ほしつき
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冥府への船出


 波の音がする。

 瞼を開こうとしても、まるで縫い付けられてしまったかのように離れず、微かに開いた唇を震わせる。違和感のある体になけなしの力を込め、起き上がろうと肘を地面に強く押し付ける。冷え切った掌に伝わる不揃いの形たちに、鈍麻した指先に触れる湿った硬い感触。地面を掻くように爪を突き刺し、長い時間をかけようやく身を起こす。

 風はない。ただおそろしいほどの寒さが身を蝕む。肌に纏わりつく大気より、体の芯から熱が喪失してしまったかのようだ。あえかな息を吐き、抉じ開けるように瞼を動かすと、ようやく己の存在している場所の光景が目に飛び込んできた。

 無彩色の空と大地と海。どこまでも続く終わりのない空間が眼前に広がっている。誰もいない、己ひとりのみ。波の音が延々と連なり耳に届く。だが不思議なことにここは、潮の匂いがしない。

…………河、か、?」

 呻くように吐き出した言葉はひび割れていた。だがそれをきっかけとして焦点が定まると、河岸に揺蕩う小舟の存在に気がついた。初めからそこにあっただろうに、今の今までその存在を認識し得なかった。小舟に乗るなにかの存在も同様に。ローブを纏った、ひとではないなにか。

「な、んだあれは、……

 混乱しながらも首筋へと手を伸ばす。支えていないといけない気がしたから。

……何故私は、こんな場所にいる?」

 なにかの待つ河岸と、自分だけ。

……誰もいないのか?」

 答えはない。弱々しい問いが波に飲まれ、砕け散ってばらばらになる。川音だけが延々と続く。孤独で広大な空間。いつか興味本位で訪れた暗く冷たい牢獄を思い出す。あの狭い小部屋とこの茫漠とした場所に、類似点などあるはずはないのに。強張る指を引き上げて頬に寄せると、蝋のような気味の悪い感触がした。

 いくら記憶を辿ろうにも思考の端から零れ落ちていく。血の巡りが悪いのか、呼吸のたびに視界が明滅を繰り返す。悪夢を引き剥がし覚醒めたばかりの、胸のざわめきが止まらない夜のように。波の音以外は何も聞こえない。何も、






 嘘つき






…………兄上?」

 淀んで濁った青い輝き。潤む瞳を覗き込んで、伝わるように祈った思いの全て、

「っ!!!!!あ、あ、あ、あぁぁあぁ!!!」

 その全てを思い出した。喉を裂くように強く溢れる絶叫が、頭蓋骨を割らんばかりに反響させる。こめかみがひび割れ強く軋み、視界が星空のごとく瞬く。首筋だけが燃えるように熱く、体中が凍りついてしまったかのように冷え切っている。

 自覚はなかった。極度の緊張状態から癇癪を起こした兄を宥め、説得し、いつものように成功したと思った瞬間だった。覚えているのはそれが最後。最も慈しみ、守り、愛しているものの瞳の中に、確かに自分の存在があると認めたそのときだった。あの場所に存在していたのは兄と自分、そして自らが招き入れた第三者のみ。

 嘔吐いても胃液すら吐き出せない。崩れ落ちた身は支えきれず手を河原に幾度となく打ち付けた。何度も、何度も。しばらくして気がついたのは、手酷く打ち据えたはずなのに血すら流さない己の拳。視線だけ上を見上げると、揺蕩う小舟が最初から変わらぬ位置に存在していた。

…………そうか、ここが、」

 誰しもいつかは訪れる場所。自覚してからの理解はあまりにも容易かった。自分の最後となった瞬間も、これから進まねばならぬ道のりも。

 歯を食い縛り、わななく体を叱咤してようやく立ち上がる。変わらず悠然と揺蕩う小舟のなにかを見据え、そして、ゆっくりと背を向けた。だが前に進もうとしても、どうにも足を動かすことができない。どうやらここから離れることは許されないようだ。運命がそう定めているのだろう。ならば、

「すぐ気づけるようにしなくては……

 どうせ待ち人は遠くないうちに来るのだから。






 いつまでそうしていただろうか。ともすれば背後に引き寄せられそうになり、両足でしかと踏み締める。その場に留まれるよう、持てる力の限りを尽くした。離れるわけにはいかなかった。まだ待ち人は来ないのだから。

 無彩色の世界は何も変わらない。明け暮れぬ空、規則正しく動く不揃い波、延々と続く小石の河原。待ち人を思い描き、意識を保ち続けなければ。そうしなければ容易く、糸で引かれるように小舟へと引き込まれてしまうに違いない。強く唇を噛み、前を見据え続ける。幾度となくかすむ意識を繋ぎ止め、ゆるく頭を振って持ち直すうちにある考えが宿る。それはとても恐ろしい、考えたくもないことだった。

 果たして兄は、自分と同じところに辿り着くのだろうか。兄のことだ、安全装置たる自分の存在がなければ、心の平穏もその身すらも守る術がないだろう。ゆえにさして間を置かず、自分の下へと来るに違いない。そう信じて疑わなかった。だがもしかすると、自分と同じ場所に訪れるとは限らないのではないか。あり得なくはなかったが、しかしそれよりも恐ろしいことがある。

 兄が生き長らえること。兄が自身ですら制御できない心身の自由を、他者に委ねる事態になること。

 湧いた疑念が瞬く間に芽吹くと、思考の全てが埋め尽くされる。歯の根が合わず、顎が軋む音がする。それだけは駄目だった。どうしても受け入れられなかった。自分が寄り添っていられれば、兄の身に決して起こり得なかったこと。拘束され、閉じ込められ、長くない生を飼い殺しにされる。または陰惨な仕打ちの果て、暴虐に身を晒すのだ。どれもこれも自分がいれば、絶対に訪れさせやしない。だが自分が選んだ道はどうだったのか。何をして、何を選び、誰の手を取ったのか。

 ならばこれは自分への罰なのだろうか。その因果の報いが兄に向くことすらも。

 強く深く唇を噛み締めても、血は滲まず皮すら破けない。頭が締め付けられるような痛みを覚え、目頭に熱が集まっていく。踏み締めていた両足から力が抜け、鉛のように沈み込み自然と俯いていく。

――――い、……

 自分たちの歩んできた道のりが、全てこのときに集約されている。自分たち以外の何者かに、只人に善悪を当て嵌められるのは受け入れ難い。全てが完璧だったとは思ってもいないし言う気もない。全てが望み通りだった訳でもないのだから。ただありとあらゆる事象の結果が、今このときの有り様なのだ。だけど、

――――会いたい、…………兄上」

 私達は二人で一つだと、そういう星の下に生まれたのだから。






「ゲタ?」






 息が止まる。音がする程激しく振り向くと、兄がそこにいた。噛み締めていた歯を引き離すも、言葉を発せられず唇を震わせる。兄は不思議そうに、小首を傾げ見上げてきた。

「どこに行ってたんだ?」
……っは、な、にを、」
「まだ具合が悪いのか?……そう、言われた、ような……

 記憶が矛盾するのか、兄は腕を組み思案するも、考えが纏まらないようで周囲を見渡した。何も無い世界に不審そうにしながら、振り返ろうとするその腕を掴んだ。

「っ、…………なに?」
……そういう、つもりでは…………
「わかった、もういい、掴んだままにしておけ」

 言うなり兄は身を捩ると、己の背後をその目で確かめる。悠然と揺蕩う小さな舟が、変わらずそこにはあった。その上にあるなにかもまた、静かに存在し続けている。その姿を目に留め、兄はぴたりと動きを止めた。兄がどんな表情をしているか、背後で腕を掴んだままでは分からなかった。

「あれは……

 しばらく押し黙ると、兄はゆっくりと溜息を吐いた。すると再び身を翻し、こちらに向き直るとじっと視線を合わせてきた。頭一つ分小さな兄。赤みの差していない白い頬。揺れることなく真っ直ぐに自分を見つめる瞳。もう随分と前に、霞の向こうに消えてしまったはずの兄の姿がそこにはあった。

「ゲタ」
……なんだ」
「どうやらわたしたちは、死んでしまったみたいだ」

 驚いたろう、と目配せをしてくる兄に何も言えずにいると、その無言を兄なりに解釈したようだ。掴まれた手とは反対側の手で、こちらの肩を優しく撫でてくる。

「こんなときですらふたりきりだな」
……兄上」
「でも何でこんなことに?おまえは何か知らないか?」
…………兄上、」
「もっといっぱい遊べばよかった」
「兄上」

 妙に浮ついた様子の兄に、まだ正気ではないのかと疑いかける。だが一瞬だけ強張った目元に、その考えは打ち捨てた。兄はただ、弟の心に寄り添おうとしているのに過ぎないと、疑う余地はなかった。

 見果てぬ先まで続く広大な河。兄の視線につられるように、同じ場所へと視線を送る。掴んだままだった腕から手を滑らせると、そっと一回りも小さな手を握る。ゆるゆると握り返され、次第に力が込められていった。隣の兄はまだ、果てなき遠くを見つめている。

「この向こう側には……

 続きは否応なしにも分かってしまう。共に歩んできた道のりだから。自分たちを苦しめてきた過去の亡霊が脳裏をよぎる。握り締める手に少しだけ力を入れ、気持ちを伝えようとした。もう何が起ころうとも、誰がいようとも。絶対に自分は、

「兄上、」
「ああ、あいつがいるのかいないのか……けど問題ない」 
……、だが、」
「所詮老いぼれだ。走って逃げよう」
…………走る?」
「それくらいできる!ばかにするな。もうどこに行ってもいいんだ。わたしたちは自由なんだから」

 半ば笑いながら言う兄に、思わず隣に視線を送る。兄はそれに気がつくと、おかしそうに目元を和らげた。信じられないほど短絡的で、楽観的な発想だった。驚くほど昔から変わらない。自分の思う通りに事が進むと思っている。誰がそれを上手くいくように、差配し調整し支え続けてきたかなんて、考えもせずに。

 唐突に手を引かれ躓きそうになるも、兄の弾んだ声が耳を打つ。

「考えてもみろ。ふたりで旅をするなんて、初めてだろ?」
……旅?それは余りにも、」
「しかも生者にとって未知の世界だ。幼い頃に読んだ物語を思い出さないか?」

 機嫌よく歩み続ける兄に引かれ、戸惑いを残したまま足を進める。然程経たずに小舟が近づくと、その上に存在するなにかの姿がはっきりと見えた。そこにあるのに、まるで存在感がない。闇の雫か、影のようにただそこにある。もう脈打つことのない鼓動が速くなる気すらした。

「小さな舟だ」
……そうだな。我々が乗るような舟じゃないな」
「ん、違いない」

 喉で笑った兄の足が、河岸に距離を残したところで静止する。ともに歩みを止め、間近で兄の背を見つめる。いざ目の前にすると臆したか、無理もないことだと思う。少しの逡巡の末、とても小さな声が耳に届く。

「こんなにも小さい舟だ…………ふたりで乗れるだろうか」

 息が止まる。最早意味がなくとも。堪らず手を引いて兄を振り向かせる。白い顔は驚きもせず、泣いても笑ってもいない。静かにこちらの瞳を見つめている。

「勿論乗れる」
「たいした自信だ」
「確信だ」
「神のご意思?」

 からかうように小首を傾げる兄。その瞳から視線を逸らしはしない。

「我々は始まりを同じくすると同様に終わり迎える、その定めの下に生まれてきたのだから」

 それ以外の道はないのだと、兄にもしっかりと分かってほしかった。だが結局のところ兄は兄でしかなかった。

「大げさだな!そういうところは何も変わらない!」

 真摯に伝えた想いが軽んじられ、いくら兄でも気分を悪くする。なのにこちらの様子は気に留めることもなく、兄は大きな目を細めると距離を詰めてくる。握り締め合った手はそのままで、空いた手で下から腕をなぞり上げる。優しくつたう手は肩に届き、そして首筋に触れた。何故かおそろしいほどの寒気と熱を同時に感じる。だが眼前の兄の柔らかな笑みが、それを表明するまでには至らなかった。

 もう一歩、あと一歩と詰められ、最早胸が当たる距離になる。立ち止まると兄は、そっと背伸びして顎先にくちづけを贈る。温かい。失われたはずの熱が兄の触れた場所から広がっていく。穏やかにほころぶ目元に堪らなくなり、空いている手で兄の頭を抱えると、滑らかな額にくちづけを返した。柔らかな吐息が喉元にかかり、くすぐったくて仕方がない。

「行こうか」
「ああ。楽しむのは構わないが、余り身を乗り出さないようにしてくれ」
「おまえは本当に……まあいい。旅は始まったばかりだ」
「だからこそなんだが……っ言った端から、兄上!」
「驚いたな。意外と揺れないぞこの舟。しかし小さい…………ゲタ、手を離すなよ」

 懸命に自分の手を掴む兄の手を、壊さないように優しく強く握り返す。

「兄上こそ、手を離さないようにしてくれ」

 ずっと、永遠に。

 舟の辿り着く先がどこであろうとも。