情緒は振り回すものの続き
ふ、と息を吐き、報告書から顔を上げる。最後の一枚に確認のサインをして、処理済みの書類とまとめて終わりだ。不在の間の溜まりに溜まった報告書は膨大で、ここ二・三日はほぼずっと紙の束に埋もれていたが、これでようやっと解放される。
首と肩を回すとぱきりと音がした。長時間同じ体勢でいたため固まってしまった体を解し、
――視線を感じて、今度は溜め息をついた。
「終わったのか、仕事」
ローのベッドに腰掛け、片手に持った酒瓶を煽る長着姿。首を傾げた拍子に片耳の三連ピアスが揺れる。室内灯を反射して光るそれに目を奪われながら、それでも本人には目を向けられず、逸らしたままローは肯いた。
正直なところ、仕事中もずっと視線は感じていた。「おれはずっとお前見てるぞ」と誘った時の宣言通り、ゾロの隻眼は一瞬たりともローから逸らされなかった。何がそんなに楽しいのかは知らないが、ローの顔は見飽きないらしい。
書類をデスクの隅に避け、棚からグラスを二つ取り出す。そこへ新しく封を切った瓶から中身を注いで、片方をゾロに差し出した。
「タイミングいいじゃねェか。ちょうどなくなったとこなんだ」
――見計らってたに決まってんだろうが。
にかりと笑いながら握っていた瓶を床に置いてグラスを受け取るゾロに、内心で吐き捨てる。いままで呑んでいた酒も、この部屋に来た時にローが渡した物だ。良い酒があるからと誘ったのは嘘ではない。
「
……それで、気は変わったか」
「あ? なんの」
「おれとどうこうなる気になったかって訊いてる」
「
……なんで?」
きょとんと薄墨色を丸める姿は年相応より少し幼く見える。心底不思議そうな様子に再度溜め息をつきそうになって、なんとか押し留める。
「おれのことが好きなんだろうが」
「ああ、好きだが」
「それで、おれと付き合いたいとか思わねェのか」
「思わねェな」
「なんでだよ」
「なんでと言われてもな
……前にも言ったろ。俺はお前のこと眺めてるだけで充分なんだって」
つーか、とゾロはグラスの中身を煽って、空になったガラス製のそれをローに突き出す。
「逆に訊くけどよ。お前にとっちゃ、おれがどうこうなる気がないってのはいいことなんじゃねェのか」
それは、そうだけども。
普通は好いた相手がいたら、恋人になりたいだとか一緒にいたいだとか、触れ合いたいだとか、そういう欲を孕むものではないのだろうか。少なくとも、ローが知っている色恋というものは、そうだった。なのにゾロは、ローが好きだと言うその口で、自分は眺めているだけでいいと言う。自分の中だけで感情を完結させて、ローからの返しはいっさい求めない。ずっと見られていることを許容することがそうなのかもしれないが、ローが迷惑だと、やめろと言えば、見ることすらあっさりやめてしまうことは想像に難くない。それは、なんとなく、嫌だった。どこか熱がこもった薄いグレーがローにいっさい向けられなくなるのは、嫌だった。
酒と刀以外、何事にも興味を示さない男がローを特別視していることへの優越感なのか、独占欲なのかはわからない。恐らく恋愛感情ではない。たぶん。きっと。自信がなかった。誰かに恋愛感情を抱いたことがないから、わからない。
答えに窮して黙り込むローに、ゾロは勝手にグラスを満たして口をつける。
ローのことを眺めているだけでいいというのは本音だ。別に恋人になりたいわけではない。なれるのなら、そりゃなりたいけれど。言ってしまえば、そのレベルでの願望でしかなかった。そもそもローがゾロの気持ちを否定しなかっただけで充分だ。想っていることを許してくれるのなら、それだけでいい。
ローとこうして酒を呑めるだけでも、ゾロにとっては貰いすぎなのだ。時々新聞か何かで活躍を知るくらいの、元気にしているんだなとほんのり心が暖まるくらいの、そんな距離でよかったのに。これ以上は望みすぎだ。これ以上を、望みたくない。
「おれがいらねェって言ってるんだ。それでいいだろ。それともあれか、同情でもしてんのか」
「
……同情じゃねェ」
「じゃあ、なんだ。情けでもかけてくれるってのか。一回抱くなりしておけば満足するだろって?」
「そういうわけでもねェ。
……待て。お前、経験あるのか?」
「男はさすがに初めてだな」
童貞なんぞ、賞金稼ぎ時代にとっくに捨てている。男性相手はないが、女性なら何度か経験はあった。といっても、ゾロがそれを望んだわけではなく、相手がいつの間にか勝手に始めていることばかりだった。宿代わりに一晩世話になった家では、夜中気配を感じて目を覚ましたら家主に乗っかられていたこともある。ゾロ自身はたいしてその手の欲求がない。時折生理的な反応を及ぼした時に処理する程度で、それすら面倒な時は鍛錬で発散することにしている。
そう説明すればローは安堵したような、怒っているような微妙な表情を浮かべた。何に安堵して何に怒っているのやら。別に知りたくないが。自分の中の感情を整理できもしないのに、ゾロの過去の相手に悋気を起こすのは器用だなと思う。
「お前、いったいおれをどうしたいんだ」
どう、と言われてもローの頭に具体的な言葉は浮かんでこない。これが独占欲か優越感か、恋愛感情なのか。判別なんてものはつきやしない。
やはり答えを返せず黙り込むローに、ゾロは呆れて溜め息をついた。
食堂の一角、白いツナギのクルー達とは違う、彩豊かな姿が二つ。向かい合って座るロビンとフランキーの元へ、ローは昼食のトレーを持って近づいた。
「ここ、いいか」
「あら、珍しい同席者ね。どうぞ」
「おうトラ男。一緒に食べようぜ」
「ありがとう」
さすがにフランキーの真隣では手狭なので、ロビンの隣に腰を下ろす。二人の皿は半分ほど減っていた。メニューと量は全員同じだ。足りなければ一回までおかわりが認められている。ロビンはともかく、サイボーグだからか大柄な体格のわりにフランキーは思ったよりも食事量は少なかった。彼らの船長のように常に大量の食糧が必要なわけではないのは、正直なところ助かる。
「私かフランキーに何かご用かしら」
「どっちもだ。聞きたいことがある」
「お、なんだなんだ? なんでもスーパーに答えてやるぞ!」
「カルーってのは、誰だ」
斜め前と隣が顔を見合わせる。それからフランキーは首を傾げ、ロビンは一度フォークを置いた。
「その名前、誰から?」
「ゾロ屋だ」
「どうしてカルーが出てきたのか、聞いてもいいかしら」
形のいい眉を寄せるロビンの表情を不思議に思いながらも、ローはかいつまんで話した。かくかくしかじか。ゾロがローに惚れている云々は省いておいた。あの場には他にクルー達がいたが、会話までは聞こえていないから、知っているのは当事者二人と巻き込まれたウソップとシャチだけだ。それに、ローが言うことでもない。言えることでもない。特に迷惑を被っているわけでもなし。
「ゾロにとって三本指に入るいい男が、そのカルーってのとおめェさんか。残りの一本は誰なんだ?」
「鼻屋とロボ屋と骨屋とトニー屋だそうだ」
「倍たァスーパー豪快だな」
「ルフィとサンジがいないようだけれど」
「麦わら屋は船長だからで、黒足屋は論外らしい」
「まあ。素直じゃないわね、相変わらず」
ころころと笑うロビンにフランキーも肯き、しかし、とローを見やる。
「悪いがおれァ、カルーってのは知らねェな。おれと会う前の話じゃねェか?」
「そうね。まだメリーの時だから、フランキーが知らないのも無理はないわ。
……私も、詳しいわけではないの。表面をなぞる程度で良ければ教えてあげられるけれど」
その時は一味に加わっていなかったから、とロビンは曖昧に笑う。海賊というもの、仲間になるまで紆余曲折あるのは珍しいことではない。麦わらの一味は特に訳ありのクルーばかりで構成されていて、誰もがルフィに救われて仲間になっている、らしい。ーーそういえば、ゾロはどういう経緯で仲間になったのだろう。あの海賊狩りを、ルフィはどうやって仲間にしたのだろう。
「カルーのことは、ウソップのほうが詳しいわ。もしくは、ゾロ本人に聞いてみたらどうかしら」
「
……わかった。鼻屋に聞いてみる。昼飯の邪魔をして悪かった」
「気にすんなよ。たまにはおれ達と一緒に食おうぜ!」
「ええ。食事は人数が多いほうが楽しいもの」
「
……気が向いたらな」
「カルーってのはな、超カルガモだ」
「
……カルガモ」
ウソップの言葉を鸚鵡返しして、ローは眉をひそめる。超カルガモ。名前からしてカルガモに違いはないだろうが、ミンク族とはまた違う種族らしい。
「超カルガモ。
偉大なる航路に出てきてすぐだったな。アラバスタを経つまでだからけっこう長い付き合いだった。ドラム王国でチョッパーと会った時もいたぜ。寒中水泳しようとしたゾロを助けに極寒の川に飛び込んで凍ってた時はさすがに叱られてた、ゾロが」
「ゾロ屋はいったいなにをしてるんだ
……?」
「あいつは勇敢なカルガモだ。ゾロがいい男に選ぶのもわかる。なんてったって王女様の相棒だからな」
なにやら聞き捨てならない単語が出てきたが、いちいち突っ込むとキリがないので流しておく。それにあの頃のアラバスタといえば、十中八九クロコダイルの件だろう。表向きは海軍の手柄になっているが、そうではないのは知っている。
「カルガモと同列か」
「なんだよ、カルー馬鹿にすんなよ。ゴッド・ウソップが宣言してやろう。絶対お前は気に入る」
もふもふしてっからな、とウソップは得意げに胸を張った。別にもふもふしているものがすべて好きなわけではないのだが、否定するのも馬鹿らしくてローはおとなしくもふもふ好きの称号を受け入れた。まあ、間違いではないのだし。
「ところで、なんでまたカルーのこと訊いてきたんだ? ゾロになんか言われたか?」
「いや、そのカルガモ以外は麦わらの一味だっただろう。あのゾロ屋がお前達以外でいい男と認めたやつが気になっただけだ」
「あ〜
……なるほどな」
ウソップがなんとも言えない顔をした。なんだその顔。別になにもおかしなことは聞いていないはずだ。だって、あのゾロが一味以外でいい男と認めたのなら、気になるのは当然だろう。しかし、カルガモか。どこの海賊なのかと思っていたが、拍子抜けした。どこか安堵を覚えて、肩の力が抜ける。
それを目の前で見ていたウソップは、一つ、なにやら納得したように頷いた。
「訊いておきたいんだけどよ。なんでそんなにゾロのことを気にするんだ? ゾロに告白されたからか?」
「
……まあ、そうだが」
「でも、ゾロはどうこうなる気はねェって言ってたじゃねェか。トラ男だって、別にあいつのことそういう目で見てないんだろ?」
「見てないな」
「だったら、このままでいいんじゃねェのか? どうせ一緒にいるのなんてワノ国までなんだから」
そうだ。ゾロと、麦わらの一味と一緒に行動するのはワノ国までだ。結果がどうあれ、そこで二船の同盟は終わる。航路も別たれて、次に会う時は敵同士。ゾロがローと関係を持つ気がないというのも、恐らくここにかかってくる。せっかく向こうが眺めているだけでいいと言うのだ。それを利用しない手はない。今後、会うかもわからない同盟相手に必要以上に係わる理由なんて、どこにもない。
――ないはず、なのに。
「ゾロ本人がいまのままでいいって言うんだ。トラ男にその気がねェんだったら、期待を持たせるようなことはしてほしくねェ。
……いっつも守られてるおれが言うのもなんだがよ、ゾロのことを、無意味に傷つけないでやってほしい」
トラ男からしたら傍迷惑かもしれねェが、と決まり悪げにウソップは頭を掻く。気持ちはわかる。ローがウソップと同じ立場だったら、きっと同じことを言った。自分の身内を傷つけてほしくないのは、誰もが同じだ。
「ゾロとは偉大なる航路に出る前からの付き合いだし、仲間だからよ。どうしてもおれはあいつの味方になっちまうんだ」
「それは仕方ねェだろ。おれも、うちの奴らには無条件に肩入れしちまうしな」
「特に付き合いが長いぶん、いろんなとこ見てるからなァ。
……んで、トラ男くんは、結局ゾロとどうなりたいんだ?」
改めて問われても、答えは出ない。出そうとして脳が拒否をして、先に進まずに思考が止まる。ゾロとどうなりたいのか。他船の二番手と、いずれ別れる相手と。ローのことを好きだと、しかし関係を持つ気はさらさらないと言い切る相手と。独占欲なのか、執着なのか、恋愛感情なのか。はたまた、あの海賊狩りに好意を持たれているという優越感なのか。未だに、答えが出ない。
「
……わからねェ。わからねェが、あいつを見てると無性に苛々するんだ」
「
……そっか」
お前けっこう難儀な奴だなァ、と呟いたウソップに言い返そうとするも、反論は何も浮かばず。せいぜい忌々し気に、うるせェ、と返すことくらいしかできなかった。
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