伊予
2024-12-21 14:26:17
4624文字
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遣らずの雨たれと

大有 Bルート後
新木場さんに対する後ろめたさが様々ある大崎 という想定

 あまりに酷い雨だったのだ。
 その日は有明さんの気になっていたという店に二人で訪れていた。ディナーの味は十分彼のお気に召したようだった。もっとも人の好い彼のことだから、仮に口に合わなかったとしても店の中でその持ち前の笑顔を崩すことなんてないのだろうが。自分は一足先に食事を終えてから、その嬉しそうに綻ぶ顔をずっと見つめていた。
 問題は店を出てからだった。
「わあ、やっぱり凄い雨ですね」
 店内にいたときからバケツをひっくり返したような音が急に窓の外から聞こえ始めていたので当然予測はできていた。とはいえ、それでも一枚壁を挟んだ外界は現実感を伴っていなかった。扉を開ければ一転、進退を断つような勢いの雨が途端に直接襲いかかってくる。
 軒先から有明さんが手を伸ばす。一瞬だったがその細い指先はあっという間に濡れそぼった。「どうしましょうね」と彼が苦笑した。突然の雨に二人とも傘の用意はない。
 駅からは少し歩いたが、もう夜だ。このまま待っていたとて数瞬のうちに晴れるとも思えない。どうしたものかと考えていると、隣から小動物のような可愛らしいくしゃみが聞こえてきた。有明さんが両手で口を押さえて、小さく肩を震わせている。その瞳がどこかぼんやりとしているように見えて胸がざわついた。
「有明さん、調子が良くないのではありませんか」
「え? いえ……
 一度言葉で否定してから、思い直したように彼は笑みを形作った。子どもが失敗を取り繕うような幼い笑みだ。
「季節の変わり目だからかもしれません。確かに朝から少し寒気がするんです」
……言って下さい」
「えへへ、すみません。楽しみだったので、つい」
 そのように言われてしまっては何も言えなくなる。つくづく自分はこの人に弱い。
 そういえば、と記憶を辿る。今日彼が頼んだのは店の売りにしているディナーセットがひとつ、追加注文でメインの料理をもうひとつ。それとデザート。いつもは三人前以上をぺろりと平らげるというのに、二人前と少し程度の量しか食していなかった。違和感は覚えていたが、どちらにせよ自分にとって異次元の量に変わりはないので思考の材料から抜けていた。そうすると、いよいよ選択肢が絞られていく。
 さらに暫しの逡巡を経て、一つの答えに辿り着く。否、既に答えは出ていたというのにそれから目を逸らし続けていただけなのだ。
「自分の下宿が近いです。そちらに向かいましょう」
「そうなんですね!」
 言い終えるか終えまいかのうちに彼が顔を明るくさせる。
「有明さんが嫌でなければですが」
「そんなはずありません。えへ、大崎さんの下宿先……
 彼は嬉しそうに頬を染めて既に目的地に思いを馳せているようだった。
 偶然だ。有明さんが行きたいと言ったカフェが偶然平塚駅から須賀に向かって暫く歩いたところにあり、偶然自分の下宿の方が駅より近くなってしまっただけだ。自分は今まで下宿の場所を彼に告げたことはない。だからこれに何かの作為があるわけではない。
 だというのにどこか後ろ暗さや居心地の悪さを感じるのは、自分がずっと無意識に彼に全ての情報を曝け出すことを躊躇っていたからだ。
「大崎さんの普段住んでいるところ、楽しみです」
「特に何もありませんよ」
「それでもです」
 微笑まれる。あなたの全てが知りたいのだと、あなたの全てが愛しいのだと。口にされた訳でもないのに気持ちが言外に伝わってしまって、抱いた気まずさをまとめて流すように目を逸らしてしまった。

    *

 生憎と傘を売っているような場所はなかったため、結局下宿へと走ることになった。有明さんには頭から自分の上着を被ってもらったものの横殴りの雨に対してどれほど効果があったかは謎である。傘があったところでそれは同様のようにも思えた。
 幸いにして目的地はほど近くであった。
 軽く露を払ってから扉を開ける。丁度大家が通りかかったところで、濡れそぼった姿を見て驚いたように目を丸くした。会釈する。
「ただいま帰りました」
「お帰りなさい。急に降り始めて大変でしたね。あら、そちらは?」
「ああ、」
 彼から上着を受け取る。水分を含んで重くなったそれは十分に役割を果たしたらしく、彼が凍えていることはなさそうだった。彼は小さく息を弾ませていたが大家の視線に気が付くとにっこりと文句のつけようのない笑顔を形作った。これを見る誰もが彼に悪い印象を抱かないだろうと想像がつく、そんな笑みだった。
「大崎さんの友人の有明です。お邪魔します」
 有明さんが大家と軽い挨拶を交わしている間、自分の視線は自然と玄関へと向かっていた。新木場さんの靴はなかった。こんな雨の中、ましてや夜に立ち入る人ではなかったがそれでも気になってしまったのだ。胸を撫で下ろす。……それも、変な話だが。
「有明さん、こちらです」
「はい」
 先導して階段を上がれば彼もそのまま従う。物珍しそうにあちこち視線をめぐらせているのが分かる。いつもはうるさいくらいに鳴る階段の軋みも雨の音に紛れ、大した存在感は放っていなかった。代わりに涼しげな音が雨に混ざって、ちりん、と聞こえた気がした。
「あ、風鈴」
 彼も気付いたのだろう。
「隣に住んでる人のものです」
「しまい忘れでしょうか。急に冷え込みましたからね」
 外の雨も相まって外気は随分冷たかった。彼の言うとおり、夏の象徴とも言える風鈴はそぐわない。今日か明日にでも大学生の手によって今年の出番を終えるだろう。
 扉を開けると有明さんは興味津々に覗き込んだ。見られて困るものはないとはいえ、どこかこそばゆい。
「本当に物、少ないですね?」
「言いましたよ」
「えへ、お邪魔します」
 見慣れた六畳の中に彼がいる光景は新鮮だった。薄い座布団を勧めれば素直にぺたりと座り込んで、文机に頬杖をつく。
「風鈴といえば」
 記憶を掘り起こすように彼が小首を傾げる。
「僕、大江島に風鈴を持ってきていたんですよ?」
……ああ」
 知っている。団扇でも鹿威しでもない、彼の秘密兵器だ。そんな問答をやったのも随分昔のように思える。結局自分は答えることなく、彼の部屋から聞こえた音色で答えを知ったのだったが。
 彼は笑う。同じことを思い出しているのだろう。
「あのときの大崎さん、随分薄情でしたね」
……
「えへ」
 確かにそうだ。それに、あのときは彼とこのような関係になるだなんて考えていなかった。三回忌があのような顛末を迎えることすら、あのときは想像だにしていなかったのである。自分は台場静馬の成り代わりでしかなく、有明さんはその場に居合わせたひとりでしかなかった。そのすべてを今や彼は見抜いていた。
 彼は片手を持ち上げて風鈴をちりん、と揺らすような動作をする。当然音は鳴らない。

 その後は濡れた服を着替え、ようとしたがサイズ差の問題に行き詰まった。自分の服の袖や裾を折って着せたものの体格差は隠しようがなく、肩がぶかぶかと余っていた。彼は嬉しそうに何度も袖を折ったり広げたりを繰り返していたが、その姿は自分にとっては目に毒だった。
「雨、やみませんね」
 それは弱くなるどころか一層激しさを増している。何かの打楽器かと思えるほどだ。有明さんは暫くその音に耳をすませた後、悪戯っぽく笑って振り返った。
「今日は泊まってもいいですか?」
「布団がありません」
「一緒に入れて下さい」
 僕の別荘でも一緒に寝ているでしょう? と笑われる。大の大人二人が寝ても余裕がある彼のベッドと自分の煎餅布団は並べるまでもないと思うが、それでも本当に彼は構わないようだった。それどころか押し入れからさっさと布団を出して敷き始める有様である。
 しかし他にどうしようもない。いそいそと布団に入り込む彼を追いかければ、布団は意外に心地よく自分たちを受け入れた。できるだけ空間を空けようと端の方に身体を位置させる彼を、そんな必要はないと自分の方へと抱き寄せる。彼は一瞬躊躇ったような動きを見せたが、すぐに受け入れて身体をすり寄せてきた。自分の服二枚分を隔てて、いつも通り速い彼の鼓動が聞こえる。
 それがどうにもいじらしくて、彼の首元に顔を近づけて鼻先をすり寄せた。「ひ、ぅ」と彼が声を上げて身体を震わせた。
「っ、と、隣の人、いらっしゃるんですよね……?」
 彼は頬を薄赤く染めて非難の意をこめた眼差しで自分を見た。僅かに潤んでいる。
……すみません」
 元より風邪気味の人間に無体を働くつもりはない。しかし特に訂正する必要性も思い至らなかったので素直に謝罪した。自分の行動が意図せぬ甘さを絡めてしまったことも事実だった。
「もう」
 先程よりは少し身体を離して布団の中に納まる。
「いつもお風呂はどうなさっているんですか?」
「近くに銭湯があります」
「朝からやっています?」
「はい」
「よかった」
 二人分の体温でじわりと布団が暖まっていく。
「今日行ったお店の隣にカフェがありましたよね。モーニングセットがあるみたいなので、明日起きて、お風呂に入って、そこに行きませんか?」
「では、万全の状態で行けるよう十分休息を取って下さい」
「はい」
 外が煩いから、隣に聞こえないよう、囁き合いながら会話する。有明さんは楽しげにくすくすと笑っていた。その笑声も控えめで、さざなみのように頭に響く。その声もやがては遠のいて穏やかな寝息へと変わっていった。彼の身体に腕を回したまま、その睫毛が呼気に合わせて規則的に揺れるのを何とはなしに眺め続ける。
 抱き寄せて髪に顔をうずめれば、雨の匂いに混ざって確かに彼の匂いがした。
 雨が思考を溶かしていく。
 自分は下宿に帰るとき、確かに恐れた。新木場さんと有明さんとが鉢合わせることをだ。
 腕の中にあるこの人は自分の伴侶であるから認めて下さいと、新木場さんに胸を張って言える日は来ないように思えてしまう。それは同性だからだとかそういった話ではない。新木場さんがそういったことで自分を咎める人ではないことはよく知っている。
『殺します』
 確かにそう言った。我ながら不穏な言葉だ。まして、心からの告白だった。それを耳にした人間がいたのならば自分と彼を引き離すことは当たり前に理解できるし、感謝している。それでも。
 ざあ、ざああ、雨が降る。
 この心に住み着く粘ついた後ろめたさは誰に対してのものなのだろう。
 古傷がよく痛む。手のひらのケロイドがじんと熱を持つように錯覚する。彼に刺された腹部に疼痛を感じ顔を顰めた。傷、とは記憶も含むのだろうか。目を閉じれば様々な光景がフラッシュバックする。あの日殴り倒した学生、あの日犯したこのひと、燃える祖母、燃える島。そうした中に混ざる給水のような甘やかな記憶は、洞窟で彼に抱きしめられた感触そのもの。もしくは、それも傷なのだろうか。
 ざあ、ざああ、雨が降る。
 知られたくない、知られてはいけない、知られなくてもよい。
 雨が、降っている。
 今は自分の腕の中に彼の中の身体があった。このままふたり、世界から切り離されてしまえれば。そう思ってから今、自分たちが一畳の上にいることに気付いた。あの日の悲願は叶いそうにもないまま、頭の隅にこびりつき続けている。