千代里
2024-12-12 14:53:33
13329文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その19


 騎士イレーナが地図に記した牧草地帯に到着したのは、太陽が沈み始めた頃のことだった。
 牧草地帯と言っていたが、正確には牧草地帯『だった』と表現するべきだろう。そこには寒さに強い草が多く残っていたが、そのどれもが薄茶けた葉かくすんだ緑を伸ばすものばかりで、青々とした草が生い茂っている姿とは天と地ほども差があった。
 それでも、カラクールと呼ばれる羊たちがあちこちで闊歩しており、その細々とした草を食んでいた。カラクールはクルザス一帯に生息する黒い毛が特徴の羊だ。クルザス一帯では、家畜が脱走したものが徒党を組んで、野生化しているという話もあるほどに、この寒冷化に適応した動物の一つだった。
「羊さんって、こんなにも丸々としているのですね……!」
 今晩の宿でもある小屋に荷物を置きに向かう途中、羊たちを畜舎に追い立てている羊飼いの女性の姿を目にして、オデットは思わず足を止めて歓声をあげた。
「おや、お嬢さん。カラクールを見るのは初めてかい」
「この羊さんは、カラクール、というのですか?」
 はぐれ出てきた一頭が、オデットのそばにやってきて、足元に生えていた草をもぐもぐと喰み始めた。オデットが手に持つランタンに照らされて、黒い毛がもこもこと上下に揺れている。
 疑問に答えたのは、先導をしていたイレーナであった。
「カラクールは、生命力が強い個体だ。やや小柄ではあるが、黒い毛から作られるフリースは上質で、われわれ騎士も防寒具として重宝している」
「騎士様は、うちのお得意様ですからねえ。今後もご贔屓願いますよ」
「ああ。その代わりといってはなんだが、こちらの宿泊小屋は引き続き使わせてもらう」
「構いませんよ。おや、今日はいつもの皆さんと少し違うのねえ」
 年嵩の羊飼いは、居並ぶ面々を見て驚きの声をあげていた。
 いつもなら、複数の騎士が並び立つところを、今回は冒険者たちが色とりどりの装束で供をしているのだ。女性が驚くのも無理ないことだった。
「彼らは、街に滞在している旅人だ。滞在費の代わりに、我々の任務を手伝うことになった」
「まあ、そうなの。小さな子もいるのに大変ね」
 小さな子扱いをされて、オデットは羊の影に隠れてこっそり頬を膨らませていた。
 自分が他の面々より年少なのは確かだが、魔法が扱えないゲルダと比較すればオデットは任務に参加する資格はあるはずだというのに、この扱いは納得しかねるものがある。
 宿泊小屋を管理する婦人と立ち話を終えたあと、一行は羊飼いの一家が住む家の傍らに建てられた小屋に到着し、ようやく一息ついた。
「流石に、今日は疲れたねえ。哨戒任務は手伝ったことがあるけれど、ここまで徹底してやったのは久々だ」
「ふん。街道をただ使っているだけのお前たちでは、我々の任務がいかほどのものか、想像したこともなかっただろう」
 ヤルマルはイレーナの憎まれ口にも、いつもの笑顔で応じて流した。
 実際、ノエもイレーナに言われた通り、騎士の哨戒がここまで徹底されたものとは思っていなかった。
 街道沿いに魔物の影が見えれば、すぐさま偵察をおこない、これを討伐する。それだけでなく、街道の障害となる倒木や岩を取り除いたり、案内板が傷んでいないか調査をしたりと、単なる街道の確認といっても、その内容は多岐にわたる。
 ノエたちもイレーナを倣い、何度かチョコボを降りて、魔物の討伐に参加していた。
 たかが魔物といえども、その戦闘の回数が重なれば流石に疲労も溜まる。ヤルマルが思わず疲労についてこぼしたのも宜なるかなというものだ。
「荷物を置いたら、先ほどの羊飼いの夫妻に挨拶に行く。その後、牧場の様子について確かめ、要請があれば設備の修繕などを手伝う」
「ええっ、まだこの上働くつもりなのかい?」
「当然だ。彼らには、今まで何度も宿を貸してもらっている。その分、魔物に襲われぬように柵を強化し、魔物よけの薬材を散布して彼らを守るのは我々の仕事の一つだ。ただでさえ、貴重な旅人向けの小屋の管理者なのだからな」
 休めると思ったヤルマルは唇を尖らせていたが、それ以上は不満は口にしなかった。
 普段の彼女にしては珍しく不服そうにしているのは、これまでの道中で長い耳を寒風に晒し続けてすっかり凍えてしまったせいもあるのだろう。ここでは警戒をする必要がないだろうと、オランローはそっと毛糸の耳帽子をヤルマルに差し出していた。
「ヤルマル、外は寒いだろうから、あなたは夫妻の家事の手伝いをするといい。屋外仕事なら私と旦那様、あとオランローでやるから」
「そういうことなら、僕も手伝いますよ、サルヒさん」
「いいえ。ノエは、この場所で私たちが体が休められるように、寝床の準備をしておいて」
 サルヒが指さしたのは、部屋の片隅に積み上げられた布団や枕、それに未だ火が入っていない暖炉だった。
 こちらの宿泊小屋は、街道を利用する旅人のために用意されたものだ。だが、用意されているのはあくまで寝泊まりする場所だけであり、体を休めるための環境まで整えているわけではない。
 そのため、街の宿のように常に布団の準備がされているというわけではなく、室内に入っても暖炉に火もない部屋では、温まって一息つくというわけにもいかなかった。
 幸い、照明はクリスタルを使ったものであるので、魔力を送れば明かりは確保されているので、真っ暗な中で会話をするということにはならずに済んでいた。
「では、暖炉に火をいれて寝具の準備をしておきます。今夜は、夕飯はどうするのですか」
「そちらも、夫妻の世話になる。ただ、食事自体はこちらに運んで食べることになる。そこの黒い鱗の者が言うように、お前はこの建物で休めるように準備をしておいてもらおうか」
「わかりました」
「あ、それなら、わたしも残りますっ」
 この寒々しい建物の中で、ノエだけに寝床の準備やら火おこしやらさせるわけにはいかないと、オデットはすぐさま手を挙げた。
(それに、兄さんと一緒にいられる時間でもありますし)
 決して、朝見かけたゲルダとノエが二人きりで話している姿を見て、羨ましいと思ったわけではない。断じてそのような理由ではないはずだ、などとオデットは己に言い聞かせる。
「だったら、ゲルダはボクを手伝ってくれるかい。イシュガルド流の家事を覚える、良い機会になるだろう」
「うん、いいよ。私、今日はただチョコボに乗っているだけだったものね」
「ボクらが無理を言ってついてきてもらっているようなものなんだから、そこは遠慮しなくてもいいよ。それに、君にとっては外の方が開放的で気分がいいかも、と思ってね」
 ヤルマルは言葉をぼかしていたが、彼女は「竜の声がより聞こえやすいのではないか」と言いたかったのだ。
 果たして、その意図が通じたのか、ゲルダは「空が広かったよ」と笑って頷き返した。
 イレーナに促され、ノエとオデットを除く一行はぞろぞろと宿泊小屋を去っていく。
 外に置かれている薪をとりに、ノエがその殿について歩いていると、
「悩むのは若人の特権だが、あまり考え込みすぎるなよ。今日のお前、少し危なっかしかったってサルヒが俺に言ってきていたぞ」
 ノエの前を歩いていたルーシャンが足を止め、不意にそのような忠告を投げてきた。
 ノエが答えに窮していると、
「ここに来て少し慣れてきちゃいるが、いつドラゴン族どもと出会う場所か分からない場所であることには変わりない。つまらない失敗で命を落として、お前、嬢ちゃんに顔向けできるのか」
……すみません。今日の僕が集中力に欠けていたのは事実です。サルヒさんには、僕からも謝罪しておきます」
 ルーシャンはノエの謝罪を聞いても、眉間の皺を解かず、むしろ逆に大きく嘆息してみせた。
「せっかく時間があるんだ。ちょっと、嬢ちゃんと二人で話をしたらどうだ? お前、昨日孤児院から帰ってから、どたばたしていて、全然話ができていないだろ。当事者であるのはお前らだっていうのに」
 複数名で行動するようになってから、ノエはオデットと部屋を分けて過ごしている。
 以前のように、宿に帰っても二人きりの時間が待っているわけではない。そのせいもあって、イシュガルドに来てからオデットと二人きりで話す時間は目に見えて減っていた。
……ですが、僕の中では答えはまだ出ていないのですが」
「そういうのは、どんだけぐるぐる悩んでも、同じところ回っているひなチョコボみたいに、答えらしい答えが出るもんじゃないんだよ。お前より長生きして、お前より長く悩んで、今もそうしている俺が言うんだから間違いない」
 ノエほど大っぴらにしていないが、ルーシャンにも人に言えない懊悩の一つや二つは抱えている。それが何かは言わなかったが、ノエには伝わるだろうと男は信じていた。
「答えの出ない問いにつき合わせるのが申し訳ないっていうんなら、如何にも悩んでますって顔はやめろ。そういうのを見守り続けるのも、結構しんどいらしいぞ」
「それも、経験則ですか」
「ああ、そうだ。サルヒには……申し訳ないと思っているがな」
「相手に謝らなければいけないようなことだと分かっているのに、それを口にできるようになるのも……僕にはまだ難しいみたいです」
 自分の行いが相手にとって望ましくないとわかっていて、それでも態度を改めることができないと相手側にも伝えているのは、そこに培ってきた信頼があるからだろう。
 ルーシャンとサルヒには、それだけの信頼があるのだろうと分かる。だったら、自分とオデットはどうなのか。
 ノエが再び自問自答にはまりかけたとき、
「褒められるようなことじゃないけれどな。だから、お前はこういうどっちつかずにはなってやるなよ」
 嫌われても構わないという開き直りと、嫌うことはないだろうという甘え。ルーシャンのような態度は、どちらもノエはまだ選べていないものだった。
「ルーシャンさんは、褒められるものではないと言いますが……僕は、悪いものではないと思いますよ」
 今日のサルヒとのやりとりを思い返し、ノエはやんわりとルーシャンの自嘲を嗜める。サルヒはルーシャンの開き直りと我儘を、彼女なりの形で受け止めている。少なくとも、ノエにはそう見えていた。
「そうか? ともあれ、お前まで、そんな褒めづらい大人にならなくてもいいってことだ。だからほら、行ってこい」
 ばしっと背中を強く一度叩いた後、ルーシャンは一行の後を追いかけていってしまった。
 残されたノエは、一度大きく深く息を吸い込む。クルザスの冷気が、少しずつノエの頭を冷やしていく。
……褒められるようなことじゃなかったとしても、悪くはない、か」
 その言葉は、以前も一度あったことがある。あれは、ルーシャンの態度に対する評価として口にしたものだった。
 帝国兵に捕まったノエを助けるために行動してくれたことへの感謝を告げた時、彼はいざとなったら手を引くつもりだったと話した。
 彼の合理的な判断は、確かに褒められるようなことではないのかもしれない。けれども、悪いことだとも言いきれない。ノエはそのような評価をルーシャンに送ったのだ。
「だったら、僕も……と思っていいだろうか」
 自分ですらまだ消化しきれていない感情。
 口にするのは、それこそ褒められることではないのだろう。
 けれども、それを口にすること自体は悪ではない――そのはずだ。
 深呼吸のおかげで、ぐるぐると煮詰まっていた思考に風も通ったように思う。外に積まれていた薪をいくつか取り出してから、ノエは冷気がまだ残る室内に戻った。
 *
「おかえりなさい、兄さん」
「ただいま。室内なのに冷えていると思っていたけど、やっぱり外の方が寒いね。風のせいかな」
 当たり障りのないやり取りを交わしながら、ノエは部屋に据えられた暖炉に薪を並べる。
 本来なら、そこに焚き付けとなる細い枝や針葉樹の葉などを用意すべきなのだろうが、今回は焚き付け代わりに火属性のクリスタルのかけらを渡されていた。
 熱を長い間留めておくこれらの品は、太い薪に火が移るまで、熱をとどめてくれるので、旅先でも何度か使用している。粉末となったクリスタルをまぶし、さらに少し大きく割ったクリスタルのかけらを置いて、準備ができたと一息つくと、
……なんだか、懐かしいですね」
 背後からの声に、ノエは振り向く。視線の先では、オデットが目を細めて暖炉の前にいるノエを見つめていた。
「覚えていますか。わたしと兄さんが出会った頃、兄さんはいつも一人で今みたいに火おこしをしていたんですよ」
「ああ、そうだったね。あの頃は、ずっと僕が火の番をしていたんだったか」
 もう何ヶ月も前の話のことだ。オデットと出会ったばかり頃、野宿に関わる全ての作業をノエは一手に引き受けていた。
 記憶を失った直後で混乱の只中にいる少女に、雑事を押し付けるような真似ができるわけもない。それは、ノエにとっては当然のことだった。
……そうやって、火を前にしている兄さんの背中を、わたしは眠る前にいつも見ていたんですよ」
 自分が何者でどこから来たかもわからないという少女を、困っているならとすぐさま助けると決めた青年。
 最初こそ、オデットは今よりも男性に対する原因不明の恐怖心が強く、ノエに触れられるのすら拒んでいた。
 けれども、オデットの態度に怒ることもなく、オデットの身の安全を最優先に動く彼の振る舞いに、なんでこの人はここまでしてくれるのかと、今度は疑問を抱いた。
 いつしかそれは、寝ずに火の番を続けている青年の背中を見て、この人なら身を託していいという安堵に変わっていった。
「焚き火の音が子守唄の代わりで、兄さんの背中が火に照らされて大きく見えて……毎晩、それを見ているうちに、わたしはこの人を『兄さん』と呼ぼうと思ったんです」
 オデットは布団を寝台の一つに置き、宿でそうしていたように手早く広げていく。それは、彼女なりの照れ隠しでもあった。
「きっと、お兄ちゃんもそうして暖炉に火を入れてくれたのだと思います。ぼんやりと思い出した昔の記憶に、今の兄さんみたいに暖炉の前にいるお兄ちゃんの姿もありましたから」
 ノエよりは少し小柄な体を、炎が柔らかく照らしあげていた。小さなオデットには、そんな『彼』の姿も頼もしく見えたのだ。
「わたしがノエを兄さんと呼びたくなったのは、きっとその頃の記憶があったからなんだと思います」
 自分を守ってくれる、親しくて頼もしい青年。かつて、彼を『お兄ちゃん』と呼んでいた日々が、記憶を失ったとしてもかすかに残っていた。
 だから、オデットは目の前の青年を兄と呼ぼうと、無意識ではあれど、そう決めたのだ。
「そうだったのか。……確かに、最初は僕も面食らっていたかな」
「そ、そうですよね。いきなり、妹でもない女の子から兄さんなんて呼ばれるなんて」
「いや、そうじゃないんだ。僕は、君に兄さんと呼ばれること自体は……嬉しかったんだよ」
 火をおこす準備を整えたノエは、そこに手をかざす。魔力の巡りに働きかけ、意識を研ぎ澄ませると、ぼうっと小さな熱が手のひらの中から生まれ出た。
「あの頃は、ウヴィルトータさんを亡くした直後だったから、新しい家族ができたみたいで、僕としては嬉しかった。……でも、僕でいいんだろうかって思う気持ちもあったんだ」
 記憶を失っている少女には、きっと家族や帰りを待つ人がいる。彼らを差し置いて、自分が家族の位置に収まってよかったのかという自問は、その時からあった。
「君には、他に兄と呼ぶべき人がいるんじゃないか……って、そう思う気持ちに僕はずっと蓋をしてきたんだ。だから、この前、君がミラベルさんのことをお兄ちゃんと呼んだときは、何だか複雑な気持ちになってしまった」
……お兄ちゃんのことは、わたしも、最初はどう受け止めればいいか分かりませんでした」
 シーツを伸ばす手を止めて、オデットは、自分の胸の前で手を組む。そこに留まっている心から生まれたものが、一息に溢れ返らないように願うかのように。
「急にお兄ちゃんのことが懐かしく思えて、不安でもあったんです。対面するのが怖いと思っていたことも、本当です。まだ、よく思い出せてはいないのですが……わたしは、雪崩に巻き込まれたお兄ちゃんを置き去りにしてしまった。それは、本当にあったことですから」
 謝ればいいのか、怒られればいいのか、それとも懐かしさと共に涙すればいいのか。
 どうすればいいか分からなかったオデットにとって、ミラベルとの対面は未知の生き物と遭遇したようなものだった。
「だから、お兄ちゃんが『自分は兄じゃない』って言ってくれたのは、わたしにとっては逃げ道を教えてもらったみたいでした」
……オデットは、ミラベルさんがお兄さんだと思っているんだね」
「はい。もしかしたら、本当にわたしの勘違いかもしれないって気持ちは、ほんの少しはありますが……でも、間違いないと思う気持ちの方が強いんです」
 対面の直後にゲルダと話をして、その上で一晩を経たオデットは結論を出していた。やはりミラベル司祭こそが、自分がかつて兄と呼び慕っていた人である、と。
「お兄ちゃんのこと、全て思い出せたわけではありません。思い出だって、こんなこともあった気がするなあ、という感じでぼやっとしたもので……
 でも、とオデットは胸の前に合わせた手に力を込める。
「出会った時ほど、今は思い出すことを怖いとは思っていません。たしかに、今まで知らなかった気持ちとか懐かしさが、わたしの心の中にいっぱい広がってくるのは、不思議な感じではあるのですが」
 大きく一息つき、オデットは寝台から降りて暖炉へと視線を向ける。自然と、彼女は赤々と灯った炎に照らされたノエの顔と向き合うことになった。
 今までオデットが背中を向けている間も、ずっとこちらを見守ってくれていたようだ。
「でも、その感覚は、古いアルバムをようやくめくって、こんな人と一緒に過ごしたこともあったなと思い出すようなものだと思っています。ただ、めくるのがあまりに久しぶりで驚いてしまっただけなんです」
 ミラベルのことを懐かしむ気持ちはある。彼と過ごした日々を振り返り、思い出話に話を咲かせるのも楽しいだろう。
「わたしがお兄ちゃんと過ごした日々の中には、懐かしくて、優しくて、温かい記憶がありました。できるなら、お兄ちゃんとその頃の話をしたいと思ってもいます」
「だったら、オデットは――
「でも、そのお話が終わったら、今のわたしは兄さんの隣に帰りたい」
 結論を急ぎかけたノエの言葉を制するように、オデットの声が重なる。
「そう思う気持ちが、今のわたしなんだなって。一晩経って、わたしは今のわたしの形が一番好きだと思ったのです。なので、できればもう少しだけ、あの街にいたくて、お兄ちゃんがわたしの話に耳を傾けてくれるように説得したいと……えっと、兄さん?」
 そこまで話を終えて、オデットはノエが顔を苦しげに歪めていることに気がついた。
 いつもなら「そうだね」と笑って頷いてくれるはずの彼が、どうしてこんなにも辛そうな顔をしているのか。
 オデットが疑問を口にする前に、ノエは表情を取り繕ってしまった。常ならば、その後に作り笑いと見抜かれようと笑顔を見せていたのだろうが、
……オデット。いい機会だから、僕の話も聞いてもらえるだろうか」
 浮かべかけた笑顔を、ノエは自ら捨て去った。オデットの温かな決意に水を差すと分かっていて、それでも彼はそうしたのだと、オデットもすぐに気がついた。
……兄さん?」
「あの日、僕は焦っていた。君が、ミラベル司祭を兄と呼んだことを、僕は……歓迎していなかった」
 せっかく、記憶の手がかりに近づいたというのに。もしかしたら、待望のオデットの家族か、それに近しい人に出会えたと分かったのに。
 ノエは、今オデットが感じている郷愁に寄り添えられなかったのだと教える。
「ミラベルさんが、自分は兄じゃないって言ってくれて、僕は安堵した。もう手がかりがないなら帰った方がいいと言われて、僕は……ほっとしていたんだ」
 いや、とノエは自分で自分の言葉を否定する。
「むしろ、そうやってオデットを説得させる理由を教えてもらって喜んでいたんだ。オデットの家族や、君の帰りを待つ人は、頑張って探したけれど見つからなかった。これ以上は危険だから、已む無く捜索を中断した。そうやって言い訳をしてもいいと許されたみたいで……安心してしまった」
 オデットの顔をまともに見ていられなくて、本当なら俯いてしまいたかった。
 けれども、もしここで目を逸らすような自分はもっとみっともなく思えてきて、ノエは無理やり首を前に向ける。
「前にも話したように、僕はイシュガルドに残ろうと思う。竜と戦う人たちの手助けをしたい。この地で懸命に生きる人たちを、手伝っていきたい」
 何かを諦めるように生きる人たちに、それでも小さな光はここにあると示したい。それが、ノエの決めた未来だ。
「僕にできることなんて、大したことじゃないってことは分かってる。だけど、僕一人の小さな振る舞いで少しでも何かが変わるなら、その可能性を無視することはしたくないんだ」
 いつか、その波紋が誰かを救うかもしれないと信じて、ノエはその道を選んだ。
 竜と化したあの少年には、手が届かなかった。自分が手を伸ばしたときには、すでに手遅れであり、少年を止めるためにノエは差し伸べるはずの手に剣を握らなければならなかった。
 ならば、せめて、まだ見ぬ未来にいる誰かには、手遅れになる前に手を伸ばしたい。今は、そう思う気持ちだけがノエを前へと動かしている。
……だけど、それは、危険が潜む場所に残ることになる。寒さのことも、竜のことも、ここはグリダニアよりは住み良い場所とは言えない。だから、前のように気軽に『オデットにもそばにいてほしい』とは口にするべきではない」
 今まで胸に秘めていた考えを言葉にした瞬間、オデットは目を見開いた。
「それが、兄さんが話していた隠し事……ですか?」
「ああ。だけど、もう一つある。なのに、僕は、君がミラベルさんの元に残ると言い出したことを……僕の隣からいなくなるということを、受け入れられなかった。嫌だと思っていた。君が家族を見つけられなくて、結局僕の隣を選んでくれたらいいと願ってしまった。これが……僕の隠していたことだよ」
 ノエの隣にいるということは、イシュガルドに残るということだ。いつ終わるかもしれない竜との戦いの場に、彼女を連れていくということだ。
……そんなふうに、君の思考を狭めた上で連れていくのは正しくないと分かっているのに。僕は、君にそばにいてほしいと望む気持ちを止められずにいる」
 今も、相反する気持ちがノエの中で綱引きを続けている。ともすれば、自分の欲の方に倒れそうな心を抑えるように、ノエは胸に手を当てた。
「いつか、僕はこの気持ちに負けるかもしれない。僕にとって都合の良い言葉を、さも君のためであるかのように口にして、僕の都合を押し通そうとする日がくるかもしれない。だから」
 どんなふうに結論をつけようかと決めて話し出したわけではない。そのために、一度そこで言葉が詰まってしまった。
「だから、君は……ちゃんと、逃げてほしい」
 衝動的に口にした言葉は、自分でも少し唐突だなと思った。けれども、それが一番相応しいと腑に落ちる気持ちもあった。
「君の意思で、僕の前から去ってほしい。オデットは、僕が適当な誤魔化しをして逃げたら嫌いになるって、前に言っていただろう」
……わたしは、兄さんが誰かのために懸命になる姿が好きです、と言ったんです」
 嫌いになるとまでは言いきれない、とオデットは口の中で呟く。きっと、自分はこうやって精一杯自分のよくない気持ちに向き合える人を、心底から嫌いになることはできない。
「自分のために必死になりすぎて、君の道を阻むような人に僕はなりたくない。そんな姿は、オデットから見てもきっとひどく……みっともなく見えるはずだ。だから、僕がそんな風になってしまったら、君は僕を拒んでほしい。僕を見捨てて、自分の道を探してくれていい」
 そう言い切った。今はまだ自分の中で正しさとはきっとこれだと思える気持ちが残っている。そんな今だからこそ、口にできる言葉だった。
……わたしは、兄さんを見捨てるなんて嫌です。だって、兄さん、放っておいたらすぐ危険なところに飛び込んで、怪我をしてしまいますし」
「でも、それは僕の責任で僕が負うことだ」
「責任とか、そういうことじゃありません。ただ、わたしが嫌なんです」
 そんな小難しい理屈は、オデットには分からない。わかるのは、自分が好ましいと思うかどうか、というだけだ。
「だから……そう、見捨てるんじゃなくて、怒ります。兄さんがそうやって悪い人になったら、間違ってますよって兄さんをいっぱい叱ります。ヤルマルさんやオランローさんにも手伝ってもらいます」
「えっ。あの二人まで、巻き込むのは――
「いいえ、巻き込みます。二人だって巻き込んでくれって言うはずです。それに、サルヒさんもルーシャンさんも巻き込んじゃいます。いっぱいいっぱい叱られれば、兄さんはちゃんと反省します」
 オデットは寝台から滑り降り、暖炉のそばにしゃがみこんだままの兄の元へと歩み寄る。
「だから、兄さんは自分の思うままの気持ちを見せてください。わたしも、ちゃんと考えますから」
 膝を折り、オデットはノエの手を取る。魔法の発動のために手袋を外した彼の手は、まだシンと冷え込んでいた。
(わたしが、お兄ちゃんのことを懐かしんでいる間、兄さんはずっとわたしと一緒にいる未来のことを考えていたのですね)
 ノエにとっては、真剣に悩む必要のある事柄だったのだろう。彼がどれだけ真摯な気持ちで取り組んだかは分かっている一方で、オデットはノエの言葉がうれしくもあった。
(だって、兄さんがこれだけ悩むくらい、わたしと一緒にいたいって思ってくれているわけでもあるのですから)
 我ながら浮かれた反応だとは思うが、胸の奥の高鳴りを完全に消すことは難しい。
 ノエが潔癖なまでに、正しく有らんとする人であることをオデットはよく知っている。そんな人が、ただ一人の人間と一緒にいたいという気持ちのためだけに、自分の信念を捻じ曲げそうになっているのだ。これがどれほどオデットにとって大変なことなのか、ノエは気がついているのだろうか。
 今もオデットを見つめている青銀のノエの目には、迷いが残っている。
 答えが出ていない中でも、せめてその時が来る直前に伝えるのではなく、できる限りの気持ちをあらかじめ自ら伝えようと、彼は歩み寄ってくれた。以前、ノエが飲み込んで押し殺そうとした気持ちを、オデットの方から歩み寄って引っ張り出した時とは違う。
……兄さんはわたしが迷惑かも、危ないかもって言いますけれど、わたしだって、兄さんと一緒にいられる理屈をあれこれ考えてしまうことがあるんですよ」
 まるで聖女のような扱いをされるのは面映くて、オデットはノエへと手を伸ばす。暖炉の前に座ったまま、彫像のようになっていたノエをそのまま抱きしめ、
「わたしは弱いからそばにいてくださいって、そんな風に言ったら兄さんはわたしのそばからきっと離れなくなるから……って。でも、そういうわたしは、やっぱりわたしも嫌です」
……うん」
 小さな返事に安堵する自分自身に、オデットは小さく舌を出す。
(わたしは、やっぱり兄さんみたいには考えられないみたいです)
 少しばかりの欠点も、自分が満足できればいいじゃないかと思ってしまう。
 だが、それこそが今の自分の本音だ。
 ノエのように潔癖なまでに白くはなく、少しばかり踏み荒らしてしまった雪原のように乱れがある。そんな自分を、ノエは求めてくれている。
「だから、兄さんがわたしを言い訳にして、良くない人になったら、ちゃんとわたしが怒ります。ダメだよって言います」
 だから、わたしが悪いことをしたら、やっぱり引き留めてほしい――とまでは言えなかった。
(だって、わたしは兄さんを言い訳にして、きっとわたしが嬉しいと思うことをしてしまうでしょうから)
 それを咎められたら、やっぱり少し悲しい。なので、これは一方的な宣誓だ。そして、ノエはその一方的な誓いを素直に受け止めてくれた。
「ありがとう、オデット。……僕の願いを、嫌いにならないでいてくれて」
 そうは言っても、抱きしめ返してくれないのは、ノエなりの矜持なのだろう。ここでオデットを受け入れるような真似をすれば、それは結局自分から道を踏み外す方に歩み出すと言っているようなものになるという、ノエなりの意地だ。
「兄さんは、本当に……不器用な人ですね」
 体を離しながら、オデットはそっと唇を尖らせる。この難攻不落の要塞の如き青年に寄り添うために、無力だった頃の自分がどれだけ決意を固めたのかと思うと、少しくらい拗ねたくもなるというものだ。
「兄さんは、もう少し自堕落になってもいいと思います」
「そういう僕の姿をオデットは見たいのかな」
「いえ、見たいというわけではありませんけれどもっ」
 だけども、不器用がすぎて自分の首を絞めるくらいなら、いっそ皆に嫌われても気を抜いてしまえばいいとも思ってしまうのだ。
 オデットも自分の中にある相反する心に、ままならなさを感じていた。
「長々と聞いてくれてありがとう。すぐに何かするってわけでもないけれど……このことは、オデットもちゃんと伝えておきたかったんだ」
「はい。確かにわたしは、兄さんの気持ちを受け取りました」
 やや仰々しく手を広げて笑顔を返してから、オデットは踵を返して途中になった寝具の準備を再開する。暖炉に灯った炎のおかげで、部屋は随分と暖かくなっていた。
「あの、ですね。これは、例えばの話なんですけれど……兄さんは、ヤルマルさんやオランローさんたちとお別れになるかも、と思ったら同じことを言うのですか?」
 内心で胸の高鳴りを感じながら、オデットはおずおずと尋ねる。流石に、こればかりは正面から聞くことはできなかった。
……どうだろう。確かに皆と別れるのは寂しいとは思うけれど、オデットのことよりは上手く受け入れられると思う」
 ノエは暖炉の前から立ち上がり、オデットに言われたことを反芻する。
 仲間たちと離れることになったら、やはりそれは寂しいと思うのだろう。だが、オデットとの別離とは何かが決定的に違う。
 なら、自分はオデットと共にいて、一体それほどまでに何を求めているのか。
 考えてみる。彼女と過ごした日々のことを。
 答えは、すぐにすぐ見つかった。
……君が笑っている姿を見ると、僕も幸せな気持ちになるんだ。どんな人が笑う姿よりも、君の笑顔に対して、一番強くそう思うらしい」
 最初はただ見守っていただけだった。
 だけど、いつしか彼女の笑顔は、ノエの中にぽっと灯る明かりのようになっていた。
 いつか、その灯火と別れる日が来ると思っていたのに、何かと理由をつけてそばにいたいと願ってしまうほどに。
(でも、オデットは僕が間違ったらちゃんと怒ると言ってくれた)
 自分が道を踏み外したら、諌めてくれる人がいる。オデットだけでなく、きっとオランローやヤルマル、サルヒ、ルーシャンも。そう思うほどの信頼は、すでに当たり前のように存在していた。
 そう思うと、ぐるぐると一人で悩んでいた自分が随分と愚かな葛藤をしていたようにも思う。もっとも、その懊悩があったからこそ、たどり着けた答えだったのだろうが。
「僕も寝具を広げる手伝いをするよ。オデット、布団を貸して……オデット?」
 振り返って、オデットのそばに近寄ると、火の近くにいすぎたのか、オデットは顔を真っ赤にしていた。
「随分と暑そうだけど、もしかして少し火が強かったかな」
「あ、あの、そう、多分そうだと思います!」
 勢いこんで言うオデットに、ノエは「じゃあちょっと火を弱めてくるよ」と暖炉の方へと戻っていく。
 少し遠くなった背中を見守り、オデットは抱えていた布団をぎゅうと握りしめた。
(わたしが笑っていたら、誰よりも自分も幸せになる、なんて――
……そんな風に言われると、自惚れてしまいます」
 ノエに聞こえないように、オデットは囁くように声を落としていた。