一人きりでアトラスダムを発ち始めた旅だったが、いつしか七人と一匹の仲間と共に歩むようになった。得意なことも苦手なことも、食の好み一つとっても異なる面々だが、不足している部分は補い合い、強みはより磨き上げられるような良好な関係性を築けている。
「いい湯だったね。久方ぶりに、ゆっくり温まれたよ」
「そうだな。設備もいいし、客層も悪くない。当たりの宿だな」
オルベリクと話しながら、廊下を歩く。一行は日暮れ前にこの街に辿り着き、夕飯を取ってから宿屋に向かった。宿には大浴場が併設されており、相部屋の相手でもあるオルベリクと共に身を清めてきたところだった。
宛てがわれた部屋の鍵を空け、中に入る。室内には寝台が二つと丸椅子が一つ、そして備品がしまわれているであろう棚の上には花瓶が置かれていた。橙色の花が活けられており、顔を近づけるとほんのり甘い香りがした。
「花もきちんと手入れされているようだ。長旅で心身ともに参っている時にこのような気配りをされると、宿泊客は嬉しいだろうね」
「まるで、お前はそうじゃないとでも言いたげだな」
「いや、そういう意味ではないんだ。ただ、きちんと客層を理解している宿だと感心しているのだよ。さて、髪を梳かなければ……」
湯から上がった後、拭いて軽く手櫛で整えただけの毛先を摘む。鞄から櫛を取り出して、ふと考えたことがあった。動物にとって、自分以外の個体に行うグルーミングは親和行動と言われている。リンデも街中で子供に毛を撫でられているより、ハンイットにブラッシングされている方が心地良さそうだった。だがそれは、人同士でもそう思うのだろうか。
「……どうした? 櫛を持ったまま立ち尽くして」
何気ない思い付きだった。実験のつもり、という名目はあるものの、本当のところはただ甘えたかっただけなのかもしれない。ここのところは野営や他の仲間との相部屋も多く、恋人である彼とゆっくり過ごす時間が取れなかったせいだろう。持っていた櫛を差し出すと、オルベリクは鳩が豆鉄砲を食ったような表情でサイラスの手元と顔を交互に眺める。
「オルベリク。あなたが良かったらなのだが、髪を整えてもらえないだろうか?」
「……それはまた、奇妙な提案だな」
「リンデも、好きな人にブラッシングされると嬉しそうにしているだろう? 私も同じ気持ちが味わえるかもしれないと思ってね。手間だと思うのなら結構だが」
「いや、構わん。……座ってくれ」
サイラスが突拍子もないことを言い出すのはいつものこととでも思っているのか、オルベリクは案外あっさり櫛を受け取った。丸椅子を引き寄せ、彼に背を向けるように腰を下ろした。
初めの一梳きは、頭皮にも触れず髪の表面だけを掬うような動きだった。それも髪が引っかからないようにあまりにもゆっくりと動かすものだから、堪えきれずに笑ってしまった。
「はは、それではいつまで経っても終わらないよ。もっと強くしても大丈夫、髪に神経は通っていないのだから」
「そうかもしれんが……」
「普段あなたが自分にするようにすればいいんだよ。私自身、自分のこれをそう丁寧に扱っているわけではない」
「だが、俺とお前の髪は違うだろう。力を込めたら……切れてしまいそうだ」
そう言いながらも、次は櫛歯が頭皮に触れた。そうしてまた丁寧に、未だ少し水分が残る髪に櫛が通される。繰り返す内にこなれてきて、躊躇いなく髪を後頭部に撫で付けられた。
感覚としては快いとまではいかないが、違和感と言うほど酷いものではない。無防備に背中を向けて、サイラスの人生の財産とも言えるであろう頭部を預けているというのに、不思議と安心感がある。誰でもいい訳ではなく、信頼できる相手だからこそそう感じられるのだろう。そう結論を導き出したとき、櫛が項を滑った。
「……そういえば、髪を伸ばしている理由はあるのか?」
「特にはないよ。短い状態を保つには手が掛かるし、中途半端に長いと読書や書き物の時に髪が垂れてきて妨げになる。これくらいの長さで結ってしまった方が、邪魔にならなくて良いというだけだね」
「お前らしいな」
「私だけではなく、そういう理由で髪を伸ばしている学者は多いよ」
自分が特別に横着な訳ではない、と付け加えると、背後で小さな笑い声が聞こえた。サイラスとて外見に無頓着ではなく、清潔感のある格好をと考えた末に辿り着いたのがこの髪型だった。しかし、特別に思い入れがあるというものでもない。
「あなたの好みとしてはどうなんだい? 髪が短い人と長い人なら、どちらがより魅力的に映るだろうか」
もしオルベリクが長い方が好ましいと言うのなら、手間はかかるが伸ばしてもいい。反対に短い方がいいと言うのなら、切ってもいい。外見を恋人の好みに合わせるという思考は今までサイラスの中にはなかったが、オルベリクと恋仲になってからは僅かながらもそういうことを考えるようになった。
するとオルベリクは手を止め、考え込むような沈黙が落ちる。口を挟まずに待っていると、暫くして彼は再び手を動かしながら言った。
「……俺は、お前の好きなようにするのが一番いいと思う。気分転換に切ったり、伸ばしたりしたいならそれもいいだろうし、今のままでも充分似合っている」
「ありがとう。あまり深い意味はなかったのだが、熟考させてしまってすまなかったね」
生真面目で誠実な人だ。好みを探れなかったのは残念だが、サイラスの好きにさせてくれることが彼の愛の示し方の一つなのだろうから、そこはまた別の機会に持ち越すことにする。
その時不意に、櫛とは違うものが項に触れた。少し硬くて、温かいそれがオルベリクの指だと悟った時には、項を流れていた髪が除けられた。
「いや。……今のままでもいいと言ったのは、世辞ではないぞ」
「っ」
項に生温い吐息がかかり、柔らかなものが触れる。咄嗟に身を竦め、首筋を押さえて振り返ると、オルベリクは目を細めて微笑んでいた。
「ここに印を付けても、髪を下ろせば隠れてしまうだろう。それも一つの利点だな」
「……本気で言っているのかい?」
「冗談だ。付けたいとは思うが、万が一他の者に見られたらお前も気まずいだろうからな……櫛を返すぞ」
「ああ、ありがとう……」
さらりと口にされた言葉に心臓が跳ねる。肌に吸い付いて残す痕を所有印と呼ぶということは、オルベリクが教えてくれた。普段は物静かで、大樹のようにどっしりと構えている彼の情熱的な言葉にサイラスは滅法弱かった。
櫛を受け取って立ち上がり、照れくささを誤魔化すように手の中でそれを弄ぶ。
「顔が赤いな。長湯でのぼせたか?」
「……意地が悪いことを言わないでくれ」
「すまん。……これで機嫌を直せ」
オルベリクは片腕で難なくサイラスを抱き込むと、整えたばかりの頭頂部にキスをした。ますます頬に熱が籠もり、それを隠そうとたくましい胸板に顔を埋める。サイラスを宥めようと背を撫でていた手がいつしかその下まで滑り、素肌に触れるまでそう時間はかからなかった。
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