森永
2024-10-27 22:04:32
5599文字
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でかでかネコのルシアンくんと飼い主のシャレムくんのなんでもない日

傀+暮/10月27日のSPARK19で頒布した無配です/マジで猫の傀と大学生の飼い主シャレムくんの日常の一部分です/香る程度の原作要素

 鍵を差し込んで回す。ノブを下げて開ける時はつい慎重になってしまう。シャレムはマンションの自室のドアをゆっくりと押した。つい数ヶ月前までは何も考えずに開けていたけれど、今は「彼」がいるからそうなるのは当然だった。
 幸いなことに、ドアは何にぶつかることもなく開いた。ほっとしたシャレムは身体を玄関に滑り込ませる。ドアが閉まると廊下の蛍光灯が遮られて真っ暗になるけれど、シャレムはすぐには電気をつけなかった。暗闇に慣れない目が、玄関マットのあたりでぴかぴか光るどんぐり眼を見つけたからだ。
「ただいま、ルシアン」
 返事は無い。かわりに、金色の目をゆっくり細めて、猫は飼い主の帰りを出迎える。小さく微笑んだシャレムは手探りで壁のスイッチに触れた。パチ、とスイッチ音の後に、ぱっと玄関先が光で満ちる。シンプルな玄関マットの上には、思った通りシャレムの愛猫が陣取っている。
 ちょこん、とかではなく、ずん、という雰囲気で。イエネコにしては大型の、ふっさふさとした毛並みのちょっぴりしっぽの短い猫のルシアンは、金色の目でシャレムを見上げていた。

 シャレムとルシアンの出会いは、数年前に遡る。
 大学進学を機に親元を離れたシャレムは今と同じ一人暮らしをしていた。勤勉な彼は成績も優秀で、人当たりもよく、アルバイト先でもわりあいうまくやっていた。けれど昔からどこか浮世離れしているというか、特定の仲のいい友人や恋人を作らず、これといった趣味もなく穏やかに欲もなく――悪く言うなら、どこか惰性的に生きるシャレムを、両親はほんのり心配していたのだ。
 それで、シャレムの住むマンションがペット可であることを知ったうえで、地元で保護された猫を飼ってみないかと声をかけたのだ。聞けば引き取り手がなく、保護施設にも長く置けるわけではないので困っていたらしい。学校とアルバイト先に行く以外では外出も少なく、旅行にさえほとんど行かないシャレムは困りごとの助けになるならとあっさり了承した。両親は、これで息子もなにかに対する愛着や興味をもってくれるのではと胸をなでおろしたことだろう。
 さて、くだんの保護猫とは初めはうまくいかなかった――――と思いきや。ふさふさ毛並みの猫は、不思議なくらいシャレムを怖がらなかった。どころか、出会って小一時間後にはシャレムの隣に座って、身体の一部をぴったりと飼い主となる青年にくっつけて(というよりややめりこんで)あっさり懐いてみせたのだった。
 母親のアレルギーのために動物を飼ったことのないシャレムは「猫ってこんなにすぐ懐くものなんだ」と感心したが、インターネットの海で猫飼いの情報を集める限りどうも違うらしいというのを悟ったのは、ルシアンと暮らし始めて二ヶ月も過ぎた頃だった。
 ルシアンはかわいくて美しい猫だった。毛並みはふかふかさらさらしていて、金色の目がとくに綺麗だった。耳の先にはちょろっと黒い毛が跳ねていて、クールな表情とうらはらにぴるぴる揺れるのがかわいい。とても賢くて、ごはんの食べ方もトイレの使い方もすぐ覚えたし、なんならシャレムがどのくらいの時間に帰ってくるのかさえしっかり把握して、こうして待ち構えていることだってある。
 猫飼い初心者のシャレムがほとんど苦労なく暮らしているのは、品種のためかあまり鳴かず、落ち着いていて暴れることもないルシアンのおかげだろう。
「ちょっと待っていてくださいね、先に手を洗いますから」
 ただこの猫、ちょっぴりでかすぎる。どのくらいかというと、長身の部類に入るシャレムの首から腰くらいまでの体長はゆうにある。猫だからもっと伸びる。ほんとうにイエネコなのか? と知人に首を傾げられることもままあった。
 今みたいに荷物を下ろして洗面所に向かうシャレムにとことこついてくるのは良いのだけれど、何分体が大きいせいで足にぶつかり、シャレムはよく躓きかける。なまじ重量もあるぶん、多少ぶつかってもルシアン自身は特にダメージも無さそうなのだが、そのせいか懲りずにまた足にぶつかってくるのできりがない。
 シャレムもシャレムで、なにかに怒るとか叱るというのが下手なのでやんわりとたしなめるくらいしかできない。飼っているのがルシアンでなければしつけができなくて暮らしが崩壊していたことだろう。
 そんなこんなで苦労してついた洗面所で手を洗い、水気をしっかり拭き取った手で愛猫に手を伸ばす。足元で大きめのおにぎり様に座り込んで待っていたルシアンは「やっとか」と言わんばかりに耳を倒した。やや扁平になった頭をてのひらで撫でること何往復、愛猫が目を細めるままにシャレムは続けて耳の下、頬のふくらみ、背中までをもっふりもっふり撫で回した。洗面台の下にしゃがんで、大きな飼い猫が満足するまで夕飯さえお預けだ。しかし、シャレムはこんな暮らしがとても気に入っている。
 
 ルシアン専用の皿にフードを用意して、これまた猫らしからぬ静かさで食事を始める彼をちょっと眺めてから、やっとシャレムは自分の夕飯の支度に取り掛かった。とはいえ一人暮らしの質素なものだ。スープと主菜にパンをつけてテーブルに並べる。
 少し行儀は悪いが、レポートに使う参考文献のジャーナルでも読みながら食べようと食事の傍らにノートパソコンを開いたとたん、ひと足早く食事を終えたルシアンが隣のスツールに颯爽とのぼった。ずむん、と狭い座面に器用に収まった猫は、その金の目でじぃっ……とシャレムの顔の方を見つめてくる。その熱視線にやられて、シャレムはすごすごとパソコンの画面を畳んだ。
 まるで行儀の悪さを窘められたかのようだが、この愛猫の視線はべつにながら食べを咎めるものではない。多分。ルシアンはシャレムがソファに座って本を読んでいようがデスクに向かって勉強していようが食事をしていようが、常に傍にいようとするのだ。それも、足元にいるだけならまだしもそのでかい全長をフル活用して伸び上がり、シャレムの膝にのっしり乗り上げて顔を見つめてくるのだからちょっぴり困ったものだった。ルシアンは頭や背中にパンくずや消しカスが乗っていてもまったく気にしないが、それをブラッシングするシャレムにはそうもいかないのだ。
 苦肉の策でせめて食事中は、とスツールを買ったところ、シャレムの顔が見えればなんでもいいのかそちらにのぼってくれるようにはなった。人間の食事には興味がないのか、シャレムの食事に手を出そうとしないのも助かっている。けれど。
(じっと見つめられるのは、いつまで経ってもこそばゆい……)
 多分ルシアンはシャレムが食事の最中にテレビを見ようがパソコンを覗こうが構いやしないのだろうけれど、当のシャレムは行儀の悪さを自覚しているだけに気まずい。結果として、シャレムは年相応に持ち合わせていたちょっとした無作法さも封じられて、マナー良く暮らしているのだった。
 ちぎったパンを口に放り込んでふと見ると、視線のかち合った先でルシアンのしっぽがぱふん、とスツールの淵を叩いた。金の目をゆぅっくりつむって、また開く。それがどうしようもなくかわいくて、シャレムは眉を下げて笑った。

 風呂からあがると、ソファでのんびり寝そべっていたルシアンがぱっと起き出して近寄ってくる。また足に纏わりつかれて転んだら敵わないので、シャレムはさっさと床に敷いたラグに膝をつく。のすのす寄ってきたルシアンがほとんど頭突きの力加減で頭を押し付けてくる。こうされるとき、舐めてかかってしゃがんでいると普通にすっ転ばされるくらい強い。シャレムだってか弱くはない成人男性なのに。腹にめりこんでくる愛猫の体を撫でて宥めながら、シャレムは苦労して床に座った。
「ルシアン、ちょっとおててを見せてくださいね……
 あぐらをかいた膝にノータイムでのしかかってくる重量を受け止め、シャレムはルシアンの前足をそっと握った。空いた手で額をくしゅくしゅやられて、ルシアンはご満悦に目を細めている。
 そっと肉球を押して、にゅっと出てきた爪の様子を見る。歩くときにちゃかちゃか音が鳴っていたのでもしかしたら、と思ったのだがやっぱり少し伸びてきていた。ローテーブルの下にしまった小物入れから猫用の爪切りを取り出したシャレムは、よいしょとルシアンの身体を抱き直して自分にもたれかからせる。ぱちん、ぱちん、と順繰りに爪を切っている間、ルシアンはというと風呂上がりでぽかぽかの飼い主にくっついているのがお気に召したのか、グロロロロロロ……と地響きのような音を喉から鳴らしてリラックスしていた。本当に猫なのだろうか?
 重い以外の苦労をせず爪を切り終わると、シャレムは「いい子ですね」と褒めながらルシアンの全身を撫で回す。世の中にはおやつで釣りながらでないと爪切りもままならない猫が多いと聞くが、シャレムにはあまりピンとこない。飼い猫が終始こんなのだから、それも仕方がないだろう。
 特に毛のふかふかが密集している胸から首をふしゃふしゃと搔き撫でると指先にまで喉の振動が伝わってくる。他の人だったら、中でコンクリートでも均しているのかと思うかもしれない。散々に撫でくり捏ねくりしてやっていると、お返しのつもりなのかルシアンはシャレムの手を前足でつかまえて、ざらざらの舌で舐めだした。グルーミングのつもりなのかもしれない。大型の猫だからか舌のトゲトゲも並ではなく、皮膚がこそげそうなほどなのだけれど、それがルシアンなりの親愛の表現とわかっているシャレムは黙ってそのおろし金並の感触を享受している。だっこも甘え鳴きもしないクールなルシアンの、数少ない甘ったれた仕草がかわいいからだ。
 次の日は休日で、あとは寝るだけ。シャレムと彼の愛猫は、時計の針が回るのも気にせずに毛まみれの夜を更かしていった。

 夢を見た。幼い頃から繰り返し繰り返し見る夢。
 洪水。慟哭。暗転。あたたかい食事。狭い寝床。踏みしめた板張りの床。割れた爪。詰る声。縮こまる痩せっぽちのこども。シャレムはそれを、輝く星々の隙間から見ている。
 こどもの背が伸びる。貧相な四肢に不相応な衣装を着ていた。手にはナイフ。冷たくて震えた。詰る声が舞台に反響している。ナイフを振り上げる。その瞬間、また暗転。瞬く間に舞台が消え、吹き曝しの荒野にこどもはいた。裸足の爪がまた割れている。身を切るようなつめたい風。耳鳴り。死に物狂いの全速力で駆けてきたせいで、口の端から滴った唾が冷えて凍えそうだった。シャレムは知っている。なぜ? シャレムは見下ろしているだけなのに。
 立ち止まったこどもが顔をあげる。彼は空を見た。強い風で雲が散り、星々のきらめく夜空が頭の上に広がっている。星と星の隙間から、誰かが見ている。見下ろしている。
 目が合った。

――――ッ!」
 詰まっていた息が喉から漏れる感覚で目が覚めた。目を開いたのに、何も見えない。星さえ。いや、部屋の中なのだから星なんて見えるはずがない。今は何時だ。ここはどこ?
 ばくばくと心臓が早鐘を打っている。苦しい。荒くれた呼吸が整わない。頬が冷たく濡れていて、夢から戻ってこられたのか分からなくなる。喉が冷えていく。
 だれか、と肺の中で叫んだ。掠れた吐息しかこぼれないことに絶望する。目の奥がちかちかして、その光の隙間から何かが見ている、と知覚しかけたとき、胸になにかがのしかかってきた。重い。呼吸が詰まる。胸が、あたたかい。
 にあお。
「ッ、は、は……は、…………ル、シアン……?」
 低い猫の鳴き声は、長く一緒にいても耳慣れない。けれどシャレムは、暗闇にふたつのぴかぴか光る金色のまなこを見つけた。名前を呼ぶと、ゴロロ、と低い地鳴りのような音が返ってくる。ルシアン。シャレムのかわいい巨きな猫。
 冷えていた胸の上にふかふかの猫の毛が覆い被さる。シャレムが爪を切った前足、その肉球が心臓をやさしく押さえつけて、やがて鼓動がとろとろと減速する。巨躯で下敷きにした人間の身体をあたため、猫は静かに青年を見下ろしていた。
……ルシアン、わたしのルシアン……
 動けることを知った手で、ゆるゆると飼い猫を抱き抱えた。首の毛皮に顔を埋めて、動物のようにそこに擦り寄る。猫の喉の音が大きくなった。全身で乗っかられているので息苦しいほどだったけれど、夢の気持ちの悪い苦しみよりずっとずっと快かった。あったかくて、おおきくて、シャレムを愛するいとしい同居人。
 頬を擦りつけるシャレムにつられてか、ルシアンは身を捩って飼い主の首に頭を押し付けた。ぐりぐり額を擦りつけ、やすりみたいな舌でシャレムの肌を撫でる。首、顎の先、頬。
……ふ、ふふ……いたいですよ……
 猫の舌は冷たい涙の跡さえ刮げとった。ひりひりする感覚に擽ったいように笑ったシャレムは、ルシアンの頬毛に埋めた唇でキスをする。先に黒い毛が跳ねた、ふさふさの耳に押し込むように「ありがとう」と吹き込む。
 ころんと横に寝返って、抱き込んだまま再び眠りに就こうとしても、ルシアンはシャレムの腕から離れようとしなかった。あの夢を見た夜はいつもそうで、親にさえ言えずに苦しんできた悪夢を、シャレムは今はさほど恐ろしいとは思わない。
 帰る家があり、両親はやさしくて、体は健康そのもの。案外横着なところのある大学生のシャレム青年は、愛猫とともに穏やかに寝息をたてて生きている。
 今日は休日だ。でっかいかわいい飼い猫と、悪夢を見た分まで寝坊したって誰も何も構うまい。人間ひとりと猫いっぴき、気持ちよさそうな寝息が重なって、部屋ごと微睡みの底に沈んでいった。

 もうすぐ、明けの星が瞬く。