北風が強く吹き、より強く肌を刺すような痛みを残していく。場所が河川敷というのもより寒さを掻き立てた。菊はひとつ身震いして、耐え凌ぐように力強く目を瞑った。耳の周りがズキズキと痛んで堪らない。肌が乾燥するよりも、手が悴むことよりも、寒さで耳が痛くなることが菊は冬で何よりも苦手だった。そもそも外に出るのがあんまり好きじゃない。
「菊!」
それでも、苦手を押してでも外にいるのはもちろん理由がある。
子供特有の可愛らしい声が聞こえて、きゅうっと胸が擽ったくなる感覚がした。心がぽかぽかと温かくて、思わず笑みが零れてしまう。菊が視線を声の在処に向けると、あどけない笑顔で手を振る彼の姿がそこにあった。
「うさぎさん。見つかりましたか?」
「ああ、5つ」
「わっすごい!」
うさぎさんの前にしゃがむと、ずいっと彼の手の中にあるものを見せられた。丸い緑色の葉を4つ付けた小ぶりの植物が、手袋が嵌められた小さな手に掴まれながら、ちらりと顔を覗かせている。多年草のために冬でも青々としていた。
現在、私たちは四つ葉のクローバーを探している真っ最中であった。元々休日はうさぎさんとの散歩を常としていて、その目的地は日によってまちまちだが、今回は途中で偶然『幸福の植物』について話が飛び、どうせなら探してみようということで今2人で挑戦しているのだ。
「私はまだ一つも見つけられていなくて…うさぎさんは幸せを見つけられる天才ですね」
「ふふん」
うさぎさんは誇らしげな表情を浮かべ、そして自慢げに胸を張った。私も釣られて嬉しくなって、つい彼の赤い頬を撫でてしまう。大人とは違って乾燥していない、瑞々しくてもちもちとした可愛い頬っぺ。私の手はきっと冷たいだろうに、彼は私の行動を嫌がることなく、むしろ私の手に擦り寄った。
「菊の手、冷たいな」
そうは言いつつも離れる素振りは全く見せず、目も閉じられて表情は柔らかい。
「ごめんなさい、手袋を忘れてしまって」
クリスマスイブの夜、案の定走っている途中で手袋を落としてしまい、それから新たに誂えた黒い手袋。防寒性にも優れ、デザインもシンプルなそれは、うさぎさんとお揃いのものだった。「さすがにお揃いは嫌がられるかもしれない」と恐る恐る差し出して、その結果「べっ別に嬉しくなんかないんだからな!(耳をパタパタと動かしながら)」という反応が返ってきたときの喜びは筆舌に尽くし難い。
その手袋を忘れてしまったのだ。そうして少しだけ落ち込んでいると、うさぎさんはすぐに私の手を取って、ぎゅっと握る。
「し、仕方ないから俺が温めてやる」
「……うさぎさん」
「本当なら俺の手袋を貸してやりたいけど菊には小さいし。だから仕方なく…仕方なくだぞ! 菊がおっちょこちょいだから」
「うさぎさん」
「な、なんだよ」
うさぎさんは頬っぺを赤くさせ、そっぽを向きながら何やら随分と可愛らしい言い訳を述べていた。それがどうにも堪らなくて、わたしは──…
「抱き締めてもいいですか」
「はっ!?」
「抱き締めます」
「はっ!??」
繋がれた手はそのままに、もう片方の腕で彼のことを抱き寄せた。彼が苦しくならない程度に思いっきり抱き締める。うさぎさんも怖々と抱き締め返してくれて、より一層愛おしさが増す。ぶっきらぼうだけどとびきり優しい、可愛い可愛い私の家族。ぎゅうぎゅうと胸が締め付けられて、それが堪らなく幸せだった。
あのクリスマスから随分経った。
12月25日のおやつ時、やっぱり熱がぶり返してしまった彼は、それから3日間ほどベッドのお友達になっていた。私は彼の負担にならない程度に側にいて、うさぎさんもまた徐々に心を開いてくれるようになった。一週間も経てば、出会った当初と比べて随分と口数も増えていた。
『なぁ、警察には連絡しないでくれ』
じゃないと『アイツ』のところに帰らなくちゃならなくなる、と震える声で、けれどもしっかりとした口調で、彼は自分の素性と意思を語ってくれた──3年間、前の保護者のところにいたこと。初めの1年は普通だったが、徐々に態度がエスカレートしていったこと。そして自分は確かに捨てられて、もう戻るつもりもないということ。だから暫くの間ここに置いてほしいということ。
もちろん私はそのお願いを受け入れた。一緒に過ごす日々の中、できるだけ彼を怖がらせないように、慎重に「愛している」という気持ちを伝えていった。あの日口にした「幸せにしたい」という言葉は本物だと彼に示していった。うさぎさんは実に誠実な子で、最初は私の行動に僅かに怯えを見せていたが、彼もまた私の気持ちに段々と応えていってくれた。そのことがとっても嬉しかった。
「(かわいいかわいい、たった一人の私の家族)」
うさぎさんとしたいことがたくさんある。チョコを作ったり、お花見をしたり、海に行ったり…挙げていくとキリがない。彼とたくさん幸せを築いていきたいのだ。けれども、その期日は──『冬の終わり』は刻一刻と近づいてきている。
「…? 菊?」
「あれ? キク!」
うさぎさんの怪訝そうな声と、男性にしては高めの声が重なって耳に届いた。ここで聞こえるはずのない声だったために、ついビックリして、私は後者の声を優先させてしまった。
「フェリシアーノくん?」
「やっぱりキクだ!チャオチャオ〜。元気にしてた?」
オレンジブラウンの髪に糸目気味の目、そして温和な雰囲気を持つ男性──フェリシアーノくんが土手に立っていた。チャーミングポイントのアホ毛をくるんとさせながら、彼はこちらに元気よく手を振っている。私がうさぎさんを抱いて立ち上がろうとしているうちに、彼は瞬く間に階段を駆け下りてこちらに辿り着いた。彼はいつものように両腕を広げたが、しかしこちらに伸ばすことなく、パタパタと上下に忙しなく動かすのみに留まった。
「はい、私はもう全然。フェリシアーノくんは?」
「俺は元気だけど、インスピレーションは風邪気味かも」
「おや珍しい」
「そう?プロになってからこんなことばっかだよ」
描きたいものが描けないんだ、としょぼくれたように言う友人を見て少し目を見開く。素晴らしい作品を次々と作り出していくイメージしかなかったから、こうやってスランプを嘆く姿は少し意外だった。いつものほほんとしているけれど、彼にも彼なりの苦労があるらしい。
ぎゅ、と背中の服を掴まれて、菊は目線を横にずらした。額を肩に押し付けている姿が見えて、二度彼の背中を撫でた後、そっとふかふかの兎耳に口元を寄せた。
「ご紹介しても宜しいですか?」
そのままの姿勢で良いので、と付け加えると、少し間を置いた後にうさぎさんはこくりと頷いた。外に出るのは慣れたようだけれど、人と話すのはまだ苦手なようだ。それでもよく頑張ってくれている──最初の威嚇状態に比べれば大きな進歩だ。菊は彼にひとつ謝意を伝えて、もう一度前に視線を戻した。フェリシアーノは朗らかな笑顔でこちらを見守ってくれている。
「フェリシアーノくん、こちら、前にお話した『うさぎさん』です」
「キクから話は聞いてるよ〜。俺はフェリシアーノ!キクとは高校生の頃からの友達なんだ。今は絵を描いたり壺作ったりしてるんだよ」
そこで彼は言葉を区切って、その高い背を少し丸め、私の腕の中にいるうさぎさんを覗くような姿勢になった。覗くと言っても威圧感のあるものではなくて、距離もある程度置いてあるし、フェリシアーノくんらしい温和な雰囲気に満ちている。うさぎさんもそれに勘づいたのか、肩に埋めていた顔を恐る恐る上げて、ほんの少しだけ顔をそちらに向けた。
彼らの視線が交わると、フェリシアーノくんは花が綻ぶような笑顔を見せて「ゆっくりでいいよ」と言った。
「分かってるから大丈夫。ゆっくり仲良くなって…いつかキクの話ができたらいいな。俺、高校生のキクのことはよく知ってるけど、最近のことはあんまり知らないからさ。たくさん聞いて、たくさん話そう」
うさぎさんは一回ぱちくりと瞬きして、それからゆっくりと頷いた。するとフェリシアーノくんはにぱっと笑って、「ヴェー」と彼特有の鳴き声を上げる。そのやり取りは思いやりが満ちていて、ぽかぽかと温かかった。
彼は昔からちょっとヘタレなところがあるけれど、それでも人徳には定評があった。学生時代に私が落ち込んでいたときは、いつだって優しい言葉を掛けてくれたし、ずっとそばにいてくれた。まるで向日葵のような人で、勿論迷惑をかけられたこともあったけど、それ以上にたくさんの温かさをくれたのだった。今回は偶然の出会いだったが、うさぎさんとフェリシアーノが知り合ってくれてよかったと心底思う。
「あっそうだ!ちょうどよかった、キクに話さなきゃいけないことがあったんだ」
「私にですか?」
私が僅かに首を傾げると、彼は眉を下げて、しおしおとした顔つきになってしまった。さっきまでの大輪の花が萎んでしまったみたいだ。次いで「ごめんね」と謝られて、頭の上にさらに疑問符が飛ぶ。
「な、何かしたんですか…もしかして借金とか…?」
「そんなことしないよ!そうじゃなくて…明日、菊の誕生日でしょ?」
ぴくり、と腕の中の体が少しだけ動いた。
私は「え?」と言葉を漏らして、目の前の友人の言葉を反芻した。誕生日? …待て、今日は何日だっけ?
「今日は2月10日だよ」
「…本当ですね。すっかり忘れていました」
「キクのおっちょこちょい」
「面目ないです」
今度は私がしおしおとした顔つきになった。
自身の齢が20を過ぎてからはもうずっとこんなことばかりだ。友人や同僚に言われてようやく思い出す程度で、自分で祝うことはめっきりなくなってしまって。寧ろ周囲の誕生日の方がちゃんと祝っているかもしれない──2月に入る度に胸をそわそわとさせていた学生時代が懐かしい。
くい、と服を引っ張られる感覚がして視線を彼に向けた。ゆらゆらと揺れる翠玉がすぐ近くに見える。
「菊、誕生日なのか?」
「ええ。明日が」
「明日…」
そう言ったきり、うさぎさんは口を噤んでしまった。満月色の眉毛がふるりと震え、瞼が悲しげに伏せられる。うさぎさん、と彼を呼ぶが、返ってきたのは沈黙のみで、彼はそのまま肩に再び顔を埋めてしまった。
「ヴェー…キク、言ってなかったの?」
「はい…」
「だめだよ、言わなきゃ。お祝いの準備だってたくさんしたかったはずなんだから」
「…お祝い」
ぱちりと瞬きをしてから静かに呟いた。お祝い…、もしうさぎさんが私の誕生日を祝ってくれるのなら、そんなにも嬉しいことはない。でも、果たして本当に祝ってくれるだろうか。
確かに私は彼にたっぷりの愛情を注いできたし、うさぎさんもそれに応えるようになってきてくれている。これは自惚れではなく、客観的に私たち2人の関係の変遷を見てもそう思う。だけどどうしたって不安は残るのだ──…
「あ!」
フェリシアーノくんの明るい声が、思考の海に漂っていた私の意識を引き上げた。彼は「名案を思いついた」と言わんばかりの輝かしい顔をうさぎさんに向け、ひとつ断りを入れてから、ふわふわの毛並みの耳に口元を近づけた。すぐ近くにいる私でもよく聞き取れないほどの小さな声だが、さすが兎というべきか、しっかりと聞こえているらしく、耳が可愛らしくぴくぴくと動いていた。
2人が内緒話を終えて顔を離すと、フェリシアーノくんは人差し指を唇に当て、うさぎさんに向かってウインクを飛ばした。一方の彼は神妙に頷いて、それからきゅっと口を一文字に引き結ぶ。これは尋ねても教えてくれなさそうだ。
「それでね、キク。誕生日プレゼントのことなんだけど」
「…?ああ、はい。どうしました?」
まるで何事もなかったかのように話を再開するので、反応するまでに少し間が空いてしまった。菊は首を傾げてから友人の話の続きを促す。しかし当の友人は両人差し指をつんつんと突き合わせながら目線を彷徨わせて、中々本題を切り出そうとしない。そうして数秒経って、ようやく「あのね」と切り出した。
「せっかくだし、キクに何か絵をプレゼントしたいな〜って思って描いてたんだけどね。その、間に合いそうになくて」
「…もしかして、それが謝罪の件ですか?」
「うん」
「そんな、別に構いませんよ。お気持ちだけでも嬉しいのに」
菊が緩やかに首を振る一方で、フェリシアーノはぶんぶんと勢いよく横に振った。
「俺がよくないんだよ。キクにはすごくお世話になったから、絶対に当日に間に合わせたかったのに」
ヴェー…と本日何度目かの鳴き声を零す彼は少ししょんぼりしていて、だけど菊にとってはその光景がちょっとだけ微笑ましい。彼としては本当に『お気持ち』だけでも嬉しいのだ。
それをフェリシアーノも分かっているのか、すぐに表情を切り替えて、だからね、と続ける。
「その分たくさん心を込めて描くから、楽しみにして待ってて!」
「ふふ、はい。お待ちしております」
2人は花が綻ぶように笑った。
「じゃあねー!」
手を振りながら茜色に溶けていく彼の姿を見送って、菊は腕の中にいる彼の頭をひとつ撫でた。
「私たちも帰りましょうか」
「うん」
真っ直ぐ続く土手の道をのんびり歩いていると、風が一際強く吹いて身震いする。2月上旬はまだまだ寒い。帰ったらすぐにお風呂に入ろう、それで夕飯は…お鍋でもいいかもしれない。簡単だし、うさぎさんもちょっとだけならお手伝いができる──うさぎさんは喜んで家事のお手伝いをしてくれる、とても良い子なのだ。
「菊」
「はい、うさぎさん」
「これ」
目の前に出されたものを見て目を丸くした。四つ葉のクローバーが4本、うさぎさんの小さな手に握られている。促されるままに受け取ると、彼の手の中にずっといたがために、茎にはじんわりと温かさが残っていた。
幸せを象徴する植物が、夕陽を受け、手の中できらきらと輝いている。菊はやんわりと笑って「これを私に?」と尋ねた。
「少ないけど…、菊が誕生日って教えてくれなかったから」
「その節は大変申し訳ありませんでした」
「ほ、本当に怒ってるわけじゃない!ただ…」
「ただ?」
うさぎさんは口をもごもごとさせながら、上目遣いでチラリとこちらを見た。私は何も言わずにただ見つめ返して、ゆっくりとした歩調で道を歩き続けた。私たちの間に穏やかな時間が流れて、気づけばもうすぐそこが家だった。
「ただ、ちょっとだけ悲しかったんだ。あのフェ…アホ毛が言ってたみたいに、俺だってちゃんと祝いたかったから」
「…そうだったんですね」
菊は瞼を伏せて、ゆるりとまた持ち上げた。鍵を開けて家の玄関に入り、うさぎさんのことを廊下に下ろすと、そのまましゃがんで彼のことを柔く抱き締める。
「ごめんなさい、うさぎさんに意地悪したかったわけじゃないんです。大人になってからは誕生日のことを忘れがちで、自分でも滅多に祝わなかったものですから…だから、うさぎさんの思いが本当に嬉しいです」
「…うん」
「ありがとうございます」
口元が緩んで仕方がない。今この体制で、彼から私の顔が見えない姿勢でよかったと強く思う。だって今絶対にだらしない顔をしているから。そんな顔、とてもじゃないけどうさぎさんに見せられない…今更かもしれないけど、大人の意地だ。
「(ああ…)」
控えめに背中に回される小さな手から、触れた体から、じわじわと熱が伝わって2人の境界線を溶かしていくようだった。温かさに心が歓喜の声を上げている。うれしい、うれしい、もっと、もっとずっと。
うさぎさんから祝われるとぎゅうと胸が締め付けられる。でも、それは決して幸福によるものだけではなくて。
「…眠れませんか?」
「いや…そうじゃなくて…」
うさぎさんが布団の中でごしごしと瞼を擦る。いつもベッドに入るとすぐに眠りに落ちる彼が珍しく起きているから心配したが、呂律が回っていない様子を見るに、ちゃんと眠くはあるらしい。彼は引き続き目をしぱしぱとさせて、必死に睡魔と戦っていた。
「おれ…プレゼント、とくべつなもん、何もないから」
「…え?」
「せめて…いちばんにおめでとうって言いたいんだ…」
どくりと鼓動が一際大きな音を立て、息が詰まった。
うさぎさんは最後まで抵抗していたが、結局日付が変わる一時間前には瞼が落ちてしまっていた。今は穏やかな寝息を立てて、天使のような寝顔をしている。
菊は彼の傍に体を寄せ、それから起こさぬように優しく抱擁した。ぎゅうぎゅうと胸が苦しくて、こうでもしないと幸福で溺れ死んでしまいそうだった。
幸せ、しあわせだ。こんなにも素敵な子に「一番に祝いたい」と言って貰えるこの今を、たまらなく幸福に思う。今すぐにでもはしゃぎ回りたくなるほど嬉しくって、幸せで──だからこそ、這い寄る『終わり』を感じる度に否応なく不安に襲われる。
一緒に暮らす期限は冬の終わりまで。確かにまだ寒いけれど、これからひと月かけて段々と春に近づいていく。別れが背後にある。すぐそこまで迫る春がどうしようもなく恐ろしくて、こんなにも冬の寒さが愛おしいと思ったことはなかった──それくらい、この生活が愛おしい。
「(……まだ、一緒に)」
両親が早くに死んでから、ずっとひとりぼっちな気がしていた。引き取り先の親戚に辛く当たられたとか、仲がいい友達がいなかったとか、別にそういうわけじゃない。彼らは私の新たな『家族』になろうと親身になってくれたし、フェリシアーノくんたちもとても良くしてくれていた。ただ──彼らの家族を見る度、彼らにとって唯一の存在を見かける度に、私が勝手に疎外感を感じていただけのこと。私には『唯一』がなかったから、それが酷く虚しくて…。
だからこそ、うさぎさんという家族の存在が、私にとってはとても輝かしい存在に思えたのだ。「お互いにとってお互いしかいない」という関係に私は溺れた。もう浮き上がれないところまで来てしまっていた。
手放したくない、手放せない。引き止めたらこの家に住んでくれるだろうか。邪な考えが頭をよぎって、すぐさまそれを打ち払う。この子の旅立ちの邪魔になるのは嫌だ。常にうさぎさんの『幸せ』を最優先にしたいから、この子の足枷になるのだけは嫌だった。
それでも一緒に暮らしていくうちに、どんどん欲が膨らんでいく。うさぎさんとともに歩めたら、私はどれだけ幸せだろう。うさぎさんと別れてしまったら、私はどれだけ孤独だろう。
こんなにも大きなベッドにひとりぼっちなんて、きっともう耐えられやしないのに。
*
身を震わす寒さで目が覚めた。
「…ん、」
やけにベッドが広く感じた。
「……、うさぎさん」
彼は腕の中にいなかった。
きゅう、と嫌な音を立てながら胸が締め付けられる。こんなにも悪い気分の苦しみは随分と久しぶりだった。
忙しなく騒ぐ鼓動の音がうるさくて、胸元の辺りの服を思い切り掴む。しかし拍動は落ち着くどころか速まる一方で、やけに耳に大きく届いて煩わしかった。呼吸も荒れて、頭はぐるぐると回ってるはずなのに覚束なくて、目の前の状況をちゃんと認識できなくて。ちがう、多分、分かりたくなくて。
いやに冷たく感じるベッドから体を出して、布団の外の寒さに身を震わせながら、足裏をひんやりとしたフローリングにくっつけた。最近は意識していなかった寒気がここに来て妙に付き纏っていた。
リビング、お風呂、トイレ。
氷のような冷たさのドアノブを回す度に手の熱を奪われて、だけどこの手を温めてくれる子はどの扉の先にはいない。明かりも付いておらず、あの子もいない、青白い空間。まるで数ヶ月前にタイムスリップしてしまったようだった。
「──」
最後のドアノブに触れる。手はとっくのとうにかじかんで、凍えるような寒さをどうにか溶かしてしまいたかった。
扉の向こうの光景には、手袋はなく、上着もなく、踏み台が使われた形跡だけが残っていた。もちろんあの子はどこにもいない。
扉の取っ手を力強く握り締め、思いっきり宙を睨んだ。このまま早く乾けばいい。次いで漏れ出そうになるものを何とか飲み込んで、もう零さぬように堅く唇を引き結ぶ。絶対に今不細工な顔をしている。だから、あの子が今ここにいなくてよかった。
「(何を自惚れていたんでしょう…)」
実は一緒に暮らす期限なんてとっくに切れていたのだ。確かに私は「冬が終わるまで」とは言ったけど、さらに「せめて雪が止むまでは」とも付け加えていたから。だから彼がその気になればいつだって出て行けたし、うさぎさんがそうしなかったのは、一重に私のことを受け入れてくれたからだと思っていた。「あの子が望むなら引き止めない」と考えている一方で、「きっとこの先もずっと暮らしていくんだろうな」なんて心の隅で思っていた。実際は何の覚悟もできていなかった。
でも、まさか、今日だなんて。さすがの彼でも意地が悪すぎる。だって一番に祝いたいって言ったのに。
「(だけど、理由もなくこんなことをする子じゃない)」
きっと気付かぬうちに傷つけてしまっていたんだ。精一杯愛しているつもりで、でも結局それはひとりよがりに過ぎなかったのだ。幸せにするだなんて、口だけで。それがどうにも不甲斐なくて、情けなくて、消えてしまいたかった。
この先、ひとりの家で暮らしていかなければならない。前まではそれが当たり前だったんだから、別になんてことはないはず──それでも、胸にぽっかりと穴が空いていて。
「菊?」
お月様は不意に目の前に戻ってきた。
ガチャリ、と音を立てながら扉が開く。満月色の髪が朝日を受けながらきらきら輝いて、心を掴んで離さない。
「うさぎさん?」
驚愕とも安堵とも取れぬ感情がぐるぐる渦巻いて、菊は茫然自失になりながらふらりと玄関扉の方へ近づいた。立ったままうさぎさんに手を伸ばし、彼の頬に掌を添える。
「つめたい…」
「うん、外に出てたからな」
でも寂しい冷たさじゃない。
途端に張り詰めていた糸が切れて、菊はへなへなとその場に座り込んだ。うさぎさんはすぐさま目をギョッとさせて「菊!」と声を上げた。
「だ、大丈夫か? 寒い? 風邪引いたか?」
「ちがいます、いえ、寒いには寒いんですけど…そうじゃなくて」
ぼろぼろと大粒の涙が零れて止まらない。ああ恥ずかしい。もう立派な大人なのに、よりによってこの子に泣き顔を見られるなんて。一生の恥だ。
嗚咽を何とか飲み込もうとして、失敗して、縋るようにうさぎさんの裾を掴んだ。今日誕生日を迎えた人の姿とは思えないほどにみっともない。恥ずかしい。
「しんぱいしました」
「心配…してくれたのか」
「しますよそりゃあ。私があなたのことをどれだけ可愛いと思っているか、うさぎさんはちっとも分かってないんだから。外に出る分にはいいですけど、今度からは一声……」
違う、そうじゃないでしょう。
あの日、上っ面だけの言葉は口にしないって決めたのだ。この子は人一倍に悪意や嘘に敏感だから、せめて誠実でいようって。正直な気持ちを伝えようって…。それに、今日だけでもう一生分の恥は晒してる。今更何を取り繕うことがあるのか。
ひとつ深呼吸をして、だけど鼓動は落ち着かなかった。多分顔も赤いままだし、羞恥心で視線を合わせられなくて、ずっと下を向いていた。
「怖かったです。うさぎさんが出ていったんじゃないかと思って、恐ろしくて。何かしちゃったかな、とか、幸せにするなんて口だけだな、とか、辟易して……ちがいます、言いたいことは、これじゃなくて」
怖くて、とてもじゃないけど上を向けなかった。あの日、真っ直ぐ見つめ返してくれたうさぎさんのことを思い出して、改めて彼の強さを認識する。
「私、前はひとりが苦手じゃなかったんです。友達が嫌いとかそういう訳じゃなくて、ただ気楽で、慣れていたから…でもうさぎさんと暮らしてから、ずっと一人が怖くて。いつか出て行ってしまうと分かってるのに、もうひとりぼっちの生活には戻りたくないって、そう思って…ごめんなさい」
「…どうして謝るんだ?」
咎めるような口調の言葉は、確かに優しさに満ちていた。その事実だけでまた涙が溢れそうで、懸命に堪えようとして、またもや失敗した。フローリングに小さな水溜まりが幾つかできて、何だか余計に恥ずかしかった。
「うさぎさんの幸福のための足手まといになりたいわけじゃないんです。でも、今貴方に出て行きたいって言われたら、きっと引き止めてしまうから──…ごめんなさい、貴方を『幸せにしたい』なんて言っておいて…私は結局、無責任な人間でした」
「菊」
ふわりと頭に何かが乗る感覚がして、私はようやく顔を上げた。彼と視線が交わり、翡翠の瞳がやんわりと細められた。「やっと目が合った」と朗らかに言ううさぎさんは、蕩けるような笑顔を浮かべている。彼は私の両手をやんわりと握ると、また口を開いた。
「俺の方こそ黙って外に出たりしてごめん。菊のこと驚かせたかったんだ…一応、書き置きとか残したし、あのアホ毛もメッセージ送ったって言ってたんだけど」
「き、気がつきませんでした」
余程気が動転していたらしい。
さらに気恥ずかしくなって、うう、と苦し紛れの声を上げた。けれど──アホ毛、とはフェリシアーノくんのことだろうか。どうしてここで彼が出てくるのだろう。
疑問を感じ取ったのか、うさぎさんは「頭のやつ」とだけ零した。指示に従って手を頭に伸ばすと、硬いものが手に当たる。そのまま怖々と触っていれば、何となく今被せられている物の正体が分かった。
高鳴る鼓動をそのままにそれを頭から下ろす。
緑色の茎が束となって円を描き、外側に小さく丸い白の飾りをぽんぽんと付けている──シロツメクサの花冠だ。
「昨日、サプライズで作ろうって誘われてさ。あいつはもっと上手く作れてたんだけど、俺は…あんまり作り方分かんなくて」
確かに、よく見れば輪を成す茎は所々千切れているし、今にも落ちそうな白の蕾もいくつかあった。多分出来映えとしては「不格好」に値するのだろう──でも、私はどうしようもなく嬉しくて。誇張ではなく、綺麗な宝石があしらわれたこの世のどんな冠よりも、この手作りの花冠の方がよっぽど美しく見えたのだ。世界にたったひとつの、私だけの王冠。
「菊に傷つけられたことなんか一度もない。寧ろいつもたくさん幸せにしてもらってるから、俺も何か返したいと思ったんだ。喜ばせたいと思って、こっそり出て行って…帰って来て、玄関に死にそうな顔してる菊がいてビックリした」
「お恥ずかしい限りで…」
「何で恥ずかしがるんだ。理由を聞いて、俺はめちゃくちゃ嬉しかったのに」
「嬉しい?」
あの涙ながらの聞き苦しい独白のどこにそんな要素が?
菊が思わず目を点にした。するとうさぎさんは「本人が分かってないってどうなんだ」と笑みを零して、繋いだ手に力を入れた。
「菊が『出ていかないで』って言ってくれたのが、俺は嬉しい」
「でも、私」
「菊」
常日頃、彼の声は可愛らしいと思っていた。大人とも子供とも取れぬ、その狭間に位置するぐらいの声の高さ。そこにうさぎさん特有の甘さが加わって、この世に一つだけの美しい声を成す。彼の声が好きで、うさぎさんに名前を呼ばれる度に私は胸を高鳴らせていた。可愛らしい声──それが今はこんなにも頼もしく響いている。
「俺の『帰る場所』は菊がいるところだよ」
「………え?」
意図せず疑問を零してしまった。別に聞こえていなかった訳ではなく、耳に届いた言葉が、信じられなくて。
目をぱちぱちと瞬かせるだけに留まっているうちに、うさぎさんは段々と顔を紅潮させていった。言った後に恥ずかしさが襲ってきたらしい。それでも彼は「だ、だから!」と続ける。
「俺もずっと一緒にいたいっていってるんだ…一回で分かれよばかぁ!」
さっきまでの威勢はどこへやら。彼は瞬く間に頬っぺをりんごみたいに赤くして、ちょっと目を潤ませて、恥じらいを浮かべながら叫んだ。うさぎさんはあんなにも頼もしくある一方で、こんなにも可愛らしくもあるのだ。
当の私といえば、ようやっと言われたことの実感が伴ってきて。じわじわと心が歓喜の声を上げ始めていた。ずっと一緒にいたい。彼も同じ気持ちでいてくれた、その喜びが心の中を満たしていく。きゅうきゅうと胸が苦しい。きっと『幸せ』という言葉は今のためにあるのだろう、そう深く思った。
「抱き締めてもいいですか」
「嫌だ」
「えっ」
居ても立ってもいられなくて、うずうずと騒ぐ衝動のままに抱きしめようとするけれど、あえなく敗北した。だっていつも抱き締めても嫌がらないし──いや、快諾を得る前に抱擁してはいるけれど。嫌がる素振りは見せなかったから。まさか断られるとは思わなかった。正直、かなりショックだ。
そんな私の心境は知る由もないうさぎさんは、するりと繋いだ手を解いて、そのまま私の背に回した。私がぴしりと固まって動かないうちに、彼は私に擦り寄って、ぎゅうっと思いっきり抱き締める。
「今日は俺からする」
「………、……」
「菊。生まれてきてくれてありがとう。俺に出会ってくれてありがとう。菊のお陰で俺は今たくさん幸せだし、その恩を俺も返して行きたい──だから、俺とずっと一緒に暮らしてほしい」
私はゆっくりと腕を持ち上げて、彼と同じように背中に回し、優しく力を入れた。
「そんなの、私が断るわけないじゃないですか……」
声は震えていたと思う。歓喜や、涙や、安堵に濡れているその言葉は、酷く不格好だった。それでもうさぎさんは、私の言葉に一等嬉しそうに笑う。
「うん。知ってた」
さっさと中に入ればいいのに、2人はぎゅうぎゅうとそのまま抱きしめ合って動かなかった。よりにもよって寒い玄関で。でも、相手から伝わる熱がとても愛おしかったから。離れるのが惜しかったのだ。
そこでガチャリと扉の開く音がして、2人は揃って顔を上げる。菊の目線のその先には、くるりとカーブを巻くアホ毛を持つ青年がいた。外にいたせいか頬が真っ赤だ。菊はうさぎさんを抱いたまま立ち上がり、フェリシアーノと真っ直ぐ視線を合わせる。
「キク!お誕生日おめでとう!」
「ありがとうございます。でもなんでこんな朝早くから…」
「えへへ。実はさっきからずっと外にいたんだよ」
「え!?」
「うさぎさんと一緒に家に戻って来たんだけど、2人は話があるだろうからって、外で待ってたんだ〜」
ぽわぽわとした雰囲気を持つフェリシアーノは、なんてことないようにそう言った。2月に入ったとはいえまだまだ外は寒く、彼の服装も決して厚手とは言えない。
菊は申し訳なく思って、眉を下げながら室内に入るように促した。けれどもフェリシアーノは首を横に振って「もう帰らなきゃいけないから」と返した。どうやら作品の納品が滞っているらしい。
「でも、帰る前に謝らなきゃと思って。勝手にうさぎさんを連れ出してごめんね」
「いいえ。うさぎさんの同意の上なら、私はもう言うことはありません──そうですね。ですが、次からは一声掛けてくれると嬉しいです」
そうでないと心臓がいくつあっても足りませんから、と付け加えて、菊は悪戯っぽく笑う。フェリシアーノもまたほけほけと笑って、そこから何か思いついたのか、「そうだ」と次いで声を上げた。
彼は菊のことを右手でちょいちょいと招き寄せると、菊の耳元に口を寄せる。それからこそこそと告げ口した。
「うさぎさん、名前呼んで貰えないこと寂しがってたよ」
「えっ」
「あ、おい!」
「ヴェー」
兎の耳は伊達じゃない。しっかりと聞こえていたらしく、うさぎさんは忽ち顔を赤くさせて抗議の声を上げた。責められているフェリシアーノは何処吹く風で、一声掛けた後にすぐさま家から出ていこうとしていた。まだ謝意も伝えていないのに、と、菊は慌てて彼の袖を掴んで引き留めた。
「ああ、待ってください。うさぎさんを見てくれていたことについて何かお礼を…」
「ううん、いらないよ」
「そんなわけには…」
フェリシアーノは菊の手をやんわりと解いて、それでも尚渋る菊を「遠慮してるとか、そういうわけじゃなくてね」と言って窘める。彼はポケットからごそごそと何かを取り出すと、ひらりと菊の前に翳した。
「もうお礼なら前払いで貰ってるから」
菊の目の前に現れたのはフェリシアーノのスマホだった。しかもただのスマホではない──少なくとも、この場にいる3人にとっては。クリアケースの中には、白を背景として、四つ葉のクローバーが一本収められていたのだ。
多分、うさぎさんが昨日のうちに渡していたのだろう。あの内緒話をしていたときに、こっそりと。彼らの用意周到さには大変お見逸れする。
菊が呆気にとられているうちに、フェリシアーノはさっさと出て行ってしまった。この素早さは彼の白旗を上げるスピードを彷彿とさせる──相当切羽詰まっているらしい。
「……うさぎさん」
ぐりぐりと肩に額を押し付けられて、思わず笑みを零す。ひとつ声をかけるとぴくぴくと長い耳が動いて、その様がまた可愛らしかった。
「お名前、呼んでも宜しいんですか?」
私は今までうさぎさんの名前を知らなかった。最初のうちは「信用できないからだろうな」と思っていたし、程々に仲良くなってからも「そのうち出ていくつもりだから言い難いんだろうな」と考えたから、うさぎさんの本当の名前を聞き出そうとは思わなかった。そのことを寂しく感じるときもあったけれど、うさぎさんが教えたくないのなら、彼の望む通りにしようと思っていた。
でも、彼本人がそれを望んでいるなら話は別だ。
「本当は、もっと早く言いたかったんだ」
うさぎさんはぽつぽつと話し始める。首に柔らかい髪が当たって擽ったい。
「でも、恥ずかしくて中々言えなくて…お、お前に、名前を付けて欲しいなんてこと……」
「……え」
思わず驚きの声を零すと、うさぎさんは勢いよく顔を上げて、わたわたと弁明し始めた。彼の頬っぺは熱が出ているんじゃないかと思うくらい真っ赤で、それがとても可愛らしい。
「ち、違う!そりゃあ一応前の名前はあるけど、前の飼い主がつけたやつだから嫌だってだけで…べ、別にお前だから付けてほしいってわけじゃない!そんなんじゃないからな!」
「ええ、ええ。そうですね」
笑顔が隠しきれなくて、菊は綻ぶように笑いながらうさぎさんの頭を撫でた。一方の彼は恨めしげに唸り声を上げて、それから「あのアホ毛…」と呟いている。フェリシアーノくんの名前を覚えれないのか、それとも覚えるつもりがないのか。彼は「アホ毛」呼びを貫くつもりらしかった。
菊はひたりとうさぎさんと目を合わせ、蕩けるような甘い笑みをうさぎさんに向ける。菊の笑顔を全面に食らった彼は、弁解の言葉も無くしてしまって、そのまま大人しく口を閉じた。
「うさぎさん。私が貴方のお名前を考えても宜しいですか」
「……当たり前だろ」
うさぎさんにはどんな名前が似合うだろう。
多分決めるのには時間がかかる。彼に「早くしろ」だなんてせっつかれることもあるかもしれない。それでもたくさんたくさん考えて、時間をかけて、たったひとつを選び抜こう。だって、家族になって初めての大切な贈り物なのだから。
回れ右をして廊下を進み、リビングに繋がる扉を開く。窓から注ぐ光が居間を仄かに照らしていて、ほんのりとした温かさが部屋全体を包んでいた。
もうすぐ春がやって来る。お花見をして、イースターを楽しんで、 ああ、いちご狩りに行くのもいいかもしれない──うさぎさんとやりたいことがたくさんある。作りたい思い出がたくさんある。あんなにも恐れていた雪解けが、今はこんなにも待ち遠しい。
もうドアノブに冷たさは感じなかった。
*
「アーサーさん」
名前を呼ぶ。太陽色の髪を輝かせながら振り向いた当人は、ちょっとばかりむず痒そうな顔をしながら「なんだよ」と呟いた。目は口ほどに物を言う、とはよく言うけれど、彼の場合は目よりも耳が顕著だ。ぶっきらぼうな口調に相反して、ふかふかの垂れ耳はぴこぴこと動いている。
それがどうにも可愛らしくて、菊は前を歩くアーサーに追いついて、堪らず彼を抱き上げた。
「嬉しくって。用事もないのに呼んでしまいました」
「…その言い訳、聞くのもう十回目だぞ」
「おや、思ったより言ってませんね。心の中でもたくさん呼んでいるのもあって、つい多く見積ってしまいました」
「なっ」
途端に垂れ耳がピーンと伸びて、見る見るうちにアーサーさんの顔が赤くなる。可愛いなあ、なんて黙ってその様子を見ていれば、ぽこぽこと胸元を手で叩かれた。全くもって痛くない。可愛い。
周りに花でも飛んでいそうな雰囲気の菊は、上機嫌に鼻歌を歌いながら、のんびりと長閑な道なりを歩いていた。
菊の誕生日から一ヶ月が過ぎた。朝方はまだ冷えるけれど、日が出ているときの昼間はぽかぽかと温かい三月中旬。春の足音がもうすぐそこまで来ている。
今回の外出の目的はスマホの購入。菊のものではなくアーサーのだ──前、誕生日プレゼントのためにアーサーがこっそりと家を出た時。あのとき途方もない不安に襲われた菊は、彼との直接の連絡手段があった方がいいと改めて思ったのだ。
アーサーを束縛したいわけじゃないし、彼は菊に守られる必要があるほど弱くはないから、菊は彼のひとりの外出を基本的に容認することにしている。ただその際は予め声をかけて欲しいし、普通に安否が心配でもあるため、そこ周辺の手間や問題を解決するために携帯を持たせることにしたのだ。
「(本当は子供携帯と迷ったんですけどね…)」
こんなこと、口が裂けても言えないけれど。
ぶっちゃけた話、菊はアーサーの年齢を人間換算で十歳くらいだと見積もっていた。しかし実際はそれよりももっと上らしく、あからさまな子供扱いをされるのはあまり好ましくないとのことだ(ただ甘やかされるのは好きらしい)。だから今回は子供携帯ではなく普通のスマホ──あとは単純に、菊がアーサーとビデオ通話をしたかった、というのもある。
スマホを買いに行くついでに、帰りに喫茶店にでも寄って帰ろう。そんなプランを立て、今はショッピングモールに向かう最中だった。
「アーサーさんは何を食べたいですか?メロンソーダとか?」
「めろんそーだ」
舌っ足らずの言葉に、ちょっとずれたイントネーション、次いで僅かに傾けられた頭。一連の動作の全てが愛らしく、菊はまたもや笑みを零した。負の方向に捉えたらしいアーサーは、きっと眉をきつく上げて、顔を赤くしながらぽかぽかとまた菊を叩いた。これも痛くない。
「ふふ、ごめんなさい。嘲ったわけではないんですよ、ただ可愛らしくて」
「俺は騙されないぞ」
「本当なのに」
知らないことは恥ずかしいことじゃない。彼の経歴を踏まえれば尚更だ。ただこれからたくさんのことを知ればいい。たくさんのことを学んで、この世界には悪いことばかりじゃないのだと知ってほしかった。
「メロンソーダはね、緑色のジュースにアイスクリームを乗せたものなんです」
「緑?」
「はい。ちょうどアーサーさんの瞳みたいな色なんですよ。綺麗で、甘くて、とても美味しいんです」
「へぇ…」
興味が出てきたらしく、アーサーは耳をぴこぴこと反応させた。彼も気に入ってくれるといい、と強く思う。アーサーさんにとってのお気に入りが少しでも増えて、彼の視界がちょっとでも輝かしいものになったなら、家族としてそんなにも嬉しいことはない。
アーサーさんの目に映るものが全て綺麗なものならいいのに。そう思うのはきっと過保護で、でも、それでも…彼に苦しい思いを少しでもさせたくなかったから。
「──アーサーさん?」
ショッピングモールの入口の手前まで来たときだった。アーサーさんの耳が突然ぴんと張って、彼の体がびくりと戦慄いたのだ。私の胸元を掴む手が小刻みに震え、荒い呼吸の音が聞こえた。
「アーサーさん、どうしたんですか?何か怖いものとか…」
「か、帰ろう。はやく」
「え」
「帰りたい。メロンソーダもいらないから、はやく」
彼の声は酷く小さく、そして揺らいでいた。菊は一度アーサーの体を抱き直してから、穏やかな声で「分かりました」と承諾する。するとアーサーの震えも幾分か和らいだので、菊はこっこりと安堵の息を吐く──刹那。
白い煙がゆらゆらと揺らめいて、上へ上へと登っていた。その長身の男はさらに煙を吐き出した後、ひたりとこちらと目を合わせる。そして、目元と口元に弧を描いた。
途端にぞっとしたものが背筋を走る。これは多分駄目な人だ。菊は一歩後ずさって、来た道を戻ろうと振り返る。
「ここにいたんだ」
しかしすぐさま手首を強く掴まれて叫ばれた。それなりの大声だったために、通行人たちがぴたりと足を止め、こちらに奇異の目を向けている。腕の中のアーサーさんが一際大きく戦慄いて、身体の震えが一層増した。
菊は喉元にぐっと力を入れて、眉根を寄せながら男を見返した。男は右手に煙草を持って紫煙を揺蕩わせ、きつい香水の匂いを纏いながら、軽薄な笑顔を浮かべている。
「あのさあ、お兄さん。勝手にうちのペット連れ回されちゃ困りますよ。警察呼びますよ?」
──何を、
周りが一斉に騒がしくなって、視線が鋭いものに変わる。空気が張り詰めて、周りの小声がやけに耳につく。針のむしろに座る思いだった。
「きく、きく、」
アーサーさんの声が聞こえた。相手方には聞こえないくらいの小さな声で、彼が助けを求めていた。
この人、この人だ。アーサーさんを寒空の下に放り出した、アーサーさんを苦しめていた男は。警察を呼ぶなんてどの口が言うんだ。貴方こそこの子を虐めていたじゃないか、貴方こそ警察に捕まるべき男だ。貴方が、貴方が、貴方が!
激情がぐるぐると渦巻いて、すぐそこまで迫り上がり、喉を焼いているようだった。
「…私は…」
公衆の面前でこの人の罪を突きつけてやりたいと思う気持ちは十分にある。それでも…そんなことをしたら、この子が傷ついてしまうから。
菊はひとつ深呼吸をして、じっと男を睨み返す。声が上擦らないように喉に力を込めて、出来うる限りの低い声を必死に出した。
「どうぞ呼んでください。私は迷子のこの子を保護していただけですから、やましいことは何一つとしてありません──子供の前で煙草を吸い続ける、貴方と違って」
「……すみません、配慮がなってませんでしたね」
男は一瞬表情をなくした後、へらりと笑って煙草を道端にぽいと捨て、そのまま足で踏み潰した。菊が表情をキツくするのを見て、男は「なんですか、言う通りにしたでしょう」となんでもないように言う。
「それよりも、何か誤解があるみたいですね。どうです、ちょっと2人で話しませんか」
「この子を置いておくことはできません」
「ああ!もちろんその子も一緒ですよ」
「実はこの子の体調が優れないようで。また別の機会にしていただけませんか?」
「何でそっちが一緒に帰る前提なんです?俺が飼い主なんだから、俺と一緒に帰るのが筋でしょ。ねぇ?」
男が一歩足を前に動かして、ゆらりとアーサーの顔を覗こうとする。長身のせいで一歩が大きい。菊は慌てて一歩後ろに退くが、すぐに男はその間を埋めた。
「一緒に帰ろう?」
「──っ!」
「離れて。震えているのが見えませんか?」
菊はアーサーの耳を優しく撫でつけて、また男と距離を置いた。周りがざわざわと騒がしく、中には警察に電話をしている人もいるようだった。
「震えてる?なんで?何もしてないのに」
男はへらへらと笑いながら言いやった。途端、カッと頭が熱くなって、怒鳴りつけたい衝動に駆られる。貴方はいつまでシラを切るつもりだ、この子をどれだけ傷つければ気が済むんだ! …それでも、胸元を頼りなさげに握る小さな手がその衝動を抑えてくれる。ここで激情のままに叫べば男の思うつぼだった。どれだけ最悪でも、胸糞悪くても、あくまでも冷静に対処しなくてはならない。
「確かに辛く当たったこともあったかもしれないけど、ちょっとだけだし。俺が仕事で上手くいかなかったときだけで、お前も理解してくれてたじゃん。家族は支え合うものだからって。そうだよな?」
男の言葉遣いは一貫して粗暴なものではない。優しい形を取っていて──でも所詮外面だけだ。言葉の節々に悪意が滲み出ている。アーサーさんの、ぶっきらぼうなのに確かに愛情が感じられる口調とは全くの正反対だった。
震える彼の背中を撫でて、男を睨む。私がアーサーさんを守るのだ、あの日そう決めたのだから。
「知りません。実は貴方もしんどかったとか、辛い思いをしていたとか、心底どうでもいい。私達にとっての真実は、あの日寒空の下で凍えるような思いをしていたアーサーさんがいたこと、ただそれだけです」
「……”アーサー”?」
男がぽつりと呟いて、それを2回ほど繰り返した。それから腑に落ちたように声を上げ、軽快に笑った。
「なるほどね。『アーサー王物語』の”アーサー”!随分と素敵な名前を貰ったもんだね、アーサーくん」
「っ…お、おまえが、」
「…アーサーさん?」
そのとき、ずっと黙っていたアーサーさんが口を開いた。変わらず顔は私の肩に埋めているし、手も震えているけれど、彼の声は堅く決意に満ちている。
「おまえが、その名前を呼ぶな…っ!」
「…へぇ、嫌われてんな」
男の声が低く響く。アーサーさんはまたも体を震わせて、より強く額を肩に擦り付けた。
やっぱり彼は強い子だ。自分からトラウマに立ち向かうなんて、大の大人でもそうそう出来ることじゃない。アーサーさんの体を強く抱き締めて、後でたくさんの「頑張ったね」を伝えようと心に決める。その前にまず、私も彼の勇気に応えなければならない。
「ここから先は警察を通してください」
「手間じゃないですか? 迷子の通報をしたところで3ヶ月間はあんたにペットの所有権は認められない。どっちにしろその子は俺の所に戻ってこなきゃいけません。それなら今ここで渡してもらった方がずっと楽です」
迷子の動物は遺失物として処理され、3ヶ月以内に元の飼い主が現れた場合、引き渡さなければならない──確かに男の言う通りではあった。
「あ、そもそも警察に連絡してます? してないなら誘拐犯ですけど」
びくり、とアーサーさんの体が震えた。
──『警察には連絡しないでくれ』、彼を拾って少し経ったとき、直接言われた言葉だった。「きく」と揺れる声が聞こえて、彼の柔らかい髪をやんわりと撫でる。
「何はともあれ、まずは警察です。でなければこれ以上はもう取り合いませんから…失礼します」
男に引き止められぬうちに足早にその場を立ち去る。周囲の好機の視線を掻い潜りながら、歩いて、走って、やっと落ち着いたところに出た。ゆったりと歩調を遅くしながら荒い息を整える。こういう時自分の運動不足が恨めしい。明日からちゃんと運動しよう…そういえば、前もこんなことを思っていた気がする。
やがて長閑な土手に出た。ちょうど一ヶ月前に彼と四つ葉のクローバーを探していた場所だ。彼は見つけるのが上手くて、私が一本も見つけられていないうちに五本も見つけ出していて、
「きく」
か細い声が傍から聞こえた。
「なんですか?」
「菊、ごめん、俺が連絡するなって言ったから…」
「アーサーさん、それは」
「ごめん、菊、行かないで」
肩が濡れていた。アーサーの体が震えていて、彼の手が痛いほどに服を握り締めている。菊はゆっくりと彼の体を地面に下ろし、しゃがんで、アーサーと目を合わせた。
メロンソーダみたい、と数刻前まで話していた緑色の美しい瞳は涙で潤み、目元はぷっくりと腫れている。彼は唇を戦慄かせ、ぎゅうっと拳を握り、涙ながらに訴えた。
「いやだ…せっかく帰りたい場所ができたのに。菊と離れたくない。嫌だ、菊と一緒がいい」
それから彼は何度も私の名前を呼んでいた。時折「嫌だ」と「一緒がいい」を混ぜながら、何度も何度も「菊」と。
私は…不謹慎かもしれないけれど、私はそれが堪らなく嬉しかった。もちろん同時に「申し訳ない」という気持ちも存在していて、私は彼の手を柔らかく握りこんで、ゆったりと話し始めた。
「大丈夫、大丈夫ですよアーサーさん」
「でも…」
菊はやんわりと微笑む。
「実は、内緒で警察には連絡していたんです」
喧騒から逃れるように足早でその場を離れ、男はひとつ大きな溜息をついた。
気弱そうな男だから「警察」の単語でも出せばすぐに引くと思ったのに、とんだ誤算だった。小柄な癖して、あの小さな体躯から発される怒気は半端じゃなかった。女に刺される寸前のときだって気圧されなかった俺が、あのときばかりは慄いてしまった。
「あーあ」
取り返せなかったけど、まぁ別にいい。女たちが「最近見てない」なんて言うからちょっと気が向いただけで、特段取り戻したいわけじゃなかったし。何より警察が介入すれば困るのは俺の方だから、まぁ、しゃーない。またどっかから拾ってくればいいだろう。
「Hey!そこの君!」
背後から男にしては高めの声が聞こえて、男は眉根を寄せながら振り向いた。俺より少し低い身長と、金髪に白い肌。それがまたアイツを想起させて嫌だった。
「話聞いてたよ。変なことに巻き込まれて大変だね。同情するよ」
「ああ本当だよ」
最初は尊大に見える態度も加えて多少イラついていたが、同意を示されるとすぐに機嫌は良くなった。あそこの観衆たちは最初は味方をしていた癖に、すぐさま掌を返して訝しげな目でこちらを見てきたものだから、全くたまったもんじゃない。
「こっちが本当の飼い主なのにさ。さも正義の味方みたいなツラしやがって」
「ところで君、本当に『前の飼い主』だね?」
「…あ、ああ。だからそう言って」
「そうかい、それならよかった!」
発言を遮られて、上がった機嫌はまた急降下した。唇をさすり、ポケットから煙草を取り出そうとして、そういえばさっきのが最後の一本だったと思い出す。それがさらに苛立たせた。
けれど、次の瞬間。目の前の金髪の男が何かを掲げたそのとき、俺はその苛立ちさえも忘れ、ただ呆然とした。
掲げられたのは黒い2つ折りの細長い手帳。上半分には男の顔写真が載っていて、下半分にはきらりと光る旭日章。
──巡査部長 アルフレッド・F・ジョーンズ
警察を名乗るその男、アルフレッドは、口角を釣り上げて、その蒼玉をきつく細めた。もちろん、その瞳の奥はちっとも笑ってなんかいやしない。
「君に動物愛護法違反の疑いがあると通報が来てる。署まで同行してもらえるかい?」
とあるスーパーヒーローが親指を立てているスタンプがトーク画面に流れ、菊はほっと息をついた。つい先程通報が来たばかりだろうに、彼の行動の速さには恐れ入る。もしやずっと見張っていたのだろうか、と推測して、結局菊は考えるのをやめた。ここから先は邪推にしかならない。後日ちゃんと菓子折を持って行こう。
一方、何がなにやら分かっていないアーサーは、目を白黒させながら菊とスマホを交互に見ていた。菊はひとつ笑って、自分のスマホをポケットに仕舞った後、もう一度彼の手を取り話し始めた。
「アーサーさんには申し訳ないと思ったのですが、警察に連絡しないと私が捕まってしまいますから。貴方が『私の家にいる』と答えた時点で、ちゃんと貴方と暮らすために連絡しようと考えたんです。それも迷子の連絡ではなく、虐待の通報として」
「虐待…」
「はい。そうすれば元の保護者の方が出てきても、アーサーさんのことを守れると思ったので」
でも物事はそう上手くは行かなかった。
まず「あの男が前の保護者である」という証拠が足りず(購入履歴等があればよかったが、どうやらアーサーさんは拾い子らしいのでなかった)、逮捕まで運ばなかったのだ。そして「あの男が虐待をしていた」という証明もできず、何ならこっちに疑いの目が向き始めたところで──アルフレッドさんと出会ったのである。
「彼も半獣の子と暮らしているそうで、今回のことでとても親身になってくださいまして。裏で一人で証拠を集めてもらったりと、たくさん手伝っていただきました」
三ヶ月以内に名乗り出てこなかったらそれでいい。これはそいつが出てきたときのための保険で、戦うための手段だと。遠慮する私に笑顔でそう言った彼は、常日頃忙しいはずなのに、あっちへこっちへと走り回ってくれた。本当に彼には頭が上がらない。
そして今回。あの男が『前の保護者』として名乗り出ただけでなく、公衆の面前でそれらしい態度を繰り返してくれたお陰で、アルフレッドが確保するに至ったのである。
変わらず呆然とする目の前の彼に淡く笑いかけながら、「アーサーさん」と声を紡ぐ。相当驚いたらしく既に涙は止まっていて、翡翠はゆらゆらと揺らめくばかりだ。
「貴方に嫌なことを思い出させたくないと思って、あまり知らせなかったんですが…逆効果でしたね。ごめんなさい、貴方に迷惑をかけてしまって」
「そんな、俺の方がよっぽど…」
そう言ったきり俯いてしまった彼の頬に手を添えて、ゆっくりと上向かせる。もう止まったと思った涙はまたとめどなく溢れていて、翠玉をきらきらと輝かせていた。
菊は零れる水粒をそっと親指で拭い、「アーサーさんは泣き虫ですね」と穏やかな笑みを零す。するとアーサーがしゃくり上げながら「菊のせいだ」と言うので、彼は眉尻を下げながら──それでも口元は緩んでいる──謝罪を口にした。それから優しく抱き寄せて、力いっぱいに抱擁した。
「もう大丈夫ですよ、アーサーさん。アーサーさんの『帰りたい場所』が私である限り、絶対に貴方を手放したりなんかしません。貴方を幸せにするって、約束しましたから」
「菊……」
アーサーがまたも顔を菊の肩に押し付ける。彼のせいで肩がびしょ濡れだ、なんて思いながら、菊は全く困ってないように笑う。そうして彼はアーサーを抱いたまま立ち上がって、ぽんぽんと軽く背中を叩いた。
「アーサーさん、知ってますか?メロンソーダって私たちでも簡単に作れるんですよ」
「…そうなのか?」
「ええ。シロップと、ソーダと、それからバニラアイスがあれば。私たちでもたくさん作れちゃいます」
全部スーパーに寄れば揃えれる品物ばかりです、と菊は悪戯っぽく続けた。
「私はもうすっかりメロンソーダの口なので、良ければアーサーさんも付き合ってくださいませんか」
…こういうところが敵わないな、とアーサーは思う。
菊はアーサーのやりたいこと、言いたいことをいち早く感じ取って、アーサーがそれをやりやすいように導線を敷いてくれる。今だってそうだ。少し居た堪れない気持ちをしている俺の感情を和らげて、メロンソーダの話題にちょっとでも食いついたと思ったら、天邪鬼な俺が返事しやすいように整えてくれた。それがとても心地よくて、同時にちょっぴりこそばゆい。
「し、仕方ないから、付き合ってやる」
もっと素直に言いたい。こんな可愛げもない答えじゃなくて、「ありがとう」って伝えたい。でも俺は臆病だからそれを言うにはちょっとだけ時間が必要で、それを菊も分かっていて、だから彼はただ嬉しそうに「ありがとうございます」と返すばかり。本当は俺がそれを言うべきなのに。
だけど、菊が許してくれているから。俺はもうちょっとだけその優しさに甘えていたい。
菊はちょっとだけ体から俺を離すと、俺と視線を交わらせた。底の知れない黒曜石と目が合う。初めは美しいと思って、次に怖いと思って、でも今は「温かい」と思っている。その冷たさの奥に、途方もない優しさがたくさん潜んでいることを、俺は痛いほど知っているから。
「帰りましょう、アーサーさん」
「…うん」
そうして菊は再び俺を抱き寄せて、ゆったりとした歩調で土手を歩き始めた。一定のリズムで訪れる穏やかな振動が心地よくて、思わず瞼が落ちそうになる。やっぱり菊の傍は落ち着く。良くも悪くも安心してしまうのだ。
それからスーパーに寄って、シロップと、ソーダと、たくさんのアイスクリームを買って家に帰った。
2人で作ったメロンソーダは、シロップを入れすぎてしまったのか、はちゃめちゃに甘ったるかった。飲んだ瞬間に吹き出してしまうほどだ。
「もう飲めません!」
文句を言いながらも菊は飲み切っていた。俺もぶーたれながら結局グラスを空にしていた。
初めてのメロンソーダは喫茶店のやつみたいに綺麗じゃなくて、ソーダもシロップもアイスも零したし、そのせいでグラスはベトベトだった。何もかも最悪だ。でも、菊の言っていた通りメロンソーダの色はとても綺麗で。案の定俺は気に入ってしまったし、別のどこかで飲んだ暁には「ちょっと甘さが足りないな」なんて思うくらいには、その甘ったるさに毒されてしまったのだった。
ピンポン、とインターホンの鳴る音がして、菊はぱたぱたと足音を鳴らしながら玄関の方へ向かった。ドアを開け、外にいた人物──もっと言うなら、くるんとした可愛いアホ毛を見た瞬間、彼は笑みを零した。
「フェリシアーノくん、おはようございます」
「オハヨーゴザイマス!朝早くからごめんね」
「いいえ。ですが突然どうしたんです?」
すると、菊の問いかけを待ってましたと言わんばかりにフェリシアーノが両手で何かを掲げる。彼の肩ほどの横幅と、頭から上半身の半分までを隠してしまうほどの縦幅。大きな長方形のそれに、菊はぱっと顔を輝かせる。
「もしかして!」
「そう!誕生日プレゼントを届けに来たんだ!」
一か月ほど前、彼が誕生日に絵を描きたいと言ってくれたのを思い出す。菊は画家フェリシアーノのファンでもあったので、純粋に今回の完成を楽しみにしていた。今は包みに隠されていて分からないが、今回もきっと素晴らしい出来なのだろう──なぜって、本人が一番満足気だから。
「実はね、キクの誕生日の朝、インスピレーションが湧いて! 家に帰った後すぐに描き始めて、割かしすぐに完成したんだけど」
「だけど?」
「倒れちゃって」
「えっ!?」
シエスタを好むあの彼が無理をして倒れた!?
菊は彼の体をペタペタと触って「大丈夫なんですか、ちゃんと”しえすた”してますか?」としきりに確認した。フェリシアーノはけらけらと笑って「してるよ〜」と軽く返す。倒れた人の反応とは思えない。
「ただの栄養失調だって。それでちょっとだけ入院して、退院して、さあ菊に渡そう!って意気込んだら…今度は作品の滞納に捕まっちゃって」
「おやまぁ…」
「それを済ませて!今ようやく来たんだよ!」
菊の反応が待ち遠しかった、と笑う彼は、すぐさま包みを剥がしていった。そしてとうとう剥き出しになった作品を、菊の前に掲げて見せびらかした。
「これは…!」
「どう?喜んでくれた?」
「ええ、ええ!もちろんです!本当にこんなに素敵な作品を頂いてもよろしいんですか?」
「もちろんだよ!菊のために描いたんだから」
笑顔を弾けさせた菊は、その絵画をフェリシアーノから受け取った後、緩みきった口角を隠そうとしないまま作品を眺め続けた。フェリシアーノもそんな菊の反応を見てとても満足そうにしている。
「どうしたんだ…?」
「アーサーさん!よかった、今呼ぼうと思っていたんです」
そこへ、寝ぼけ眼を擦りながらアーサーが起きて来た。アーサーは菊のテンションの高さに驚いていたが、彼から絵画を見せられると、すぐさま顔を輝かせる。しかしすぐにハッとした表情になって、ひとつ咳払いをした後
「ま、まぁまぁ悪かねぇな」
菊とフェリシアーノはそんな彼の反応を見て、揃って顔を合わせ、そして同時に笑い出した。アーサーはすぐさま顔を真っ赤にして「なんだよお前ら2人して!」と憤慨する。でも、だって、アーサーさんの耳が上機嫌に動いているものだから。あまりにも可愛くて!
二枚の栞、二足の靴、二双の手袋。そしてシロツメクサの花冠を被って笑い合う2人の姿が描かれた、ひとつの絵画。ひとりじゃ広いこの家は、二人だと少し狭くて、でもその窮屈さが愛おしい。
そんな温かいひとつの家が、私たちの帰る場所だ。
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