礼拝堂から奥へ続く扉へと目を遣る。教会内を探検してくると言い残して『半死神の少年』がその扉を開いてから小一時間が経とうとしている。外は止まぬ雪に閉じ込められ、十分に暖かいとは言えない教会内で長らく何をしているというのだろうか。キャンドルの炎が揺らめく微かな音だけが耳を癒す礼拝堂で本を読んで待っていたがいよいよ落ち着かない気分になり、数分毎に動かぬ扉が気になって読書どころではなくなってしまった。
探しに行くべきかと悩んで腰を持ち上げた時、逆サイドの扉が控えめな音を立てながら開いた。
「あっ、ハーデイ」
名前を呼ばれ、体が自然とそちらを向く。ターゲットである半死神の少年に近づく手段のひとつであったこの仮の名前も随分と馴染んでしまっていることに気づいて遅れて自嘲する。
振り向いた先には綿のような埃を全身に纏った少年が扉から体を覗かせていた。鮮やかな桜色の髪も真っ黒な装束も灰色に覆い隠されてしまっている。散々な格好で帰ってきた少年に呆気にとられて固まる。希望を見つけたみたいに目に光を宿しながら少年が小走りで近づいてくる。
「これって花だよね?」
高揚したような早口で彼が差し出してきたのは額縁に入った一枚の絵画だ。青い空、白い雲、緑の草原とそこに咲き乱れる色とりどりの花々。豊かな色彩が目を引く、花畑の絵だ。
「どこでそんなものを……」
「奥の部屋で見つけたんだ。他にも色々あったよ。ハーデイにも見てほしい」
「その前に君の汚れを払おうか。埃まで連れてこなくたっていいだろうに」
「ごめん。そんなつもりはなかったんだけど、夢中になってたみたいだ」
「夢中になるのは構わないが少し動かないでくれ。埃が立つ」
髪や服に纏わりついた埃を乱雑に払う少年の肩に手を置いて制止する。吹雪の中でもかまわずこの教会にやってきて雪まみれの体で床を濡らされるのには慣れてきたが、埃まで撒き散らすほどのおてんばぶりまで発揮してくるとは思わなかった。
私の言葉にぴたりと動きを止めた少年はこちらに向けて頭をもたげた。眼下に差し出された灰と桜混じりの柔髪に綿雪のように乗っかった埃を指で摘まんで静かに落としていく。私に命を狙われていることなど露も知らない少年の無防備さに気掛かりがないではないが、警戒されていないのだと解釈しておく。順調に関係を築けていることは今回の仕事を遂行する上で好都合ではあるが、少年の警戒心のなさには多少は心配になる。
……心配? 立場上、私が少年の無警戒さに対して気を揉む義理も権利もありはしないのに心配だなんて笑えてしまう。
「顔の方は?」
「ん……」
顔を上げさせると黒く艶やかな睫毛にも埃が乗っているのが見えた。器用なことだ。瞼に指を乗せると察した少年が目を閉じる。瞼から睫毛にかけて拭うように指を降ろしていくと、ぴくぴくと瞼が震える。そのまま頬に薄く貼った塵の層を拭い落としていく。その下から現れる眠るように息づく冷たく滑らかな肌に目を奪われる。いずれ訪れる無垢に咲く命を刈り取る瞬間が瞼の裏をよぎってぞくりと背筋が冷えた。
大人しく私に身を委ねていた少年は舞い上がった埃を吸ったのか軽く咳き込み、その弾みで手が離れる。
「……それで、私に見せたいものって?」
爛と光を宿した目を開いて少年は意気揚々と私の腕を引いて、教会の奥へ繋がる扉を再び開いた。
少年は広い教会の通路を時々確認しながら奥の方へと進んでいく。
「最初は迷子になって帰れなくなるかと思って心細かった」
こちらが抱えていた憂いをまるで知らない少年はおどけた口調で白状する。
「今度はハーデイも一緒に探検してくれよ。ハーデイとならもしまた迷っても出口まで連れていってくれるだろ?」
こうも真っ直ぐに全幅の信頼を寄せられると調子が狂う。人を疑うことを知らないのだろうか。呆れの溜め息は微笑みに変えて吐き出した。
「きっと一緒だともっと楽しいよね」
「探索しないという選択肢はないんだね?」
当たり前のように私を巻き込む無邪気な不躾さに眉をひそめる。ふつりと沸いた苛立ちに任せて飛び出た言葉に少年は目を細めた。くちびるは悪戯っぽく弧を描く。
「そうだね」
楽しげに肩を揺らす少年の毛先からさっき取り損ねた綿埃がはらりと舞い落ちた。
「着いた。ここだよ」
そう言って少年が示す通路の先には取り残されたようにひっそりと佇む部屋があった。
「こんなところにある部屋をよく見つけたものだな」
私ですら把握していなかった部屋を見つけ出した少年に感嘆と呆れ半々で呟くと、少年はどこか得意気にはにかんだ。
少年が扉を開くと軋んだ音が辺りに響く。少年が出て行ってから時間の経っていない部屋には埃の粒子が充満していて煙たい。せっかく払った埃がまた少年の頭や肩に降り積もっていく。
「確かこの辺に……」
がしゃがしゃと何かを掻き分けながら少年が部屋の中を進んでいく。彼が動くたびに空気がかき混ぜられて埃が舞い上がり、扉の隙間から射し込む明かりがそれを雪のようにキラキラと反射させる。少年は落ち着いた物言いの割には身軽で好奇心が旺盛のようだ。年相応のこどもらしくて結構だが、これ以上荒らすのは勘弁してほしい。おそらくそれを片付けるのは私なのだから。
霞む視界と淀んだ空気に眉をひそめながら部屋の中を注視すると、いくらかの絵画と共に古びた画材が豊富に散らばっていた。昔ここに画家が出入りしていたのだろうか。アトリエと呼ぶには乱雑としすぎていて、落ち着いて腰を据えるスペースもなく、とても絵を描くような環境とは思えない。少年が来る前からそうだったのか、少年の手によって変貌を遂げたのかは見当がつかない。
「ほら、こんなにたくさん絵があるんだ」
奥から手招く少年の傍にはいくつものカンバスが並んでいるが、そのどれも相当に古いものだった。絵具が剥がれてぼろぼろに朽ちて原型を留めていない作品もあればスケッチだけの未完成品もある。床は散らばったスケッチの紙で埋め尽くされていて足の踏み場もない。剥がれ落ちている絵具は色彩に富んでいて、おそらく様々な季節が描かれていたのだろうと予測できた。今は見る影もなく全貌を把握できないのが残念だ。
それと比較すると、少年が見せてきた花畑の絵画だけが不思議なほどに美しいまま保たれていた。堆積した時間と埃の中で誰かに見つかることを健気に待ち続けていたようだ。
「よく見つけたね」
人と絵画とが惹かれあったような、運命というべき出会いに素直な祝福な言葉がこぼれる。降り注ぐ塵埃のベールの向こうで少年の微笑みがちかちかと瞬いていた。
埃まみれのアトリエもどきから抜け出した後、廊下の柱に少年が見つけた絵画をかけてやると、少年の表情がぱっと華やぐ。熱心な視線に応えるように、とりどりの花たちがその色彩を競い合いながらこぼれ落ちそうなほどふくふくと咲き誇っている。とこしえの凍土の中、額に縁取られたそこにだけに春がやって来たようだ。
「随分と気に入っているようだな」
「見たことのない花ばかりだから。カラフルで綺麗だ」
少年はうっとりと表情を緩ませる。永遠の冬に閉ざされた町では花などめったに目にかかれない。生まれてからずっと冬の中で生きていた少年には特に珍しく映るのだろう。
「ハーデイも絵が描ける?」
「私が? 何故?」
「ハーデイって何でも出来そうだから。色々なことを知ってるし、いつも本を読んでるし」
「それと絵が描けるかは関係がないだろう」
「そうかな。春が来たらハーデイに花の絵を描いてもらおうと思ったんだけどな」
少年の顔が幻の春を夢想して綻ぶ。雪解けを期待して染まる頬の色も、その先の温もりを夢見る瞳の光も、曇天と雪の檻に閉じ込められたこの世界には眩しすぎて、私は背けるように目を伏せた。
自らの運命を知らないまま夢を語る彼を憐れな奴だと嘲笑うことができなくなっている自分の心に気づいても、もうどうしようもなかった。この胸の痛みを消す方法も、死神と人間との間に生まれただけのただの少年に絡みついた宿命の糸を解く力も私にはない。
この迷宮の出口を私は知らない。
花の絵画を熱心に見つめる少年の横顔をクリーム色の紙に黒のペンシルで描き写す。
絵画を飾ってからというもの、少年は祈祷終わりにそれを眺めるのが習慣になっていた。同時に私もまた新たな習慣として紙とペンを握るようになった。
絵が描けるのか、という少年の取り留めもない問いかけをきっかけに少し関心が湧いてしまった。幸か不幸かそのためのツールも近くにあった。あのアトリエもどきを片付けるのには骨が折れたが、あの場所には基本的な画材が一式揃っていた。それが私の興味を後押しした。
適当な紙とペンシルを抱えて、目に映るものや景色、人をスケッチしていく。教会の窓から見える町並み、行き交う人々、墓地、そして毎日顔を会わせる少年。私が少年をスケッチするのには人間観察ならぬ少年観察の意味合いもあった。 ターゲットである彼に深い絶望に陥れた後に生命を奪う。その目的を達成するためにはターゲットの観察が必要不可欠だ、という理由はもはや建前として機能しているかは怪しい。
少年のことを知りたいという欲求は辛うじて共通しているものの、その源は仕事を越えた情の部分にある。
「何を考えているんだ?」
絵画の前の少年にスケッチがてら問いかける。今日は絵を見つめる少年とその背景ごと描くことにした。少年は一度絵画鑑賞を始めると長いのだ。彼が飽きるまで私は横で待つ羽目になる。スケッチは暇を潰すのにも役立った。
「綺麗だなって思ってるよ」
「それだけ?」
「それだけじゃダメなのか?」
「長い時間ずっとそれだけを考えているのかと思って」
「うーん。何ていう花なのかなとか、この花は誰かに貰ったのかなとか、何で描こうと思ったのかなとか。これを描いた人は花を、春を知っている人なんだろうなって。これを見ているとあたたかい気持ちになるんだ」
そう言って絵画を見上げる少年の横顔には憧れと羨望と希望とが混ざり合って滲んでいた。その柔らかな眼差しの儚い美しさをこの紙とペンでどう描いていいか分からず手が止まる。花咲く絵画の美しさは理解できるが、その心の機微までは分かりそうになかった。
「なんだ。やっぱり上手いんじゃないか」
いつの間にか傍まで来ていた少年が私の手元を覗き込んで言う。満足そうに細められた目が私を見上げる。
私がスケッチするのを目敏く見つけた少年はそれ以降、被写体を持ち込むようになった。教会に来るまでの道で見つけた石、枯れ草、虫の死骸、果物、手のひらサイズの雪だるま、そして少年のかじかんだ手。教会のステンドグラスやオルガンのスケッチをリクエストしてくることもあった。横で眺めることの何が楽しいのか分からなかったが、見学に飽きた少年がうたた寝する寝顔を腹いせに描いた時は少しだけ心が緩むような心地がした。もちろん、そのスケッチは少年には見せていない。
図らずもまるで日記のように少年との日々を描き続け、紙の層が積み重なっていく。少年と、そして彼と共に見た景色が積もっていく。それをなぞる度に無視できない愛おしさが溢れてくる。
けれど当然のことながらそれも永くは続かなかった。私の仕事には期限がある。時間には限りがある。
少年が最期の時間を迎える前に望んだ場所はやはりあの絵画の前だった。
「この花はずっと変わらないね」
絵の前で佇む少年が言う。
「絵だからな」
答えると少年は「そうだね」と薄く笑った。
「絵の中の花は枯れないんだな」
「ああ」
「額縁の中なら永遠に生きられるのかな」
絵画から目をそらさないまま呟いた少年の姿がいつになく頼りなげに見えた。淡く射し込む窓明かりが少年の輪郭をぼやかす。少し触れれば途端にくずれてしまいそうなのに、声ははっきりと響いて私の胸を押し潰した。
自らの死を目前にして永久への羨望をひとつも抱かない者は少ないだろう。少年の死を回避する方法も持たず、彼の願いをひとつとて叶えてやれないこの手でこれから少年の未来を閉ざすことになる罪悪感と、少年との別れを惜しむ気持ちとが混ざって痛いほどに体内で膨れ上がる。
「君を描いてあげようか」
気づけばそう口走っていた。膨張した苦しみが言葉を吐き出させた。こんなこと言うつもりはなかったのに。けれど口から飛び出してしまった言葉は取り消すことはできない。私の言葉をきちんと拾ったらしい少年は私を見つめて何度か瞬きした。少年の瞳には疑問とほんの少しの期待が滲んでいた。
「どういうこと?」
「……君の絵を描いてそれを額縁に入れるということだよ。額縁の中に入りたいとそう望んでいるように見えたから」
私の提案に目を丸くした少年は、私の顔と花畑とを何度か見比べた後、ゆっくりと首を傾げた。
「そうなのかな」
「試してみようか」
「え?」
首の角度をさらに深くした少年にここで待っているように伝えて奥のアトリエに向かう。部屋の整理をした時にまとめておいた金の額の中から手頃な大きさの物を選び取ってから、来た道を引き返した。
「それ、額縁?」
戻ってきた私が抱えているものを見て問う少年に肯定を返す。
「こうすれば額縁の中に入る体験ができるんじゃないかと思ったんだが」
鈍く光る額縁を少年に向かって翳すと、今という空間から切り取られた少年の像が浮かび上がる。仮初めの永遠に閉じ込められた少年のライラック色が真っ直ぐにこちらを見つめている。冬に生まれたあたたかい色。春を知らないまま失われる色。曇りないその色が私を映している瞬間が愛おしかった。
絵画もそのうち劣化して朽ちるのだから正確には永遠ではないのだが、それでも美しい瞬間のままの時間を永く固定できることには変わらない。少年のこぼした願いとも言えないほどの小さな願望の欠片を目の当たりにして、彼の美しい魂ごとこの華奢な枠の中に閉じ込めてしまえたらいいのに、などと叶わぬ願いを目の奥に浮かべてしまう。
「俺から見ればハーデイが額縁の中に入ってるように見えるよ」
似合うね、と少年は微笑んだ。
戯れが過ぎたなと内心で自嘲しながら隣に立ち、少年と窓の間に額縁を差し込む。雪で凍えて曇ったガラスをさっと拭き取ると枠の中に収まる少年の姿が透明の中に写し出される。
「額縁の中にいる気分はどうかな?」
「うーん……少し窮屈かも」
ガラスの中の少年が眉を下げて笑う。
「なら、描くのは止めておこうか」
私の問いかけに少年は首を振った。
「実際に額縁に入るのは俺じゃなくて絵の方なんだろ? だったらハーデイ、あんたに描いてほしい。俺を描いてくれないか?」
「君が、望むなら」
頬に触れてその輪郭を撫でると、少年は窓から目を離して私をじっと見つめた。その白い喉が上下に動いて、ゆっくりと確かに頷く。そのまま手のひらに頬を擦り寄せて少年は目を閉じた。
君が額縁の中で永遠を望むなら、叶えてあげよう。それが私を慕ってくれた君へ、友人としての最期の手向けとしよう。この腕の中に閉じ込めておけない代わりに君を額縁の中に遺そう。君に額縁なんて似合わないけれど。
少年の最期に色鮮やかな花束を添えることはできなくとも、痛みのない穏やかな死を与えることはできる。私にはそれしか出来ない。
少年の口からこぼれる微かに白く色づく吐息が私の手のひらを滑ってその熱を移していった。
ステンドグラスを背にしてオルガン用のスツールに腰かける少年と向かい合う位置に座る。体の正面より少し右側にずらした位置にイーゼルを組み立ててからカンバスをそこに立て掛けた。この教会の奥に長く眠っていたイーゼルは動かす度に軋む音を静寂な室内に響かせる。今にも崩れそうだが、使うのはこれきりだから今だけもってくれればそれでいい。
「どうやって座ればいい? 何かポーズとか取った方がいいのかな」
改まった雰囲気に緊張しているのだろうか。落ち着きなく何度も座り直す少年につい笑みがこぼれる。ポーズを依頼したらどんな姿を見せてくれるのだろうかと、想像しただけで胸の中が期待に泡立つが、そんな日はもう永遠に来ないのだと思うとちくりと鋭い痛みに襲われる。
「好きなようにしてくれていいけれど、君が長時間とっていても辛くない座り方を勧めるよ。長丁場になるだろうから」
「わかった」
頷いた少年は緩く組んだ手を腿の上に置いて背筋を伸ばした。一本の芯が体の中心を通っているかのように真っ直ぐと天へと向かって伸びる姿勢に、誇らしく咲く一輪の花の面影を見た。目が離せなくなるような生命力溢れるその美しい輝きを私はこの手で白のカンバスに描き残さなければならない。期待と使命感を抱いてツールを手に取る。雪のように白いカンバスに彼を閉じ込める儀式の始まりだ。
細長いペンシルを静かに佇む少年シルエットに翳してはカンバスに描き込んでいく。年季のはいった画材は掠れて頼りない音を立てながらも、確実に少年の輪郭を白いカンバスに残していく。
じっくりと観察しながらその輪郭を、目のかたちを、髪の流れを、記していく。その度に少年を構成するパーツの細部がペンシルを握る指を伝って私の中に刻まれていく。案外、輪郭は幼い丸みを残していて、柔らかな印象を受けていた目のかたちは目尻に向かって凜と上がっていたことも今初めて知った。
改めて正面から向き合った少年は積み重なっていた印象よりも華奢であどけなくて、ただのこどもだった。
「……なぁ、ハーデイ」
「動かない」
「はは、ごめん」
イーゼルの影からこちらを覗き込むように体を揺らした少年をペンシル越しに窘めると、彼はひとつも悪びれていないような謝罪を返した。それどころか笑みをこぼしてむしろ叱られたことを喜んですらいるようだ。少年の不可解な言動に困惑する一方で、あどけなくはにかむ少年のその自然体の表情を切り取れたらいいのにと思った。そこに潜む美しさは一瞬で、こうしてひとつひとつ時間をかけて描きおこしていく必要のある絵画には向いてない。一瞬を瞬間で切り取ることのできる装置があればよかったのにと思わずにはいられない。
「ハーデイ、今なに考えてる?」
「君を描くことだけ考えてる」
「そっか。ありがとう」
スケッチ中は唇を動かすことも控えてほしかったが、咎めることはしなかった。この時間は少年の姿を正確に切り取るためだけにあるわけではない。私たちに残されたわずかな時間を二人でどう過ごすかに重心が置かれている。少年と交わす言葉のひとつひとつだって今や貴重で尊く、手離せない思い出として刻まれていくのだ。
何を考えているのか、と問うてきた少年に同じ質問を返すと、彼はゆっくりと瞬きをした後、再び唇を開いた。
「俺はハーデイと過ごした今までの時間のことを考えてた」
顔を上げるとカンバス越しに少年と目が合う。スケッチする者とされる者、命を奪う者と奪われる者、その関係がカンバスを境界線として明確に区切られている。目の前にいるのにその隔たりのせいで天と地よりも遠く感じる。
「どんな時間だった?」
再びカンバスに目を落とす。もう輪郭のほとんどは描き終えている。後は全体のバランスと細かな調整だけだった。
「楽しかったよ。今も、今までも」
過去形で語る口調に、彼がこの生に区切りをつけようとしていることが感じ取れてしまい無意識に眉根が寄る。
「ハーデイが俺をじっと見つめてくれているのが嬉しい。たくさん見つめられて、ハーデイの目の中に俺が居残ってしまいそうだね」
私の視線に少年がそう言って相好を崩す。力んだ拍子にペキッとペンシルが折れてしまった。
少年が私の網膜に灼きついて瞳の中に居着いてくれるのならそれも悪くないのかもしれない。そうすれば私の瞳を通じてこれから来る春を君に見せることもできるかもしれない。瞼を閉じて空想を描くと目の奥に熱を感じて、慌てて振り払った。
すべてを感傷的に捉えてしまう凝り固まった脳と体を解すために、ひとつ息を吐いて背もたれに体重を預けると、少年が「できた?」と嬉しそうに駆け寄ってくる。何かに追われでもしているのかと思うほどのあまりに素早い動きに「まだだよ」と口を開く前に隣へ立たれてしまった。触れ合うくらいに体を寄せてカンバスを覗いた少年は「わ、」と感嘆の息をこぼした。
「これが、俺……」
白い背景に浮かぶ黒線を凝視して少年が呟く。言葉をこぼしたきり黙ってしまった彼に、私の情が上乗せされた線が少年にどう映ったのかと微かな不安がよぎる。意思の強い凛とした瞳も、冬の寒さにも負けない柔らかな髪も、私の心を何度も揺さぶった艶やかな唇も、現実と違わぬよう忠実に描いたつもりだった。
「似ていない?」
「え? そんなことないと思う。これが俺だってきっと誰が見ても分かるだろうし。でも、俺じゃないみたいにかっこよく見えたから。ちょっと嬉しい」
「はは。そうか」
照れたように表情を緩める少年に安堵して笑みをこぼすと、少年はきょとんと首を傾げた。君がそう評価してくれるならこれでいいのだろう。
「これから色を足していこうと思うんだが、もうモデルをするのは飽きた?」
スケッチする間、時間が経過する毎に会話が増えたり、きょろきょろと視線を彷徨わせたり、指先を擦り合わせたりと忙しない仕草を繰り返していた少年の姿を思い返して指摘すると、少年はおどけたように肩を竦ませた。
「バレてた? どうもじっとしてるのって性に合わないみたいだ」
椅子に座ったままの私の背中側に移動しながら少年は言葉を続ける。
「それに、これだけ静かだとこれから死ぬんだってことをどうしても考えちゃって、一人で座ってるのが少し心細かった」
気持ちを吐露しながら少年は背もたれ越しに私の背中にのし掛かる。顔の横から伸びてきた少年の腕が私の体の前で組まれた。背中から抱き締められる形になって、表情が見えない少年の組まれた手にそっと同じものを重ねる。指先に触れた冷たい肌の温度が私の心を締めつけた。
死の恐怖を前にして、それをもたらす者に縋るしかない彼の境遇を憐れに思いながらも、縋ってくる彼の温度を心地いいと思ってしまうのだから始末が悪い。
「でも、色を塗るために離れなきゃいけないなら、そうする」
「もういいさ」
ほどかれそうになった腕を咄嗟に掴んで引き留める。耳のすぐそばで少年が驚きの吐息をこぼす音が聞こえた。
この期に及んで最期まで彼に寂しさを背負わせる必要はない。少しくらい現実と違ったって構わない。これは私と彼のためだけの絵なのだから。私たちが遺したいと感じたいろかたちでいいのだ。
「離れなくていい。このままそばにいて、その色を私に見せてくれ」
肩に乗る少年の髪をとかすように指先で撫でると「うん」と囁くようにか細い返事が私の鼓膜を揺らした。
「俺のからだが消えても、俺のかたちはここに残り続けるんだね」
隣に腰かけて私にもたれかかった少年はカンバスの縁を指で撫でて呟く。私が白と黒を鮮やかな色彩で塗りつぶしていくのを見つめる少年の眼差しはあたたかく、どこか嬉しそうに見えた。
描き終わらなければこのまま共にいられるのだろうか。
そう思うことすら罪なのだろうか。
白が、消えていく。
私の手で、消していく。
穏やかな風が頬を撫でる。冬の間締め切っていた教会の窓は春を迎えてからは開けておくことが多くなった。
教会の奥に飾ってある少年の肖像画は、風が運んでくる草木の香りとよく似合う。肖像画を縁取る金色の額縁は陽光を反射して鈍く輝いている。
少年の体は淡い光の粒となってこの世界から消失した。今や少年がいた証はこの肖像画と、私が手に持つスケッチの束だけだ。
少年の命を天に送ってから時折、天気の良い日には少年の肖像画の前に腰掛け、スケッチをめくって少年に春を見せるようにして過ごしている。長閑な緑風になびくスケッチは射し込む陽光を吸い込んで心なしか線が活き活きとして見える。
スケッチを一枚ずつ繰ってその線を指先でなぞりながら少年との思い出に耽っていると、突然強い風が飛び込んで部屋の空気をかき混ぜた。その拍子に手元の紙束も舞い上がる。あ、と声をあげる間もなく、いくつもの少年の姿が窓の外へと吸い込まれていく。思い出が手からこぼれ落ちていく焦燥感で手を伸ばすが、既にスケッチ達は空の彼方の方々へと散って遠く青空の雲と重なって見えなくなってしまった。春の陽気を浴びて待ちきれないと言わんばかりに飛び出していく少年の背中が目に浮かんで、ははっと息がこぼれる。
「本当に君はじっとしておけないたちなんだな」
振り返った額縁の中の少年はあの時のままの微笑みを浮かべていた。
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