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雪華
2020-01-25 21:36:42
8861文字
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オルサイ
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【オルサイ】私を愛さないで:前編【オメガバ】
※オメガバースパロディです。子供を作るとか作らないとかそういう話をたくさんしています。ゆくゆくは先生に生理が来たりえっちなことしたりするので注意です。仕上がったときにはもしかしたらタイトルを変えるかもしれません。 2/6追記
ヒトの性別は2種類ある。一つは男女性、もう一つはバース性と呼ばれるものだ。
バース性では人はアルファ、ベータ、オメガの3種類のいずれかに分類される。オメガ以外は体の作りに大きな違いはなく、それぞれ目に見えない要素
――
所謂フェロモンの有無や種類によって分けられる。
男女性とは違い見た目には分かりにくく、また遺伝の要素が強いことがバース性の特徴だ。人口の大部分を占めるベータには大きな特徴はなく、バース性を意識せずに生きていけることが殆どである。
一方人口が少ないアルファは、知能や身体機能が優れており、遺伝要素も相まって支配階級に属していることが多い。人を惹きつけるようなカリスマ性を持つと言われているが、それがフェロモンによるものなのか、本人の資質によるものなのか、はたまた恵まれた周辺環境によるものかは未だ議論が続けられている。
最後の一つ、オメガは
――
フェロモンや体のつくりから、産む側の性だと言われている。
どうしてサイラスがそんなことを思い返しているのか。
寝台と椅子がひとつずつあるだけの狭い部屋の中。サイラスは椅子に腰掛け、オルベリクと向かい合っていた。今晩は酒場で談笑しながら酒を飲み、もう少し話そうと誘われるまま部屋に入った。暫く話の続きをして、ふと会話が途切れた時
――
オルベリクはサイラスにあることを告げた。
「
……
もう一度言う。サイラス、お前のことが好きだ」
「わ、私は
……
」
「ベータでも構わない、バース性なんか関係ない。お前が好きなんだ」
頭の中が真っ白で、心臓を掴まれたかのように胸が苦しい。心の奥底で望んでいた言葉なのに、天上どころか地の底に突き落とされたような気分だ。
バース性は隠す者もいれば隠さない者もいる。アルファであるオルベリクは驕ることはなかったが、秘匿することもなかった。いつだったか誰かに問われて、何でもないことのようにアルファだと答えて周囲を驚かせていた。そんな彼が羨ましかったのは、何もアルファという性に憧れていたからではない。
「オルベリク
……
私は、あなたに嘘をついていたことがある」
彷徨いて定まらない視線を、ゆっくりと持ち上げる。オルベリクは珍しくどこか不安げで、サイラスの青ざめた顔を心配げに見つめていた。
「
……
自分のバース性はベータだと、ずっと言っていたが
……
本当は、オメガなんだ」
「それならば
……
」
「けれど! 私は
……
私は、生殖機能不全の出来損ないなんだ。あなたには相応しくない」
「
……
どういうことだ?」
話の続きを促され、深いため息をつく。そっと指を組むように自分の手を握ったのは、震えを抑え込もうとしたからだ。どうしてこんなことになったのだろう。何度も自分に問いかけては答えが出ない問いをまた頭の中で繰り返し、唇を開く。
「
……
私はオメガだ。ただフェロモンがかなり少ないようで、はっきりと認識できるようなヒートは第二次性徴のときに一度来たきりなんだ。それでも幾らかフェロモンは出ていたようだが、二十歳頃にはそれもなくなった。今は抑制剤すら服用していないよ」
「
……
確かに、抑制剤を飲んでいないとは思えないほど匂わないな。だからこそお前がベータだと言うのを信じ切っていたが
……
」
「嘘をついていたことは謝罪するよ、すまなかった。
……
ヒートが来ない上にフェロモンもないとなると、ベータと同じように過ごせるからね。聞かれたらそう答えるようにしていたんだ」
一度手を解いて指を組み替える。オルベリクの視線がちくちくと刺さるようで、落ち着かない。親族から何度も似たような視線に晒され慣れたかと思っていたが、案外そうでもなかったらしい。想像以上に繊細だった己に少し感心した。
「
……
親族の勧めで薬師に診てもらったことがある。その時にはっきりと言われたよ、妊娠の可能性は絶望的だと」
サイラスの両親はアルファとオメガの番だった。幼少期から勉強に興味を持ち家中の本を読み漁るサイラスに両親は勿論、親族もかなり期待していたらしい。ところが蓋を開けてみればアルファではなくオメガ、更に生殖機能不全と来た。お前には失望したとはっきり言われたこともあった。
嫌な記憶を振り払うように軽く頭を振る。強張った頬を無理矢理動かし、作り笑いを浮かべてみせた。
「だから、気持ちは嬉しいけれどあなたと恋仲にはなれないよ」
「
……
待て、俺はお前のことをベータだと認識して尚、恋仲になりたいと告白したんだぞ。端からお前に子供を産ませようなどとは思っていないのに、どうしてそういう結論になるんだ?」
「オルベリク、あなたは間違っている」
はっきりとそう告げると、オルベリクは息を呑む。サイラスが何らかの根拠を持って、敢えて強い言葉で彼を糾弾したことを悟ったのだろう。栗色の瞳は唇より余程雄弁で、強い疑問を訴えながらサイラスの話の続きを待っている。
「いいかい? あなたは優秀な遺伝子を持つアルファで、ホルンブルグ王国の数少ない生存者でもある。私のような子供を産めない相手を選ぶということは即ち、その血筋を途絶えさせるということだ。私はそれは間違っていると思う」
「
……
つまりお前はこう言いたいのか。自分以外の相手と番って、子を成せと」
「そうだよ。その血はきちんと次の代に繋ぎ、未来へと遺すべきだ」
こみ上げてくる感情を抑え込みながら、サイラスは意識して淡々と言葉を紡ぐ。オルベリクはぎりときつく歯を食い縛っているのか、その唇を歪ませ眉間に深い皺を刻んだ。
「分かって頂けたかな? では、この話はもうこれで終わりにしよう」
「
……
サイラス、俺が結ばれたいのはお前だけだ。他の相手となど考えられない」
「それは出来ない
……
出来ないんだよ。すまない、オルベリク」
立ち上がり部屋を出ようとするサイラスを捕まえようと手が伸ばされる。けれどそれを振り払い、足早に部屋を出た。自分の部屋の鍵穴に鍵を挿し込もうとしたが、なかなか入らずかちゃかちゃと金属の擦れる音がする。震えて言うことを聞かない右手に左手を添えて、なんとか鍵を開け部屋に入った。
内側から扉に鍵をかけ、灯りも付けずにぼすりとベッドに倒れ込む。腕だけ伸ばして枕を引き寄せ顔を埋めた。
「
……
はぁ
……
」
オルベリクが好きだと言ってくれて、嬉しかった。その気持ちは嘘じゃないけれど、やはりサイラスは応えてはいけないと思う。彼の血筋を自分が途絶えさせてしまうなんて、想像するだけでもおぞましさに身の毛がよだつ。
どれだけ学を積んで、学者のローブに刺繍を増やしたところでサイラスの性別は変わらない。今まで積み上げてきた全てを失った時サイラスに残るのはこの、生まれ持った役割すら果たせない欠陥のある身体だけだ。
「
……
どうして私は、出来損ないなのだろう
……
」
アトラスダムに居た頃は、この体のことはなんとも思っていなかった。出来損ないだと言われてもサイラスにはどうすることも出来なかったし、寧ろ縁談の一つも舞い込んでこないのだから気楽なものだと研究に没頭した。例えサイラスが子供を産める体であっても、アルファと番うことはないだろうし、産みたいと望むこともないだろう
――
そう思いながら楽観的に生きてきた。
サイラスは何も間違ったことは言っていない。オルベリクは女性や普通のオメガと結ばれて、子を成すべきだ。もしかしたら今はそうは思わないかもしれないが、最後にはきっとそれが幸福だったと気付くだろう。
見知らぬ誰かの隣で幸せそうに笑うオルベリクの姿は、容易に想像がついた。瞬きの拍子に溢れた涙を拭うこともせず、ただ枕に顔を押し付けて静かに好きな人の幸福を願った。
***
どうやらそのまま眠り込んでしまったようで、ふと目を覚ますと空の端が明るくなっていた。旅をする以上野営をする機会も多く、宿に泊まれる日は貴重だ。更に言えば完全に個室で休めることなど滅多に無い。それなのにあまり堪能できなかったと思いながら身支度を整え、目の端を擦りながら部屋を出る。
「あ」
タイミングが良かったのか、それとも悪かったのか。廊下にはちょうどオルベリクがいて、ばちりと音がしそうなほどしっかり目が合ってしまった。こうなると部屋に引っ込むのは不自然で、サイラスは平静を装いながら静かに廊下へ出た。
「
……
おはよう、オルベリク」
「おはよう。
……
サイラス、昨日はすまなかった」
「気にしていないよ」
視線が交わらないように俯き加減で通り過ぎようとすると、突然手首を掴んで引き止められた。
「待ってくれ。一つだけ聞いてもいいか?」
「
……
なんだい?」
「昨日の話の中で、明らかにならなかったことがある。お前は、お前自身は俺のことをどう思っているんだ?」
「
――
……
」
これ以上嘘を重ねたくはない。けれど、本当の言葉はもっと言えない。
好きだからこそ彼と結ばれるのは自分ではいけないと強く思う。しかし恋情とは時に人を狂わせるのだ。好きなら問題ないだろうと詰め寄られてしまったら、サイラスはきっと
――
。
視線も寄越さず沈黙するサイラスにオルベリクはため息をつく。早く解放してくれと軽く腕を引いてみるが、拘束する手の力が緩むことはない。
「
……
俺のことが嫌いか? 同性にこのようなことを言われ、気色が悪いと嫌悪するか?」
「そんなことはない。あなたを
……
嫌いになんて、ならないよ」
「では」
「っ
……
」
顎を掴まれ、俯かせていた顔を無理矢理上向かせられる。その先にあった光景に声を呑んだ。今にも鼻先が触れてしまいそうなほど、オルベリクの精悍な顔がすぐそばにあった。サイラスを見詰める瞳に映り込む、間抜けな顔の自分が見て取れるくらいに。
(だめだ
……
止めさせないと
……
)
恐ろしくて、逃げることも声を上げることも出来ずにただ硬く瞼を閉ざす。
サイラスには怖くてたまらなかった。迫ってくるオルベリクではなく、このまま思考を止めて彼の腕に抱かれたいと思う自分が。嫌忌すべきは、自分の気持ちを満たすためだけに、非合理的で不幸な道に彼を進ませてしまいかねないサイラス自身だ。
「
……
や
……
やめて、くれ
……
」
「
……
分かった」
やっとのことで喉から絞り出したのは酷い震え声だった。けれどどうにかオルベリクには届いたようで、彼が離れてゆく。
――
そう、これでいい。サイラスは何も間違っていない。この胸の痛みは、正しい未来への僅かばかりの代償だ。こんなものなら幾ら払ったって構わない。
「サイラス。
……
すまんが、俺はお前が思っているより諦めの悪い男でな」
静かな声に瞼を開けると、オルベリクは微笑んでいた。安らいでいるような笑みではなく、どこか挑戦的なそれを唇に浮かべている。
思わぬ反応に数度瞬きを繰り返すと、不意に彼の手がサイラスに向かって伸ばされた。思わず身を強張らせるが、オルベリクは指先だけでサイラスの髪を優しく梳く。
「オルベリク
……
」
「お前に嫌われてしまったのなら仕方がないと思っていた。しかし、そうではないと言うのなら
……
俺は俺なりのやり方で、お前を振り向かせるために努力をしよう」
「え?」
またぐんと顔が近づいて、今度は耳元に顔を寄せられる。一体何が起きようとしているのか、学者の聡明な脳が理解する前に囁かれた。
「好きだ、サイラス。今日も美しいな」
「えっ
……
?!」
「では、また後で」
ぶわりと顔に一気に熱が昇り、額に汗が滲む。踵を返し颯爽と去っていくオルベリクの背中を見送りながら、ずるずるとその場にへたり込んだ。低くて甘い声がまだ耳の中に残っているようで、思い返そうとするだけで体温が上がってしまう。
尚、オルベリクの『努力』が連日連夜続くことになるなどとは、今のサイラスには知る由もないことであった。
***(2/6追記)
――
私は何をしているのだろう。そんなことを日に何度も思うようになった。
オルベリクは宣言通り、隙あらばサイラスへと愛を囁いた。好きだ、愛らしい、美しい等々の飾り気のない言葉が却ってオルベリクらしいからこそ、サイラスの頭を悩ませる。
聞き過ぎて慣れるなどという状態とは程遠く、聞けば聞くほど彼の言葉は自分の中に降り積もってゆく。積もりに積もったそれがサイラスの許容量を超えてしまった時、自分が何をしでかすのか分からないのが怖い。そして何よりも一番困っているのは、彼の努力を嫌だと突っ撥ねられないことだ。
(
……
いっそはっきり拒絶するべきだとは、頭では分かっているのだが
……
)
どれだけオルベリクが努力しようともサイラス自身に応えるつもりはない。変に期待をさせてしまうよりは、あなたがしていることには何の意味もないと伝えたほうが良い。けれどもいざオルベリクを前にして、聞いたこともないような甘く蕩ける声で囁かれるとどうにも拒絶は言葉にならなかった。
誰だって好いた相手の傷付いた顔など見たくないはずだ。しかも、己の行動がそれを引き起こしてしまうなんて悪夢に違いない。オルベリクを糾弾した夜、彼が見せた傷ましい表情が頭をちらつき大きなため息を付いた。
サイラスの悩みとは裏腹に旅は至って順調だった。昼過ぎに町に辿り着き、自由行動を取ろうと解散したのがつい先刻のこと。
気分転換も兼ねて町を散歩していたサイラスだったが、ふと露店の前で足を止める。表紙にかなり傷が入り、紙も色が変わってしまっているような本が無造作に並んでいた。露天商の白髪の男性は眠っているかのように瞼を閉じている。しゃがみ込んで本の表紙をなぞっても咎められることはなく、手にとって軽くぱらぱらと捲くり目を瞠った。
「これは
……
実に興味深い本だな!」
なんてことはない、平たく言えば植物の生態について書かれている本だ。ただ書かれている植物は既に失われたとされているものが大半を占めていた。本のタイトルからすると希少種ばかりを記したとされているが、現在では噂程度しか残っていないものも絵柄入りで残されている。
本の状態からすると、発行されて十年や二十年とは言わないだろう。随分丁寧に書かれているため、もしかしたら一冊ずつ丁寧に写本され残ってきたものかもしれない。これほど珍しい本が、およそ縁もゆかりもなさそうなこの土地でサイラスの目に留まるとはある種の必然性すら感じた。
すると漸く露天商は薄く瞼を開け、本を手に取るサイラスの姿を認めた。
「
……
おや兄さん、その本がお気に召したかい?」
「ああ! まだ書かれたこと全てが真実だと決まったわけではないが、時間を掛けて考証するだけの価値がある本だ。一体どこでこのような本を仕入れたんだい?」
「ああ
……
普段わしは本は扱わんのだが、どうしても食い扶持に困ってしょうがないという学者崩れの男から買い取ったんだ。えらく貴重な本だと嘯いていたが、買い手がつかずに来てしまってな
……
」
確かに本自体の状態はあまり良いとは言えず、見ただけでは価値が分からないのも無理はない。本を専門に扱う商人ならばこの本の価値に気付き、こうもなおざりには陳列しなかっただろう。旅の途中だからサイラスが自由に使える金は限りがあるが、上手く交渉して買い取れないだろうか。
「ふむ
……
このような貴重な本を手放すとは、余程の事情があったのだろうね。是非私に売ってくれないだろうか?」
「ああ、構わんよ。350リーフでどうだい?」
「うーん、それではこの本の価値に見合わないな。450リーフでどうだい?」
「おいおい、買い手が値段を釣り上げてどうすんだい。350でいい、ほら、持っていきな」
渡した硬貨の数枚が再びサイラスの手に戻ってくる。しかしと尚も食い下がろうとするが、彼は首を横に振った。
「わしが付けた値だ。あんたが言うように本当はもっと価値のあるものだとしても、その損はわしが背負う。商人としてのプライドみたいなもんさ」
「そうか
……
そうとは知らずに失礼したね」
「いいや。その格好、あんたも学者だろう? あんたにとって、値段以上の価値がある本だといいな」
「ああ、どうもありがとう」
軽く握手をして露天商と別れる。サイラスからすれば少しでも高く売れたほうがいいと思うのだが、商人の矜持とは面白いものだ。仮に同様のやり取りをトレサとするとしたら、彼女はどんな反応をするだろうか? そんなことを想像しながら胸元で本を抱え、弾む足取りで歩く。
道の端でも構わない、今すぐ座り込んで本を開きたい
――
その衝動を堪えながら宿へと向かうサイラスの足を、まさか止められる者がいるとは思わなかった。少し暗い路地に居ても鮮やかな青はよく目立つ。背を向けている彼に声をかけようとしてはたと気が付き、サイラスは咄嗟に身を隠すように表通りの塀に背をつけた。
(オルベリク
……
誰かと話している
……
?)
オルベリクの声ともう一種類、甘いソプラノが聞こえる。オルベリクより二回りは背が低く、ブロンドの長い髪を指で梳きながら並び立つ女性は笑っているようだった。一体どういう経緯で、何を話しているのだろうか。どくどくと心臓が大きく脈打ち、本を抱える腕に力が籠もる。
(
……
ああ
……
誰が見たって、これが正しい光景だろう)
男性アルファのオルベリクが女性と並び立つ。何の文句のつけようもない、正しい姿だ。サイラスのような男で、しかも欠陥品などがそばにいるよりずっと似つかわしい。
浮足立っていた心が急激に萎んでいく。こんなところで盗み見をするなんて、何をしているのだろうか一体。ちくりと痛んだ腹を無意識に撫でながら、逃げるようにその場を後にした。
***
雑念を振り払うには何かに没頭するに限る。幸いサイラスの手元には本があったため、すぐにその世界に浸ることが出来た。目をつけていた通り非常に興味深い本で、頁を捲りながら自分の頭の中にある知識と照合し続ける。
扉に背を向け机に着くサイラスの耳は、物音一つ拾うことはない。だからこそ突然背後から肩を掴まれビクリと大袈裟に体が跳ねた。
「サイラス」
「わっ!
……
ああ、驚いた
……
なんだい、オルベリク」
「悪い、先程からずっと呼んでいたんだが」
どうやらサイラスはオルベリクの呼びかけを無視していたらしい。それに憤るどころか、彼はサイラスを驚かせてしまったことに申し訳無さそうに眉を下げた。飛び跳ねた心臓を宥めるように息を吐きながら、手元の本を静かに閉じる。
「それはすまない、全く気が付かなかったよ。何か用かな?」
「用も何も、この時間には夕飯を取る約束だろう? もう皆待っているぞ」
「おや、もうそんな時間かい? 全く気が付かなかったな」
言われて初めて気がついたが、窓から外を見やるとすっかり日が暮れていた。そんなサイラスに、オルベリクは呆れたようにため息をつく。
「お前というやつは
……
腹が空いたとか思わないのか?」
「うーん
……
言われてみれば空腹な気がするな。心配しないでくれ、集中しているといつもこうなんだ」
「アトラスダムに居た頃は寝食を疎かにしていてもなんとかなったかもしれんが、今は旅の途中だ。しっかりと食事を摂って休むことも大切だぞ」
「はは、全くそのとおりだとは分かっているのだがね。
……
明日にはもうここを発つことになるかな」
ふと頭を過ぎった昼間の光景に、思わずそんな言葉が口をついていた。サイラスたちは旅の最中だ。出会いと別れは表裏一体で、一度町を発てば会いたい人にも簡単に会えなくなる。
「そうだろうな。何か気になるものでもあったか?」
「いや
……
私は構わないのだけど、あなたはいいのかと思ってね」
「俺が?」
「昼間、可愛らしい女性と話していただろう? 親しくなったのではないかと思って。
……
いや、変なお節介だったな。忘れてくれ」
一度口に出て、相手に届いてしまった言葉はなかったことには出来ない。教師という職務上言葉の重要さは理解しているつもりだったのに、どうしてか咄嗟にそんなことを言ってしまった。どう取り繕うべきかと焦れば焦るほど、じっとりと手の平に汗が滲む。
「サイラス。
……
俺の好きな人が誰か知っていて、そんなことを言うのか?」
見つめられると、足が地面に縫い付けられたように動かなくなる。せめてその視線から逃れようと俯けば、大きな手が優しく頬に触れた。
――
触れられた場所が熱を持ち、その熱がじくじくと体中を蝕んでゆく。嬉しいのに、不安でたまらなくなる。
「お前のことが好きだ。分かってくれるまで、俺は何度でも言うぞ」
「
…………
」
切なげな声に応えたくなる。私もだと叫びたい。けれど、なけなしの理性がサイラスに口を噤ませた。
「
……
すまん、そんな顔をさせたいわけじゃなかった」
「
……
いや
……
私の方こそ
……
」
そっと手が離れてオルベリクが一歩身を退くと、ようやく声が出た。
口下手なオルベリクが言葉を尽くしてくれるほど、サイラスのことを好いていることは嫌でも理解できる。子供を望まないと言ったのも偽りではなく本心だろう。その胸に飛び込めばきっと楽になる。しかし、サイラスにはどうしても認められない。
「
……
行こう。皆、待っているんだったね」
「ああ」
連綿と続いてきた歴史と血の結晶が、オルベリク・アイゼンバーグという人物を作り出した。子供を作らないということは、何十人何百人もの人々の努力を無に帰すということだ。それは世界にたった一冊しかない本を焚書することと何ら変わらない。
ゆっくりと歩き出すと、ずきりとまた腹が痛んだ。胃というよりはもっと下
――
空腹故か、それともストレスだろうか。ただその痛みがサイラスに与えられた罰のようで、どこか心地良くもあった。
***
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