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森永
2022-11-25 09:54:45
8085文字
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春の嵐に紛れて泣いた⑧
無限×風息/くたびれ大学講師×訳アリDKの現パロ続き/まだ続きます
「先生、先月の学会の議事録って回覧来てますか?」
「あ、四限で使う講義室、プロジェクターが壊れてるので使えないらしいですよ無限先生」
「無限さん、再来月の定期報告会の準備について相談する時間取れる?」
「失礼します! 先生、オーキャンの学科説明の教室借用について確認したいんですが
……
」
「無限先生!」
忙しい。
ただひたすらに忙しい。忙しさに殺されると書いて忙殺というが、今の無限はまさにそんな状態だった。期限のある業務を順番にこなすとかそういう優雅なことなんて、とてもじゃないがしていられない。次から次に舞い込んでくる作業とトラブルと職務と格闘し、なんとかもぎ取った隙間時間でギリギリ書類を片付ける、というのがルーティンとなっている。もはやルーティンとも呼べない、まさに激務だった。
それでも片付けねばトラブルはいつ爆発するかもわからない時限爆弾となり、生徒は落単し同僚は失踪し給料はもらえなくなることが定まっているので、ある分だけ仕事を回さねばならない。なので今日も無限は粛々と降りかかる業務を捌いていく。学内用メールで四限の講義室変更のお知らせを撒き、同僚とのスケジュール合わせをしながら欠席続きの生徒をリストアップし、訪ねてきた学生に教務課の教室借用届の存在を伝えた。議事録は絶対に誰かが机にできた書類の山に埋もれさせている。
その日、無限があらかたの対応と処理を終えて講師に与えられた小部屋に引っ込んだ頃には、時刻は夜の二十時を回っていた。この時間になると帰るのが億劫になり始め、だらだら仕事をしているうちになんでもっと早く帰らなかったんだろう、と後悔することになる。何より、これ以上遅くなるとコンビニ以外にまともな食事を取れるところがぐっと減るのだ。無限はタスクを書き出した付箋がデスクトップの縁でがたがた並んでいるのを素知らぬふりして、帰り支度に全霊を注いだ。
鞄にしまうものをしまって、少し迷ったが回覧物の議事録も突っ込む。二週間近く停まっていたくせに、今日の夕方になって爆速で回ってきたので首を傾げたが、資料の末尾に全員確認と提出必須のアンケートがついていて馬鹿野郎と思った。期限は明後日まで。チョコパイとともに机に置かれていたとしても許していいものではない。しかし泣いても怒っても期限は変わらないので、電車の中か帰って寝る前に目を通すことにする。ため息をつきながら鞄を机の上に置き、最後にキーボード脇に置いていたマグカップを取り上げた。
灰色がかった、青とも緑ともつかない色のマグカップは夏頃に雑貨屋で値引きされていたのをなんとなく手に取って買ったものだ。すとんと潔い円筒形のシンプルな作りで、意外と量が入るのが気に入っている。廊下に出て、学科棟の共同給湯室に入ってシンクに向かった。給湯室といっても、壁が半畳くらいの幅に凹んだところに申し訳程度の流し台があるだけだ。校内は火気厳禁なのでコンロもない。教授や一部の講師は自分の研究室に冷蔵庫とケトルを置いていて、みんなめいめいに使っている。無限の部屋にも前任の講師が置いていった電気ケトルがあって、最近はもっぱらそれでお茶を入れて飲んでいた。
マグカップの底に乾いてひっついていたティーバッグの出し殻を生ゴミの袋で放り入れ、共用のスポンジでざっと洗う。底の絶妙なカーブを描いた角のところに、うっすら茶渋が浮き始めている。買ってから二ヶ月しか経っていないのに、それだけの頻度でそれを使っているということだった。最近、同僚や学生に「お茶にハマったんですか?」と訊かれることが増えた気もする。前は缶コーヒーかペットボトルの水くらいで、ケトルもゼミ生が使う方が多かったのに、と。
洗いおわったマグカップを手に部屋へ取って返すと、ケトルやお茶を置いた棚上のスペースにそれを置いた。濡れた手をハンカチでぬぐって、部屋の電気を消したらあとは帰るだけだ。パチン、とスイッチを押し、講師室のドアを施錠して、無限は帰路についた。
寂れた漁師町から逃げるように帰ってきた日から、そろそろ半年が経つ。まだ半袖の人もいるが、九月の夜は夏ほどの蒸し暑さはない。そろそろ薄手の上着を持ち歩いてもいい時期かもしれないな、と無限は夜の空気の中を歩きながらぼんやり考えた。春があっけなく終わり、やけに長く感じる夏さえももう終わろうとしている。仕事を再開すると、時が経つのはあっという間だった。
以前のように、親の仇みたいに仕事を詰め込むことはしないで済んでいる。相変わらず職位の割に合わない量の仕事ではあるが、一度ドクターストップを食らった身なので反省を活かして周りと調節しながらやりくりできるようになっていた。講師がひとり増えたことと、院生が講義の手伝いに入るようになったのも大きい。今日みたいな時間まで残業したのも、実を言うと久しぶりのことだ。来週オープンキャンパスがあるので、その準備のためだった。当日、模擬授業をするのでそのレジュメづくりと、学生たちによる学科説明があるためその相談や指導にどうしても時間が取られる。トラブルは毎日生産されるわけであるし。
それでもなんとか無限は日々を暮らしている。不思議なことに、煩雑な仕事が立て込み始めると、まるでブレーキをかけるように手が止まるのだ。そういう時、無限の手はほぼ無意識にマグカップを取り出してお茶を煎れている。たぶん、春先の休暇の記憶を身体が再現しようとしているのだと無限は察していた。自分で手ずから煎れたお茶の、やわらかく立ち上る湯気のむこうに誰もいなくても、その穏やかな記憶を脳みそは勝手に繰り返してしまうのだ。
そういう、ふとした瞬間に、いまだ風息のことが脳裏によみがえってしまう。退屈そうに頬杖をつく姿だとか、問題が解けて顔をほころばせているのだとか、苦しそうに笑う顔だとか。夢に出てくる、なんてことはないけれど、忙しさの中でも薄れることのない彩度でもって、少年の姿が浮かんでくるのだ。
帰ってきてから有言実行とばかりに北河に快気祝いと称して飲みに連れ出されて、その話をする流れになったことがある。ところどころ伏せながら風息という少年と出会ったことを話せば、驚きに目を剥いていた友人がその結末にものすごい勢いで騒ぎ出したのを昨日のことのように思いだす。
「おッッッ前、信じらんないね! 頼りにしてくれたってことだろぉ? もっとしてやれる事があっただろうに!」
「高校生とはいえ、子どもを無責任に連れ出すことなんてできないだろう」
「カァーーーっ! そういう正論が欲しいんじゃないんだよ今はァ! これだから人に興味ない奴は、これだから!」
「人に興味がないわけじゃない。何度も言ってるが」
憮然と言い返す無限の言葉を「カァーーーっ」とか「クゥーーーっ」とか唸るだけになった北河は聞いちゃいないようだった。ビールを大ジョッキで三杯もあけていたので当然だろう。これはもうダメだなと早々に見切りをつけて、帰りにどう置いていくか算段を立てる無限に、北河はしばらくホギャホギャ喚いていた。いちど寄り添ってやったんなら最後まで面倒見ろとか、お前にそんな甲斐甲斐しく世話焼いてくれる子がいて俺にいないなんて不公平だとか、せめて電話番号渡すくらいしろよ、とか。
その時は無限もほどほどに酔っていたので、はいはいと適当に流して勘定をしたあと、駅前のタクシー乗り場に北河をほっぽって自分は電車で帰った。今になってその時の北河の言葉が無限の耳の奥で木霊する。
電話番号でも、という言葉に、確かにそうする方法もあったのだ、と無限は気がついた。どこか、取り返しのつくタイミングで、自分自身の意思と行動で町を抜け出す選択肢もあると諭して、困ったことがあったら連絡するよう教えることもできたはずだ。そう考えて、でも思いついていたとしても、自分はしなかっただろうな、と無限はふっと息を吐いた。責任から逃れたと言ってしまえばそこまでだ。
自分でも薄情と思う。期待を寄せた少年の手を振りほどいて去っておいて、事ある毎に彼のことを思い出す。そのくせ、感情は波立つわけでもなく、ただ凪いでいるのだから、「人に興味が無い」とののしった北河になにも言い返せないだろう。
それでも無限は、風息の責任を彼から奪ってしまうことをしたくはなかった。特に、風息のように今にも吹き飛ばされそうな環境の中で、必死に自分を保ってきたような少年には自分の責任という錨が必要だった。家を飛び出した、歳若い頃の無限がそうだったように。
しかし結局、今になってああだこうだと考えても、すでに終わってしまったことなのだ。間違ってしまったのだとしても、無限はそれを選んだ。嵐の夜のあと、姿を隠してしまった風息がこのさきでどう変わって、どんな選択をするかを無限は知ることはないだろう。いつか再びあの町を訪うことがあるかもしれないが、いますぐにはできないことだった。少年を嵐の中に置き去りにしてきた無限ができることといえば、掠れた花柄のポットから注がれたお茶を思い出しながら、仕事の合間に鈍海色のマグカップを傾けることだけだ。
ひゅう、とひとつ、ゆるやかに風が吹き抜けた。もうすぐ季節が変わることを知らせる、少しつめたい風邪だった。
遠くのグラウンドから、スタートの合図かピストルの音が響いてくる。大学の校内はざわめきに満ちていた。学園祭よりはひかえめなものの、初めて大学という場所に足を踏み入れた高校生のそわそわした気分があたりに漂っている。
無限の担当する学科は、ふだん講義で使っている中規模な部屋を使った模擬授業を終えたところだった。教壇に立った無限は、親や友達とやってきた高校生や中学生が、ぽかんとして講義を聴いたり真剣な顔をしてメモをとるのを微笑ましい気持ちで見届けて、教室の隅の方へ下がった。あとの時間は学科生が高校生の質問に答えたり、ふだんの授業や学校生活の様子について教えたりすることになっている。無限は親に込み入った質問をされた学生に声をかけられない限り、その光景をしずかに眺めていた。
学科生とパンフレットを開きながら説明を受け、たまにはにかむ高校生を見ていると、性懲りも無く風息のことが浮かんでくるのを止められなかった。彼も高校三年生に進級しているはずで、普通の学生ならもしかするとこの時期にもこうしてオープンキャンパスに足を運ぶことがあったかもしれない。彼のことだから模擬授業も案外まじめに受けて、学科生とも話を弾ませることだろう。そんな妄想じみたことを考えている自分が滑稽だと思った。学内のちょっと浮ついた雰囲気にのせられているんだろうか。
眉間を親指で押して自分を叱咤していると、「無限先生」と声がかかってぱっと顔をあげた。立っていたのは春に新任で講師になった諦聴という男だ。いつもすんとした無表情でいるので、はじめは無限と交互に指さされて「兄弟ですか?」と言われ続けたかわいそうな男である。二人で健気に「違います」と言い続けた甲斐あって、今は紛らわしい噂はなんとか鎮火している。
「頭痛ですか」
「いや、ちょっと目が疲れてるだけだ。交代だったかな」
「ええ」
学科の模擬授業は午前と午後の二回ずつの予定で、無限が今しがた終えたのは午前の最後の回だ。頷く諦聴は、午後の二回を担当している。専攻がすこし異なるので、高校生には興味の惹かれたほうに来てもらおうという計画だった。
諦聴に礼を言って、手の空いている学生たちにもそろそろ交代するよう声をかけてから講義室を出る。昼食は弁当屋に頼んで運んでもらったのがあるはずなので、研究室のある棟へ移動しようと人でごった返す廊下を歩いた。途中の講義室では他の学科が同じように高校生をつかまえて説明をしている。映像を流しているところもあれば、展示を見せているところもある。知り合いの講師と目が合って会釈したのち、前に戻した無限の視界に見覚えのある輪郭が飛び込んできた。
跳ねっ返る猫毛。捲ったパーカーの袖口から伸びた腕。さっさとした風みたいな足取り。
「
……………………………………
風息?」
ぽろりと唇をこぼれ落ちた名前に、無限は自分自身の鼓動がどっと鳴るのを知覚した。周りの騒めきも人混みも、すべてが遠ざかる。遠くでぼやける音はやがて、海の上で吹き抜ける風の音になる。
意識の外で足を一歩踏み出す。と、ふいに肩に衝撃がはしって、次いで「ごめんなさい!」と慌てた声が無限を現実に引き戻した。見慣れた講義棟の廊下で、よそ見をしていたらしい高校生がぶつかったことを謝っている。無限は大丈夫だと言って彼らを見送ると、さっき目を奪われたほうへ顔を向けた。
そこには流れる人通りがあるだけで、無限が思い描いた人影はなにもない。周囲に目をはしらせても、それらしい少年は見当たらなかった。
気のせいかもしれない、と無限は考えた。さっきだって、高校生の姿に彼を重ねていたから。そこらじゅうで歩き回っている学生を見間違えた可能性だってある。彼がここにいるはずがない。
それでも、無限の足はほとんど勝手に動き出していた。男はまぼろしかもしれない少年を探しに、人の海へ飛び込んで行った。
無限は学内を方々回った。同じ棟で説明会をしている部屋があれば覗き、上の階から下まですべての階を回る。併設された食堂やコンビニまで見て回ったものの、求めた姿は見つからなかった。もしかして外に出たのかもしれない、と思い講義棟から出て、手近にあったところから足を運ぶ。図書館の静かな閲覧席や別棟の講義室、体育学部がデモンストレーションを繰り返すグラウンドまで、無限は思いつく限りの場所を移動した。しかしそれでも、風息の姿はない。
薄手のジャケットに熱が籠って、少し汗ばんでいる。雲がかかって日差しは薄いが、南風でじっとりと蒸した天気だった。こうしていると、あの小さな漁師町をあてもなく歩き回ったのをむざむざと思い出す。風息に会えなかった、最後の日。次第に焦燥感が無限の鳩尾のあたりでくすぶり始めていた。
やっぱり、気のせいだったのか。オープンキャンパスの雰囲気にあてられて、気持ちが過去に近づいてしまっていたのは事実だ。それならあれは、いまだに諦め悪く彼を思い返す脳みそが見せた、傍迷惑なまぼろしの姿だったのだろう。
彼がここいにるはずかない。でも、もしかしたら。何度も胸の裡で繰り返した問答だ。もしかしたら、彼はあの町を抜け出せたのかもしれない。もしかしたら、彼は、無限に会いにきたのかもしれない。そんなばかばかしい考えが一瞬でも本気で浮かんでくるので、無限は足を止められないでいた。もし仮に本物の自分に会いにきたとして、それは恨みをぶつけるためであるかもしれないのに。
サークル棟や裏門の方まで足を伸ばした。軽く息を乱しながらあたりを見回す無限の上着のポケットで、スマートフォンがヴヴヴと震える。電話の着信だ。煩わしく思いながら耳に当てて「はい」と出ると、聞こえたのは再び諦聴の声だった。
『先生、今どこに? そろそろ撤収なので、戻って欲しいんですが』
「
……
もうそんな時間か」
人通りの少ない場所へ来ていたために気が付かなかったが、講義室を出て三時間が経っていた。いつのまにか、グラウンドから校内に響いていたピストル音もしなくなっている。終了時間だ。無限はぐっと唇を噛んだ。
『
……
取り込み中ですか?』
「いや。
…………
もう用は済んだから、今から戻る」
わかりました、と答えた諦聴が通話を切った。スマートフォンをポケットへしまい、無限は額を擦る。また間に合わなかった。あの時も今も、無限は時間に追われて、彼を見つけ出すことが出来なかったのだった。
深く、深く息を吐いて、肺がからっぽになったところで顔をあげる。仕事を片付けねばならない。人のいない通りをたどって、無限は諦聴や学生の待つ講義棟へ歩みを返した。
無限が講義室に戻った頃、あらかたの片付けは終わっていた。もともと、模擬授業がメインの説明会だったので、ホワイトボードをきれいにしたり乱れた机を整えたりするだけで済んでしまったようだ。学生たちを連れて研究室へ戻る。今日一日を労って、後日「交通費」と称したお礼を渡すことをそれとなく伝えると、それ目当てにオープンキャンパスに志願した金欠の学生から歓喜の声が上がった。
めいめいに帰り支度をする学生たちに、諦聴が自分のデスクから出てきた大袋入りの菓子を開けて配っている。チョコパイの正体見たり、というやつだった。無限のじっとりした視線には素知らぬ顔をする男は、新任にしては意外といい根性をしている。
学生たちが帰って、急ぎの仕事や提出物がないことを確認した無限たちも今日のところはさっさと帰ることにする。それぞれ小部屋を施錠して教務課に預け、校門へ向かう。外に出てみると、曇り空がとうとう泣き出して雨になっていた。地面の色がみるみるかわっていく。すぐに本降りになりそうな勢いだ。傘を差してならび、今日のことをぽつぽつ話しながら歩くとすぐに校門につく。
立ち止まって、お疲れ様でした、と会釈する諦聴に無限も頷いて返した。
「お疲れ様。悪いが、明日あさっては休みをもらうよ」
「そうしてください。ここのところ出ずっぱりだったでしょう」
直前に配布予定のパンフレットに不備が見つかったり、学生が教室の申請時間を間違えていたりして、昨日までの無限は多忙を極めた。公休日にも大学にきていろいろと作業していたぶん、しっかり休暇をもぎ取っていたのだ。別方向に帰る諦聴に背を向けて、無限も駅の方へ向かって歩き出した。
昼間は蒸し暑いと思っていたのに、降り出した雨のせいで街はひんやりと冷め始めていた。ジャケットがなければ風邪を引いたかもしれないなと考えながら、濡れた地面をぱしゃぱしゃ踏みながら無限は歩いていた。すでにあたりは暗く、道路を走る車のヘッドライトや脇にある店の明かりが煌々として目立つ。寒くなると人は光とか熱に引き寄せられるもので、無限の視線もしぜんと前方のコンビニへ吸い寄せられていた。
視界に入ったその人はコンビニの傘立ての隣に立っている。寒いのかパーカーの袖を引き伸ばして指まで隠し、緩慢に腕を摩っていた。傘を忘れてしまったのだろうか、途方に暮れた様子で雨の振り続ける空を見上げている。細いおとがいの線に細い髪がまとわりついて、少年と青年の間にある頬の輪郭がコンビニの明かりをうけてくっきり浮き上がっていた。
「
――――――――
風息」
名前を呼んで、けれどそれは傘の下で反響して、あまつさえ雨に掻き潰されたと思った。しかし予想を裏切って、その少年はざらざら降る雨の向こう側でぱっと無限のほうを向く。吊り目がちの丸っこい目が、雨越しにも瑞々しいぶどう色をしている。
「無限さん?」
澄んだ声はたしかに無限の耳へ届く。その途端、固まったみたいに立ち尽くしていた無限は弾かれたように大股で、少年のいる軒下へと近づいた。加減のない足取りに水たまりが何度かびしゃびしゃ跳ね散らかしたが、そんなことはちっとも気にならなかった。
少年の目の前まで立つと、無限の手はその肩に伸びた。無意識に掴んだ肩は、雨に濡れた布の下で冷えてしまっている。降ろした傘に軒先から雨だれが打ち付けてバラバラ鳴っていた。青白い顔をした少年は、不安ともおそれともつかない表情で無限を見上げている。
濡れた髪が色を濃くして、色の失せた頬に張り付いている。雨に降られた彼はずいぶんちっぽけに見えた。寒さにかすかに震えるその体が憐れで仕方がなくて、気づくと無限は、氷のような少年の手を握って言っていた。
「おいで、風息」
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