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史加
2024-12-11 08:03:57
5760文字
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原神(鍾タル)
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積もり、募った寂しさを
鍾タル/片想いに気付く鍾離の話
天気の話題は世間話の中でもっとも馴染み深く、選ばれやすいものだ。
「雪でも降りそうな寒さですなぁ」
初老を迎えた店主の言葉に、鍾離はそうだな、と頷いた。
たとえこの小さな酒屋が気に入りの店のひとつで、店主とはすっかり顔馴染みであっても、商売人と客としてのわずかな交流の時間に選ばれるのはその日の天候に関する話が多い。確かに今朝は、鍾離が丹精込めて手入れをしている盆栽の土の上にもうっすらと霜が降りていた。璃月では珍しい冷え込み具合だったから、それが話題に上るのも自然なことだろう。
懐から財布を取り出し、紙幣を数枚抜き取って店主へと渡す。十年ほど前からモラに代わってテイワット全土で流通し始めた貨幣もまた、すっかり日常に溶け込んでいた。自らの血肉ではないからか、モラよりも余程簡単に持ち歩くことが身についた記憶がある。
「毎度あり。風邪をひかないよう、お気をつけて」
「ああ、貴殿もどうか身体を大事にしてくれ」
数瓶の酒が入った袋と、店主のあたたかな心遣いを受け取って、鍾離は踵を返した。
海に面したこの街の冬風は刺すように冷たく、末端の熱を徐々に奪っていく。どんよりと曇った空は重たい色をしていて、いつ泣き出してもおかしくない。ただ、おそらく雪は降らないだろう。雪が降るときの空はもっと白っぽくて、淡い色をしていることが多いからだ。
滅多に雪の降らない璃月で、鍾離はそんな冬のことを知っている。知っているが、ほとんど受け売りの知識なので、無闇矢鱈に披露したことはない。人から聞いた話だが、と一言添えて話せば何の問題もないとわかっていても、どうしてか、その受け売りは胸の奥にしまい込まれたまま、ふとした時に鍾離の中で蘇るばかりとなっている。
それを教えてくれたひとは、冬の晴れ間に見える空の色も違うと言った後、盛大なくしゃみをした。雪の降る地域と、雪の降らない地域とでは、寒さの質も異なるらしい。かの国の厳冬に比べればこの国の気温ははるかに高いというのに、嘘偽りのない声で寒いと言って肩を震わせた彼は、どこかさびしそうな顔をしていた。
きっと、慣れない寒さで故郷が恋しくなったのだろう。
「
……
ふむ」
足を止め、鍾離は海を見る。波はまだ穏やかだが、今夜から明日の朝にかけて寒波が街を襲い、時化るという予報が流れていた。そうなれば数日は船の運航があやしくなる。旅を急ぐ者はきっと今頃、船着場に詰めかけているはずだ。
一度自宅へ帰って買い付けた酒をしまい、最低限必要なものだけを持ってまた鍾離は外へ出た。港へ向かい、三十分後には出る定期船のチケットがまだ残っていることを確かめると迷わず購入して、いつもより客で賑わっている船に乗り込む。
厚い鈍色の雲から結局白い花は降ってこなかった。汽笛が鳴り、愛する我が子が遠ざかっていくのを甲板より眺めながら、鍾離は美しい花を見たいと思った。
「今年のスネージナヤは例年と比べて寒いし雪も多いしで大変ですよ。もし長く滞在されるなら天気予報を良く見て動いたほうがいいでしょう。遭難が旅の記憶になるなんて笑えやしませんから」
我々もそういった仕事は少ないほうが助かるんで頼みますよ、と肩を竦めてみせる兵士に、鍾離はそうだな、と頷いた。
数日の船旅を経てたどり着いた冬国は、辺り一面白く染まっていて璃月とは大違いだった。路面は圧雪にコーティングされて、薄ぼけた太陽の光を鈍く反射している。その上にはいくつもの足跡が刻まれており、靴底についている砂や埃のせいでそこかしこが茶色く汚れていた。頬に触れる空気は冷え切っていて、呼吸を繰り返しているだけでも鼻や耳の奥が痛くなってくる。命の危機を感じさせる、情け容赦のない極寒だ。
空を仰ぐと、淡くぼやけた青色が雪ばかりを映していた鍾離の視界に彩りを添える。夏に璃月で見る空はもっと色が濃くて鮮烈だ。冬の璃月でもここまでやわらかな色合いはしていないように思う。まるで空さえも薄氷に覆われているようだった。
はじめて目にする冬景色は、様々な発見をもたらしてくれる。百聞は一見に如かずというが、まさしくその通りだ。これらの景色の話を鍾離は過去に耳にしたことがあるけれど、想像していたよりもはるかにスネージナヤの冬は寒くて、生きとし生けるものに対し平等に厳しい。雪混じりの風が吹き付けるたびに震える身体と心が、否応なしに生を実感する。
ひとまずこの地を訪れた目的を果たそうと、鍾離は巡回の兵士たちにスネージナヤパレスへの行き方を尋ねる。すると港からパレスのある街まで馬車が走っているというので、それに乗ってみることにした。璃月を発つときに身に着けてきた外套と手袋、襟巻だけでは心もとないので、防寒具を買い足すことも忘れない。支度を済ませると丁度馬車の出発する時間だったので、ここでも慣れた手つきで紙幣を支払い、チケットを購入して乗り込んだ。
馬車の中では、老いた親の面倒を見るためモンドから帰ってきたという壮年の男性と相席になった。やはり天気の話をして、そのあとは馬車特有の揺れと車輪の音を楽しむだけの静かな時間が続いた。
「モンドの冬も寒かったが、やはりスネージナヤの冬には劣る。この寒さに触れると、あの国の冬なんて生温かったと思いますよ」
小一時間ほど馬車に揺られて目的地に着き、別れ際に男の言った言葉に、そうだな、と鍾離は頷いた。本当は、そうだろうか、と思ったのだが声に出さなかった。
「慣れない寒さで大変でしょうが、道中お気をつけて」
「ありがとう。貴殿もご両親も、どうか身体には気をつけてくれ」
他愛のない言葉に込められた心遣いのあたたかさはどの国のどの人間から受け取っても変わらないものだと思いながら、踵を返して男とは反対の道を進む。
スネージナヤパレスのある街の中も、そこかしこに巡回の兵士がいた。屋根には雪が降り積もり、時折吹きすさぶ寒風が軽くかわいたそれを空へと連れ去っていく。
薄青の空に純白の雪がひらひらと、花びらのように舞い踊る様は美しい。
この現象を風花と呼ぶことを、鍾離は知っている。
知っているのだが。
「
……
」
改めて、これが風花だよ、と教えてくれる声を聞きたいと思った。
古き契約者は、何も追及しなかった。
ただ簡潔に、彼女に尽くした兵器たちの眠る場所への行き方を説明し、終わったらもう一度立ち寄るようにとだけ言った。
「
……
ここか」
かつてこの国を治めていた神の座の残るスネージナヤパレスとその周辺一帯は、当時の建物を残したまま記念公園として作り替えられ、今や多くの国民や旅行客が足を運ぶ名所のひとつとなっていた。テイワットの歴史においてこの国が犯した罪も、名誉も、そのどちらも騙られることなく後世へと受け継がれていくようにと、園内には資料館と数々の慰霊碑が建てられている。
衝動的に始まった鍾離の小さな旅の終点は、この記念公園に隣接する針葉樹林の中にひっそりとつくられている墓所だった。安易に旅行客が立ち入ることのないよう舗装された道すらなく、雪の深い森の中をひたすら歩き進んだ先にあるそこには、テイワットの歴史においてある者にとっては悪人であり、ある者にとっては英雄として名を刻む戦士たちの墓がずらりと並んでいる。
墓と言っても、置かれた墓石の下に埋まっているのはたいていがドッグタグや記章、仮面だ。彼らの血肉は戦地で彼女の理想の礎となり、残ったのは彼らの記号と栄誉を示すものばかりだからである。
鍾離はその中でもひとつ、他のものと比べて少しだけ大きな墓標の前に立ち、刻まれた名を指先でなぞった。灰色の石には厚く雪が積もっている。今しがた鍾離が刻んできた足跡以外に、誰かがここを訪れた痕跡はない。
辿り着いて初めて、備えるための酒も花も何ひとつ用意していないことに気付く。そもそもスネージナヤにおける墓前での礼儀すら調べてきていない。それはかつて往生堂の客卿という身分にあり、礼節を重んじる鍾離にとって失態と言えることだ。けれどここに名を刻まれている戦士はその程度のことで憤慨したり、相手を呪ったりするような器ではなかった。
むしろきっと彼なら笑って言っただろう。
「あの鍾離先生ともあろう御方がうっかり物忘れをしてしまうだなんて、ずいぶんと凡人らしくなったじゃないか!」と。
「
……
久しいな、公子殿」
脳裡に浮かべた淡い幻影に、鍾離は微笑みかける。
当然、彼の声が現実に聞こえることはない。それはとうにこの世界から失われたものだ。
鍾離のあずかり知らぬ間に、彼は本当の星になってしまった。流星のような男だとばかり思っていたら、いつの間にやら恒星に仲間入りだ。その事実を知ったときはさして驚きもしなかったが、ただ漠然と、彼が好きだと言ってくれた璃月の酒をもう共に飲めないのかと思ったことを覚えている。
ファデュイ執行官第十一位「公子」タルタリヤ。今も歴史に名を残す戦士のひとりのことを、鍾離は呆れるほどによく知っている。
とにかく戦いに目のない、苛烈な男だった。苛烈でありながらも決して命を粗末にしたり、怒りに身を任せて破壊の限りを尽くしたりはせず、兵器としての己を磨くこと、そのために生き延びることに固執する、実直さと慎重さを兼ね備えた武人だった。
彼との出会いは氷神と交わした契約がきっかけで、それに伴い鍾離は彼を騙したわけだが、その後も続いた交友関係はなかなか心地の良いものだったと思う。彼に勧めた料理や酒を口にするたび、彼と共に歩いた璃月港の石畳の道をひとりで通るたび、そして冬を迎えるたびに、今でもふと思い出すのだから。
ただ、思い出したとしても、こうして墓前まで出向くのは初めてのことだった。なにせ彼はいつでもまぶしく鍾離の目に映っていたせいか、蘇る記憶はどれも鮮やかなままで色褪せることを知らない。最初のうちはその鮮烈さを確かめるたびに胸の奥があたたかくなり、指先まで熱を帯びていったから、わざわざその温度を奪われる冬国まで足を運ぶという発想にいたらなかったのだ。
ただ、歳月を経るにつれて、彼の声を、言葉を、表情を思い出すと、頬を撫でる風をいつもよりも冷たく感じるようになっていった。実のところ、今まで人々が騒ぎ立てるような寒さというものを感じたことのなかった鍾離が、明確に「寒い」と思うようになっていった。その理由を知りたいと思い、かつて彼が気に入っていた酒を酒屋で買い取って
――
『さすがに雪は降らなさそうだけど、今日は寒いね』
いつだったか、同じ酒を店で飲んだ帰り道にぽつりとそうこぼした彼の、肩の震えに気付いた日のことを、思い出した。
それが、鍾離の中に残っている彼との最後の記憶だった。
「
……
後悔、とは違うな。あの日のお前とて、死期を悟っていたわけではなかっただろう。ただ純粋にそう思って言ったのだと認識している」
あの夜も、璃月に生きる人々が「雪でも降りそうなくらいに寒い」と称するような、冷えた空気に包まれていた。
雪の降る寒さを知る彼はそれが大仰な表現であることを知りながら、その身に寒さを感じていた。
その理由を、鍾離はずっと知りたかった。知りたくて、次に会えたら尋ねてみようと思っていた。けれど次は、来なかった。
悲しいとも、悔しいとも思ったことはない。ただあの戦士は終点にいたったのかと、事実を事実として受け止めて、日々を過ごした。
そのまま変わらずに日々は続いていくと思った。
ふとした時に蘇る彼の鮮やかさが最初のうちはあたたかった。
けれど時が経つにつれて、その温もりが心の奥のやわいところに馴染んでいった。
あたたかいのが当たり前になれば、冷たさが身に染みるようになる。当然のことだ。
だから繰り返す冬をだんだんと肌寒く感じるようになっていった。
そうして鍾離はこの冬、あの瞬間に、あの時確かめられなかった「理由」に触れられる気がして、この地に至った。
ここに来れば、会える気がしたのだ。
もうこの世のどこにもいないと分かっている、彼に。
分かち合える気がしたのだ。
彼があの日「寒い」と言った理由を。
「
……
凡人になってもう百年以上経つというのに、今更気付くとはな」
積もる雪を手で払い落とし、なだらかに丸みを帯びた灰色の石をゆっくりと撫でる。
この墓石の下には、友がかろうじて見つけたという仮面しか眠っていない。かつて彼の肉体だった灰も、骨も、髪も、何ひとつ故国の土には還っていない。彼をかたちづくっていたもののほとんどは戦場に溶けて消えたと聞いている。
だからもしかすると、ここに来たところで無意味だと、案外無意識のうちにそう思っていたのかもしれない。
しかしこうして墓前に立ったことで、ようやく鍾離は知る。
「この国の冬も、璃月の冬も、どちらも寒いのだな」
寂しさを湛える黄金のひとみをやわらかく緩めて、墓石を見つめた。
紡ぐ言の葉に返る声はない。本当の答えを確かめる術はもうこの世に存在しない。
けれど鍾離の中には決して褪せることもなければ、脚色されることもない、ただただまばゆいばかりの記憶がある。
だから、ほぼ確信を持って言える。
「耐え難い、と思わない訳ではないが、そう悪いものでもない。むしろ
……
知ることが出来てよかった」
鍾離はたった今、あの日の寒さをきっと正しく分かち合えたのだと。
「次にこの国を訪れるのなら、夏がいいでしょう」
凡人らしく鼻先も耳も頬も真っ赤にして、髪の毛先を凍らせた鍾離を出迎えたかつての神は、穏やかな声で言った。
何故、と問うと、彼女は困ったように笑う。
「忘れたのですか、モラクス。あの子が生まれたのは夏ですよ」
だからあの子が産声を上げた季節のことも、きっとあなたは気に入るでしょう。
雪解けの後にやって来る短い季節がどれほど鮮やかなものであるのか、多くを語られることはなかった。
それでも、そうだな、と鍾離は頷いた。
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