今日は三月十四日、ホワイトデーだ。バレンタインデーに本命の贈り物をする人が減ったことによるお返し需要の低下、職場での義理チョコの廃止等々により年々市場規模が減少しつつある行事だが、それでもサイラスには気の抜けない一日であった。
教師という職業柄接する女性が多いためか、先月のバレンタインデーは大変な量の菓子を贈られてた。そうなれば当然、お返しの量も膨れ上がるということだ。今年も例年の如く懇意にしている菓子屋で大量に菓子を買い、両手いっぱいに持って出勤することとなったのだった。
なんとか普段通りの授業をこなしながら一日がかりでお返しを配り終え、やっと帰路につくことが出来た。自宅のマンションのドアノブを掴み、深呼吸を一つする。
(さて、問題はここからか……)
いつも通りの顔をしていなければいけない。期待など、してはいけない。そう自分に言い聞かせるのも本日何度目のことだろうか。ゆっくりとドアを開けると、おかえりと恋人の声が聞こえた。
「ただいま、テリオン。いい匂いだね、手伝おうか?」
「いや、いい。先に風呂にでも入ってろ」
「いつもすまないね」
二人で暮らすようになっていつの間にか料理は専らテリオンの仕事になった。サイラスも出来ないわけではないはずだから交代制にしようと主張したのだが、テリオン曰く『適材適所だ』とのことらしい。彼に負担を掛けていることは申し訳なく思うが、恋人の手料理という贔屓目を抜きにしてもテリオンの作る食事は美味しいので、甘えさせてもらっている。
勧められるままに先に風呂に入り、上がった頃には食事の準備は整っていた。美味しいと舌鼓を打っては調理法を尋ねてみたりと、普段と何ら変わりのない食卓であった。
(うん、いつも通りだ)
安心したような、少しがっかりしたような――いや、と慌てて頭を振る。
テリオンが風呂に入っている間、サイラスが食後の食器を洗うのもまたいつものことだった。白い泡を水で流しながら先月のことを思い返す。
『……ここに着けるものは、どうだ』
丁度一ヶ月前の二月十四日、サイラスは少々の下心を持って彼に万年筆を贈った。自分の気に入っているものとお揃いの万年筆、それを持つテリオンをこっそり眺めて満足感に浸ろうとしていたのだが、あっさりと目論見を看破されてしまった。挙げ句に彼はそう言って、サイラスの左手の薬指に触れた。
指に着けるものと言ったら指輪で、左手の薬指に着ける指輪と言えば一般的には婚約指輪や結婚指輪の類だろう。あの時は彼がそう言ってくれて、嬉しかったけれど。
(……やはり、私は相応しくないな)
知らず知らずのうちにため息を吐いていた。
八つも歳上の男のもとに、テリオンを縛り付けたくないと思う。だから永遠の形など自分が手にするべきではないと理解している。だからもらえなくていい――はずなのに、がっかりしている自分が嫌になりそうだった。
「サイラス」
「わっ、」
考え事をしていたからか、突然声を掛けられ皿を落としそうになった。風呂上がりのテリオンがサイラスの手元を覗き込むと、石鹸のいい匂いがする。ちらと透明な瞳に見上げられると、考えていた事を見透かされそうな気がしてドキドキと心臓が跳ねた。
「そんなに汚れていたか? 皿」
「えっ、あ、うん……少し油がね。でももうきれいになったよ」
「そうか。手伝おうか」
「もう少しで終わるから、大丈夫だよ」
そう言うとテリオンは頷き、リビングへと歩いていった。不自然な態度を追求されなかったことに胸を撫で下ろしながら、残りの食器を手早く洗っていく。一人分しかなかった食器の種類が増える度に、大きくなっていく彼の存在を感じ言いようのない幸福感を覚えた。……それもいつまで続くか分からないことだけれど。
どうにも今日は気持ちが落ち込んでいるようだ。こういう日は夜通し本を読むに限る、そう判断し水を止め手を拭く。
「テリオン、私は部屋に……」
「サイラス」
「……なんだい?」
「こっちに来い」
有無を言わさぬ口調に、緊張を隠し渋々といった顔を作った。手招きされるままソファーの彼の隣に腰掛ける。合わせづらい視線が行き場をなくし彷徨う。
「サイラス、目を閉じろ」
「……うん」
言われるままに目を閉じながらどうしようかと少し迷っていた。今日は生憎と『そういう気分』ではないが、彼を拒絶したいわけでもない。こんなに迷い惑うなんてらしくない……まるで自分が弱い人間になってしまったようだ。
(私をこんな風にしてしまった責任を、取ってくれとも言えないし……)
こんな気持を吐露してしまえればどんなに楽か、でもそんなこと言いたくない。唇に柔らかいものが触れ、離れて行く。行かないでと思わず伸ばそうとした左手が押さえ付けられ、指に冷たいものが触れた。
「あ」
「……なんだ、その意外そうな顔は」
思わず目を開けると、珍しく頬を赤くしばつの悪そうな顔をした恋人がいた。
指を絡めるように握られた左手。互いの薬指には揃いのシルバーの指輪が嵌められていた。いつの間に、とか、流石キミは器用だねとか言いかけた言葉は声にならずに、代わりに視界が滲んで涙が溢れた。
「……約束しただろう。俺が忘れてると思ったか?」
「そうじゃない。私に……受け取る資格があるのかな。キミを縛り付けるものを……」
「違うな、サイラス。あんたが俺に縛られるのさ」
零れる涙を拭うように目元に口づけが落とされる。握る手に力を込めると、テリオンの唇が僅かに緩められた。
「……俺は気の利いたことは言えんが、あんたにだけは嘘は吐かんと誓う。だから今から言うことも本心だ」
「……ああ」
「愛している、サイラス。俺とずっと一緒にいてくれ」
「喜んで。私も、キミへの永久の愛を誓おう」
これからの道程も決して平坦とは言えないだろう。様々な苦難が襲い来るだろうが、最早不安など何一つなかった。こんなにも私を愛してくれる人がいて、私も彼を愛している。この指輪を見る度に揺るぎないその真実を思い出し、前に進んでいけるのだろう。
「……ふふ、私を独りで生きていけなくした責任を取ってもらうからね」
「それはこちらの台詞だ」
笑いながら唇を重ねる。独りで生きていけたもの同士が、二人でしか生きていけなくなってしまったなんておかしな話だ。――けれど、きっとこれが私たちの愛の形なのだろう。優しい温もりを感じながら瞼を閉じた。
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