冬人と水樹さん

冬の朝。

 目が覚めてすぐ目の前に水樹の顔を見つけた冬人は、緩やかにまばたきをしてから口角を持ち上げた。朝一番に好きなひとの顔を見られるのは嬉しい。
「っ……ぃ゛ッ」
 むずっとした鼻先、出かけたくしゃみを懸命に抑え込めば、幸いにも水樹は布団に顎先を埋めるように身動ぎしただけで目を覚ますことはなく、冬人は安堵しながらそうっと布団を抜け出す。
 冬の朝はいつまでだって布団のなかにいたいものだが、冬人は果敢にも冷え切った洗面所へ向かい、恐れることなく冷水で顔を洗い、歯も磨く。からん、と音を立てて戻したカップと歯ブラシの隣には水樹用のものがいつの頃か並んだ。目覚める時間が合えば水樹とこの狭い洗面所で並ぶこともある。
……もう三年くらい経つのか)
 水樹と出会ってから流れた時間は短いようでいて長くも感じる。濃密さでいえば倍にも思える。己の人生が淡々としたものであった自覚があるので尚更に。
 すっかりと目覚めた顔で洗面所を出る冬人の足元、廊下をきゅ、と鳴らすのは味のある顔をした柴犬のルームシューズ。事故に遭う前の冬人は冬場でも素足のわんぱくであったが水樹と出かけた際に彼が見つけ、揃いで買ったのだ。冬人のルームシューズは黒柴、水樹のルームシューズは赤柴である。
 あったかいなあ、と爪先を少し丸めながらやはり冷え切った台所へ向かった冬人は、冷蔵庫を開けたところでぱたぱたと聞こえる人の気配に振り返る。
「冬人さん、冬人さん。起きたらいないからびっくりしましたよ、おはようございます」
 まだ眠気の残る顔をした水樹の頭にひょこっと寝癖がひと房泳いだ。
「おはよう。先にスープ温めておこうと思って。水樹くん、パン何枚食べる?」
「僕も手伝う! パンは一枚でお願いします」
「足りる?」
「スープはちょこっと多めに飲みたいです」
「分かった。先に顔洗ってきな」
「はーい!」
 洗面所へ向かってぱたぱた歩き出す水樹の足元にもきちんと柴犬が揃っているのを見送って、冬人は微笑みながら冷蔵庫からスープの入ったタッパーを取り出した。
「胸元びちゃびちゃ族になっちゃった……」と皺くちゃな顔をした水樹が戻ってきたのはすぐのことで、冬人は今度こそ声を上げて笑って水樹から恨めしい視線をもらう。
「ごめん、ごめん。寒くない?」
「ちゃんと拭きましたので……!」
「そっか。ええと、ヨーグルトにアロエ入れる? 入れるなら……
「採取は任せてください」
 言うが早いか厳しく敬礼をした水樹がベランダに向かう。育てているアロエベラがあるのだ。
 冬人がトースターに食パンを二枚放り込んでいるうちに戻ってきた水樹は、手慣れた様子で採取したアロエベラの皮剥きを始める。薄く皮を剥き、透き通った果肉を賽の目に切っていく手つきに危なっかしいところはない。
 ふたりで台所に立つことには随分と慣れた。夕飯の買い物で共にスーパーのなかを歩くのも。
 冬人は自分が誰かとこんなにも密に生活するようになるとは、昔の自分であれば想像もできないだろうなと思う。この生活の豊かさだって驚くほどだ。
「水樹くんがいてくれて良かったな」
「お……急にびっくりなんですけど……
「改めてきみが好きだなって思ったからさ」
 思った瞬間にはきちんと言葉にしたくて言った冬人に、水樹が丁寧に包丁を置いて向き直る。
「僕も冬人さんがいてくれてとってもとっても良かったし大好きなんですけど、その気持ちを表すのにここはひとつ、ちゅーなんてどうですか」
 じっと冬人を見つめる水樹の目はぴかぴかとしている。
 こういう部分で冬人は水樹に敵わないと思う。愛情表現をしたいと口に出すことに、彼は冬人よりも躊躇いがない。冬人はなるべく口に出すようにし始めたが、まだ水樹よりも正面から向かっていく姿勢が足りないように思う。
 気恥ずかしさに逸らしそうになる目を努めて固定し、水樹を見つめ返した冬人は軽く腕を広げる。
「どうぞ」
「おお……
「どうぞ、お願いします」
 自分からしたほうがいいかな? とはもちろん思った。思ったが、せっかく水樹から申し出てくれたので彼からしてほしいなとも思った。なので、冬人は素直に彼にお願いする。
 水樹は少し耳を赤くしたが「それでは……」と怯むことなく冬人の頬に手をあてて、顔を寄せてくる。
 重なった唇、ふつりと途切れた互いの呼吸。
 触れて、一秒、二秒。離れてすぐにもう一度。どちらともなく背中へ回した腕。
 ただ重ねるだけでは物足りなくて薄っすら唇を開いた直後、トースターが鳴った。
……パン焼けちゃったね」
 まるで残念なことが起きたような口振りの水樹に、冬人の胸がきゅうと苦しくなる。
「もう一度くらいはしてもいいんじゃないかな」
 パンは逃げない。スープは少し冷めるかもしれないが、また温め直せばよろしい。
 はにかんだ水樹が僅かに喉を反らした。
 今度は自分の番、と冬人は水樹の唇を喰むように覆う。
 一秒、二秒。離れないままに濡れた音。
 今日の朝食は少し遅くなるかもしれないが、胸は熱々のスープを飲むよりも暖かくなっているだろう。