本人に聞いて確かめなよ。あたしの発言っていうのも信憑性に難がある訳だし?」
 丁度窓から陽が差し込んで、ニアの金髪が煌めいた。
「信憑性に難がある程の事件が起きたとか?」
「さあ。本人が何もないって言い切っていたからね。それだけ詰まらない事かもよ?」
 煙に巻かれている。意図せずとも大きなため息が出た。大したしらばっくれ様だった。
 こういう時のニアは梃子でも動かないし、話も適当に躱されていく。ツインテールを揺らしながら話すかわいい見た目に似合わず、性根は頑固な女だ。契約や商機につながる何かを提供しない限り口を割る事はないのだろうし、わたしもそんな身を沈める様な真似をしたい訳ではない。
……答える気がないのは分かった」
「分かって頂けて何より」
 彼女は口元に人差し指を置いてにっこりと目を細めた。それから「さて」と彼女は手を叩いて、話を続ける。
「あたしとハチが回答を遅らせた理由だっけ?」
「それは教えてくれるんだ」
「ここで完結する話だもの。教えてあげよう」
 ニアの中に一定の基準があるらしい事だけが分かった。それ以外の事は分からず、それでも手持ちの情報が増えるのであれば今は御の字であるのだろう。言いたい事を腹の中で制御しつつ、黙って続きを待つ。
「あたしが言わなかったのは、単純にマリィが来た時点で情報がなかったから。旅が消えた事は分かってたんだけどね。まさか人が尋ねに来るとは思ってないから、この時点で十分面白かったし教えても良かったんだけど」
「でも回答期限を延ばした」
「そう。マリィが皆の事集めるつもりだって言ったから、何か厄介で面白そうな事になってくれれば良いなって思って!」
「愉快犯が過ぎる」
 輝かんばかりの喜びに満ちた答えに閉口する。「ですよね」と隣の椅子から同調する声も上がってきて、彼女は口を尖らせた。
「ハチも大体似た理由でしょ?」
「情報がないから言わなかったのは正しいですけど、厄介そうな所を感じたからこそ、自分は気乗りしなかったんですよー」
……ハチって割と好きな方じゃなかったっけ? こういうの」
 記憶の中では、ぶかぶかの白衣を身に着けている通り、彼も彼で研究者気質で好奇心がそそられる事にはすぐに首を突っ込む方だった。今回も、自然法則から外れた現象が目の前で起きているのだし、協力的な方だと想定していたのだが。
 そんな疑問がわたしの顔に浮かんでいたのか、ハチはわたしを見るなり猫耳をぴるりと逸らした。
「今回は別です。好奇心より厄介そうなのが勝つので。今日のを見た感じ、尚更」
「その心は?」
「一点目に今日の部屋が密室過ぎる事」
 背もたれに体を預けすぎて、半分ぐらい寝ているような大変リラックスした姿勢で彼は白衣の袖をまくり上げて、黒くて鋭利な指を一本立てた。彼にしかないその禍々しい手を出されて、気を引かれない者は早々居ないだろう。暢気そうで、実際暢気で、それでも自分の見せ方を分かっている仕草に応じて彼の言葉を待つ。
「マリィさんの目的、失われた旅の経緯、原因、要因をまとめた報告書。シオンさんが書いた奴ですね。それを復元するのが目的って言ってましたけど、だったらこの部屋で集まって話せば良かったんじゃないですか。態々あの小部屋を使う理由が分からないです」
「それだけこの資料作りが漏れないように警戒している……って解釈したんだけど。国が資料を持つって重大な事だし」
「だとしたら、この部屋の前にマリィさんの所とここの護衛でもつけて人払いをすれば良いじゃないですか。今やっているみたいに。そもそもの問題になった報告書の白紙化はこの国も、お隣の国も、勿論マリィさんの国だって把握している訳だし。復元するにあたり、その内容に含まれるものに関して話はつけていると思いますよ。事前に共有しておかないと何が何処で爆発するか分かりませんし、そこは抜かりないかと」
 かつかつ、と掲げているのとは逆の手で椅子の手すりを爪で叩きながら、ハチはちょっと首を傾げた。
「その割に会議の冒頭で不問に付す事柄を挙げてみたり、今、自分達を外に出すのを許可したり。ええ、シオンさんの理屈だと、今この状況そのものが変ですよ。自分達がここでこの件を話さない訳がないって分かり切っているじゃないですか。だってニアさんが身の振り方を考えるって言って、止めなかったんですから」
……ああ、確かに。機密性を担保するムーブとしては不徹底だね」
「ええ。でも全員をあそこに集めた以上、機密自体は必要としている様です。だとしたら、恐らく別の意図があると踏んでいます。それが何かは確信がないですが」
 人の裏を掻いたり、読んだりするのは性に合わないものだから、ハチの指摘を聞いて初めて妙な動きをしている事に気が付いた。同時に彼自身が渋った理由も腑に落ちる。ハチは二本目の指を立てて続ける。
「二点目にマリィさんの護衛が表立っては居ない事。……マリィさんが護衛を付けずに行動する事自体は珍しくないですが、護衛がいても今ここや、ましてや隣国に来る時点で結構なリスクがある事ですよ。であれば尚更、護衛を部屋に入れない、部屋の前にも付けない今日の様な集会の許可が下りるとは到底思えません。もっと公であるべきです」
……ごめん。ちょっと良く分からないんだけど。昨日聞いた話では、調査を任されたって言っていたんだけど」
 それで許可がないってどういう事なのか。途端に話が掴めなくなって頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになる。重くて仕方がない。
 首を大きく傾げているわたしに、ニアが言った。
「シオンは一年ここを離れていたからね。背景を補足すると、んー。まず結論だけ言うと、実は今、水面下でマリィの国の人とアリストス家が対立しているんだよね」
「は?」
 思ってもいない名前に掠れた声が出た。そんな話は全く聞いていない。情報を飲み込めていないわたしを置いてニアは容赦なくさらに情報を浴びせてくる。
「ただ表立ってどうこうする程の対立ではないし、現時点でここの摩擦を知っている人は当事者とその周辺とお上だけって感じ。今の所は、って加えておかないといけないけど。色々有耶無耶にしておきたいし、明確な対立要因がお互い出来ていない今この時期なら、マリィも相手が態々厄介な事をけしかけては来ないと踏んでいるんだろうね。というか今しかないから、ここに集めて来たんだろうなって感じ。相手方が良くも悪くも他所の国とか、一般人とかを巻き込みたくない気質をしているのも上手く使っているよ。今日集まった旅の仲間達って相手から見て他所の一般人が多いもの。無駄な軋轢はアリストスと言えど、流石に増やしたくないもんね。特にこの国とは。一見迂闊な様に見えて、ちゃんと一番嫌がる事をしているよ。彼女も」
……その対立要因未満のものは何?」
「半年前、古代では魔術と魔法が区別されていた史料が見つかったんです。そこそこ信憑性がある奴が」
 魔法。その単語に口の端が引き攣った。ハチの耳がぴるりと動く。見られたか、と半ば諦めつつ「魔法ね」と誤魔化すように呟いた。
「魔術と魔法は同じものって言うのが今の定説じゃなかったっけ。区別する説もない事はないけど出鱈目が酷過ぎて少数説だった筈」
……そうですよ。ですから歴史的発見になりますね。史料が見つかったのがお隣の遺跡で、見つけたのがマリィさんの所の人でした」
「で、研究するしないにあたっての所有権争いって所か。アリストス内部の宗教って蓋を開ければ中世の魔法信仰だし」
「あの出鱈目ばっかりの魔法ね!」
 ニアが茶目っ気たっぷりに皮肉って言うものだから、ため息が出る。ちゃんとした魔法、因果を捻じ曲げるろくでもない代物を知っているからこそ出る反応だろう。つくづく厄介だ、と脳裏で考えつつ、「それが相手にとって都合の悪い史料だったんでしょ?」とハチに尋ねた。
「そうですよ。魔術師が魔法使いを虚仮にしているものでしたし」
「わあ。それは黙ってないだろうね。そりゃ対立もするよ」
 どんな史料かと思えば、そんな適切でクリティカルなものでは、一周回って乾いた笑いが出てしまう。成る程、確かに対立を社会的に表面化させるには正当性がないが、片や学術研究の自由、片や家の伝統と面子が掛かっているのなら正統性はあるのかもしれない。
 そんな片方でも満たされる状況であるのならば、何かがあればあっという間に瓦解する微妙な状態だ。到底マリィの、資料作りのためだけの調査に許可が下りるとは思えない。そして護衛が表向き居ないとなれば。
「今はまだ水面下だからマリィの独断でこの国と上手くやっているか、あるいは本国で資料作りより重大な何かを仰せつかっているかって事か」
「どちらにせよ厄介ですよ。これは、かなり。とはいえ情がない訳ではないし、何処かしらの権威は確実に絡むので、自分は程々にしか関わりたくないです」
「んー、黙ってる方が面白そうだから、あたしもそうしよっかな。聞かれたら答えるけど、聞かれなきゃ答えない感じで」
「最悪なムーブしようとしてるひと居るんだけど」
 厄介だろうが、国が絡もうが、全く動じる事がないニアの豪胆な愉快犯気質に苦笑していると、この会議室の扉がばたん、と大層な音と共に開いた。つかつかと早足で、これも音を立てながら、この部屋の前の護衛が一直線にあの小部屋に向かい、そのドアをノックした。誰かを待つその間、一瞬わたし達をちらりと見て眉を顰めたが、こちらが礼も何もない完全にリラックスした佇まいなので無理はない。ハチなんかほぼほぼ椅子に溶けた様に横になっているし、三人して摘まみ出されないだけ温情だ。何にせよ随分慌ただしい様子だった。
 ちょっと気まずい間の中に、小部屋のドアを開けて出てきたのはマコトだった。護衛と二、三言葉を交わして、護衛の方が先に去っていく。去り際にまたこちらを見られたが気にしない。
 時計を見るに三時過ぎだ。解散を呼びかけるには如何せんまだ早い。
 護衛と同じ様にわたし達を見て苦笑するマコトに「どうしたの」と声を掛ける。
「急に仕事の話になって、今から行く所だ」
「今日休みになってなかったの? それだったら出る所出ないと、マリィ居るし」
「や、元々休みではあったんだが。こう、本来の仕事が急に明日入ったから行かねえと駄目な奴で」
 本来の仕事と聞いて、ああ、と腹に落ちる。緊急で、しかも明日と既に日付を出している辺りで、彼の事情の輪郭を掴む。
 大方、特別裁判絡みだろう。この国では罪を犯した異邦人に対する罰則が厳しく、捜査から裁判までもやたら早い。相手の態度次第では一日で終わる事も、珍しくはあるのだが、ない訳ではない。この強硬姿勢がマリィも認めている所の緩い入国規制を裏打ちするものであった。
 そしてその刑罰たる処刑を担うのがマコトの本来の仕事だった。異邦人と、他に話題性が高い事件、地位の高い者を除けばそう気軽に出る判決ではないので、ここの処刑人と呼ばれる類の公務員は、平常時は警察機能を担っているし職務内容が内容なので休暇も取り難くはないらしい。
 ただし、ひとたびそういう判決が出てしまえば覆されるのであるが。
……気苦労が絶えないね。何と言うか、人に振り回されるから」
「まあな。もうちょっと大人しくして貰いたいわ。特に他所から来るなら。……今回は、まあ、内も関わってるし前々から色々進めてたから、特別早過ぎただけではあるんだが」
「首切り役人も大変だね。異邦人の特別裁判次第でスケジュールが一気に乱されるから」
「こら」
 明らかに揶揄以外の何物でもない言葉を吐くニアを静止する。仕事に思う所があるマコトもため息を吐きつつ、呆れた様にニアを見る。
「それ、外の奴に聞かれたら流石に摘み出されんぞ。伝統的なのを好む連中は意外と多いし」
「そうなったらこの前みたいにささっと飛んで帰るから大丈夫」
「大丈夫ではないだろ」
 ぱちりとウィンクするニアにマコトは遠い目をする。そういえば四日前に職場に突撃されたという話を思い出した。何故彼女と彼が会いに行ったのだろうか、とふと疑問に思う。
 しかし、それを尋ねる程の時間はなく、マコトは軽く手を挙げてこの場を後にした。
 扉が閉まったのを確認すると不意にひゅうと風が切る音がして、がたがたと窓が揺れた。思わずそちらを見る。外は変わらず快晴で、ただぴゅうぴゅうと揺れる窓越しに聞こえる風音が妙に強い。遠くで何かがひらひらと舞っていた。
「いやー、本当に大変ですね。最近、場所も変わったみたいですし」
「何の?」
「処刑場ですよ。町の外れの森と言うか林っぽい所でやるようになったんです。人倫がどうとか、衛生がどうとかで中央の広場じゃやらない方針にしたみたいです」
「成る程」
「早朝にやる事自体は変わってないので、うす暗い中馬車走らせて向かうみたいですよ」
「おかげで見物客もがっつり減ったね。一応見たい人向けに、運賃取って車走らせてるみたいだけど。建前上は林の側にある駅に向かう途中の停車場の一つって名目で」
「や、それは流石に明け透け過ぎて評判悪いでしょ」
「実際悪いよ。お金を払ってまで見たいかと言われたら見たくないし、大体初めからやる方も見世物にされたい訳じゃないし。となると結果的には仕事する身内に配慮したみたいになるね」
「結果論ですけどねー」
 けらけら軽薄に笑うニアに、 ハチが立ち上がって椅子を元の場所に戻しながら付け足した。二人の反応にわたしから足せる事はないので、ただ苦笑を向けておくだけにした。
「じゃあぼちぼち戻りますかね」
「さんせーい」
 結論も出たし、マコトも出ていってしまったし、どうやら解散ムードになったようだ。二人が小部屋の方に向かうので、わたしも机から降りて二人について行こうとしたら。二人が急に振り返った。何だろうと思っていると、ニアが気まぐれに瞳を瞬かせて悪戯っぽく言った。
「特別にもう一個教えてあげようか。故郷帰りで情報が少ない状態じゃフェアじゃないから」
 何の話か、と身構えながら、それでも情報は欲しいので頷く。すると彼女は、優しく、何処か憐れみを含んだ笑みを湛えた。余り、彼女からは見る事のない表情で、胸の奥底が嫌な冷えと共に騒いだ。
「あの発表で、皆、嘘を吐いたか、嘘とは言わずとも言っていない事があるよ」
 目を見開く。
……何故?」と知らず知らず漏れた言葉にニアは肩をすくめる。
「さあ。それが本題に関わる大事か、それとも極めて個人的な些事かも分からないし。済んだ話だから言わないだけかもしれないし。ただ全員、足元に何か隠しているよってだけ。一年は長いからね」
「それが何かは、教えてくれない、よね」
「だってまだ分からないから。気になるなら自分で探り当てて、本人に聞いてみなよ」
 淡々と告げるニアの言葉が易々と飲み込めない。だって、この場でそんな事をしたって。どう考えた所で。
「理由も意味も無さすぎる」
……それが三点目ですね。皆さん揃ってそうする説明が付かないのが、自分が関わりたくない一番の理由です」
……厄介だな」
 想定以上に大事になる予感と、腹の探り合いを求められた衝撃とで眩暈がしそうだった。この集会が終わったらロイに話す事にしよう。取り合えず今の所は、表層だけ攫う事にした。
 方針を整理する傍らでハチが白衣の袖にしまった手でドアノブを回すと、簡単にドアが開いた。鍵をかけなかった辺り、主催者の本題はとっくに済んでいたのであろうか。思考が逸るわたしの顔に風が吹きつける。ぎゃっと驚いて目を瞑って、それからおずおず薄く瞼を上げると丁度窓際に移動していたケントが窓を閉めていた。片手には大判の紙を持っていた。
「何もってんの」
「外で飛んでたから取れないかなと思って取った奴だぞ。近くに魔術やってるタイプの学校もあるし、そこから方向転換するなりして飛んできたとは思うんだが」
 ケントはぺらりとしたそれを机の上に置いた。そういえば外で何か飛んでいたな、と思い出しながら机の上を覗きに行く。
 黒々した大きい見出し字に、同じように刷られた人の顔、程よく詰まった小さい字。人身売買をした売人とそれを示唆した成金を死罪にした旨が書かれている。新聞の号外だった。
 マコトが出ていった折に仔細を結構詳しく話していた理由がわかった。既に情報として抜かれているのなら、機密も何もあったものではない。公然の事実であるのだから誰も咎めはしまい。
 人を売るなど、ここでそんな事をすれば刑は免れ難いと言うのに何故そんな不合理な真似をするのかほとほと分からないな、と目を離した時。ハチがぽつりと言った。
「昨日の荷馬車の。夜盗に襲われていた人ですね」
 途端に空気が冷え込んだ。昨日の荷馬車とやらに乗った当事者以外は、目を見開いてハチを見る。当事者は微妙な顔で紙面を見つめていた。
 その中で字が読めないケントだけが「どうしたって?」と暢気に尋ねた。
「死罪ですって」
「ああ! 成る程な」
 ハチの極めて端的な答えに、同じように短い一言でケントは全てを済ませ、訳知り顔でにこっと笑った。レノが「こわ……」と呟いたのも聞こえなかったのか、聞こえなかった事にしたのか、相好を崩したままである。笑える話でなくとも笑うのが彼奴なので、そこは今更気にしないが、それでも何かが引っかかる。昨日乗った馬車がそういうものだった、というのが状況として出来過ぎていた。しかもマコトの話では大分難航していた捜査だったと言う様な口ぶりで、それが今日突然見つかって捕まるというのも、違和感ばかりが募る要因だった。
 内心首を傾げていた所、ぽつり、とニアがわたし以外には聞こえるか聞こえないか位の声量で「思ったより早かったな」と呟いた。
 手土産の話を思い出す。明らかに手ぶらで話すニアは、早ければ今日の夜にでも分かると言っていた。そして最後まで荷馬車に残っていたのは誰だったか。
 嫌な推理が過って、誰もが紙面とケントを見ている内に、こっそりと彼女を見下ろす。彼女も彼女でこちらを見上げる所で、赤い瞳とぴったりと目線が合って。
 彼女はウィンクをした。飛び切り、かわいらしく。わたしの内心を掬い取って、認める様に。
 二人して、大した手土産を持ってきたものだ。感嘆、ではなく嘆息ばかりが出る。