私の周りではひとりで何でもする素敵な方が多いのよ、キャスカさんは夜遅くまでお仕事を頑張っているしガッツさんはどこへでも自由に行ってしまうし、私よりうんと幼いシールケさんやイシドロさんもしっかり自分のことは自分でしているわ、なのに私ときたら、私ときたら……こうして屋敷に戻る時ですら迎えに来てもらって。何とか言ってちょうだいセルピコ。お前とてそう思っているんでしょう、私はひとりじゃ何もできない、ただの鼻持ちならない金持ちの娘、おまけに癇癪持ちの脛に傷持ち! いらないものばかり持っているなかでお前だけが全てだわ、そうセルピコ、お前も同じですよ、ひとりで何でもできてしまうんだから。だからどうか私を甘やかさないで……。
それって僕が素敵な方のひとりってことですかぁ? とはさすがの軽薄さを持ってしても訊ねられなかった。
茶化そうと思えば茶化せたが、そうしてしまえばきっと目の前で思い詰めていらっしゃるファルネーゼ様の機嫌をもっと損ねかねないし、そもそものところほかにもっと大事な突っ込みどころがあったので、間を置いたのち私は随分慎重に口を開いた。
「ファルネーゼ様。キャスカさんと違ってあなたはまだ学生ですし、シールケさんやイシドロさんたちとは育ってきた環境も違うでしょう、できることできないことは人それぞれですよ。それに送り迎えは仕方ないです、それが徒歩通学の条件ですし」
「でも……」
「ガッツさんは放浪者なので比べるべきではありません」
「けど、」
「第一あの男はひとりで何でもできるんじゃありません、ひとりじゃないと何もできないんだと思います」どうやらキャスカさんだけは特別らしいけれど、胸のうちだけでつけ加えておく。口にしたら少し前を行く主の下がった眉が更に下がるか、狭い眉間にくっきり皺が寄ってしまうことが、見られなくとも分かるからだ。
「けれどセルピコ」ファルネーゼ様は毅然とした態度で言う。「育ってきた環境が違うと言うけれど、お前は何でもできるじゃない。私と一緒に育ってきたのに」
「そりゃ側仕えですからね。あなたの。従者ですよ。大抵のことができないとお側にいられません」
「お前がそうやって何でもできてしまうから、私は」一度黙りこくり、そして口を開く。「……とても理不尽なことを言いそうになりました。ごめんなさい。私がこうだから、いつも世話をかけるのですね」
いま手元に食器類がなくて良かった、私は思った。ポットなど持っていたら確実に床に落として割っていただろう。しかし今は下校中で、私の手元には何もなく(ファルネーゼ様の鞄さえ持たせてもらえなかったことに実のところかなりやきもきしている)、動揺を悟られるには彼女の半歩後ろを歩きすぎていた。半歩前を行く神学校の制服に包まれた背中はいつもより心なしか丸まっている。
成長したなあと思った。
彼女の外側に跳ねた短い髪を見ながら、この髪が長かったころのことを思い返して溜め息を吐きそうになる。確かに主は鼻持ちならない金持ちの娘で、癇癪持ちの脛に傷持ち、その傷を私にも持たせて泣き縋ってくるようなどうしようもない我儘な女の子だったけれど、私はそれでも別に構わなかったのだ。自分には何もできないと思っているようだけど、あのころだって確かに、僕にはできないことを彼女は苛烈なまでの感情を以てやってのけていた。あんな嵐のような感情に巻き込まれるのも、決して悪くはなかったのに。
今や台風の目のなか。穏やかになっても、そこが私の中心であることに変わりはない。
「私にもできないことはありますよ」
言うと、ファルネーゼ様は首筋で切り揃えられた毛先を跳ねさせながら振り返った。「本当に?」その天色の大きな瞳がまあ嬉しそうに煌めいている。
私ははいと答えて糸目のままぬけぬけと言った。
「自分で目薬させませんもん、僕」
大きな瞳が打って変わってじとりと見てくる。自分とは違う感情豊かな彼女の目が私は好きだった。
「セルピコ……」
「本当ですよ。お屋敷に戻ったら確かめてみますか? あんまり無様なので、秘密にしときたかったんですけれど」
「また甘やかそうとしている?」
「まさか! ただファルネーゼ様が私に目薬をさしてくださるなら、これからはわざわざ侍従長に頼まなくて済むなァと思いまして」
「……分かりました。しっかり確かめさせてもらうわ。早く戻りますよ、セルピコ」
さっと踵を返した主の背中に待ってくださいよファルネーゼ様と追いかける。もういつも通りの凛とした姿勢だった。
そのことに僅かばかりの安堵を抱えながら、これくらいの甘やかしは許して欲しいと考える。だって彼女を甘やかすことは、すなわち私の甘えでもあるからだ、私はまだひとり立ちできるほど成長していない。
素敵な部分なんてどこにもないな、胸中ひとりごちた。
※
幼いころヴァンディミオン家の獰猛な番犬と追いかけっこをさせたり庭園の大きな池に突き落としたり私の秘密の火葬場に連れ回しても怯えひとつ見せなかったあのセルピコが、いまは私の前で目をぎゅっと閉じて歯を食いしばっている。
頬を張ったことも幾度とある、その時だってお前、そんな顔をしなかったと言うのに、どうやら目薬をさせないということは事実らしい。私の優秀な従者は明確に眉根を寄せて上向いている首さえ亀のように引っ込ませ、私の手に持つ目薬からいつ雫が落ちてくるかと身構えていた。
「……セルピコ。目を開けて。それではさせないわ」
「開けてますよ」
「まつ毛をくっつかせて何を言っているの」
「上下のまつ毛がくっつくほど細いんですよ、目が。ご存知でしょう」
「私はお前の瞳の色を知っているわよ。これが開いている状態なら、知らないことになるけれど」
「何色ですか?」
「青よ。私と同じ。私より濃いかもしれない」
「……確かめてください」
それからセルピコは観念したように瞼を薄く持ち上げた。しかしその瞳の青さを確かめるより、目薬の先端を視認してしまう方が早く、再び瞼がぎゅっと閉じてしまう。「……セルピコ」「本当に苦手なんですよ。命の危険もないのに、なぜわざわざ目にこんなキテレツなものさすんでしょう」「命の危険があったらさせるの」「たとえばそれが剣先なら、あるいは。私は目を開いたままでいられるでしょうね」「時々、お前が何を言っているのか分からなくなる」これが剣の切っ先なら目に刺せるというのだろうか。そっちの方がキテレツだ。
けれど気分はだいぶ良かった。今まで随分世話をかけてきて、世話をかけてきたことに気づいたのでさえ最近な役立たずの主を持つこのひとりで何でもできてしまう従者が、目薬という至極簡単なものをさせないのがひどくおかしい。いままで必要になったら侍従長にさしてもらっていたと言ったがどうして私は気づけなかったんだろう、思って、またひっそりと反省する。それは私が、見ているつもりでセルピコのことを全然見ていなかったからに違いない、きっと。
「セルピコ。目を開けなさい」
「無理です。でも、ご命令ですか」
「私の目を見て」
私とお揃いの色のまつ毛がぴくりと震える。金髪碧眼など、この国の名家では大して珍しくもない。でも私が小さなころから毎日毎日、お父様やお母様、お兄様たちよりずっと長い時間、この目にしてきた色は、確かに彼の金色だった。毎朝鏡で見る自分の色と同じくらいだ。その色の縁取るまぶたが、おそるおそる開いていく。
そうして目が合った。まあるい青に金と薄青が映る。
「……ほらやっぱり。お前の方が少し青が濃いのよ。ちゃんと見えていますか?」
「ええ、はい。まあ。相変わらずお綺麗ですね」
「相変わらず目が細いわね」
「だから言っているでしょう。限界なので閉じていいですか?」
「駄目です。まだ見られていなさい」
「ファルネーゼ様」
抗議的な声音と視線を無視し、それでも命令だと思っているのか律儀に見つめてくる紺碧を見つめ返す。今まで全然見えていなくても、この色を間違えることがなくて良かったと安堵する。私のことを誰よりも見てきてくれていた瞳だ、それすら気づくことができなかったら、私は今よりもっと愚かな主になっていただろう。
だからどうか、許してほしい。遅いかもしれないが、これからは私でも役に立てるように。お前が見ていなくても大丈夫なように、せめて、見ている時だけでもひとりで立っていられるように、少しずつ。そうなって見せるから、どうかまだ、見捨てないでほしい。
そのための一歩が私の右手に握られていた。
「私の目を見ていなさい。逸らしては駄目ですよ。そう、そのまま……」
「ファルネーゼ様」
それからぽとりと。
一滴の雫が彼の目に落ちた。瞬時に紺碧が隠され、わあっと情けない悲鳴も上がる。左の眦を滲ませたセルピコの頬へ咄嗟に手をやり、輪郭を掴みがてら、指の背で少々強引に水滴を拭う。「まだ右目が残っています、ほら目を開けて」
「勘弁してください、ファルネーゼ様。本当に。もう充分です。お分かりじゃないんですか?」
「分かっていますよ、お前が本当に目薬が苦手だということ」
「いえそうじゃなく、そうなんですけど、そうでなく」
「まぶたを開けて、しかと私の目を見なさい。セルピコ」
横暴だ、と彼がぼやく。「……ええ見ますよ、見ますとも、ご要望とあらばいくらでも」
「宜しい」
にっこり、開けられた目に満足げな私の顔が映り、そして、また一滴の雫によってすぐに滲んで流れていった。
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