森永
2023-11-13 14:17:07
12461文字
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【11/23新刊】正気に戻さないで

ファントム×シャレム(傀暮)/現パロ/大学を舞台にしたルシアンくん(歳下)が小さい頃離れ離れになったシャレムさん(歳上)と再会してなんとか手に入れようとする攻防戦のはなし/め〜っちゃ平和な世界観で不穏のかけらもありません/11月23日のネクスト・オペレーションSP2023にて頒布します!詳細はTwitter(X)にて

『大丈夫、なにも心配いりませんよ』
 いちばんはじめの記憶を鮮明に憶えている。きれいな声が頭上から降ってきて、幼いルシアンはしがみついていたあたたかな膝から顔をあげた。舞台袖は薄暗く、ステージのライトばかりが眩しいせいで、自分より少し高いところから見下ろしてくる「彼女」の顔は影になってしまっている。それでもその唇がゆるやかな弧を描いているのははっきりとわかったし、光を後ろから浴びてきらきらと透ける髪が白百合みたく銀色なのも目に灼きついている。柔らかい口調でまっすぐ自分の欲しい言葉だけをくれるその人のシルエットは、幼いべそかきのルシアンの目にいっそ何か神聖な存在のように映ったのだ。
『あなたならできます。だから安心して、自分を信じて』
 彼女の名前は知らない。誰にも名前を呼ばれるところを見たことがなかった。劇団創設以来の天才だ、ゆくゆくは貴石の名にふさわしい役者の初舞台だ、と囃し立てたれるルシアンとは違っていた。彼女は舞台袖の、誰の邪魔にもならないところでひっそりと影のようになって、誰も彼もが慌ただしく準備に追われる中で、彼女は自分のすべき支度をすっかり済ませて静かに役割を果たすのを待っていた。誰の気にも留まらない花瓶の花みたいな存在を、しかし自分に阿る大人たちの薄気味悪さに与えられた楽屋を抜け出したルシアンは惹き寄せられるみたいにして見つけたのだ。
 緊張も不安も、持つことは許されなかった。天から授かった声で歌い上げ、与えられた役を演じ抜くことだけが、ルシアンに課せられていた。けれどほかの子どもや、はては大人より抜きん出た才能があっても、中身は所詮子どもなのだ。初舞台を目前に、稽古の時にはついぞ感じたことのなかった足元の覚束なさをどうにかしたくて、誰かのぬくもりや言葉がほしくて、祝いの花束や煌びやかなプレゼント・ボックスで溢れる孤独な部屋を猫のように抜け出したのだ。
 そうして出会った彼女は、ルシアンの求めたものをどちらも与えてくれた。こわばる肩を撫でる手のぬくもりと、あたまの真ん中まですべりこむような、ひんやり優しい言葉と。
 誰かの膝にしがみついて顔を伏せ、宥める言葉にいやいやと首を振るのなんて初めてのことだった。こうして誰かに甘えることができるのを、ルシアンは自分でも知らなかった。彼女は他の役者と同じように、劇団でよく使われる香水の匂いをまとっていた。けれど他の大人からするその香りが、自分を舞台へ押しやるような胸の詰まる感覚がするのに対して、彼女のそれはなぜだかひどく安心する。
 いい匂いのする彼女の衣装の膝に頬を押し当てて、ぐずるのをやめないルシアンに少し困ったように首を傾げてから、彼女はではこうしてはどうでしょう、と静かに言った。
『わたしはあなたを信じています。だから、あなたを信じるわたしを信じるのはどうですか?』
 ね、と柔らかな笑みを浮かべてルシアンの顔を覗きこんでくるひとにとうとう『うん』と頷くと、彼女は小さく囁くみたいにふっと笑う吐息を溢した。そして、ルシアンの完璧にセットされた髪を乱さないようそうっとその白く華奢な手を乗せ、耳の先の毛をこしょこしょっとくすぐるように撫でた。
『良い子』
 そのほほ笑みを、ルシアンはきっと一生わすれられない。舞台が終わったあと、二度と彼女を見ることが叶わなくとも、それは強烈な憧れとなって彼の心臓に焼きついて、今もなお鼓動と一緒に息づいているのだ。

 そんな燦然とした過去の大切な記憶を、入学したばかりの大学の一角で走馬灯のごとく思い出したのは、確実に目の前のその人のせいだった。
………………」 
「あの、何か……?」
 言葉を失い、目を瞠ったまま微動だにしないルシアンを伺う瞳は白菫色。その上ではなだらかに下がった眉が微かな困惑を示している。それでも不信感を表に出さず、柔和な笑みを浮かべる口許。白皙にとろけそうな銀の髪は、教務課のオフィスを照らす無機質なLED電灯の光を受けて透けるように肩に流れている。
 彼女だった。
 目の前に立つ人は紛れもなく、十年に渡ってルシアンが追い求め続けた彼女その人に違いなかった。
『大丈夫、問題ありませんよ』
 提出した書類の角を丁寧に揃えながらその人が口にした言葉が、ルシアンの焦がれ続けた過去を蘇らせる。柔らかな声音もひんやりした響きも間違いない、それは幼いルシアン少年の緊張と不安を解きほぐしてくれた彼女の口から出た物と相違なかった。違いがあるとするなら――――――その声の主は男性だった。
 そう、彼女は男性だった。
 ルシアンとそう変わらない背丈をしたその人は細身だが、角張った肩のシルエットやシャツの隙間から見える喉のかたちかられっきとした男性であることは明白だ。それに気付いたルシアンの頭の中は驚きと混乱と歓喜が渦を巻き、端的に言ってパニックになっていた。長年培われてきた役者としての本能というべきか、表情は変わらずミステリアスで真摯なそれを保っていたけれど、中身はしっちゃかめっちゃかな感情の嵐が巻き起こっている。
 バグった脳みそは普段しっかりと働く理性をどこかに放り投げてしまい、ルシアンの手は半ば無意識に彼だった彼女へと伸びていた。押し黙ったまま自分を凝視してくる男子学生に不思議そうに首を傾げていた白皙の彼の、書類を持つ手に手を重ねて握り込む。つめたくてすべらかな肌がルシアンの手の中でぴく、と僅かに跳ねる。
「えっ、あの、一体どうし……
――――――――結婚してくれ」
……………………………………………………はい?」
 間違えた、とルシアンは直感したが、吐いた言葉は取り戻せない。困惑を浮かべる彼の表情に、とうとう胡乱な色が混ざる。不審者を見る目にしてはやや人が好すぎる気もするが、それは恐らく彼――――シャレムの、渾身の怪訝な表情だった。

 時を少し遡ろう。ルシアンは、あの憧れの彼女と出会った日、所属する劇団で初舞台に立ち、見事準主役を演じ抜いて喝采を浴びた。
 そも、その劇団というのは、ルシアンのような身寄りのない孤児を受け入れる養護施設の後援であり、彼らを統括する劇団長は施設の子どものうち見込みのありそうな者を審査して劇団に招き入れる事業家として業界で名を馳せていた。ルシアンは十歳にも満たないうちから歌声に天賦の才を見出され、劇団長直々にスカウトされた寵児だった。
 煤竹色の髪のかかる額はまろくて可愛らしく、常に物静かなのに反して鈍金の目は人へ何かを訴えかけるようで目が離せなくなる。細い喉から溢れ出る歌声は聴いた者の鼓膜に、心臓に、脳髄にじんと響くような感動をもたらした。身のこなしも子どもながらに無駄が少なく、劇団長をはじめとする大人たちは彼を稀に見る逸材だと諸手を上げて悦び、他の子が下積みを経て参加する舞台稽古へ神輿を担ぐかの如く引き立てたのだった。
 そして迎えたのがあの初舞台、幼さゆえに劇団が用意できる台本には彼を主役にするに相応しいものがなく、準主役という形でルシアンは板を踏むに至った。厳格な劇団長でさえ彼に期待していて、誰もが成功を信じて疑わなかったが、当のルシアン本人は、目まぐるしく変わってしまった自分の人生に少しだけ困惑していた。稽古で言われた通り教えられたことをなぞって演じたり、歌い、踊ることはなんでもない。親もなく、自立して生きるには幼すぎる自分の立場をルシアンはよくよく理解していて、すべきことへ全霊をかけて取り組むことに苦はなかった。けれど、いざリハーサルで自分が立つ舞台から客席を眺めた時、そこから自分を鑑賞するだろう無数の視線を感じ、そして背後で薄気味悪いほどの笑みを讃えて自分を板の上へ押し出す大人の存在を感じると、「ほんとうに自分がやるべきなのか?」と思わずにはいられなかった。
 しかしルシアンには選択肢がない。劇団長に拾われ、養われ、見出された彼は、演者という運命をすでに決定づけられていて、逃げることはできなかった。その迷いを振り払ってくれたのが、あの白皙の彼女だったのである。
 ルシアンは彼女に感謝していた。彼女の言葉と、肩を撫でてくれた手があったからこそ、あの時の芝居は成功したのだ。熱狂する観客の喝采を浴びながら、幼いルシアンは彼女に「ありがとう」と伝えなくては、と思っていたし、「よくできました」と言って褒めてはもらえないかと、いとけなく甘い期待を持っていた。
 しかし、いざカーテンコールが終わった後、いくら探しても彼女を見つけることはできなかった。すぐに劇団長や司会者に手を引かれ、ねぎらいの言葉と共に劇団の後援者や得意先への挨拶回りに連れて行かれてしまったのもあるが、誰に聞いてもいくら見渡しても、あのきれいな銀色はどこにも見当たらなかったのだ。そこではじめて、ルシアンは彼女の名前を聞いていなかったことを思い出した。それどころか、どの役を演じていたのかさえわからない。舞台に上がっている間は、セリフを交わす主演と自分の役に入り込んでいたので、恐らくたくさんいる端役の一人だったのだろう彼女の姿を認識することはできなかった。
 結局、数日経っても月が変わっても彼女と再会することは叶わず、稽古をこなしながらもルシアン少年は少なからず落胆していた。ふとしたタイミングで、司会者の男に「銀色の髪で、白くて、優しい声のひとは知らないか」と尋ねると、彼はああ、と残念そうに、その実ちっとも残念そうな顔をせずに教えてくれた。
『あの子は他所の芸能事務所にスカウトされたので、この劇団を去ったのです』
 それを聞いたルシアンはやっぱりひどく落胆した。あんなに素敵なひとに出会えたのに、あんなに優しい言葉と体温をくれたのに、さよならさえ言えずに、いや、名前だってわからないまま、離れ離れになってしまった。劇団は劇団長の采配のもと、自分たちだけで演技や歌唱、シナリオや作曲、演出まで全て完結していて、外部と協働することなどほとんどない。彼女の接点は無くなったに等しかった。
 落ち込むルシアンは、しかし表情には出さずに、せめて名前だけでも、と司会者にそのひとはなんという名前かと尋ねた。
 ――――シャレム。それが彼女の名前。教えられたその響きを、一人になってからルシアンは飴玉でも転がすように何度か舌の上で唱えてみせた。シャレム、シャレム、シャレム。きれいな音、彼女にぴったりと似合いの名前だと思った。叶うことなら、再び面と向かい合って彼女の名前を呼んで、そしてあの時のことを感謝していることを伝えたい。その幼い想いは、次第に厳しさを増していく稽古に無垢や期待を削ぎ落とされ、緋き貴石として研ぎ澄まされていく渦中にあってもルシアンの心の深いところへ刻みついた。
 いつか、劇団の檻すら抜け出して会いにいけるように。それまで、彼女が自分のことを、存在を感じられるように。ルシアンはひたすらに、役者としての自分を磨き続けた。天使のような歌声が妖しくも蠱惑的な青年のテノールに変わり、あどけなく危うさを秘めた少年の肢体がしなやかに精悍な青年のそれになるほどの季節が過ぎ。巡行を続け、あらゆる国で彼の歌声と演技が賞賛された。劇団長が許す限り、外部の仕事も引き受け、業界誌のインタビューやグラビアにも応じた。どこでいつ、彼女が自分の姿を見聞きするかわからなかったからだ。
 そんなことを続けるうちにルシアンはクリムゾン劇団の新星
、緋き貴石ファントムとして人気を博した舞台俳優となっていた。いつの間にか、彼女と別れてから十年もの時間が経っていた。

 そして、今。社会勉強の一環にと、龍門にある国立大学へ中途入学を果たしたルシアンは、書類を提出しに訪れた教務課の質素な窓口で念願の再会を果たした――――長年思い描いていたものとはタイミングもシチュエーションも性別も言葉選びもぜんぶメチャクチャな、素っ頓狂なものだけれど。
 ところでルシアンはこれまでの人生で、世間一般の子どもがそうするように学校というものに通ったことがない。就学する年頃から演劇と歌の稽古に浸かるような日々を送ってきた。勉学や教養は劇団の年長や専属の教師、はたまた劇団長が直々に教えることもあった。そのためすでにルシアンはスクールに通う学生と遜色ない一般教養を身につけていたし、演劇に活かすためと古今東西の資料を読み漁ったこともあって専門分野の知識も相応に深く備えている。けれどそうして身につけたものを土台に演じる劇は世の人にこそ鑑賞されるべきものであって、それならばより世俗を知り自分の身に落とし込むべきだ、と十九歳になったルシアンは考えていた。
 劇団長と長くながく、嫌になるほど話し合った末に、ルシアンは龍門にある大学へ通う許しをもぎ取ったのである。彼はいくつかの試験と面接をパスして、一般の学生と少しずれた時期にはなったが無事に入学を果たした。今はセメスターの切り替わりの時期で、講義はない。通学にあたって必要な書類を提出しに教務課のオフィスに足を運んだルシアンは、運命的な再会を果たしたのだ。
 自分の前に受付にいたのは数人の女子学生だった。講義のない期間にも関わらずキャンパスに足を運んでいる彼女の姦しいおしゃべりを聞くともなしに耳に入れたところによると、サークル活動のために教室や物品の貸し出しを申請しにきたらしかった。手続き自体は受付した職員がてきぱきと済ませたようだが、学生たちはぺちゃくちゃと喋ってばかりでなかなかオフィスを出ようとしない。受付の職員と顔見知りなのか、やけに懐っこい様子で、あの教授がどうとかカフェテラスの混雑がこうとか他愛もないことをとめどなく話し続けている。
 ルシアンはしばらく黙って佇み、じっと待っていたが、ほんのりと苛立っていた。今日は講義のない日で、教務課も窓口がひとつしか開いていないうえ、開放時間が短いのだ。うかうかされると閉室になってしまう。ルシアン自身も越してきたばかりで荷解きや身の回りを整える必要があるし、時間があるなら大学の図書館にも足を運んでおきたかった。急いでいるかと言われればそうではないけれど、かといって時間を浪費されるのは好きではない。
 そろそろ声をかけるかと小さく息をつき、組んだ腕を指でトンと叩いたあたりで、きゃあきゃあと楽しげな女子学生の向こうからちらっと視線を感じた。きろ、と目を向けると、受付の職員が控えめな様子でルシアンの方を見ている。彼はかすかに顎を引くと、ほほ笑んだ口許はそのままに、おしゃべりな少女たちへ話しかけた。
「お嬢様方、そろそろカフェテラスも空いてきた頃ではないですか? 次の方もお待たせしていますから、これでおしまい。ね?」
「きゃ、ごめんなさーい!」
「すぐどきます! ばいばーい、またね!」
 今更ルシアンの存在に気付いたのか、慌てた様子でパタパタと彼女たちは去っていった。去り際、受付の職員にちゃっかり手を振って気さくに声をかけていく。それに職員は小さく手を上げて控えめに返すと、ようやく順番の回ってきたルシアンへ眉の下がった笑顔を向ける。
「すみません……大分お待たせしてしまいましたね。こちらへどうぞ」
「ああ……
 受付のカウンターへ立ったルシアンは、心底すまなそうに萎縮するその男性の顔を真正面から見た。ルシアンと同じくらいの背丈をした職員は若く、首から職員証らしきものを下げている。ちょうどカウンターにかかってしまっているため、名前のところは見えなかった。
 実のところ、彼が女子学生たちの後ろで待ちぼうける自分に気づいていたことに、ルシアン自身も気づいていた。随分と学生から馴れ馴れしくされているのでてっきり気弱なのかと思ったが、あの姦しさに呑まれることなく、柔和な笑みや相槌を途切れさせずにゆるやかに彼女たちを送り出したあしらい方を見て、案外抜け目のないひとなのかもしれない、と思いなおした。
 年次とお名前とご要件を、と訊ねてくる職員にルシアンが答えると、彼はすぐああ、と合点がいったように頷く。
「中途入学の方ですね。連絡は受けています。書類は揃ってお持ちですか?」
「ここに。確認を」
「はい。少しお預かりします……
 書類をまとめたクリアファイルを手渡すと、若い男性職員は慣れた手つきで丁寧に紙をめくった。必要な枚数に不足はないか、記入の漏れた部分はないかを探るように淡い色の目がこまかく動く。生白い手はよく手入れされている風で、爪のまわりはささくれもなく清潔だ。縦長で四角っぽい爪のかたちと、案外節の目立つ長い指をしている。ルシアンこそ、役者という職業柄か、人の特徴や仕草を観察するのが癖になっているのだ。
 きれいなひとだな、と思った。なよ、とした印象という訳でもなく、すっと伸びた姿勢や丁寧だが澱みない手つきに無駄がなく、好ましい。だいたい、こういう大学内のオフィスで定型化した窓口業務を任されるのは、在校生のアルバイトや内部生の就職者だったりで対応が雑になりがちな印象だが、彼なら個人情報を渡すに安心できそうだ。
 さっきの学生たちも、そういう理由であんなに懐いていたのかもしれない。男性だが物腰柔らかく、優しくてきれいな人。なぜだかどこかで見たことがあるような、不思議な既視感も感じている。
 そんなことをつらつらと考えていると、さほど時間もかからない内に職員が顔をあげた。彼は静かににこ、と笑って頷いている。
「はい、確認できました」
「ありがとう。何か不備は……
「いいえ。――大丈夫、問題ありませんよ。すべて揃っています」
 反射的に、息を呑んだ。
 お預かりしますね、何か質問は? と続ける彼に答えもせず、ルシアンは受付カウンターに載せていた自分の手をぎゅうと握りこんだ。目の前の彼のたった一言、それだけで、幼い頃の鮮烈な記憶がぶわっと蘇ったからだった。
 大丈夫。記憶の向こうで彼女が口にしたのと、今目の前にいる彼が口にした言葉は、まったく異なる声なのに、まるきり同じ響きをしている。黙り込んだルシアンに、少し困ったように小さく首を傾げるその仕草まで。極めつけに、彼が身じろぎした拍子に隠れていた職員証の名前部分があらわになって。
 ――――「シャレム」。そこには確かに、そう刻まれていた。
 質問がないようなら学生証の交付を、と続けようとする彼の手を掴む。耳の先をいたずらに撫でられたときの記憶が身体をめぐった。あまりの懐かしさと、念願の果てる期待に突き動かされたルシアンは、色々とすっ飛ばしていた。性別の違いとか名前の確認とか自分が誰かの説明とかいきなりプロポーズを申し込む異常さとか、それはもう色々と。

…………というのが先週の話だ」
「うーん、シンプルに自業自得かも」
 腕を組みながら澄まし顔で話しきり、そのまましれっとハーブティーに口をつけるルシアンに向かって、テキーラは苦笑いとともにハッキリと言った。
 大学のカフェテラスというものは、いつでもそれなりに賑わっているものだ。おおかたの授業が終わった三時過ぎであればなおさらで、二人の座るテーブルの他はほとんど学生たちで埋まっている。ヘッドフォンをつけて勉強するもの、友達とおしゃべりする者、騒がしさに負けず突っ伏して寝ている者、みな様々に過ごしている。ルシアンの目にはどれも目新しい。とにかく誰もが良くも悪くも自分のことにしか意識が向いていないので、ちょっとしたゴシップを話題に挙げるのも気楽でいい。
「よく恥ずかしげもなく話せたね、ファントムさん」
「事実だからな」
「そうだね。その不審者挙動の結果、シャレムさんに避けられて一週間経ったのも事実かな」
………………
 痛いところを突かれたルシアンはカップから口を離して、黙った。
 そう、あの運命的かつショッキングな出会いからすでに一週間が過ぎている。今日までの期間、ルシアンは開始した講義に参加し、一年次から参加が必須であるゼミナールに後追いのかたちで参加し、まっとうな学生として生活をスタートしていた。有名な役者であるルシアンに騒ぐ学生もおらず、ゼミの仲間たちは癖がありつつも気のいい者ばかりだ。出発点があんな風になってしまったこと以外は、いたって良好で平穏なキャンパスライフであった。
 実り多い大学生活で手に入れたものの大きな一つが、目の前にいる彼との親交だろう。テキーラはルシアンのゼミでの同期生で、本名ではなくニックネームで名乗っている。レストラン兼バーでバイトしているのが元らしい。彼はいかにもキャンパスライフを謳歌しています、と言わんばかりの派手な見た目に反してたいへん誠実で真の通った人間で、ルシアンが世界のあちこちで名を馳せる役者だと知ってもなお明朗な態度を崩さずに接してくれる実にいい青年だった。ルシアンがこうして放課後の時間を共にして、さらに相談まで持ちかけられる数少ない友人だ。
 テキーラはアイスコーヒーのストローを咥えていたのを離すと、ケーキに手をつけるためにフォークを持ち直しながら「それにしても」と首を傾げた。 
「こんなとこでゆっくりしてて、よく騒ぎにならないよね。有名人だよ? それ抜きにしてもカッコいいわけだし、常に囲まれててもおかしくないと思うんだけど」
「お褒めの言葉として受け取っておこう。確かに私は人前に出る仕事ではあるが、ドラマや映画と違って舞台演劇というものは鑑賞する層が限られているからな。学生ともなればあまり認知がなくても不思議ではない」
「確かに、観劇って学生にはちょっと、リッチな趣味だもんな」
 テキーラがやんわりとした表現で言ったがその通りで、学生で役者に詳しい者といえば、自分や親がよっぽど稼いでいて懐に余裕のある者や、その方面に興味がある限られた者だけだ。様々なプラットフォームで配信する最近の劇と違って、ルシアンの所属するクリムゾン劇団は各地の巡行でのみ目にできるというのも大きいだろう。
 街中に出て喧伝しながら歩けばあるいは、ファントムを知る演劇ファンが山と集まってくるかもしれない。実際にはルシアンが外を歩くとき、変装までしなくとも気配を忍ばせて行動することが多いので、そんなことは起こりえないのだけれど。とにかく今をときめく舞台俳優、クリムゾン劇団のファントムが一介の大学生として暮らすにあたって、不要な騒ぎを起こすのは好ましくない。
 そんな訳で、ルシアンは今のところ、たった一週間ではあるがごく平和なキャンパスライフを送っている。ほんの何回か、静かに興奮した様子の学生が話しかけてきたのに簡単に応じたりした程度だ。彼らは分別をよく弁えた学生ばかりだったので助かった。彼らが知っていたのは、ルシアンが劇団の中でも比較的、露出を厭わないタイプであるために引き受けた雑誌のインタビューやラジオ、テレビのちょっとした宣伝がきっかけらしかった。
 劇団や演劇の業界の外にも少し顔が知られるように、と計らったルシアンの思惑が叶っているようでなによりだが、それが届いて欲しかった張本人にはどうなのだろう。あの日、シャレムはルシアンがあの劇団の役者ということを知っている素振りを見せなかった。いや、見せる前にルシアンの突飛な言動が出たためにきっかけを逃したのかもしれないけれど。
 あの後、しばらく硬直したシャレムは、同じく自分のしでかしたことを理解して固まったルシアンよりも先に気を取り戻すと、ぎこちなく握られた手を振り払った。力の抜けたルシアンの手から自分のそれを取り返した彼は、当然ながらもう笑みを浮かべてはいなかった。あたりまえだ。痛い沈黙の後、互いに魂の抜けたような顔を見合わせていたが、やはりシャレムの方が先に口を開いた。
『が』
…………「が」……?』
『学生証を用意します、こちらでお待ちください………………
 そう言ってオフィスの奥へ踵を返したシャレムは当然のごとく、戻って来ることはなかった。代わりに現れたのは体格のいい鬼族の男で、彼はルシアンの学生証を手渡しながら不思議そうな顔をして(実際はマスクをしていたので表情はよくわからなかったが)首を傾げていた。
『シャレムさん、なんかすげえ顔してバトンタッチしてったけど、なんかあったのか?』 
 ルシアンは生まれて初めて、ちょっと消えたいな、と思った。火を見るよりも明らかな、大失敗の大失態だった。教務課に他に人がいないことがせめてもの救いだったが、ルシアン青年はおそらく多分はっきりと「急に手を握ってプロポーズしてきたヤバいやつ」としてシャレムの印象に刻まれたに違いなかった。
 それから一週間、なんとか彼に謝って誤解を解こうと様々に手を尽くした。次の日に教務課へ立ち寄った時は、離席していたのか休みだったのか分からないが姿が見えなかった。ならばと講義の合間にオフィスの近くを通ってみたり、昼時に、職員も使うと聞いた食堂やカフェテラスを回ってみたり。
 しかしそのどれもが空振りに終わっている。無理はないだろう。国立大学ともなれば敷地も広大で、教務課の職員といえど行動範囲は計り知れない。出会えなくとも不思議ではないが、それでもルシアンは諦める訳にはいかなかった。
 そこで早々に切り札を取り出すことにしたのだ。それが、目の前でチーズケーキを頬張るテキーラというわけである。彼は朗らかすぎる人柄のためかびっくりするくらい大学内の情報に詳しい。一見無愛想でとっつきにくいルシアンに対しても初見から気さくに話しかけてきたうえ、うまいこと話の流れで役者としての名前をまるでニックネームじみたノリで呼んでくるようになったコミュニケーション猛者だ。彼の影響力はすさまじく、たった一週間で他のゼミ生さえルシアンのことを「ファントムさん」とからかいも臆面もなく呼ぶほどに馴染ませてしまった腕前の持ち主なんである。
 そんな彼なので大学関係者――――同期生、先輩、後輩、教授、講師、そしてその他職員に至るまで知り合いがいて、ちょっと掘ってみればだいたいの情報が合法で手に入るのだから、ルシアンにとってはある意味で恐ろしい男だった。シャレムという名の職員を知っているか、という問いに当然のごとく首を縦に振った彼を、ルシアンは頼らざるを得なかった。ちなみに、教務課の職員がだいたいその近くの食堂を利用するのだと教えてくれたのも彼だ。
 講義終わりに背後からとっ捕まえて――ルシアンからすれば単純に後ろから話しかけただけなのだけれど――、単刀直入に「相談したいことがある」といえば彼は軽い調子でなんだなんだと言いながらカフェテリアまで連れ込まれてくれた。前払いのつもりで好きに注文させ、トレイを手に空いた席に腰を下ろして、自身の幼い頃の話から切り出しても、テキーラは嫌がるそぶりもみせなかった。性別を勘違いしていて、憧れの女性が男だったというのには苦笑を漏らしていたけれど、さして馬鹿にする風でもない。あとはふんふんと相槌をうち、合間にケーキを咀嚼しながらひこひこ揺れる金毛の耳を揺らしていた。器用な彼のことなのできっと、まずは話を聞いて、自分の手に負えないと判断したら忘れたフリをしてくれる算段を立てている。ルシアンはそれを見抜いてありがたく思いながら、兎にも角にもますはシャレムに合って話がしたいのだ、と素直に吐露した。
 一通りの話を聞き終わり、食べ終わったケーキの皿にフォークを置いて、テキーラは腕を組んだ。うーんと頭の中で思考を巡らせているらしく、助言を待つルシアンは邪魔しないよう、すっかり冷め切ったハーブティーで舌を潤した。大学のカフェテリアで出される安価なそれは、ティーバックが入れられたまま渡されるので最後の方がやけに濃くて苦い。その割に初めから香りも特に感じられなかった。教務課の職員たちも使うというこのカフェテリアだが、シャレムもここを訪れて、このイマイチ味の悪いハーブティーを飲むこともあるのだろうか、とぼんやり思い浮かべる。この一週間、すっかりシャレムのことで頭が満たされていた。性別から勘違いしていたにしろ十年も待ち望んでいた再会なのだから当然なのだが、大学なんて場所で出会えるなんて夢にも思っていなかったから不思議な心地だ。
「ひとつ、確認していい?」
「なんだ?」
「ファントムさんは、シャレムさんに会って謝ることだけが目的?」
…………目下、最大の目的は、そうだ」
「じゃあ、他に何かあるの?」
 問われて、ルシアンは考えた。長年シャレムを想い続けていたのは、もとを辿ればとても幼く、甘ったれた願望のためだ。褒めて欲しい、またあのきれいな手で撫でてほしい、「良い子」と溶けそうに優しく笑って。そんなことを演者としての表情の下で考え、あまく焦れていた幼いルシアン少年は、しかし今やすっかり成長してしまった。さすがに、子どもにするように接してほしいとは思わないが、その代わりに、あれきり会えなかった間の彼のことを聞きたいと思う。
「彼と、話したい。離れていた間のことを聞いて、彼が何に心動かしていたのか、知りたいと思う。そして、彼が望んでくれるなら、同じように私のことも知ってもらいたい」
 ずっと想っていたこと、その根っこにある感謝を彼に今度こそあやまたず伝えたいのだ。会いたかったという気持ちと憧憬と、機会を逃したらまた離れてしまうのではないかという直感が化学反応を起こして「結婚してくれ」だなんて口走ってしまったけれど、きちんともとを辿れば根底にあるのは複雑だがいたって純粋な気持ちだった。
 テキーラは数秒、ルシアンの瞳を覗き込むようにじっと見つめていたけれど、やがて彼の中で何かの結果が弾き出されたのか、すぐにパッと破顔した。
「よし。じゃあ任されよっかな」
「本当か。何か方法が?」
「まあ、けっこう荒療治というか、ファントムさんにも頑張ってもらわないとだけど」
「もちろん。私が望んだことだ。見合った礼も必ず」
「じゃ、お言葉に甘えて。そんなファントムさんには早速やってもらいたいことがある」
 にこ、と実に明るく笑ったテキーラは、いつの間に鞄から出したのか一枚の紙をビッとルシアンの眼前に突き出した。A5サイズの紙の上には「入会届」の文字がコピーされ、その下の記入欄にはテキーラの字で「映画研究会」の文字が。サークルの入会届のようだ。妙にウキウキした調子で、テキーラは高らかに続ける。
「君にはこれから紅茶部に入ってもらいます!」
…………うん?」