音に驚いて飛び起きた。跳ね上がった肩と背が痛んで、心臓がどくどくとうるさい。なんの音だったのかも分からず、頭の中が混乱してしばらく固まっていた。音はとっくにやんでいたが、それが現実のものだったのかは分からない。夢だったのかもしれないし、本当に音が鳴ったのかもしれない。
襖の開く音を聞いて、ようやく思い出した。からだをそちらに向けて、入ってきた男を見上げる。
「寝てた」
正直に打ち明けると、男は首をかたむけた。手には湯呑みがある。
「でもあとちょっとで終わる」
「そうですか。間に合いそうですね」
文机のすみのほうに湯呑みを置いた恭介は安心したように目を伏せ、そのまま灰皿に視線を移した。山になっている――ほどでもないが、それなりに吸い殻が押しつぶされている。恭介の手が灰皿に伸びた。
「片付けてもいいですか」
「ん」
一度うなずくと、銀色の灰皿をすらりとした手で取り上げた。その手の動きを目で追い、思いついたように「あ」と呟く。恭介の手が止まった。
「まだ吸いますか」
「……いや」
かぶりを振る。そして、壁を見上げた。白かった壁は、うすぼんやりと黄ばんできている。それから、再度部屋から出て行った恭介の背中をふたたび視線で追いかけるように振り返った。
恭介の手を見たが、この壁よりも白い気がした。年齢を重ねた手だと思うが、ほっそりとしたいい手だと思った。それでも編集者というよくペンを持つ仕事をしているからか、節々がしっかりとしているような気もする。
そして原稿に目を落とす。ややぼやけた筆跡は紛れもなく自分のものだが、居眠りする前のことはよく思い出せない。足もとに落ちていたばらけたメモ帳を取り上げて、指で撫でる。自分の手はあまりきれいなものではない。いつも青白く、骨や血管が浮いてまるで病人のようだ。
台所のほうから洗い物をする音が聞こえてくる。耳をかたむけ、鉛筆を持つ。そして、手、と書いた。
時折白昼社を訪ねるが、きっちりと整理されている空間を見ると物怖じしてしまう。とはいえ、朝謡出版はひとが多いので気疲れしてしまうし、夜見書房は行ったことがない。その他の出版社は過去数回行ったことはあるけれども、持ち込んでも書店に並ぶことはなかった。
それでも初期のころは持ち込まなければやっていけなかったので、恐る恐る持ち込む毎日だった。疲れる毎日だったが、それが今実っていると思うと少し気が楽だった。こうして、恭介もよく訪ねてきてくれるから。
原稿を読む男の顔を眺める。目が上から下へ移動しているようすを背中を曲げながら観察した。視線には気付いているだろうが、男はただ原稿に意識を向けているようだった。なんとなく落ち着かなくなって、自分の部屋だというのに珍しいものを見るようにあたりを見回す。ふいにカサリと恭介の手の中にある原稿が音をたてた。
「手が出てきますね」
「ああ……うん」
「最後で、手が主役になる」
「……やっぱり、おかしいか……。書き直す」
自分に言い聞かせるようにこぼすと、恭介は「いえ」といった。
「良いと思います。とても。春木さんらしい作品かと」
「俺、らしい」
春木了らしい作品――文学。それが売れるか、売れないか。そのときにより違う。売れるときもあれば売れずにまるで〝なかったもの〟として扱われたこともある。恭介は了の作品を読破しているらしく、その熱意には頭が上がらない。「どうして」「なぜそこまで」と思うときもある。
「裸足」
と、男は言った。
「ああ。あの短篇。あれがどうかしたのか」
「売れ行き、好調のようですよ」
「……あれ、雑誌だろ」
すべての読者が春木了目当てではない。雑誌はそう言うものだ。他に売れっ子作家がいれば数字は跳ね上がる。
差し出された原稿を受け取ると、封筒に入れて紐で封をした。恭介は「その件で、良いお話が」と続けた。
「編集部の中で、裸足を表題作にして短編集を出したらどうかという話があがりました」
「……短編集か」
「雑誌に何本か出されているでしょう」
「ああ」
封筒を男に手渡すと、切りそろえられた爪が見えた。
「〝人で無し〟〝楽土〟〝揺らぎ〟」
指折り数えている男の手をじっと見つめる。
「〝親愛なる劣情〟……」
と、そこまで数え、男はくちびると閉じた。視線を感じ取ったのか、それとも別の意味で言葉を切ったのか。
「いかがでしょう」
けれども特別言葉を重ねることもなく、了を見据えた。膝に手のひらを押しつけながら、それとなく視線を外す。
「いいんじゃないか。あんたが選んだものなら間違いない。売れるかどうかは知らんが」
「その辺りは私たちの手腕にもかかっていますから」
あなただけでのせいではありません、と言っているような気がした。だが、了の文学を認めないものたちももちろん、いる。妙にフラフラとしていて、特別強く心に訴えかけるようなものもなく、ただ霧がうっすら晴れるようにすうっと終わる。そんな話ばかりだ。――氷蓋を除いては。とは読者、あるいは批評家の言い分だった。了も、確かにと思うこともあるし、認めてもいる。だが、これが自分の文学なのだから仕方が無い。
「それに関して、掲載順の説明をしたいので白昼社に来ていただくことはできますか?」
「ああ……そうだな。いいよ、別に。……できたら朝か夕は避けてくれるとありがたいんだが」
「そうですね。そうしましょう」
朝も夕も、歩くひとが多い。途中、大通りの辺りなんかはごった返していて近づくだけで足が竦む。
日時を決めると彼は手帳を取り出し、ペンを走らせた。そして躊躇わず上から下に破り、その紙を了に手渡す。
「お迎えに上がります」
「……ひとりで行ける」
「といって、以前会社の前に立ちすくんで遅刻したでしょう」
「……う……」
そう言われてしまえば仕方がない。事実、そういうこともあった。分かったよ、と伝え、受け取った細長い紙を見下ろす。きれいな字だと思う。いい手からはきれいな字が生まれるのだろうか。
「白昼社は時間に厳しい方が多いですから」
そう言いながら手帳に書き込む姿はどこから見ても〝編集者〟だった。二十年以上勤務し、目も肥えている恭介だ。どうして自分の作品をみとめてくれたのだろうかと今でも不思議だった。茶をいれたり灰皿を洗ったりするのは編集者の仕事ではないのに。文句も、言わず――。膝の上の手をぎゅうっと握りしめる。
「原稿、お預かりします」
「ああ。……なあ、清野さん」
「はい」
視線をうろうろとさせながら不安げにしている三十路もなかばの男を、男は辛抱強く待っている。どうしてそこまで、と喉に出かかったが、くちびるを引き結んだ。
「いや、なんでもない」
「そうですか。――では」
座布団から立ち上がり、慣れたようすで玄関へ歩いて行く。そのあとを了も追った。いつの日か「見送りは結構ですよ」と言っていたが、了が珍しく嫌がったので恭介のほうが根負けしたらしい。
玄関で靴を履いている背中を見下ろしていると唐突に名前を呼ばれたので、返事が裏返ってしまった。
「あなたなら大丈夫です。いい本ができますよ」
立ち上がった男は、確信めいていた。なぜここまで言えるのだろう。なぜここまで了を信じられるのだろうか。
無意識にそろそろと視線が下がる。
「それでは。失礼します」
軽く頭をさげた恭介は、背中をまっすぐにして出て行った。
その後、呆然としたまま数分が過ぎたことに気付いたのは、足がひどく冷えてからだった。
自室に戻り、雪見障子の硝子の部分を背中を曲げて見つめると、隣の庭に大きく鋭いなにかが地面に落ちていた。枝だ。先ほどの音は大きな枝が落ちた音だったのだろう。庭師が一生懸命大きな鋏で枝を切り、整えている最中だった。庭師と目が合って、あわてて背筋を伸ばす。
寒いので膝を折りたたみながら手のひらで足の甲を擦った。全く暖まらないので炬燵に入ることにする。豆炭を入れなければいけないが、今は寒くて動きたくなかった。
恭介の、あの確信めいた目を見ていると本当に「そう」なってしまう気がする。なによりあの男は的確でも優しくて、情を持ってくれているように見えた。いつのまにか、了はあの男に懐いていた。優しくされたら嬉しい、と思うようになった。炬燵の天板に頬を乗せながら目を閉じる。今日は少し、良い夢が見られそうな気がした。
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