気温の低い朝だった。街並みには薄らと雪化粧がかかり、同居人からは転けないようにと忠告されたが同じ言葉を返してやった。そんなありふれた冬の日だったが、学校に着いて下駄箱を開けたときにテリオンは思い出した。
今日は二月十四日――バレンタインデーだということを。
――結局朝の静けさはどこへいったのか分からないほど、忙しない一日だった。下駄箱や机の中から見知らぬ食べ物が出てくる上に、すれ違いざまに見知らぬ女生徒から菓子を受け取るよう迫られテリオンはすっかり辟易していた。
「いや〜テリオンはいいなぁ! 相変わらずモテモテでさ」
「一体いくつもらったんだよ?!」
「これくらいは多いうちに入らないだろ」
「カーッ聞いたか?! これがモテる男の余裕らしいぞ?!」
うるさいクラスメイトたちの話を聞き流しながら帰路に着く。テリオンとしては本気でそう思っているのだが、彼らには伝わっていないらしい。
「そもそもさぁ、結構な数断ってたじゃん? もったいねーの」
「甘いものは好きじゃない。どうせ食べないなら、はじめから貰わないほうがいいだろ」
「後輩の女の子まで泣かせてさぁ」
「……おたくらも本当に暇人だな」
嘘も方便だと好みの話で断っているが、それだけでは納得しない者もいる。たまたま同じ委員会だった一年生の女子は菓子と共に手紙を渡してきて、テリオンが断ると泣き出してしまったのだった。宥めるのは本当に大変で、見ていたのなら助けてくれても良かっただろうに。
「で、結局付き合うことにしたのか?」
「なんでそうなる。してない」
「えー! なんでだよ、可愛い子だったじゃん」
「興味ないんだ」
「うーん、このクールさがモテるコツか……? 俺なんかチョコくれんの母さんと姉ちゃんくらいだぜ」
その一言をきっかけにやれ母親がどうのと家族の話に逸れていったのを、内心安堵しながら聞いていた。何故と問われても返答に困るのだ。テリオンは昔から、同級生たちと同じように女性に興味が持てずにいる。恋心のようなものを抱いたこともなければ、凹凸のある体を魅力的だとも思えなかった。
テリオンだって別に性欲がないという訳ではない。じゃあそういう気分の時に考えることは何かというと――。わざとらしく白い息を吐き出して、思い起こしかけたものを無理やり頭の中から追い出した。
「じゃあ、また明日」
「おー、またなー」
自宅の近くでクラスメイトと別れ、帰宅した。暗い室内に明かりを灯して部屋を暖め、暫くは宿題や家事などをこなす。もうじき帰宅するであろうサイラスは、テリオンの保護者であり、当初の約束通り衣食住を無償で提供してくれている。共に暮らし始めてもう七年になるというのに、未だにその真意は掴みきれずにいた。
サイラスといえば、近頃少し雰囲気が変わったように思う。元々整った顔立ちで愛嬌がある男だったが、そこに今までになかったものが僅かながら加わった。具体的に言葉にするのは難しいほど些細ではあるが、なんとなく――。その時、鍵が回る音がして顔を上げた。
「ただいま」
「……おかえり。毎年恒例だが、今年もすごいな」
「持って帰るだけで一苦労だよ。本当に世の女性には頭が上がらないな……私にまで贈り物が回ってくるほどなのだから、一体どれだけ周囲に気を配っているのだろうか」
両手に提げた紙袋をおろし、大真面目な顔でマフラーを解きながら宣うものだから呆れた。まさかこの大量の菓子類が全て義理だとでも思っているのだろうか。いや、思っているのだろう。賢いくせに色恋沙汰には妙に疎いのが、このサイラスという男であった。
「……外、寒かったのか」
「雪は降っていなかったけれどね。部屋を暖めておいてくれてありがとう」
彼のすっと通った鼻筋や傷一つないなめらかな頬が少し赤らんでいるのに気が付き、心臓の辺りが熱を持つ。そう、最近のサイラスは妙に色っぽいというか、きれいというか。時折、惹き込まれたように目が離せなくなる。テリオンの胸中など知らずに、サイラスは呑気に言葉を続けた。
「後でまた一緒に内容を確認してくれるかい? 手渡しされたものはできる限り名前を控えたつもりだが、抜けているものがあるかもしれない」
「分かった。毎年返礼まで考えて、律儀なもんだな」
「仕事上の付き合いもあるからね。キミも貰っただろう? 今年はお返しはどうするんだい。また私に任せるつもりかい?」
「そのつもりだ」
サイラスは肩を竦め、コートを脱ぐ。毎年サイラスが山のように菓子を持ち帰るため、自分は甘いものは好まないなどと嘘までついて断っているのだ。それでも致し方なく受け取ったものは、ついでに返礼品を準備してもらうようサイラスに頼むのが、例年のことであった。
菓子の重量以外にも何かしらの重みがありそうな紙袋を取り、リビングに向かう。やはりこの量と比べたら、自分がもらったものなど多いうちには入らないと思った。
「全く……。きちんと真心を込めた品でお礼をするのも大切だと思うがね。普段は取り付く島もないキミに、この機会に思いを伝えた女生徒でもいるのでは?」
「さあな。あんたの方こそ、どう考えても本名があるだろ」
「いいや。たいてい皆、他の人にも配っていると言って、くれるのだよ」
それは恐らく照れ隠しの一つだ。紙袋の中にはどう見ても義理とは思えないほど高級そうな包みも散見される。受け取った菓子の殆どはサイラスが適当に分けて他に配ってしまうが、テリオンはこうして一番に選ぶ権利がある。早速紙袋を漁って目星をつけていると、サイラスは小さくため息をついた。
「テリオン君、私は真剣に進言しているんだよ。キミだってそろそろ好きな人の一人や二人、できてもおかしくない年頃だろう。私にそういうことを話すのが気恥ずかしいことは分かるが、意地ばかり張らずに誠実に応える場面も必要だよ」
淡々と語るサイラスは珍しく目線を落としていた。いつもは真っ直ぐに、痛いほどテリオンを見つめる瞳が床板をなぞっている。だがその言葉は今のテリオンにはあまりにも的はずれだった。
「別に恥ずかしくて誤魔化しているわけじゃない。……本当に、そういうやつはいない」
「……そうか」
「あんたの方こそ、相変わらず女の影もないだろ。恋人は作らないのか?」
「作らないよ。……ああ、付け加えておくと、キミがいるからなどという理由ではない」
はっきりと断言されたのは少し意外だった。てっきり恋など分からないといった、曖昧なものが返ってくるものだとばかり思っていた。テリオンがソファーに腰を下ろしても、彼は立ったまま目を伏せている。長いまつ毛が落とす微かな影が、その表情を儚げに映した。
「……じゃあ、何でだ」
「魅力的な人、好ましいと思う人はたくさんいるよ。ただその感情が恋になることはないんだ」
「今まではそうだったかもしれないが、今後は分からないだろ」
「……ああ、キミの言うとおりだ。さて、先に夕飯にしようか。支度をするから、キミは先に仕分けを始めていてくれるかい?」
浮かべた微笑みはどこか諦観しているようなものだった。まるで自分には縁のない話だと言わんばかりの表情に疑念が募る。未来の可能性を切り捨ててしまうなどサイラスらしくもない。恋などしないという確信を抱く出来事が過去にあったのだろうか。たとえば、手酷い失恋をしたとか――。
誰かに夢中になるサイラスの姿を想像しかけたが、あまりにも面白くなかったのですぐに振り払った。湧き上がった不愉快さの原因を探ることはなく、テリオンは紙袋の中から一つの箱を取り出す。真っ赤な箱には、好物である果物が描かれていた。
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