来羅
2024-12-11 22:50:37
2784文字
Public ピタアロ
 

impression(ピタアロ)

ピタアロのファーストキッス❤️
殺伐としたシリアスです。Xからの再掲。

 知らなかった。
 こんなはずじゃなかった。
 耳の奥でドクドクと鳴る鼓動がやけに大きい。吐き出す荒い呼気が震えている。
 もつれそうになる足をなんとか踏み出し、物陰に隠れながらごくりと唾を飲み込む。
「ピーター?」
 優しく囁くような誘惑。
 少しずつ近づいてくる声に背を向けて、また地を駆ける。
 雨上がりの濡れた路面に昏く落ちた電飾の影が赤黒く煌めいていた。走るたびにピチャリと立つ水音以外に音はない。
「ピーター、隠れても無駄だ。君の心臓の音が聴こえる」
 早いな、と笑う声はどこまでも柔らかい。
 その声が好きだと思っていた。
 透けるように白い肌に薄く差す照れ色も、濡羽色の長い髪も、光の加減で赤く瞬く瞳も、ピーターと呼ぶ薄い唇も。
 好きだった。
 好きだと思っていた。
 好かれているかもしれないとも自惚れていた。
……嘘だった」
 たぶん。そうだ。きっと。全てが嘘だった。
 ピーターの目の前で、アロ・ヴォルトゥーリーは見知らぬ女の細首に牙を立て、血を啜り、笑ったのだから。
 赤い瞳がピーターを見て少しだけ驚いたように見えたのは気のせいだろう。
 なぜ戻ってきたのかと問う声音がひどく残念そうに聞こえたのも、また。
 嘘だった。
「騙された」
 アロと会うのはショーが終わってから、日付けが変わるまでの一時間だけだ。シンデレラかよと揶揄ったピーターに、アロはいつだって曖昧に微笑んでその方が君の為だと言っていた。
 出会ったのはショーランナーと興行主という関係で、ぜひともベガスでのショーをイタリアでもと懇願されて遥かヨーロッパくんだりまで足を伸ばしたピーターに、思えば初めからアロはやけに親切だった。
『君の噂を聞いている。よろしく、ピーター・ヴィンセント』
 そう笑って、握手した手が冷たかったのを覚えている。
 その目を見張る美しさにバカみたいに呆けてしまい、ろくに返事もできなかった自分も。
 契約期間は三ヶ月。君のショーが好きだと日夜ホールに通い詰めるアロと、ショーが終わってから個人的に飲みに誘うようになるまで五日。それが当たり前になって、ピーターが泊まっているホテルにアロが好む酒が常備されるようになるまで二週間。
 用意周到に張り巡らされた罠にかかった獲物がまんまと夢中になって、無様にその手に落ちてくるのはさぞかし楽しかったことだろう。
 ただの獲物だったのだ。
 狩りを楽しむのは奴らの性だ。
「クソッ」
 暗闇に向かって銃を撃つ。
 闇雲に撃ったところで当たるわけもないし、ただの銃弾が効くわけもない。それでも苛立ちと悲しみがどうしようもなくピーターに撃たせた。
「ピーター」
「俺を呼ぶな!」
「そんなことを言わないでくれ、ピーター」
「弄んでいたぶってから殺すのが『お前ら』だって知ってたのに!」
「君の殺したあんな小物と一緒にされるのは心外だ。いたぶるのは品がない。それに君の血がそそるのは違いないが、食事なら間に合ってる」
「最低だな!!」
「それは否定しない」
 ああ、やはり君と話すのは楽しいな。
 鈴の鳴るような笑い声が闇の中に響き渡った。先刻よりも随分と近いところでアスファルトに反響している。
「君が好きだよ、ピーター・ヴィンセント」
「っ、黙れ!」
「君も私を好きだろう?」
「好きじゃない!」
「君の心が私を求めるたびに、私の心も踊った!」
「踊った? はっ、動いてもいないくせに、人間ぶるな、吸血鬼め!」
「もうアロとは名を呼んでくれないのか、ピーター?」
「呼ぶか! 俺のことも呼ぶな!」
「それは悲しい……かなしいな、」
 ピーター。
 囁きは、すぐ耳元で聞こえた。反射的に体を捻って地面を転がる。服が濡れた。手の平が冷たい路面に擦れる。傷口には血が滲んだのだろう。痛みを痛みとして頭が認識する前に、アロの、その愉悦に細められた瞳がピーターにそれを教えた。
……正体を現したな、吸血鬼ッ」
「甘い、匂いだ……芳しい。君の血は誰より私を興奮させる。だが、殺す気はないと言ったはずだ、ピーター」
「嘘つけ」
「嘘はつかない。ああ、皮肉だな。今頃あのカレンの息子の気持ちがわかるとは」
 地面に手をついた半端な体勢のままアロを見上げる。
 一瞬のうちにこの首を捻ることなど容易い化け物は、けれどもその場から動くことはない。ピーターとの距離を取って、まるで害意はないのだと言わんばかりに両手を差し出す。
 あの日々のように、隣には、いない。
「ピーター、君が愛おしい」
「俺の血が?」
 去勢を張って鼻で笑って見せたが、アロは眉ひとつ動かすことなくピーターを見つめた。
 冷ややかな赤い瞳に浮かぶ、場違いな、熱。
「君の全てが」
 ぞわりと背筋を這い上がったのは、恐怖か、歓喜か。
 逃げられないのだと思った。
 捕まったのだ。
 それでも絶対的な優位を確信している相手に対して形勢逆転を狙うチャンスがあるとすれば、それは一度限りのことだった。逃げると思わせて、その手が触れる瞬間を狙って、逆に相手の懐に飛び込む。怯んだ隙をつくことができれば、死角を狙える。常人ならば。
 アロには力があった。速さがあった。
 たとえピーターが千載一遇のチャンスを逃さなかったとしても、人間如きの動きに隙を作るはずもない。
 ないのだ。
……っ、なんのつもりだッ!」
 抵抗のひとつもなく、ピーターの足払いに重心を失った体が地面に倒れる。その体に馬乗りになって両手を頭上で戒めたピーターを、いっそ無垢なほどの瞳が見上げた。
 隙などなかった。ただピーターの好きにさせただけだ。
 銃口を、動くことのない心臓にぴたりと当てる。撃鉄を起こしてもなお、アロは黙っていた。
 これは震えじゃない。
 恐怖でもなければ悲しみでもない。
 引き金にかけた指を動かすことができずに、ピーターは引き攣れた呼吸を繰り返す。
「どうした? 殺さないのか?」
 不思議そうに首を捻ったアロの頭の下で、砂利ががりりと音を立てた。
「ピーター」
 誘惑は、いつだって、甘く優しい。
「クソッ!!」
 どうかしてる。
 どうかしてる。
 どうかしてる。
「アロ……っ!」
 銃を投げ捨てて、襟首を掴んだ。
 血が付いたかもしれないと思った時にはもう、その薄い唇に噛み付いていた。歯列を割って捩じ込んだ舌先に冷やりとしたアロの舌が絡む。
 この舌が唇についた血を拭った。
 この唇が、頸動脈に吸い付いていた。
 数分前の出来事は鮮明で、そして、今はやけに遠い。
 くちゅりとした唾液の混じり合う音と、熱を孕んだ呼気だけが頭の中を支配していく。何もわからなくなってくる。
 その日初めて交わした衝動的な口付けは、咽せ返るような血の匂いがした。