はなれ
2024-12-16 14:35:35
11496文字
Public 哥忌
 

たとえ朝が来なくても

『いくつ夜を数えても』の続き。
今州の未来に希望を持つピチピチの新兵哥舒臨と死に戻りループでやさぐれているボロボロの将軍忌炎の年齢立場逆転逆行ifの哥忌with捏造北望&今州のオカンやってる角

「いっ……手加減しろ!」
「無茶言うんじゃない。だったら防ぐことも覚えたらどうだ」
「お前にだけは言われたくない」
「なら大人しく治療を受けるように」
 言い聞かせるように呟いて、忌炎は哥舒臨の腕に包帯を巻く。
 忌炎が哥舒臨に弱みを見せてからというもの、前線から帰還した後は、こうして忌炎の部屋で傷の手当てをするのが恒例になっていた。
 無論、戦闘後に限らず、何かと理由をつけて哥舒臨は忌炎の側にいたがるのだ。
 口ではとやかく言いながら、忌炎も拒むそぶりを見せない。
 あの夜から、ふたりの距離は少しだけ近づいた。
 それでも反抗的な言い合いをしてしまうのは、気恥ずかしさからくる照れ隠しなのかもしれない。
 救急箱の中身の確認をしている忌炎を、哥舒臨は腕をさすりながら眺めていた。
 その端整な顔は相も変わらず、哥舒臨の視線は、おのずと忌炎の頬に向かう。
 薄浅葱の龍鱗。
 気が付けば、哥舒臨は手を伸ばしていた。
 少しかさついた肌に生えそろう、小ぶりな鱗にひたりと触れる。
 驚いて顔を上げた忌炎と目が合い、哥舒臨は身を引こうとした。
 だって、いつもなら忌炎から小言が飛んでくるのだ。
 何をしている、と一刀両断され、鋭い目つきで睨まれるはずだった。
 だが、いくら待っても小言どころかため息の一つも聞こえない。
 忌炎はしおらしく目を伏せ、添えられたままの哥舒臨の手に自らすり寄ったのである。
 哥舒臨は混乱し、思わず小動物にするように指先で忌炎の鱗を撫でた。
 優しく、労わるように、つるりとした表面をなぞり、わずかばかりにひっかいてやると、どこからか、ぐるる、と甘えるような音がした。
 どうやら喉が鳴っているらしい。
 誰の?
 それはもちろん、忌炎の。
「! ごほん。そろそろ手を離してくれ……
 言いがかりだ。だってすり寄ったのは忌炎の方なのだから。
 それでも哥舒臨がそれなりの罪悪感を抱えながら身を離すと、なんとも言えない空気がふたりの間に満ちる。
……内緒にしてくれないか」
 忌炎は鱗を庇うように手で覆うとそっぽを向いた。
 隠せない耳が赤く色づいている。
 哥舒臨には何を内緒にすればいいのかわからなかったが、とりあえず頷いておいた。
 なんだかとても、見てはいけないものを見てしまったような、そんな気持ちにさせられた。


 それからというもの、忌炎が自分で鱗を撫でているのを哥舒臨はよく見るようになった。
 それは書類を読んでいる時に。
 デバイスを確認している時に。
 戦闘中……は知らないが、戦後処理の時に。
 何かを堪えるように目を伏せ、一度だけ鱗を撫でて、また冷たい顔つきを張り付けるのだ。
 思えば昔から、その仕草は見たことがあった。
 今までは気に留めていなかっただけで。
 だから、今ならわかる。
 あれは忌炎が自分を騙し、鼓舞するための仕草なのだと。
 基地内で見かけた忌炎は軍議を終えたばかりなのだろうか、数名の部下と書類を見て話し込んでいた。
 その最中にまたもや鱗を撫でる忌炎の癖を見てしまい、哥舒臨の眉間にシワが寄る。
 哥舒臨は兵士たちの話が終わると、すぐに忌炎に声をかけた。
「忌炎将軍、俺に戦術を教えてくれる約束だっただろう」
「? そのような約束は」
「いいから来い」
 忌炎が何か言ってるが、聞く耳は持たない。
 それに、内緒にしろ、と言ったのは忌炎だ。
 哥舒臨は強引に忌炎の手を引き、自室に戻る。
「話があるのなら、また今度に……
「疲れているんだろう。俺が起こしてやるから、少し休め」
 いとも容易くベッドに連れ込める時点で、いつも通りでないのは明白だった。
「それとも、こんなガキに寝かしつけられる趣味でもあるのか?」
「どうしてあなたはそう焚きつけるような言い方しかできないんだ……
 忌炎も、哥舒臨に隠すだけ無駄だと理解しているのか、弱弱しくため息をつくと寝具の上に横たわった。
「10分経ったら呼べ」
「1時間にしろ」
……30分」
「よし」
 やっとこさ休憩時間を取り付けると、哥舒臨は褒めるように忌炎の鱗を撫でてやる。
「あなたは、わかってやっているのか……?」
「何の話だ?」
……なんでもない」
 忌炎は哥舒臨の指先に弄ばれるまま目を閉じると、小さく、きゅう、と喉を鳴らした。


 ◇ ◆ ◇


 北望は困っていた。
「ここは一点突破を目指すべきだ!」
「安全な迂回路があるのならわざわざ危険を冒す必要はない」
「常時残像がいる訳ではないのだろう? なんなら俺が偵察に……
「それを決めるのは俺だ。あなたではない」
「本当に融通が利かないな。頭に黒石でも詰まっているのか?」
「それで皆を守れるならいくらでも詰め込んでやろう」
「チッ。これだから将軍は頑固で偏屈だと言われるんだ。北望もそう思うだろう?」
「部下を無為に危険に晒すなど、鎮戍将軍の名が廃ると思わないか、北望」
……ノーコメントで」
 北望はどこにでもいる夜帰兵のひとりだった。
 ひょんなことから忌炎に師事するようになり、何かと問題……無鉄砲の絶えない哥舒臨を友に持つ、そこらの一兵卒だと自負している。
 共通の友人であるせいか、忌炎と哥舒臨の言い争いに巻き込まれるのも初めてではなかった。
 正直に言って巻き込まないで欲しいと思っている。
 北望は若干うんざりしながら饒舌なふたりを後方から眺めていた。
 もう正面を行こうが迂回しようがどっちでもいいんじゃないか。このふたりを前に敗北の二文字は想像ができない。
「「どう思う!? 北望!」」
「勝手にしろ! 俺を巻き込むな!」
 ぴしゃりと言い放って、北望は迅刀を構えた。
 あれほど言い争っていた忌炎も哥舒臨も、静かに得物を構えている。
 行き先を決めるより、まずは目の前の敵に集中するべきだ。
「総員戦闘準備! 先鋒は俺たちが引き受ける。油断せずに、かかれ!」
 凛々しく伝わる忌炎の声に、北望は頷き、次鋒となるべく足腰に力を……
「北望、行くぞ!」
「俺も!?」
 鉤縄を使って真っ先に駆け出していった哥舒臨を追いかけるように忌炎も飛び出し、その勢いに連れられるまま北望も駆け出さざるを得なかった。
 こうなったらもう自棄。溜まった鬱憤を残像にぶつけてやるのだ。
 襲い来る残像をちぎっては投げ、ちぎっては投げ。実際には斬り捨てているのだけれど。
 戦の音につられてか、周囲に残像が集まって来ている。
 忌炎の共鳴能力であれば、まとめて殲滅することも可能だろう。
 だが、ここには味方も多い。
 仲間を巻き込む可能性が少しでもあるのなら、あの性根の優しい将軍は、己が異能を使うことを良しとしなかった。
 それを少しだけ残念に思う。
 情け容赦の欠片もなく残像を屠る青龍は、夜帰兵にとって憧れの象徴でもあったので。
「隊長!」
 考え事をしていたせいか、注意力が散漫になっていた北望は無防備に残像の前にさらされる。
 退避は、間に合わない。
 甘んじて一発受けるか。授業料というやつだ。
 北望が頼りなく迅刀を振り上げた先で、眼前を、青き龍が駆け抜けた。
「無事か、北望!」
「申し訳ありません将軍、お手数を……
……今のは、俺じゃない」
「え?」
 この戦場で青龍を操れるのはただ一人、忌炎だけに他ならない。
 ならば、あの青龍は――
「北望、後は任せる」
「将軍!?」
「おい! 待て!」
「哥舒臨まで!?」
 青龍の消えた先へ走り出した忌炎を、更に哥舒臨が追いかけていく。
 止めても無駄だ。もうふたりに声は届かない。
 北望は深く深く息を吐き出すと気持ちを入れ替えた。
 それから北望は、ちゃんと部隊を基地に帰したとも。


「いきなり走り出してどうしたんだ」
……
 哥舒臨に返事もせず、忌炎はまっすぐ眼前に目を向けている。
 金色に収束する音場の入り口。
 その手前に、浅葱の髪をなびかせる男がいた。
「将軍が、もう一人……?」
 驚愕をあらわに哥舒臨が呟くと、忌炎の姿をした幻影は音場に消えていく。
 ――呼ばれている。
 無音の中で、忌炎にはその確信があった。
「この音場は……俺に反応しているのか?」
 ふらりと吸い込まれかけた忌炎の手首を、哥舒臨が掴んで引き留める。
「っ、俺も行く!」
「許可できない。未知の危険にあなたを巻き込む訳には……
「お前の許可がなくても、俺は付いていくからな」
……わかった。ならば俺の側から離れるな」
 忌炎が音場の入り口に触れると、見覚えのある景色が嵐のように駆け抜ける。
 突風が落ち着くのを待つと、金属が打ち付ける厳かな音が聞こえた。
「鐘の音……
 その音色には覚えがある。
 鐘鳴広場の鐘の音だ。
 忌炎は辺りを見回し、異常がないか確認する。
「ここ、こんなに花が咲いていたか?」
 哥舒臨は座り込み、満開の如故に触れた。
……
 どことなく胸に広がる嫌な予感に、忌炎は唇を引き結ぶ。
 これは、忌炎の知る景色。この時代では、忌炎しか知り得ない光景だ。
 またもや風が吹き抜ける。
 おかしい。この音場は、何かが、おかしい。
 言葉にできない焦燥感が忌炎の心をかき乱す。
 次に目を開ければ、忌炎たちは空中廃墟に立っていた。
「っ、将軍!」
 切羽詰まったような哥舒臨の声が聞こえたと思えば、ふたりを分断するように、空中廃墟が崩落する。
 伸ばされた哥舒臨の手を掴もうとするが、届かない。
 次に瞬きをすれば、忌炎は決戦の地に立っていた。
 暗黒の空を内包した、無冠者の像の心臓部。
 忌炎が何度も命を落とした因縁の地。
 十字が刻まれた歪な月から、胎動にも似た衝撃派が広がる。
 生まれ落ちるのは、無妄者。
 夜闇の翼をはためかせ、忌炎を嘲るようにふわりと降り立つ。
「お前が……あの人を……!」
 ぎちぎちと拳を握り、忌炎は音痕から青龍を引きずり出した。
「お前はっ、どれだけ俺から奪えば気が済むんだ……っ!」
 顕現させた長槍を掴み、何度も相対した宿敵に刃を向ける。
 胸に込み上げる激情が血液を通して全身を廻る。
 お前だ。
 お前のせいで!
 より一層旋風が勢いを増し、忌炎は青龍を以て無妄者を討ち滅ぼさんと空を翔けた。
 ……なにか、何か違う。
 無妄者はこれほど弱かっただろうか。
 そんなはずはない。
 だって忌炎は、ひとりでは、これに勝てなかったのだから。
 だが今は、こんなに軽々と無妄者を追い詰めることができている。
 漂泊者と共に戦った時だってこんなに簡単にはいかなかった。
 何かがおかしい。
 わかっている。
 わかっているのに、止まれない。
 青龍の力が込められた槍が、無妄者の胸を貫いて。
 ――本当に?
 本当に、これは、無妄者、だったのか?
「かはっ……
 なまあたたかい血しぶきが、忌炎の顔を赤く染める。
「よ……やく、止まった、か。しょう、ぐん……
 哥舒臨の、血にまみれた両腕が忌炎に伸ばされて。
 忌炎を落ち着かせるように、哥舒臨の指先が一度、やさしく忌炎の龍鱗をなぞる。
 そのまま、哥舒臨は忌炎にもたれかかるようにして崩れ落ちた。
 倒れ伏した白い肢体から、どく、どくと血が溢れる。
「ぁ、ぇ……?」
 ごぽ、と哥舒臨が粘着質な息を吐き、ぬるい体温が忌炎を汚した。
「俺は……おれは……何、を……?」
 瞳を揺らし、声を揺らし、忌炎は震える手で哥舒臨を抱きしめる。
「あ、ぁ……ぅあぁぁぁあ――ッ!」
 乾いた口から飛び出たのは、まさしく、忌炎の悲鳴だった。
 哥舒臨の傷口を塞ごうと、忌炎は手を尽くす。
 駄目だ。どうやったって熱が溢れる。哥舒臨の命が、こぼれてしまう。
 どうして。
 どうしてこんなことに。
 やはり哥舒臨を連れてくるべきではなかった。
 いいや、最初から、自分たちは出会ってはいけなかった。
 嗚咽まじりの謝罪と、みっともない慟哭が響く。
 両手を血に染めながら、忌炎は願っていた。
 どうか、どうか、と。
 哥舒臨のためなら、忌炎は己の命だって差し出せるのだ。
 だからどうか、俺からこの人を奪わないで、と。
 忌炎の体に、金色の龍鱗が浮かび上がる。
 足に、胴に、腕に、半透明のそれは忌炎を守るように浮かび上がり、徐々にひび割れ、涙と共に砕け散った。
 忌炎の頬に生えそろう薄浅葱さえ、金色の龍鱗が覆い隠す。
 ――パキン。
 現実が、割れる。
 薄れゆく意識の中、哥舒臨は忌炎を中心に渦をまく、黒と金の龍影を呆然と眺めていた。


 ◇ ◆ ◇


 目が覚めたと思った。
「なら大人しく治療を受けるように」
 ぱちりと瞼を開けると、救急箱を手にしたままの忌炎と目が合う。
 いつか見たような光景だった。
 そりゃ忌炎の部屋で傷の手当てをするのは恒例になっているのだから、いくらでも同じような記憶はあるだろうけど。
 だが、これは、そっくりそのまま同じだ、という妙な既視感があった。
 忌炎は救急箱の中身を確認している。
 そうだ、あの時哥舒臨は、忌炎の鱗に触れて……
 けれど、哥舒臨の指先が忌炎の鱗に届く寸前、その手は忌炎に阻まれてしまった。
「何のつもりだ」
……なんでも、ない」
「顔色が悪いな。まだどこかに怪我を? 熱は、なさそうだが」
「なんでもないと言っているだろう!」
 ハッとして哥舒臨は顔を上げる。
 混乱のままに怒鳴りつけてしまうなど、癇癪を起した子供のやることだ。
「将軍、俺は……
「余計な世話だったな。すまない」
 忌炎は悲し気に眉尻を下げ、救急箱を手に部屋を出て行ってしまった。
「あ~……クソ……
 哥舒臨はガシガシと髪を乱しながら、状況を整理することにした。
 今、自分は忌炎の部屋にいる。これは正しい。
 今、自分は生きている。これも正しい。
 今、自分は怒っている。これは、どうだろう。どうでもいいかも。
 なら何が胸中にわだかまっているというのか。
 よくわからない記憶が、哥舒臨を惑わせている。
 あの音場の中で、暴走した忌炎に胸を貫かれて、哥舒臨は死んだ、はずだった。
 聞くに堪えない忌炎の泣き声を子守歌に、彼の腕の中で力尽きたはず、だった。
 なのに、今、生きている。
 それどころか、過去に戻ったような気になっている。
 なら、この身の毛もよだつような記憶は何なのだろう。
 予知夢?
 哥舒臨の知る限り、そんなこと、歳主にだって……歳主。
 そうだ、哥舒臨が事切れる前、忌炎の周囲には黒と金の龍影があった。
 あれはおそらく、今州の――
 その日の夜、記憶を頼りに、哥舒臨は基地を抜け出した。
……あった」
 視認したのは、忌炎と共に訪れた音場の入り口。
 この胸に抱える違和感を確かめるために、哥舒臨は音場に飛び込んだ。


 ◇ ◆ ◇


 ――悲鳴を、聞いた。

 怨嗟を聞いた。
 怒号を聞いた。
 断末魔を、雄叫びを、鼓膜が千切れそうなほどに。
 ここは、戦場。
 だがそこは、哥舒臨の知る前線より過酷で、おぞましく、醜悪なものに見える。
 だというのに、妙に見慣れた光景だと思った。
 哥舒臨は、この惨状を知っている・・・・・
 死体が散乱し、血が川となり、雨でも洗い流せないほどの血臭が漂うこの場所を。
 どうして?
 わからない。考えようとすると頭が痛む。
 こめかみを押さえてよろけながらも、哥舒臨の歩みは止まらない。
 目を背けたくなる景色を網膜に焼き付けるように、二度と・・・忘れないように、歩いて、走って、駆け抜けて。
 本のページをめくるように場面が切り替わる。
 これは忌炎将軍の。いや、違う。あいつは軍医で。いいや違う! だって将軍は最初から。こんな記憶は知らない。知らない? 知らない!
「この記憶は、なんだ……?」
「わからぬか」
 幾重にも積み重なったような声に、哥舒臨は頭上を仰いだ。
 そこにいたのは、哥舒臨が付き従うべき今州の歳主、角。哥舒臨が薄れる意識の中で見た相手だ。間違うはずもない。
「ならば、戻り、遡り、辿り見よ。汝には、この艱難辛苦を見届ける義理がある」
 角が宙でとぐろを巻くと、韶光が哥舒臨に降り注いだ。
 途方もなく、頭が割れそうに痛い。
 爪先から針を刺され炙られるような、熱した金属を脊髄に流し込まれるような、灼熱に近い痛みに哥舒臨は全身をかきむしった。
 脳ミソをひっくり返され、知らない記憶が埋め込まれていく。水面に浮かぶ泡のように異なる情景が視界をちらつき、知らない感情が全身を駆け巡る。
 耐えきれそうには、ない。
 けれど、逃げてはいけない、とも思う。
 に見られているからではない。己が、逃げたくないと思うから。
 地を掴む。天を睨む。
 己がのたうち回る様子を悠然と見下ろす歳主かみさまに怒りが沸き起こる。
 屈してなるものかと声を上げる。
 今に見ていろ!
 脳を揺さぶられるような感覚に意識が遠のく。
 その時。
「角、そこまでだ」
 風が吹き抜けたかと思うと、ふ、と体が軽くなる。
 視界が一気に明瞭になり、哥舒臨が息せききって見上げた先で、長槍を手にした忌炎が立っていた。
「これ以上、この人に背負わせないでくれ」
 いつかと同じように忌炎は背を向け、哥舒臨と角の間に割り込む。
「この者は未だ鎮戍の責に能わず。汝を任せるには頼りない」
「驚いたな。あなたは今州と今汐のことしか眼中にないと思っていたが……
「忌炎、汝は我が今州の寵児である自覚を持て。我にも相応の情はある。でなくば、度重なる無謀を治めたりはしない」
「そうか、あなたは……
 この時代の角ではなく、忌炎がいた時代の――忌炎を過去に導いた、角なのか。
「何故この時代かこに?」
「この音場の発生によって時の運行が乱されたがゆえに、我が参じた。我が力は音場の消滅に役立つだろう」
「手を貸してくれるのか」
「異存はない」
 なにやら話をしている角と忌炎を視界の端に捕らえながら、哥舒臨は息を整えていた。
 自分が知らない自分の記憶は、今は鳴りを潜めている。
 思い出そうとすると霞がかかったように漠然とした印象しか残っていなかった。
 それがこの音場の影響なのか、角の影響なのか、哥舒臨にはわからない。
 一つだけわかる事は、哥舒臨は、忌炎の薄浅葱が金色に染められたのを根に持っているのだ。
 だから、歳主と仲良く話している将軍に腹が立つ。
「立てるか?」
 座り込んだままの哥舒臨に、忌炎が手を差し伸べた。
……問題ない」
 哥舒臨は忌炎の手を借りることなく、自分の力だけで立ち上がった。
 今忌炎に触れれば、抱きしめて、閉じ込めて、歳主の目の届かない場所まで連れ去ってしまうだろうから。
 出口を探して歩き出す哥舒臨の後ろ姿と、取ってもらえなかった手を交互に見て、忌炎がぽつりと呟く。
……嫌われてしまっただろうか」
「己が未熟さを嘆いているだけであろう」
「何をぶつぶつ言っている! 早く行くぞ!」
 振り返って拗ねてくる哥舒臨に、忌炎はそそくさとその後を追った。
「それにしても、これはどういうことだ? この景色は……
 ある時は今州城。ある時は鐘鳴広場。ある時は戦場。
 彼らのよく知る景色。だが、細部は違って見える。
 この空間が再現しているのは、忌炎だけがよく知る今州の姿だ。
「忌炎、汝にも覚えがあるはず。この時代、この局面において、汝らだけが〝違う〞のだ」
……なるほど。この音場は、俺が手放した未来の残響か」
 忌炎は、同じ時を何度も繰り返している。
 それも、血にまみれた戦争の時の中を。
 何回も。何回も。
 その記憶が自分を苦しめているというのなら……当然か。
 数えきれない時間遡行の中で、どれだけ忌炎が己を悔やみ、恨んできたことか。
『忌炎、お前如きに……
 ――声がする。
 それはいつかの哥舒臨の声にも、忌炎自身の声にも聞こえた。
 顔を向ければ、鏡写しのような自分がそこにいる。
「その執念、我が匕首にて葬り去れ。さすればこの音場は自然の流れに帰結する」
 忌炎は迷わなかった。自分を殺すことには慣れていた。
 何度も繰り返してきたことだ。
 今更、何をためらう必要がある。
「留まれ、哥舒臨」
 忌炎が己自身と戦っている最中、駆け出しかけた哥舒臨は角に阻止された。
「これより先、汝に出る幕はない」
「ふざけるな! 黙って見ていろというのか!?」
「然様。これは忌炎の戦いである」
 歳主たる角に見据えられてしまえば、哥舒臨は動けない。
 自分より圧倒的な存在を前にして、体が委縮してしまっていた。
 歯がゆさに拳を握りしめ、哥舒臨は忌炎の戦いを見守る。
 将軍は強い。けれども、相手も同じ将軍だ。
 無傷ではいられない。彼のまとう浅葱には似つかわしくない緋色が散る。
 ああ、似合わない。
 彼にひとごろしなど。
 ほどなくして、長槍ではなく、長刃でもなく、角の匕首で。
 忌炎は己の首を掻き斬った。


 夕焼けか朝焼けかわからない、穏やかな色の空だった。
 ここも音場だという。しかも歳主の。
「異常周波数は我が音場に呑み込んだ」
 終わってみれば、将軍の偽物に始まった今回の一件は呆気ないものだった。
 途中、不愉快な事象は挟んだ気がするが。
「出口はわかるな」
 角の尾で示され、ぽっかり空いた出口に哥舒臨はさっさと出て行った。
 どうにも拗ねたままらしい。
 忌炎は苦笑しながらその後を追う。
「忌炎」
 角に名を呼ばれ、忌炎は立ち止まった。
「心せよ。汝に次の過去みらいは無い」
「わかっている……つもりだ。角、世話になった」
「願わくば、長き夜を越え、無事の帰還を果たすことを」
 未来の令尹から聞いたような言葉だと思いながら忌炎は出口に足を踏み入れる。
 忌炎は、己の死をトリガーに時間遡行を繰り返してきた。
 幾度にもわたるそれに、それでも正気を失わなかったのは、ひとえに角より賜りし秘法の加護があったからだ。
 だが、それは先の遡行で砕けてしまった。
 だから、忌炎に次はない。
 次があればその時は、忌炎の体は、心は、やりなおしに耐えられないだろうから。


 ◇ ◆ ◇


 トン、トン、と規則的な足音に目を開ける。
 開けた視界にうつる浅葱色と、うなじの音痕が見えて、哥舒臨は忌炎に背負われているのだと理解した。
「目が覚めたか。どこか不調は?」
……ない」
「それはよかった」
 思い返してみるが、音場から離脱した後の記憶が無い。どうやら哥舒臨は気を失っていたらしかった。
 どれほど音場に囚われていたのかわからないが、東の空が白んでいるのを見る限り、夜が明けようとしている。
 一兵卒である自分ならまだしも、将軍がいないとなったら基地は大混乱じゃないのか。なんて言うつもりにはなれなかった。
 それより先に、聞かなければならないことがある。
……お前は、覚えているのか」
「いささか要領を得ない質問だな。あなたらしくもない」
「誤魔化すな。俺は、覚えているぞ」
……
 背負われたまま、忌炎に回した腕に力を込める。
 逃がしてなるものか、と思った。
「あの痛みは、苦しみは、夢なんかじゃない! 己が死に向かう感覚を、確かに俺は、恐怖、した」
 思い出したい記憶は思い出せないのに、どうでもいい記憶ばかりが脳裏をよぎる。
 忌炎の槍が胸を貫いた、あの瞬間が。
 崩れ落ちた先で見た、絶望に歪んだ忌炎の顔が。
「俺が知らない記憶の断片、そしてあの歳主の言葉。お前は、何度こんなことを……っ!」
……言っただろう。あなたには関係のない話だ。その記憶が枷になるのなら、潔く忘れるといい」
 それなのに、忌炎は忘れろと言うのか。
 あの、体を引き裂いても足りないような、悲しく響く慟哭を。
 忘れてはいけない!
 忘れられるものか!
 忘れていいはずがないんだ。
 知らない記憶が、知らない感情が、これでもかと哥舒臨をかき乱す。
 だって、哥舒臨が忘れてしまえば、忌炎はあの夜と同じように、端整な顔をぐしゃぐしゃにして、誰にも知られることのない痛みを抱えたまま、ひとりで……
 そんなこと、させてはいけない。
 哥舒臨は、忌炎をひとりにしたくない。
 だったらやることは一つだけ。
 その澄ました顔を、遠くを見つめるその瞳を、哥舒臨の方に向けさせなくては。
……あの残像潮の時、後で相手をする、とお前は言った。その約束を、今、ここで果たしてもらう」
「やめておけ。消耗した体で俺に挑むつもりか」
「構わない。一発、その横っ面を殴りたいだけだ」
 突き放すように忌炎の背から降りて、哥舒臨は大剣を顕現させた。
 忌炎は渋っていたが、哥舒臨の殺気じみた闘気にあてられ観念したようである。
「殺す気で来い」
「それを、あなたが言うのか!」
 忌炎が青龍の槍を掴んだ瞬間、哥舒臨は忌炎の頭上に振りかぶった。
 剣身に黒い炎が宿る。
 苛烈に戦場を焼き尽くす黒焔も、青龍の巻き起こす風の前では種火代わりにもなりはしない。
 それでも、食らいつく。
 ここで退いたら、忌炎は哥舒臨を遠ざけてしまうような気がした。
 忌炎は哥舒臨に攻撃するつもりはないらしい。舐められたものだ。
 感情任せの哥舒臨の斬撃を、忌炎は受け止め、いなしていく。
「俺を殺したのが、それほど堪えたか」
「っ……!」
 哥舒臨の言葉に忌炎は動揺し、隙が生まれた。
 揺らいだ長槍を越えて哥舒臨の拳が忌炎の顔面を狙う。
 防がれる。
 まだ遠い。
「戦え! あの時のように全力で!」
 本気を出した忌炎の恐ろしさを、哥舒臨は身をもって知っている。
 だからこそ、煽れる。
 お前が狙うべき場所はここだと、防御を度外視した攻撃を繰り返す。
 忌炎は、まだ、遠い。
 ならば。
 哥舒臨は鉤縄を駆使して飛んだ。
 重力と体重を込め、渾身の一撃を忌炎に放つ。
 劫火と暴風が入り交じり、明けの空を激しく彩った。
 まだだ。
 これで終わりじゃない。
 巻き起こった土煙に隠れ、哥舒臨は忌炎の懐に飛び込んだ。
「将軍ッ!」
 姿が見えずとも気迫が伝わる。
 哥舒臨の作戦は、一点突破。
 忌炎が長槍で砂埃を振り払うと、予想通り哥舒臨の姿があった。
 その手に武器を持たない、生身の哥舒臨が。
 長槍で防いではいけない。万が一矛先があたったら。
 また忌炎が。
 哥舒臨を。
 忌炎は怯えて長槍をかき消す。
 間に合え、間に合え……
……一発」
 抱き留めた哥舒臨の勢いに押され、忌炎は背中から地面に倒れ込んだ。
「殴ってやったぞ」
 どうだ、見たか。と、哥舒臨は忌炎を押し倒したまま、誇らしげに笑う。
 朝焼けの光に照らされて、淡く光る白髪が眩しい。
 忌炎はたまらず、哥舒臨を抱き寄せた。
 哥舒臨はそのまま忌炎に突っ伏す。
「約束してください。もう二度と、このような真似はしないと……
 忌炎は哥舒臨の存在を確かめるように抱きしめた。
 大丈夫、生きている。ここに、ちゃんと。
 数度呼吸を繰り返し、忌炎は身を起こした。
 哥舒臨を隣に降ろして、ほっと胸を撫で下ろす。
「なぁ将軍、お前が抱えるその重苦……俺にも、背負わせてはくれないか」
 真っ先に縋りつきたくなるほど、甘美な誘いだった。
 だが。
「あなたにだけは、背負わせないと決めた」
 忌炎は微笑んだまま、その誘いを断った。
 だってそうしなければ、忌炎が過去に戻ってきた理由が無くなる。
……そうか」
 哥舒臨には、忌炎の抱えるそれがどれほどのものかわからない。
 けれど、もう、忌炎の心を無理に暴こうとするのは止めた。
 忌炎が遠ざかろうとするならば、こうして殴って連れ戻してやればいいのだ。
「疲れた。帰るぞ」
「それは俺のセリフだと思うんだが……
 ふたり揃ってボロボロになりながら基地に戻った後、こってり北望に叱られたのは言うまでもない。