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森永
2022-11-18 13:30:00
11877文字
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春の嵐に紛れて泣いた③
無限×風息/くたびれ大学講師×訳アリDKの現パロつづき/ちょっぴり仲良くなって、ちょっぴり不穏
二日目
終日曇り
ふっと無限は目を覚ました。少し頭が重い。だいぶ寝入っていたが、夢見がよくなかった自覚がある。障子越しの日差しは昨日より薄く、開いてみるとやはり昨日の朝とは打って変わって曇りだった。風は依然として強いようで、上空では雲がぬるぬる流れていく。それで時折朝日が差すのだが、すぐにまた流れた雲に遮られてしまうようだった。
昨日は風息と連れ立って宿へ戻ったあと、昼食をもらってから部屋に引っ込んでずっと窓の外を眺めていた。天気予報の通り徐々に天気は曇りに変わっていったが、青く抜けるような波がゆっくり白っぽく色合いを変えていくのを見るのは案外飽きないものだった。ずっと見ていても波は絶えず形を変える。それを見ていると、頭の中の余計なことがまるで波に押しやられるように無心になれる。穏やかな時間だった。風息が好きだというのもわかるなと無限は考えながら、夕食に呼ばれるまでずっとそうしていた。
しばらく布団の上で寝そべったままぼんやり曇り空を眺めていると、しだいに胃がくうくう言って空腹を訴えだす。息を細く吐いて、無限はのそのそと布団から這い出したのだった。
おざなりに布団を整えてから部屋を出る。階段を降りると、昨日は無人だった玄関の受付に風息が退屈そうに頬杖をついていた。傍らのラジオから、ローカルチャンネルの番組が軽快に流れている。
風息は無限と目が合うとぱっと顔を上げて、朝にふさわしい爽やかな顔をして「無限さんおはよう」と声をかけてくる。まったく一限から机と仲良くしている学科生たちに見習わせたい生活態度だ。春休みに入った高校生、ないし学生全般というのは、もうちょっと朝の惰眠を謳歌するものなんじゃないか、と思ったが、きっと昨日と同じように朝からてきぱきと家の手伝いをしていたのだろう。
「おはよう、風息」
「朝ごはん持ってくるから、あっち座ってて」
どうやら今朝は風息が朝食の世話をするらしい。あっち、と昨日と同じ広間の机を指してから、祖母と同じくらいの機敏さでぱっと奥へ消えていった。風息といい祖母といい、走っているわけでもなしに風のように動くものだ。
無限が座布団に腰を下ろしてしばらくすると、窓から入る光がするする光度をあげていった。外を見ると大きな雲が流れたようで、太陽がここぞとばかりに輝いている。ちょうどタイミングよく風息が朝食ののった盆を持って戻ってきて、無限にならうように窓の外をうかがって「お、晴れたな」と言う。
「洗濯物干すように言われてるんだ。外でもいいかなー」
「風で飛ばされないか?」
外でびるびる揺れる電線を見ながら無限が言うと、風息もうーんと悩ましげに唸る。そのあいだも手はよどみなく配膳しているのだから大したものだ。
祖父母はどうしているのかと訊くと、祖父は市場に買い出しで、祖母は少し離れた海岸線の定食屋に手伝いに行っているという。そのぶん宿と家の一切が風息にまかされているようで、ちょっとめんどくさそうな顔をしているのがいかにも子供っぽくて少しおかしかった。
食事の用意が済み、無限が手を合わせて箸をとると、どこかに行くと思った風息は予想に反して向かいにすとんと腰を下ろした。忙しいというから、昨日の彼の祖母のようにさっさと行ってしまうかと思ったが、もしかしたら小休止したいのかもしれない。そう思うと「家事はいいのか」なんて声をかけるのもかわいそうで、無限は黙って味噌汁に口をつけた。
風息はまた頬杖をついてテレビを眺めている。朝日の差す明るいところで見ると、彼の瞳は石のような紫色をしていた。高校二年生だと言っていた歳に過不足なく精悍な面立ちに、まだどこか幼い輪郭が重なっている。青年への過渡期にある、彼はごくふつうの少年に見えた。
昨日のことがあったから、実を言うと無限のほうはちょっぴり照れくさいような、そんな心地で部屋から出たのだけど、風息はいたって普通にふるまっている。ように見える。
ふと、風息が視線に気づいたように無限の方をみた。不躾に凝視しすぎたかと思ったが、彼は気分を害したふうもなく、不思議そうにも笑い返してくれた。「ん?」と促すように小首を傾げるのだが、ただ見ていただけなので無限は慌てて首を振る。風息は気にせず、ひょいと自然なしぐさで湯呑み茶碗を取ると、保温ポットからお茶を注いで無限の前においた。
「ごはん、多い?」ちゃっかり自分の分もお茶を注ぎながら、風息は屈託なくそう問いかけた。「食べきれなかったら、残していいよ」
無限は食べかけの食器を見下ろした。昨日もそうだったが、確かに、箸を伸ばす先が普段の食事の七倍はある。調子を崩しているいまの無限には、食べ切るにはやや根気がいる量だ。だが今は、時間がかかっても腹がはち切れるくらい膨れても、それで困ることはない。通勤電車の時間に焦れることもないし、腹が重ければ海でも眺めてじっとしていればいい。
「大丈夫、食べるよ」
「そ。おいしい?」
なんの気なく投げかけられた問いに、無限ははたと瞬いた。考えてもいなかったが、そういえば食事を「おいしい」と思うこと自体、半年ほど憶えのないことだった。
風息を見る。少年じみた青年は、無限の答えを待つでもなく待っている。どんな答えでもいいし、答えなくてもいい。そんな気安くて、寛容な雰囲気がただよう。頬杖をついた少年の瞳はまるく、晴れ間の日差しみたいにとろんとぬくまっている。
咀嚼するようにゆっくりと、自分の頭の中で感情を噛み砕いてから、無限はうん、と肯いた。
「おいしい」
「そりゃよかった。こんな男前の胃袋つかめてばあちゃんも本望だろうさ」
例の猫みたいな顔をして風息はニッと笑う。それから朝食の皿に目を落として、「魚、好き?」と無限に尋ねた。
「ん、ああ
……
普段はあまり食べないけど、ここの魚はおいしいね」
今朝のメインは魚の塩焼きだった。なんの魚か無限には分からなかったが、たぶん青魚だ。一人暮らしの料理も得意でない男の食事に魚があがることはほとんどないので馴染みはないが、こうして久しぶりに食べるとおいしく感じる。ここが漁師町なだけもあるのかもしれない。
無限が答えると、風息はなんだかよくわからない表情で「ふーん」と答えたきり、またテレビに視線を向けてしまった。無限も食事に戻って、ゆっくりと咀嚼に集中することにする。静かな空間だった。だけどもなぜか、たとえば、風息の祖父と同じように二人きりになった時よりも居心地の良い沈黙だった。
朝食を終えてしまうと、例によってすることも特にはない。風息が注いでくれた食後のお茶を飲みながら思案していると、食器を盆にまとめていた風息がコインランドリーの存在を教えてくれた。歩いてしばらく行ったところにあるらしい。ちょっとした散歩にちょうどいい距離だ。
「一人だけだし、うちで預かって洗濯することもできるけど、気にする人もいるだろ。暇つぶしに行ってくれば?」
確かに、ホテルのクリーニングサービスと違ってほぼ民家であるここで任せるのは少し、ちょっとだけ、気まずいかもしれない。さほど量が多いわけでもないが、自分の服や下着が風息とその家族のものと一緒に干されているのを想像したら
――
無限のものだけ干されていても
――
ちょっぴり落ち着かない気分になったので、無限は素直にしたがって散歩に出ることにした。
で、無限はゴゥンゴゥンと回り続ける洗濯機を眺めてぼーっとしているわけである。部屋で洗濯物をまとめて財布だけ持って出てきたはいいものの、洗っている間に手持ち無沙汰になることを考慮していなかった。表示されている洗濯時間はあと二十分ばかり。一度外に出て、近くをぶらついてもいいのだが、曇っているせいか昨日よりも空気がむわっと湿っていて、快適とは言い難い雰囲気だったのであまり気が進まなかった。
これなら文庫本でも持ってくればよかったな、とベンチに座って頬杖をついていると、不意にうしろの扉がキィと音を立てたのでつい視線を向けてしまった。
「おや、こんな時期に人がいるとは珍しい」
もしかしてこの街で人と会うたびに言われるのだろうか。複雑な気持ちで口を曲げる無限をよそに、恰幅のよい老年の男性はよいしょ、よいしょ、と両手に持った大きな荷物に難儀しながら店内に体を収めた。どう見てもドアをくぐるのにもっとも大変だったのは腹の部分だったが、もちろん無限はなにも言わなかった。入り口のドアが細いうえ、開きが悪いのだ。無限も肩をぶつけたくちである。男性はベンチの脇に荷物を置いて額の汗を拭っている。
「こんにちは」
「
………
、こんにちは」
絵に描いたたぬきのようなおじいさんに声をかけられて、無限は一瞬の間を置いて挨拶を返した。丸い色付き眼鏡と口髭でほとんど表情は見えなかったが、動きに愛嬌があり無害そうな男性だ。男性はそのまま大きな袋から衣類やタオルを出して、無限が使っている機体のふたつ隣の洗濯機に放り込んでいく。「家の洗濯機が壊れてしまって、困ったもんだ」とごちているが、これには答えていいものか迷って曖昧な声で返した。老人は気にせず、ひとつめの袋が空になったところで扉をしめ、小銭を入れてスタートボタンを押す。そうしてからやっと一息つけたようで、ふうと息を吐きながらベンチに腰を下ろした。気遣いでか、子ども一人ぶんの空白を空けている。
「旅行の人かい?」
「ええ、まあ」
来るだろうな、と思った質問が来たので、今度は間をとることもなく答える。すると「じゃああそこの民宿に泊まってるというのはお前さんだな」と無限が厄介になっている宿の名前を挙げて言うので、ちょっとびっくりして老人の顔をつい見てしまった。なんで知っているんだろう、というのが表情に出ていたのか、彼はふっふっとふくよかに笑って教えてくれた。
「ちょっとした噂になっていてな。なんせこの時期に旅行者なんてめったにないものだから、みんな珍しがってるんだ」
「やっぱり
…………
」
「はっは、田舎は話が伝わるのが早いもんだ」
思わず脱力して肩を落とした。
「私なんかは噂に疎い方なんだが、あの宿の孫が生徒でね。それで気になっていたんだ」
「風息のことですか?」
「おお、もう知り合いだったか。いや、そうか、休みに入ったものな」
彼はどうやら風息が宿の手伝いをしていることを知っているらしく、うんうんと感心するように頷いている。老人はミンと名乗り、風息の通う地元の高校で教師をしているのだと言った。老体に鞭打つ再任用だよ、と冗談めかして言う空気に力が抜けて、無限も簡単に自己紹介をした。仕事は、と尋ねられて、ちょっと気が引けたが大学の講師をしていると答えると、ミンは細かいことは聞かずにそうかそうかと顔を綻ばせた。同業のよしみを感じ取ってもらえたらしい。
「あそこはこの町でも長く続いている宿でね、民宿といえど一昔前はシーズンになると釣りや海水浴目当ての客で賑わっていたものだ」
「そうなんですか」
「ああ。今は時期はずれというのもあるが、訪れる人もめっきり減ったがね。海以外なにもない町だから」
ミンはからりと笑っているものの、無限は同じように笑い飛ばしていいものか迷って曖昧な笑みを浮かべることでやり過ごした。それから話題は自然と風息の話になる。ミンが管理を担当している図書室に来ては先生せんせいと話しかけてくることだとか、学校の敷地を寝床にしているトラ猫に名前をつけて友達と世話をしていることだとか、ミンは風息のふだんの姿を話して聞かせてくれた。聞くに、風息はミンに懐いているらしく、ミンもそんな風息を他の生徒と同様に可愛がっているようだ。どれも年相応の少年らしい話ばかりで、無限も微笑ましく思いながら耳を傾けた。
「どうだ、風息はよく働いているかな」
「ええ、宿のことを任されているようでした。学生だっていうのに、大したものだ」
「本当になあ。あの歳ならもっと遊びたい盛りだろうに、ああして手伝いをきちんとするから、旦那さんも奥さんも風息が可愛いんだろうな。
…………
そうだ、二人とも、今度の成績には驚いていただろう。いや、前期は風息もがんばった」
「え?」
ふと、ミンがひとりごとめいた様子でつぶやいた言葉に、無限はつい反応してしまった。成績、という言葉で、思い出すのはただひとつだ。ミンはまるで我が子のことのようにどこか誇らしげにしながら、「教師としてあまり他言してはいけないのだが」と前置いて、続けた。
「実は、風息の成績がな、学年でも数少ないオール5だったんだ。いつも2や3ばかりで小言をくらったとぶうたれていたから、今度ばかりは褒められでもしたんじゃないか」
「
………………
」
「ん? 無限さん?」
無限はきゅうと口を噤んだ。驚きと困惑で、脇に置いて鎮めた感情が漣立っていた。オール5。思い出すのは拾った紙片だ。少し滲んだ「現代国語」と「5」の印字。波にさらわれてしまったほかの紙切れにも、「5」がならんでいたのだ。なかなか取れるものではない。ミンの言う通り、努力しなければ実らないものだ。それをどうして、なぜ、風息は。波間を漂う千々の紙片が無限の脳裏で蘇った。
しばらく、二台の洗濯機が立てるごうごうという音が虚しく響いた。それはまるで遠くで吹く嵐の音で、いずれこちらに近づいてくると脅し立てる唸り声だった。無限の表情から、自分の想像が裏切られたのを悟ったのだろう。ミン老人は朗らかさを引っ込めていた。
「どうやら、違うようだな。無限さん、何か知っとるのか?」
「
……
風息は、成績表をなくしたと
……
」
「
……
なんと。じゃあ、二人とも知らんのか」
「おそらくは」
嘘ではない。ただの旅行者の無限が知っているのは、風息と、その祖父母との会話、それだけだ。あの少年が成績表を破いて海に捨ててしまったことまで話してしまったら、この顔を曇らせた教師の、そして風息本人の尊厳とかそう言ったものを傷つけてしまうと思った。
ミンは無限の言葉に寸の間固まると、次の瞬間には深いふかい溜め息をつく。そして丸々とした指でこめかみのあたりを掻いて、「そうか」とだけ言った。
「本当になくしただけならいいんだがな」
ぽつ、と呟き、それから努めてそうしているように、穏やかな声をして無限さん、と語りかけてくる。
「あの子のことを、どう思うかね?」
「
……
まじめな少年だと思います。それに、優しい子だ」
くたびれた顔をした無限を気遣ったこと、海がいっとう綺麗に見える景色を、自分の秘密基地を開け渡してくれたことを話すと、ミンは口髭のしたで少し微笑んだようだった。うんと頷いて、彼は続ける。
「そう。風息というやつは優しくて面倒見がいいし、素直で気のいい少年なんだ。そして家族想いでもある。
……
たまに、心配になるほどにな」
家族、の言葉に無限は、食卓をかこむ風息と祖父母を思い出す。気配のない父親と母親、高校生のわりにやけに手際のいい家仕事、雑に切り上げられた進学の話。無限の中にひっそりと生まれていた違和感がむくむくと芽を出すような気配がしていた。洗濯機のゴウゴウという音が、寂れた小さなコインランドリーの室内に反響している。その音の陰に隠れるみたいにして、ミンは告解でもするかのように口を開いた。
「ふだんは何も気にしていないように振る舞っているが
……
母親があの子に残したものの影響は大きい」
「母親?」
「風息の母親はな、ほんの若い頃に突然ここを飛び出した。それが何年かして、生まれたばかりの風息を連れて戻ってきたのだ。父親の姿はなく、またどうなったのかも言わなかった。程なくして肺を病んで、息子の入学式も見ずに亡くなってしまった」
「
…………
それが、風息の成績とどう関係するんです」
「風息の祖父母にとっては、一人娘が出奔したのはそれはまあショックなことだったみたいでな。私はその頃からこの町に住んでいるが、旦那さんなんか酷く落ち込んでいたものさ。それでやっと戻ったと思ったらすぐああなってしまったとあっては
……
」
それ以来、唯一残った孫の風息を他所へ出すことを、はっきり口には出さないものの厭っているらしい。娘に関しては複雑な思いもあろうが、なんだかんだと言っても孫である風息は可愛がっている、というのがミンの言い分だった。もともとこの町で長く生業を持っているために、端から外へ出ることに意欲的でもないのだろう。
「風息から直接聞いたわけじゃないが、どうやら二人とも、風息が跡を継ぐものだと思っている節があるらしい。風息は聡い子だから、それをよくよく感じ取っているんだろう。あの子自身も祖父母に懐いているから、悲しませたくなくて外に出ることを敬遠しているのかもしれないな。決して、学ぶ意欲がない子ではないのに
……
」
「そうですか
…………
」
ミンの話を聞いて、やっとひとつ、すとんと腑に落ちる。「意味がないから」と風息が言っていたのは、こういう背景があったからなのだろう。大事に思うもののために自分のことを後回しにしてしまうのは、彼ならありえると知り合ったばかりの無限でもわかった。だって彼は、見ず知らずの無限にだって自分の秘密基地を開け渡してくれるような、情け深い性格をしている。
しかし同時に、初めて会ったあの夜の口調を思い返すと、風息がさっぱりと自分の行く末を諦めているわけではなさそうだ、とも思う。そうでなければ、あんな風になにかを振り払うような物言いはしないだろう。きっとまだ、無限の知りえない風息の内側があるのだ。
「しかし、未来ある若者がこんな町で燻るのも、教育に携わる身としては歯がゆいものがあるな。ここは風息にとって、真に居心地のいい居場所とも言えないだろうに
……
」
「
……
? どうしてですか」
重い溜息を吐きながらミンが言う。無限は思わず聞き返した。さっきまでの話では、難しい事情はあっても祖父母を慕っているということだったが、まだなにかあるのだろうか。
ミンは少しためらいつつ、少し無限のほうへ乗り出すようにして語り出した。
「この街は穏やかでいい所だが、みんな少しばかり見える範囲が狭すぎる。自分と隣人の境界線があいまいなんだ。それでもって、少しでも自分の常識から外れたものをなかなか受け入れられない。
……
つまりな、この街の人々にとっては風息とその母親は、目の上の瘤なのさ」
母親の不徳の証である子ども。この町の子であると同時に、得体の知れない生まれの子。それがこの街の人間から見た風息という少年なのだという。
「あの子がここで暮らしていく以上、ずっと母親の噂が付きまとう。いつかは消えるかもしれないが、それがいつになるかはわからない。町を出ようにも、そうすればあの母の子だと、町の人は後ろ指差すだろう」
「
…………
それは、」
それは、あまりにも身勝手すぎる。そう言おうとして、すんでのところで口を噤んだ無限を見て、ミンは自嘲するみたいに小さく笑う。馬鹿馬鹿しいだろう、と力なく言う姿は、ひどくくたびれて見える。
「親の素行はその子どもにはなんら関係ない。風息はただ生まれて、何もわからないまま連れられてきた直後に母親を亡くしているんだ。静かに見守ってやればいい
……
だのに、母親が家出同然の出奔をしただとか、父親の素性が知れないだとか、町の人間はそんなことにばかり気を取られる」
無限は「生意気なこと言いました、ごめんなさい」と言った風息の冷え切った表情を思い出す。怒りとか悲しみとか、自分のものである感情を押しつぶした姿。ミンの話を信じるのなら、あの快活な少年の根っこには逃れられない母親の業というものがあって、それが彼を苛んでいるということになる。
「風息の祖父母は、なにも言わないのですか。その、」
「
……
気にするなとも、二人からは言えないだろうな。かといって、せっかく手元に残った孫ひとりを、どこかへやってしまうこともできないだろう
……
」
祖父母の期待と、彼らへの思慕と、町の人々が囁く噂話と。風息はずっと、そんな嵐のようなさなかで生きてきたのか。そうして、これからもそれを続けていかなければならないのか。出会ったばかりのひとりの少年が、そんな生き方をしているのだと、思いがけないところで知ってしまった無限は愕然とする。
俺はそうじゃない、と言った風息の作った笑みは、秘密基地で海をながめる時間は、そんなどうしようもない場所で風息がなんとか藻搔くための息継ぎだったのかもしれない。
ピーーー、洗濯機が悲鳴みたいな音を出して終了を告げる。無限の使っていた機体だ。ミンと無限、二人してしばらく黙り込んでいたが、それを合図にして、ミンは話を終わりにしようとしているようだった。
「よそから来たお前さんに、色々煩わしいことを聞かせてしまったな。歳をとるとすぐ誰かにあれこれ話したくなってしまって困る」
「いえ、
…………
」
「老人のつまらない話に付き合ってくれてありがとう。今話したことは、どうか忘ておくれ。そのほうがいいだろう。お前さんにとっても、
…………
風息にとっても」
ミンはそう言ったが、つと床へ視線を落とすと一瞬、何か思案したようだった。どう返したものか、言葉を選んで口を閉ざした無限を見ると、老人は口髭をふるふるさせながらゆったりと押し殺した声音で語り出した。ちょこんとしたサングラスの奥で、つぶらな瞳がじっと自分を見ていることを無限は意識する。
「なあ、無限さん。もしお前さんが、風息を気にかけてくれるというなら。
……
そうだな、外の、大学の話でもしてやってくれ。あの子には、こことは別の世界を知ることが必要だ」
そうしてどうするかは、あの子次第だが。そう言ったミン何かを返そうとしたとき、コインランドリーの扉がまた音を立てた。今度はやや威勢よく、ギィ! という感じだった。驚いて振り向くと、買い物袋を片手に持った風息がドアの取手を持って立っている。話題の張本人の登場だった。
「無限さん、洗濯終わっ
……
あっ、ミン先生!」
「!」
「おお、風息じゃないか」
びっくりして目を丸くする無限をよそに、ミンは落ち着きはらって風息に声をかけている。年の功だろうか。今の話を聞かれていたらかなりまずいのでは、と思ったが、風息はいたって無邪気な様子でミン先生こんにちは、と挨拶している。その声は弾んでいて、表情も気安く緩んでいる。ミンによっぽど懐いているらしい。話は聞いてないと見えて、無限はひとまずほっと内心胸を撫で下ろした。
「先生、なんでコインランドリーにいるんですか?」
「家の洗濯機がとうとうお釈迦になってなあ。めんどくさがって溜めていたらこのざまだよ」
「えっ
……
それぜんぶ洗濯物? 流石に溜めすぎじゃ
……
」
「ほっほっほ。話に付き合ってもらう間に、無限さんのぶんは終わったようだな。私はこれから二週目といくわい」
ふくよかな腹を震わせて笑うミンに、風息はケラケラ笑っている。風息こそなぜここに、とミンが尋ねると、買い出しのついでに無限を迎えに来たのだという。それを聞いて、無限はそそくさと乾燥まで終わった洗濯物を袋に押し込んだ。皺になるとかそんなことは気にしていられなかった。無限が支度を終えて入り口に立つと、風息はミンに向かってぺこっと頭を下げる。
「さよなら、ミン先生」
「さようなら、風息。無限さんも、縁があればまたな」
鷹揚に片手をあげて手を振るミンに会釈を返して、無限はコインランドリーを後にした。
宿へ向かって歩き出してからも、風息はミンに会えたのがうれしかったのか、ニコニコしながら話している。
「ミン先生、優しいだろ? おもしろいし。なに話してたんだ?」
「それは、
………………
」
きみの学校での様子について、と咄嗟に言ってしまえばよかったのに、無限はいまだに知ってしまった事実に言葉を奪われていた。
黙りこんだ無限を不思議そうに見つめて、風息が口を開きかけたとき、離れたところから「風息ー!」と威勢のいい声が飛んできたので、今度はなんだと二人揃って視線を向けた。前の方から、自転車に乗った少年が手を振りながら近づいてくる。当の風息は「洛竹」と少年に手を振り返して、無限に「ちょっと待ってて」と言い置くとタッタッと少年の方へ駆けて行った。知り合いらしい。今日は風息の知り合いによく会う。
無限の視線の先で、ギュギュギュと錆びかけた音を立てて自転車が止まると、乗っていた少年は「よっ!」と快活に手をあげて、風息に声をかけた。にっかりと笑う顔は眩しいほどに明るい。ここからでは何を話しているかまでは分からなかったが、二人はそのままぽんぽんと軽快なやりとりを交わしているようだった。
しばらくかかりそうかとぼんやり考えて、見るともなしに海を眺める無限の後ろを、世間話をしながら主婦らしき女性たちが話しながらゆったりと通り過ぎていく。のどかな風景だった。波の音の合間に、主婦たちのとめどないおしゃべりが混ざって遠ざかっていく。無限はすれ違った女性たちの後ろ姿をしばらく眺めていたが、ワっと少年たちの笑い声に意識を掬いあげられて、そちらに視線を動かした。
洛竹と呼ばれた少年は風息と同じくらいに見える少年で、仲がいいのか二人は時折小突きあいながら笑顔を見せている。眉を上げたり下げたり忙しなく動かす洛竹は表情豊かで、小動物を思わせる愛嬌がある。風息のほうも、彼の言葉に声をあげて笑う様子で、無限と話している時よりもずっと子供らしく、微笑ましいと思った。こうしてみると、改めて彼もごく普通の高校生なのだと実感する。
と、不意に洛竹が離れたところに立つ無限を見てなにかを言っている。風息の返答を聞いて眉を上げる表情を見るに、きっと昨日から再三言われている「こんな時期によくきたな」だろうか。無限はこっそり苦笑した。
それから二、三言話して、洛竹は来た時と同じように手を振りながら颯爽と自転車を漕いで去っていった。すれ違う時、無限に向かって会釈したようなので、無限のほうも軽く返して見送る。横に戻ってきた風息に「友達?」と尋ねるとそうだと言うふうに頷く。
「一個下なんだけど、幼馴染みたいなもん」
「そうか」
「待たせてごめん。行こう」
「
…………
」
「
……
? 無限さん?」
じっと自分を見つめる無限を、風息は不思議そうに見上げて首を傾げた。きょとりと丸くなる瞳を眺めてから、ひとつかぶりを振ってなんでもない、と答えて少年の背を追った。すこし、険しい顔になっていたかもしれない。
ついさっき、すれ違った主婦たちの囁き合いが思考を追いかけてくる。
『ますます母親に似てくるわねえ
……
愛想良くしてるようだけど、そういうところもそっくり』
『中身まで似なきゃいいけどさ。おじいさんたちも可哀想にね
……
一人娘が飛び出していって好き勝手した挙句、お荷物おいて死んじゃうんだもの』
『考えなしに都会に行きたいだなんて、今に言い出しそうなことじゃない? 今だっていつもほっつき歩いてるんだから
……
』
『ちゃんとしてなきゃろくなことにならないって、母親のあれで分からないもんかねえ』
抑えた声音に顰めた眉はうっすらとした悪意を隠そうともしない、性の悪さを滲ませた態度だった。人間性の饐えた、とでも言えばいいのか。いっそ風息本人に聞かれても構わないのだと、そういう傲慢さを含んだ振る舞いを思い出して、そして目の前の風息を思った。
ミンの話を聞いた直後にこれだから、赤の他人で、人の感情に疎い無限でさえ嫌が応にもわかってしまった。やっぱり風息はきっと、誰よりも自分のあいまいな立場を理解しながら暮らしている。それはきっと、ごく普通の少年がするように暮らしていては簡単に崩れてしまうものだ。波間にぽーんと投げだされた小舟みたいなものだろう。今にも沈みそうなそれを、安全な陸地ではらはらと眺めている不愉快な心地が無限を襲った。
しかし、それでもやはり無限はいっときの旅行者で、風息はけっきょく他人で、どうするべきでもないのだ。もそもそんな権利もない。風息に言ったように、他人の領域に、無責任に踏み込むことのリスクを無限は身をもってよく知っていた。そしてそれが、自分が休暇を取ることになった理由の根底にあることも。
ミンに言われた、「風息に外の話を」という言葉が頭をよぎる。そうしたい気持ちと、そうすべきではないという気持ちが拮抗している。もし、ミンに風息の身の上を聞かなければ、そうしたい、という感情は生まれてこなかっただろう。しかし、無限の中にあるとある記憶がそれを押し留めていた。やはり、手を出すべきでは決してない。彼が心を開いてくれているとしても、少なくとも、無限の方からは。
ぽつぽつとたわいもない話をしながら、無限と風息は肩を並べて宿へ帰る。相変わらず空は薄曇っていた。昨日までは確かにあたたかだったはずの空気はどこへ行ったか、ずいぶんと肌寒くなった。風も時折つよく吹いている。
また、嵐の気配がしていた。
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