その日は、少しだけ帰りが遅かった。大学に行く必要がある用事があって、仕方なしに大学まで向かって。それから、帰りにスティックを見て帰ろうと楽器店に寄って、近所の喫茶店で適当に飯を済ませてから帰った。適当に入ったその喫茶店が、どういうわけか普段よりも混んでいて、提供に時間がかかっていたのだ。それでも、何度か入ったことのあるその店は変わらない味を提供してくれて、まあちょっと帰りは遅くなったけれど美味かったしいいか、なんて思いながらも帰路に就いた。
最寄り駅から自宅までは、遠いわけでもないが近いわけでもない。歩くにはややおっくうだけれど、自転車やら車をわざわざ出すほどではない距離。けれど、今日ばかりは徒歩を選んだことに少し後悔した。冬の夜は冷える。家を出たのは日の出ている昼頃だったから、その時の気温に合わせた服装で、つまり日の落ちた今となっては思わず身震いするような寒さを俺が襲っていた。さっさと帰ろう、と改めて決意して、普段よりも急ぎ足で帰路に就く最中。
「ジョーさん」
思わず振り返った。それで、振り返ってから失敗した、と思った。俺を「ジョーさん」と呼ぶ人は、ありがたいことに多い。ミクホドラムとして活動している時の俺は「ジョー」で、そして他のメンバーに年下が多いからか、俺は「ジョーさん」と呼ばれることが多いのだ。さらに言うなら、バンドで活動している時もサメちゃん以外は「ジョーさん」と、そう呼んでくれる。まあそもそも、本名が錠なのだから、音としてさして変わるわけではないのだけれど、それはさておき。
ともかく、今かけられたその声は、聞き慣れたものではなかった、というのが問題だった。俺の知らない人が、俺を「ジョーさん」と呼ぶ。俺をミクホのドラマーとして、一方的に知っている恐らくファンの子のそれだろう。
そこに立っていたのは、もこもことしたかわいらしい上着を着た女の子だった。きっと、歳は俺と変わらないくらい。
「ジョーさん、ですよね。ミクホの、ドラムの」
「あー……うん、そう、だけど」
歯切れが悪くなったのは、流石に少し警戒したからだった。今はすっかり日の落ちた夜で、このあたりは街灯が多いわけでもない。スキャンダル、の文字が脳裏を踊る。俺たちはめちゃくちゃ有名、というわけではないにしても、それなりに名が知れているのだ。
「良かった、ずっと会いたかったんです」
そんな俺の警戒を知ってか知らずか、その子が心底嬉しそうに声を上げる。それから、たたたとこちらに駆け寄ってきた。思わず一歩後ずさろうと、足を軽く持ち上げて。
どん、と身に衝撃が走った。
最初は抱き着かれたのかと思った。腹部に対する衝撃が、どこかサメちゃんが突撃してくるときのそれに似ていたから。
けれど、すぐに違うと気づいた。
「あのね、私、あなたがみんなの前に立つのが耐えられないの」
その子の手が、俺の腹に添えられている。いや、違う。これは、だって。そんなこと、起きるわけ。
「だからね、あなたが、ステージに立てなくなればいいと思って」
その子が、少しだけ俺から距離を取る。その頬は、心底嬉しそうに、まるで恍惚、ともいえるような表情を浮かべて、それで。
恐る恐る、視線を落とす。俺の腹には、鈍く光る刃物が刺さっていた。
「あ゛、え」
それを認識した途端、脳に信号が伝わり始める。熱い、熱い、熱い、いや違う、痛い。
腹から血が溢れている。その血が熱くて。液体が体をつたって地面に落ちていくのが、どういうわけか嫌に視界に入った。
「ね、これで、私だけのジョーさんになってくれるよね?」
そう言って、変わらず恍惚とした表情で俺を覗き込んで来るその子が、どうしようもなく怖くて、怖くて。
どさり、音が鳴って、それでやっと、俺が地面に崩れ落ちていることに気づいた。触れるコンクリートの地面が冷たい。だと言うのに、そこに俺の赤い血が広がって行って、それは妙に生ぬるくて。
「ね、ジョーさん」
声に釣られて視線を持ち上げる。その子は俺に手を伸ばしてきていた。さっきまで見下ろしていたその女の子が、そこまで身長のある子ではないことは分かっている。分かっているのに、その姿が嫌に大きく恐ろしく見えた。
だめだ、逃げないと。そう思うのに、身体は動かなくて、だというのに震えは止まらなくて。奥歯が噛み合わない。己の歯の鳴る音が嫌に耳につく。どうにか後ずさろうとして、伸ばした手が嫌に生ぬるい水たまりに触れた。いや、きっとどこかで分かっていた。
恐る恐る、濡れた手を持ち上げる。目の前に持ってくる。それは、俺の手は、俺の血で真っ赤に染まっていた。
「これで、ずーっと一緒だね……?」
そっと、その子の手が俺の頬に触れる。その手が嫌に熱かった。ああ、もうだめだ、と思うと同時に意識が遠のく。
落ちていく意識の中、この子の手が熱いんじゃなくて、俺の体が冷えているのか、と現実逃避のように考えた。
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