サイラスとの二人旅は実に順調だった。性差はあれどサイラスを女性だからと侮ることはないし、彼女も出来る範囲でだがオルベリクと同じように力仕事や野営時の番をした。互いに得意なことが違うからこそ補い合い、様々な困難を退けてきた。
だが時折、どうしようもない事態に直面することもある。
「空き室ですか? お客さん幸運ですね、丁度残り一部屋なんですよ! ベッドは別になってしまいますが、それでもよろしいでしょうか?」
小さな町唯一の宿で、カウンターの向こう側からそう言われ顔を見合わせた。
二人は婚約した身と言えるが、それはあくまでも形式上のものだ。これまで宿は個室を取り、夜は別に過ごすようにしてきた。サイラスとて四六時中男と一緒にいるのは落ち着かないだろうし、オルベリクもまた別の意味で安らげないからだ。
「個室はもう空いていないのかい?」
「ええ、今日は行商の方が多くて……あらっ、もしやご夫婦ではなかったのですか? それは失礼しました」
「え、ああ、いや……それは構わないけれど。どうしようかオルベリク」
夫婦という言葉に、サイラスの白い頬にさっと朱が差す。その反応にこちらまでつられてしまいそうで、一つ咳払いをする。
「……部屋はお前が使うと良い。俺は野宿でも構わん」
「またあなたはそういうことを……男性だからといってあなたが辛い役割を背負う必要は全く無いのだよ。それに私があなた一人を放り出して身を休めるような、身勝手な人物に見えるのかい?」
「いや、そうではないが……だが現実的にそうするしかないだろう?」
「一緒に泊まればいいだろう? 幸い寝台は別のようだから、私は同室でも構わないよ」
少し強い口調で直言した後、にこりと微笑まれるとどうにも弱い。だいたいこういう顔をしているサイラスは、オルベリクが多少何を言っても引くことがないのは経験上分かっていた。
――数分後、結局押し負けたのはオルベリクの方だった。彼女の顔に達成感はなく、ただそうすることが分かっていたと言わんばかりの笑顔で部屋の鍵を受け取った。
その後酒場で食事と軽く酒を飲み、宿へと戻った。室内に調度品は少なく、二つの寝台に机と椅子があるだけの質素な部屋だ。けれど清潔で、寝台に掛かったシーツには一つの皺もない。
「素朴でいい宿だね。浴場もあるというじゃないか、久々にゆっくり休めそうだ」
「そのようだな。……本当に同室で良かったのか?」
「あなたとなら、もちろん構わないさ。私がこちら側の寝台を使っていいかい?」
「ああ」
向かって右側の寝台に彼女は腰掛け、荷物を開く。オルベリクも反対側の寝台に腰を下ろし、腕を組んだ。
サイラスの言う『あなたとなら』はどういう意味なのだろうか。婚約しているからいいのか、それともオルベリクが手を出さないと信頼しているということか。……まぁ考えるまでもなく後者だろう。
(男が狼だと知らんのかこいつは……)
寝台が別とはいえ、部屋で異性と二人きりになるなど、世間一般の基準で言えば同衾の誘いと同義なのだが。つくづく、サイラスと旅をしているのが己で良かったと安堵した。オルベリクが辛抱強く耐えていることなど、彼女は知らないだろう。またその世間擦れしていない純粋さが可愛らしく見えるから相当に重症だと思う。
――そう、可愛らしいのだサイラスは。明朗快活で時に剛毅な彼女だが、時折見せる子供っぽい笑顔や、無自覚だろうが甘えるような仕草がなんともたまらない。はじめは本当に裸を見てしまったことへの罪悪感や、彼女の将来を思って提案した婚約だったが、今やすっかりオルベリクはサイラスに惹かれてしまっていた。
「オルベリク、難しい顔をしているがどうしたんだい? 体調でも悪いのかい」
「いや、何でもない。少し今日の戦闘を振り返っていただけだ」
「なるほど! そうやって脳内でも反復することでますます剣技に磨きをかけているのだね。では私は湯浴みに行ってくるよ。あなたも浴場が閉まる前にどうぞ」
「ああ、荷物をまとめたら俺も行くから、鍵は持っていってくれ」
サイラスは笑顔で頷き、着替えを胸に抱えて機嫌良く部屋を出ていった。普段は砂まみれになろうが文句一つ言わないが、ああいうところを見るとやはり女なのだと思い知る。
オルベリクも荷物を整理し、部屋に鍵をかけ浴場へと向かった。
***
湯から上がり部屋に戻っても、サイラスはまだ戻ってきていなかった。特に気にすることもなく剣の手入れをし、暫くすると軽いノックの後に部屋の扉が開く。ふわりと漂った石鹸の香りに顔を上げると、湯上がりで上気した顔で彼女は破顔した。
「やあ、オルベリク。早かったんだね」
「……ああ……」
「女湯はほぼ貸し切りのような状態だったから、時間を忘れてつい長居してしまったよ」
「それは……良かったな」
同じ宿の石鹸や寝具を使っているのだから、サイラスだけ特別いい匂いがするわけではないはずなのに。けれど花のような不思議な香りがオルベリクの鼻孔を擽り、濡羽色という文字通りに濡れて艶めく髪から目が離せない。
サイラスはつらつらと何やら語っているが、その殆どが右から左に抜けてゆく。すると手が止まっていることを訝しんだのか、彼女は不思議そうにオルベリクの顔を覗き込んだ。その髪から垂れた雫が手の甲に落ち、どきりと心臓が跳ねる。
「オルベリク? なんだかぼんやりしているようだが……のぼせたのかい?」
赤い顔が、今にも手を伸ばせば届きそうなほど近くにある。サイラスは宿の薄い寝間着を身に纏っているが、女性にしては背の高い彼女には窮屈そうで体の線がはっきりと出てしまっている。――その衣服の下の形や色を、オルベリクは知っているのだ。
ついその姿を思い出してしまいそうになり、軽く頭を振る。好きでもない男に裸を見られるなど、サイラスにとっては不運としか言いようがない事故だ。早く忘れてやらなければと思っているのに、鮮烈に焼き付いた光景はいつまで経っても色褪せることはない。
「……大丈夫だ。すまない」
「謝ることはないが、体調が悪いのなら無理をしてはいけないよ。水をもらってこようか?」
「いや、いい。……俺はもう休むことにする」
「あなたがそう言うのなら、私からは何も言わないが……」
心配げな彼女に首を横に振って見せると、それ以上言及することはなく身を引いた。剣を鞘に収め、サイラスに背を向けるように体を横たえる。これ以上無防備なサイラスの姿を見ていると、気が狂れてしまいそうだ。己の中の獣が彼女に向かって牙をむく前に、眠りに就いてしまいたかった。
「灯りを消そうか?」
「点けたままでいい。お前も読書は程々にしろよ」
「……そうさせてもらおうかな。おやすみ、オルベリク」
「ああ……おやすみ」
短いやり取りをして瞼を閉じる。暫くはただ目を閉じているだけの状態が続き、サイラスがページを捲る音が聞き取れていたが次第にそれも遠退いていく。そしてようやくオルベリクは浅い眠りに就いた。
***
――ふと意識が浮上し、瞼を開く。室内は暗闇に包まれており、まだ朝までは随分時間があることが窺えた。再び瞼を閉じようとし、小さな寝息にはっと目を見開いた。
「……」
静かな寝息がすぐ傍にある。そして背中にある柔らかな感触は。
恐る恐る振り向いてオルベリクは目を見開いた。一瞬まだ夢の中にいるのではと疑うほど、信じられない光景がそこにはあった。
「! サ、サイラス、何故……」
オルベリクの背中にぴっとりとくっついているのは、他ならぬサイラスであった。すうすうと小さな寝息を立てる彼女の寝顔は安らかで、だからこそオルベリクは酷く混乱した。一体何が起きているのかさっぱり分からない。とにかく彼女を起こして、自分の寝台に戻らせないと――。
細い肩を掴もうとした手は、しかし既のところで握り込まれた。起こしてしまうのは簡単だが、この状態をみすみす逃してしまうのも惜しい。片思い相手と共寝が出来るなんて状況、この先二度はないかもしれない。
(いや、しかし幾ら何でもこれはまずい……)
けれど。だが。唸りながらも結局、オルベリクは元のように横になった。
するとサイラスは小さく声を漏らして身動ぎ、まるでオルベリクの体温を求めるように再び背に柔い胸を重ね合わせた。薄い布越しに感じる彼女の体温が、規則的な鼓動が毒のようにオルベリクの体を巡り呼吸を荒くさせる。
こんなにも無防備に振る舞うということは、少なくとも嫌われてはいないはず。婚約という事実関係があるのなら、無理矢理に契ったって――浮かびかけた凶悪な考えを思考の渦に沈め、深く深呼吸をする。
サイラスはオルベリクを信頼して、同じ部屋で休むことを決めたのだろう。ならばこそ、その信頼を裏切る真似は絶対にしてはいけない。
(だが、これは流石に生殺しが過ぎるだろう!)
口が裂けても言えない叫びを飲み込んで、オルベリクはただ悶々と夜が明けるのを待った。
***
「ん……?」
共寝をした女の小さな声に目を開ける。最早寝ているのか起きているのかも分からない状態だったから、朝が来たことに安堵の息を吐いた。
サイラスはのろのろと体を起こし、手の甲で目元を擦る。それに合わせて自分も身を起こし、寝台の上にあぐらをかいた。
「……オルベリク……?」
「……おはよう、サイラス。気分はどうだ」
「ああ、とても良く眠れたよ……」
未だにぼんやりとした受け答えに沈黙を返すと、彼女は長いまつ毛を瞬かせる。同じ寝台に座る男の姿と、空になっている隣の寝台。よく晴れた青空を思わせる瞳がそれを交互に眺め、突然はっと見開かれた。
「オルベリク?! ど、どうして私の寝台にっ……い、いや、私があなたの寝台にいるのかい?」
「それはこちらのほうが聞きたいくらいだが」
「あ……そ、そうだ、昨晩夜中に目が覚めて、水を飲んで戻ってきたのだが恐らくその時に……あっ、」
「危ない!」
サイラスも相当に慌てていたのか、話しながらずるずると後ずさる。後ろ手についていた手がずるりと寝台の端から落ち、細い体が傾く。咄嗟にその背に腕を回し、勢いのまま胸元に抱き込んだ。
「わ……!」
「全く……焦る気持ちは分かるが、お前らしくもない。もっと周囲を……」
そう説教しかけ、腕の中ですっかり硬直してしまった彼女にはたと我に返る。サイラスに怪我を負わせないためとはいえ、客観的に見ればこの状態は彼女を熱烈に抱き締めているのと変わりがない。昨晩背中で感じた膨らみが今は胸元にあり、絹のような髪が首筋を擽りぶわりと体温が上がった。
「す、すまん! 咄嗟に……!」
慌てて体を離すと、サイラスは赤い顔を隠すように俯く。彼女も突然のことに動揺しているのか、細い指を組んでもじもじと手の平を擦り合わせた。
「だ、大丈夫だよ。助けてくれてありがとう……」
「いや、お前に怪我がないのならそれでよかった。悪かったな」
「ううん……」
緩く首を横に振って、サイラスは言葉少なに黙り込む。普段は雄弁で何もかもを語りつくそうとする彼女だが、動揺しているときに口数が減るのは癖らしい。余程嫌だったのか、それとも怖がらせてしまったかと内心焦っていると彼女はようやく口を開いた。
「……男の人と抱き合うのは初めてだったから驚いてしまった。あなたの体は分厚くて、逞しくて……温かくて、すごく……ドキドキしたよ」
「そ……そうか……嫌ではなかったか?」
「うん。いつも私を守ってくれるあなたの強さを、改めて思い知った。私はあなたの、そういうところを……」
宝石のような美しい瞳が上向き、視線が交わる。薔薇色に頬を染め、ふっくらとした唇を緩めて笑うさまにまた心臓が早鐘を打つ。サイラスが意味深に切った言葉の続きを想像し、ゴクリと唾を飲んだ。
「……そういうところを?」
「……尊敬しているよ。傷を負うことを恐れず常に前線に立ち続けるところも、そのために日々肉体を鍛えているストイックなところもね」
「ああ……そうか……」
つい脱力したような声が出てしまい、サイラスは目を瞬かせた。なんと言うと思ったのか、どんな言葉が聞きたかったのか――己の浅はかな考えにため息をついた。
「……俺は顔を洗ってくるから、その間に着替えていてくれ」
「ああ、分かった。あっ、オルベリク」
「まだなにかあるか?」
寝台から下りようとしたオルベリクの寝間着の裾を、つんと細い指が掴んで引き止める。振りほどく必要すらない小さな拘束に、首だけ振り返って問いかけた。するとサイラスは少しだけ恥じらうように視線を彷徨わせ、苦笑いを浮かべた。
「昨晩は寝ぼけていたとは言え、迷惑をかけてしまったようですまなかった。それから、おはよう」
「……うむ……おはよう」
一つの寝台の上で朝の挨拶を交わし合うなんて、夢のようだがこれは紛れもない現実だ。オルベリクから返ってきた返事に満足そうに微笑むと、彼女は手を離した。今度こそ引き止められることはなく部屋を出て、大きなため息をついた。
「……たまらんな……」
これだから、サイラスと一緒だと安らげないのだ。己の欲望と理性が常に鬩ぎ合い、落ち着く暇もない。忘れようにも忘れられない華奢な体の感触を思い返しながら、洗面所へ向かった。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.