森永
2021-08-25 22:44:42
5847文字
Public
 

桃を齧る

カプなし/現パロ/「少年と夏」のつづき/教師の無限とDK3の風息が義兄弟という設定


「夏祭り?」
電話越しの弾んだ声におうむ返ししながら、風息は閉めていた網戸を引いた。
クーラーをつけるほどでもないと網戸にしていたのだが、思ったよりも風がない夜で、部屋の中は結局ちっとも涼しくない。リモコンをかたわらに置いて、つけるかつけまいか無為に悩みながらごろごろしていたところに洛竹から電話がかかってきたので、それをきっかけにベランダに出ようとしたのだった。とっぷり暗い外の空気を吸うと、とくに涼しくもないが空気の篭ったような室内にいるよりいくらかましだった。
洛竹が電話の向こうで、そうそう! と楽しげな声をあげる。その後ろの方でテレビのものらしき音声と、女性の歓声が重なって聴こえる。きっと、そこでしか冷房を許されていないためにリビングで電話しているのだろう。声は洛竹の姉たちだ。案の定、姉ちゃんうるさい! と洛竹の文句にあんたの方がうるさい、嫌なら自分の部屋行きな! とより多い圧で返されている。洛竹はぶつぶつ不満を漏らしたが、涼しさは捨てがたいらしく、そのまま気を取り直して風息との通話に戻ってくる。
『今年もいくだろ? ヨーヨー釣り対決しようぜ』
「まだ小学生みたいなこと言ってるのか。何年目だよ」
『なんだよ! 俺と風息は永遠のライバルじゃん!』
「ヨーヨー釣りの?」
『ヨーヨー釣りの』
「くだんな」
『おい!』
風息は、ふっふっと低く笑った。地元のこぢんまりとした夏祭りで、大の高校生が猛然と水風船を釣っては騒ぎ、結果として両手にヨーヨーを鈴鳴りにさせている絵面が浮かんで、それがどうしようもなくおかしかった。何笑ってんだよ、男の勝負だろー、と屈託なく絡んでくる洛竹を、じゃれつく延長上の適当な言葉であしらった。
「しかし夏祭りかあ、行けるかな」
『なんで? あ、バイト?』
「うんそう、シフトがーーーー」
ベランダの手すりにもたれながら予定を思い出そうとした時、突然横からガラッ! と勢いよく立て付けのわるい窓の開く音がして、風息はきゅっと口を噤んだ。隣は義兄の部屋であり、その部屋のベランダに出てくるのなんて、義兄しかいない。
思った通り、明かりもつけていないのか、薄暗い部屋の中からぬっと身を乗り出してきたのは無限そのひとだった。さっきまで階下のリビングでテレビを見ていたはずなのに、いつの間にか上がってきていたらしい。音は電話をしていたから聞こえなかったとして、部屋の電気くらいつけろよと思った。心臓に悪い。
風息の部屋から漏れる明かりを頼りに横目で様子を伺うと、風息を一瞥してから目を逸らした義兄の手には電子タバコが収まっている。風息のほうも視線を前に戻したが、その視界の端で無限はそのまま口をつけ、ゆっくりと吸ったあとにせものの煙をひゅるりと吹き出した。
部屋に戻ってノータイムでタバコかよ、と風息は呆れたが、いつも通りこちらに興味のない様子に、話していたことを聞かれていなかったようだと内心で胸を撫で下ろした。
バイトをしていることは、洛竹や虚淮といった、ごく限られた知り合い以外には黙っている。義兄はおろか、親にさえ言っていない。日付を超える深夜までかかる夜勤には入らないようにしているが、どうしても遅くなりそうなときには友達と遊んでいるとだけ伝えている。気のいい洛竹や虚淮が口裏を合わせてくれるおかげで、両親は風息のことをやや夜遊びに走る傾向のある、けれど今のところきちんと家には帰ってくる息子としてさほど叱らずにいるのだった。
言わないでいるのに、大した理由はない。ただ、なんとなく。そんなことしてて勉強はとか、学生の本分がどうとか、そういう風に構われたくない、という、反抗期の類のものだ。そもそもバイトをしている理由だって、明確なものはない。家にいる時間がなるべく少なくなって、無駄のないことならなんでもよかった。なんとなくを理由に、風息はいつか家を出る時に使えるかもと思って、バイトをしている。

ふと、すぐ近くで煙をくゆらせる義兄は珍しいな、と思った。
真面目で潔癖そうな無限は、意外にも大学に入ってしばらくすると、友人に影響されて煙草を吸い出した。と言っても特に愛煙家というわけではなく、数少ない友人との付き合いくらいでしか吸わないようだったし、家では吸わないようにしているようだった。
まず煙を吐くところなんて見たことがなければ、匂いを纏わせていることもない。親から言いつけられた用事で彼の部屋に入った時、机の上に無造作に紙箱とライターがあって初めて、風息は義兄が喫煙することを知ったくらいだ。それでも電子タバコに切り替えてまで吸っているということは、知らないところでそれなりに嗜んでいるものなのだろうか。風息が知らないだけで、父や母は喫煙する無限に馴染みがあるのかもしれない。
急にふっつりと黙り込んだ風息を訝しんで、洛竹が「風息?」と電話の向こうから呼んだ。それにハッと我に返って、仲良くもない義兄に思考が傾いていたことに風息は内心で舌を打った。さっきまでゆるりと自然体で洛竹と話していたのに、義兄の登場でにわかに居心地が悪くなってくる。部屋に戻ろうかとも思ったけれど、あからさまに避けていますとわかる態度を取るのも子供っぽくて馬鹿らしい。風息は体勢をほんのすこし、無限と反対の方にそむけて、「ごめん」と洛竹に返した。
『どうかした?』
「や、だいじょうぶ」
『そお? それよりバイト、なんでよりにもよって祭りの日なんだよ〜』
「祭りの日だからだろ」
苦笑して肩を竦めた。バイト先のガソリンスタンドのバイトは近隣の高校生か大学生ばかりで、イベントがあるとみんな競うように休みを入れるので、風息のようにのんべんだらりとしていると完全に出遅れる。
そういうもんかあ、とバイト経験の少ない洛竹はいちど引き下がるそぶりを見せたが、次の瞬間には食い下がってくる。駄々っ子か。
『どうにか交代できたりしない?』
……しない」
『そんなぁ〜……ヨーヨー釣り対決が……
「結局それかよ」
男同士の真剣勝負とやらに未練たらたらの洛竹に笑ってから、悪い、と一言、謝っておいた。理由はなんであれ、こんなにも熱心に誘ってくれているのに断ることに対する罪悪感が確かにあった。最近は特に、バイトやら何やらで前よりも付き合いの悪い自覚もある。
……いーよ。その代わり、バイトで稼いだ金でなんか奢って!』
「いやなんでだよ。やだよ」
『けち。じゃあ奢らなくていいから別の日に遊びに行こ』
「うん、予定わかったら教える」
『よろしく。そんじゃね』
「おやすみ」
『おやすみ!』
通話を切る。
快活な洛竹の声がなくなると、シンと耳が痛いくらいに静かだ。頑なに見ないようにしていた隣のベランダでは、無限の一服がまだ終わっていないようだった。
なんにも言わないということは、バイトについても本当にバレていないということだろう。……そもそも、風息がバイトをしていたところで、学校で教師としてならいざ知らず、家で関係の薄い義兄としては、興味もなにもないのだろうけれど。

髪にかくれた義兄の横顔に、おやすみと声をかけるか否かで、風息はちょっぴり迷った。友達の洛竹にいうのはなんでもないのに、仮にも家族の無限にはなぜだか途端に口が重くなる。
迷ったまま踵を返そうとしたところに、「風息」と義兄の声が呼びとめた。ぎく、と固まる。なに、と返しながら、咄嗟に顔を向けることができなかった。
「電話は終わった?」
……見ての通りだけど」
「じゃあ、もう寝るか?」
「いや、まだ……
なんなんだ、と風息は困惑半分、苛立ち半分で眉をひそめる。いかにも反抗期の子供っぽく顰めっ面をみせるのがいやだったが、用があるのかないのか煮え切らない無限の態度が気に食わないのでしょうがなかった。
……なんか用?」
「桃」
「は?」
「桃食べないか」
呆気に取られて思わず顔を上げた。なんだかずいぶん久しぶりにきちんと見たような気もする義兄の顔は、相変わらずむかつくほど整っていたが、相変わらず表情が死んでいる。聞こえたセリフと表情が合っていなさすぎて、風息は自分が聞き間違えたのだと本気で思った。
なので、聞こえなかったていでもう一度、うながすように無限の目を見つめる。視線をうけて義兄は口を開いた。
……好きだったよな? 桃」
「え、あ、うん」
聞き間違いじゃなかった。それはそうとして、やはり脈絡がない。どうしていきなり桃なのだろう。たしかに、果物の中では桃がいちばん好きだ。それは事実だったので、困惑しながらもなんとかうなずくと、義兄はそうか、じゃあ食べよう、と言って部屋の中へ引っ込んだ。風息がなにか言う間もなく、兄はすぐにまた姿を現して、そしてその手に白い皿を引っ提げて戻ってきた。それをぼーっと眺める風息に向かって、ずいと差し出してくる。
「ほら」
………
ほら、と言われても。
こうもすぐに取り出してきたということは、もしや部屋の中に置いていたのだろうか? 見下ろした皿は、暗がりの中でうっすらと汗をかいていた。桃は薄めの切り方もあってかてろりと力なさげだが、それがこんもりと折り重なっている。好物とはいえこの量をひとりで食べろというのか。しかしふと見ると、皿にはフォークが二本突っ込まれていて、桃を食べてもいないのに、風息はなんだか喉の奥がむず痒くなった。たしかに「じゃあ『食べよう』」なんて言い方をしていたけれど、まさか本当に、一緒に食べるつもりでキッチンから持ってきたのか。どういう風の吹き回しだろう。
……いや、このままって。置くとこないし」
困惑する風息は、さあ食えと言わんばかりに、言葉より雄弁に差し出されるフォークを素直にとることができず、自分でもかわいげのない言葉が口から零れた。
気を害したふうもなく、きょとんとした無限はそうか、と今初めて気づいたように目を瞬かせると、「ちょっと持ってろ」と器をベランダの柵越しに風息に押し付ける。そして止める間もなくまたもや暗い部屋に引っ込んでしまった。
ひんやりとした皿を思わずで受け取った風息は、え、ちょっと、と困惑しきってしまう。またすぐひょっこり戻ってきた義兄の手には、ハードカバーの本が一冊掴まれていた。それを数センチの間隔をあけた柵のあいだにポンと置いて橋渡しすると、無限はこれでいいだろうと言わんばかりの顔をして風息をみた。
「ん」
……
なんだかばかばかしくなってしまって、風息の強ばっていた肩から力が抜ける。大人しく、手の皿を盆代わりにされた本の上に置いた。風息がフォークを取ったのを見てから、無限ももう一本のフォークを手に取る。まばらにいただきます、と声をかけて、やわらかい果肉を刺して掬った。
「この桃どうしたの」
「買ってきた。帰りがけに、直売所で安くて」
「ああ……郵便局の」
「そう」
ベランダで、しかも立ったままで、たいして仲良くもない義兄が買ってきた桃を食べる。なんのお礼でもご褒美でも、特に理由もなく。
へんな夜だな、と風息は思う。
家族になってからいままで、無限がこんな突拍子もなく距離をつめるようなことをしたのははじめてだ。義兄はいつも、他人にあまり関心がなく、義弟となった風息に対してもそれは変わりないようだった。
まるで野良猫が脇を通ったのを何気なく見るような茫洋としたまなざしで風息を眺め、会話といえば当たり障りのないみじかなやり取りしか、きょうだいとしてしたことがない。学校で、教師と生徒として話した時間の方がながくて多いのではないかとさえ思う。
それが自然だったし、そんなものだろうと納得していた風息にとっては、この状況は不可解でしかなかった。しかし、いつも居心地のわるい義兄の隣が、今だけは息苦しくもなんともないのが不思議だ。夜風にただよう、清かな桃の香りのせいかもしれない。
桃はやっぱりすこし薄く切りすぎだったが、舌にあまく、みずみずしかった。しかし、義母はこういう切り方をしたのだったか。すこし引っかかりを覚えたけれど、考えてもしょうのないことなので、風息はそれを果汁とともに飲み下した。
会話もなく、二人は黙々と桃を食べ進めた。皿の底が顔を見せ、だんだんと舌の根がしびしびしてきたころ、口を開いたのは意外なことに(今日に限ってはそんなこともないのかもしれない)、無限だった。
「風息」
……なに?」
「今年の誕生日、なにがほしい」
「えっ?」
今夜はとことん、意表をつかれるらしい。落としていた視線をぱっとあげると、一拍おくれて義兄も風息に視線を合わせた。
「なにか欲しいものがあったら、教えてくれ」
「えっと……いつも通りでいいけど、なんで?」
部活にも入らず、これといった趣味のない風息の誕生日には、ちょっと奮発した額の図書カードが贈られる。それは父からで、無限が就職してからは義兄との連名で渡されるのがここ数年のお決まりだ。
……毎年図書カードじゃ、味気ないだろう」
「そんなことないけど
「図書カードも役に立つだろうけど、お前ももう18だろう。もうすこし形にのこるものを贈りたい」
まるで、無限自身が風息をきちんと祝いたい――と言っているように聞こえて、風息は唇をもぞつかせた。うっすら甘い。舌の根にのこる渋みとあいまって、まとまりきらない感情とおなじ落ち着きのなさを風息にもたらした。
フォークを片手にまごつく風息をしばらく眺めた無限は、相変わらず読めない表情で「ちょっと急だったか」と言った。
………まあ、今すぐ決めろっていうことでもない。誕生日、まだ先だものな」
もし欲しいものがなかったらまた図書カードでもいいし、と言い足して皿に目を落とした義兄は、さいごにのこった二切れの片方をフォークの先でつつく。
…………思いついたら、言う」
風息が絞り出すようにそうつぶやくと、無限は下がっていた視線をあげて義弟の顔を見、そしてふっと眦をゆるませて、ちいさく笑った。
「待ってる」
あ、と風息は声もなく驚いた。
めずらしく笑う無限が、兄の顔をしている。はじめて、目の前の男が自分の兄なのだと、風息はもう何年も前から当たり前のことを思った。思って、無性にはにかんで仕方がなくなって、薄切りの桃の最後の一切れを、粗雑な手つきで頬張った。