森永
2024-02-19 00:42:48
4390文字
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amer fatal

傀暮/ほんのりバレンタイン要素/付き合ってないけど距離は近い/オペの自室や諸々の設定は想像と捏造です

 何も見えないが、肩がぬくい。案外ささやかな重みに身を預けて上体を傾げながら、シャレムは黒塗りの視界のなかでひとつ、ゆっくりと瞬きをする。
 部屋はほんとうに真っ暗だった。電気もつけられていないし、窓にも遮光のシェードが下ろされている。開けていたとて、そもそも外は夜だ。一寸先は闇とはたぶんこの部屋のことで、ここがオペレーター達の、最低限の生活を保障する無機質な部屋でなければ、身のこなしに気を払うシャレムでも、一歩歩いただけで何かにぶち当たって蹴散らしていたことだろう。
 部屋のあるじはここを、割り当てられたときのままにしている。他の人がするように、好みの家具を持ち込んだり、配線を増やしたり、一切そういった手を加えていない。シャレムはそれを彼らしいと思っていたが、ではこの部屋でどのようにして「生活」というものをしているのかは、とんと分からなかった。きっと、時おり寝るためだけに使っているのだということは本人に聞かずとも察している。いつもその名のまま、影のごとく部隊の端っこやドクターの傍で気配を溶かしているファントムのことだから。
 その当の本人はじいっと、頭を預けて口を閉ざしている。枕にではない。シャレムの肩に、だ。当然重い。重いが、耐えられないほどではない。少なくとも、廊下で行き会って軽く挨拶をして、そのまますれ違う手を取られ、ごくあたりまえの顔をして真っ暗で何も無い部屋に連れ込まれ、そこしかないのでベッドに並んで座ったかと思えば肩に凭れてだんまりをされても、シャレムは別段、耐え難いとは思わなかった。当然だが、それは他者に献身的な性質であるシャレムだからだ。
 
 これは、たまにやってくる時間だった。言葉少なに、もしくは今回みたいに特に言葉もないまま、手を引かれて真っ暗なファントムの部屋へ招いきれられる。そうして一時間でも二時間でも、彼はシャレムに身体のどこかを預けて、しんとした時を過ごす。
 ファントムがなぜそうするのか、寝ているのか目を開けているのか、苦悶しているのかなんなのか、シャレムは知らない。理由は分かるようで、やっぱり分からないし、分からなくても気にならない。たぶん、シャレムだから彼はそうするのだろうし、断ってもかまわないのだと知っている。けれどシャレムには断る理由がない。ファントムは彼なりにタイミングを見計らっているのか、シャレムに特段、用事のないときに手を引くのだ。
 任務も内勤も訓練もないとき、シャレムは自室で温かい紅茶をいれてぼんやりするくらいしかすることがない。たまに、顔見知りに誘われて談話室でお茶会と洒落込むこともあるが、基本的にみな別の外勤に出ているので頻度はそう高くない。なので、人に思われるより無味乾燥ぎみの日々を過ごすシャレムには、こういった、言ってしまえば無為な時間を過ごすことへの抵抗はほとんどないのだ。
 ここには飲み物も座り心地のいい椅子もないが、同時にシャレムの平穏を乱すものもないので、まあ、いいか、とシャレムは思っている。静けさは悪いことではないし、ファントムはくっついているわりに気配が薄く、あたたかいだけで無害だ。
 それに、闇に目が慣れれば、この部屋も完全な暗闇ではない。シェードのほんの僅かな隙間からは艦船のライトが微弱に線を描いていたし、そのわずかな光源で質素な家具の縁は輪郭を淡く浮かべる。黒猫の気まぐれなまばたきで不思議な青い光がぬうっと浮かぶこともあれば、自分たちの首にはまったサーベイランス・マシンが動作のあかしにぼんやり光を放つこともある。シャレムはぼーっとするのに飽きて手持ち無沙汰になると、そういう曖昧なもののかたちを目で辿る。
 闇はおそろしいものではない。夜も、影も。少なくとも、今のシャレムにとっては。かつて、なりふり構わず恐れて逃げを打っていたシャレムは、けれど今はこんなふうに、影に肩をゆるして一時間でも付き合っていられるのだ。
 
 ファントムは、呼吸の音さえ立てない。身動ぎもしないので、シャレムはたまに、彼がいつの間にか虚影と入れ替わっているんじゃないかと思ったりもする。けれど肩はあたたかいし、じゃあ隣にいるのはアーツで作り出された幻影ではなく生きた青年なのだと何度も確認する。
 ファントムがふいに、息を吹き返した石像のように、しかしそれよりも滑らかな動きで身を起こし、まるで何事もなかったかのように「任務の時間だ」とか「ドクターが呼んでいる」といって一緒に部屋を出ていくまで、シャレムはじっと待つ。
 思考は特に精密にはたらいてはいない。報告書に記した句読点が多くなかったかとか、艦に帰着するときに甲板から見上げた空に羽獣が飛んでいたとか、そういう詮無いことを思い浮かべては流していく。そうしているうちに、だいたい一時間とか二時間が過ぎている。

 ふと、なんとはなしに今日のできごとをさらさら振り返ってみて、シャレムは思い出した。艦ぜんたい、と言うと言い過ぎだけれど、飛び石みたいに各所がほのかに浮き足立ってあまーい薫りをただよわせていた今日のことを。おなじ重装のオペレーターで、年若い少女がにこやかにてのひらに転がしてくれた「お裾分け」が、ちょうど凭れかかったふたりの間にある。
 特に声もかけず、大人しく身体と身体の間に挟まれた腕を動かしてポケットを探る。珍しくシャレムが動いたので、珍しくファントムもぴく、と反応した。案外近くにあったらしく、彼の耳の先の、ちょぴっと伸びた毛が頬をひくひくくすぐった。
「あった」
………………?」
 かさ、と包装の立てる音が指先にあたって、シャレムはそれを引きずり出した。窓の外か、黒猫の目か、サーベイランス・マシンか、どれかの光を微弱に反射して、銀紙の端がちら、と揺れた。
 手のひらには、銀紙の包装がふたつ。ころんと小さく丸い、お菓子の包みだ。溶けてはいないようだけれど、シャレムの低い体温ですこしぬるい。
 ひとつを取り上げて、銀紙を剥がす。逆の手でシャレムはさきほど触れた耳先を暗闇から探り当て、それからたどるようにして、不明瞭な視界のなかでファントムの顔をまさぐった。額、眉間、鼻筋、うすい唇のやわらかさ。グローブを部屋に置いたままなので、はだかの指先がやわらかい煙色の髪やすべすべした肌の感触を伝えて、新鮮な感じがする。生きた、美しいひとが自分の肩に凭れているのは、奇妙な感じがした。
 シャレムは指先の感触であたりをつけると、つまんだ小さなチョコレートをその口のあわいにころんと押し込む。ファントムは意外にも無抵抗に口に甘味を受け入れ、しかし距離感をつかめなかったのか迎え入れた舌でシャレムの指先をちろと舐った。犬歯が当たるよりはいいかと、シャレムは空になった指をファントムの唇から引き抜いた。間髪入れず、かりこりと咀嚼の音がする。相変わらず預けられた肩を伝って、ファントムの顎関節がまぎまぎ動くのも感じる。
「甘い」
「チョコレートですから」
 もうひとつの包装を剥がして、自分の口に放り込みながらシャレムは答える。まるでずっと会話を続けていたかのような、数時間ぶりの会話だった。爪くらいしかない菓子を噛む。やっぱり表面は幾分かやわらかくなっていた。とろりと甘くて香ばしい。そういえば、夕食を後回しにしているのをシャレムは思い出した。
「君が菓子を持ち歩くのは珍しい」
「いただき物です。今日はバレンタインなので」
「そうか」
 ちいさなチョコレートなので、二人ともすぐに咀嚼を終えてしまう。舌の上にあまい余韻だけのこる。会話もなく暗い部屋で並んでいただけのくせ、二人して舌を甘くしているのかと思うと、なんだかおかしな話だった。
 青年たちの会話を聞き取ったか、それともかすかな甘い香りか、ベッドの端でじっと目を閉じていたミス・クリスティーンがにゃおんと鳴いた。ベッドの上でお行儀が悪いわ、とも、私には何も無いの?ともとれる、窘める声音だった。シーツの海を踏み越えて、投げ出したシャレムの尾に肉球を押し当てて見上げてくる彼女をそっとシャレムは撫でた。ごまかさないで、と二股の尾が黒い鱗をたふたふと叩く。ふ、と肩口からファントムの微かに笑う声が漏れ聞こえる。
「ミス・クリスティーンのおやつでも買いに行きましょうか?」
「ああ…………君、夕食は」
「まだ。きっとあなたもでしょう、ルシアン。たまにはきちんと食事を摂らないと、また医療部の方に怒られますよ」
 こちらも黒猫につられてか、いつも人目のあるところで食事をする様子のない青年を窘める口調を帯びる。緩慢にファントムは頷いたが、それこそ猫が叱られて頭をこすりつけ、誤魔化そうとしているふうにも思えた。
 食堂にファントムが現れれば、目ざとい職員なら気付いて腰を抜かすかもしれない。新しい七不思議になったりして。目立つことを好まないファントムがついてくるか分からなかったが、腰をあげるとのったりと彼も身を起こしたので、シャレムはちょっと驚いた。餌付けした猫がついてきたような。まさかファントムが、シャレムの思いつきで与えたチョコレートで絆されるわけもない。けれど立ち上がった姿勢のまま、まじまじとファントムの顔のほうを見つめるシャレムを、彼も見返してくる。
 ようやっと目が闇に慣れてきたシャレムと違って、ファントムの方はよっぽど夜目が効くらしい。鈍い金の目は暗がりでも爛として、射抜くみたいに誤たずシャレムを見据えている。思わずたじろいで、シャレムは言葉につまった。その一拍ほどの間に、ファントムはすいと踵を返した。危うげなく部屋の中を歩いて、ドアのロックを解除している。シャレムがぽかんとしている間に、閉め切られていたドアはスライドした。廊下の照明が四角く部屋に切り込んでくる。闇に慣れたシャレムの目には眩しくて、しぱしぱと何度か瞼を動かした。
「行かないのか?」
 いつも通り、ファントムはまるで何事もなかったような顔をして入口に立っている。シャレムを暗い部屋に連れ込んだことも、二時間もシャレムの肩を占領したことも、これまでと同じように、悪いともありがとうとも言わずに。不思議なことに、それを傲慢とも不遜ともシャレムは思わなかった。たぶん、必要な時間なのだ。二人だから、とかではなく、世のどんな人にも、無為な時間が。それが、ファントムとシャレムだからこういう形になっているだけなのだろう。薄ぼんやりと、シャレムはそう思う。
 シャレム? ファントムが呼ぶ。目はすぐに明るさに慣れた。足元をととと、と黒猫が優雅に追い抜かしていく。
「いま、行きます」
 
 扉が閉まる。ロック音をさいごに、部屋は今度こそ輪郭を失い、闇に溶けた。