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fuji30557753
2024-12-18 18:57:40
21822文字
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氷上の彼方
元フィギュアスケート選手の伊の話
とりあえずここまで公開
氷上の彼方
氷の上が好きだった。何にも考えずに済むから。氷と自分しかない世界
―
—
リンクに上がれば、周囲の音は全く気にならなかった時期もあった。
もう忘却の彼方の出来事だけれど、確かに自分の人生の中に存在していた時間だった。
スケート場の清掃、受付の片付け、明日の準備など。営業時間を終えても、やるべきことは沢山ある。伊地知は数人のスタッフに指示をしながら、自分のやるべき仕事を粛々と進める。今日は地方からの団体予約もあったこともあってか普段よりも来場者が多かったなぁ、と溜息を付く。目立ったトラブルがなかっただけでも御の字か。そう思い直して、貸靴のチェックもしていく。出番の多いサイズは何足かまたエッジを研がないとならないと脇に捌けておいて、明日のタスクに組み込んでいく。
エッジを研ぐだけなら明日出社してからでも何とかなるだろう。
そうこうしている内に、あとは整氷車での作業を残すのみとなった。
時間はもうすぐ二一時になろうとしているが、今日はこれでも早い方だなと伊地知は準備を始める。使い込まれたスケート靴は、そろそろ変え時なのかもしれないけれど。近年で一番足に馴染んでいた伊地知お気に入りの靴だった。
仕事終わりのクールダウンとして、整氷前ならリンクを使ってもいいよーと伝えられた時は本当に嬉しかった。いろいろあったけれど、スケートを嫌いになんてなれなかったから。
スーッとリンクに上がって軽く流して滑っていく。
一蹴りする度にシャーっという音と共に、氷の上の世界が広がっていくのが好きだった。
今日はどんな図形を描いてみようか。そんな風に考えながら、伊地知は氷の感触を楽しんでいた。インサイド、アウトサイドを意識して、ステップを踏んでいく。
現役時代何度となく称賛されたステップは、今や誰に見せる訳でもなく。伊地知の個人的なスケーティングのみが披露の場だった。頑張って飛んでいたジャンプも、もう二回転までしか飛ぶことはできない。もしかしたら、トゥループやサルコウならまだ三回転を飛べるのかもしれないけれど、恐怖が先に立って引退後は挑戦すらすることはなかった。スピンはできるだろうが、眼鏡が飛んでしまうだろうから。この状態でやったことはなかった。
指先にまで神経を集中させて、現役時代の振り付けを思い出しながら伊地知はどんどん滑りを早める。スケート場の制服では限界があるのだけれど、この時間は一日の中でのご褒美だった。一日労働を頑張った自分への自由な時間。この時間があるから、毎日何とか頑張っている。
伊地知が選手としてフィギュアスケートと向き合っていたのは、小学生の終わり頃から大学二年生までの期間だった。二つ上の姉に連れられて、このスケート場に通い始めたのが切っ掛けだった。フィギュアスケートの面白さにのめりこんで、ジャンプもステップ、スピンも覚える度にわくわくした。小学六年生になって、たまたま練習中に夜蛾コーチに出会って。野辺山の夏合宿に何故か参加することになって。そこからトントン拍子に大会へも参加して、ノービスクラスで優勝することが出来た。今思えば、あの頃のクラスには先輩である七海も灰原も五条も夏油もすでにいなかったから優勝出来たのだろう。
高校からは本格的にスケートを学ぼうと、夜蛾コーチの所属先の高校へと進学して、そこで沢山の経験を積んだ。夜蛾コーチの元には今やスター選手となった七海や五条、夏油が居て。当時の男子シングルのトップ選手の中に放り込まれた三年間で、メンタル的には大分強くなった気がした。思えばこの高校時代が、伊地知の選手としてのピークだった。
高校三年生の冬、いよいよ目に限界が来た。コンタクトの矯正だけでは、スケートリンクは眩しすぎて
――
少しずつ競技に影響が出始めてきたのがこの辺りだった。
大学に進学しても、それは変わる事なく
……
ようやくシニアに上がって、先輩たちとも対等の立場で試合に出られるようになったのに。どうにかしなくては、という焦りが出てしまったのだろう。目の次に、膝にきてしまった。元々肉付きがいい方ではなかったから、筋力もある程度までしか付けられなかった、というのは言い訳だ。
いつかは壊れる日がくるのだろうと覚悟はしていた。だから、リハビリは頑張ってはいたけれど。選手としてはここまでだな、と限界を感じてしまって。
二十歳の全日本選手権を最後に、伊地知は競技者から引退した。
「おーい! 伊地知くーーーん!」
ふと呼ばれた声の方向を見ると、片手をぶんぶんと振り回しながら灰原雄がリンクサイドに居た。
「灰原さん、珍しいですね
……
こんな時間に」
「まだリンクに明かりが点いてたからさ。顔パスで」
そう言って灰原はニッコリと笑顔を覗かせる。高校時代の先輩である灰原は、自身の怪我の為高校二年生でスケートを辞めた。日常生活には支障はなく、一般人と同じ程度にはスケートも滑る事は出来るそうだが、競技者としての灰原雄が氷上に戻ってくることはなかった。
それでも灰原の凄いところは、自身の経歴を目一杯利用して、大学を卒業後スケートに強いスポーツメーカーに就職。自身の持つ人脈とずば抜けたコミュニケーション能力を発揮して、今では各地のスケート場で灰原を知らない者はいないくらいの人物になった。
伊地知の勤めているこの通年リンクも、灰原の担当だった。
「伊地知君も随分とコーチ職が板についたって聞いたけど。まだまだ全然滑れるじゃないか」
「そんな事ないですよ。好きでやっている事ですから。私にはこれくらいが丁度いいんです」
「そっかー
……
勿体ないね。十年前に目に良い対処方法が確立されてれば良かったのにな」
僕は伊地知君のスケーティング好きなんだよねぇ、と灰原はポツリと言った。
「
……
もう昔の話ですから」
そう伊地知はフフっと笑う。灰原が来るといつもこんな風に思い出話に花が咲く。
「さっきのステップさ、昔の七海の振り付けのヤツじゃなかった?」
急に灰原から七海の名前が飛び出して、伊地知はドキリとする。誰かに見られていることを想定してなかったから。灰原の言う通り、高校時代によく七海が滑っていたステップを思い浮かべながら滑っていた。図星だった。
「よく、分かりましたね」
「そりゃぁね。一番近くで見ていたからさ。二人ともよく練習してたし」
七海より伊地知君の方がステップ上手だったから。ちょっとさっき感動しちゃった! と灰原はおどけて見せる。
「後で自慢しちゃおっと!」
「誰にそんなの自慢するんですか
……
私の事なんてもう誰も覚えてないですって」
「そんなことないよ。僕らの世代で伊地知君を忘れたやつなんていないからね」
伊地知君は自分を過小評価しすぎだから
――
と灰原はわざと溜息をつくような仕草をみせる。
溜息を付きたいのは私もですよ、と内心愚痴りながら。伊地知はリンクサイドの灰原に向き直る。
「それで? 今日はどんな御用件でこちらに?」
灰原のペースで話していると、いつまで経っても本題になりそうもない。そう思って伊地知はわざと話を戻す。
「あ! そうだった! 今度さ、五条さんがアイスショー開くんだって。うちの会社も協賛してるから、スケート場にも告知ポスター貼ってほしくて」
現物は受付に置いてきたから、明日にでも宜しくお願いします! と灰原はその場でお辞儀をする。
「はぁ
……
五条さんは相変わらず元気そうですね」
「七海も元気そうだったよ! そのアイスショーに七海も出るってさ!」
夏油さんも家入さんも出るって! と灰原は懐かしの面々の名前をどんどんと上げてくる。
誰もかれも、高校時代に切磋琢磨してきた先輩たちだった。
「チケット販売はもう少し後だから! 伊地知くんも良かったら見に来てよ!」
「はい。検討しておきます」
そんじゃねーと用件を伝えると、灰原はそれで満足したのかあっという間に去って行った。
その背中を見送りながら。
今更どんな顔をして会えというのか、と腹の内側でドロリとしたイヤな感情が顔を覗かす。
引退を決意した時、それを七海に伝えた時。
あの時の七海の苦しそうな表情が脳裏に過る。
ここ数年、会ってすらいない。
諸先輩方はもう随分と手の届かない存在となっていた。
スケートリンクを何周かして、伊地知はリンクから上がって整氷作業に取り掛かる。整氷車を運転しつつ、灰原の言葉を思い出す。
『七海さん
……
帰国してるのか』
競技を引退した七海は、プロのアイススケーターに転向して、活躍の場を世界に広げていた。
もう会う事もないだろうと思っていたのに。
思いがけず七海の名前にふれ、懐かしい思い出と共に胸がどんどん苦しくなっていく。
あの頃の伊地知は、七海建人に恋をしていた。
■■■
初めて七海と出会ったのは、野辺山の夏合宿だった。この時期に灰原とも出会い、この出会いがまさか現在まで続くだなんて思っても見なかった。
この合宿で、嫌というほど圧倒的な差を見せつけられた。まだ試合と呼べるものには数回しか参加していなかったのに、どうして合宿に参加出来たのか
……
あの頃は本当に訳が分からなかった。小五の冬に出た大会で入賞したからだったのは、もう少し後になってから知った。あれよという間に、この同年代のトップレベルの中に放り込まれ、与えられた課題にただ取り組むだけで精一杯だった。体力測定に始まり、陸上や氷上でのトレーニングは勿論のこと、リズム表現など合宿のメニューは多岐に渡った。
本格的なダンスに触れたのも、この時が初めてだった。地元のスケートリンクのコーチは「どんな振り付けでも、最後はきちんと指先まで気をつける事」が口癖だったけれど。
その言葉は実際その通りだったのだから、感謝しかなかった。
それ以外にも様々な表現を学んだ。流石に地元でダンスレッスンまで親にお願いすることは出来なかった。それなりに負担を強いている、と子どもながらに自覚はしていたから。だから、この合宿中に出来る限りを吸収していこう、と分からないなりに頑張ったことは覚えている。
誰も知らない中で、初めて声を掛けてくれたのは灰原だった。
「君、この前の東関東大会で入賞した子だよね? 初めまして! 僕は灰原雄! 中一だよ」
「えっ? えぇと
……
伊地知‥潔高、小六です」
この頃から灰原は分け隔てなく、誰にでもまずは挨拶! を信条とした少年だった。
一度は皆面食らうも、灰原の明るさ、裏のなさに合宿中は初参加の選手も孤立することなく、一定の距離を保って良い関係を作る事が出来た。
七海と話せるようになった切っ掛けも灰原だった。
当時からどことなく人を寄せつけない雰囲気を出していた七海でも、灰原の前では普通の同年代の少年だった。
「僕らは去年初参加だったんだー、ねぇ七海!」
「そんな大声出さなくても聞こえてる」
それが七海から聞いた第一声だったのは、今でもはっきりと覚えている。
仲が良いんだなぁと羨ましく思ってしまったのも、この時が初めてだった。
「こんにちは、伊地知君。七海建人、中一です」
「
……
あの、伊地知潔高です」
「えぇ、さっき聞こえてきましたから、知ってます。灰原がスミマセン
……
ビックリしたでしょう?」
「い、いいえっ! 確かにビックリしたけど
……
知らない人ばかりだったから、嬉しかった、です」
「それならよかった。折角の合宿だし、緊張してしまっているだけでは勿体ない」
お互い、良い合宿になるといいですね
――
と、そう笑顔で言う七海の姿は、たった一つしか違わないのに、その時は妙に大人びて見えた。
灰原と七海は出身地こそ違うものの、出る大会は小さい頃から何度も被っていたところから次第に仲良くなっていったのだ、と灰原が教えてくれた。
「だってさ、同級生にあんな上手い奴が居たらドキドキするよね! どうしても仲良くなりたくてさぁ」
あの手この手で七海に接触し、それに七海がついに折れた
――
ということらしかった。
「灰原先輩の作戦勝ちですね」
「まぁね。七海は中々分かり辛いけど、質問にはちゃんと答えてくれるし、優しいから」
伊地知君も何かあったら質問してみるといいよ、と灰原は簡単に言ってはいたけれど。
とてもそんな軽く話しかけていいような相手には思えなかった。
そんな考えはすぐに吹き飛んでしまったのだけれど。
合宿での演技発表の場で七海の演技を初めて目の当たりにして、一瞬にして心を奪われた。どうして今までこの人の演技を知らなかったんだろう
……
そう後悔してしまうような、そんな衝撃だった。冬に初めて大会に出場するまで、同年代の他者の演技はまともに見たことがなかった。同じスケートクラブの選手のプログラムを見たこと位しかなかった。
それは競技をしていく上では、間違いなく欠点だろう。フィギュアスケートが競技である以上、他者との比較は避けられない。
『なんて勿体ないことをしてたんだろう』
七海はステップこそ若干のぎこちなさを感じたが、ジャンプに入るまでの所作、着氷後の流れ、スピード、どれをとっても申し分なかった。見た目も相まって、氷上を駆ける姿は思わず綺麗だな
……
と呟いてしまう程に。
SPの時間内ではあまりにも短すぎて。思わず氷上練習のフリーの時間帯に「七海先輩!」と声を掛けていろいろ質問攻めにしてしまったのは苦い思い出だ。
(後々「あの時の伊地知君のキラキラした目は凄かったです、何と言うか
……
こう、何が何でも教えてもらうぞ! 的な気迫が」等と七海に直に言われてしまって、平謝りした)
それでも、その時間があったからこそ。七海とも灰原とも友好的な関係を築くことが出来たのだから、当時の自分の頑張りに感謝するしかない。
合宿中の空いた時間を見つけては、灰原と七海に音楽表現についてのアドバイスやダンスの基礎練習に付き合ってもらったり
……
厚かましくお願いしすぎたな、とは思っても二人とも出来る事なら、と快諾してくれた。それらは間違いなく、フィギュアスケートに更にのめり込む一因だった。
野辺山合宿が終わってからも、毎日が忙しく過ぎていった。
正式に夜蛾コーチからスカウトされて、隔週末の土日、月二回のレッスンを受けるために夜蛾コーチの元へ通う事になった。そこで、七海・灰原と再会し
……
五条・夏油・家入といったジュニアトップクラスの面々と切磋琢磨する環境が待っていた。
夜蛾がコーチを務めていた先は、国内有数のフィギュア選手を輩出している一貫校だった。
初めこそ母親と共に通いはしたが、三回目からは一人で交通機関を使って通うことになった。親に我儘を言っている自覚はありはしたが、この機会を逃したくはなかった。
氷上だけが自己を表現出来る場所だったから。
中学生になってからも、その生活は続いていって。高校はそのまま特待生として迎えられることになった。寮生活も、先に生活していた先輩たちのおかげで難なく慣れていった。
思えばこの辺りからだろう。七海に想いを寄せていたのは。
七海の演技を見ているだけで幸せだった。一緒に練習するだけで、同じリンクにいるだけで、こんなにも満たされるものなのかという位
……
毎日が輝いていた。
その想いを自覚してはいたが、それだけだった。ただ七海を慕うだけで十分に幸せだった。
「
……
懐かしいな」
思い返してみても、七海や灰原たちとの思い出は合宿から高校時代までの楽しい事ばかりだ。苦しい事も沢山あったはずなのに、それ以上に過ごした時間の濃密さがそれを忘れさせてくれる。大学時代はもう思い出したくもない。競技を引退してから、通常単位を取得して今の仕事に行き着くまで大変な事しかなかったからだ。
一番思い出したくない「あの時」の七海の表情も
……
全て、忘れられるといいのにと何度願ったか知れない。
そんな事は出来る訳がないのだけれど。
灰原が置いていったポスターを何気なく確認してみる。五条悟主催のアイスショーは、彼の気まぐれで開催される為、公式発表があるまではファンの間でもやきもきされていると評判の興行だった。前にやったのは二年前だったと記憶している。元気なもんだなぁ。と疎遠になった元先輩に聞かれたらデコピンされそうな事を考えつつ、日時も確認する。日時は五月か、と遠い先の事だなと思いもするが、あっという間に来てしまうような気もする。今は十月、スケートのハイシーズン直前だった。
出演者一覧には五条・夏油・家入
……
そして七海の名前があった。昨シーズンに撮ったのだろうか、テレビ出演の時とはまた違う仕事用の表情だったが、久々に見る七海の姿だった。
『会いたいなんて
……
思っちゃいけない』
引退後、僅かに繋がっていた状態の七海との繋がりを、断ってしまったのは自分なのだ。
引退したシーズンが終わってから暫くして、七海から連絡が入った時は、ビックリしすぎて何も上手く応えることが出来なかった。七海自身も選手としては全盛期で、国内外の大会やテレビ出演・アイスショーと五条や夏油と共に引っ張りだこだった。
そんな七海の時間が、自分の為に割かれるのが嫌で仕方なかった。言ってしまえば自分勝手な理由だ。その勝手さで、何度目かの七海からの連絡に返事をせず
――
そのまま連絡手段を切った。
七海も、こんな薄情な人間の事など忘れているだろう。
七海のプロ転向の際にも、何の連絡もしなかった。出来なかった。
七海の新天地での活躍を祈るくらいしか、出来る事などなかった。
はぁっと息を吐いて、吸って、深呼吸をする。
リンクの冷気が胸に入り込み、そのまま腹の内側の嫌な感情は冷気に紛れて消えていく。
明日にでも社長に確認して貼っておこう、と受付にポスターを残したまま、帰りの支度を始める。もう二十二時を回っている。明日も忙しくなりそうなのだから、と。ふうっと溜息をついて、気持ちを切り替える。
帰って早く寝てしまおう。
そんな風に考えながら、伊地知はリンクを後にした。
■■■
それから暫く、何事もなく日々は過ぎていった。五条主催のアイスショーのポスターは掲示した途端、『あのポスターいただけませんか?』という問い合わせが相次ぎ、しばらく受付業務に支障をきたした。さすが五条さん。プロに転向してからも、その人気は健在だった。
GPシリーズも始まり、フィギュアスケートのTV放送も増えてきた。それに伴い、増加する来場者と仕事量
――
かきいれ時とはこういう時のことを言うのだろう。初心者用のスケート教室も連日盛況で、現場は嬉しい悲鳴だ。伊地知もコーチ業とリンクの運営業とで忙しく働いていた。初心者向けのコースのコーチングは後輩に任せ、混雑していた受付業務と貸し靴の点検をしていたら、あっという間に「コーチ! 今日もよろしくお願いしまーす」と可愛らしくも騒がしい声が聞こえてきた。皆、このリンクが運営しているスケートクラブの生徒たちだ。もうそんな時間か、と伊地知は作業の手を一旦止めた。ロッカーに置いてあるスケート靴と、リンクに下りる時用の眼鏡を準備しなくては。
コーチ業は、正直言って気が重くもあった。いくら選手としての実績が買われたとしても、それらは過去の栄光に過ぎない。指導や振付などは全くの専門外だった。それでも何とかやってこれたのは、選手としての伊地知潔高を知っている、当時の恩師たちの後押しがあったからだ。流されたとも言える。ともあれ、目標を失いかけていた当時の自分にとっては、あの時の最良の選択だったと信じている。
時間を掛けてでも、基礎をしっかりと。
これが伊地知の信条だった。入会後の面談で、その辺りの文言を規約の中に盛り込み、保護者が納得しなければ別のコーチをと進言した。自分の思い描く図形を氷上に描けること
――
それが氷上での自己表現のスタートラインだ。コンパルソリー、以前競技として成立していたフィギュアスケートの原点。スケート靴のエッジの感覚を掴むにも重要な要素だった。
ウォーミングアップとして、生徒たちは各々自由に氷上に図形を描いていく。競技だった頃の決められた図を描く生徒もいれば、さっきドーナツ食べたからと円を描く生徒もいる。皆笑顔でキラキラと輝いている。まずはスケートを目一杯楽しむ。伊地知がコーチ業で一番大切にしたい想いだった。
ワンレッスン一時間、と少し。月謝は一般家計の負担にならない程度。都心部にやや近いとはいえ、小規模なスケートクラブだ。本気でフィギュアスケートに取り組む足掛かり的存在になれればいい
――
そう思って引き受けたのだ。月謝自体は伊地知自身が教わっていた頃と殆ど変わらない。大人たちの頑張りと、昨今のフィギュアスケート熱のおかげで何とか運営出来ている、そんなスケートクラブだった。
ウォーミングアップの後は、各々課題に取り組む時間となる。初心者向けのコースの生徒たちと入れ替わりでリンクに入っていく生徒たちに続いて、伊地知もリンクへ入っていく。
照明に照らされた氷の上は、まばゆい光に包まれていた。ここ数年の医療の発展と、技術の進歩のおかげで、度入りのサングラスを着用していれば、氷の上に立つことが出来た。目の奥を焼かれるような痛みも、競技者時代に比べれば格段に減っていた。仕事のストレスは、競技者時代に比べれば、大した事ないと感じていることも大きな要因だろう。恵まれている
――
もう氷の上に立てないと感じた、あの頃の絶望を思い出す度に実感している。
■■■
ブー、ブーとスマホのバイブ音が聞こえる。伊地知は寝返りを打ちながら、スマホを取るべきかどうか迷っていた。今日は休日のはずだ。せっかくだからと惰眠を貪り、ゴロゴロしてから夕飯の買い出しに行こうと思っていたのに。このスマホの番号を知っている者などごく数名だ。その中でも真っ先に頭に浮かんだのは、リンクの運営スタッフたちだった。何かしら問題が起きたのだろうか? そんな風にぼんやりと考えながらスマホを手に取ると、画面には社長の名前が表示されていた。わぁっ! と、途端に覚醒する頭の中は、一体何の用件なのかで一杯だった。社長から直に電話など、絶対に碌なことじゃない。休日にわざわざ連絡してくるような案件なのだ。しかし、出ない訳にもいかない
――
覚悟を決めて、応答ボタンをタップした。
「い、伊地知です」
『伊地知君⁈ 休みのところ申し訳ないけど、すぐに来てくれる? 大至急!』
あとで代休出すから! と、何やら慌てた様子の社長は、言うだけ言ってあっという間に電話を切ってしまった。怪しい
……
怪しすぎる。だが、行かなかった場合の事を考えると絶対に行かなくてはならない案件なことだけは確かだ。拾ってもらった恩もある。悩んでいる暇はなかった。
普段は自転車で十分程掛けて通う道程を、七分程で一気に駆け抜ける。帰宅ラッシュ前で助かった
――
と、上がり切った息を駐輪場で整え、リンクへと向かった。受付の後輩にも社長の言伝があったらしく「社長が応接室でおまちかねっす!」と、顔を見るなり言われてしまった。応接室
……
またイヤな気しかしない。こうした時の予感というものは大抵当たってしまうのだ。諦めるしかない。
応接室前に到着しても、中から声は一切聞こえてこない。不穏が過ぎる。一体何なのだろう、と覚悟を決めて扉をノックする。
「伊地知です、失礼します」
ガチャっと扉を開けて、全てを察した。これは、確かに
……
社長の不審な電話も納得だ。
一旦開けた扉を慌てて閉めて、深呼吸をする。閉めた途端爆笑しているのは、間違いなくあの人だった。
「
……
一体どういうこと、ですか?」
再度開けた扉の向こうに座していたのは、社長とそれに対面するトップスケーターたちだった。シレっと灰原まで居るのは何故なのか
……
こんな所に何気なく居ていい人たちではない。大体フィギュアスケートのシーズン真っ盛りなのだ。絶対に暇ではないはずなのに
――
「情けない声出すなよ、伊地知ー! 久しぶりなんだからさぁーもっとビックリしてよ!」
「ごめんね、伊地知君! 五条さんがどうしてもって言うから!」
「来てくれて助かったよ、伊地知君! まさかこんな来客があるとは思ってもみなくて!」
飛び交うそれぞれの声に、一瞬呆然としてしまったのは仕方ないことだろう。情報量が多すぎる。わいわい騒ぐ五条に、悪戯が成功した時のように満面の笑みを浮かべる灰原に、その横で気難しそうな表情を浮かべる七海
……
そう、七海までこの場にいるのだ。もう、帰国していたのか。
「その
……
社長がいらっしゃる時で、良かったです」
かろうじて絞り出した声は、あまりにも弱々しくて。目の前の驚異に立ち向かうにはあまりにも無力だった。
■■■
五条、灰原、七海の順で、応接室のソファは見たこともないほど沈み、そしてみっちりとしていた。座れはするが、一八〇オーバーの成人男性が三人も座ることは想定外なのだ。
人気プロスケーター二人に挟まれてニコニコと普通に笑っていられる灰原を、心の底から尊敬する。きっと五条がさっさと先に座り、七海が座りたがらなかったところを灰原が間に座ることで解決したのだろう。この辺りは学生時代から変わらない。
「伊地知君、ほらここ座って!」
社長は座していたソファの端へ寄り、自身の隣をポンポンと叩きながら着席を促す。
「そうそう、突っ立ってるんじゃないよ。ただ顔見る為にお前呼んだわけじゃないんだからさぁ」
「
……
はぁ?」
一介のスタッフである自分も同席の上で、リンクの経営者のトップと話す
――
そのことの意味を、すぐには理解することは出来なかった。
「時間でリンクの貸し切り
……
ですか?」
「そう! 都心からここまでのアクセスは悪くないし、週に二日から三日を五月の公演までの間、リンクを練習場として使わせていただけないでしょうか? 五月の公演日まで、なるべく静かに練習したいんですぅ」
余所行きの笑みで社長へと説明する五条は、薄気味悪いとしかいいようがない。時間での貸出というのはできなくはないが、この通年リンクを使っているのはフィギュアスケートのクラブだけではないのだ。そう簡単に調整が出来るとは到底思えない。
「試しに数か所で練習したんだけど、どこもすぐにバレちゃってさぁ
――
知り合いに頼んでも、都内のリンクじゃ中々大変な訳よ」
「ここは郊外だし、都内よりも人の視線が気にならないみたいで。ほら、五条さんも七海もどうしたって目立っちゃうし」
灰原も同席しての出来事だったようだ。灰原の紹介でも、都内だとやはり無茶は利かないらしい。母校のリンクは郊外も郊外にあったので、初めから候補には入っていないのだろう。夜蛾コーチの伝手なら、もっと様々なリンクを紹介してくれるはずでは? と疑問しか出てこない。
「使用料も勿論お支払いしますし、それに折角の御縁なので。ここで僕らが特別講習って感じで有料のスケート教室を開催っていうのは、どうですかね?」
ここのクラブの生徒は強制参加だけど
――
そう言って五条はにやりと笑った。生徒にとっては間違いなく+になる経験だ。これを断る手はないだろう、しかし。絶対に五条は別の何かを企んでいる。嫌な予感しかしなかった。
「そ、そんな事、可能
……
? なんですか?」
社長と言えば、あまりの破格の申し出にアワアワし始めている。これは社長一人では手に負えない案件だろう。勿論、自分にも。
「勿論です。僕は、自分が実現できないことは口にしない主義なので」
この芯の強さも、昔から変わっていない。五条は口から一度でも出した事は、きちんと為す人なのだ。実現できるだけの力を、きちんと兼ね備えている。
「あぁ、そうそう。一つだけ、条件が」
「条件?」
ちらりと五条の瞳がこちらを捉える。目があった瞬間
――
あ、っと悪い予感だったものが確信へと変わる。
「僕たちの練習や、特別講習のアシスタントとして。そこの伊地知君を貸してもらいたいんです」
サァっ血の気が引いて、指先がどんどん冷たくなってくる。この人は何を言っているのか? あまりの展開の早さに脳内処理が追いつかない。灰原や七海に目くばせしても、二人とも頑張って! と親指を立ててきたり、フッと笑みを返されるだけで終わってしまった。この件に関しては、灰原も七海もグルなのだな
――
と、味方がいない状況に胃まで痛くなってくる。
「まぁ、即決ってワケにもいかないでしょうから! また後日、灰原に連絡ください。この件は彼に一任してあるので」
いつもの私の携帯に連絡ください! と、灰原も元気よく五条に追随し、その威勢に社長と共に圧倒される。
学生時代からの様々な経験が囁く。
「これはもう、決定事項なのだな」と。
■■■
時間は瞬く間に過ぎていく。応接室の時計が十八時を知らせたところで、再会ドッキリから始まった話し合いはお開きになった。
「僕は一度会社に戻らなきゃいけないんで、これで失礼しますね」
そう言って、さっさとリンクから立ち去る灰原を見送り、五条と七海と三人で顔を見合わせる。社長からはもう帰っていいと言われたから、それでは私も
――
とじりじりと距離を取ろうとした途端、五条にがっしりと肩を掴まれる。
「伊地知くぅんっ
……
本ッ当ーーに、久しぶり」
肩にまわされていく腕に、ヒィっと小さく悲鳴が漏れる。怖い、怖すぎる。学生時代から、後輩として一応の気にはかけてはもらってはいたが、競技を引退した後は疎遠になっていたというのに。どうしてまた
――
と疑問しか浮かばない。
「お前、競技引退した後、何にも連絡寄こしてこないからさぁ
……
めちゃくちゃ心配してたんだぞ」
「えぇっと
……
はい?」
後輩といえども、万年入賞ギリギリの自分が。どの面下げて五条に連絡をするというのだろう? 一応、引退しましたと伝えはしたものの、その時の五条は「フーン」の一言で済ませていたはずだ。結局スケートから離れられなかった身としては、競技者としてあの時まだ第一線で活躍をしている五条たちに連絡をするなど、烏滸がましいにもほどがあるだろう
――
と、こちらから連絡先は全て破棄した。携帯をキャリアごと変え、連絡先も一切残さなかった。もう関わり合うことなどないと思っていたから、未練になる可能性となるものはなるべく遠ざけた。家を出て一人暮らしをしているのも、その為だ。実家に帰った時にだけ、思い出に浸れれば
……
それで良かったのだ。
「なんで、五条さんに連絡しなくちゃ
……
」
いけないんですか、と口から出そうになったところで五条の長い指が頬を掴んだ。そのまま摘まみ上げられ、薄い頬肉に痛みが走った。痛い痛い! 痛いです! と叫ぶと、五条はパッと指を離した。
「
……
お前さぁ、寂しいこと言うなよ」
痛いままの頬を摩りながら、五条をチラリとみる。あのスーパースターが、眉をひそめて静かに口を尖らせている。ブスっとした表情からは、若干の怒りが滲んで見えた。
「お前は今でも、僕たちの可愛い後輩だよ」
それくらい、言わなくてもわかってると思ってた
――
五条の言葉に、グッと胸が詰まる。そうして、自分の薄情さを思い知らされる。まだ、後輩と呼んでくれるのか、と目頭が熱くなっていく。
「ま! スケート続けてくれてたんなら、それでいいや! 元気そうでホント、良かった良かった! なぁ、七海!」
「えぇ、本当に。伊地知君、私にとっても
――
ですからね。分かっているとは思いますが」
はい、と掠れる声で何とか返事をする。まともに二人の顔を見ることが出来なかった。ここで泣くのは違うだろう。この人達から逃げたのは自分の意思だろう! と、思っていたのに。次の七海の言葉で、呆気なく涙腺は決壊する。
「君が、スケートを続けてくれていて
……
本当に良かった」
学生時代に何度も励まされた。七海の静かな優しさが感じられる
……
あの時の声だった。
ボロボロと零れる涙が顔を汚す。慌てて上着の袖で隠そうとしても、すでに遅かった。
「あーぁ、泣かせちゃダメでしょ七海ィー」
「五条さんも、でしょう? 私だけのせいでは
――
」
どちらのせいでもない。弱くて狡い、自分のせいなのだ。涙が引いたら、それをきちんと二人に伝えなくては
――
そう思いながら、雑に涙を拭った。
■■■
その後、五条の行きつけの中華料理店へと連行された。明らかに高級店だが、もう仕方がない、と腹を括る。
せっかくの休日に呼び出された後なのだ。大泣きした後でもあるし、気にせず食べる方向に舵を切る。どうせ大した量しか食べられない。お腹は空いてはいるから、ありがたく戴くことにした。
「そういえば、今日のことはいつから計画されてたんですか? いきなりでビックリしたんですけど」
「いきなり行かなきゃサプライズにはならないでしょーが? ちょっと前に灰原から伊地知の話を聞いたからさ、これは使えるなーって思って♡」
何やら語尾にハートマークが付きそうな感じで返され、はあ
……
と大き目の溜息のような声が出る。ちょっと前とはいつなのかは聞かない方が良さそうだ。
「練習場にどうか? というのは
……
実は灰原からの提案だったんです。都内よりは混乱しないだろう、と」
七海からの言葉に、なるほど
―
—
と合点は行く。経営はそこそこ順調なのだが、都内に客は流れやすい。昨今のスケート人気があるとはいえ、継続的な常連はクラブの生徒たちや他種目の選手たちが主だ。それでも、スケートシーズン中はレンタルの時間枠はほぼ満杯の状況だった。その「ほぼ」に灰原は目をつけたらしかった。
「練習場の拠点はあった方がいいに決まってるからね。シーズン中は確かに僕ら忙しいけど、スケジュールは前から決まってたものだし、飛び入りの仕事は受けないようにしてるからさ、そこをどうにか搔い潜って練習したい訳よ」
興行するからにはベストを尽くさないとね、失礼だろ? と、五条はニヤリと笑みを浮かべる。学生時代の悪行前の笑顔にそっくりだ。何か企んでるのだろうが、それが一体何なのかは想像がつかない。五条は大抵、凡人の想像など軽く飛び越えてくる。想像するだけ時間の無駄だ。学生時代から、それはイヤというほどよく分かっていた。
「私もそれなりにゲストで出る番組はありますし
……
夏油さんや家入さんも、こちらで練習が出来るのなら、と言ってくれてまして」
諸先輩方グルの案か
……
だんだんと頭が痛くなってきたのは気のせいではないだろう。明日以降の場内スケジュール等の確認やらなにやら問題は山積みだ。だが、リンクにとって、これ以上ない機会なのも間違いない。五条や七海たち第一線のプロスケーターたちの講義が、クラブの生徒たちにどう響くのか見てみたい。そして、己のコーチ業の糧にしたい
――
私利私欲が混じった欲求がどんどんと湧いてくる。
「
―
—
もう、事情は概ね理解しました。何とか調整頑張ってみます。ご期待に添えられるかは分かりませんが
……
」
それを言い終わらないうちに「イエーイ! さっすが伊地知!」と、酒が入っていないのに妙なハイテンションの五条がヒューっと声を上げた。高級店でそれはないでしょう、と七海が窘めているが、五条の耳にはあまり届いていないようだった。
「まぁ、私からもお願いします。君と一緒に仕事がしたいので」
あぁ、ズルい。ズルいなぁ七海さんは! リップサービスだとはいえ、引くて数多のプロスケーターからの「一緒に仕事がしたい」だなんて言葉が、どれだけの威力なのか本当に分かってます? と、大声で叫んでしまいたいくらいには嬉しい。私もです、と言いそうになる口を抑えながら、少しの沈黙の後「善処します」と答えた自分は大人になったのだな、と改めて感じた。
「ほら伊地知、スマホ出して」
会計まで済み、御馳走様でしたと解散する流れの中
―
—
五条からの言葉につい「え、っと。はい」と何の疑いもなくスマホを出してしまったのが良くなかった。学生時代の悪い癖が抜けきってなかったのだ。
「ロック解除した?」
「はい、しました」
途端、スマホが五条の手へと吸い込まれるように渡っていき、メッセージアプリのQRコードが表示される。あっという間の出来事に、拒否することも出来なかった。あまりの手際の良さに、これは常習だな
―
—
と、溜息しか出ない。ほいっと返されたスマホを確認する。メッセージアプリの連絡欄には、見慣れないアイコンと「グループJU」に登録されましたとの通知が来ていた。
「それ、僕らのグループのやつね。傑も硝子も入ってるから、スマホごと変えたりするなよ?」
ヒエっという悲鳴をよそに、メッセージアプリには次々と通知が舞い込んでくる。その中には「七海 建人さんがあなたの連絡先を追加しました」という文言もあった。
「七海さん?!」
「私もそのグループに入ってまして
―
—
聞く手間が省けました」
シレっとした顔で、目の前でスタンプまで送ってくる先輩たちに、もう反論する気力もない。六年もの年月は、これでなかったことになってしまった。だが、不思議とイヤな気はしない。どちらかと言えば、六年もの間、何の音沙汰もなかった後輩を、こうしてあっさりと迎えてくれる先輩方がちょっとオカシイのだ。昔から強引さは変わらないが、本気には本気で応えてくれた先輩たちだからこそ、なのだろう。
「そんじゃ、またよろしくなー伊地知!」
五条はそう言うが早いか、いつの間にか待機していたタクシーに乗り込み、周囲に気付かれる間もないまま去っていった。
「五条さん、この後一件仕事が入っているようでして」
「えぇ?! なのに、ここでご飯食べてたんですか?」
「二十二時過ぎのスポーツ番組の生放送だそうです」
確かにまだ二十時を回ったところだが、ギリギリになるのでは? という疑問が拭えない。ネットで番組表を確認すると、確かに五条悟緊急出演! と打ち出された番組は、今季の男子フィギュアの展望等の特集を組んでいて、いつものGPシリーズの番宣番組かと納得した。
「さて、我々もタクシーを呼んであるので。送っていきますよ、伊地知君」
「へ? 解散、では?」
「私はもう少し君と話がしたいんですが
―
—
ダメ、ですか?」
あの七海建人にここまで言わせて、ダメと断れる人がいたら見てみたい
……
ダメじゃないです、と小さく返すと、七海は「ありがとうございます」と、にこりと笑った。
■■■
タクシーに揺られることニ十分、職場のスケートリンク前でタクシーが止まる。自転車でリンクへ来ていたことを伝えると、ではリンクからは歩きましょうか? と逆に提案された。それを飲む形で、七海との会話は続いていく。帰国後は実家とホテル半々の生活をしていること・五条や灰原とはずっと連絡を取り合っていたこと・日本にいる間はGPシリーズの解説もすること
―
—
等々、主に七海の話だった。リンク周辺の道路に差し掛かり、もう少しだなぁ、とタクシーのメーターに視線を移した時だった。
「ここは私が。経費で落とすので」
財布を出そうとした手を止められ、またまるっと先輩に奢らせてしまう形になってしまった。胃の辺りがしくしくと痛みを訴える。何かと目立つ七海を公共交通機関に乗せる訳にもいかなかった為、割り勘でだろうと高をくくっていたのが仇となった。きちんと先に申し出ないと、この人たちはどんどん先手を打ってくる。お世話にあまりなりたくないこちらの気持ちなどはお構いなしだ。まぁ明日以降の話し合いを待たなくても、ほぼ確定事項になりつつあるスケートリンクの件もある。今後、興行までは確実に会う機会はあるだろう。次回からは気をつけよう、と心に決めた。
「お待たせしました」
タクシーから降りる七海に「ありがとうございます」と、まずは頭を下げる。個人的な反省は後だ後! せっかくの七海との時間だ。もっと話さなければならないことは沢山あった。
「いえ
……
君の自転車は?」
「あ、裏の職員用スペースに止めてあるんです。ちょっと歩きますが」
「構いません。君と話をする時間が増えるので。行きましょうか」
誰かに聞かれたら何事? となるようなリップサービスだ。言う相手、間違えてませんか? と口から出そうになるのを必死で押しとどめる。言ったら絶対に叱られるに決まっている。ありがたいやら、恥ずかしいやらで顔が熱い。豪華夕食で、いつも以上にカロリーを摂取したからに違いないと自分に言い聞かせる。久しぶりの再会だからこそ、なのだ。今日が特別なだけだ。
「え、っと、こ
…
こっちです!」
ドキドキしてしまう胸を落ち着かせながら、ゆっくりといつもの駐輪スペースに七海を案内する。リンクの正面玄関を通り過ぎ、脇を照らす明りに沿って歩いていく。まだリンクは営業中だ。この時間なら、リンク関係者に会うこともない。元より人通りの少ない時間帯だ。七海といるこの時間を、誰にも邪魔されたくない
―
—
そんな風に思ってしまった。
駐輪スペースに雑に止めてあった自転車を押しながら、家までどうしても送っていきますと聞かない七海を連れだって、いつもの道を歩いていく。通い慣れた通勤路が、七海といるだけで別の道のように感じる。不思議な感覚だった。
「伊地知君は、コーチを始めてどのくらい経つんですか?」
「まだ二年目です。クラブ自体は昔からあるんですが、何人かのコーチで回してまして。常駐コーチは私のみ、ですね」
先の食事会でもその話にはなった。競技引退後、大学を卒業後今のリンクに就職したこと・始めは一般職だったこと・コーチはまだ始めて間もないこと
―
—
等々、リンクの仕事からコーチの兼任についても話は一応したのだが、七海はもう少しそれを詳しく知りたいのだと言う。
「コーチ、難しくはないですか?」
「それはもう! 少人数のクラブであっても、一人一人に合わせた内容なんて中々できませんしね。個別に聞いてきてくれる生徒はいますが、中々言い出せない生徒もいますし
……
難しい、です。でも
―
—
それ以上に楽しいんで、やりがいがあります!」
「やりがい
……
なるほど、確かに」
七海はプロスケーター転向後、アイスショー参加はもちろん、フィギュアスケート解説などを主に主戦場としていたはずだ。コーチ業にも進出する予定も、きっとあるだろう。特にジャンプ技術においては、あの世代の中では五条の次に評価の高い選手だったのだ。ジャンプ専用コーチでだって、七海になら出来るだろう。それだけの説得力のある実績の持ち主だ。
「コーチ、なさるんですか?」
「まぁ、可能性の一つとして
……
いずれは」
氷の上で思い通りに動ける内は、まだ考えられない
―
—
ということなのだろう。講演会と称して数回やったことはある、とは聞いていたので、まだまだ先の話として心の中に留めておこう。
「七海さんなら、大丈夫ですよ」
どこから目線の言葉なのだろう
―
—
偉そうに言える立場ではないが、これ以外の言葉が出てこなかった。
この後はもう本当に他愛のない、プライベートな話しかできなかった。一人暮らしなこと・休日の過ごし方・今日は本当に何の予定もなかったのか? 等々、あまりにも実のない話で自分でも驚く始末だ。日々の生活の為の家事、仕事のデータ作りや、生徒からのリクエストに応える為の練習で休日はほぼ消える。今日は本当に何の用事もなくて助かった、というのが正直なところだった。
「あ、うち、あそこのアパートなんです」
直線距離でもう数十mの所まで来ていた。楽しい時間はあっという間だ。
「結構距離があるんですね」
「自転車だとあっという間なんです。天気の悪い日は流石にバスとか使いますけど」
「なるほど。日々の鍛錬の一つ、ですね」
「
……
まぁ、そんなところです」
徒歩だと約ニ十分、自転車・バスを使って最寄り駅と移動せざるを得ない自宅の物件は、一人暮らしには多少手に余る広さだった。ただ、それでいて駅周辺の物件に比べて家賃が安かったのだ。今年で一人暮らしも四年目だと零すと、七海はほんの少し眉をひそめた。
「君に
――
謝らなければ、と
……
ずっと思っていたんです」
ふいに始まる七海からの言葉に、え? と、足が止まる。
「一体、何の話です?」
どちらかと言えば、こちらが謝らなければならない「あの時」の事が脳裏を過る。七海が言っているのは、一体何のことなのだろう? 本当にわからなかった。
「君が、競技を引退する
……
そう伝えてくれた時のことです。私は、君から『引退』の言葉を聞く覚悟が、あの時全然出来ていなかった」
「それは、その
――
仕方がない事では?」
誰だって、急に「引退」などと聞けば、うまく返せないに決まっている。あの時引退すると先だって伝えていたのは、コーチである夜蛾先生にのみだったのだから尚更だ。
「正直言うと、ショックが大きすぎて、あの日
…
君に何て言ったのか、正確には覚えてません。ですが、あの後
―
—
君と連絡が取れなくなってしまった。私が
……
何か言ってしまったせいなのかと
……
だから、ずっと謝らねばと」
はっ? と、普段よりも数段甲高い声が出た。それは出るだろう、ビックリしすぎて。
「いやいやいや! 違います違います! 全然!」
慌てて否定するも、あまりの告白に「なんで?」ばかりが頭を巡る。
あの日、七海は自分が何を言ったのか覚えてないと言ったが、言われた当人は正確に覚えている。あの日の七海は、ただ一言
―
—
「何故?」と言っただけなのだ。それに対して「すみません。もう決めたので」とだけ返し、その場から逃げるように立ち去ったのも覚えている。
「その
…
連絡先を消したのは、選手時代の自分に、未練を残したくなかっただけなんです」
完全なる過去にしたくて、一切の連絡を絶った。かろうじて残してあるのは、夜蛾の番号のみだった。夜蛾は夜蛾で、自分の覚悟を汲み取ってくれたのだろう。実家への年賀状のやり取り程度の付き合いはあるが、連絡自体これまで一度も来たことはなかった。
あの時番号を消さなければ
―
—
きっと、誰かしらに連絡してしまっていただろう。先輩たちの優しさにつけこんで、それこそ甘ったれた泣き言を聞かせていたかもしれない。
それが何よりも恐ろしかった。
「
……
私は、君に嫌われていたのではないんですね?」
「嫌いだったら、今こうしてる訳ないじゃないですか」
嫌われることはあっても、嫌いになどなるはずもない。スケートのシーズンが訪れる度、メディアでの活動をみせる七海の姿に、元気をもらっていたくらいだ。
「それは私の台詞では? 私の方こそ、一方的に連絡手段を切ってしまって
―
—
すみませんでした」
「いえ、もう過ぎたことですから」
長年のわだかまりが消えていく。ずっと心の奥底に居座り続けていた重りが、解けていく。
「今日、君と話せて
―
—
本当に良かった」
「
……
私もです」
そうして二人して笑い合う。学生時代に戻ったかのような時間に、少しだけ目頭が熱くなった。
自転車を普段置いているスペースへと置いて、アパート前に戻る。結局ここまで送ってはくれたが、七海は今日の宿まで戻るのだと言う。アプリでタクシーを手配し、到着するまで一緒に待つことにした。
「それならリンクで解散でもよくなかったですか?」
「先の話もしたかったですし、君の家も知りたかったので」
シレっと自供される計画的犯行に、まんまと乗せられてしまったらしい。一度連絡断ちした負い目もある為、強く言えないのがもどかしい。
「また食事などに誘っても良いですか? 今度は二人で」
「え! いいんですか?」
「えぇ、君とならいつでも大歓迎ですよ」
やけに協調される「二人」に若干違和感はあるが、また会える機会をわざわざ作ってくれるのなら、断る理由はない。今日の食事会も楽しくはあったが、五条の騒がしさに七海はイライラしていたから、そういった意味での「二人」なのだろう、と頭の中で勝手に変換していく。何ら特別なことではないのだ。
ヘッドライトが道路を照らす。どうやらタクシーが到着したようだった。
「では、また連絡しますね、伊地知君」
「はい、また
―
—
七海さんも、お仕事頑張って下さい!」
「えぇ、君も。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
バタンと閉じる扉、走り出すタクシーを見送って家の中へと入る。怒涛の一日だった
―
—
が、時計を見るとまだ二十二時前だった。五条の出演する番組まで、まだ余裕はある。軽く家事をしながら待つか、と念の為レコーダー予約をしてから、散らかった部屋を片付け始める。
テレビの中の五条は、先ほどまで一緒に食事をしていたとは思えない程、立派なスターの風格を見せていた。
■■■
翌日、社長の号令で現場のトップから役員から総動員で会議が行われた。平社員だが、常駐コーチとして、伊地知も会議に呼ばれ、てんやわんやの内にどうにか五条たちへのレンタル時間を確保し、草案を作成。灰原に連絡を入れた。その後、灰原も交えて調整が行われ、一先ず今年度末分までのレンタル表が完成した。来年度のレンタル受付は年明けから受付な為、四月の追い込み時期にはもう少し枠が増やせるかもしれない、というのがリンク側の見解だった。
「了解です! 五条さんにも伝えておきますね!」
その後無事に五条からも了承され、なにかと忙しい十一月末、五条たちがリンクへとやってきた。
「あーやっぱり良い感じだね! この前は靴持って来てなかったから滑らなかったけど」
「えぇ、懐かしい感じすらしますね。伊地知君も整氷に関わってるんでしたっけ?」
「私は出勤日の夕方と夜の整氷だけですね。主に整氷しているのは別の職員でして」
へぇ、っと五条がリンクに降りる。今日の夕方の整氷は自分の担当だった。
「うん、悪くないな。何か学生時代のリンク思い出すわ」
スケートクラブの生徒たちが引き上げ、先ほどまでの喧噪が嘘のように静かだ。初日だけあって、リンクサイドには社長をはじめ、灰原や日勤のこの時間帯にはいない職員の姿もある。皆、五条悟と七海建人を見に来たのだろう。自分が日勤職員の立場でも見学には来るだろう。それだけ、凄い選手たちだ。
まずは五条が、リンクの内周を滑り始める。流して滑っているのだろうが、一蹴りの勢いが凄い。二周程滑ったところで、五条がジャンプのモーションに入る。ガッ! と大きく氷を蹴って、五条が飛んだ。得意の四回転ルッツだ。周囲の職員から思わず拍手が上がる。引退後二年経っているはずだが、スケートの質に衰えは見られない。流石の一言だ。
そんな五条に続いて、七海もリンクに降りていた。ザッザッと氷を蹴る音が懐かしく感じる。七海の滑る音だった。ゆっくりと伊地知もリンクに降り、七海のスケーティングを学生以来の距離で見つめる。シャーっと流れる音に続き、七海は前を見つめながら氷を蹴る。三回転アクセル
――
七海の現役時代の得点源だったジャンプだ。後半のここぞ! というところでコンビネーションジャンプを繰り出し、高得点を常に狙う攻めのプログラムをよく組んでいた。学生時代以来の間近で見るその迫力に、ハッと息を飲む。着氷からのイーグル、流れるようなスケーティングにしばしの間、見惚れてしまう。氷上を駆ける七海の姿は、この六年で随分と迫力を増した。全体的に筋力も上がっているのだろう。怪我の防止の為の筋力トレーニングが、見事に成果として身体に表れていた。カッコいいな、と思わず零しそうになる。
「伊地知君は、飛ばないんですか? ジャンプ」
「はい?」
リンクの点検をしながら、ゆっくりと端を滑っていたはずが、いつの間にか目の前に七海が来ていた。
「前に灰原から聞きました。今でも、そこそこ滑れると
――
」
わあ! と、大きな声が出てしまい、慌てて手で口を塞ぐ。前にポスターを置きに来た日の事を言っているのだろう。恥ずかしいにも程がある。
「その、今の私が出来るのは、ちょっとしたステップ程度で
……
ジャンプなんてとても」
眼鏡を強く固定している訳でもないのだ。運動用に改良すれば、もう少し動けるかもしれないな
――
と思いはするものの、ずっと先延ばしにしていた。リンク上で、ジャンプやスピンなどはある程度実演出来た方がいいのは分かりきっている。
「
―
—
目、でしたっけ? 今は、大丈夫ですか?」
七海には目の事を話した覚えはなかったが、きっと灰原から聞いたのだろう。引退の直接的要因は、数えられる程度の人しか知らない事実だった。
「はい、二時間くらいなら全然」
「そうですか
――
それなら良かった」
まだ何かを言いたそうにしていた七海だったが、その間に五条の大声が割って入る。
「おーい! 七海! ちょっと来てー!」
チッという舌打ちと共に、「また後程」と七海が離れていく。レンタル初日だというのに大分翻弄されている感が否めない。ここに夏油と家入が入ってくる日もあるのだ。楽しみではあるが、正直言って気が重い。この先輩たちのアシスタントとは一体何をすればいいのだろうか? いても、いなくても変わらないんじゃないか? などと思えてくる。
だが、あの五条がわざわざアシスタントで、と名指ししてきたのだ。何にもしない、なんてことはありえない。まぁ、ぱしりでも何でも! 言われればやりますが⁈ と、謎の覚悟を決める。自身の職場で滑る先輩二人を見つめながら、伊地知は一つ溜息を吐いた。
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