了には、五つ年上の兄がいた。もう死んではいるが。了は末子だった。何人、きょうだいがいただろうか。それさえおぼろげだ。幼い頃の了にとって、年上という存在はどうしようもなく怖かった。怖くて足が竦んで、身を縮こめて通り過ぎるのを必死に願うような、そういう存在だった。
十も年上となれば、聞いただけでもすさまじい恐怖だった。冷や汗が出て呼吸が浅くなり、言葉もうまく出なくなる。これでもずっと昔よりましなほうだが、相対するほうはたまったものではないだろう。
清野恭介を紹介されたときにはからだを固め、低い声で「よろしく」と伝えるだけで精一杯だった。了のまわりの編集者は気遣ってか年若いひとが多かった。が、前の担当の男は了よりひとつ年上だった。ひとつくらいどうということはないでしょう、と男は言った。了もそう考えていたのでただ頷くだけだった。積極性のある編集者だった。明るく、まわりを楽しませることができる男で了とは真逆の男だった。やがて陰気な了にしびれを切らしたのか酒の席で「もう少し愛想良くした方がいいですよ」と困ったように笑った。そのとき了は傷ついたのか、それとも聞き流したのか定かではないが、また足もとにじわじわと這いずる恐怖のようなものを感じた。
それきり、前の担当とは飲んだことはない。
次の担当――清野恭介と初めて顔を合わせたときは動けなかった。だがぎこちなく会話をするうちに、この男を恐怖の目で見ることは憚られた。それくらい了のことを気にしてくれていた。無理やり明るいところに出そうとはしなかった。怒鳴ったり手を上げたりすることもない。ただ静かに語りかけてくれた。安心感さえ与えられた気がした。
「続きが楽しみです」
その言葉に、了は息を呑んだ。それと同時に素直に安堵した。まだ自分は作家であれると。
「なあ、清野さん」
部屋の隅に坐っている了に視線を移した恭介は、続きを促すように首をわずかに傾けた。
「あんたがいたから作家を続けられている。……今も」
「どうしたんですか」
急に、と男は言いたそうだった。膝に手をきつく押しやりながらうつむく。からだじゅうの臓器が急に硬くなったような気がして、息を詰めた。
「……俺、初めて会ったとき怖かった。あんたのこと。知ってたかもしれないけど」
男は黙って聞いている。相槌も打たずに、ただじっと聞いていた。
「でも、今は怖くない。結構前に、俺の原稿読んで〝続きが楽しみです〟って言ってくれただろ。まだ作家でいていいって言われたような気がして」
安心した、とは肺が窮屈になって言えなかった。
作家でいていいということは、生きていていいということだ。了にとっては。
「……珍しいですね」
恭介はそっとほほえんだ。何となく居心地が悪くなって、ふいと顔を背ける。
「悪かったな」
子どものような口振りに、また彼は笑った。笑われても前の担当のような気持ち悪さがないことに安心した。
文机を盗み見ると、原稿が入った封筒が置かれている。中身は確認してもらっているが、まだ時間があるとくんで恭介を引き留めていた。
そして黙って自室を出ると真っ直ぐに台所に向かい、食器棚の中から形からなにから不揃いの煮物を取り出す。顔を近づけてにおいを嗅いでも、よく分からなかったがツンとしたにおいがないので大丈夫だろう。彼が来る直前に温めておいたから、まだそれなりにあたたかい。
自室に戻り、卓袱台を引っ張り出してそこに皿を置いた。
「あんたがつくったのより、全然美味くないと思うけど」
「春木さんが?」
驚いたように確認してくる男を見て、口をへの字に曲げて頷いた。
「腐ってないから食べられるには、食べられる」
「頂いても良いのですか」
「美味くないと思うし……不味いかもしれないけど」
卑屈に卑屈を重ねながら、皿を見下ろす恭介を見る。里芋とにんじん、大根とこんにゃくを煮たものだ。ところどころ焦げているし、火が通っていないものもある。味見はしたが、味がよく分からなかったので濃いかもしれないし、薄いかもしれない。
「いただきます」
箸で持ったのは里芋だった。躊躇いなく口の中に入れるのを見守る。あんまり見ていても食べづらいと思うので、視線を膝に落とした。
ごり、という音が聞こえた気がする。やはり火が通っていなかったらしい。
「なあ、おい。今変な音し……」
顔を上げ、声をかけたときにはもう食べ終わっていた。恭介は涼やかな顔で「とてもおいしいです」と言った。
「う、嘘だ……だってさっき」
変な音が、と呟くも、彼は表情を崩さず「いいえ」とかぶりを振った。
「……清野さん、嘘吐かないもんな。律儀すぎるくらいに」
「あなたにつく必要はないでしょう」
きっぱりと言われて、視線を泳がせる。そしてのろのろと下げると、「優しいな。あんたは」と吐いた。
「不味くても、きっとあんたはおいしいって言ってくれると思ってた」
指先が膝に食い込むほど握りしめる。
清野恭介は優しいから春木了を肯定してくれる。そう、信じてしまっていた。いや、信じたいと思ったから信じたのだ。
「それが俺の甘えだって、……分かってるのに」
悪いほうに考えたらきりがないことに気付いている。了も、恭介も。
ごくりと唾液で喉を湿らせてから、蚊の鳴くような声で呟いた。
「ただ、喜んでほしかった」
「春木さん」
静かな声だった。以前と変わらない、静かな声だ。
「ありがとうございます」
膝に手を置いて行儀良く、そしてていねいに、几帳面に男は囁いた。
「とてもおいしかったです」
二度目の言葉でも嫌味がないし、角もない。それをさせるのは男が優秀な編集者である証拠だろうとも思う。
「……うん」
いとけない相槌しかできないが、男は気分を害すこともなく時計を見やった。そろそろ時間だろうか。
「その残り、今日の夕飯にしてもいいですか?」
「い、いいけど……。その皿持って会社戻るのか」
「ええ」
さらりとそう返されてしまえば、なにも言えない。落ち着かないように再度視線を彷徨わせていると、なんだかおかしくなって、ふっと息が漏れた。
「春木さん?」
「……清野さんって優しいけど、変なやつだな」
「あなたほどではありません」
心があたたまるような皮肉なんていうものがあるのか、と今更ながらに感心する。男とのやりとりで傷ついたことがないことにも、今気付いた。
煮物は皿に袋を被せ、布に包んで持たせた。
恭介と話をしていると、優しくてあたたかい気持ちになる。
あんな煮物を嫌な顔せず「おいしい」と言えるような優しさは、そう出せるようなものではない。了もそれくらいは分かる。
ぼんやりと遠ざかる背中を見送って、今朝味見した煮物の味を思い出そうとするが、うまくかたちが掴めない。煮物らしからぬ歯ごたえがあったのは覚えているのだが。
「……」
ふう、と息をつき、空の真ん中あたりにある翳った太陽の光に目を細めた。
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