Privatter+
Font
Serif
Sans Serif
Color
Light
Dark
auto
Font size
Large
Medium
Small
Language
Japanese
English
Sign in with Google
Sign in with ID and password
Account ID
Password
Sign in
Forgot password?
Create account
ほしつき
Public
Clear cache
冥府への船出
波の音がする。
瞼を開こうとしても、まるで縫い付けられてしまったかのように離れず、微かに開いた唇を震わせる。違和感のある体になけなしの力を込め、起き上がろうと肘を地面に強く押し付ける。冷え切った掌に伝わる不揃いの形たちに、鈍麻した指先に触れる湿った硬い感触。地面を掻くように爪を突き刺し、長い時間をかけようやく身を起こす。
風はない。ただおそろしいほどの寒さが身を蝕む。肌に纏わりつく大気より、体の芯から熱が喪失してしまったかのようだ。あえかな息を吐き、抉じ開けるように瞼を動かすと、ようやく己の存在している場所の光景が目に飛び込んできた。
無彩色の空と大地と海。どこまでも続く終わりのない空間が眼前に広がっている。誰もいない、己ひとりのみ。波の音が延々と連なり耳に届く。だが不思議なことにここは、潮の匂いがしない。
「
…………
河、か、?」
呻くように吐き出した言葉はひび割れていた。だがそれをきっかけとして焦点が定まると、河岸に揺蕩う小舟の存在に気がついた。初めからそこにあっただろうに、今の今までその存在を認識し得なかった。小舟に乗るなにかの存在も同様に。ローブを纏った、ひとではないなにか。
「な、んだあれは、
……
」
混乱しながらも首筋へと手を伸ばす。支えていないといけない気がしたから。
「
……
何故私は、こんな場所にいる?」
なにかの待つ河岸と、自分だけ。
「
……
誰もいないのか?」
答えはない。弱々しい問いが波に飲まれ、砕け散ってばらばらになる。川音だけが延々と続く。孤独で広大な空間。いつか興味本位で訪れた暗く冷たい牢獄を思い出す。あの狭い小部屋とこの茫漠とした場所に、類似点などあるはずはないのに。強張る指を引き上げて頬に寄せると、蝋のような気味の悪い感触がした。
いくら記憶を辿ろうにも思考の端から零れ落ちていく。血の巡りが悪いのか、呼吸のたびに視界が明滅を繰り返す。悪夢を引き剥がし覚醒めたばかりの、胸のざわめきが止まらない夜のように。波の音以外は何も聞こえない。何も、
嘘つき
「
…………
兄上?」
淀んで濁った青い輝き。潤む瞳を覗き込んで、伝わるように祈った思いの全て、
「っ!!!!!あ、あ、あ、あぁぁあぁ!!!」
その全てを思い出した。喉を裂くように強く溢れる絶叫が、頭蓋骨を割らんばかりに反響させる。こめかみがひび割れ強く軋み、視界が星空のごとく瞬く。首筋だけが燃えるように熱く、体中が凍りついてしまったかのように冷え切っている。
自覚はなかった。極度の緊張状態から癇癪を起こした兄を宥め、説得し、いつものように成功したと思った瞬間だった。覚えているのはそれが最後。最も慈しみ、守り、愛しているものの瞳の中に、確かに自分の存在があると認めたそのときだった。あの場所に存在していたのは兄と自分、そして自らが招き入れた第三者のみ。
嘔吐いても胃液すら吐き出せない。崩れ落ちた身は支えきれず手を河原に幾度となく打ち付けた。何度も、何度も。しばらくして気がついたのは、手酷く打ち据えたはずなのに血すら流さない己の拳。視線だけ上を見上げると、揺蕩う小舟が最初から変わらぬ位置に存在していた。
「
…………
そうか、ここが、」
誰しもいつかは訪れる場所。自覚してからの理解はあまりにも容易かった。自分の最後となった瞬間も、これから進まねばならぬ道のりも。
歯を食い縛り、わななく体を叱咤してようやく立ち上がる。変わらず悠然と揺蕩う小舟のなにかを見据え、そして、ゆっくりと背を向けた。だが前に進もうとしても、どうにも足を動かすことができない。どうやらここから離れることは許されないようだ。運命がそう定めているのだろう。ならば、
「すぐ気づけるようにしなくては
……
」
どうせ待ち人は遠くないうちに来るのだから。
いつまでそうしていただろうか。ともすれば背後に引き寄せられそうになり、両足でしかと踏み締める。その場に留まれるよう、持てる力の限りを尽くした。離れるわけにはいかなかった。まだ待ち人は来ないのだから。
無彩色の世界は何も変わらない。明け暮れぬ空、規則正しく動く不揃い波、延々と続く小石の河原。待ち人を思い描き、意識を保ち続けなければ。そうしなければ容易く、糸で引かれるように小舟へと引き込まれてしまうに違いない。強く唇を噛み、前を見据え続ける。幾度となくかすむ意識を繋ぎ止め、ゆるく頭を振って持ち直すうちにある考えが宿る。それはとても恐ろしい、考えたくもないことだった。
果たして兄は、自分と同じところに辿り着くのだろうか。兄のことだ、安全装置たる自分の存在がなければ、心の平穏もその身すらも守る術がないだろう。ゆえにさして間を置かず、自分の下へと来るに違いない。そう信じて疑わなかった。だがもしかすると、自分と同じ場所に訪れるとは限らないのではないか。あり得なくはなかったが、しかしそれよりも恐ろしいことがある。
兄が生き長らえること。兄が自身ですら制御できない心身の自由を、他者に委ねる事態になること。
湧いた疑念が瞬く間に芽吹くと、思考の全てが埋め尽くされる。歯の根が合わず、顎が軋む音がする。それだけは駄目だった。どうしても受け入れられなかった。自分が寄り添っていられれば、兄の身に決して起こり得なかったこと。拘束され、閉じ込められ、長くない生を飼い殺しにされる。または陰惨な仕打ちの果て、暴虐に身を晒すのだ。どれもこれも自分がいれば、絶対に訪れさせやしない。だが自分が選んだ道はどうだったのか。何をして、何を選び、誰の手を取ったのか。
ならばこれは自分への罰なのだろうか。その因果の報いが兄に向くことすらも。
強く深く唇を噛み締めても、血は滲まず皮すら破けない。頭が締め付けられるような痛みを覚え、目頭に熱が集まっていく。踏み締めていた両足から力が抜け、鉛のように沈み込み自然と俯いていく。
「
――――
い、
……
」
自分たちの歩んできた道のりが、全てこのときに集約されている。自分たち以外の何者かに、只人に善悪を当て嵌められるのは受け入れ難い。全てが完璧だったとは思ってもいないし言う気もない。全てが望み通りだった訳でもないのだから。ただありとあらゆる事象の結果が、今このときの有り様なのだ。だけど、
「
――――
会いたい、
…………
兄上」
私達は二人で一つだと、そういう星の下に生まれたのだから。
「ゲタ?」
息が止まる。音がする程激しく振り向くと、兄がそこにいた。噛み締めていた歯を引き離すも、言葉を発せられず唇を震わせる。兄は不思議そうに、小首を傾げ見上げてきた。
「どこに行ってたんだ?」
「
……
っは、な、にを、」
「まだ具合が悪いのか?
……
そう、言われた、ような
……
」
記憶が矛盾するのか、兄は腕を組み思案するも、考えが纏まらないようで周囲を見渡した。何も無い世界に不審そうにしながら、振り返ろうとするその腕を掴んだ。
「っ、
…………
なに?」
「
……
そういう、つもりでは
……
、
……
」
「わかった、もういい、掴んだままにしておけ」
言うなり兄は身を捩ると、己の背後をその目で確かめる。悠然と揺蕩う小さな舟が、変わらずそこにはあった。その上にあるなにかもまた、静かに存在し続けている。その姿を目に留め、兄はぴたりと動きを止めた。兄がどんな表情をしているか、背後で腕を掴んだままでは分からなかった。
「あれは
……
」
しばらく押し黙ると、兄はゆっくりと溜息を吐いた。すると再び身を翻し、こちらに向き直るとじっと視線を合わせてきた。頭一つ分小さな兄。赤みの差していない白い頬。揺れることなく真っ直ぐに自分を見つめる瞳。もう随分と前に、霞の向こうに消えてしまったはずの兄の姿がそこにはあった。
「ゲタ」
「
……
なんだ」
「どうやらわたしたちは、死んでしまったみたいだ」
驚いたろう、と目配せをしてくる兄に何も言えずにいると、その無言を兄なりに解釈したようだ。掴まれた手とは反対側の手で、こちらの肩を優しく撫でてくる。
「こんなときですらふたりきりだな」
「
……
兄上」
「でも何でこんなことに?おまえは何か知らないか?」
「
…………
兄上、」
「もっといっぱい遊べばよかった」
「兄上」
妙に浮ついた様子の兄に、まだ正気ではないのかと疑いかける。だが一瞬だけ強張った目元に、その考えは打ち捨てた。兄はただ、弟の心に寄り添おうとしているのに過ぎないと、疑う余地はなかった。
見果てぬ先まで続く広大な河。兄の視線につられるように、同じ場所へと視線を送る。掴んだままだった腕から手を滑らせると、そっと一回りも小さな手を握る。ゆるゆると握り返され、次第に力が込められていった。隣の兄はまだ、果てなき遠くを見つめている。
「この向こう側には
……
」
続きは否応なしにも分かってしまう。共に歩んできた道のりだから。自分たちを苦しめてきた過去の亡霊が脳裏をよぎる。握り締める手に少しだけ力を入れ、気持ちを伝えようとした。もう何が起ころうとも、誰がいようとも。絶対に自分は、
「兄上、」
「ああ、あいつがいるのかいないのか
……
けど問題ない」
「
……
、だが、」
「所詮老いぼれだ。走って逃げよう」
「
…………
走る?」
「それくらいできる!ばかにするな。もうどこに行ってもいいんだ。わたしたちは自由なんだから」
半ば笑いながら言う兄に、思わず隣に視線を送る。兄はそれに気がつくと、おかしそうに目元を和らげた。信じられないほど短絡的で、楽観的な発想だった。驚くほど昔から変わらない。自分の思う通りに事が進むと思っている。誰がそれを上手くいくように、差配し調整し支え続けてきたかなんて、考えもせずに。
唐突に手を引かれ躓きそうになるも、兄の弾んだ声が耳を打つ。
「考えてもみろ。ふたりで旅をするなんて、初めてだろ?」
「
……
旅?それは余りにも、」
「しかも生者にとって未知の世界だ。幼い頃に読んだ物語を思い出さないか?」
機嫌よく歩み続ける兄に引かれ、戸惑いを残したまま足を進める。然程経たずに小舟が近づくと、その上に存在するなにかの姿がはっきりと見えた。そこにあるのに、まるで存在感がない。闇の雫か、影のようにただそこにある。もう脈打つことのない鼓動が速くなる気すらした。
「小さな舟だ」
「
……
そうだな。我々が乗るような舟じゃないな」
「ん、違いない」
喉で笑った兄の足が、河岸に距離を残したところで静止する。ともに歩みを止め、間近で兄の背を見つめる。いざ目の前にすると臆したか、無理もないことだと思う。少しの逡巡の末、とても小さな声が耳に届く。
「こんなにも小さい舟だ
…………
ふたりで乗れるだろうか」
息が止まる。最早意味がなくとも。堪らず手を引いて兄を振り向かせる。白い顔は驚きもせず、泣いても笑ってもいない。静かにこちらの瞳を見つめている。
「勿論乗れる」
「たいした自信だ」
「確信だ」
「神のご意思?」
からかうように小首を傾げる兄。その瞳から視線を逸らしはしない。
「我々は始まりを同じくすると同様に終わり迎える、その定めの下に生まれてきたのだから」
それ以外の道はないのだと、兄にもしっかりと分かってほしかった。だが結局のところ兄は兄でしかなかった。
「大げさだな!そういうところは何も変わらない!」
真摯に伝えた想いが軽んじられ、いくら兄でも気分を悪くする。なのにこちらの様子は気に留めることもなく、兄は大きな目を細めると距離を詰めてくる。握り締め合った手はそのままで、空いた手で下から腕をなぞり上げる。優しくつたう手は肩に届き、そして首筋に触れた。何故かおそろしいほどの寒気と熱を同時に感じる。だが眼前の兄の柔らかな笑みが、それを表明するまでには至らなかった。
もう一歩、あと一歩と詰められ、最早胸が当たる距離になる。立ち止まると兄は、そっと背伸びして顎先にくちづけを贈る。温かい。失われたはずの熱が兄の触れた場所から広がっていく。穏やかにほころぶ目元に堪らなくなり、空いている手で兄の頭を抱えると、滑らかな額にくちづけを返した。柔らかな吐息が喉元にかかり、くすぐったくて仕方がない。
「行こうか」
「ああ。楽しむのは構わないが、余り身を乗り出さないようにしてくれ」
「おまえは本当に
……
まあいい。旅は始まったばかりだ」
「だからこそなんだが
……
っ言った端から、兄上!」
「驚いたな。意外と揺れないぞこの舟。しかし小さい
…………
ゲタ、手を離すなよ」
懸命に自分の手を掴む兄の手を、壊さないように優しく強く握り返す。
「兄上こそ、手を離さないようにしてくれ」
ずっと、永遠に。
舟の辿り着く先がどこであろうとも。
Reaction
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.
Custom color
Reset color
広告非表示プランのご案内