自由を求めて施設を飛び出し、もう三年が経つ。友人から手酷い裏切りに遭い、行く宛がなかったテリオンはある男に拾われた。男はテリオンの衣食住を保証する代わりに幾つかのルールを守ることを求めてきた。ただそれは彼に理があるとは到底思えないような内容だった。
男が――サイラスが、何故ここまで親切にしてくれるのか。正直なところそれは今も分からない。だが、施設などで散々大人の顔色を窺ってきたテリオンは、彼が自分に対して一切の悪意を抱いていないことも悟っていた。
「はぁ……」
吐いた息が夜闇に白く浮かび上がる。今日は十二月二十四日、クリスマスイブだ。例年はサイラスと二人で過ごしていたが、今年は少し様子が異なる。テリオンの両隣に立って歩いているのは中学校のクラスメイトであり、彼らとクリスマスパーティーに参加してきた帰りであった。
「いやぁ、楽しかったな~!」
「そうだね。それにしても、オルブライトくんが来てくれるなんて思わなかったな」
「……悪かったな」
「あ! いやいや、そうじゃなくてさ。きみっていつも、みんなの輪から少し離れているイメージだから」
眼鏡を掛けた少年が取り繕うようにそう言う。――オルブライト。相変わらず耳慣れない名前だが、こればかりは仕方がない。そもそもテリオンは生みの親の名前など知らないのだから、保護者代わりの男の姓を名乗るのは当たり前なのだろう。
「でも、きみが来てくれてよかったよ! みんなさ、もっときみと仲良くしたいと思ってるから」
「そりゃどうも」
「そういや、この間の懇談に来てたひとって、お前の兄さん? 女子がさあ、かっこよかったって騒いでたぜ」
「あー……」
一体何と説明すれば良いのか、思案するように視線を彷徨わせる。施設にいた頃通っていた小学校とは学区が異なったらしく、中学校にはテリオンが孤児だと知る生徒はいない。恥ずかしいことではないが、かといって彼らに自分の生い立ちが理解できるとは到底思えない。彼らにとっては温かな食事も、安心して眠れる柔らかなベッドがあることも当たり前で、それを与えてくれる親に平気な顔で文句を言うのだから自分とは相容れないと感じる。
別に少年はからかっているのではなく、純粋な興味で聞いているのだろう。だったら適当に答えてやり過ごそうと、小さく頷いた。
「まあ、そんなところだ。似てないんだ、よく言われる」
「そっかー。でもまあ、俺も姉ちゃんとは全然似てないしな! 姉ちゃんすげえ猫かぶりでさ、家では俺を顎で使うくせに、外ではおしとやかなふりなんかしてさ……」
「はいはい、お姉さんの話すると長いんだよなあ」
「悪い、俺こっちの道だから」
都合よく別れ道に差し掛かり、彼らとは反対方向の道を指し示す。もう暫く同じ道を歩いても帰れるが、そろそろ一人になりたかった。少年たちは何の疑いもなく頷く。
「そっか。じゃあまたね、オルブライトくん」
「じゃ、次会うのは年明けだな!」
「ああ。気を付けて帰れよ」
「そっちこそ!」
手を振りあって別れ、彼らの笑い声が遠ざかった頃もう一度ため息をついた。誘われて足を運んだクリスマス会は、苦痛ではなかったもののさしたる面白みもなかった。クラスメイトたちは普段見られない友人の私服姿やゲームを楽しんでいたようだが、やはり自分と彼らは異なるのだと突きつけられたように思えた。
自分がいた施設がもっと良心的であれば、ああして大人数でクリスマス会でもしたのだろうか。共に施設を抜け出して、それ以降は連絡が取れていない赤毛の少年の姿を思い起こし、軽くかぶりを振る。普通とか当たり前の尺度が違うひとと、どう付き合っていけば良いのかテリオンにはよく分からない。
冷たい風から顔を守るように紫色のマフラーに顔をうずめ、早足で帰路につく。
テリオンの帰る場所――ここを自宅と言っていいものか、未だに少し躊躇う。ただ一応、現在のテリオンの住所であるマンションの一室に鍵を差し込む。
「ただい……ま」
室内は真っ暗で、ひんやりと冷たい空気が漂っている。後ろ手に鍵をかけながら靴を脱ぎ、電気を点けつつ真っ直ぐにリビングへ向かう。エアコンのスイッチを入れようとして、テーブルの上の書き置きに気がついた。
薄い黄色のメモにはサイラスの筆跡で外食に行く旨と、帰宅は遅くはならないが寝るときは戸締まりをするよう促す文言が記されていた。相変わらず読みやすい流麗な文字だ。
「……彼女か?」
呟いた声が静かな部屋にやけに響いた。サイラスは二十一歳で、モデルのようにスラリとした細身の長身、パーツの整った顔にはいつも柔らかな微笑みを浮かべている。性格も悪くはない、とテリオンは思っている。クリスマスイブを共に過ごす女性の一人や二人がいたっておかしくないだろう。
サイラスと並び立つひとの姿を想像してみようとしたが、奇妙なことに靄がかかったように不鮮明だ。あまりにもサイラスに女性の影がないせいかもしれない。そう結論づけて、とりあえず湯を沸かすべく風呂場に向かった。
***
リビングの壁にかかった時計を見上げる。時刻はもうすぐ二十二時になろうとしていた。サイラスに持たされたスマートフォンを見てみても、サイラスから連絡はない。珍しい――いや、彼の帰宅が連絡なしにこんなに遅くなるなんて初めてかもしれない。
指先がそわそわと落ち着かず、何度もいたずらに通信アプリを開いては閉じる。じっとしていられずに、開けてもいない窓の施錠を念入りに確かめていると、突然インターホンが鳴った。
(サイラス? いや、あいつなら鍵を使って開けるだろ)
当然サイラスは鍵を持って出掛けているはずだし、テリオンが眠っているかもしれない時間帯に態々起こすような真似をするほど浅慮な男ではない。恐る恐るインターホンのモニターを覗き込むと、そこには巨体を丸めるようにしてカメラを覗き込む男が映っていた。そして彼の肩に腕を回しているのは――。
「サイラス……?!」
カメラに顔は映っていないが、見覚えのある紺色のチェスターコートを着ているから間違えようがない。走って玄関に行き、扉を開く。大男はぐったりと脱力しているサイラスを易々と支え、僅かに安堵したように唇を緩めた。
「まだ起きていたのか。助かった」
「オルベリク……さん、サイラスは?」
「酔い潰れているだけだ。上がるぞ」
テリオンの承諾を待たずに、オルベリクは自分の靴を脱ぐとサイラスの靴を脱がせ、そのまま勝手知ったように廊下を進んでゆく。玄関扉に鍵をかけ、大きな背中の後を追う。
――彼はオルベリク・アイゼンバーグ。年齢はサイラスの五歳年上で、膨らんだ筋肉や額に走る傷跡が近寄りがたい雰囲気をかもし出している。初めてオルベリクと出会ったのは、サイラスと一緒に暮らしはじめたばかりの頃。テリオンの部屋を作るための模様替えと、新しく買った家具の組み立て要員としてサイラスが呼びつけたのがオルベリクだった。第一印象は正直最悪だ。オルベリクはテリオンを見るなり目を丸くして、『随分小さいな』などと宣ったのだから。
「テリオン、水を持って来てくれないか? 目が覚めたら飲ませたほうが良い」
「……分かった」
テリオンはオルベリクに対してどちらかというと苦手意識を持っているのだが、彼は気付いているのかいないのか、何故か遠慮のない態度を取る。サイラスが飲むのなら仕方ないと台所で水を汲んでリビングに向かい、目の前の光景に思わずコップを落とすかと思った。
オルベリクがソファーに寝かせたサイラスに覆い被さり、その衣服に手を掛けていたからだ。見てはいけない、と同時に、何故か目を逸らしてはいけないとも思えた。
「なっ、あんた、何を……!」
「コートを脱がさないと皺になるだろ。サイラス、家に着いたぞ。分かるか?」
「う、……んん……」
「コート掛けはどこだ?」
「……玄関」
脱がせると言うよりは剥ぎ取るようにコートを奪うと、オルベリクは玄関に向かった。サイラスは瞼を閉じていて、赤い唇をむにゃむにゃと小さく擦り合わせている。少し近づくだけで、むせ返るような濃い酒の臭いがして顔を顰めた。
「おい……サイラス、水だぞ」
肩を揺すっても返事はない。仕方ないのでコップをテーブルに置くと、オルベリクが戻ってきた。二人が物理的に離れてようやく分かったが、双方かなり酒気を帯びている。
「なあ、……サイラス、大丈夫なのか」
「とりあえずは大丈夫だろう。吐くほどではなかったようだからな」
「こいつ、酒なんか飲むんだな」
「好きな方だぞ。まあ、ペースが早いのと、好奇心のまま複数種類を試すのが悪い癖だな」
サイラスが酒好きだとは知らなかった。家で飲酒している姿は見たことがないし、冷蔵庫などにもアルコールの類は置かれていない。寧ろ、苦手なのだと思っていた。
そっとサイラスの赤い頬に手の甲で触れる。やはり見た目通り熱を持っていて、小さな吐息が肌にかかるのが擽ったい。オルベリクはテーブルを挟んで向かい側にどかりと腰を下ろし、値踏みするようにテリオンを眺めた。
「……なんだよ」
「いや。上手くやっているのか?」
「ああ」
「……」
それきりまた奇妙な沈黙が流れる。今夜は二人で食事をしたのだろうか、そう思うと何か言葉にできない暗い気持ちが生まれた気がして下唇を噛む。サイラスがテリオンの前で飲酒しないのは、自分が頼りないということか。頼りになるオルベリクの前だとこんなにも無防備になるのか。
サイラスに知り合いは多いが、彼が頼りにして、かつもっと言うと少々甘えるような態度を取るのは極少数だ。真っ先に思い浮かぶのは、今どき執事などという職の老人。大人になったばかりのサイラスと、何も持っていない子供であるテリオンが一緒に暮らすための手続きの手助けをしてくれたのが、そのヒースコートという男だった。そして次に名が挙がるのがこの男、オルベリクである。ただヒースコートよりも年齢が近いからか余計にお互い遠慮がなく、やけに親しげに映る。
「……オルベリク、さん」
「オルベリクでいい」
「じゃあ、オルベリク。……あんた、サイラスとの付き合いは長いのか?」
そう問うと、オルベリクはなんとも妙な顔をした。僅かに眉根を寄せ重たそうに唇を開く様子は、まるで何かを警戒しているようだった。
「……それなりにはな」
「どこで知り合ったんだ?」
「サイラスはなんと説明しているんだ?」
「古い友人としか聞いてない」
「……そうだな」
オルベリクはおもむろに腕組みをしてため息をつく。それきりまた口を閉ざしてしまったので、追い打ちをかけるように問いかけた。
「それだけじゃないだろ。もっと何か……」
「サイラスが語っていないのなら、俺からは何も言えん。直接そいつに聞いてくれ」
「なんだそれ」
サイラスが言わないから聞いているというのに、こいつもはぐらかすのか。筋骨隆々のオルベリクと知的なサイラス、年齢差も相まって一見すると接点などなさそうに見える。そんな二人が何故意気投合したのか、テリオンには不思議で仕方がないのだ。
ここはもっと強く問いただすべきかと思っていると、不意にサイラスが目を覚まして体を起こした。慌てて水を差し出すと両手で受け取り、小さく喉仏を上下させながら素直に飲む。
「はぁ……ありがとう、落ち着いたよ……」
「だから飲み過ぎだと言っただろう」
「昔はこれくらい、なんともなかったのだが……。あれ、テリオン君、おかえり……もう帰っていたのかい?」
「あんたが遅いんだろ」
いつものサイラスよりまだ会話のテンポが少し遅い。彼は手の甲で軽く目元を擦り、室内を見渡す。
「ああ、送ってくれたのか……悪いね、オルベリク……タクシー代を……」
「構わん、歩ける距離だからな。……では俺は帰るから、あまりテリオンに迷惑を掛けるなよ」
「そうだね……ああ、待って、鍵をかけるから……」
「座ってろ。俺が行くから」
起き上がりかけたサイラスを手で制し、テリオンは再びオルベリクの背中を追いかけた。そういえばもしテリオンにオルベリクのような背丈や腕力があれば、玄関先でサイラスを受け取って彼を追い返せたのだろうか。ふとその可能性に気づき、細い枝のような自分の腕を見下ろして重たい無力感に苛まれた。
オルベリクは靴を履くと、何を思ったのかテリオンと向き合い大きな手を伸ばしてきた。頭上に伸ばされた手につい僅かに身を引いたが、彼のそれはぽんと軽く頭に乗せられただけだった。
「な……なんだよ」
「そんな顔をするな。心配しなくとも、お前からサイラスを盗るような真似はしない」
「別に……そんなこと、考えてない」
「それなら良いが。お前もサイラスも、俺の大切な友人だからな」
ぐしゃぐしゃとやや乱雑に頭を撫でられると目が回りそうだ。大きな手を振り払うと、オルベリクは抵抗なく腕を引いた。
「俺も? ……悪いが、御免だね」
「はは、だろうな。後は頼むぞ」
「……言われなくとも」
嫌がる態度を取ったはずだが、オルベリクは気にした風もなく、寧ろどこか機嫌が良さそうに唇の端に笑みを浮かべて今度こそ部屋を出ていった。扉が閉まってすぐに鍵をかけ、サイラスのもとに戻る。サイラスはソファーに座り込んだまま、空になったコップを握り締めてぼんやりと虚空を眺めていた。
「サイラス、大丈夫か?」
「ん。ああ……そういえば、テリオン君」
「なんだ」
「クリスマス会、楽しかったかい?」
まだ本調子とは程遠いくせに、自分自身よりテリオンのことを心配するのか。呆れた、とため息をついてみせても、普段の観察眼をどこかに置いてきてしまった男は、不思議そうに首を傾げるだけだ。
「……それなりだった」
「そうか。楽しめたようで良かった……」
「悪くはなかった、けど。……来年は、やっぱりあんたと過ごしたい」
「……そう」
するとサイラスは柔らかく目を細め、頬を紅潮させて微笑んだ。そっけない返事の割にはその笑顔があまりにも優しげで、ぎゅうと心臓を掴まれたかのように胸が苦しくなった。呼吸までしづらくなり、喉が詰まって次の言葉を絞り出すのには随分時間がかかった。
「……ね、寝るなら、部屋で寝ろよ。風邪、引く……から」
「ああ、そうするよ。キミに夜更しをさせてしまってすまなかったね、おやすみ……」
「……おやすみ」
そう挨拶をして、逃げるように自室のベッドに潜り込む。暗がりのなか目を瞑ってみるが、先程のサイラスの笑顔がちらついて離れない。初めてかもしれない――サイラスのことを可愛いなんて思ってしまったのは。
瞼を閉じて考えている内にいつしか眠りに就いていたようで、翌朝目を覚ましてリビングに向かうと、テーブルの上には例年のようにプレゼントが置かれていた。添えられた手紙の最後には、まるで後から付け足されたように『今夜、ケーキを買って帰るよ』と書かれていた。
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