今日もいつもと変わらない穏やかな日だった。日暮れ前には農作業や自警団としての仕事が終わった。村をもう一周見て回ってから家に入ろうか――ちょうどそう思った頃、愛娘が青年に連れられて現れた。
「あ、オルベリクさん」
「パパ!」
「イルゼ……どうしたんだ、目が真っ赤じゃないか」
青年――フィリップの手を振りほどくと、娘はべそをかきながら真っ直ぐにオルベリクに向かって走る。片腕に座らせるようにして抱き上げ、自分と同じ色味の瞳を見つめる。娘は家を出たときと同じクリーム色のワンピースを身に纏っていて、高い位置で左右対称に結った髪も特に乱れた様子はない。目に見えて怪我はしていないようだが、どうしてうさぎのように目を赤くしているのだろうか。
フィリップは苦笑いを浮かべながら歩み寄る。彼はここ数年でぐっと背が伸び、逞しくなった。まだ青年というには少し年若いかもしれないが、もはや子供ではない。彼を見ていると己も年を取ったものだと思う。
「転んだわけではなさそうだな。フィリップ、何があったんだ?」
「いや、その……ガストンさんが」
「あいつが?」
「あのね、パパはママと結婚してるから、イルゼとは結婚できないって!」
あまりにも悲愴な響きがこもった叫びに、フィリップはやはり困ったように肩を竦めてみせる。対してオルベリクは、その言葉の意味を理解するのに少々時間を要した。それはまさしく事実なのだが一体彼女の中で何が問題なのだろうか、と首を捻ってようやく思い当たる。
「……パパとイルゼは結婚できないって言われたのか?」
「うん……」
「ガストンさんも泣かせるつもりはなかったと思うよ。直前までおままごとに付き合ってたのは彼だしね。でも、ガストンさんが取り繕う前にイルゼが走っていっちゃって……それで僕が追いかけたんだ」
「そうか、それは世話をかけたな」
「ねえ、パパはどうしてママと結婚しちゃったの?」
宥めるように軽く背を叩いてやっても、イルゼは不満げに顔をしかめてオルベリクを見上げた。まさか自分の子供にこんなことを言われる日が来るなど、独り放浪していた頃の己は知る由もないだろう。少々感慨深い思いを抱きながら、軽く咳払いをして顔に力を込める。そうでなければきっと、威厳もなにもないほど頬が緩んでしまうからだ。
「……ママを世界で一番愛していたからだよ」
「じゃあ、わたしは二番なの?」
「そんなことはない。今はパパもママも、イルゼのことを世界で一番愛してるよ」
母親譲りの整った相貌は涙でくしゃくしゃになってしまっているが、それもまた可愛く見えるのは親の贔屓目だろうか。艶のある黒髪をかき上げ額にキスしてやる。
「確かにパパはママの番だから、イルゼと結婚はできないな。だけどイルゼを一番大切に想っているのは本当なんだ、それではだめだろうか?」
「……ほんとに一番?」
「ああ」
「……わかった……」
まだ唇を尖らせているが、一応は納得したらしい。大きな丸い瞳はもう濡れてはいなかった。
「じゃあ帰るか。今日はイルゼの好きなシチューだぞ」
「やったあ! お花のにんじんがいい!」
子供の機嫌とはころころ変わるもので、つい先程までは世界の終わりのような顔をしていたのに、今度はけろりとした様子で笑ってみせた。こういう切り替えが早いところも母親似と言えるかもしれない。改めてフィリップに目を遣ると、彼も安堵したように口元を緩めていた。
「すまなかったな、フィリップ。だが、連れてきてもらえて助かった」
「これも村の平和のためだからね。僕は見回りをして帰るから、ついでにガストンさんには大丈夫だったって伝えとくよ」
「ああ、頼む。だが、見回りは必ず二人組でしろと言ってあるだろう? まだ単独行動は危険だ。お前も剣の腕は上がってきたが、実戦経験は充分とは言えんから……」
「はいはい、ちゃんと相方を任せてあるから大丈夫。オルベリクさん、ここのところすっかり心配性になったよね……。それじゃあ、また明日ねイルゼ」
「うん、フィリップお兄ちゃんばいばーい」
オルベリクの説教を半ば遮り、軽く手を振ってフィリップは駆けてゆく。遠目で他の自警団の者と合流したのを確かめ、二人で家に帰った。借り物だった家を明確に自宅だと思えるようになったのはいつからだろうか、少なくともあの旅が終わってからだったはず。家の扉を開けるとバターの香りが漂い、ぐうと腹の虫が鳴いた。
「ただいま」
「ただいまー!」
「おかえりなさい」
応えてくれるひとがいることの幸せを教えてくれたのはサイラスだ。オルベリクの番であり配偶者でもある男は台所から顔を出し、家族の帰宅を微笑みで迎えた。イルゼを下ろしてやろうとすると、小さな手でシャツの襟を掴まれる。そして彼女は紅葉のような可愛らしい手をオルベリクの耳に添えると、声を潜めて告げた。
「パパ、耳かして」
「ん?」
「あのね、パパがダメなら……イルゼはフィリップお兄ちゃんと結婚しようかな」
「なっ……?!」
思わず目を剥いて身を反らしたが、イルゼはするりとオルベリクの腕を抜け出した。彼女はこの件に対して既に興味を失ったようで、サイラスの足元に纏わり付き鍋を覗き込もうと懸命に背伸びをしている。
「い、いや、待て……それはいかんぞ。第一、年の差がいくつあると思っているんだ。それに……」
「ママ、シチューあじみするー」
「まだ作りかけなんだよ。仕上げはパパがしてくれるからね。……さ、オルベリク、ぼんやりしていないで手を洗って来ておくれ。イルゼもだよ」
「はーい」
背中を押されて台所から追い出される間も、イルゼの無邪気な言葉が頭から離れない。今日だけで、男親の喜びと哀しみを同時に味わう羽目になるとは思わなかった。大きなため息をついたオルベリクに対して、愛娘は機嫌良さげに調子外れな鼻歌を歌っていた。
***
山間の小さな村は日が沈むと途端に静かになる。あまり娯楽のない場所故にか、日の出とともに活動し、日の入りとともに眠る住民が多い。寝室の方から聞こえる声に耳を傾けながら、鍋に赤ワインとはちみつ、香辛料を入れ火にかける。沸騰したら弱火にして数分煮る。そして仕上げに薄切りのレモンを加え、火を止めた。
二つ並べた木製のコップにホットワインを注いでいると、寝室の扉が開く。サイラスは絵本を片手に抱え、静かに扉を閉めた。
「寝たか?」
「ああ。疲れていたみたいだね、読み聞かせている内に寝入ったよ」
「今日は何を読んでやったんだ?」
「トレサ君が送ってくれた、『くいしんぼオバケのチャールズ』さ。お気に入りなんだよ。ほら、作中にシチューが出てくるからね。……おや、ホットワインかい? いい匂いだ」
「少し座って話さないか」
ダイニングテーブルにコップを置いて隣に誘うと、サイラスは頷いて腰を下ろした。机に置かれた絵本はイルゼの誕生日に、かつて共に旅をした仲間が送ってくれたものだった。仲間たちとは今も連絡を取り合っており、近くを通りかかればお互いに顔を出すようにしている。
「論文の進捗はどうだ?」
「順調だよ。資料は十分集まっているし、おおよその構成は出来ている。……昼間、イルゼと何を話していたんだい?」
「ああ、実は……」
隠すようなことでもあるまい。昼間の出来事を掻い摘んで説明すると、サイラスはくすくすと笑った。
「なるほど、それであなたがあんなに慌てていたというわけか」
「まあな。幾らなんでもフィリップはな……年齢も十歳以上は離れているから……」
「はは、まだ嫁にはやれないって? ……茶化すことではないが、そう真剣に捉えることもないさ。今は好きなだけ夢を見ていられる時間なのだから」
「……そうかもしれんな。全く、子供の成長というのは早い」
ほんの少し前までは立って歩くのもやっとだったのに、今や村中を元気に駆け回り村人を捕まえてはお喋りに興じるようになった。特にサイラスに至ってはイルゼから質問されると子供相手とは思えないほど真剣に論じるものだから、聞いているオルベリクのほうが頭痛を感じるくらいだ。
サイラスはホットワインをゆっくりと飲み、深く息を吐いた。彼はここのところ論文の執筆のため資料収集や分析を続けていて、夜通し起きていることも多い。流石に疲れがたまっているのだろうか。しかし、次に彼の口から出た言葉はオルベリクの予想から外れたものだった。
「……私の勝手で初恋の人と引き離すのは、可哀想だろうか」
イルゼを授かってから、サイラスは時折今と同じような顔をするようになった。長い睫毛を伏せ、苦悩を誤魔化すように唇には僅かに微笑みを浮かべる――どこか頼りなくて気弱な印象を受ける表情を見ていると、たまらなくなる。椅子に座っているのもお構いなしに腰に腕を回して抱き寄せると、彼は素直にオルベリクの肩に頭を預けた。
「必要な別れもある。……あの子もいずれ分かるはずだ」
「うん。……アトラスダムに戻るというのは、はじめから決めていたことだ。私にはまだやらなければならないことがある。けれど……楽しそうなあの子を見ていると、少し迷うんだ」
子供が小さい間はコブルストンで過ごす。それは結婚した時に二人で決めたことだった。オルベリクとしては自分がアトラスダムに移住しても構わないと思っていたが、ここで暮らしたいと言ったのは他ならぬサイラスだった。学者としてではなく親として子供と過ごすためにも、物理的に生まれ故郷から離れることを彼は望んだ。
けれど、いつまでもこうしていられる訳ではない。サイラスはオルベリクと出会った時から既に、知識は次の世代へ繋いでいくべきだという信念を抱いていた。山に囲まれたこの村には新しい情報は入ってきづらいし、発信することもできない。赤子の頃と比べるとイルゼもだいぶ手がかからなくなってきたことから、いよいよアトラスダム王立学院への復職をすべく手続きを進めているのだ。
「サイラス。……お前の勝手などではない。お前がしようとしていることは、いずれイルゼが旅立つ世界をより良くすることだ。決して自己中心的な考え方ではない」
「そうだろうか……」
「ああ。それに、ここにいるよりはアトラスダムの方が選択肢が多いことも事実だ。他の街へ足を運ぶことも比較的容易いし、何より学ぶ環境としてはこのオルステラでは最高の場所と言えるだろう。それはお前が一番よく分かっているはずだ」
「……うん。親になるというのは難しいことだね……自分のことならば、失敗しても幾らでも取り返しがつく。けれど今のイルゼの気持ち、そして将来のためにと思うと考えることは山のようにあって……時々、とても不安になるんだ」
サイラスの言わんとしていることはよく分かる。オルベリクもサイラスも、どちらかと言えば自分で道を切り拓いてここまでやってきた。時に手酷い失敗もあったがそれも自分の責任だと呑み込んだ。しかし娘に同じ気持ちは味わわせたくないと思うのが親心だろう。
艶のある黒髪を指で梳き、娘にそうしたように額にキスをする。きっと子育てに正解はないのだろう。二人にできることは、イルゼのためにより良い方を選び続けることだ。少しでも、いずれ巣立つ彼女の糧になることを願うほかない。
「一人で抱え込まなくていい。その不安は、俺にも一緒に背負わせてくれ」
「オルベリク……」
「何よりも、俺はお前に信念を曲げてほしくないんだ。人の未来のために生きると言ったお前に心底惚れ込んでいるからな」
「だが……私は世界で二番目、なのだろう?」
上目遣いで、少し茶化すような声色につい口元が緩む。意地の悪い質問だと彼自身よく分かっているだろうから、意趣返しをすべく後頭部に手を添え引き寄せた。柔らかな唇に自分のそれを重ね、その弾力を楽しむようにすり合わせる。長いキスをして顔を離し、未だ至近距離で見つめながら囁いた。
「サイラス。……世界で一番、愛してる」
「では、イルゼは?」
「イルゼももちろん、一番だ。……一番が二人いたっていいだろう?」
そう開き直ってみせると、サイラスは小さく吹き出した。先程の思いつめた様子とは一転した気の緩んだ笑顔に、内心胸をなでおろした。
「あなたも随分、欲張りになったものだね」
「そうかもしれんな。……そう言えば、フィリップには心配性になったと言われたな」
オルベリクはかつて全てを失った。仕えていた王、親友、生まれ故郷――そして己の剣の意味すら、あの時は見えなくなってしまっていた。サイラスたちとの旅の中で再びその事実と向き合い、そして自分の剣が守るためのものであることを思い出した。もう二度と、オルベリクは自分を見失わないだろう。
――だが、時折恐ろしくなる。いつか大切な家族や、穏やかなこの居場所が再び脅威に晒されるのではないかと。失いたくないという気持ちがオルベリクを臆病にさせているのかもしれない。
「少しだけね。けれど、あなたは今も昔も変わらない」
サイラスは優しく目を細め、オルベリクの額を走る傷跡を撫でる。そう言うサイラスの瞳こそ、色褪せることはなく輝き続けている。その煌めきを見つめていると落ち着かなくなる時期もあったが、今はただ愛おしさで胸がいっぱいになる。
「守るべきもののために強くあろうとするあなたを、私もイルゼも世界で一番愛しているよ」
「サイラス……」
「それに、私もあなたが大切にしているものを守るよ。二人なら不可能などないだろう?」
「……ああ、そうだな。お前の言う通りだ」
自信に満ちたサイラスの声は常にオルベリクの背中を押す。一人でないということは言葉にできないほど心強く、無限の力を生む。もう一度宝物にキスをすると、彼は蕩けそうなほど甘い笑みを浮かべてみせた。
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