さもゆ
2024-12-10 03:18:55
45284文字
Public 吸死
 

【ドラロナ】世界でいちばん厄介なおじさん

モブおじさんに迫られる若造と、一番厄介な同居吸血鬼おじさんの話。
※ドラロナできてない
※名前のないモブがわりと出るし若造を襲う
※兄貴ーッッ!

2024.5.10 たべものpixiv投稿作品

 チョコレートクッキーの箱に伸ばした手を、横から伸びてきた手にぎゅっと握られた。
 えっ。
 と思って隣を見ると、先ほどまでつまみ系の菓子を見ていた細身のサラリーマンが、いつの間にかすぐ隣に立っている。そしてぎゅっと俺の手を握っているのはそのリーマンの手だった。ええっ、とまた思ってぽかんと口を開けている間に、男の口が明確に動いて言った。「好きです。付き合ってください」
「えっ」
 と今度は思うだけでなく、きちんと声に出していた。
「ヌェッ」
 と俺の肩に乗ってお菓子を選んでいたマジロも概ね同じ反応を示した。
 すきです、つきあってください。
 言われた言葉の意味を理解する前に、握られた手をぐいと引き寄せられ、たたらを踏む。引っ張られたせいでジョンがバランスを崩してしまったのか、それとも自分から下りたのか、床にヌーッと転がっていくのを見て俺はちょっと眉を下げた。ジョン、と呼ぼうとした声はしかし、また「えっ」と何の意味もない一音に変わってしまう。男がお菓子に伸ばしていた手だけじゃなく、俺のもう片方の手も取って祈るように握りしめ、ジョンの方に向きかけていた意識を「好きです」と体ごと引き戻してきたからだ。
「あなたのことが。好きなんです」
「え、ええっと」
 そろり。自分の視線を慎重に相手に戻した。視線の移動速度にまさか音が鳴るわけがないのに、何だかいま、自分の一挙手一投足に音が鳴りそうなほど、周りが静かに感じた。「ええと、あのー、誰かとお間違い、では?」声も自然と小さくなる。
「間違えてなんかない」
 男の湿った体温の高い指が、俺の乾いてお世辞にも細くはない指にしっとりと絡んでくる。とうとう、ひえっと言った。悲鳴になりそこなった何かだった。
「あなたが好きなんだ。付き合ってほしい」
 ついでに思い切り顔を顰めてしまった。相手の顔が、近い。鼻先が擦れそうなほど距離を詰めて、俺をじっと見つめて好きなんだと言ってくる。知らない男が。知らない男だ。見たこともない。もしかしたら忘れているだけかもしれないが、少なくとも、今日だけで考えると、スーパーのお菓子売り場で擦れ違っただけのシンヨコ一般市民だ。
 そう、一般市民だ。
 人間だ。
 耳は尖っていないし、肌も血色がいいし、牙も突き出ていない。ただこちらを見つめてくる目だけが、どこかぼうっとして夢見がちではある。一般的な、これこそが恋する瞳、というやつなのかもしれない。
 恋って。誰が誰に。
「あのー、そのう、エーット……
「だめかな」
「な、なにが」
「付き合えない?」
「エッ?」
 顔がどんどんどんどん迫ってくる。どんどんどんどん顔を引く。そのうち膝が折れて、床に尻もちをついた。鼻が、鼻で潰された。黒々とした目は、至近距離が過ぎて最早ぼやけていた。いや、自分がちょっと涙目だったせいもある。
「付き合えませんか? 僕たち。あなたのことが好きなんです」
 唇に男の生暖かい吐息がぶつかって、ようやく、俺は息を吸い込んだ。そのまま何かしら叫ぼうとしたが、しかし不発に終わった。「店員さんこっちです!」と聞き慣れた声が近くで代わりに大声を上げてくれたからだ。その声が続けて言う。「お菓子売り場で成人男性二人が取っ組み合って喧嘩してるんです! 何て大人げのないゴリラ共なのかしら、バナナ売り場か動物園にでも連れて行った方が──」バッ、と男が弾かれたように立ちあがる。そのままバタバタと去っていった。
 対して俺は床に座り込んだまま、またぽかんと口を開けて、けれど隣にやってきた吸血鬼に目線を上げた。
 そばに来た吸血鬼は、ヌーと鳴くジョンと特売品の豚肉を抱えていて、おそらくジョンに必死に呼ばれて精肉コーナーから来てくれたんだろう、踵が少し砂になっていた。
……なーにやってんだ、若造」と状況は知らなかったに違いない、器用に方眉を上げて言う。「まさか本当に菓子の取り合いをしてたのか?」
「ん、」なわけねーだろ、と言う声すらつっかえた。知らない男の吐息がぶつかった唇を、拳でぐいと拭ってからやっとこさ答える。「な、なんか知らんおっさんに告白された。超こええ、何あれ。エッ? なにあれ」 
 ようやく言えた本音に、傍らの吸血鬼がザッと砂になった。耳に入るようになった店内の軽快なBGMに合わせて、ジョンと豚肉が床に落ちて跳ねる。砂山が言った。
……やったなゴリルドくん。メスゴリラだけじゃなくオスのホモサピエンスにまでモテるなんて、きみのモテ史にもようやく進化が起こるんじゃない」
 とりあえず豚肉パックでぶっ叩いておいた。
 これはちゃんとお買い上げするので、どうかゆるしてほしい旨は、本当に駆けつけて来てくれた店員さんに言おうと思う。傍から見たらただ砂山を豚肉でぶっ叩いている成人男性の図だ、そんなトチ狂った場に「何かありましたか」と突入してくれた若い店員さんは普段からおかしな客ばかり相手しているのだろう、若干目が死んでいた。このスーパーは普段からよく使っているし、駆けつけてくれた店員さんの顔も見たことがある。今まで愛想のいい笑顔しか見たことがなかった。
 接客業のかなしい性を目の当たりにし、しどろもどろになりながら、「あっそのすみません、この肉買います」とまず言ってから、「えーと、知らんおじさんに、その、好きだって言われてただけなんで、ははは、気にしないでください。きっと相手間違えてたんすよ……」と早口で言いながら立ち上がった。
 言い切ってから、これは益々、店員さんに胡乱な目を向けられるかもしれない、と冷や汗を掻く。ほんと騒いですいません、お構いなく、続けて言おうとするも、店員さんが「まさか」と眉間に皺を寄せて口を開いた。「スーツ着た、細っこい人じゃありませんでしたか、そのひと」
「えっ? あっはい」
「あンのクソ野郎」
「え゛っ」
「すみません、口が滑りました。私へのクレームなら本部にどうぞ」
「あっいえいえそんな」
 普段のレジでありがとうございましたーと元気良く言う姿とはかけ離れた態度に、多少怯んだし、ドラルクも「度胸がヤケだな」とぼそりと言ってジョンを撫でている。店員さんは眉を寄せたまま続けた。
「たぶんあなたにちょっかいかけた人、うちの常連様でして。ほかのお客様から、たまに苦情が来てたんです。『話しかけられて迷惑だ』とか、そういうのなんですけど。内容は卑猥なこととかが多くて」
「なるほどクソ野郎ですな」
「でしょう」ドラルクの同意に、神妙に頷く。「この間店長にこっぴどく注意されてからは大人しかったんですが……ご不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございませんでした」
「えっ!? いえそんな、店員さんが謝ることなんて、」
「今後このようなことがないよう、あのお客様にはまたうちの店長からもきつく言ってもらいますし場合によっちゃあ警察の介入も辞さない所存なのでというか今までが甘く見すぎてたんださっさと出禁にすりゃあ良かった。くそ。失礼しました。どうか今後とも、この店をご贔屓にしてくださりますよう、誠心誠意努めて参りますので」
「あっはい、が、がんばってください……
 頭を下げた店員さんに俺も慌てて頭を下げる。大変だ、接客業って。ポンチな吸血鬼が出たらとりあえず一発殴っていい退治人とは違う。握手していいですか、と謎に手を差し出されたのでつられて手を出して握手をした俺を、今度は傍らの吸血鬼が胡乱な目で見てきていたが、まあ、無視だ。何せドラ公のことはいつでも殴れる。



「チョコレートクッキーなら私が作るだろうが」
 店員さんとのやり取りのあと、想定以上に買いすぎてしまった買い物袋を携え帰路につく。俺が両手に野菜やら肉やらお菓子やらがパンパンに入った袋を持っているのに対して、貧弱な同居人は片手にティッシュ、片手にトイレットペーパーだけを持って隣を歩いている。軽いものを持っているくせにやたら不機嫌そうだったのは、なるほど、発言からするとどうやら買ったものに不満があるらしい。がさり、袋を揺らして示す。
「いーだろ、別に。たまに食いたくなるんだよ、甘いだけのお菓子」
「私の作るクッキーだって甘いだろ」
「甘いけど」……甘いだけじゃなく、ちゃんと美味しいけど。「でもやっぱ、食べたくなんの。市販のお菓子。慣れ親しんだ味っつーか今になったら安っぽいのが安心するっつーか」
「つまり私の作るものは庶民のきみには豪奢すぎてむしろ舌が逃げるほど美味いと。今日の夜食張り切っちゃお」
「顔と声がムカつくから蹴る。夜食は楽しみにしてる」
 蹴ッ。砂ッ。ヌー! 理不尽ッと叫んで砂になった同居人が再生するのも待たずに置いていく。どうせすぐに再生するし、事務所ももう目と鼻の先だ。今夜の空は星が煌めいて晴れ渡っている。通り雨や事件に巻き込まれる心配もあるまい。いや、心配はしてはいない。置いて帰って、ちょっと目を離した隙に奴が何か事件を起こしはしないか、そういう監督責任者としての不安はあるが。まあ大丈夫だろ。夜食作る気満々だったし。
 そうやって事務所のあるビルへと距離を縮めたときだった。路地裏から一人の男が、ちょうど俺の前に飛び出してきた。
 酔っ払いだ、と思った。駅近だし、吸血鬼退治人に曜日感覚は薄いが、今日は花金で時刻も遅い。終電を逃したか、そもそも帰れないほど前後不覚になった酔っ払いなど、ポンチ吸血鬼の次くらいにはよく見る。いやおポンチどもを一番よく見るという事実も嫌だが。とにかく、飛び出してきた男は耳も尖っていないし、牙も出ていないし、電灯に照らされた肌はかなりの赤ら顔だったから、酔っ払いで間違いない。
「おいちょっと、おっさん。大丈夫か?」
 ふらふらと壁に手をついて蹲りそうになった男へ声をかけると、彼はのそりと顔を上げた。焦点が合わない。心配になって更に近づくと、鼻にぷんと刺激臭。うっ酒くさ。これはかなり飲んでいる。
「おじさん、聞こえますか? てか歩けそう? 家帰れる?」
 さすがに送っていくには荷物を持ちすぎているので、自分の財布の中身をタクシー代にするのも手だ。それか、家に人がいるなら迎えに来てもらうか。吸血鬼が蔓延るこの魔都シンヨコで、目の前で今にも寝落ちそうな酔っ払いを放ってはおけない。俺が続いて口を開く前に、おっさんの目が俺に向いた。いやいや、最初から向いていたけど、こう、焦点が合った。
 目と目が合う。
 充血した目は、どこか変に輝いていた。
「かわいいね」
「は?」
 おっさんの分厚い手が俺の頬に伸びた。酒と、汗で、べとべとに体温の上がった熱い手だ。ぞわっ、全身に鳥肌が立つ。
「肌すべすべ。きみ、いくつ?」呂律の怪しい、酒気噴き出す口が言う。
「いや、あの」
「いくつでもいっか。ね、おじちゃんとホテル行く?」
 ぎちり、両手に持った買い物袋が手のひらに食い込む。この中には卵も入っている。俺の今夜の夜食になる予定の食材たち。しかも、ただの夜食じゃない、すごく美味しい夜食だ。振りかぶったらぐちゃぐちゃになる。それはいやだ。硬直した俺に酔っ払いが言った。
「ほんとにかわいい。試しにちゅーしていい? するね」
「──どっ、」 
 そのときの俺の口が、何か、確かにあまりに自然に何か口をついて出そうだったが、それが何か気づく前に目の前に砂嵐が滑り込んできたため何かは分からなかった。ゴッ、砂嵐とともに丸いキュートな砲丸が男の脳天に直撃する。砲丸はすぐに愛らしい手足を伸ばし、砂嵐に抱き留められた。
 ジョンを抱きしめた手とは反対の手が俺の首根っこを掴んで引きずろうとして失敗し、力の反作用で足を砂にすらしている。ドラルクが叫んだ。
「こンのバカ阿保まぬけルド五歳児! お人好しも大概にしろよボケ!」
「な……ッんだようるせー! 何だよ!」
「反論もできないならさっさと歩けお前が本当に成人しとるっちゅーんなら自力で歩けるだろとっとと帰るぞバカタレがーッ!!」
「は、え、でも。おじさんが、」
「大体のおっさんは一人で家に帰れる生き物だお前が面倒を見る必要は一切ないわッ分かったかーー!!」
「あ、う、お、おう。うん。わ、わかった」
 剣幕に押されつい頷く。頷いて、促され、背中をぐいぐい押されて歩く。ちらと後ろを振り返ると、酔っ払いのおじさんは頭を押さえて地面に蹲っていた。だ、大丈夫か、あれ。背中を押していたドラルクがぎっと俺を睨んで視界からおじさんを追いやるように首を動かす。「心配なら後で警察でも呼べばいいだろ、こういうのはちゃんと専門機関に預けるべきだ。吸血鬼退治人のきみが出る幕じゃない。そうだろ?」
 そ、それはそうかもしれない。
 微妙に納得のいく答えにまた頷いて、俺は素直に足を動かすことにした。事務所のある雑居ビルに辿り着く。階段をのぼる。事務所のカギを開け、中に入る。電気を点ける。ドザァ……それまで後ろからせっついていた僅かばかりの力が、そんな音とともに霧散する。振り返ると、同居人が砂塵になって雪崩れていた。ヌー! アルマジロが砂山に焦って縋っている。
「な、なん、何だったの。あれ」
 砂が言った。
 さすがの俺も言いたい。
「分からん。すげー酔っぱらってたってのは確かだと思うぜ」
「んなもんは傍から見とりゃ分かるわ! そうじゃなくて、」
「ほんと酒って怖いよな。酔っぱらって俺を可愛い女の子に見えちまうなんざ」買い物袋を下ろしざま、末恐ろしくなってぶるりと身を震わせる。酒に弱い身としては、他人事じゃない。「大丈夫かなあのおっさん。記憶残っちゃうタイプかな。俺に声かけるなんて黒歴史じゃ済まな……いや、ほんとに女の子に声掛けるよりは、俺で良かっただろーけど。うん。俺で良かった」
 ほんとに。一歩間違えれば犯罪だし、警察に通報されてもおかしくない。女の子に出合い頭にホテルに誘うとかヤバすぎる。普通にキモいし怖いし常識がない。ほかの誰かが被害に遭わなくて良かった。
 ヌー……なぜかジョンが何とも言えない声を発した。
 むしろ何か引き気味ですらある。ヌヌヌヌヌヌ、ドラルクさま、と砂から人型を取り戻した主人を見上げる。愛しの使い魔に名前を呼ばれた吸血鬼は、なぜか、この上なく眉間に皺を刻んでいた。肉のない狭い眉間だ。皺はひとつひとつくっきりと見えた。その顔で、おい若造、とひどく尊大に俺を呼んだ。
「私はほかの誰でもない、お前の心配をしとるんだが。何が良かっただ。そーいうのは要らん自己犠牲だ、気持ち悪いおっさんに絡まれたのはきみなんだから」
「んなこと言ったって」
「何だ、やたら冷静だな。もしや知り合いだった?」
「いや知らねえ」
「知らねえおっさんにホテルに誘われて、あまつさえ頬もべたべた触られて、それで何でそんな落ち着いていられるんだ。私だけか? こんなに憤ってるの。ねえジョン、私だけ?」ヌンヌ、とジョンが答え、スリープモードにしていたメビヤツにも聞いてみようか、とマジロ語で続ける。ドラルクは首を横に振った。「止そう。首都壊滅砲を撃ちかねん」
……あのさ、ドラ公」俺はちょっと迷ってから、口を開いた。「初めてじゃねーんだわ。その、ああいう感じの」
「はあ?」
 あ、責められる。
 それだけを直感した俺はやや早口で続けた。「お前も知ってっかもしんねーけど、昔っから顔つきがちょっと遊び人ぽく見られがちなんだよ俺。だからなんかまあちょっと、そーいう感じのあれが、たまにあれなんだよ。な? 珍しいことじゃない」
「ワヤワヤ言って同意を求めるな、承服しかねる。それに、珍しければ良い話でもない」
「しつけーぞドラ公。ほかでもねえ俺が大丈夫っつってんだから大丈夫なんだよ」
「今までのはどうやって対処してきたの」
「どうって」
「私がここに来る前は、どうやって、そのたまにある最低な事案から逃れてきたのかね」
「そりゃお前」握りこぶしをつくって見せる。「ワーッて逃げるか、最終手段は拳で解決してきた。決まってんだろ。今まで声かけられても、ほんとにホテルに連れ去られたりとか、変なことされたりとか、そーいうのはなかった。俺が強いから」
「うるせえ」ドラルクはシンプルにいなした。「ほっぺた触られてただろーが」
「ほっぺたぐらい」何だって言うんだ。「ビキニにされたり猥談言わされたりとどっこいどっこいじゃねーか」
「全然違うわボケカス阿呆が」
「殴ります」
 ヌーッ! 砂が散る。マジロが叫ぶ。俺は床に下ろしていた荷物を再び持ち上げ、「もういーから。さっさと飯作れよ」とリビングに続く扉へと向かった。背後で砂が喚く。「おい待てまだ話は、」
……張り切って作るって言ったじゃん。腹減ったんだけど」ごし、おっさんに撫でられた頬を肩先で拭ってリビングに入る。俺だって、と心の中で思う。俺だって気持ちが悪くないわけじゃない。でも、だってもう美味い飯食べれるし、なぜか知らんが同居人が代わりに怒ってくれているし、だからそんな大したことじゃない。今はただ、一刻も早く頬いっぱい美味しいもんが食べたい。「ドラ公はやくしろ」
 後ろから言葉にならない唸り声みたいなものが聞こえたが、無視した。テーブルに買い物袋を置いてから、あ、と気づく。ドラ公に持たせてたトイペとティッシュ、道端に忘れてきたかもしれない。何で俺より動揺してんだよ。くそ。やっぱもう一回殴る。



 ということがあったのがつい昨夜で、昨夜の時点では俺は本当にそこまでこの出来事を気にしていなかった。
 酔っ払いのおっさんが強烈すぎて、スーパーで声をかけてきた男のことも忘れていたほどだ。しかし似たようなことが続いて、しかもそれがその翌日に起こるとなると、さすがの俺もあれっと思う。あれ。なんか。なんかおかしくね?

 手をぎゅっと握られている。
 依頼人の男に。
 依頼人の人間の男に。
 吸血鬼、じゃない。
「ね、聞いてます? ロナルドさん」
 ぎゅう、握りしめた手を引っ張って男が言う。依頼人の男は最初、ちゃんと対面のソファに座っていたのにいつの間にか俺の隣に座って手を握っていた。いつの間にかというか、ちょっと様子はおかしいなとは思った。家の車庫に下等吸血鬼が出たかもしれないと相談にきたくせ、今日はいい天気ですねとか、あそこの店の何々が美味しいとか、好きな色とか、会話があっちこっち飛んで視線も忙しない。はあとか、ですねとか、それで本題なんですがとか、何とか会話を成り立たせようとしているうちに、もっと近くで見たいんで隣に座ってもいいですかと訊かれて、これだ。はい? と疑問を発したのがまさか肯定に取られたのか、隣に座って俺の手を取り、そしてじっと見つめている。
 なんだこのひと。
「ええと、あの、すいません一旦離れてもらっても?」
「ええ、そんな。それじゃ近くで見れないじゃないですか」
「何を」
「あなたのその綺麗な瞳」
「何か催眠をかけられてます?」つい言ってしまってから、目を見つめ返す。「大丈夫、落ち着いて。まずあなたの車庫を一度見に行きましょう。もしかしたら下等吸血鬼の仕業じゃないかもしれない。でも安心してください、俺にお任せを。即・退治で解決です」
「本当に綺麗だ」聞こえていないのか、聞こえた上で構っていないのか、うっとりと呟く。「瞬くと目の前を掃除してるのかってくらい、まつ毛が長い。あなたの瞳は青空を映す高層ビルの窓、まつ毛はクリーナー。そして俺はそれを外から見ているただの人間」
「駄目だ話が通じねえ」
 殴るか? 殴った方がいいかもしれない。言葉で分かり合えない場合、大抵のことは全て暴力が解決してくれる。だが、相手は、依頼人で、そして本人も言った通りただの人間だ。しかも催眠をかけられているかもしれない相手だ。いやどんな催眠だ。どんな催眠でもかかってしまうのがこの町に住む者の宿命だ。彼はただの被害者だ。
「あの、落ち着いて聞いてください。今からあなたを一発殴るので手を離してもらっていいですか。大丈夫です、痛くないようにするんで」
 痛みも感じないほど一瞬で気絶させる自信がある。そしたら、とりあえずVRCに連れて行こう。そう決めてやんわりと自分の手を引き抜こうとすると、その分、ぐいと男が距離を詰めてきた。近え!
「あなたの瞳に吸い込まれそうです」
「錯覚です、落ち着いて」
 顔を引く。顔が近づいてくる。デジャヴ。あれっと思った。昨日も、こんなことがあった。あれ。あれあれ。昨日は、なんだっけ。スーパーで。そうだ。知らない男に。好きだって、言われたんだっけ。
「あなたの中に入りたいな」
 体を引く。
 体が迫ってくる。ソファの端に腰がぶつかり、縮こまった上半身に男が覆いかぶさってくる。額に男の前髪が落ちてきて、まつ毛とまつ毛が擦り合いそうな距離で、男が言う。
「窓から入らせてよ。そしたら僕ら青空のなか、ひとつに溶け合えると思いません?」
 ──こっ。
 すんでのところで思いとどまる。殺そう、と思ったのを留まったんじゃない。こわい、と思ったのを留まった。留まってしまった。脳みそはがちがちに恐怖を感じたのに、体が待ったをかけられたせいで握られたままの手を動かせない。どうしようどうしよう。殴らないと。でも一般人に手を上げるのは。でも正気に戻してやらないとかわいそうだ。鼻先が潰れ合う。視界がぼやける。唇に吐息がぶつかる。息が吸えない。
「──ど、」
 吐いた息に混ざった音は、昨夜同様、確かに何か言おうと発された。
 しかしその何かを言い切るより早く、ソファ近くの床板が勢いよく外され、そこから明るい声が飛んできた俺の声を掻き消した。

「ロナルド! おやつ時だぞ、今日のおやつは何──」

 首を逸らす。豊かな緑色の瞳と視線がかち合う。「ひ、ひないち」ちょっと死にたくなるくらい情けない声が出た。呼ばれたヒナイチはただでさえでかい目をカッと見開き床下から飛び出した。

「──何をしているか貴様ァーーッ!! 事と次第によっては現行犯逮捕するぞ両手を挙げて今すぐ無害を示せこれは警察命令だ!」
「僕はただこのひとの中に」
「ヒナイチとりあえず峰打ちしてくれ!」
「承知した!!」
 ゴッ、さすが俺が認める怪力なだけはある、とんでもなく鈍い音がして男が倒れ掛かってくる。俺はきちんとその体を支え、気を失った彼をソファに寝かせた。そのまま床に座り込み、傍らで刀を持って肩をいからせている年下の女の子を見上げた。息を吐く。
「た、助かった。ナイスタイミングだぜ、ヒナイチ。ありがとな」
「何なんだこの男は!」
 ヒナイチは頭の上のアホ毛を揺らしてぷんすこ叫んだ。狼狽えすぎて叫べもしなかった俺にとっては、わりと本気で有難かった。「ロナルド、一体何があったんだ。こいつは何だっ?」
「た、ただの、人間」
「嘘つけ! お前ほどの男を下敷きにする輩が、ただの人間などと……」そこで言葉を切る。柔そうな眉を下げる。「……何かされたのか。大丈夫か。私は本当にナイスタイミングだったか? 遅かったとしたら、」
「何もされてない!」俺は慌てて声を上げた。あらぬ誤解をされては俺もこのひとも困る。「手ぇ握られて何かよく分かんねえ口説き文句言われてただけだ! お前が気にすることじゃねえ」
「だけって。立派な被害を被ってるじゃないか!」
 ヒナイチは明確に怒気を露わにした。苺が咲き誇るみたいなもんだ、怖くはないが、真っ赤になった頬が破裂するんじゃないかとちょっと不安にはなる。ぷんすこぷんぷん怒りながら取り出した手錠を男にかける。「私が、年下だからか? 年下の女だから遠慮してるのか? 私は警察組織だぞ、何が害悪か、そこらの者より正しく判断できるんだぞ!」
「ドラルクのことは誤判断してたのに?」
「うぐっ」
「冗談だよ。あれは変に強大ぶるあいつが悪い。ありがとな、ヒナイチ。ちゃんと分かってっから」
……本当か? 本当に分かってるのか?」
「分かってるわかってる」俺の妹と違って、言葉も態度も何て分かりやすい。「心配してくれてんだろ、大丈夫だって。ほんとに、手ぇ握られただけで何もされてない。むしろ俺が殴る前に来てくれて、マジで助かった。今度何か奢る」
……駅近のシュークリーム。……分かったなら、いい。私はこの不届き者を引き渡してくる」
 手錠に繋がる鎖を引っ張り、男をぞんざいに引きずって行こうとする。それでいいのかと思ったが、まあ、それでいいんだろう。彼女の怪力は認めているし、警察としてもちゃんと頼りにしている。吸血鬼対策課としては言わずもがな。本当に。ヒナイチが来てくれて良かった。
「あ、待ってろ。ドラ公のクッキーもな。今日のおやつ。持ってくるから」
 クッキー! 即座に瞳を輝かせた彼女はまるきりクッキーモンスターだった。昨日の夜、あいつが市販のクッキーを睨みながら大量に作っていたクッキーを、うん、半分以上あげてもいいくらいには、俺はこのクッキーモンスターを妹のように思っている。おやつの取り合いや取っ組み合いの言い合いはしょっちゅうだが、やっぱりかわいいやつだ。クッキーは全部やろう。今回は特別だ。



 何かあったら連絡しろよ、ただの迷惑な人間だとは思うが、この男について何か分かったらこちらからも連絡する、と業務的な約束を交わしたヒナイチを見送ったあと、俺は盛大に息を吐いた。それから、入り口で眠っているメビヤツに膝をついてもたれかかる。
 メビヤツのスリープモードを解除する。起き抜けに俺に抱きつかれている事態を理解したメビは、ビッ!? と大きく狼狽えて俺に擦り寄った。帽子の乗った頭に顎の下をぐいぐい押されながら、「何だったんだろうな、あれ」と呻く。さすがに。さすがにおかしい。
「二日連続で、こんなことってあるか? まだ偶然か? いや、まだ偶然だ。四日連続で溝に落ちたことあるし、これはまだそんな深刻になるようなあれじゃない」
 鳴くメビヤツをぎゅっと抱きしめ、でもごめん、とちょっと涙声混じりで続けた。「しばらくさ、夜だけじゃなくて昼間も見張ってもらっていい? ごめんなメビヤツ、重労働なら断ってくれていいから……
 ビーーッ! 叫ばれた。大きな一つ目がすりすり擦り寄ってくる。うう、かわいい。ありがとうメビヤツ。本当に俺ってだめなやつだ。どうしていつもひとに助けられてばかりんだろう……。もっとしっかりしなくちゃ駄目だ。
 決意する。次こそは。次を想定した時点でこれが偶然じゃないかもしれないと身構えているも同じだが。次こそは必ず。
 自力で何とかする。俺はロナルド強い子だ! 知らんおっさんに絡まれてべそをかくような、そんなヤワな男じゃねえ!



 べそっ。
 フラグを立てたかったわけじゃない。ただまさか、その日のうちに再び似たようなことが起こるとは思わなかったんだ。
 おやつ時の一件から数時間後、夜の帳がおりきって月が躍り明かそうと煌々と輝く時間になり、事務所での依頼も原稿の締め切りもなかったためギルドへと赴いた。一人でだ。暇を持て余していたのかドラルクもやたらついて来ようとしていたが、俺は殴って置いてきた。もちろん分かっている。ヒナイチとのことは言っていないが、昨日のあれで充分、箱入り吸血鬼にとっては見過ごし難い出来事となっているのだろう。享楽主義にとっては娯楽になり得るのではと一寸訝しんだが、分かっている、普段から俺のことを自分の城の下男だの何だの嘯いているんだ、自分の手下に知らねえおっさんから色目使われたと思えば、そりゃ面白くはない。ドラ公のあれは、そういうあれだろ、たぶん。だから別に純粋に俺のことを心配していたわけじゃ、ワヤワヤ……
 そうやって一人ずんずん夜道を歩いて、ギルドに程近い角を曲がったところで、誰かとぶつかった。吹っ飛ばしてしまった体を咄嗟に抱き寄せ、「すみません! 大丈夫ですか」と顔を覗き込む。あ、と思った。まただった。
 俺に抱き寄せられた男は、俺の目を真っ直ぐ見つめていた。
 どこかぼうっとしていて、夢心地だ。ぎくりとして離そうとした手を、逆に引き寄せて体を密着してくる。腰と腰がぶつかった。
「好きです」
 人間の男が言った。
「あ、あの」
「今すぐこの場で抱きたい」
 腰をぐいぐい押しつけてくる。
 セクハラド直球モーションに、俺はとうとうべそをかいた。怖い。何このひと。頭おかしい。っていうかまたなのか。もう絶対偶然じゃない。全員別の男だ。ということは、待って、むしろ催眠か何かかけられているのは俺の方か?
「出会い頭にこんなに綺麗なひととセックスできるなんて。俺って何て幸運なんだろう」
 男がうっとり頬ずりしてくる。「初めましてで野外は気が引けるけど、いいよね。二回目は家ですれば」
 何言ってるかよく分からない。というか理解したくない。ただもし、もしも、本当に俺が何かしらの催眠にかかっていたとして、それでこの善良なはずのシンヨコ一般市民がただ巻き込まれてこんなトチ狂ったことをさせられているのだとしたら、やっぱりそれって、俺が悪いということになる。このひとは被害者で、かわいそうに、俺を何かとても魅力のあるものとして見てしまっている。
「め、目を覚ましてください」
「いいね。きみを抱いて見た夢も、覚めればまた夢の中のように素敵なんだろう」
「正気に戻って!」
「モーニングは何が食べたい? ソーセージ? あは、俺のも咥えた上でまだ食べたいの?」
 べそそっ。目の端から涙を溢れさせる。逃げなきゃ。逃げろって、むかしから言われてきた。──いいか、知らんひとについていっちゃアカンぞ。もし知らんやつに襲われそうになったら、まあ状況によるが、おみゃあはまだ子どもじゃ。戦おうなんて思わず、叫んで逃げろよ。いいな? それも、ちゃんとひとを呼べるように叫ばにゃならん──
「きゅッ吸血鬼だーーーー!!!!」
 俺はありったけの大声で叫んだ。
 男を突き飛ばす。むかし、小さいころ、自衛の仕方を教えてくれた兄貴に感謝の念を送りながら踵を返す。その返した足首を、ガッと勢いよく掴まれつんのめる。地面にぶつかる。背中にゾンビのごとく男が圧し掛かって来て、ひっと喉が震えた。男が至極幸せそうに囁いた。
「朝まで一緒にいよう。きみも同じ気持ちなんだね」

「ど」
 俺はまた何か言おうとしたが、見上げた先、男に向かって鉄の左腕を振りかぶるサテツの姿を捉え。安堵のあまり。号泣した。
 
 男を殴り倒し、引き剥がしてポイと捨てたサテツの横から、ショットも出てくる。手際良く縛り上げていくショットは、「おい何だよこいつ、人間じゃねーか」と目を剥いている。分かる。普通またおポンチ吸血鬼が出たって思うよな。でも違うんだ。
「だ、大丈夫かロナルド」
 ついさっき片腕で男を伸したとは思えないほど繊細に、サテツがおろおろと俺を起き上がらせてくれる。俺は涙でべそべそにしながらも口端を引きつらせて笑ってみせた。「だ、だいじょうぶだぜ」
「だいじょばないだろ、どう見ても……
「お前の声で吸血鬼だーなんて聞こえて来てみれば」男を蹴っ飛ばすようにして壁際に寄せたショットが言った。「どーしたん、これ。今度は人間の変態か?」
「うん」
 俺は子どもみたいにこっくり頷いていた。「なんか、変なんだ、昨日から。昨日からなんか。ううう……」どばっ。泣く。「おれは最後の一粒が出てこないスープ缶のコーン、キーボードの隙間に挟まる羽虫の残骸、チャックのつまみが壊れた洗濯ネット……
「落ち着け。おいサテツ、ロナルド連れてけ。俺は野郎を引き渡してから行くから」
「警察か? 吸対?」
「どっちもだな。ま、吸対呼べば一発だろ」
「ひ、ヒナイチにしてくれ」
「ん?」
 サテツに肩を貸してもらいながら立ち上がる。涙ながらにこれだけは言っておいた。「半田に知られてみろ、絶対からかわれる」
 ショットが確かに、と頷く。じゃああの子に連絡するか、と端末を取り出したショットにホッとする。半田もだが、絶対ぜったい、兄貴には知られたくない。こんな情けない姿。全然カッコ良くない。

 ギルドの中にはマスターとヴァモネさんがいるだけで、ほかは見当たらなかった。
 女性陣がいなくて良かったと思う。屈強な退治人である彼女たちには、普段からそれはもうとんでもない醜態ばかり見せてはいるが、さすがに人間の男に襲われかけて涙している様を見られるのはワケが違う。男なのに。強いと言われてきたし、自分もそう思っているのに。なんだこのザマ。
 サテツに連れられカウンター席に座る。マスターとヴァモネさんが何かあったのかとそれぞれ寄ってくれる。俺はえぐえぐ泣いて「昨日からなんか、知らんおっさんに、せまられる」と端的に話した。ピシリ、場が凍った。
「ろ、ロナルドそれって」
「俺だってこんなこと、言いたかねーよ。最初は偶然だっておもってたけど、さっきので、四回目なんだ。さ、さすがに変だろ」
「何で四回目まで放っといたんですか」
「だってこの町にいれば大体毎日変なやつと遭遇するし、そんな大したことじゃないと思ってえ……
 ヴァモネさんが首を横にぶんぶんと振る。ああ、やばい泣く。もう泣いてるけど。師匠にまでこーやって心配かけて、俺はもう駄目だ。テーブルに突っ伏す。涙の池ができる。「VRC行ってくる。ご迷惑おかけしました……
「それなら俺も行くよ。善は急げだ、今から出よう」
「いいよサテツ、一人で行ける」
「いや、えーとほら、VRCの所長にドーナツ買っていこうと思ってたんだ。ついでだよついで」
「お前ほんっといいやつな」
 どっちがついでなのか。とにかく、このお人好しの男が俺を心配してこう言ってくれているのは確かだ。座ったばかりだが、涙を拭って立ち上がる。善は急げ、その通りだ。吸血鬼の仕業かもしれない以上、泣き言を言っている暇はない。
 そのときギルドのドアが勢いよく開けられた。「1ブロック先に下等吸血鬼が出たらしい! 吸対の子は呼んどいたから、ひとまず行くぞ!」ショットだった。俺とサテツは顔を見合わせ、行ってきます! と即座にギルドを飛び出した。吸血鬼退治人の仕事だ、優先するは人命救助!



「なんっでお前がいんだよ野次馬クソ砂吸血鬼! お前のせいでてんやわんやだったろーが!」
「いー加減覚えておきたまえよロナルドくん! バカと退治人騒ぐところにこの私ありだぞ!」
「テメーもそのバカの一人だろうが自覚しろバカ!」
 やいのやいの。
 まあ、吸血鬼と吸血鬼退治人が騒ぎを起こした現場ではもはや日常茶飯事である言い合いをぶつける。到着したとき、現場は下等吸血鬼の群れが暴れまわっており、俺たちが戦っている間、居合わせたクソ砂がわりと戦況をしっちゃかめっちゃかにした。
 それでも勝ったのは俺たちだ。伸びてあちこちに散らばった下等吸血鬼どもをVRCの車が来るまで、サテツとショットと各々集めてふん縛りつつ、片手間に砂を殴る。砂山が喚く。「大体きみが悪いだろ! 私を最初から連れて行けばこんな後から遭遇して無駄に私が砂になる羽目にはならなかっ」
「最初っからいても迷惑しかかけねーだろーがオメーはよー!!」
「ブェエエ! 蹴り飛ば砂ーー!!」
 ヌーー!! ジョンが泣きながら散らばった砂を掻き集めていく。その様子にちょっと悪いなと思ってこれ以上砂が飛ばないよう風上に立つ。「大体なんだよ、今日のはそんな面白そうじゃなかっただろ。ただ下等吸血鬼どもが暴れてただけだ。Y談おじさんが途中出たし、ダチョウの群れが突っ込んできたけど。普通だったろ」
「うーん。きみ段々と麻痺してるぞ」
「うっせえ分かってる」
「だから心配なんだろ」砂から再生する。弱っちい夜の切れ端が姿を現す。「昨日のこと。私まだ納得してないからな。若造は麻痺しとっても、私にはえらく不快だ」
「もーーーー……」まさかここに来てまでその話を持ち出されるとは思わず、夜空を仰ぐ。事務所からギルドに出てくるまでも、というかこいつが夕方目覚めてからずっとあのおっさんの話ばかりだ。それが嫌でこいつを置いてギルドへと出向いたのもあるのに。「もういーって。それにあのおっさん、まだマシな方だったぜ。昼間のとさっきのに比べりゃ……
「何?」
 やべ。
 明確にそう思った。口を滑らせた。またうるさくされるぞ。
 舌戦のちの一方的な暴力を覚悟してドラ公に視線をやると、枯れ枝のような手が伸びてきた。肌触りの良い手袋が、俺の頬に触れる。触れても、びっくりはしたが、ぎくりとはしなかった。つまり嫌な感じはしなかった。重怠そうな瞼に隠れがちな瞳が、じとりと俺を睨む。
「また何かあったの」
……なんも」
「嘘はいいが、隠すのは良くないな」
 指先が首筋へと下りる。撫でられたみたいになって、少しくすぐったい。まつ毛が震えた。とく、とく、指先が俺の頸動脈を計ってくる。どく、どく。それに気づいて鼓動が早くなる。「……きみの脈拍を、」とドラルクが言う。「きみの脈拍を、ゼロになるまで数えることだって可能なんだ、私なら」
「おい、」
「流されルド。頼むからほかの誰にも、おまえの鼓動を数えさせないでくれ。同胞にも。人間にもだ。流されて誰かの手に渡るくらいなら、今ここで、私が」
「殺します」
「ンエーーッ!!? 今そーいう雰囲気じゃなくなかった!!?」
 殴って砂になったドラルクから距離をとる。ばくばくと跳ねる心臓を押さえる。「ううううるせー、なんかたぶん危険な思想持ってただろ今、てめーは退治対象だしばらく死んでろ俺に触るな」
「なんっでその暴力性を人間の男相手に発揮してくんないんだ! 今みたいに殴れよ。いや触られる前に殴れ! っつーか触らせるな、お前は私のなんだぞ!」
「へーへー」私の城の下男だろ。「だって殴ったら怪我させちゃうだろ。人間はお前みてーにポンポン死んで生き返んねーんだよ。俺が殴ったら。脳漿ぶちまけてほんとに死んじまうかもしんねーだろ」
「私も殴るな。だがおっさんは殴って良し、どうせぶちまけても元から足らん脳だ、きみが案じる必要はない」
「危険思想。殺します」
「もう殺されてんだろ!」
 ぎゃいぎゃい、わいわい。騒いで砂にしながらも下等吸血鬼を一所に集めていく。ぎゃんっ、そこにVRCの車がドリフトしながら到着した。勢い余り過ぎてマントの端が掠ったドラ公が砂になる。こいつだったから良かったものの、さすがに危険運転すぎる。車から出てきた職員の男に声をかけようとして、ぐいっと腕を引っ張られた。えっ。今日で何度目のえっか分からない。分からないが、展開は読めた。
 俺は車の中に引きずり込まれた。倒した座席の上に突き飛ばされ、そしてドアがガチャリと鳴った。鍵が閉められた。素早く両腕に手錠をつけられ、座席の頭に固定される。圧し掛かってきた職員が言う。「お疲れさまです、ご褒美はいかが?」
「いらねえ!」
 戦闘したばっかだったし、ドラルクとの言い合いのおかげで、前例四件よりは喉が開いてすぐ反抗できた。頭上で縛られた手をガチャガチャ揺らす。「さっさと解け! アンタもどうせアレだろ、なんか頭おかしくなってんだろ! 正気戻ったとき大変だぞ!!」
「あなたのおかげでね」
「やっぱ俺のせい!!?」
 エーン! 勢いのまま泣いていると涙をべろりと舐められた。ウ゜ギャア゛! みっともない悲鳴が飛び出る。その飛び出た悲鳴も口に突っ込まれた手に押し返される。「ングッ」
「おっと、噛まないでください。私ほんと非力な一般人なんで、どう足掻いたって退治人には勝てない」
「ンぐぐッ!」
 口の中を指が掻きまわす。こみ上げてきた吐き気を何とか飲み込み、そうすると喉奥まで侵入しようとしてくる指を誘い込むようになって更に嘔吐く。やばい、蹴ろう! 振り上げた足はバシッと抱きかかえられた。喉から出ていった手に思い切り咳き込み、ぜえはあ息をする。俺の足を抱きしめた男が言う。「ああ、夢みたいだな。あなたのこと好きなんです」
「勘違いだ!! テメーのとこの所長に診てもらえ! 俺も一緒に行く!! だから離せ!!」
「えっそんな」顔を赤らめる。「一緒にイきたいだなんて、嬉しいな」
「何言っても下ネタに繋げんな、そんなのはへんな一人で充分だわボケ!」
「こんな状況でほかの男の名前を出さないでくださいよ。今から愛し合うのに」
「やめろ恥を上塗りする真似は寄せ! こんな状況だぞ!!」
 外には離れたところだが退治人仲間がいる。砂も。一番近くにいたのはドラ公だ、助けを呼ぶくらいはしてくれるだろう。そこまで薄情だとは思っていない。思ってはいないが、厚情だとも思ってはいなかった。ここは、吸対が規制線を張った内側だ。つまり。
「俺の痴態コレクションを収集するためなら地の果てまで追ってくるやつがここにはいんだよ! いーから大人しく……!」
 
 ガシャァアアア!!
 
 遅かった。
 VRCの特殊ガラスで覆われているはずのフロントが、外側から砕け散った。ボンネットに乗り上げ、特殊ガラスをぶち破った俺の悪友、吸対ダンピールの半田が、ニタリと牙を見せて笑っていた。「ロ~ナ~ル~ド~……」俺の名前を呼ぶ声は至極愉快そうだったが、額には青筋が浮いている。「……この、」ガッ。職員の襟首を引っ掴んだ。
「馬鹿めーーーー!!!!」
 そう叫んで、男を車から放り出す。
「誰が馬鹿だーー! あんがとよッ!!!」
 俺も叫んで、ブチィッ、金属製の手錠を自力で引きちぎる。半田はボンネットに仁王立ったまま俺を指差し、続けて叫んだ。
「貴様が薄汚いおっさんに迫られ無様に泣いている様など学生時代に見飽きたわア! もっと新鮮な痴態を晒さんかこの一本芸ルドめぇ!!」
「うるせーー!! 俺だってこんな一本芸身に着けたくなかったわ! ってか芸じゃねえ!! 俺の不運を磨き上げようとすんな!!」
「貴様の不運が一番の道楽だ! もっと頑張れ!! 恥を重ねろ!!」
「フンッ!!」
 半田を殴り飛ばす。きりもみ回転して吹っ飛んだ半田は地面に転がっていたおっさんを踏んづけて着地した。「お、おっさーーん!」
 完全にグロッキーになった動かない職員を、着地したわりには長々と踏んづけている半田は、「フン」と面白くなさそうに鼻を鳴らした。気絶しているおっさんに言う。「犯罪者予備軍め、署までご同行願おうか」手錠を取り出し、男にかける。「は、半田」俺は何とも言えない気持ちになってぼそっと言った。「お前ってやっぱ、ちゃんと警察やってんだな……
「ロナルドくん」
 車から下りると、ジョンを抱えたドラ公がほとんど砂の状態で駆け寄ってきた。大方、こいつが俺のピンチを嘲笑うチャンスだとか言って半田を一早く呼び出したんだろう。そういう悪知恵というか、咄嗟の機転はよく働くし、まあそれで助かったといえば助かったのでもっとマシな助っ人連れて来いよとは言わなかった。「ドラ公」一応礼は言っとくかと口を開く。ガシリ。奴にしちゃ強めの力で両腕を掴まれた。
「きみ絶対何かかかってるだろ。さすがにおかしいからな」
 物凄い剣幕だ。
 俺はふっと笑って頷いた。「VRC行くから、着いてきてドラ公……



 あ、それ私のせいですね。
 軽犯罪者とか、犯罪者予備軍とか、前科者とか。危険思想の持ち主の、普段我慢してる欲望をちょこっと素直にさせる力を持ってまして。いやだなほんと、わざとじゃないんですって。こうしてVRCに協力してるでしょ? 私はいい吸血鬼ですよ。
 それでまあ、何というか。この間町中で、どさくさに紛れて能力使っちゃって。わざとじゃないですって。濡れ衣ですって。ちょっ、暴力反対! まあ何ていうかその、派手な退治人が暴れてるから楽しそうだなって思って、へへ、はいあなたですね、あなたにかけたら面白そうだなっヴェーーーー! 
 はあ、はあ、げほっ。なんて腕力。すごい力だ。あなたみたいな強いひとが、おっさんに迫られるの大好きなんですよね。へへへ。ぐえーーッ!
 ウエッ。はあ、あ、はあ、お分かりになりました? そうです。この能力、おっさん限定なんですよね。あなたより年上の、しかもあれ、ま、簡単に言えばフェロモンってやつかな。相性がありましてね。べつにすべての無法者をけしかけるわけじゃない。相性のいいおっさんが、あなたのこと好きになるんですよ。あなたのことが欲しくて欲しくて堪らなくなる。あなたにとっちゃ気持ち悪いおっさんでしょうが、でも大丈夫! 相性がいいって言ったでしょ? 一発やってみてくださいよ! 肌が溶け合うくらいきっと何もかもが良くなるかギャアッ……ンあれ? 痛くない……エッなんで殴った方が砂になってんの──

 

 夜明けが近いころ、VRCからの帰り道を無言で歩く。
 そうやって事務所に帰ってきた途端、何とか形を保っていたドラルクが砂になって崩れた。
……何死?」
「憤死」
 憤死かあ。俺は思った。お前一体、何にそんなに怒ってんの。

 つい先刻。ボンネットとフロントガラスが破壊された護送車で向かったVRCでは、全ての元凶があっさり名乗り出ていたおかげで、とりあえず原因究明と解決はなされた。俺に能力をぶつけた吸血鬼は自白のためにVRCを訪れていて、既に厳重に収容済みだったのだ。話を聞くとやはり厄介なポンチ吸血鬼だったし話を聞いている間何度か殴ってしまったが、自ら収容されに行っていたあたりそんなに悪いやつじゃないのかもしれない、と漏らした俺をだからお前は流されルドなんだ、と同じく話を聞いていたドラルクにわりとぐちぐち言われはした。もちろん砂にした。
 
……まあ迷惑だけど。でもそんなに、悪い話じゃないだろ」
「どのへんが」
「言ってたろ。俺に迫ってくるおっさんは、もともとが悪党だって。つまりさ。次襲われたときは、遠慮なくぶん殴っていいってわけだ」
 これについては仕事の早いヒナイチと半田に事実確認を得ている。昨日のスーパーのリーマン、酔っ払いのおっさん。今日の昼間の依頼人と夕方のぶつかり男、そしてVRC職員。全員それぞれ迷惑行為常習犯や前科持ち、違法スレスレな事情を持っていた。「使いようによっちゃ、悪いやつを一掃できるってことだろ。おっさん限定だけど。これからあの吸血鬼が警察と正しく協力できたら、わりと役に立つ能力じゃね?」言ってから、いや、それはちょっと難しいかもな、と思う。やっぱりポンチなだけあって自分が楽しければそれでいいという姿勢が隠しきれていなかった。あれはヨモツザカに実験体にされるタイプだ。
「また論点がずれている」
 砂山が人差し指を立てる。立てた指先を、そのまま俺へ向ける。「私は、きみの、話をしてるんだ。あんなおポンチなど、どうでもいい」
……俺に怒ってるってこと?」
 珍しく、VRCで、反作用で死にながらもあの吸血鬼を殴っていたっていうのに?
 パチン。指を鳴らす。そして指先から腕が、腕から肩が、肩から首、頭が再生していく。ドラルクは首元に擦り寄ってきたジョンを撫でつつ、俺を真っ直ぐ見上げたまま言った。
「合ってはいるが、自罰するなよ。きみのせいじゃない」
「話が分からん」
「私はきみに怒っているが、それはきみのせいじゃないって話だ。そりゃ全部はあの吸血鬼が悪いさ。きみは被害者で、いいか、おっさん共も能力のせいできみに襲い掛からざるを得ないなら、おっさん共も被害者、ということはやはり自分も悪いかもしれないと思わないことだ。決して。これから先一度はそう思いそうだからなきみ。先んじて釘を刺しておく。私はただ、これから数日間、きみが得体の知れない男にべたべた触られる状況を、甘んじて受け入れているのに腹立っているだけだ」
 この能力の解除は時間経過と至ってシンプルだった。
 数日から一週間で効力は消えるらしい。だからあのまま研究所で右往左往せずに、こうして家に帰って来れている。
……甘んじて受け入れてはねーだろ」
「じゃあ明日からしばらく家から出ないでくれる?」
「なんで。仕事行けねーだろ。やだよ」
「ほらやっぱり受け入れてるじゃないか」
 ピスピス、まさかここで泣き真似をされるとは思わず、多少なりともぎょっとする。駄々を捏ねるほど? 一体何がどうして。
「きみは私のなのに」ドラルクが言う。「なのにきみは他の男を受け入れるんだ。これが嘆かずにいられるか」
「だ、お、……
 ここで誰がお前のだ、と反論するのは簡単だ。いつものように反論して、殴って、それで話を終わらせてしまえばいい。だけれども、妙に引っかかってしまった。こいつがいつもいつも、俺のことを自分の城の下男だとか言うから、今回もその延長線だと思っていた。けど、何か。おかしい。
 ヌー。
 再生しきっていない主人に引っ付いている愛くるしい使い魔に視線が移る。「……でも、だって、ジョンは。ジョンのことは、お前そんなふうになんねーじゃん」
「あ?」
「お前、ジョンを誰がモフろうと、嫌がったりしないだろ。むしろ可愛いを見せつけてくるし、自慢してくんじゃん。なんで。下男だって、同じじゃねーの。誰に触られようと、気になんか……
 一拍。間が空く。
「オーケー」と泣き真似をやめた皮膚の薄い顔には凶暴なまでの青筋が浮かんでいる。「私は話を進めたいんだ。私の口を悪くさせるな。いいな。言葉は慎重に選べよ。ジョンが誰に撫でられようと平気だって? そうだろうとも。だってジョンは私のだ、百八十年も前からずっと、ずっと私と一緒にいるんだ」
 ヌン! ジョンが主人に抱きつく。砂山が蠢き、肩から下が再生していく。使い魔を抱きかかえ、部屋中の暗がりを集めた吸血鬼が立ち上がる。
「分かるかね? ジョンは受け入れてくれているんだ。そこに疑念の余地はない。確固たる信頼と、契約が、私たちを何者も引き剥がせはしない。けど、きみは違う」
 俺の方が目線は上のはずなのに、まるで気圧されるようにして踵が下がった。マントの裾が俺の足に纏わりつく。
「きみは私のだが、きみはそれを受け入れてはいない。自覚がない。認めていない。ジョンとは違う。誰にでも流されて、騙されて、どこへでも行ってしまうような男が、私のジョンと同じだと思うな」
 背中がドアに当たる。
 ずるずるとしゃがみ込んだ。「は、話が」俺は自分でも分かるほど動揺して言った。「分かんねえ。まだ。いや、俺の価値がジョンと同じだとは思ってないけど、」
「そんな話はしてないだろーが」
「じゃあどんな話してた?」
「私がおっさん共に嫉妬しているって話だ」
「そんな話してなかっただろ」
「じゃあどんな話だと思って聞いてたんだ」
「どんな、って」
 だからそれが分かんねーんだろ、咄嗟に言おうとして、言う前にほんの少しだけ考えてみる。逡巡ののち、俺は膝を抱え、縮こまるようにして回答した。「お、おまえがめちゃくちゃ、俺に振り向いてほしい、みたいな。そーいう話に聞こえた」
 ドラルクは二度ほど瞬いた。
 それから、訝しげに眉を寄せる。
「そんな話もしてなかっただろ。私ちゃんと日本語で喋ってたよな? やはり若造の脳みそじゃIQ2億超の言葉は理解できんらしい。ちょっと待って。いまどうにか喃語に訳せないか調べてみるから」
 足払いをかけた。
 砂になる。ジョンが泣く。俺は立ち上がった。無駄な時間を過ごしてしまった。
「とりあえず、おめーが何か不快な思いしてんのは分かった。だったら明日から、この催眠が解けるまで、俺と一緒に外に出んな。そんでいーだろ」
 こっちだって。
 べつにお前にいて欲しいなんて思ってないし。クソ砂。



 飯のときも寝る前もわけの分からねえことをぐだぐだ言ってきそうだった同居吸血鬼を殴っては砂にし、砂になっては再生してまた殴ってを繰り返し、ようやく眠りについて、そして昼。太陽が燦々と輝くこの時間帯になりさえすれば、ドラ公に勝ち目はない。
 依頼もなかった俺は一昨日持ち帰り忘れたトイペとティッシュを再び買いに行くため(マジでふざけんなよあの砂)、一人で事務所を出た。ドラ公から何やら言われていたらしいキンデメさんや死のゲームにかなり引き止められたが、やつらに手足があるわけではない、あっさりドアを開けれた。メビヤツは純粋に俺の身を案じて心配そうにしてくれていたので、これには大丈夫と笑って対応した。そう、大丈夫だ。俺は吸血鬼退治人のロナルド様だぞ。数多の変態吸血鬼を相手にしてきたんだ。人間のおっさんが怖くてどうする。

 

 いやどーーーー見ても怖ぇんだよなあ……

 トイペとティッシュを買った帰り、そういえばスナバで新作の甘いやつが出ていたことを思い出し、両手に生活感を携えたままスナバに寄った。今は退治人衣装も着ていないし、完全にオフだ、ちょっとくらいゆっくりしていこうと外が見えるカウンター席に座ったまでは良かった。甘いのを飲んで、携帯を触って、そうして何の気なしに外の大通りへ目をやったところで、はたと気づく。一人の男がこっちを見ている。
 通りの向こう側、こぢんまりとした花屋がある。その花屋の軒先で、初老の男が何をするでもなく、こちらに目を向け立っている。最初は気のせいかもと思った。日向ぼっこをするにはいい天気だ、あれぐらいの年齢の人が、ぼうっと景色を見ている姿はさして珍しくはない。
 けれども、明らかに、視線が。俺が立ち上がろうとすると背伸びをし、移動しようとすると一歩前に足を出す。視線はひたすらに真っ直ぐ俺を追っている。やばい。
 吸血鬼だけじゃなく、人間もなのかよ、と半ば戦慄してしまう。このシンヨコは。人外問わずポンチの出現率高すぎんだろ。
 ずこっ。ドリンクはとっくに飲み終わっている。吸うものもないストローをいつまでも咥えながら、道向かいのおっさんと見つめ合う。背中をひやりと汗が流れていく。店内の空調はちょうどいいはずだったのに、今は寒いくらいだ。とにかく、店を、出なければならない。
 しかし動いたらついてくる。距離的に、俺が席を立って会計を終えるころには、きっと店の入り口に到着してしまうだろう。人目のあるところで、昨日のような事が起こるのは非常にまずい。俺にとっても、おっさんにとっても。さてどうする。
 助けを呼ぶしかないのか。
 いやそんな、迷惑が過ぎる。
 俺一人で対処できると豪語した手前、虫が良すぎるという思いもある。結局一人じゃ何もできないなんて、情けないしカッコもつかない。あんなおっさん、一発殴ればすぐだ。すぐだけど。
 殴る前に、また何かされるかもしれない。
 いや何かされる前に殴ればいい。俺にはそれができる。
 でも殴ったあとに何かされたら? やたらと頑丈なこの街のおポンチ吸血鬼どもみたいに。
 相手は人間だ。そして催眠とはいえ、俺に邪な感情を抱いている。俺はそれを、ちゃんとぶっ飛ばせるのか?
 握っていた携帯に目を落とす。
 連絡先を開いて、眺める。一番頼りになるのは、警察組織でもあるヒナイチだ。あいつなら状況に応じて迅速な対応をとってくれるだろう。でも俺はまだ、駅近のシュークリームも買えていない。これ以上借りをつくるのも嫌だし、昨日あれだけ心配してくれていたのを、こんなことで呼び出して無碍にもしたくない。それに、あいつにはあいつの仕事がある。駄目だ。時点で、半田。何だかんだで助けてはくれるだろうが、こいつには一番借りを作ってはいけないので駄目。まあ最終手段だ。吸対は難しいとなると、事情を知っているギルドメンバーのサテツかショット、うん、この二人なら頼りやすい。もしかしたらまだ寝ているか別の仕事をしている可能性もあるが、連絡はしてみても──
 ──べた、べた。
 すぐ近くで、湿度の高い音が鳴った。携帯から目を上げる。真っ黒い目が、正面にあった。硝子越し、おっさんが窓に顔を押しつけて俺を見ている。呼吸のたびに、窓が白く濁っている。そして真っ赤に開いた口が、何事かを言おうと舌を覗かせた。

 俺は叫んだ。
 限りなく超音波に近い高音で叫んだが、その悲鳴は後ろから伸びてきた手と、空間の歪みによって、店内に響くことなく消えた。
 目の前が渦を巻きながら暗闇に閉ざされる。最早慣れ親しんだ亜空間。俺は尻もちをつき、みっともなく泣きながら、背後に立っているであろうひとの名前を呼んだ。「ふ、ふ、フクマさあん……
「また厄介事のようですね、ロナルドさん」
 バトルアックスを片腕で軽々と支え、トイペとティッシュを手に持ってくれているロナ戦の敏腕担当編集者、フクマさんがやはりそこにはいた。「ど、どうしてここに?」荷物を受け取りながら訊くと、「今朝方ドラルクさんから連絡がありまして」と口許を笑みの形にして答える。「あなたの心身に危険が及ぶかもしれないので、それとなく様子を見ていてほしいと」
「あいつ」
「作家をあらゆる事象から守るのも私の仕事です。して、今回はどのようなあらすじで? ロナ戦には書けそうですか?」
「ウエーン商魂逞しいっ」
 書けるか書けないかで言えばたぶん書けないですすみません! 謝ると、それは残念です、と眉が下がる。ですが今回のことも今後のロナ戦の糧になるかもしれませんよ、事情をお聞きしても? といっそ真摯な瞳で続けられ、俺はまたウエーンと泣いた。



 フクマさんに事務所まで亜空間移動してもらい、お茶をしながら近況を報告したところ、帰り際に「戸締りはしっかりしてくださいね」と兄貴みたいなことを言わせてしまい途方に暮れた。担当編集者に家の防犯、しかも成人男性に対して子ども相手にするような心配をさせてしまった。情けなさが留まるところを知らない。また様子を見に来ましょうか、と言われたのは全力で遠慮したしもしドラ公に何か吹き込まれても無視するようにお願いもした。フクマさんにはフクマさんの仕事がある、俺のことばかり構っていては、彼に支えられているほかの作家さん方に迷惑がかかるだろう。彼は素晴らしい編集者だ、今は原稿に関わらない俺自身のことなんか、気にする必要はない。
 フクマさんを見送ったあとは本当はランニングでもしようかと思ったが、やめた。メビヤツにまた心配されそうだったのと、べつに、決して、怖気づいたわけじゃないが、こうもおっさん相手に一人での対処を失敗していると、さすがに気が滅入ってくるのだった。誰かに心配されて助けられるのもいやだし、自分がおっさんに勝てない状態が続くのも耐えられない。だからべつにほんと、ドラ公に言われたからじゃない。言われたって、結局何を言われたのかいまいちよく分かってねーけど。

“私がおっさん共に嫉妬しているって話だ”

 そんな話は今思い出しても確実にしていなかったと思う。ジョンと俺があいつにとって同等じゃないという至極当然のことを回りくどく喋っていたが、あれはあいつにとっては“嫉妬している話”になっていたらしい。嫉妬って、なんだ。
 嫉妬ってなんだ。
 一日かけてようやくあいつの言うIQ2億超の言葉が脳みそに届いたのか、夕暮れどき、俺はひとり、事務所で頭を抱えた。なんなんだ、あいつ。何なんだよ。
 おっさんに触らせるなと言っていた。それは不快だからだ。自分のものが、べたべたと他人に触られる嫌悪感。嫌悪を感じるのは、ドラルクは俺を自分のものだと思ってはいるが、俺はそうは思っていないからだという。当たり前だ。俺はあいつのものじゃない。ジョンのように永遠を誓った仲じゃないし、ゲーム機のような娯楽物でもない。俺は人間で、退治人で、あいつは吸血鬼で、……事務所の備品。そうだ。ものって言うなら、あいつの方がよっぽどものだろ。自分から転がり込んできたくせに、家主をもの扱いとはどうかしている。
 自分のものだと思ってはいるが、実際は自分のものではないから、催眠と言えどおっさんにべたつかれている俺に腹立っている。そして、そのおっさん共に嫉妬している。ああほら、ということは、え? 俺の言った通りじゃん。
 つまりやっぱり、俺に振り向いてほしーんじゃん。あいつ。
 そういうことだよな? 
……えっ?」
 つまりなに。
 あいつ、俺に触りたいってこと? ……。いや。
 っえ゜?
 益々意味が分からん。
 迷宮入りだ。解明は諦めよう。あいつと俺とじゃ感性が違いすぎる。だから俺のIQが低いわけではないはずだ。うん。……うん。考えるのやーめた! 一昨日買ったクッキーたーべよっと。



「グッイブニン、ドラルク。とりあえず起き抜けの一発」
「ンワァーーッッイブニング暴力ッッ」
 所謂モーニングコールだ。違うのは時間帯と暴力性だけ。
 棺桶の蓋を開けて寝起きすぐ殴られたドラルクは、砂になりながら何すんだ若造! と一緒に起きてきたジョンを抱き寄せながら叫んだ。何ってお前が言った通りのイブニング暴力だろうが。「てめーフクマさんに余計なこと言ったろ。ほかにも似たようなことしてねーだろうな」
 癖の強すぎる髪型に合わせたナイトキャップが棺桶内に落ちる。砂から再生し、垂れた前髪から覗く瞼が、途端に重怠そうに瞬いた。「きみ、外に出たのか。昨日あれほど言ったのに」
「お前がトイペとティッシュ忘れてくるからだろ」
 ぐう、ドラルクは寸の間黙った。「……だからって、一人で行くこたないだろ。まだ懲りてないのか? 夜まで待ってくれれば、……いやヒナイチくんやギルドの面子に頼りなさいよ。買い物くらい付き合ってくれるだろ」
「んな迷惑かけられっかよ。たかが買い物に付き添いなんて」
「一人で行って結局フクマさんに助けられたんだろうが。それは迷惑じゃないのかね」
 ぐう、今度は俺が押し黙った。ドラルクがすかさず言葉を重ねてくる。「だから言ったんだ、しばらく外に出るなと。お人好しで流されまくる若造が、パッと見は普通のおっさんのアタックを上手く躱せるわけがない。これに懲りたら、今夜からしばらく、外に、出ないことだ。……ねージョン、ジョンもそう思うよねえ?」
 ジョンに同意を求めんのは卑怯だろ。ヌヌン、ドラ公の腕の中から肩へ伝っていた可愛いマジロがどっちつかずの返事をする。俺はまごつきながら「だって」と眉根を寄せた。「仕事あるし。無茶言うなよ。……それに、外出ないからって、おっさんが来ないわけじゃねーし……」事務所でわけの分からない口説き文句を述べてきたおっさんをありありと思い出して、寄った眉が途端に下がった。あれ、怖かったなあ。結局話が通じないのが一番怖い。普段なら俺はそれを暴力で突破できるけど、今回は相手が人間だし、依頼人だったから碌な対処ができなかった。何度でも思う。おれ、かっこ悪い。情けないし、甘ったれだ。ヒナイチには本当に本当に申しわけないことをした。
 VRCで事務所での出来事も大まかに話していたため、ドラルクは俺の発言を蒸し返すようなことはしなかった。ただ、やはりかなり不機嫌そうに棺桶内で胡坐をかいて見せた。行儀悪く膝に肘をつき、頬杖をついて俺を見上げてくる。「じゃあ、私を連れて行けばいいだろ」
「は?」
「昼間は、まあ、無理だが。事務所内はメビヤツが守ってくれるから滅多なことはないだろう。だから昼間の外出は、そうだな。あらかじめ断り文句を決めておけばいい。そーいうのがあったら、きみも殴りやすいだろう」
「ちょっと待て。夜も駄目だろ。いいとは一言も」
「普段の夜と何が違う? 夜出かける分には、私がくっついていたっておかしくないだろう」
「いやだから、お前が嫌なんだろ。不快だから。そう言ったじゃねーかよ。俺がおっさんに何かされんのが、我慢ならねーって。だから一人で出かけるって言ってんのに」
「何もさせるな」ドラルクは真顔で言った。「きみは強いんだから。あんな虫けら共より。数値じゃ計れないほど、強いんだから」自分も雑魚のくせに、虫けら呼ばわりとは、結構乱暴な物言いをする。「殴ればいい。殴って、ぶっ飛ばしてしまえ。それが公序良俗に反すると言うのなら、おじいさまにでも頼んで、人間の法を丸ごと反転させてやるぞ。いいのかい、ロナルドくん」
 いいわけねーだろ。
 言いたかった声は、小さくも赤い瞳孔に見据えられると何も紡げなくなった。口を閉ざした俺を見兼ねたのか、「まあ若造は何言ってもお人好しだからな、容赦なく殴るには腹立たしいことに被害が少ないらしいから、マジでいざって時だけは暴力で解決してくれると信じてはいるよ」と先の発言を冗談とも本気とも答えずに口端を緩めた。笑みのまま続ける。
「だからさ。きみ、気にするなよ。きみがおっさんに迫られたところで、私が砂になるだけだ。ほかの誰かに迷惑をかけるよりは、私が不快な思いをしながら砂になってた方が万倍マシだと思わんか? これで決まりだ。今夜は退治依頼は? 私も行こう」
…………いや、」
 ようよう棺桶から立ち上がり、身支度を始める寝起きの同居人を目で追いながら、俺は誰かの客観的な意見が欲しくなって首を巡らせた。あいつの肩にいる可愛いマジロは残念ながらあいつの味方だからだめだ。もっと誰かべつのひと。ぶくく。水槽内の目と視線がかち合う。いた。一番の常識魚。ほぼ同時に口を開いた。
「どー思う、キンデメさん」
「吾輩を巻き込むな」
 どうやら常識魚にそっぽを向かれるくらいの事態らしい。それはそう。



 断り方をあらかじめ決めておこう、と言われた。要は、これこれこういう理由があるからあなたの要望は受け入れられませんし、強引な手段を取るようでしたらこちらもお暴力に訴えますわよ、というきちんと段階を得た抵抗だ。それなら、と思う。それなら俺もできそうだ。思えば、殴るか殴らないかで考えていたのが初手の対応を遅らせていた要因な気もする。相手がこちらの決めた規制線を無理に破った際は、遺憾なく殴って良し、というルールさえ設けておけば、自分であまり言いたくはないが、相手に流れに流されて変に触られることもないだろう。
 リビングテーブルに晩飯を用意した吸血鬼は、俺の向かいに座って不遜に腕を組んで言った。「唐突な告白とか、卑猥な発言をかましてきたらアウトだ。遠慮なく殴れ」
 いただきます、ジョンと共に両手を合わせてから、それぞれお椀を手に取る。
「でも、もしかしたらロナ戦のファンが急に感想くれた場合かもしれねーじゃん」言いながら、厚焼き玉子と焼き鳥が乗ったどんぶりを口に運ぶ。もぐもぐ、そばでジョンがヌイシイと鳴いた。わかる。充分に咀嚼して、飲み込む。「……下ネタだって、Y談おじさんに襲われたのかもしんねーし」
「じゃあ手を握られたらアウトだ。ほっぺもダメ」
「それだって、ロナ戦のファンかもしんねーだろ。ほっぺたは、まあ確かに。急に触られたら変だとは思う。よし、じゃあほっぺた触られたら殴る」
「馬鹿かきみは。頬触られる前にもっと過激なことされたらどーすんだ安直ルド。頭使えアホが」
 脊髄反射でテーブル下の足を蹴って殺したあと、ハッとして砂山に言った。
「じゃあ相手に煽られたら殴るわ。それなら毎日してるし間違うことはねえ」
「おっさん全員がきみを煽りながら手ぇ出すとは限らんだろ」
「埒が明かねえ。どーしろってんだよ」
 どんぶりを掻き込み、合間に漬物も食べる。ぽりぽり。おいしい。ヌイシイヌ、おいしいね、つぶらな瞳で見上げられ、ジョンに無意味な反抗をする気はないので素直にうんと頷く。しばらく一人と一匹の咀嚼音だけが続いていく。
 再生した目の前の同居人は飯を食べる必要がないため、俺よりよほどスムーズに会話を進められるだろうが、なぜか口を開かず、何も乗っていないテーブルに肘をついて押し黙った。思案している様子ではない。時たま、こういう時がある。人間が咀嚼している様がおかしいのか、たとえば可愛い生き物が食べ物を食べている様子は延々見ていても飽きないように──そこまで考え、内心眉をひそめる。俺はかわいくない──ただじっと俺を見てくることがある。最初はガンを飛ばされているもんだと思って睨み返していたが、飯から気を逸らしてまで無害なこいつを警戒するのも馬鹿らしくなって最近じゃ好きに観察させている。そう、観察だ。俺が飯を食っている様子はこいつの何かしらの好奇心を刺激し、注意深く眺める対象になり得るんだろう。まあ俺も、と思う。ドラ公がもし牛乳以外に何か食ってたらたぶん気になるし。そんな感じのあれだこれは。ワヤワヤ、もぐもぐ。
 野菜たっぷりの汁物にも手を伸ばし、一口啜る。味噌じゃない。濃いめの出汁だ。何の出汁かは俺には分からないけれども、美味しいということだけはわかる。しみる。うまい。
 黙々と食べ進める様にようやく満足したのか、ドラルクは視線を外し、人差し指の赤い爪先でテーブルをとん、と叩いた。「きみが私のものだと言えばいい」
 ぼそりと言われた声は低く、聞き取りづらい。「なんて?」ごくり。椀から口を離す。
「きみが私のものだと言えばいい」
 今度は真っ直ぐ、俺を見つめて言ってきた。
「そうすれば。きみは私のものだから、ほかの輩に触れさせてはいけないってなるだろ」
 俺は思わずジョンを見た。ジョン。あいつ何言ってっか分かる? ヌャーー……ジョンは俺と主人を交互に見て、あせあせと焦っている。俺の視線を引き戻すように低音が続ける。
「誰かに口説かれたり、手籠めにされそうになったら、私のものだからご期待には沿えませんと言えばいいんだ。それでも迫ってくるようなら、そしたら、奴らレイピスト紛いの盗っ人だ。罪状は重い。きみも存分に殴れるだろう」
「レイ、」
「なんだ。VRCでちゃんと聞いてただろ、おっさん共はきみを──」口を閉ざす。じゃりじゃりと砂が擦れる音が唇の内側からする。「……怖気の立つことを言わせるんじゃない。考えるのも嫌だ。きみが誰かに」食われるなんて、という言葉はほとんど砂と一緒に落ちていった。耐えきれなくなったらしく、顔から砂になって崩れていく。テーブルの上に残っている無事な手にジョンが泣いて飛びつき、赤い指先は小さな頭を宥めるように撫でている。
 俺は、頭のなくなった吸血鬼の首元のヒラヒラを見つめながら、えっ? と思っていた。えっ? えッエっえ゛ッえ゜……ゑ?

 こいつ何でそこまで、俺のこと思ってんの。

 自分のものだと思っているから。
 これだ。すべての解はこれに尽きるらしいが、俺にはこれが一番よく分からない。独占欲、執着、自分の城の従業員に対する庇護欲。そんなようなものを俺に抱いているとして、だからどうして、俺にそこまで関心を寄せているのかサッパリ分からない。面白いから。楽しいから。普段ならそれで片が付くのに、今回のこいつはまるきり楽しそうじゃない。これは享楽外の出来事で、それなのに、こいつは俺の面倒を見ようとしてくる。どうして。自分のものだと思っているから。なぜ。だめだいくら考えても円環から抜け出せない。意味がない。堂々巡りするばかりで出口がない。
「わ、」それでもどうにか糸口を見つけられやしないか、惑った俺の口はそう動いていた。「かった。わかった。次おっさんに何か言われたら、まあちょっと、その……頑張ってみるわ」
 肩から胸のあたりまでも砂になった。ジョンが泣く。ジョンを撫でていた手がテーブルの上を這い、文字を書いた。声に出して読み取る。
「チ、ヨ、ロ……皆まで言わせねえ」
 手も砂にしたし、ジョンは泣いた。食事を再開する。うん。うまい。



 ご飯を食べ終わったあとはパトロールに出向いた。
 今夜も今夜とて路上で野球拳やY談やビキニやゼンラが披露されているのでそれは注意しつつ殴っていき、概ね平穏に巡回を続けていく。途中、擦れ違ったショットやサテツにあれお前外に出て大丈夫なのかよと各々言われはしたが、力こぶをつくっておうと答える俺とその後ろで首を振るドラ公を見てあー、とこれは二人とも同じ言葉で締めくくった。何かあったら、相談してくれよ。
 俺も同じくああと答えて手を振った。何かあったら。何かあったらって、既に何かもうあってる感じだけど。だってやっぱりドラ公が変だ。
 退治人業は人気商売だ、俺は地域の清掃やボランティアにも積極的に参加してきたから、町ゆく人にもわりと顔見知りがいる。普段はそんなことないのに、今夜は町のひとたちに挨拶するたびドラ公が気を張り詰めて一歩、暗がりに忍んでいる気がする。いつもなら下手すると俺よりにこやかに挨拶しているくらいなのに。
「あのなー……
 夜にも関わらずよくちびっ子たちが遊んでいる公園を見回るため歩を進める。後ろをついてきている吸血鬼は、ほとんど俺の影みたいだった。
「会う人全員にそーやって警戒する気かよ。やめろって。人身に害有りの判押されても知んねーぞ」
「私いまそんなに畏怖い吸血鬼に見える?」
「不機嫌な不審者のおっさんに見える」
「ショック死」
 後ろで細かな塵になっている音がする。ジョンの鳴き声がないのは、今夜あのマジロは自分の趣味で忙しいからだ。なんだったかな。町内会の、フットボールか落語か、多趣味すぎてどれだったかハッキリしないが、とにかく、出かける間際まで俺に心配そうな目を向けてくれるものだから大丈夫だよーとでれでれ笑って見送ったため、今はいない。……愛しい使い魔には一匹で出かけさせるのに。なんで俺は。
 俺がドラ公のものじゃないから。
……わっかんね」
 ひとり呟く。
 公園の入り口に差し掛かり、中を覗いておっと声を上げる。今日はあのガキんちょども、いないようだ。良かった。夜は危ないんだから外出控えろって言っても何ひとつ聞きやがりゃしねーんだもんな。俺もガキんときあんなだったっけ? ……あんなだったかも。うっ。兄貴に苦労かけた記憶がドッと押し寄せてくる。兄貴。兄貴だけにはこの状態、知られたくない。
「ロナルドくん、あれ」
 背後からドラ公が声をかける。示された方を見ると、ベンチに人影があった。「おっさんだ」夜目が利く吸血鬼が真っ先に言った。「戻るぞ若造、ここに救助対象はいない」
「ばか。一応様子見るに決まってんだろ」
「こんな時間にベンチで一人座ってるおっさんは酔っ払いか家に帰りづらいかおセンチに浸ってるだけかだ、声なんてかけない方がおっさんのためだ」
「何か困ってるかもしんねーだろ。大丈夫だって、挨拶するだけ。いつもやってんだろが」
「いつもとはきみの状態が違、ああクソ。分かったよ」
 ずんずん歩いて行く俺の後ろを、ぶつくさ言いながらもついてくる。俺はおっさんの前まで来ると「こんばんは」と声をかけた。「吸血鬼退治人の者です。パトロール中なんですが、何かありましたら遠慮なくお声掛けくださいね」
 ゆら、俯いていたおっさんは顔を上げた。その目が俺の目を見つめたことに一瞬ヒヤリとしたが、次いでにっこりと人の好さそうな笑みを浮かべたことで完全に気が抜ける。おっさんはにこにこと言った。
「ご親切に、どうもありがとう」
「いえいえ」
「私が困っていたら、助けてくれるのかい?」
「俺にできることなら」
「じゃあ、すまないが、家まで送ってくれないかい」
 おい、とドラルクが何か言いかけたが、「いいですよ」と俺が眉を下げて承諾する方が早かった。「どこか具合でも? 大丈夫ですか」
 見たところ体調不良には見えないが、持病の可能性もあるし、頑強な俺には分からない感覚に襲われているのかもしれない。俺が膝を折り、立てますかと手を差し伸べたところで、おっさんはその手を取って自分の口許へ持っていった。えっと思う。おっさんの口が大きく開く。黒のグローブをつけた俺の指先が、その口に飲まれそうになる。
「おいおいおい、オイ゛!」
 それに待ったをかけたのはドラルクだった。叫びながらおっさんの手首と俺の手首を掴む。
「貴様いま何をしようとしている!? もしこの若造の手が飴か何かに見えているのなら貴様が向かうべき場所は家ではなくVRCか精神科だ! 我々が責任を持って送って行こう」
「飴? まさか」おっさんは俺の目を見て言った。「この手だよ。この手を食べちゃいたいんだ」
「ダウトォ!!」ドラルクは絶叫した。「れっきとしたアウトだ! 何をぼさっとしとるんだ若造さっさとこんな変態ぶっ潰してしまえ!!」
「えっあっえっと」
 ぎゅう、おっさんの指が俺の手に絡みつく。砂が叫んで纏わりつき、おっさんの手をどうにか引き剥がせやしないかと奮闘するも、暖簾に腕押し、糠に釘。びくともしない。「あ、あの。離して……
「どうして?」
 黒い目が俺を見つめてくる。にこにことした笑顔で、「私たち、きっと相性がいいよ」と顔を近づけてくる。
「あ、あいしょう」おうむ返し。
「そう。これって運命ってやつなのかな。きみに惹き寄せられるようだ」
「そ、それは、催眠が、」
「きみを食べたくて堪らない」
「た、たべる?」
「きみのあらゆる部位を口の中に入れて、食んで、舐めしゃぶって、そして分泌された液体を全て飲み干したい。まずは手から」
 たべる。
 つい数時間前の、夕飯時の会話が呼び起こされる。“考えるのも嫌だ”それがいま目の前に起こるかもしれない不愉快さとは、いかほどのものだろう。“きみが誰かに食われるなんて”ドラ公に目をやる。砂を掴んだ。
「だ、だめ、す」
 砂利が蠢くのを片手の内に感じながら、俺はおっさんを見つめ直して言った。
「すんません、駄目なんです。おれ、あの、アンタのものじゃないから……
「ほう。じゃあ誰のものなんだい?」
「え、えと……」じわじわ不随意に視界に水がせり上がってくる。体温が上昇し、鼻水が出そうになった。すん、鼻を啜る。「そ、そこの吸血鬼の、ものなんで……だからあの、離してください」
「ふうん」
 おっさんは脂下がった顔で頷いた。「でも、関係ないよね。とりあえず体から始めてみない?」
「はいはいはい今だぞ若造! 話の通じん奴には十万暴力!!」
「オラァ!!!」
 ──ゴッ……砂を握った拳でおっさんの眉間を殴る。おっさんは昏倒した。脱力した体をベンチに寝かせ、大した運動もしていないのに肩で息をする。「や、やった、やったぞドラ公!」砂を振り返る。「俺やったんだ! ちゃんと殴れたぜ!」
「ああやったな若造、さすが私が見越した暴力ゴリラなだけはある! 帰ったらバナナフリッターを作ってあげようね!!」
「ウエーーンやったーー!! もうお家帰るーー!!」 
 気絶した(させた)おっさんの前で感極まって砂山を抱きしめる退治人の図は傍から見て邪教の儀式のように映るかもしれないが、今だけはどんな目で見られても構わなかった。やった、やった! 俺は強い子やればできる子! 兄貴俺やったぜーー!! この場にはいない兄に諸手を挙げて喜んで見せながら、握っていた拳を解く。さらさらと零れた砂が集まり、形を成して、吸血鬼の姿に戻った。せっかく解放してやったと言うのに、がしり、なぜかドラルクが再び俺の手を握ってくる。
 にぎにぎ、にぎり。脆弱な力だ。まるでジョンの腹毛を掻きまわすような。
「触られたのは腹が立つが」
「ン、うん?」
「若造にしては上出来だ。本当によく頑張ったな」
 べつに。
 尊敬して止まない兄貴に褒められたわけじゃないのに。
 ピアスが急に冷たく感じる。俺は帽子のツバを下げて目許を隠した。「う、うるせー。こんなことで、」……そんな嬉しそうにすんな。口の中だけでもごもご言う。こんなことで。
 だって、あれだろ。お前がいますっげー優しくて嬉しそうな顔してんの、俺がおっさんを殴ったからだけじゃなくて、俺が、お前のものだって言ったからなんだろ。なんだよ、それ。なんなんだよ。
 お前は俺をどうしたいんだよ。
……ドラ公。ケーサツ寄って、帰るぞ。今日はも、つかれた」
「ああ。帰りにバナナ買って行こう」
 手が離れる。俺はほっと息を吐いた。おかしい。
 こいつに催眠なんて効かないはずなのに、こいつに触られるのがいちばん、へんになる。



 その後数日間、俺は何人ものおっさんを警察送りにした。
 夜道で道を尋ねるふりして抱きついてきたおっさんを「ひとのものに勝手に触るんじゃありません!」というドラルクの絶叫とともに殴り倒し、寄った店でトイレに連れ込まれそうになったときは「大人ならトイレくらい一人で行け!」という真っ当な意見とともにおっさんを蹴り飛ばし、日が暮れてから事務所に訪ねてきて急に服を脱ぎだしたおっさんに向かっては「ここはそーいう店じゃねーー!」と俺も叫んでぶっ飛ばした。ちなみにやはりほかに迷惑がかかるのは本意ではないため昼間はなるべく出かけないようにしたし、昼に訊ねてきた変態はみんなメビヤツが撃退した。メビ優秀! 愛してる!

 それから、変態なおっさんと遭遇していくうち、家でのドラルクの態度がおかしくなった。
 もとからおかしなやつではあるが、更に顕著になっている。かなり分かりやすい。なんというか。
 触られることが、多くなった。

「今日はどこ触られてたっけ」
 河川敷で相撲に扮して組み敷いてきたおっさんを撃退したあと、事務所に帰って来てすぐさま風呂に入った。そして風呂から上がって開口一番、ドラルクが言った。最早毎度お馴染みの台詞になってしまっている。
 最初に、どこ触られたの、と訊かれて素直に答えてしまってから、ずっとだ。おっさんに迫られ、やむなく触られた箇所を、帰って来てから、こいつはやたらと確かめたがる。一番初めは、今思うとあの公園だ。手を握られた。
 道を尋ねてきたおっさんに触られた背中は、あの細っこい手指でくすぐられるように撫でられた。トイレ連れ込みおじさんには肩を抱かれたので、家に帰ってからは体の側面にぴたりとくっつかれた。事務所で全裸になりかけたおっさんは、胸を触ってきていたので、おっさんを追い出してからずっとドラ公は俺の胸に耳を当て鼓動の音を聞いていた。おかしいと思う。
 おかしいと思っているのに、殴れない俺が、一番おかしいけれども。
……こ、腰……
 ソファベッドに座り、もだもだ答えると、リビングはしんと静まり返った。おかしい点がもうひとつある。この数日、こうやって帰ってくるといつの間にかリビングにジョンもキンデメも死のゲームもいなくなっている。視界の片隅で、事務所へと通じるドアがアルマジロの小さな手でぱたんと閉められるのを捉えた。リビングには二人しかいなくなる。
「ど、ドラ公」
「腰だけじゃないよね」
「え?」
「だってきみ、相撲取らせて押し倒されたんだぞ。というか相撲取らせるな、いい大人が河川敷で」
「だ、だって相撲取らなきゃ死ぬって言われて……
「そんなもん相撲部屋にでもぶち込んじまえ。で? どこを触られた。押し倒されたとき、相手がでかすぎて見えなかったんだよ。腹か? 頭か? 見事に潰されていたからな、全身と言っても過言じゃないだろうが」
……お」何となく言ったら不愉快な気持ちにさせるんだろうなと思って、ワンクッション置く。「怒らねー?」
 ドラルクは俺の隣に腰かけて、海外アニメのキャラクターみたいに細長い脚を組んだ。「怒らない」うそだ、と思う。「怒ったところで、きみにゃ屁でもないだろ」それは確かに。
 俺は視線をうろつかせ、小さく答えた。「耳。舐められた。ちょっとだけ」
 どさくさに紛れて右耳に這わされた舌の感触を思い出し、ぶるりと身震いする。おっさんの荒い息遣い。べたべたと湿った体温。硬い河原の石。シャワーで流しても容易に消えない。立った鳥肌を腕を擦ってなおす。
 ふと目の前に影が落ちた。脚を組んでいたはずのドラ公が、体勢を崩して、俺の肩を押した。
「え、なに」
 いや分かっている。このあとくる台詞も知っている。“……触らせて”
「触らせて」記憶にある声より幾分か剣呑にドラルクが言う。「きみは私のなんだから」
「で、でも」
 じりじりと尻をずらして後退する。ドラルクがその分距離を詰めてくる。あれ。あれれ。デジャヴ。でもどんなデジャヴとも違う。
 だってドラルクはおっさんじゃない。
 おっさんだけど。二百歳越えの大長寿だけど。でもそうじゃなくて。気持ち悪いおっさんじゃないって意味で。そうなんだよ。気持ち悪くない。
 だから困っている。だからイヤなんだろ。
「み、耳、舐めるのはちょっと……
 濡れた髪がソファの肘置きにつく。ドラルクを完全に見上げてしまっている。上に乗られているというのに、体重は不安になるほど軽い。そして、低いが、体温を感じる。体温のある軽い生き物が上に乗っているという状態は、たとえ相手が吸血鬼でも、多少の恐怖を覚える。……振り落として殺しちゃったらどうしよう。いや、こいつだからいーんだけど。
「なぜ?」
 眉間に皺を寄せて首を傾げられた。「ほかの男には舐めさせて、私は駄目なの。きみは私のなのに?」
「ち、ちがう。それは方便で」
「そうだね。でも、私がきみを自分のものだと思っているのは真実だ」
「う」
「だから我慢ならない」
 ぐ、と体重が移動して、俺の体に圧し掛かってくる。低く静かな吐息と、冷たい皮膚、柔らかなにおいを気持ちがいいと思って、思ってしまって、俺はあっと声を上げた。気持ち悪くないから、イヤじゃない。じゃなくて、気持ちがいいから、良いってことか。嘘だ。何で。
 閃きと混乱の「あっ」は、ちょうど腰を触られたときに出たので、ドラルクは特に不思議には思わなかったようだ。腰を滑り、撫でてくる手が、衣服越しの肉と骨の形を辿るように動く。
「ど、どら、」
 ぞわぞわと腰から背中、背中からうなじへと伝うものがあり、不安になって名前を呼ぶ。上手く呼べたかどうかすら分からない。ただ、呼ばれたドラルクは、ふと笑って更に体を密着させた。ぎゅう、抱きしめられる。
「ひっ」
 首筋にほんのり冷たい感触がすべる。吐息を感じる。うぶげが立った肌を、唇が触れるか触れないかの距離で辿っていき、やがて左耳に行きついた。
「どらこ、やだ」
 そのままその冷たい唇が、俺の耳たぶを、食んだ。
 ちゅ、と軽く鳴った音に、カッと血液が沸騰する。瞬間的に涙が滲んだ。やだ。……やだ。つめたい、冷たい。熱い!
「ど、どらこ、ドラルク! やだ、いやだってば、あっ」
 咎めるように腰を撫でていた手がへその下、下腹部を押してくる。びりびりと内腿と足先が痺れた。なに、なにこわい。俺のからだなに、どうなってるの。なにこれ。
 目を白黒させている間に、耳たぶを食んでいた唇が、齧る動きに変わる。あの尖ったところのある歯が、ピアスの刺さった薄い肉をカチカチと噛み、今度はもっと重い音で、ぢゅ、と吸った。
「~~……ッひ……ぅ」
 びくっ、と震えた拍子にぎゅっと瞑った眦から涙が零れる。そうやって耳の外側を齧りつくすと、今度は耳の内側に、濡れた感触を突き込まれた。
「あっ!? や……! やだっどらこー! やだっ、」
 突きこまれたそれが舌だと気づいて目を見開いて叫ぶが、その声も片耳を塞がれた状態ではひどく弱々しく聞こえた。ひやっこくて、ぬるぬるとした先の尖った舌が、耳孔の縁をなぞり、気まぐれに奥まで入ってこようとする。俺はとうとう泣きながら、ドラ公のマントを引っ張った。力がそんなに入っていなかったらしい、やつは砂にもならずに、ひたすらに俺の耳をなぶる。腰も撫でられ、びくびくと体が跳ねる。
「ぁ、うっ~~……ッひうっ」
 下唇を噛みしめる。おかしいおかしい。こんなの知らねえ。生まれてこの方、こんな反応を示す体じゃなかったはずだ。なんなんだこれ。なんだこれは。
 ドラ公は俺をどうするつもりだ。どうしたいんだ。こんなびくびく打ち上げられた魚みたいに震えさせといて、それで笑うでもなく、何がしたいんだ。
 そう、笑ってはいない。
 視線を感じる。どんなおっさん共の視線より深く、鋭く、細い針のように突き刺さってくる。
 やっぱり、と思う。
 やっぱり怒ってる。
「ひ……っく、どら、どらこ」
 混乱も相俟ってしゃくり上げてようやく、ドラルクは顔を上げた。
「ご、ごめ、……おこるなよ、やだ、」
 ドラルクはぱちりと瞬いた。突き刺さっていた視線が、砂のように崩れてなくなる。
「えっ」
 となぜか困惑したように漏らし、ドラルクは慌てて俺の上から退いた。
「怒ってない。あー、怒っ……てはいたかもな、確かに。ウン」
「どっちだよ」
「どちらにしろ、きみに招かれないまま泣かすのは本意じゃなかった。あぶねー。ロナルドくん、一旦私を殺せ、完膚なきまでに」
「ン」
 思い切りグーパンをかます。俺に降ってきた砂を払い落とし、床に落ちた砂を念入りに踏んで、文字通り完膚なきまでに殺してやる。すると砂が「助かった」と言った。もうずっとだが。なんだこいつ。わけが分からん。
 
 




 そろそろ催眠にかかって一週間は経とうとしていた。

 最初の数日間は日に二度か三度、おっさんに迫られたが、後半の五日目や六日目に差し掛かってくると効果が切れかかっているからか、日に一度おっさんからいかがわしい目で見られちょっと距離を詰められる程度にまで落ち着いた。そうなってくると、何かされたり騙されたりする前に逃げの一手を打つことができ、俺はもうすっかり、安心しきっていた。何せ事務所に戻ってもドラルクに触られることがない。もうあんな、耳を舐められたりとか、急にこわいしいやだし。あーいうことが起こらないとなると、気持ち悪くはないとは言え、心理的安心がやはり大きい。
「ドラ公、おれ明日VRC行ってくる」
「じゃあ私も」
「昼間にだよ。お前は寝てろ」
「は? 夜に行けばいーだろそんなもん」
「そろそろ催眠切れてるころだし大丈夫だって。それに、目的は駅近で売ってるシュークリームと吸対なんだ。夜は売ってなくてさ」
「シュークリーム? 私作れるけど」
「お前のじゃ駄目なの」
 ドラ公は明確に眉をひそめた。俺はその顔を見て「ちげーって、」弁解のようなことを口にする。「お前のが嫌いなわけじゃなくて。ヒナイチに、あげる約束してんだよ」
「ヒナイチくん? ああ、言ってたやつか。助けられたお礼」
「そーいうこと」
「なら猶更、私も何か作らねばな」
 黒いエプロンを手に取り、キッチンへと向かう。「我が下男を助けてくれたのだ、城主の私が礼をせずに誰がする。しかもここ一週間はおっさんの受け渡しとかで世話になりっぱなしだったし。彼女の顔見た? 美少女にあんな顔させるもんじゃないぞ」
「いや、……
 ……誰がお前の下男だっての、ここは俺の事務所だ、という反論は、なぜか開いた口から出てこなかった。口を開いたくせに何も言ってこない俺を訝しんで、ドラルクがカウンター越しにどーした、と眉を上げて見せる。どーしたもこーしたも。「お前ってさ、」俺のこと、ほんとに、……その先は結局、言葉にできなかった。ほんとに? ほんとに、何だってんだろう。ついに口を噤んだ俺を見て、何を勘違いしたのか、「なんだ、仕方ないな」とドラルクが偉そうな態度で言う。「きみの分も作っといてやる。それにきみ、この間のクッキー全部やったんだろう、知ってるんだぞ。明日の夜はデザートに期待していろ。真っ直ぐ帰ってこい、いいな?」
 まるで本当に子ども相手に言い聞かせるような言葉だ。俺は顔をしかめて見せたものの、「ん」とぶっきらぼうに頷いた。



 駅近の噂になっているシュークリームは販売時間が区切られていて、朝と、昼の数時間しか購入できない。時間ギリギリの14時に手に入れ、右手にヒヨシ隊全員分のシュークリームが入った箱を、左手にはドラルクが昨夜用意したクッキーの大袋を持って吸対の本署へと向かう。
 これを渡したら、その足でVRCに行くつもりだが、確認するまでもなく催眠の効果はもう切れているという確信がおる。事務所から出て人の多い駅に寄っても、シュークリームの列に並んでも、もうおっさんに言い寄られるどころか不躾な視線を送られることすらなかった。ほ、と息を吐く。勇んで出てきた手前、また何かあったら何度目かのばつの悪い思いをすることになる。勘弁だった。
 それに、ずっと俺にべったりで一人での外出を何かと阻止してきたドラルクが、文句は言いながらもこうして一人で行かせたということは、催眠効果の解消は確定のように思われた。もう一人で出歩いても大丈夫、とお墨付きをもらったというわけだ。……俺は5歳児じゃねえ。

 何事もなく目的地に辿り着く。清廉潔白な建物。
 何といっても敷地内は警察の管轄内だ、だからだろう。……完全に油断していた。

 受付を済ませ、エレベーターに乗り、階に到着して下りる。下りたところで目の前にひとりの男が立っており、俺は避けようと端に寄る。一瞬だった。
 男に右腕を捻り上げられ、エレベーター内に押し込まれた。シュークリームの箱が床に落ちる。
 ここまでは、まだ、冷静だった。私服だったが、銃は念のため持ち歩いていたからだ。咄嗟にクッキーの袋を自分から放り、ジャケットの裏側、ガンホルダーに伸ばした手は、しかし空振る。馬鹿かよ、自分で自分に思う。当然だ。ここは警察だぞ、受付で銃刀の類は預けただろ。
 でもまだ俺には拳も脚も、何なら頭だってあった。右腕だけでなく左腕も掴まれたが、すぐさま頭突きをかまそうとした頭は、けれども、相手からの頭突きによって防がれた。ガンッ、目の奥に火花が散り、その火花を消すために涙が湧き出る。頭突きをまともに食らった鼻の奥から血臭がする。「……ってめェ」痛みと混乱で頭に血がのぼり、そののぼった血が鼻から垂れていく感覚がする。感覚のままに最早一般人相手の手加減すら制御できず、思い切り腕を振り払った。ふらついた体を殴ろうとしたところで、白い隊服を着たおっさんがすかさず口を開いた。
「退治人ロナルド。アンタ、ヒヨシ隊長の弟だな」
 ぴた、振りかぶった拳を止める。相手の目を見る。あ、と思った。しまった、とも。そしてやっぱり、馬鹿だ、とも。
 四十は超えているだろうおっさんの目は、ギラギラと血走った眼で俺を見つめていた。頭突きのせいだけじゃないだろう、その目は潤み、光って、熱を灯している。この一週間、嫌と言うほど向けられてきた眼差しに似ている。いや、それより執念深い。男がぐ、とその顔を近づけて囁いた。
「バラされたくないんだろう、あの隊長の弟だと。黙って俺について来い」
 うわーあ。
 ほんとに何やってんだ、俺。



 仮眠室に連れ込み、扉に鍵をかけ、こんな日をずっと待っていたんだ、と男は言った。
 言いながら俺の両手を後ろで拘束し、和室に敷いてある布団に引き倒すと、両足首もガチガチに縛った。無抵抗だったわけじゃないが、何かと喚いていた口は早々にガムテで封じられたのでほぼ無抵抗と同義だった。おそらく本気を出せば勝てるだろうが、この男は先ほど俺を脅している。脅すということは、被害が俺だけに留まらないかもしれない、ということだ。
「アンタいま、おかしな催眠にかかっているんだろう」
 ふごふが、男の言葉にガムテープ越しで応えるのは至難の業だった。腰に乗り上げてきた男を睨んで是とする。……まずい。腹筋で起き上がるにも、縛られた足で捩るにも、絶妙に力の入れられない、人体の構造を理解した体重のかけ方だ。吸対の制服は伊達じゃない。市民の安全を守るために鍛錬を重ねただろうに、どうしてこんなことに力を使ってしまうのか、まるで分からない。
「俺は今まで、まっさらな経歴のもと生きてきた」俺より倍は生きているであろう男が鼻息荒く語った。「犯罪歴はもちろん、ちょっとした違反も、マナーですら犯さず、清廉潔白に生きてきたつもりだ。けど、この町にきて、生まれて初めて。どうしてもぐちゃぐちゃに犯したいものができた」
 ふう、うっとりとした虫唾の走る溜め息がまつ毛を揺さぶる。
「アンタだ」
 と、男が俺の左胸を撫でて笑った。
「アンタだよ、吸血鬼退治人ロナルド! 最初は単純にファンのつもりだった、週バンに載るたびにその日一日はずっとソワソワしちゃってさ! だが、違うんだ。違うんだよ、俺はアンタが好きなんだ。民衆や吸血鬼のものになどするものか! 自分だけのものにしたいんだ、──ああ、鼓動が上がった。嬉しいな、俺と同じ気持ちだろ?」
 唾を吐こうとし、もちろんできず、首を思い切り横に振って意思を示す。男はそれを見てつまらなそうに口端を下げたが、すぐにまた相好を崩した。「言っただろう、こんな日をずっと待っていたって。俺に汚点はない。だって催眠のせいだからな」
 今まで前科もない男が、常日頃俺のことで妄想していたとしても、それだけでは罪にはならない。そして、初めて罪を犯してしまったとしても、これは吸血鬼の催眠のせいだと正当化できる。何せ彼は前科者じゃない。犯罪者予備軍だとしても実害がない。ただ俺をぐちゃぐちゃにしたいと思っていただけの、性癖が歪んだ、一般シンヨコ警察官。
 くそったれ。
 頭にふつふつと血がのぼってくる。鼻血が止まっていない気がする。ぐず、呼吸した鼻は鼻水と血が混ざり汚い水泡を吐き出した。くそ、くそ、くそ──悔しい。こいつは勘違いをしている。ぶん殴りたい。ぶっ飛ばして、思い切り叫びたい。

 俺が。
 俺が一体、誰のものだと思って。

 何か重要なことを叩き出した脳みそが、唐突に理解した。この催眠にかけられた最初のころ、おっさんに迫られ、口にしそうだった言葉を、いまになって理解した。

 ど。
 咄嗟に出てくる『ど』から始まる言葉など、ドラルクしかない。
 どつくぞ、もあるだろうが。しかし俺は、あのとき、確かに、ドラ公の名前を無意識に口にしようとしていた。

 それは今もだ。
 口が塞がれていなければ、ドラ公、と言ってしまいたかった。助けて欲しいからじゃない。あいつは俺を助けられない、だけどサポートはできる。俺が最大限の暴力を発揮するための、悪戯好きの才能が。でもダメだった。ここにサポート役はいない、俺を自分のものだと主張してくれはしない。何だつまり。最初っからとっくに。俺は自分を、あいつのもんだと思ってたってことかよ。だから、ドラルクに対してこんなにも罪悪感を抱いている。──このままだとあいつ以外の男に触られてしまう。

「おっと。泣いてもいいが、暴れるなよ」
 ぐち、男が濡れそぼった鼻を摘まんでくる。息ができず、体を捩って睨み見上げる。
「アンタの兄貴に、バレてもいいのか? 退治人の弟が、職場の同僚に犯されるなんてさ。さぞ失望するだろうよ」
 ひぐ、喉の奥で声が潰れた。抵抗しようという気がみるみるうちに失せていく。男の脅しは完璧だった。鼻から手が離れる。指についた血液混じりの鼻水を、あろうことか男が舐めようとしたとき、仮眠室のドアをノックする音が響いた。

 二回、控えめに叩かれたかと思うと、一際大きくガンッと扉を殴ったか蹴ったかする音が部屋を揺らせた。男の動きが止まる。振り返るのと同時、ガチャリとドアが開かれた。
 寝転がっていた俺からドアを開けた姿は視認できなかったが、間髪入れず男をぶん殴った白い髪は認識できた。見間違いもなかった。──兄貴だ。
 入り口から布団までの距離を一足飛びで詰め、その勢いのまま男をぶっ飛ばした兄貴は、俺に「大丈夫か」と跪くとガムテープを剥がし抱き起してくれた。
「あ、あにっ、あにき」
 混乱と安堵と情けなさでぶわっと涙を溢れさせた俺を見て、俺の頭を一度乱雑に撫でたあと、部屋隅まで吹っ飛ばした男のもとへと向かう。そして鳩尾を土足で踏み潰した。男が濁った悲鳴を上げる。
「よう、何度か見た顔じゃな。お疲れ。仮眠はできたか? ちぃとばかし訊きたいことがあるんじゃが。目は覚めとるな?」
 もとから低い兄貴の声が、一段と低い。
 俺に背を向けている兄貴は、後ろ姿でも、カッコイイ。俺を助けに来てくれた。かっこいい。カッコいい、けど。
 けど、なんか。
「ああ、あんまり長く答えるんじゃにゃあよ、簡潔にな? じゃあ訊くぞ。おまえ、俺に殺されたいんか?」
 ──っこ。
 ……こわい。
 げほっ、男が咳き込みながら、嗄れ声で答える。
「できるのか? そんなことしてみろ、アンタ首じゃすまねーぜ」
「試してみるか」
 それを聞いた俺はしゃくり上げながら兄を呼んでいた。「に、にーちゃん」
 兄貴が俺を見る。俺とは違う凛々しい目を瞠ったあと、「まっ、……間違えた」と裏返った声で言った。
「う、嘘じゃぞ~、にーちゃんがそんな倫理の外れたことするわけにゃーじゃろが」ドゴッ、男を蹴って気絶させながら、慌てて「もう大丈夫じゃからな、こいつには然るべき処罰を受けさせる。おみゃあが気にすることはな~んもないでな、あーよしよし怖かったなあ」と俺をぎゅうぎゅう抱きしめてくれる。俺は白い制服の肩口を涙と鼻水と血で汚しながら、今度こそ心底ほっとして、子どもみたいに大泣きしてしまった。あにきかっこいい。
 
 
 
 どうして兄貴が俺を助けることができたかというと、何のことはない、兄貴がいた部屋からたまたま俺が本署に入っていく姿を見かけていたからだ。そのまま課で待てども俺が来なかったから訝しんで廊下に出た際、俺が持っていたシュークリームの箱とクッキーが転がっていたので監視カメラの映像を確認した。すると仮眠室に連れ込まれた俺の映像があったので、予備の鍵を持って突入できたというわけだ。「半田がおったらお前のにおいでもっと早く助けられたんじゃが……生憎あいつもヒナイチも外廻り中でな。すまんなあ」と眉を下げた兄貴に向かって俺は全力で首を振った。助けてはくれるだろうが、積極的に醜態を晒したくはない。

 兄貴が全て任せろと言ってはくれたものの、一応調書の作成のため被害状況を説明していくうち、兄貴の顔がどんどんと険を増していった。綺麗な顔の不機嫌というのは迫力がある。それをまざまざ見つめていた俺は、どんどん声を小さくして「その、それで、兄弟だってバラされたらまずいかなって……抵抗しちゃだめかなって。でも、そしたら兄貴が助けに来てくれて……ほんとにごめんなさい」と縮こまって報告を締めくくった。
 ほかに他人はいない、二人きりの小部屋で、兄は顔を両手で覆った。つまり俺に見られたくないということだ。その仕草ですら俺の何かが気に障ったからだと思い、益々縮こまる。俯いて泣きそうになったとき、兄は顔を上げ、俺を真っ直ぐ見つめて言った。
「おみゃーは俺の大事な弟じゃ」
「う、うん」
「おまえを恥ずかしいなど、ただの一度も思ったことがない。それはこれからもじゃ」
「あ、あにき」ぶわっ、顔中に血が集まる。鼻に詰めていたティッシュがまた血で濡れるのを感じた。「お、おれっ、これからも兄貴の名に恥じないよういっぱい頑張るぜっ」鼻を押さえながらも握りこぶしをつくって振る。
「あ、ああ。ウン」
 兄貴は曖昧に笑って頷くと、「おみゃーが頑張って守り切った秘密、これ以上公にしたないじゃろ。やっぱり俺が上手い具合に誤魔化しとくから、おみゃーはもう帰れ。あ、一人で帰るなよ。送ってくから」と席を立った。そしてテーブルの上に乗せていたシュークリームの箱を開けると、「ヒナイチより先に食べたこと、言うんじゃにゃーぞ」と言って落としたせいで潰れて中のクリームが飛び出ているそれをひとつ掴んで、食べた。「ン、美味い。ありがとな。クッキーも皆で美味しくいただくから、ドラルクにもそう言っといてくれ」付け髭についたクリームを指で拭い、髭ごと取れて顔をしかめている。俺は、あう、と鼻を押さえた。
 俺が気にしないように、形の崩れたシュークリームをわざわざ目の前で食べてくれたんだ、と気づけるくらいには、俺は自分の兄が優しいひとだと生まれたときから知っている。
「あにきかっこいい……
 とうとう鼻血がティッシュと指を押しのけて垂れた。……うう。俺はなんてかっこわるいんだ。
 


 家に帰る前に、VRCにも付き合ってもらった結果、俺の催眠は既に完全に解けているとのことだった。
 あの男の思惑は当てが外れたというわけだ。催眠のせいじゃなく、自分の意思で俺を襲った。VRCでの研究報告書と合わせれば処罰は重くなるだろう。「僥倖じゃ。法でボコボコにしてやる」隣で兄貴がぼそりと言った。吸対になっても悪は許さない、やっぱり兄貴は何になってもカッコイイ。

 事務所に着くころには、すっかり陽が沈んでいた。雑居ビルが見えてきたあたりで、もうここまででいいよと言ったのに、俺がおまえともうちょい話したいからな、と嬉しいことを言って事務所の扉前まで送ってくれる。ドア越しの事務所内は明かりが点いていなかった。……ドラ公はまだ起きていないらしい。
「じゃーな。しっかり戸締りするんじゃぞ」
「うん」
「知らんひとが戸を叩いても開けるなよ。まず確認してからじゃ」
「う、うん」
「そいつが俺の知り合いだって言っても、開けるなよ。今度にしてもらえ」
「んう、うん」
「それから、電話は出てもいいがよう分からん相手やったら話聞くんじゃにゃーぞ。すぐに切れ」
「ンンっ、ぐ、うん」
「あと、外で誰かが助けを求めても、まずはひとを呼」
「あっあにき! 俺そんな子どもじゃねーから! 大丈夫!」
 事務所の前で堪らず声を上げる。兄貴は俺を疑う眼差しで見上げてきたが、それはそうじゃな、と言ってばつが悪そうに笑った。
「じゃ、俺は戻るから。おみゃあ今夜は仕事せずに休めよ」
「う……
「返事は」
「うん」
「よし。じゃあな、おやすみ」
「お、おやすみなさいだぜ、兄貴。今日はごめ……ありがと」
 謝ろうとしたが、眉間に皺を寄せて首を振られたので、お礼を言う。兄貴はころりと笑って手を振った。遠ざかる背中を見えなくなるまで見送り、ほ、と息を吐いて事務所の鍵を開ける。ドアノブを捻り、開いた。
 中はブラインドが下がり、ほぼほぼ真っ暗だった。ドアを閉め、壁のスイッチを押す。

 天井の明かりが点き、消えた暗闇が眼前にあった。

 眼前どころか、鼻先だ。
 そして暗闇じゃなくドラ公だ。俺は驚いて叫びながら拳を突き出した。目の前で砂が散る。散った砂が俺にまとわりつき、後退らせた。後退したところで後ろはすぐドアだ、背中と後頭部が勢いよくぶつかる。
「い゛っ」
 痛ぇ。特に鼻。後頭部からの衝撃が鼻奥にまで突き抜ける。散々冷やして血も止まったのに、頭突きを食らった鼻はまだじんじんと痛みがある。俺が涙目で怒鳴る前に、暗い色の砂塵が言った。
「どこを、触られた?」
 砂が左手の形をつくる。手袋の再生が間に合っていない。赤い爪が、頬を擦る。
「お兄さんから聞いた。きみを一人で行かせるべきじゃなかった。頬か? 胸か? それとも足?」右手も再生していく。オレの腰を辿り、太腿を掠る。「まさか体の中は触られてないよな」砂が集まり、白い手袋が形成され、袖が、服が、およそドラルクの全てを形作っていく。そうして最後に首から上を再生して、ドラルクが言った。
「全て教えろ。きみにはその義務がある。何せ私のものなんだからな」

「ど、」

 腰が抜ける。
 ずるずるとしゃがみ込む。たら、鼻から止まったはずの血が流れた。顔が熱い。鼻が痛い。目の奥が痺れる。
 俺を追って跪いた吸血鬼は、俺の顎を掴んで口を開けた。牙が見える。長い舌も。舐められる、どころか。食われる、と思った。
 
 けれども俺にはもういい加減ハッキリさせたいことがあって、「ま、まて」と弱々しく顔の前に手をかざしていた。指の股にドラ公の鷲鼻気味の高い鼻尖が挟まる。俺は言った。

「お、お前ってさ、……お、おれのこと、ほんとに、すっ……すき、だよな?」

 いい加減、ネタは上がってるんだ。すきなの? じゃなく、すきだよな? と断定にしたのには、それなりに理由も証拠もある。
 だってそういうことじゃなきゃ、おかしい。俺のことをただの城の下男だと思っているわりには、だって、手を、手を出し過ぎだと思う。
 今回のことで、そして先刻のことで俺は正しく自覚できていた。ほかの男に触られたあと、ドラ公が俺を触ることを、“手を出している”と。そして何より大事なのが、俺が、ほかの誰でもないこの俺が、手を出されていると感じてもなお、それを許しているということだ。
 おれが、お前のものだと言うのなら。もっとほかに、言うべき言葉があるだろう。
「お、おまえがちゃんと、口で好きって言ってくれるなら、俺だって、」おまえのものだと、面と向かって、言ってやらんこともない……ごにょごにょ。
 後半はほとんど口の中で呟くだけになったが、大事な部分はちゃんと言えていたはずだ。黙り込んだ吸血鬼に、どうだ図星を突いてやったぜと半ば得意になって掌越しの顔を見つめる。
 ドラルクは顔を離し、図星を突いてやったわりには不可解な表情をして言った。

「私たち今どんな話してた? 好き? 今ちゃんと日本語だったよな。ゴリラって飛躍も凄いんだな、ちょっと待って。私が追いつけない」

「俺がお前を殺しますって話だ。歯ァ食いしばれ」

 殴った。砂になる。ジョンはいない。メビヤツも寝ている。俺は殴った手で適当な砂を掴み、血が流れている鼻の下に擦りつけた。ドラルクが形容しがたい声で叫ぶ。俺も泣きながら叫んだ。

「こーいう話だよ、ばーーーーーーか!!!!」










この話のロナルド・・・好意を無碍にできないお人好し。強いが流されやすい。が、自分から流されていってもいいかなと思うのは同居吸血鬼にだけの、一途な芯の強さはある。お前が俺を好きだって言やあ、俺だってそれなりの態度をごにょごにょ。
この話のドラルク・・・ロナルドくんは私のもの。できれば触りたいし舐めたいし食べたい。は? 好き? 何言ってんだ若造。これは吸血鬼特有の執着であって恋とかそんなんじゃ、っつーか恋って何だ恋って。……恋とは。
この話のヒヨシ・・・優秀な部下二人から弟の現状を聞いてはいたが、まああの吸血鬼もいるし自分の出る幕はないだろうと静観を決め込んでいたというのに。おっさんをぶっ飛ばしたときの弟の怯えた顔を見て「(憧れの兄貴が人殺し→弟の理想の兄貴像が崩れる→間違いなく珍走団入り→理想の兄貴を演じねば)間違えた」と言った作中屈指のやばい男。