mishiadd
2024-12-18 00:59:29
4833文字
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宮本伊織は生きにくい:虧月の夜明け

「満ちれなかった」一条の光EDの宮本伊織さんがゆっくりと欠けていきながらうっそりと鬱っぽい美壮年に育って宿の二階からどこか常に遠くを眺めながら結実しなかった願いを想い続けて未亡人のような色香をまき散らしながら「虧月」とかいう渾名つけられてるとこに遭遇する町人になりたい【モブ視点一人称、(がっつり体の関係のあったろくでもない)剣伊示唆】

「白んでいく空の向こうに、俺は一体何を見ればよかったのだろう」とその人は言った。







浅草では有名な話なのだということだった。

御徒町の方から越してきてすぐのことだった。町の北側に勝手のいい長屋を見つけ、散策がてら買い出しに繰り出したときだった。
大通りに面した宿の二階の窓辺に、昼間からひとりの男が座り込んで、眼下の人通りを眺めているのを見つけた。

窓枠にしなだれかかるように身を預け、右手には細い煙管きせるを持っている。鮮やかな青緑色の着物の上から、両肩に引っかけるようにして白い羽織をはおっている。歳の頃はそう若くもなく、三十路は超えているように見えたが、整った顔に漂う少しだけくたびれた雰囲気が、妙に色気がある。

少しかさついているようにも見える色素の薄い唇で煙管を咥え、ふう、と細い煙を吐く。それからまた、だらりと腕を窓の外に伸ばして大通りを見下ろしている。

宿の向かいの万屋で品物を待つ間なんとはなしにそれを見上げていると、「ああ、あんたもう気付いたかい」と新品の櫃を奥から取ってきてくれた店主が店先に出てきて言った。

「向かいのね、あのひと――綺麗だろう」
……あれは?」
「本名ね、今となってはもう誰も呼ばないんだよ。アタシも忘れちまった。本当は、どこかいいところに仕官する筈だったお侍さんだったって話だよ。――話をねえ、蹴ったらしいんだよ。義妹さんがいるらしかったんだけどね、そりゃあもう、泣いて止めて大変だったって話だったんだけどね。
ああいうのはねえ、なんて言ったらいいんだろうね。急に腑抜けたというか、抜け殻になったというか。どうにもね、魂が抜けたみたいになっちまって、殿様に仕えるったって仕事どころか生活すらもままならなかったらしくてねえ。
仕官先が義妹さんの御家だってんで、あちらさんはそれでも構わないからって言ったそうなんだが――なんの役にも立たなくてもいいから、とにかくこのままここに居るようにってねえ――でも聞かないで、結局御家を出てきちまったんだってさ。
前にひとりで住んでた長屋にふらふら戻ってきたんだが、やっぱりろくな過ごし方をしなかったらしくてね。自分ひとりじゃ食いもしない、寝もしない、ただぼーっとそこに座ってるだけってんで、心配で見に来た義妹さんが卒倒しちまってねえ。
だからそれ以来、浅草の皆で面倒見てんのさ。ひとりで長屋に置いておいたら飯も食わないから、ああして御宿の一部屋に住まわせて、飯の時間になったらそのとき気付いた誰かが差し入れしに行くんだ。
近所の皆で野良猫飼ってるみたいなもんだよ。もう何年も続いてるよ。御宿には義妹さんの御家から金子きんすも出てるらしいけど、御宿の方であんまり受け取らないらしいよ。好きで置いてやってるだけだからって」

義理人情で町ぐるみで人ひとり養えるのであれば大したものだ――と引っ越してきたばかりの町に感心する。
店主に櫃代を払いながら、「アンタも差し入れに行くのか? 御主人」と尋ねてみる。「そうだねえ」と皺の刻まれた目をしぱしぱさせて店主が言った。

「まあ、綺麗だからねえ。――浮世離れしてるだろう。生きてるんだか死んでるんだかよくわからない、なんだかこの世の者じゃないみたいな雰囲気でね。――あの人の世話してる間は、日頃のつまらねえことを忘れられる。だからまあ――背伸びして、ちょっと値の張る酒を呑むみたいなもんだ。きっと皆似たようなもんだ」
……へえ……
「アンタも行ってみるかい? 別に当番制でもなんでもないんだよ。本当に、気付いた人間が気付いたときに行くのさ。別に持っていくものだって食い物でなくたっていい。――あの人は、昔は随分腕の立つお侍さんだったって話だから、刀でも持っていったら喜ぶのかもしれないね」
「今はもう剣術はやらないのか?」

なんの気なしに尋ねる。「そうさね」と櫃を包みながら、店主が言った。

「やってるとこは少なくともアタシは見たことないね。ずっとそこに座って通りを眺めてるだけサ。ああやって――まるで牡丹の花が崩れてかれていくように、望月が欠けていくように――

「ああそう」と櫃をこちらに手渡しながら、思い出したように店主が言った。

「あの人のことはね。――皆、陰で『虧月』殿って呼んでるんだよ。まるで綺麗な満月が少しずつ欠けていくみたいだってね。――とんでもない悪口だよ、本人にはとても言えないよ」







差し入れ――といっても、何を持っていけばいいのかわからなかった。

ふと店主の言葉を思い出し、別の万屋に寄って玩具のような無銘の刀を一本買った。刀の善し悪しはわからないが、二束三文のような値段だったので二束三文のような品物なのだろうと思う。
それを携えて宿の受付に行くと、見掛けない顔に番頭が一瞬怪訝そうな顔をしたが、こちらが手振りで二階を指し示すとすぐに理解したのか、「ああ」と頷いてすぐに通してくれた。漆塗りの階段を上がって、一番奥の襖の前に立つ。

「もし」と声を掛けても返事がない。いない筈がなかったので、もう少し大きな声で「もし」と繰り返したが、やはり返事がなかった。少し考えてから、「虧月殿」と声を掛ける。
ややあってから、くすりとした笑い声が聞こえた。「どうぞ」と声がする。想像していたよりも少しだけ高い、ゆったりとした優しげな声だった。

襖を開ける。途端に窓から冷えた風が吹き込んできて、一瞬目を瞑る。目を開くと、その窓際に男が座っているのが見えた。
色鮮やかな青緑色の着物に、真っ白な羽織を肩にかけて、片膝を立てて座っている。煙管の煙を細く長くくゆらせながら、細く長い指先で、とん、と灰を落とした。

窓から射し込む午後の日の光の中で陰のかかった横顔のかたちが美しく、陰影として際立っている。すっと通った細く高い鼻筋が、こちらではなく窓の外に向けられていた。
どくん、と大きく胸が鳴る。それは決して、己が場違いと感じた居心地の悪さからだけでは決してなかった。

「あの――こんにちは。……虧月殿」

なんとかそれだけ言ってみたが、直後に後悔する。随分間の抜けた挨拶をしたものだった。――すると、ふふ、と小さな笑い声が聞こえたような気がした。うっそりと――その美しい男が、嗤っていた。

その名は、俺に聞かせてもよいものだったのか? 貴殿」
――あ」

言われてからようやく気付く。――そういえばあの店主は、「本人にはとても言えない」と言っていなかったか。

「す、すまねえ! いや、すいません。――申し訳ない。……あの」
「いや、いい。――俺がなんと呼ばれているかくらい、とっくに知っているよ」

男は――『虧月』は密やかに言うと、煙管をそっと口に咥えた。

歳の頃はやはり三十路は超えているように見えた。肌は艶を失いかけているがその代わり顔の肉が落ちてすっきりとした印象があり、乾いた唇は歳のためか煙管のためかわかりかねた。くっきりとした二重瞼は重いようにも見えたが、加齢で肉が落ちて少しだけ落ち窪んでいるようにも見える。それが目許にどこか物憂げな影を落としていて、頽廃的で気だるげな印象に拍車をかけている。

今更訂正することもできず、「虧月殿」と再び声を掛けた。

「気に入るか、わからないが。――刀が、好きだと聞いて」

いかにも気の利かない台詞だった。そもそも、こんな安物の刀を持ってきたこと自体をひどく後悔していた。こんなことであれば、あの店主に訊いて彼の好きな茶菓子でも素直に買ってきておいた方がいくらかマシだったろう。一体何を考えてこんな奇をてらうような真似をしてしまったのだろう――

震える手で無銘の刀を差し出すと、『虧月』が煙管を持っていない方の手でそれを受け取る。鞘から取り出すこともせずに手に取った刀を眺めた後、「――かたじけない」とだけ言った。気持ちだけは受け取っておこう、とでもいうのが言外から感じ取れた。

いたたまれなくなって俯く。そもそも、なぜ自分はこんなところにのこのことやってきてしまったのだろうと思う。あの窓から見えたこの男が――『虧月』がひどく気になったのだ。近くで一目見てみたくなった。それはもしかしたら、人に会ってみたい、という思いよりは、衝立に描かれた絵を近くで見てみたかった、のような衝動に近かったのかもしれなかった。実際ここまでやってきてみて、気付いてしまった。――これは、人なのだ。衝立に金の墨で描かれた綺麗な絵などでは決してない。

急に申し訳なさに襲われて、「では」とそそくさと部屋を出ようとしたときだった。「貴殿」と『虧月』に呼び止められる。

「少し、話をしていかないか。――久しぶりに刀など見たので、久しぶりに昔のことなど思い出してしまった」
……久しぶりに」

繰り返すと、うっそりと――どこか愁いを帯びた、憂鬱さを滲ませた、美しく整った顔がこちらを見た。かつては鋭く――あるいは星屑を散らした月夜のようにきらきらと輝いていたのかもしれなかった瞳は、昏く欠けていた。ゆっくりと――少しずつ、ゆるゆると真綿で首を絞められていくように――少しずつ、息が細く、細くなって、最期にはあえかな吐息を漏らして息絶える一途を辿るように――その瞳も、ゆっくりと、少しずつ、確実にその輝きを失っていく。少しずつ、欠けていく――虧月。

知らぬ間に、「虧月」と口に出してしまっていたようだった。一瞬、昏い目を瞠った男は嗤い、それから、うっとりとした口調で言った。

「虧月。――俺を月に例えるのだな。……昔、俺のことを重ねて見上げた月が眩しいと言ったやつがいたよ」

ふう、と唇を軽く尖らせて細長い煙を吐く。乾いた唇を湿した舌がちらりと赤かった。窓の外でもない、どこか遠くを見る目をして、ぽつりと言った。

「いつか俺が満ちるのが怖いのだと――そんなことを言われたような気がする。口が滑ったのだろうな。今まさに抱いている相手に言うことじゃない。そう思わないか」
「は……
「日に日に満ちていく俺が眩しくて、恐ろしくて、不安で仕方がないのだと――そう言いながら俺のことを散々『綺麗だ』と言って抱いたのだ。満ちる俺が綺麗だと。……支離滅裂、だな?」

はは、とせせら笑ったあと、再び穏やかな笑みに戻る。

――俺は、満ち損ねたのだ。最後の最後で、満ち損ねた。――あれは、穏やかな、幸せそうな顔で去っていった。それはそれでよかったのだと思う。あれに怖い思いをさせずに済んだ。
ただ、俺は満ち損ねた。――そして、たったひとり、取り残された」

「夜明けを迎えるだろう」と彼は言った。

「東の空が白むだろう。山の稜線を白い光がなぞって、やがて朝陽が山の峰から一条の光のように差すだろう。――黎明、夜明け、昇る朝陽――素晴らしいもの、善きものだ。皆、そこに希望を見るだろう。輝かしい明日の兆しと――

するり、と彼の肩から白い羽織が滑り落ちる。――もしかしたらその羽織の色は、彼に誰かを思い出させるのかもしれなかった。

「俺はずっと、夜が明けなければいいのにと願っていたよ。――白んでいく空の向こうに、俺は一体何を見ればよかったのだろう」







軽く会釈をして、部屋を辞する。するすると襖を閉めて、とんとんとん、と軽い音を立てて階段を降りる。
受付ですれ違いざまに、番頭が「またおいでな」と声をかけてくれる。――きっと、皆同じ気持ちだった。



あのゆっくりと欠けていく美しい虧月が、やがて新月を迎えて最期のあえかな吐息を漏らすまで――



東の空を見上げる。黄昏の空にうっすらと浮かび始めている下弦の月を眺めて、大通りの真ん中でしばし足を止めていた。






虧月の夜明け・了