その晩旅人たちはとある町の宿に身を寄せていた。部屋が足りず止む終えず相部屋になることは良くあることで、最近とある事情があり男性陣の間では部屋割りは固定になっている。
オルベリクはサイラスと同じ部屋に入り、暫くは各々好きに過ごしていた。オルベリクは武器の手入れを、サイラスは本を読んだり手帳に何かを書き留めているようだった。それに一段落するとどちらからともなく就寝の準備を始めるのが、暗黙の了解になりつつある。
けれど今日はもう少し――先へと進んでみたかった。
「サイラス」
「なんだい、オルベリク」
本を鞄に仕舞い、蝋燭の火を消そうとしていたサイラスに声を掛ける。少し首を傾げて振り返った彼の艶のある黒髪が揺れる。その細い肩を掴んで体をこちらに向けさせた。
「サイラス、……好きだ」
「うん。私もあなたが好きだよ……オルベリク」
涼やかで美しい顔にじわりと朱が差す。二人の関係が旅の仲間であった間は一度も見たことのなかった顔は、オルベリクを余計に夢中にさせる。互いに惹かれ合い恋人同士となった二人だったが、まだ殆ど恋人らしい触れ合いはしたことがなかった。
そっとその滑らかな頬に手をやり少し首に角度をつけてやると、サイラスはゆるく微笑む。
(今夜こそは……!)
キスくらいはそろそろ頃合いだろうとオルベリクは思っているのだ。究極的に鈍く恋愛経験に乏しいサイラス相手だからこそじっくり待っているが、いい加減我慢も限界であった。
ふっくらとした柔らかそうな唇に触れたい――ゆっくりと顔を近づけると、サイラスはじいと音がしそうなほどこちらを見つめてくる。
「……」
「……」
早朝の空のような鮮やかな青色が、逃げることも怯むことも、照れることもなくオルベリクを凝視している。鼻先が触れ合いそうなほど顔が近づいても、サイラスは全く瞼を閉じる気配はない。非常に気まずい空気のまま暫く静止し、結局今夜も折れたのはオルベリクの方だった。
サイラスの肩から腕を離し距離を取り、咳払いを一つする。
「……もう寝るか」
「そうだね。灯りを消すよ」
「ああ」
何事もなかったのように蝋燭の火が消され、互いの寝台に入る。おやすみと掛けられた挨拶に同じ言葉を返し瞼を閉じる。僅かな寝息が聞こえ始め、オルベリクはひっそりとため息を吐いた。
*********
翌晩、旅人たちは酒場で食事を摂っていた。昼間買った本の内容が気になるからとサイラスは早々に宿に戻り、その背中を見送りながらオルベリクはエールを煽った。隣りに座ったアーフェンがにやりと笑う。
「いい飲みっぷりだな旦那! 先生とは順調にいってんのか?」
「その様子だと、あまり順調ではなさそうね。正直な話、どこまで行ったの?」
「いや、特に進展もなくてだな……」
「驚いたな。あのサイラスを落とすだけ落としといて何もなしか」
「えー! そうなの?!」
プリムロゼの質問を皮切りにあっという間に皆が一つのテーブルに集まり、オルベリクはすっかり逃げ場をなくしてしまった。サイラスとオルベリクが思いを通わせたことは隠しているわけではないが、皆に公言したわけでもない。それなのにいつの間にか察しの良さそうなプリムロゼどころか最年少のトレサまで知るところになっていた。
「オルベリクさん! そろそろキスくらいしたんだよね?!」
「ぶっ」
ばんと机を叩いたトレサの言葉に、口に含んだ酒を思いっきり吹き出してしまった。オフィーリアが差し出してくれたハンカチを断り、自分のもので口周りと机を拭く。
返事はしなかったもののオルベリクこの動揺っぷりが全ての答えとなり、はあとプリムロゼが悩ましげなため息を吐いた。
「その様子だと、それもまだのようね。はあ、全く……」
「旦那は根気強ぇなぁ……」
「臆病風に吹かれたか?」
「……そうではない。が、足踏みをしているのも事実だ」
「足踏み? 何故ですか?」
こうなってしまえばオルベリクには黙秘の権利すら無いことは明白で、諦めて悩みの一つを吐露することにした。オルベリクの目下の悩みは――キスをしようとする時、サイラスが目を閉じないということであった。そう言うと、仲間たちは吹き出したり微妙な顔をしたりとそれぞれの反応を見せる。
「フッ……愉快な悩みだな」
「ふふ、そんな可愛らしい悩みを持っていたのね」
「ええと……キスをする時は目を閉じなければいけないのですか?」
「あたしは知ってるわよ! 恋愛小説では必ずそうだし、決まりごとみたいなものでしょ?」
「目の前の人物から視線を外しても大丈夫、と思うほど信頼している……ということか?」
「ハンイットはなんか違くねぇか?」
三者三様、否、六者六様というべきだろうか。それぞれ歩んだ道も価値観も違う旅人たちらしい姿であった。アーフェンから真っ当な指摘を受けたハンイットが首を傾げる。
「違うのか?」
「ああ。キスのときはこう、ムードをぐ~っと盛り上げて目を閉じてするもんなんだよ。目を閉じてたほうが雰囲気出るだろ!」
「まあ、そうなんですか。でもサイラスさんがご存知ないのも無理はないかと思いますが……」
「教えてあげればいいのよ、オルベリク。あなたが口付けは目を閉じてするものだと思ってるのなら、サイラスにそうさせればいいだけじゃない」
くすりとプリムロゼが笑い、そっと机の上に置いたオルベリクの手を指先でなぞる。オルベリクが手を引くと、彼女は自分の唇をゆっくりと撫でて微笑む。その妖艶な仕草は周囲のテーブルの男たちの視線を奪うのには十分だった。
「あなた色に染めればいい、たったそれだけのことでしょ?」
「お、大人ね……プリムロゼさん……!」
「かっこいいです!」
「あら、ありがと。どう? 参考になったかしら、オルベリク」
「……ああ、参考にさせてもらおう」
「プリムロゼさん! 今後の参考にもっと大人な話が聞きたいわ!」
わたしもです、ならばわたしも、と女性陣はプリムロゼを囲み出す。オルベリクはようやくこの包囲網から逃れられそうだと胸を撫で下ろし席を立った。
「お、もう戻んのかい旦那」
「ああ。後は皆でゆっくりやってくれ」
「おう! 頑張れよ~!」
背中にかけられた言葉には軽く手を上げて応え宿へと戻る。相部屋の扉をノックし開けると、サイラスは寝台に横になり静かに寝息を立てていた。寝間着に着替えもせず枕元に本を置いたままであるところを見ると、読書中に眠気に襲われたから仮眠を取るつもりだったのだろう。
普段は好奇心に輝いている瞳も今は瞼の向こう側。寝顔はどこかあどけなく、彼を少し幼く見せる。
「全く……」
ドアの音やオルベリクの足音にも目を覚ます気配はない。反対の立場であればオルベリクは扉が開いた瞬間に起きる自信があるが……まあ平和なアトラスダムで生まれ育ったサイラスには当然無理であろう。
サイラスが眠る寝台に腰掛け、彼の顔の横に手をつく。覆い被さるようにその顔を覗き込む。すると長いまつ毛が震えゆっくりと宝石のような碧眼が現れた。
「……オルベリク……?」
「サイラス」
「ん、なんだい?」
その両目をオルベリクが片手で覆い隠すと、彼は不思議そうな声を漏らす。それに答えずにいると考え込むようにその唇が閉じられたから――その隙を逃さずに素早く唇を重ね、離すと同時に目隠しもとってやった。
サイラスの目はまんまるに見開かれ、その白い頬は赤く染まっていた。呆けたように少し開かれた唇を見ているとまた触れたくなってしまう。
「……オルベリク、今……」
「嫌だったか?」
「そんなことはないよ。でも、どうして目隠しをしてしまったんだい?」
「お前は見過ぎなんだ。情緒というものを知らんのか? ……そのせいで随分焦らされたぞ」
そう言いながらサイラスの額に手をやり髪をかき上げるようにして撫で上げる。彼はくすぐったそうに身を捩り、しかし少し不満げに唇を尖らせてみせた。
「……勿論、一般的には口付けを交わす時に目を閉じるという事は知っていたよ。ただ私はそうしたくなかったんだ」
「ほう、それは何故だ?」
「あなたが私に口づけをする時どんな顔をするのか知りたかったんだ」
サイラスの華奢な指がオルベリクの手首を掴み、自分の口元へと持っていく。手の平に先ほど触れた柔らかな感触を感じる。こちらを見上げる瞳は、羞恥から僅かに潤んではいるが決して目を逸らそうとはしない。
「オルベリク、あなたの全てが知りたいんだ。だからちゃんとその顔を見せてはくれないだろうか?」
「全く、お前というやつは……」
無自覚でやっているからたちが悪い。ため息をついたのはつられて赤くなった顔の熱を逃がすためだったが、うまくはいかなかった。
些か情緒はないがサイラスが望んでいるのなら仕方あるまい。サイラスの口元から手を外し、もう一度覗き込むように顔を近づける。今度こそその瞬間を見逃すまいとサイラスの目はしっかりと開かれオルベリクを映す――今オルベリク自身も見たことのない表情を、サイラスは見ているのだろうか?
(……なるほど、案外悪くないな)
染められたのはどちらなのか。
二度目のキスは先ほどより長く触れ合わせ、オルベリクの他に誰も知らない唇を堪能したのであった。
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