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ふるさと さくら
2024-12-18 22:06:33
11098文字
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⑧融カド テーマ『体調不良』
性癖パネルトラップ⑧
融合(の服着た🎹)×カードマスター(の服着た🧐)
いつもより優しめ成分多めでも大丈夫な人向け。短めの話かも。融カドである意味はあんまりなくなってしまったかも。
駆け引きという勝敗を決めるのは、いつだって自らを偽る仮面だ。
『本日のブラックジャックゲームは終了しました。皆様、速やかに会場から退出してください』
無機質なナイチンゲールの呼びかけに、サバイバーたちは緊張の糸が切れたかのようにため息をついた。このブラックジャックというゲームは、通常のゲームで協力することが必要不可欠なサバイバーにとっては非常に心労の大きい娯楽である。常日頃は助け合う関係であるはずなのに、このゲームでは敵方のハンターだけを相棒として他の陣営を蹴落とさなければならない。それが日常の脱出ゲームに影響を与えないはずがなかった。開催初期のサバイバー間での軋轢はそれはひどいもので、喧嘩が勃発すれば比較的穏やかなハンターたちが慌てて仲裁に入ることも少なくなかったほどだ。それも今では大部分の人間がルールを割り切って考えるようになったので、昔よりかはマシになったと言ってもいいだろう。
さて、そんな敵多きゲームも今宵はもう終わりらしい。フレデリックはゆっくりと息を吐きながら、今日行われた数度のゲームの報酬を得るべくゲーム会場の出口から歩き出す。少しばかりのイングリッシュガーデンを抜けると、どこの会場からでも必ず辿り着く馴染み深い邸宅が現れた。ここはサバイバーとハンターが共に暮らす永遠の牢獄。住みやすくも快適な、生涯出ることの叶わない箱庭だ。その入口に設置されたいくつものポストを探し、自身の名の書かれた赤い郵便箱を開く。中には小さな黄金の宝玉がふたつ、みっつ。記憶を辿るささやかな報酬だ
……
年数的にこの荘園に囚われて日の浅いフレデリックにとっては、無用の長物に過ぎない。それでも荘園内で過ごすための通貨の足しにはなるだろうと、彼はすみやかにうっすらときらめく報酬をポケットの中に差し入れるのだった。
「今日もありがとう、フレちゃん。一緒にゲームができて楽しかったわ」
「女王陛下
……
力不足で申し訳ありません」
「ふふ、謝らないで。今日はカードの運が悪かったのよ。何せカードゲームに愛されたみたいなお方が参加されていたんですもの」
そう言って笑う血の女王マリーは、今回のゲームでフレデリックの相棒を担ったハンターである。しかし気高い彼女には不似合いの僅かばかりの宝石が、控えめに彼女の指の間で揺れているのを見ると
……
上手くことを運ぶことのできなかった自分自身を、フレデリックはどうにも情けなく思えてしまった。彼女に暗い幕引きは相応しくない。そう思うのは、赤き女王の出で立ちに遠い身内の影が潜んでいるからだろうか。フレデリックは、どうにもマリーに対してはあまり剣呑な態度を見せることができないでいた。
「
……
あら? そういえば、それこそ噂の小説家はどこへ行ってしまったのかしら」
ふと、きょろきょろと辺りを見回し始めるマリー。確かに、とフレデリックはつられて静けさに満ちたイングリッシュガーデンの入り口で視線を彷徨わせた。確か会場から出る時、自分とマリーは最後だったはずだ。それなのにオルフェウス宛てのメッセージボックスは、固く閉ざされて開かれた形跡がない。彼の相方である悪夢が怒り肩で協力狩りに去っていたのを見かけたのを覚えているからこそ、訝し気な気持ちが膨れ上がっていく。オルフェウスは、まだ会場から出てきていないのか?
「フレちゃん、探しに行ってあげたら?」
「私が、ですか」
「当たり前でしょう。あなたたち、特別な関係なんだから」
ぐさりとマリーに釘を刺されて、フレデリックは思わず呻きたくなった。確かにマリーがいなければ、誰の目もないのをいいことに、そっと時間外のブラックジャック会場に忍び込んでいたことだろう。しかし面と向かって指摘されると、どうにも足が向かなくなる。言われなくてもやろうとしていた、言われたからこそ言う通りにするのが癪に障るのだ。何より、いくら親しい人に似ている血の女王であっても、彼との関係をむやみやたらと引き合いに出されるのは接するうえではこの上なく不服だった。
とはいえ、悪気のない女王を不機嫌にしても後々の自分が困るだけなのはよく分かっている。すんでのところで自己主張を潜めたフレデリックは、億劫な自分をそれでも隠し通すことはできないままくるりと彼女に背を向けた。
「
……
分かりました、様子を見てきます。ですが女王陛下、あなたはここで悠長にしている場合ではないのでは? この後趣味の悪い英国紳士と協力狩りの約束があると聞いていますが」
するとマリーは、今の今まで忘れていたとでも言わんばかりに口元を押さえた。
「やだ、すっかり忘れていたわ」
「あぁっ、ちょっとマリーさん! 私、荘園の運営と打ち合わせがあるから先に控室で待っていてくださいって、言ったじゃないですかぁ!」
噂をすれば何とやら、ちょうどゲーム会場から慌てて飛び出してきたリッパーがそう言ってマリーを指差す。(正確には鍵爪を差し向けたのだが)
「ごめんなさいねリッパー。ついお話に花を咲かせてしまったわ」
「ンも~、あなたが陰気な作曲家のことをいたく気に入っているのは知ってますけど。それとこれとは話が別ですよ、私、これでも忙しいんですからね」
ぐちぐちと文句を言い続けるリッパーと、そんな嫌味もまったく嫌味と捉えられずにくすくすと笑うマリー。二人の漫才じみたやり取りは、いつまでたっても終わる気配が見えてこない。ここでいつまでも聞き耳を立てていても意味がないだろうと、フレデリックはそっとハンター二人の側から離れて、静かに伽藍洞のゲーム会場に小走りで消えていくことを選んだ。
いつまでも、いつまでも。騒がしい二人の声が聞こえてくるかと思われた。しかしゲーム会場と邸宅の道はやはり位置関係が『ねじれて』いるのか、フレデリックがマリーたちのいた場所から見えない位置に滑り込んだ瞬間、彼らの声はぱたりと聞こえなくなってしまった。
思わず振り返るが、もうそこに荘園の姿はない。諦めて前を見れば、そこは閑散とした教会のステージ。灰の世界には生きる者など皆無に等しく、その侘しさにフレデリックは若干のうすら寒さを覚えて
……
そしてゆっくりと、赤く敷かれたカーペットの上を歩き出した。
ブラックジャックのゲームが終わったのは六時過ぎ。未だに娯楽ゲームが解放されている時間ではあるが、規定のタスクを終わらせてしまえば、よっぽどの物好きでもない限りはまずブラックジャックだけに注力する者はいないだろう。ゆえにまだ体験可能な時間帯であるにもかかわらず、カードゲームを楽しむための会場には人の気配がないのだ。
こんな寂れた場所で、オルフェウスは何を? かつてこの荘園に囚われる前、一度小説家に騙されかけたことのあるフレデリックは、彼の打算的なとこや疑わしいところを思い出し、やや厳しい光を目に浮かべた。
(もう、荘園運営の座からは引きずり降ろされたというのに。あなたはまだ、過去の悲劇に絡め捕られているのか
……
?)
もう出られない、という大きすぎる絶望ゆえに修復された間柄がこの荘園には数多く存在する。しかしオルフェウスは、時々過去を見つめてぼうっと遠くを見つめる方に分類される人だった。すなわち彼は、ほんの小さな拍子で再び暗く冷たい道に戻りかねない程度には不安定なのだ。もしもこの赤の教会で、オルフェウスが誰にも気づかれることなく新たな画策を企てているのだとすれば。
(それは、止めなくては。私のためにも、彼のためにも)
あの眼差しが、フレデリックの知らない方を向くのは許容外の話である。彼はこの永遠に地続きな荘園で私と特別な関係を築いたのだから、今更手の届かないところに行ってもらっては、困るのだ。
フレデリックは灰色の空気を抜けて、朽ちかけた教会の入り口をくぐった。誰もいない、閑散の結婚式場。無機質に置かれた暗号機と、響く足音。誰もいないはずの、神様にとても近い場所。
しかし、その奥に掲げられた十字架の真下に倒れる人影を目の当たりにした瞬間────フレデリックは思わず、全身の血の気が引く感覚を覚えた。
「
……
オルフェウスさん!」
豪奢な衣装に身を包んだその人物は、横向きの姿でレッドカーペットに身を投げ出したままぴくりとも動かなかった。それまでつとめて冷静な素振りを見せていたフレデリックの表情は瞬く間に狼狽に染まり、黒のレザーコートが塵で汚れるのも厭わずにオルフェウスの元へと駆け寄る。そのまま焦燥気味な手でオルフェウスの口元に手をやったが、ひとまずは呼吸の確認が取れたことで胸を撫で下ろす。しかし次いで触れた頬の異様な熱を直に感じ取ったことで、フレデリックは息を呑んだ。
「
……
熱が高い。体調を崩しているのか? なぜ、そんな状態でゲームに
……
」
絶句しつつも注視してみると、オルフェウスの呼吸はやや荒く乱れているらしいことは見て取れた。どうやらこのディーラー風の格好をした小説家は、なぜか自身に無理を強いてブラックジャックのゲームに参加していたようである。どうしてそんなことをしたのか、と問いただしたい気持ちは山々だが
……
今はそんなことを突き詰めてもどうにもならない。まずはこの無理をし過ぎた小説家を、休めるところまで運ばなければ。
「
……
失礼。少し、不安定でしょうが。我慢してください」
声をかけるが返事はない。やや紅潮した顔は苦悶に歪んでいるものの、フレデリックの声は聞こえていないようである。常日頃はきちんとセットされているはずの前髪が崩れて、少しだけ幼げな顔立ちになったオルフェウスは、ただ静かに苦しげな呼吸を繰り返すのみだった。やむなくフレデリックは彼から許可を得たことにして、熱を帯びた身体に腕を伸ばした。
……
重い。やはり、自分の体力では限界がある。医師が常駐している医務室までは運べない、せいぜい入口近くで寝泊まりしているオルフェウス自身の部屋までしかたどり着けないだろう。仕方がないので、フレデリックはひとまずの目標を小説家の私室と定めて、すでに重みに耐えられなくなりかけている身体を叱咤して、ゆっくり、ゆっくりと歩き出すのだった。
かちり、と備え付けの時計の長針が幾度目かの十二を指した時だった。
「
………
あ」
久方ぶりの呻き声に、うたた寝気味の目が覚める。フレデリックは眉間に皺を寄せながら、ゆっくりと覚醒したのであろう部屋主の顔を覗き込んだ。窓辺から射す光は星だけであまりにも頼りない。時刻は既に深夜零時を回っていた。
「お目覚めですか」
「え
……
クレイバーグ、さん
……
?」
「えぇ、フレデリック・クレイバーグと申します。風邪引きのオルフェウスさん、あなたを私がここまで運んで差し上げたのですよ」
お礼のひとつでも、言ってみてはいかがですか? そう意地悪く投げかけるも、オルフェウスの意識は未だに綿菓子のようにふわふわとしているらしく、掴みどころがない。この人、私が息を切らせて尚且つ協力狩りで人気が少ない時間を突いて上手く潜入を成功させたことを、果たしてちゃんと分かっているのだろうか。つい冷たい言葉をかけそうになるも、ギリギリのところで弾丸を飲み込む。オルフェウスは傷病者だ、何も今強く当たらなくてもいいだろう。そんな自らへの戒めをフレデリックが胸に刻んでいるのにもかかわらず、当のオルフェウスは柔らかく微笑むばかりで自分が風邪引きであることもよく理解していないようだった。
むしろ、見当違いなことを話すばかりで。
「あぁ
……
そうか。そうなんです、ね。はは
……
これは随分優しい夢だ」
「夢?」
思わずそう聞き返すと、オルフェウスは少し咳き込みながらも額に手を当てた。頭痛が思考を苛むのだろう
……
そっと冷えたタオルを乗せてやると、オルフェウスは溶けかけた氷のような不安定さを表情に浮かべながら、フレデリックをやんわりと見つめてきた。
「あの、クレイバーグさんが私の世話をしてくれるなんて。そんな都合のいいことが、起こるはずがありませんから」
「
……
しますよ、それくらい。私を見くびり過ぎでは?」
「いえ、いいえ。クレイバーグさん、あなたはきっと、そんな人じゃない
……
分かってるんです。本当は、クレイバーグさんが不本意なまま私と交際していることくらい、分かってます」
なんだって?
思わず手にした洗面器を取り落してしまいそうになるほどの、発言だった。さすがにオルフェウスの言いたい意図が分からず、フレデリックは呆然と立ち尽くすほかない。しかし当のオルフェウスはそうしたフレデリックの動揺した姿も夢の一部だと思っているのか、あまり気にすることなく一人で勝手に喋り出すのだった。
「永遠に終わらないこの荘園のゲームに不安を抱いて、互いに眠れなかったあの夜。ただ寄り添って、リビングのソファで朝を待ったあの夜。あれから、私たちの関係は一歩進んだものになった。でもねクレイバーグさん、あなたが私を支えてくれるのは
……
ただの同情ゆえでしょう?」
オルフェウスの口はよく回る。いつかの真昼に、自分を厩舎の方角へ導いた時のように。彼はあの頃の聡明さをいくらか失ったが、それでも未だに「小説家」という身分を与えられている以上は半端に狂いきれないまま、今もなけなしの紳士の風体で知性の権化を演じている。本当は、もう何もかも失っているくせに。過去の楽園を再建しようと目論んだ地位も、本物の思い出の少女も、与えられた才能でさえ。彼が理知的な振舞いをする影で、既に人格すらも壊しかけていることをフレデリックはこの荘園の誰よりも知っている。そういう立場にいる自分を、あまつさえこの人は否定するのか。
「ただのオルフェウス、ただのサバイバー
……
私にはもはや、文壇の新星を名乗るほどの価値もない。それでも私がかつて荘園の裏と通じていたのを知っているから、あなたは私を気にかけるのでしょう。そうしていれば、あなたがお得意の営業にもつながり、いつかはこの荘園から出られるかもしれないから。あぁ、残念ですねクレイバーグさん。私、もうそんなに偉くないんです。そんなに優しくしていただいても、何の見返りもありませんよ。そんな意味のない行為はあなたらしくない
……
」
そう言い切って、オルフェウスは少しだけ咳込んだ。どうやら喉風邪も煩っているらしい。それなのに彼はのろのろとベッドから起き上がって、せっかくフレデリックが乗せてやったタオルを落っことしながら喉が灼けるような度数の高い酒が飲みたいなどと言い出す。今日の彼は一段と弱気だ、普段なら気を律してそんな素振りは見せないのに。だからこそ、フレデリックはひどく複雑だった。こんな彼を見せつけられるのは癪なのに、そうした彼を見ることができるのも自分だけだという相反する事実が、どちらにしても独占の二文字で事足りてしまったからだ。
「それなのに、あなたは夢の中でも偽りの優しさをくれるんですね。こんな、あなたに何もしてやれない私のために
……
」
オルフェウスの腕が、ゆらゆらと伸ばされる。側にいるフレデリックの頬を撫でようとするために、だ。
しかしフレデリックが、その朦朧とした触れ合いをそのまま受け入れることはなかった。
「────あ、っ」
やや裏返ったオルフェウスの声が部屋に響く。くったりとして熱を帯びた腕の先が、黒いレザーコートから生えた手に掴まれて行き場を失っている。見下ろせば、ずっと夢心地で語っていたオルフェウスの目が驚いたように見開かれていた。あまりの高熱のせいでろくに身も清めてやれなかったせいで、彼の目元には未だにスペードのきらめきがこびりついている。狡猾なディーラーの姿をしていながらも、目の前にいるオルフェウス自身はどこまでもただの小説家でしかないように思えた。
ようやく、頭が冴えたのだろうか。オルフェウスは少しひんやりとしたフレデリックの手のひらの感触に気がついたのか、熱っぽい顔色のまま何か言いたげに口を動かしていた。しかし上手く声にならないのか、ろくな言葉は流れてこない。なぜ自分は自室に戻っていて、どうしてフレデリックがそばにいるのかも、彼はまだ理解できていないようだった。
「あ、れ。夢じゃ、ない
……
?」
「誰が夢だと言いましたか。まったく、あれだけ好きなように喋っておいて、何も覚えていないなんて言わせませんよ」
呆れた様子のフレデリックを見て、今度こそオルフェウスはこれが現実であることを悟ったらしい。そして自ら夢の中の出来事だからと思い込んで赤裸々に語った数々を思い出したのか、彼は別の意味で顔を赤く染めてしまった。それでいて慌てたように弁明をしようとするのだから、やはりこの人以上に愉快な人はいないだろうとフレデリックは密かに笑みを溢す。
「オルフェウスさん」
呼びかけながら、腕を引く。捕らえて離さぬと言わんばかりに、風邪を引いた彼の上に覆い被さってみる。そうすると逃げ場を失ったまま仰向けになったオルフェウスが、緊張しているのかしきりに瞬きをするのが薄暗闇の中でもよく分かった。普段は彼の方から話しかけてくることの方が多いから、きっとこんなことをされるとは思っていなくて驚いているのだろう。
汗ばんだ首元に、額からずり落ちたタオルを当ててやりながら微笑む。熱が冷やされる感覚にオルフェウスは安らいだのか、目を細めて心地よさそうにフレデリックの手に身を預けた。
何も言わずに差し出してやれば、素直に寄りかかってくるくせに。やはり、言って聞かせないと分かってはもらえないのか。
「ねぇ、オルフェウスさん。あなたのことを何とも思っていなければ、こんな風にあなたに触れたりなんかしませんよ」
「
………
」
誤解を解こうと語りかければ、オルフェウスは気まずそうに目を逸らした。
「
……
本当に?」
「何度も言わせないでください。あなたに露ほどの価値もないことは、とっくの昔に理解しています。今更あなたに媚びを売っても何の意味もないでしょう」
「ひどいな。でも、本当のことだ
……
」
そう言って擦り寄ってくるオルフェウスの頬は、焔のように熱かった。何かが腑に落ちたのだろうか
……
目の前のオルフェウスは風邪のせいで依然として弱々しいけれど、先程までの諦念感にはもう囚われていないように見える。臆せず寄りかかろうとする姿からは、フレデリックが言わんとしたことが伝わった様子も見受けられた。
「すみません。少し、情けないところをお見せしました」
「私が弱くなった時、あなたに謝るのが癪なので謝罪はしないでください」
「ふふ。クレイバーグさん、やはり私たちは言葉を交わすより、感覚的に隣り合う方が性に合っていると
……
そうは思いませんか」
「まったくですね。あなたも私も、口を開くと余計なことを話す方ですから」
フレデリックはそこで言葉を切り上げると、おもむろにベッドから降り去った。唐突な別れに、寝台の小説家は何も言わなかったが少し寂しげな表情を浮かべる。何も、遠くへ行くわけではない。安心させるべく頭を撫でてやると、彼は安堵を覚えたのかベッドの中から柔らかい親愛を向けてくるのだった。
オルフェウスの微笑みを記憶に焼き付けて、流しへと赴く。暗い部屋の中には、フレデリックの淡々とした準備の音が奏でられていた。冷水を溜める音、真新しいバスタオルを浸す音、ゆっくりと水滴が下へ落ちていく音
……
程なくして、フレデリックは両手にいろいろなものを携えてオルフェウスのもとへと戻って来た。そして熱のこもった毛布を少しだけ退けてやると、窮屈そうなオルフェウスのディーラー衣装に手をかけ始めたのだった。
「寝苦しいでしょう。着替えと
……
気分が優れないなら、身体を拭くので。起き上がれそうですか?」
フレデリックの問いかけに、オルフェウスは静かに頷く。そうして助けを借りて身を起こした彼は、それでも本調子とは言えなさそうな雰囲気だった。自力で姿勢を保つのも難しいようで、ふらふらとした身体はあっという間にフレデリックに寄りかかって止まってしまう。しかしそれを邪険に扱うことはせず、フレデリックは豪奢な衣装を脱がしてやりながら必要なことだけを質問し続けた。
「着替えたら、横になりましょう。背中の汗だけ、拭きましょうか」
フレデリックの提案にオルフェウスが否を唱えることはない。言われた通りに上半身の衣装を脱ぎ捨てて、彼はゆっくりと真っ新な背中をこちらへ向ける。じわりと浮かび上がった汗の粒が、下へ伝って落ちていく。通気性の低い高品質の服なんか着ていてよく辛くなかったなと思いつつ、フレデリックは随分と小さくなったかつての荘園運営者の背に、湿った布を当ててやるのだった。
「
………
」
ふぅ、と向こう側からため息が漏れる。発熱した身体には冷感がもっともよく効くのだということを、フレデリックは幼い頃の経験から知っていた。自分がまだ家族に愛されていた頃、そうやって看病された記憶から同じことを施してやったつもりだったが、静かにこちらに身を委ねるオルフェウスの苦痛が和らいだことを知り、フレデリックも密かに安堵の心地を自覚する。正直、こういう献身的なことは性に合ってはいないのだと思う。だからこそ、遠い昔の思い出を何とか搔き集めてみた成果が出たことに対して、枯れかけのヤグルマギクが息を吹き返してくれたかのような思いをつい抱いてしまうのだ。
そういえば、こうしてただ寄り添うために彼の背中を見ることは初めてのような気がした。それもまた、どうにも胸の内を満たすことのように思えて。常であれば不安定な肩甲骨に触れたりするところを、今日は敢えて避けたまま今度は身体の前面を安らかにしてやるべくこちらを向かせる。
少し驚いたことに、オルフェウスはフレデリックの方を向いた瞬間、やんわりと目を閉じたのだ。そんな風に自分と相対する人は、今までいなかった。誰も彼もが、作曲家という身分よりもその見目ばかりを評していた。それなのに彼は、まるで音だけ聞ければそれでいいとでも言いたげに、視界に映るフレデリックの全てを遮ってしまったのだ。
ひょっとしたら、彼はただ微睡みに揺られて半ば眠りたかっただけなのかもしれない。これはただの、勘違いなのかもしれない。
でも、それでも。たったそれだけのことが、フレデリックには大きすぎた。
依然として、沈黙は絶えない。綴る言葉はなく、ただ生活音だけが流れる世界。オルフェウスの肩に、腕に、その素肌に触れるたび、フレデリックは彼にだけはその気配を悟られぬように俯いては手を止めた。その間も、思考がぼんやりとしているであろうオルフェウスが怪訝に何かを問いかけてくることはなかった。彼はただ静かに汚れた身体が拭われるのを待ってくれていて、だからこそフレデリックもいつまでも俯いて湿ったままではいられず、少しだけ首を振ってはもう一度オルフェウスを拭いてやって、また手を止めてを繰り返した。誰も、何も咎めなかった。フレデリックの手つきがどれだけ拙くても、オルフェウスが何も言わないことが不安であっても、互いに声は殺していた。喉を震わせたが最後、この夜が終わってしまうような気がしたからだ。
やがて、フレデリックは慣れないながらもオルフェウスの汗ばんだ上半身を綺麗に仕上げた。その頃にはオルフェウスも僅かながら自力で動けるようになったようで、フレデリックの手を借りながらもなんとか清潔な服に着替えることができていた。最後に目元に張り付いたスペードのグリッターを拭きとってやりながら、フレデリックは胸中にて「今日できるのはここまでだ」という結論を導き出す。熱がある以上、むやみに湯水を頭に引っ掛けては余計に悪寒を招くだけだろう。だから今は、もう眠らせてやるのが一番だ。ずっと昔、寝込んだ自分を看てくれた母親ならば、きっとそうするだろう。
オルフェウスを横にしてやった後、フレデリックは捲っていたコートの袖を直しながらようやく言の葉を紡ぐ。
「
……
では、私はこれで。おやすみなさい、オルフェウスさん」
そう言って立ち去ろうとしたのだが、どういうわけか微睡みかけていたはずのオルフェウスは、はっとして寂しげな顔を見せた。そして咄嗟にフレデリックのコートの裾を掴みかけて────我に返ったように手を離す。しかし一瞬でも引っ張られたフレデリックにはオルフェウスの言いたいことが嫌になるほど分かってしまう。
「
………
」
そうだ。かつての自分は、病が移らないようにとすぐにいなくなってしまった母のことを、果たしてどんな目で見送っていたか。思い出してしまえば、もう足は外には向かなくなる。
振り向けば、いたたまれない様子のオルフェウスが目を逸らしていた。まるで叱られるとでも思い込んでいる子どものようだ。彼はいつだってそうだった。この終わらない荘園に閉じ込められてからのオルフェウスは
……
どこまでも、才能が枯れ始めた頃の自分にそっくりなのだ。自分に価値がないと笑うところも、優しい手に疑いをかけることなく寄りかかってしまうところも、何もかもが最も苦しんでいた頃の自分に重なって────だからこそ、放っておけないのかもしれない。
「
……
今日は、ここにいます」
同じ風邪をひくかもしれないとか、寝るにしてもオルフェウス好みの硬いソファしかないじゃないかとか、そんなことはどうでもいいのだ。ただ、彼が不安にならないようにそばにいたいだけ。その意志を表明すると、オルフェウスは信じられないのか掠れた声で「どうして」とだけ呟いた。
フレデリックは、敢えて答えはしなかった。代わりに椅子を引いてきて、ベッドの近くに寄って座ってから、温い空間に入り込んだオルフェウスの胸のあたりに手を置いた。そうして「目を閉じて」とだけ告げて、ゆっくりと穏やかな旋律を口ずさむ。
それは、彼の父親が息子のためにと作ってくれた子守歌だった。生まれてくる前に作られたそれが、ついぞ父の手で奏でられることはなかったけれど。今だけは、生家から持ち出した楽譜の中に混ざっていたその曲に、生命を吹き込むのも悪くはないかと、そう思った。
二人だけの部屋に、歌が流れる。そうしているうちに、メロディーの中には安らかな寝息が重なり始めた。その瞬間フレデリックは、ずっと前に「不安で、いつも目が覚めてしまうんです」と呟いた横顔を、ふと思い出した。
……
あぁ。彼はようやく、眠れたのか。
旋律を終わらせて、ゆっくりと拍子を取っていた手を止める。目を閉じたオルフェウスの表情は、どことなくあどけない。明日か明後日になれば、また調子よく回り始めるであろう小説家の立ち振る舞いを想像してからその寝顔を見ると、どうにも雰囲気が合致しないのがおかしく思えた。そして願わくばいつまでも彼が安らかであることを、柄にもなく願ってしまうのだった。
明日、彼が起きたら。
いつもより少しだけ、優しく声を返してみよう。嫌味を言われても、少し耐えて。その後何気なく、どうして無理をしてまでゲームに出たのか聞いてみよう。
そうすればきっと、いつもより少しだけ素直になれる。そんな気がした。
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