いを
2024-12-13 15:45:49
2921文字
Public モイラと鼎と糸車
 

蛍る


・ユリ清さん【Ky0J1_m】
お借りしています。

 ここにはだれもいない。だれもいないので、寂しい。山颪が激しく落ちてくる。風、とわたしは山を眺めるも、山彦さえも返ってこない。
 わたしはひとりです。だれもいない。

 パタリと鉛筆を落とす。そして、机の上に蹲る。胃がきりきりする。いつものことだが、何となくさみしさ・・・・のようなものをおぼえた。ひとがいると緊張するくせに、ずっとひとりだと一丁前にさみしさのような感情が湧き出す。
 のろのろ立ち上がって、雪見障子を引き素足のまま土の上に立った。じんわりやわらかい。足の裏を包む土はあたたかく、ぬくもりに満ちている。こうしていると、さみしさのようなものがからだの外側に沈んでいくような気がした。それがよいことなのか分からないが、了は土を踏みしめながら庭に佇む木を眺めた。先日の澤ユリ清からの「手と唇で世界を観察してみてはどうか」という助言。足の裏だけでこう感じるのだから、繊細な部分はおそらく更に〝感覚〟というものが研ぎ澄まされるだろう。木の根元に立ち、幹に手を触れる。ごつごつとしており、まるで生き物のように脈打っている、と感じた。生きている、とぽつり呟く。生きて――生命が脈打つ。人間や、動物と同じように。もう片方の手をおなじように幹に寄り添わせて、顔を近づける。茶を限界まで煮詰めたような匂いがした。くちびるの先が幹に触れる。これは何の木だっただろうか。そうだ、楓だ。楓の木だ。記憶をさらって掻き分け、思い出す。先生が楓の葉を持って愛おしそうに見つめていた。枯れ落ちた楓の木を撫でながら、なにかを語りかけていた。水中のあぶくのように湧いては消えていく。消える前にその手でとどめなくてはと思う。文学という形で、とどめなくては。

 澤ユリ清という男は、この世界のことを知りたい、解釈したいと言っていた。彼が書く芸術は――あるいは、彼が考える世界というものは、理解しづらいのかもしれない。了も完全に理解することはできないだろうと思う。それでも知りたいと伝えてくれた彼の本心は、きっと同じように彼の本質なのだろうとも思う。大勢の人に囲まれている場面に出くわしたことがある。けれど嫉妬や羨望といったものは持たなかった。ユリ清が、あの男がそれに相応しい男だと考えているからだ。ただ、頭の隅のほうで「天才とは何なのだろう」という疑問が生まれた。天才――天賦の才を持つ作家。そういう人間は、周りが「天才」と言えば天才という存在に成るのだろうか。ユリ清本人は「天才」と自認しているのだろうか。少なくとも、了自身「天才」だと思う。――が、その前に「親友」である。数少ない了の大切な友人、そして、親友。彼の周りにそう言いふらすことはこれからも決してしないことを前提に、もしひとたび自分という存在が「親友」であることを明かしたら、春木了という男もさぞ立派な作家なのだろうと思われるかもしれない。了にはそれが苦痛であった。社会的立場のある人間の視線が、怖い。いまだに恐ろしい。勝手に期待して勝手に失望する人間の本性を了は数え切れないほど見てきた。失望した人間にわざわざ再度振り向くほど、人間は優しくはない。けれど、それでも――そんな人間という種族に、了はまだしがみついている。自分が人間である以上、人間という枠からは決して逃れられない。なら、いっそのこと――。そこまで考えて、顔を上げた。
「俺がもし死んでも、世間はつつがなく回るだろう。……俺で、あれば」
 澤ユリ清はそうではない。あの男がもしこの世から消えたとすれば、文学界の大きな損失だ。そう、〝文学界の〟である。世間は、そう言うだろう。では了の親友である彼が消えたら、〝春木了は〟どう思うだろう。ただ、悲しいと思うだろう。悔しいとも、痛いとも思うだろう。それは彼が優しいからだ。こんな情けない年上の男に手を差し伸べてくれたからだ。だが、それはユリ清や了が作家ゆえに出会った縁だ。作家でなければ成しえぬ〝えにし〟だ。その縁を辿った了は、ユリ清を作家として、そして人間として尊敬している。思うようにことばにできないので直接伝えたことはないが、間違いなくこれは自分の本心だと誰にでも胸を張って言える、数少ない誇りだ。
 
 どうしようもない、口下手な男だと自分でも分かっている。過去も文字通り泥水を啜りながら生きてきた人生であったから、決して輝かしいものではない。生まれ持った名前さえ思い出せない男の命、全てを使って了は文学界にしがみつく決意を持っている。たとえ道半ばで命が消えたとしても、文学界に爪痕――いや――叩けば消えるだけの染みさえ遺せなくても。この木のように不動の決意をせめて持ち続けることができたら、それは幸福な人生だったと言えるのかもしれない。
 いつの間にかさみしさは消え、気力が湧いてきた。
 ――玄関のほうで声がする。ここからなら家の中を回るよりこのまま直接歩いて行ったほうが早い。
「春木さん」
「澤?」
 玄関の前に立っていたのはユリ清だった。大きな手に風呂敷で包んだ白菜と大根を持っている。
 彼が視線を足もとに落とすと、ああ、とちいさく頷いた。全て見透かされているようだったが、悪いことではないので首をわずかにもぞもぞと動かしてみせた。
「採れたので……よろしければ」
「いいのか、こんなに」
 男が頷いたのを見、両腕でやっと持ち上げる。ずっしりと重たい。
「ありがとう」
「鍋や……漬物にでも」
「そうだな。……ちょっと待ってろ」
 懐から手ぬぐいを出して、足裏を軽く拭いてから玄関から上がり、そのまま台所に入る。知り合いからもらった柚子がまだあったはずだ。食器棚の中に保管していた柚子を持ち、戻る。
「お前の家にまだ白菜あるだろ。柚子と一緒に漬けると美味いらしいからやるよ」
「ありがとうございます……
「もらい物で悪いけど、食べきれない方が悪いから」
「あなたは……食べものを大事にしますね……
「まあ……そうだな。食うのに苦労してきたから」
 さすがに泥水や草を食べて生きてきたとは言えなかった。柚子はかるがると男の手に収まった。その様子を見て、ふと笑う。
「またどこか、食べに行こう」
「そうですね……。また」
 男が手に抱えているものがもう一つあった。おそらく原稿だろう。引き留めては悪いと思い、言葉を切った。
……澤」
 それでも言いたいことができたので、そっと呟く。
「あら汁つくったときのこと、思い出してたんだ」
「どうでしたか……
「少しずつだけど、何とかなると思う」
……そうですか。それは、何よりです」
 それでは、と了に一瞥したユリ清の背中を見送りながら、足裏の下駄の感触に目を細めた。神経が過敏になっているのかもしれない。
 男の背中が見えなくなった頃、自室に戻った。畳に落ちたままの鉛筆を拾い上げて、くず入れを足の間で抱え、小刀で削る。しゃりしゃりという音が響いた。いつもより耳も良くなった気がする。尖った鉛筆の芯を見下ろして、ふ、と息を吹きかけた。
 そうしてふたたび文机に向き合い、小指側の肉が真っ黒になるまで男は書き続けた。