森永
2023-11-05 08:54:41
6088文字
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夜を飲み干す

傀+暮に限りなく近い傀暮/深夜にカップ麺食べる話/だいぶ平和な世界線なので不穏な劇団組がお好きな方はご注意ください/ぜんぶ妄想

 ファントムは空腹だった。彼も人間であるのできちんと空腹を感じる時はあるのだ。普段は、自分に構うことにあまり興味がないために放っておいてしまう感覚のひとつだけれど、この夜ばかりは事情が違った。時刻は深夜一時、空きっ腹を抱えるファントムは、つい一時間ばかり前にサルゴンの砂漠地帯から帰投したばかりだった。
 生息演算から戻った、と言えば大抵のオペレーターに同情の目を向けられるだろう。限られた人材、常に枯渇する物資、容赦なく侵攻する敵。長期に渡る任務のため参加するオペレーターは何度か入れ替わったが、ファントムは「高速再配置最高!」と親指を立てたドクターの采配によってほぼ全ての行程に参加した。過酷な環境には強い自覚はあったが、サルゴンの天候は炙るような猛暑から凍える豪雨まで緩急がひどく、そして何よりろくな食糧がない。そう、食糧がない。僅かに採れる材料で精製される食べ物と呼んでいいかもわからぬ補給食で食いつなぐ日々。
 あのシルバーアッシュでさえだんだんと目を濁らせながら、真銀斬で取り憑かれたように木を伐採し続けているのである。それを横目にこちらも狂ったように薪拾いを続け、そんな状況ではさしもの彼だって、普段無視できる空腹も身に染みるほど疲弊するのだ。身体的にも、精神的にも。
 とどのつまり、ファントムはものすごく腹が減っている。衣食住が確保されたロドスではついぞ感じることのない、これが飢餓というものだった。
 帰っていちばんにシャワーを浴び、無理やり休もうとしてみたが、腹が減りすぎてじっと闇に潜むこともできない。仕方がないのでのっそり影から這い出して、ファントムは口に入れられるものを探しに出た。けれどこの時間帯は食堂や売店は閉まっているし、殆ど使わない自室に食糧などあるはずもない。共同の休憩室なら軽食の自販機があったはず、と足を運んだ先に待っていたのは、「調整中」の張り紙と明かりの消えた自販機だった。
………………
 とことんついていない。足元をてこてこついて来ていたミス・クリスティーンは、しんと静まった機械の前で立ち尽くすファントムを見上げてひとつにゃーんと鳴くと、愛想を尽かしたようにすたこらどこかへ去っていってしまった。追い討ちのごとくついていない。
 どうしたものだろう、とファントムは思案する。腹はいまだに空腹を強く主張していて、どうしようもない。休憩室に誰かが置いていった菓子類に手を出すか悩んでいると、通路の方からかすかな足音が近づいてくる。アーツで身を隠すよりも先に、ひたひたと抑えた靴音に混じる囁き声がファントムの警戒を解いた。
――――ミス・クリスティーン、一体どうし………おや?」
……やはり君か」
 軽やかに戻ってきた黒猫を追っかけるように、休憩室の入口からひょいと顔を出したのはファントムの予想通り、シャレムだった。いつもの華やかな衣服ではなく、こざっぱりとした軽装の彼は、部屋の中にぽつんと佇むファントムを見つけて目を瞬かせる。
「ミスター・ファントム? 戻っていたのですか」
「つい先程な。………クリスティーン、君が彼を連れてきたのか?」
 にゃーん、とお行儀よく返事をしたミス・クリスティーンは、自分に続いて部屋へ入ってきたシャレムの脚に前足をかける。心得たように伸ばされた腕にぴょんと飛び乗り、白い腕に抱かれたレディはひと仕事終えたとばかりにぷるる、と喉を鳴らした。柔和な顔でそれを見下ろすシャレムは、もう寝る間際なのか眦の化粧も落としている。そうしていると彼はなんだかあどけなく見えた。いつもより印象が弱まるせいかついじっと見つめてしまっていると、白菫の瞳がちろりとファントムを見上げる。
「部屋へ戻ろうとしたところで出会いまして。こちらを見てしきりに鳴くのでなにかあるのかと……あなただったのですね」
「ああ」
「しかし、どうしてここに? あなたが共同スペースに現れるのは珍しい」
「それは、…………
 チラ、と視線を自販機に向ける。それは相も変わらずうんともすんとも言わない。反対にファントムの腹の虫は、未だに空腹を訴え続けているのだ。ぐるりと瞳だけで見えない天を仰ぎ、ファントムはふうとひとつ息を吐いた。シャレムに視線を戻すと、きょとんとした顔でファントムの言葉を待っている。腹が空いているからか、彼の無防備な白皙を見ると鳩尾のあたりが変にざわめく。
……シャレム」
「はい」
「きみはなにか、食糧は持っているだろうか」
「はい?」


 数分後、ファントムはシャレムの自室にいた。
 休憩室で、とても腹が空いているのだ、ということを掻い摘んで話すと、シャレムは意外そうな顔をして思わずといった様子で、あなたも空腹に耐え兼ねることがあるんですか、と言った。君は私のことをどう思っているんだ、と思いながらも、そう思われるだけの自覚があったのでファントムはむいっと口を曲げて見せるだけに留めた。
 シャレムは視線を落としてすこし考えるようにしたあと、ファントムの目をのぞきこんで「ついてきてください」と踵を返した。ファントムが言われた通り彼について歩くと、行き着いたのはシャレムの部屋で、初めて訪れるその室内へファントムはごく自然ななりゆきで足を踏み入れることになったのである。
「そこにかけて待っていてください」
 そう言って部屋にひとつきりの椅子をファントムに勧めると、シャレムは備え付けの戸棚を開けて中を漁りだした。手持ち無沙汰になったファントムは、あまり部屋の中を見るのも悪いだろうと手近なデスクに視線を落としていた。
 黒猫はシャレムに抱っこされて部屋へ着くなり、慣れた様子で腕から飛び降りてベッドの足元に置かれた箱に入ってさっさと寝の姿勢に入ってしまった。ファントムが外勤に出るときはロドス本艦に残されることもある彼女が、気ままに艦内を歩き好きな場所で寝起きしているのは知っていた。休憩室や、ドクターの部屋、はたまた寛容なオペレーターの私室に身を寄せることも。どうやらシャレムもミス・クリスティーンの宿のひとつとして使われているらしい。彼女が部屋を歩いても動じないあたりとか、そもそもレディ専用の寝床らしきものがあるあたりとか。
「ミスター・ファントム」
 戸棚を漁り終わったらしいシャレムの声に、ファントムは顔をあげた。同時にデスクの上にトン、と軽い音とともに置かれたのは、円錐台のかたちをした二つのパッケージだった。その表面にでかでかと書かれているのは、
「ヌードル?」
「お好きな方を選んでください」
 そう言いながら電気ケトルを持ち出し、シャレムはペットボトルの水を注ぐと加熱スイッチを押してよどみなく準備を進めている。ファントムはというと、出された食糧とそれを差し出した本人とを内心ちょっと驚きながら交互に見ていた。
 視線に気付いたシャレムがほんのりほほ笑む。
「お嫌いでしたか?」
「いや、そういう訳ではないが……
 任務中の補給で口にすることはあるので、食べたことがないわけではない。シャレムもそれは同じだろう。けれど、それを込みにしても、どこか浮世離れして生活感の薄い彼のイメージと目の前のカップヌードルとが結びつかなかった。
「君もこういったものを口にするんだな、と」
「意外ですか?」
 あなたは私のことをどう思っているんです、とシャレムが言う。ファントムは肩をすくめて答えた。シャレムはファントムが腹の減らないやつだと思っていたし、ファントムはシャレムがジャンクフードを口にするイメージがなかった。結局ふたりとも、他人とは違う縁があったとしても互いのことはさほど知らないのだ。それをファントムと同時に再確認したからだろう、シャレムはちょっと口をまごつかせあと、どこかごまかすような口ぶりになった。
「それで、どちらにしますか? もし他の味がよければたくさんありますけど……
「たくさんあるのか」
「ええ、まあ」
 シャレムの視線が少し気恥しそうに戸棚のあたりを泳ぐ。それ以上突っ込んで聞くのも気が引けて、なにがあるのか訊ねるのはやめた。
 ファントムは味に迷うほど好き嫌いに頓着がなく、なにより腹が猛烈に減っていた。さして間を置かずにチリトマト味のヌードルを掴むと、残ったもうひとつ――シーフード味――をシャレムが手に取った。そのまま戸棚にしまうのかと思っていたら、彼は当然とばかりに包装のビニールをばり、と剥がしてしまう。
…………君も食べるのか?」
…………ひとが食べるのを見ていると、自分も食べたくなってきませんか?」
 ファントムにはあまり馴染みない感覚だが、そういう感覚のことを知ってはいた。なので特段、責めたりからかったりする意図はなかったのたけれど、ちょっとばかりきまりの悪そうなシャレムの顔が、いつもの洗練された振る舞いに反してなんだか少年っぽく、おもしろい。
 沸いた湯をそれぞれの容器にそそぎいれる。ほわんとのぼる湯気を遮るように紙蓋をかぶせ、シャレムが差し出したフォークで重しにする。時間にして三分、二人はぽつぽつと不慣れな会話をして完成までやり過ごした。
 端末でセットしたタイマーがピピピと音を立てて、二人の青年はヌードルの紙蓋を剥がした。湯気とともにわっと広がる油っぽい匂いが飢えた腹を刺激してしょうがない。揃ってフォークを容器に突っ込んで、麺を口に入れる。熱くてしょっぱくて、異様に美味い。ファントムの飢えた胃が、持ち主の無表情に反して大喜びしている。
 しばらく無言で、二人は深夜の奇妙な食事に没頭していた。ファントムの方は飢えに近いくらい腹が減っていたのでまだわかるが、内勤で食いっぱぐれたわけでもないだろうシャレムまで無心になってはぐはぐと咀嚼している。尖った白い耳の先がほんのりと温まって赤くなっていた。
「この時間に食べるヌードルは、やけにおいしく感じるんですよね……
…………君は随分、この艦の暮らしに馴染んでいるようだ」
 そう言うとシャレムがぱっとファントムの顔を見たので、つられてファントムもシャレムの顔を見つめ返した。彼は不思議な表情を白い貌に浮かべている。笑っているような、困っているような。眉が下がり、どこか恐れるような瞳で、しかしおかしくてたまらないと言うように口の端をまごつかせて。
 ルシアン、とシャレムがファントムの名を呼んだ。
 ファントムはシャレムという青年がこんな顔をするのを、もう何度も見たことがある。あの古城から帰ってから、何度も。彼は未だに心の奥底にこびりついた劇団への恐怖をぬぐえないでいる。それに結びつくファントムにも、彼はどこかで恐怖しながら憧憬を抱いているのだ。しかし同時に、ロドスのオペレーター・シャレムとして、戦場を共にする仲間へ向ける目でもってファントムを見てもいる。
 清濁の混じりあった、そんな白菫がファントムの知ったシャレムの目だった。
………………これは、あなたから逃げて閉じこもっていた時に、お世話になったんですよ」
 麺の減ったスープに視線を落として、シャレムは言う。その声はつとめて和らげようと、起伏の抑えられた声色だった。ファントムは言うべき言葉をうまく見つけられず、そうか、と口から零すように返すのみだった。
「責めているわけじゃありません。あの時は、互いにこう……思い込みがすれ違っていたでしょう」
「そうだな」
「今となっては、恥ずかしい限りですが……
 ふ、と自嘲を口の端に滲ませてシャレムが笑う。ぎこちない笑みだ。ファントムは思い出した。古城へ自分を迎えにきたとき、会話で下手を打ったときも彼がこうして笑っていたことを。彼も今のファントムと同じで、うまく言葉を見つけられなかったのだろう。けれど、あのすぐ後に、ファントムの身体を支えた腕の迷いのなさが、言葉が代わることのできないシャレムの決断や意思をじかに伝えていた。
「君が恥ずべきことは、何もない」
 それだけ、ファントムは言うと、あとはフォークに巻き付けたヌードルをただ口に運んだ。チリトマト味の赤いスープに視線を落としたのでシャレムの表情は見えなかったが、「はい」と応えた声音がやわらかく軽かったので、それで良いことにした。
 ふと、シャレムがヌードルを取り出した戸棚に目が止まる。蒸し返すつもりは無かったが、シャレムが自分を追ってロドスまで乗り込んだファントムを避けていた時期からだいぶ経っている。それでも「たくさんある」というのだから、その物持ちが少し気になったのだ。
「戸棚の中身は全部、その当時の残りなのか?」
 ファントムが尋ねると、シャレムはとくべつ気にした風でもなく、咀嚼の合間に首を振る。飲み込んでから彼は口を開いた。
「いえ、ほとんど新しいものです。ひょんなことからドクターに知られてしまって。それから面白がって色々と差し入れてくれるんです」
 休みの日や食堂が混みあっている時、簡単に済ませたいときについ手が伸びるようになったのだ、と言うシャレムの顔をやっとファントムは見た。彼は笑っている。唇の端をゆるゆると上げて、細めた目の上で眉がちょっと下がりがちの、オペレーター・シャレムのいつもの笑顔だった。
「身体には良くないとわかってはいますが……なんと言えばいいんでしょう、なんだか特別な感じがして、ワクワクするんです」
……やっぱり、きみはこの艦の暮らしによく馴染んでいる」
「そうでしょうか? ふふ、そうかも」
 ふ、と湯気のむこうでシャレムが笑う。どこか機嫌のよさそうに見えるのは、食欲が満ちたからなのか、彼の言うように「ワクワクしている」からなのか。
「今更ですけれど、あなたがヌードルを食べているのはなんだか面白いです、ルシアン」
「そうか?」
「はい」
 なんとなく失礼なことを言われた気がしないでもない。けれど、いつもは幸薄そうな顔を楽しげに緩めているシャレムを見ると、さほど気にならなかった。彼が楽しいならいいと思う。
 自分も彼も、死ぬまで劇団の悪夢に影を踏まれて生きていく運命だとわかっている。それでもそんな中で、狂気でも自暴自棄でもなく笑える日があるのなら、それは自分たちにとって間違いなく幸福なことだ。
「ミス・ハイビスカスや……医療オペレーターの方に見られたら、きっと怒られるでしょうね」
「では、君と私の秘密としよう」
「秘密? ……あははっ……ええ。そうですね、秘密です」
 ヌードルのしょっぱい匂いの中交わされる約束は、きっと他人から見ればひどく滑稽だろう。あの劇団の司会者が見たら頭を掻き毟って唾を吐くかもしれない。そんなふうに、忌々しい記憶をくだらない想像に使えることが、ファントムには意外だった。しかし、清々する。もしかすると、シャレムにつられてこの深夜の罪深い食事に知らぬ間に心躍らされているのかもしれなかった。