八人と一匹の旅は、基本的に集団生活の上に成り立っている。しかし当然それが得意な者もいれば苦手な者もいる。そのため時間としては多くはないが、可能であれば別行動を取る機会を設けるようにしている。
今日も日暮れ前の少し中途半端な時間に街に着き、宿だけ押さえて後は自由時間とすることになった。オルベリクは少し鍛錬をし、街中で腕に覚えのあるものと手合わせをして今しがた部屋に戻ってきたところだ。今夜はサイラスと相部屋の予定だが、室内に彼の姿はなく――代わりに。
「にゃあ」
一匹の黒猫が、寝台の上に行儀よく座っていた。正確には、寝台の上に無造作に広げられた学者のローブの上にだが。
戸惑いながらとりあえず扉を閉める。部屋の窓は閉まっており、扉もたった今オルベリクが鍵を開け入ってきたのだから当然施錠されていた。そうなると外から入ってきたとは考えにくい。他に部屋の鍵を持っているのはサイラスと宿の者くらいのはずだ。
「……お前、どこから入ってきたんだ?」
猫はまた一つ鳴き、寝台から下りオルベリクの足元に歩いてくる。足に纏わりつかれて万が一踏んでしまうことを恐れ、胴に手を回し抱き上げた。艶のある黒毛の猫で、ぶらりと垂れ下がった足の間には膨らみがある。
「雄か……。サイラスが連れてきたのか? それにしてもあいつはどこに……」
ローブがあるということは一度部屋には戻っているのだろう。しかし、何故それを置いていったのか。学者の象徴であるローブは、彼にとってそれなりに大切なもののはずだが。
はてと首を傾げ、桃色の肉球を眺める。黒猫は随分人に慣れているのか、されるがままに抱き上げられていた。寝台に降ろしてやると、猫は自分の毛が付く心配もせずに再びローブの上に鎮座し、また鳴いてみせる。
「こういう時にハンイットがいれば、事情が分かるかも知れんが……あいつは今街の外にいるはずだしな」
宿に戻る道すがらハンイットとアーフェンとすれ違ったが、彼らは街の外れの森に薬草を探しに行くと言っていた。となると暫くは戻ってこないだろう。手持ち無沙汰に腕を組み、猫の隣に腰を下ろす。すると猫はオルベリクの足の上に前足を乗せ鳴いた。
「お前はよく鳴くな……どうしたんだ? ん? 俺は食い物は持っていないぞ。……こらこら、グローブを舐めるな……」
グローブを外し丸い頭を撫でてやると、猫は宝石のようなキャッツアイをオルベリクに向ける。青色の瞳の猫とは珍しい。それにしてもこの瞳の色、どこかで見たことがあるような……好奇心に煌めく、濃いロイヤルブルーはサイラスの瞳とそっくりだ。
「はは、お前はサイラスにそっくりだな。毛並みも美しい黒で、瞳まで同じとは……」
「にゃっ」
「そうだな、言われても分からないな。サイラスという学者の男がいてな、俺の――」
好きな人だ。そう言いかけて、はたと猫を撫でる手を止める。
部屋に残されたサイラスのローブ、サイラスによく似た黒猫――まさかとは思う。そんな事がありえるのかと。しかし思い当たる節もあるのだ。今日の昼間サイラスは踊子の心得を付け、摩訶不思議の舞を舞った。時に魔物を呼び出すことすらある謎の舞だが、その時は何も起きなかった。
――しかし例えば時間差で、遅れて効果が出ているとするのなら? それが例えば、人の身を猫に変えてしまっているとするのなら?
「ま、まさかお前っ、サイラスなのか?!」
「にゃーっ」
「本当にそうなのか?! ど、どうしてこんなことに……!」
猫はまるでオルベリクに話しかけるように短く鳴くが、なんと言っているかなどさっぱり分からない。立ち上がろうとするオルベリクを制すように腿の上に乗られると身動きが取れなくなる。
どこにも行くなということは、サイラスには解決方法が分かっているのだろうか。摩訶不思議の舞に限らず、獅子の舞なども時間が経過すれば効果が切れる。彼はそれを考え、焦ることはないと言っているのだろうか。
「しかし、そう言われてもな……お前は喋れないのか?」
そう聞いてみてもまた鳴いてみせるだけ。意識はあっても、猫の身では人語は話せないということか。軽く首を撫でてやると、ごろごろと喉を鳴らした。
「他に具合が悪いところはないのか? ……俺に触られるのは嫌ではないか?」
サイラスは首を振るでもなく、ただ心地よさそうに目を細め喉を鳴らす。柔らかく温かい猫の体を傷つけないように、努めて優しく触れる。指先でこちょこちょと喉を擽ると、身を捩ってごろりと仰向けに転がり腹を見せた。
「なんだ、随分猫の真似が上手いな。それとも体が勝手に反応してしまうのか? そら、それなら撫でてやろうな……」
真っ黒な腹を撫でてやると、尻尾の先をぱたぱたと揺らす。その時、オルベリクはふと気が付く。猫の姿になってしまったサイラスだが、果たして衣服はどうなった? もしかして、今は何も着ていない状態なのでは?
思わず手を引っ込めると、機嫌良さげに揺れていた尻尾の動きが止まる。全裸のサイラスが仰向けになり、甘えるように見つめるさまをつい想像してしまいカッと体温が上がった。こんな格好、全て丸見えではないか――待てよ、自分は先程サイラスを抱え上げた時に何をした?
「待てっ、サイラス! あれは誤解だ、俺はお前の下半身を見ようとしたのではなく、猫の正体を探ろうとしただけであってな……決してそういう、不埒な思いがあったわけではないんだ」
「ンン?」
「……分かってくれるか? いや勿論、お前だとはじめから分かっていたらあんな失礼な真似はしなかった。幾ら猫の身になったとは言え羞恥心があることくらいは、理解している」
悪気はなかったとは言え彼の下半身を見てしまったことに動揺し言い訳を述べるが、サイラスは気にした様子もなく起き上がり、オルベリクの手に自分の頭を押し付けてくる。耳の後ろを撫で、項の辺りを撫でるとうっとりするようにまた喉を鳴らした。
「首を触られるのが好きなのか? よしよし……可愛いな、サイラス……」
猫だからなのか、それとも人の身の時もそうなのだろうか。そうだとしたら、あの結われた黒髪の下を擽ると同じように恍惚とするのか――それとももしや、感じるのか。体を震わせ、猫のように甘く啼くのだろうか。全裸の想い人を撫で回す淫らな妄想を思い描いていると手が止まっており、抗議するように長く鳴かれた。
「す、すまん。それにしても、お前の体はいつ戻るんだろうな。心細いだろう?」
「にゃー……」
「ああ、大丈夫だ。サイラス……何があろうとも、お前のことは必ず俺が守る。だから安心してくれ」
すると不意にサイラスは顔を上げ、オルベリクの手の平に鼻先を寄せた。かと思えば、ぺろりと舐めるではないか。引っ込めようとした指先を、ミルクを飲むような仕草でちろちろと舐める。
「さ、サイラスッ、何を……お前……!」
あのサイラスが、俺の指を舐めている。ざらついた舌の感触にぞわぞわと言いようのないものが込み上げ、またも邪な妄想が頭の中を駆け抜ける。裸のサイラスがオルベリクの足元に跪き、股間に顔を――。
その瞬間、音を立てて扉が開いた。猫はするりとオルベリクの手から離れ入り口へと駆けてゆく。
「ノワール! こんなところにいたのね!」
「にゃーお」
「おや? オルベリク、いつの間に戻ってきていたんだい」
「サイラス……?」
ぴょんと黒猫が飛び込んだのは、泣き腫らした目をした少女の腕の中だった。それを背後から見守っていた男が、軽く手を挙げる。目を白黒させるオルベリクに構わず、サイラスは寝台に広がるローブを取り軽く叩いた。
猫を抱きしめ嗚咽を漏らす少女に、毛だらけだとぼやきながらも気にせずローブを肩に掛ける男。猫はやれやれと言わんばかりに一つ鳴いて、状況についていけないオルベリクを嘲笑う。
「……サイラス、これは一体……?」
「いや、実は散策中にこの猫を見付けてね。私のローブを掴んで離さないものだから、仕方なく宿に連れてきたんだよ。人に慣れているようだから誰かの飼い猫ではないかと探して、この少女を見つけたというわけだ。あなたも驚いただろう? 部屋に突然猫がいるだなんて」
「ああ……いや、まあな……」
怒涛の説明が駆け抜け、やっと事情を飲み込むとじわじわと遅れて羞恥心が遅いくる。今思えばなんと馬鹿みたいな勘違いをしていたのか。オルベリクの内心など知る由もない少女は、猫を抱きしめながら無邪気に笑った。
「お兄さん、ノワールをみつけてくれてほんとうにありがとう! おじさんも、ノワールを見ててくれてありがとう」
「どういたしまして。とても良い子にしていたようだよ。ね、オルベリク」
「……ああ……」
膝を折り少女と視線を合わせ、サイラスは微笑む。少女に礼を言われても、オルベリクは曖昧な笑みを浮かべただけだった。頭を下げながら去っていく少女を見送り、サイラスは静かに扉を閉める。
「オルベリク? なんだかぼんやりしているようだが、大丈夫かい?」
「……ああ、まぁ……いや、大丈夫だ」
「それならいいのだが。それにしても、ローブに毛がついてしまったが……まぁ色も似たようなものだから、目立たないだろう」
「いや、近くで見たら分かるだろう……それにほら、着た時に舞った毛が」
「ひゃっ」
首筋に付着した毛を取ろうと項に触れると、びくりとサイラスの肩が大袈裟に跳ねた。聞き慣れない甲高い声に思わず固まると、じんわりとその耳や首筋が赤く染まっていく。
「す、すまない……昔から首は弱くて……」
「そ……そうなのか。い、いや、変な気持ちで触れたわけではないぞ……」
「変な気持ち?」
「オホン、いや、無事事件が解決したようで良かった。俺はもう少し体を動かしてくる」
夢想していた姿が一瞬鮮明になり、つい失言をしてしまった。咳払いをし、逃げるようにそそくさと部屋を出るオルベリクを、サイラスは猫のように首を傾げて見送った。
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