恭介が、たくさんの握り飯を作ってくれた。皿に次々と置かれてゆく握り飯を、了は椅子に座って眺めていた。炊かれたばかりの白米の甘い匂いがする。あたたかい湯気がぼんやりと漂っていた。
「そんなに作ってどうするんだ」
たずねると、男は指の間に挟まった米粒を舌で拭った。
「食べるんですよ」
と、当たり前のように言ったので思わず首をかしげた。
「誰が……」
「あなたと私が」
またも当たり前のように言うので、了も食べられるような気がしてきて、ふうんと相づちをうつ。一皿によっつほど置いてあるのが、三皿。おひつに入っていた米はもうきれいになっていて、一粒も残ったものは見当たらない。おひつの中を覗き込んでいたところを、恭介は持ち上げて流し台に置いた。
今日は執筆を休むと一週間前から決めていたから休んでいるのだけれど、すっかり忘れていて机に向かっていたところを彼が見つけたのだった。「今日はお休みでは」と聞かれたので、先ほどになってようやく思い出したのだ。
「ああ、書きたいものがあれば」
「別に……締切りはまだ先だし……」
かたちのない、ふにゃふにゃとした言葉で呟くと恭介は台所に入っていった。そうして握り飯を作り始めた。
どうすれば良いか分からなかったが、彼は「座っていてください」と伝えてくれたので大人しく座っている。自分が握り飯をつくろうものなら、三角形が四角形になるので手を出さなかった。薄い右手首を左手でさすっていると、恭介がちら、とこちらをうかがった。
昨日の夜からなぜだか筆がのってしまって、恭介がくるまでまで執筆していた。脳内に途切れることがない言葉を指先が勝手に文字にしていた。セルロイド製の万年筆を使った。先生から贈られたものだが、たまにしか使っていない。了はだいたい鉛筆を使うけれど、日によって万年筆を使う時もある。文字を書くときのこだわりはあまりない。書ければ良い。それだけだ。
「なあ」
こちらに背を向けて洗い物をしている男に声をかける。「はい」と応えたが、おひつを洗うのに専念しているようだった。視線をさまよわせて、皿に載った握り飯を見下ろす。ただ呼びかけただけなので、特に言うべきことが見当たらない。石けんの澄んだ匂いがした。洗い終わると、今度は冷蔵庫からたくあんと紫蘇で漬けた梅を取り出した。今度は酸っぱい匂いがしてきた。白米が食べたくなるような、空っぽの胃を刺激する匂いだ。
それを机の上に置くと、恭介は南側の椅子に座った。
「いただきましょう」
「……腹減ってたこと、知ってたのか……」
男は頷くそぶりを見せなかったが目をそっと細め、「三食、決まった時間に召し上がって欲しいとはまだ言いませんが」とほんの少し、笑ってみせた。
「いずれ朝昼夕、きちんと食事をして頂きたいですね」
「……食事は」
居心地が悪そうに、了は視線をうろうろとさせた。食事は大切な決まりごとではない。了の中では。それを知っているのか、恭介は細長い指先同士を絡めた。
「でもあんたが、作ってくれるから」
だから食べられる、とまで伝えられなかった。
きれいな三角形の握り飯を見下ろした。藻塩の匂いがほんのりした。一皿だけ藻塩をつかったらしい。その一皿の握り飯は、他よりも少し淡い色をしていた。
「いただきます」
男が手を合せた。了もぎこちなく手を合せて、小さな声で「いただきます」と言った。
箸は2膳だされている。いつの間にか買っておいたものだった。いつ頃買ったものだろう。思い出そうとしたら、白米の甘みと塩の塩味で吹き飛んだ。おいしい、と思った。
左手で握り飯を持って、右手で箸を持ち、たくあんを摘まむ。行儀が悪いと言えるだろうけれど、恭介はなにも言わなかった。
沈黙は長く続いたが、たくあんを噛む音はよく聞こえる。ふたりで一皿をあっという間に片付けてしまった。丁度二個ずつ食べたようだった。たくあんや梅も食べたので腹は一杯になった。淹れてくれた緑茶を飲む。ふう、とまぬけな息をついた。
「残りはまた夜にでも食べましょう」
そう言い、食器棚に仕舞う背中を見ながら、所在なさげに指を曲げたり伸ばしたりする。
台所から自室に移動すると、外は白いものがちらついていた。
「雪だ」
炬燵の中に豆炭が入っているのでとてもあたたかい。恭介も炬燵に入って、雪見障子の向こうを眺めた。
頬を天板に引っ付けて外を見つめる。こうするとちょうど外が見えるのだ。この家にはテレビがないので、いつでも静かだった。けれど彼がくるときは少し、音がある。それが嬉しかった。ラジオはあるものの、何年も使っていない。
恭介がそっと了の耳あたりに指を触れた。水を使っていたからか、冷たい。それでもやわらかく触れてくる手にうっとりとしながら目を細めていると、髪に手を差し入れて撫ではじめた。その手があまりにも優しいので、細めていた目が閉じる。眠たくなってくる気もしたが、今寝るのは惜しい。気をつけないと落ちてきそうになる瞼をまた開けて、「恭さん」と呟いた。眠たそうな声になってしまっていたかもしれないが、彼は気分を害すこともなく、ただ「はい」と洗い物の時の声と似たトーンで応えた。
それでもやはり次に続くことばは出ずに、するりと頬に触れてきた手を手のひらで軽く包む。彼の手は自分のものより少し大きい。じっと観察していても、恭介はなにも言うことはなく、ただ了の好きなようにさせている。
自分の顔のほうに手のひらを向けさせると、首を動かしてくちびるを押しつけた。そのまま手のひらをくちびるで撫でるように触れる。そこは、思ったよりも固い気がした。
口付けをするよりもずっと背徳的な感覚だった。
手のひらから簡単にするっと抜けた恭介の手を視線で追う。赤ん坊が火を見ても躊躇わず手を伸ばすように、了は天板から顔を上げて恭介の胸もとに手のひらを当てた。心臓の音はシャツ越しでは感じられない。のろのろと顔を胸に近づけようとすると、両頬を手のひらで包まれた。手はいつの間にかあたたまっていて、心地がいい。
口付けを何度かするうちに、頭の芯がぼんやり熱くなってきた。
「ん」
触れるだけの口付けでもあたたかくて心地いいが、その先を無意識に望んだのか恭介のくちびるの線を舌でなぞる。恭介のそこはあえなく開いて、舌を招き入れた。粘り気のある音が薄い膜の向こうから聞こえてくるようだった。最後にもう一度、くちびるを合せ顔を離す。互いの吐息が熱い。
そのまま恭介の胸に頭を寄せても、今度は優しい手で遮られることはなかった。心臓のあたりに耳をあてると、規則正しい心音が聞こえてくる。安堵の息を吐いて、目を閉じた。炬燵のちょうどいいあたたかさと、恭介の優しいあたたかさを感じる。さらに彼が頭を撫でてきてくれるので耐えきれず、一度大きく息を吸って深く吐いたあと、眠り込んでしまった。
夢を見た。
幼いころの夢だと思うが、あんまりにもぼんやりとした記憶でなにをしているのか、なにを言っているのか分からなかった。
ただ先生の親友だという男が本を読んでくれていたシーンだと思う。
言葉もうまく使えなかったとき、辛抱強く発音を教えてくれた。うまくできたときは大きい手のひらで頭を撫でてくれた。
恭介の手のひらよりももう少し大きかった。それでも彼のほうがもっと優しい。
――もっと。
もっと近づきたいと、思った。
彼は優しいから手を伸ばせばそれがなんであれ、握り返してくれる。そのあたたかさに心の底から安心している自分がいた。恭介に甘えているのだと自覚はしている。けれど、これをどうしたらいいのか分からない。甘えたままでいいのか、それともこれ以上甘えないほうがいいのか分からない。普通というものが、分からない。
あたたかくて優しい。泣きたくなるくらいに。こんな情けない自分なのに、彼は咎めもせず傍に居てくれる。それが嬉しい、と思った。
どうかその手を離さないで欲しいとも思った。
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