Dr.ギャップ
2024-12-09 19:10:18
82127文字
Public 二次創作短歌オンリー歌会
 

2024二次創作短歌オンリー歌会(メイン歌会)

2024年秋(冬)に開催した二次創作短歌オンリー歌会(メイン歌会)の参加作品とコメント一覧です(敬称略)。

企画詳細→ https://privatter.me/page/670fce968d6aa
企画用ハッシュタグ→ #二次創作短歌オンリー歌会

見上げては流れるもののないことを願うまたたく星のおもかげ  米田
コメント

● 空でまたたいている星たちがどれも流れず、変わらず輝き続けていることそのものを希求している、やさしい神様のような印象を受けました。誰か特定の存在ではなく世界全体の安寧を願っているような。
そして、「俤」という言葉からは喪失体験がある主体が、かつて失った星を見ていたように空を見上げているのかな……という気がします。超越した俯瞰視点のようでありながらも空を見上げる側にあって、さらに過去に傷ついたことがあるという繊細さも併せ持っている層の厚さが好きだなと思いました。また、「願う/またたく」の音の連なりが気持ちよくて好きです。──霜柱

● 主体は夜空を見上げて星が流れない(人が死なない)ことを願っていると解釈しました。俤は主体と親しい人(生物?)のことでしょうか。その人の生を願う主体はもしかして誰か他に大切な人を亡くしているのかもしれませんね。だからなおさら今生きている人の生を強く願っているのならばこんなにエモいことはないと思います。原作は中国由来のものではないかと予想しています。──アサコル

● 人が亡くなることを「星が流れる」と言いますね。満天の星に大切な人たちの面影を重ねて夜空を眺めている主体の姿が思い浮かびました。遠く離れた場所で互いに思い合う仲間がいるのではないかと想像します。流れないでほしい、無事でいてほしいという、強く純粋な祈りだと思いました。──ゆの

● 「またたく星」と「流れるもの(流れ星)」の対比が歌に動きを生んでいます。私たちの脳は、否定型をそのまま理解する能力が無いというのを聞いたことがあります。何が言いたいかというと、私たちが「流れるもの」が「ない」を理解するということは、同時に尾を引く流星を思い浮かべざるを得ないということになります。
 流れ星とは美しいものとして描かれることが多いように感じますが、この歌では「ない」ことを「願」われる存在です。流動的で刹那的なものでもあるので、どこかへ行ってしまうものの例えでしょうか。
 一方「またたく星」はどうかと言うと、「俤」です。この「俤」が詩としての読解を複雑にし、深みを生んでいると思います。
 「俤」という言葉には「心の中に浮かぶ姿」と「誰かに似たおもざし」という二つの意味があります。この場合どちらを取るかで解釈が変わってしまうのが面白いところだと思いました。
 前者の場合「またたく星」は作中主体の「心の中」にしか無い存在です。一方後者の場合、「誰かに似た」の意味ですから、作中主体の前には「またたく星」に似た何かがあって、それを代替にしていると読めます。
 どちらにせよ共通しているのは、作中主体が「またたく星」に、その場にない何かや誰かの影を投影しているということ。そして、「流れるもの」と対比されていると言うことは、「俤」は固定されているもの、(想像にせよ実存にせよ)常に輝かしく「またたく」存在だと分かります。作中主体にとって希望や羨望の対象なのかもしれないし、常に見守ってくれる母親のような存在なのかもしれません。
 作者の解説だけでなく、他の方の解釈が気になる歌だと感じました。まとまりのない長文を失礼しました。──おかのきくと

● 見上げる夜空に「流れるもののないことを願う」は死なないでほしい、生きていてほしいと願っていることだと想像しました。繋がるのが「またたく星の俤」なのが素敵ですし、キャラクターの関係性を想像させます。面影ではなく俤なのがそう願う相手が弟・弟のように思っている相手のことなのかな、星はその人の輝きの表現や与えられた印なのかな。静かですてきな歌だと思いました。──山と森と街

● 流れ星は死者の報せ、という話を思い出しました。危篤状態の大切な人のことを想っているのでしょうか。作中主体の方が優しい方なんだろうな、と感じました。どんな作品か気になります!──月ノ華

● 流れ星=人が亡くなったことを意味する世界観の作品でしょうか?
「またたく」「俤」から視点の人物は故人を想像しました。
空を見上げて大切な人の生存を願う気持ちが胸に迫ります。──海月雪夜

● 「俤」の感じがいいなと思った歌です。結句に面影ではなく「俤」の字が置かれたことでこの歌の静謐な雰囲気が強いものとなったのではないかと思います。──池田いくら

● 初読時は「見上げた星空のなかに流れる星がないことを願う」かなと思ったのですが、〈星の俤〉と続くことから、目の前に星はないのだと思うようになりました。建物の中、曇り空の下、あるいはファンタジックな理由があるのかもしれませんが、星そのものが見えない状況にある“私”が頭上を見上げているシーンを思い浮かべます。ひいては〈流れるものがないことを〉は、“私”の視界に限った話ではなく、世界中のどこにも〈ないことを〉という願いなのかなと想像しました。〈流れるもの〉という言い方からは、流れ星のもののというだけでなく「もう何も失われませんように」という気配を感じて、どこか切なく感じる歌でした。
 あるいは〈流れるもの〉は星ではなく涙を指しているのかも、とも思います。視線を上げても涙が流れませんように。そう思うと〈またたく〉からも瞼の動きが連想されます。──Dr.ギャップ

★作者コメント
『呪術廻戦』虎杖悠仁と脹相
見上げて、星が流れないことを願う。血が流れないことを願う。涙が流れないことを願う。
主体の中には、兄がいたことのおもかげがある。
人に弟と書いておもかげ、という字を見た時に、二人のことを思いました。
脹相のことでもあり、悠仁のことでもある。
誰かが悠仁のことを見る時、そこに脹相のことも見るかもしれない。逆も同じように。
いなくなったからといって、いなかったことにはならないということ。
残り、輝くものとしてあり続ける星を目印にして進んでほしいと思っています。──米田

絆創膏だらけの指でふれる風世界が俺のものでなくとも  せいら
コメント

● 傷つけられ、爪弾きにされながら、それでも世界と繋がろうとするいじらしさが素敵です。「ふれる」という言葉から、風そのものはやさしい(他の部分はやさしくない)のかもと思いました。もしくは傷つくことをわかっていながら、あくまでやわらかい手つきで「ふれ」ているのかなと。
しかしまだ絆創膏が取れない指は、傷ついてからそう時間は経っていないのでしょうに、何度も何度も諦めず(もしかしたら「世界が俺のものでなくとも」は諦念に近いかもしれませんが)風をうける指先のひたむきさが好きです。静かで穏やかな覚悟が宿っている気がします。──霜柱

● 「絆創膏だらけ」で主体が何かを成し遂げる為に傷もいとわない強い人だと感じました。そんな指で触れる風は優しいのか厳しいのか想像をかきたてられます。主体は世界を欲しているのでしょうか。なんとなく器も大きく野望もでっかい人物像を思い浮かべました。爽やかで良いお歌だと思います。原作はスポ根ものではないかと予想しておきます。──アサコル

● 傷だらけの指にフォーカスが合い周りがきらきらとしているような景がすっと浮かびました。「世界が俺のものでなくとも」傷だらけの指で手でその世界を守っているのかなと想像します。「俺のものでなくとも(いいんだ)」という感情が伝わります。絆創膏だらけの指にふれている風がどうかやさしいものであってほしいな。ふれる風に自由さもあり広がりのある歌だと感じました。──山と森と街

● 指が絆創膏だらけになるときって、料理中に指を切ったとか、裁縫中に針で指を突いてしまったとか、カッターで何か切るのを失敗したとか、不器用な人が苦手なことを頑張った結果のことが多いような気がします。
痛みで敏感になった指で風に触れるとき、ふだんとは異なる手触りや温度でその存在をより強く感じると思います。掴めない無力さも。
しかし世界が自分のものでない寂しさとともに不思議な爽やかさを感じました。──ゆの

● 「絆創膏だらけ」になろうとも「世界」に向き合っていこうという真摯さを感じました。「世界が俺のものでなくとも」ということは「世界が俺のもの」になるという確信を持って、人生を歩んで来たのだろうと思います。若い頃というのは総じて自分が「世界」は自分のものだ、自分は物語の主人公だ、と思っているものです。それが成長するにつれて、そうではないと気づいてく。人間の成長においてとても残酷な瞬間だと思います。人によっては心が砕けてしまうかもしれません。ですが作中主体は違います。失敗し、傷つき、指が「絆創膏だらけ」になっても、「風」という他者に触れ、「俺のものでな」い「世界」とどうにかこうにか関わっていこうとしています。肉体は傷だらけでも、人はそれを高貴だとか、美しいだとか呼ぶのだと思います。──おかのきくと

● 世界を守るヒーローの歌かな、と思いました。ボロボロの手で世界を守って、それでも「世界が俺のものにならない」という葛藤のような切なさを感じているのではないか、と感じました。──月ノ華

● 下の句が壮大で、風のモチーフからは荒野にひとり佇んでいるような埃っぽさと孤独の気配を感じます。
ハードボイルドな雰囲気が漂っていると思ったのですが、主体にはいずれ治るであろう軽めの傷(絆創膏で済んでいることからの想像です)を手当てするような繊細さがある人なのだなと読みました。──池田いくら

● 〈絆創膏だらけの指〉と〈世界〉の並置・対比が印象的でした。〈世界が俺のものでなくとも〉=世界と俺の対立があったとして、そこから傷を負うとしたら一般的には〈指〉に限らないように思います。歌の語順からの印象もありますが、この〈俺〉にとっては〈指〉でする作業(裁縫や料理などをまず想像しました)やその上手くできなさが中心にあって、そこから〈世界が俺のものでなくとも〉というままならなさのようなものに思いを馳せているのかなと想像しました。
〈絆創膏だらけ〉というままならなさを負った指が触れるのが〈風〉であるところに優しさを感じて好きです。〈風〉は世界をめぐるものであり、また水や火と違って傷口に響く印象はありません。世界が俺のものでなかったとしても、世界の一部としてそうした〈風〉がそこにあり、触れることができるというのは、嬉しいことなのではないかなと。
 また、一息置いてから考えると〈世界が俺のもの〉であるか否かという捉え方は割と傲慢では? という感じもして、だとするとこの〈俺〉は「俺のものだったかもしれない」という立場にいたり、「俺のもの」としている誰かが身近にいるのかなという想像も広がりました。だとすれば〈絆創膏だらけの指〉の理由は裁縫や料理ではなく、何かの術や超能力などファンタジックかつ戦闘を思わせる理由がありそうです。──Dr.ギャップ

● 主体は「俺のものでなくとも」、絆創膏だらけになるまで世界を救ったのでしょうか。主体の自分自身に対する使命への覚悟を感じました。──水川怜

★作者コメント
原作は『ハイキュー!!』、イメージしたキャラクターは努力の鬼の及川徹というキャラクターです。及川は自分のことを天才ではないと自覚しており、それゆえ天才の後輩の存在が目の上のたんこぶだったりするのですが、それでも努力をやめたりはしません。ふわっと浮く及川のトスの雰囲気を出せたらと思い、「ふれる風」としてみました。──せいら

しょうがない でも許さない 取り合った世界でいつか会えばよろしく  Dr.ギャップ
コメント

● 一度離した胸ぐらを掴み直して、明るく突き飛ばしてから手を振るような歌だと思いました。腐れ縁みたいですね。「取り合った世界」が誰かのものになったのか、はたまたまだ誰のものでもないのかはわかりませんが、次にこの存在たちが出会ったときに何が起こるのかどきどきします。
相手に対して譲れないものがありながらまた次の試合で! とでも言うかのように未来の話をしているところがさわやかにも思えますが、もしかしたら「いつか会えば」の「いつか」は来ないことを前提にして、「よろしく」と手を振っているのかもしれないとも思いました。──霜柱

● 世界を取り合うという表現が面白いですね。戦争でしょうか? それとも神様のゲームでしょうか。いずれにせよ主体は負けて去るところなのでしょう。結果を受け入れる潔さがありつつ、「許さない」という感情をストレートにぶつけているのがなぜか爽快です。
「よろしく」はリベンジマッチの意味ととりました。好戦的で、まったく負けた感じのしないたくましい敗者です。──ゆの

● 運命や人の縁にはどうしても「しょうがない」部分があると思います。良い縁も悪い縁も言わば成り行きであり、本来は私たちの意思の外側にあるものかもしれません。作中主体はそれを理解した上で、「許せない」ではなく「許さない」を選択し、更には「いつか会えばよろしく」と相手と手を「取り合う」ことさえ選びとることができます。非常に主体的で、主人公気質であることが分かります。あらゆる宿敵関係に当てはまる歌だと思いますが、個人的には(誠に勝手ながら)、「僕のヒーローアカデミア」のデクと死柄木弔の関係性に近しいものを感じました。──おかのきくと

● 元相棒で今は決別した二人、という想定で読みました。お互い(あるいは片方)のしたことをしょうがないとしつつも信念的に許せなくて……というイメージです。違ったらごめんなさい。「いつか会えればよろしく」というのが皮肉じみていてとても好きです(違ったら本当にごめんなさい……!)。──月ノ華

● 初句、二句のはじまり方がとてもいいなと思いました。「しょうがない」の諦めから入り感情があふれます。「取り合った」と奪い合うじゃないのが少し現実味が薄いようなゲーム内での陣取りを想像します。「いつか会えばよろしく」とこちらも「許さない」という言葉の強さからは対極の位置にありそうなフランクな関係性。劇中劇のような読み味を感じる1首だと思いました。──山と森と街

● 主体は一対一の勝負の敗者側かなと読みました。──池田いくら

★作者コメント
原作はアプリゲーム《ディズニー ツイステッドワンダーランド》です。『冥府』にいるオルト・シュラウドからアズール・アーシェングロットへというイメージで作りました。二人は望む世界の形が異なることからぶつかり合った関係性になります(メインストーリー6章より)。6章は大好きなエピソードの一つなのですが『冥府』のオルトくん視点での短歌は今年初めて作ったので、今回の歌会に相応しいのではと思って選びました。
 この歌には「こうであってほしい」というプレイヤーで作者の自分のエゴがかなり混じっているのですが、でもたとえば『冥府』のオルトくんのあの声(ボイスも大好きです)に〈よろしく〉は似合うなという気がしていて、これも勝手な祈りではあるんですけれどこの結句にしています。〈しょうがない〉と〈許さない〉を並べるとき、〈許さない〉を後に置いてきっちり刺してくる子だろうなというのがこだわりでした。
#twst短歌 #ツイステ短歌──Dr.ギャップ

書き上げた宛名以外が自分宛てのように見えて渡せなくなる  霜柱
コメント

● 相手に向けたはず言葉が、実は全部自分に反ってくるものばかりだった、というのは現実世界でもよくあります。
心を込めた言葉ほど自分の深層にある願望や本音を反映しているもので、普通はそれに気づかないか無視してしまうのですが、この主体は気づいてしまったんですね。いたたまれさや、途方に暮れる心情がにじみ出ています。
しかし「こんなもの渡せない」と思ったところから、相手との新しい距離を模索するフェーズに入ります。そのまま渡すのか、書き直すのか、それとも渡さないのか。迷いが生まれる直前の歌だと思いました。──ゆの

● 「書き上げた宛名以外が自分宛て」という部分に、初見では「ム?」となりました。読み進めていくうちに「住所と名前以外の要素」つまり「相手に向けた手紙の内容のことだ」と分かりました。「宛名」「宛て」という言葉のリフレインによって、論理関係が少々パズルのようになっていると思いました。かえってそれが、手紙を渡す人と受け取る人の難解な関係と重なっています。
 相手に向けた言葉が自分を慰撫するための言葉になってしまっている。人間関係がこんがらがって、にっちもさっちもいかなくなっている。「こんなはずじゃなかったのに」「自分はなんて自己中心的な人間なんだ」それに気づく瞬間の恐ろしさには、いつだって気道がヒュッとなります。手紙を「渡」すことさえ憚られ、もうどうしようもない……人間関係も自分も壊れてしまって、もう元には戻らないのかもしれません。
 選評に関しては極力論理的に読解しようと努めているのですが、共感できる瞬間のためツラツラ書いてしまいました。二次創作短歌としての答え合わせも楽しみではありますが、ひとつの歌として好きです。──おかのきくと

● 相手と自分の境界線の不確かさを意識する歌だと読みました。他者に書いた手紙が「自分宛てのように見え」る理由は読み切れていないのですが相手と自分を同一に思えるのはその感情がプラスでもマイナスでも境界線が不確かで不安定な場所、心境にいるキャラクターなのかな。手紙という物理的なもの、自身で書いたものでも線引きができていないというのが後ろにある物語を、他者との関係性を感じました。──山と森と街

● 相手に対して書いたつもりの手紙の文面を読み返したら、自分が言われたかった言葉を書いていただけだったと主体が気付いたシーンと読みました。
音数は三十一音ぴったりなのですが、後半を「自分宛ての/ように見えて/渡せなくなる」のように文の切れ目のちょうどいいところで切ると韻律が六・六・七と不安定になり、
主体の揺らぐ感情を反映しているように感じます。──池田いくら

● 「書き上げた(手紙の)宛名以外(の部分)が自分宛てのように見えて、(そのためにその手紙をあなたに)渡せなくなる」と読みました。特定のあなたに宛てたつもりだったけれど振り返れば自分自身への言及に過ぎず、その人を通して自分のことしか見えていなかったんだ、という気づきの歌かなと。
 ではその手紙はどんな内容だったのだろう、ということが気になりました。ラブレターやファンレターだったのか、あるいは相手の何かを批判するような内容だったのか。ただの近況報告だとしたら〈自分宛てのように見えて〉は、手紙を書いているうちに意識されそうな気がするので、何か特別なメッセージのある手紙だったのでは、と思います。あくまで自分はですが、批判の手紙だとしたら〈渡せなくなる〉よりも強いリアクションが出るかなという気がするので、ラブレター/ファンレターのつもりが自己愛の表明になっていた、というイメージで読みました。一首のなかに文法の複雑な部分などはなくすっと読み通せるので、〈渡せなくなる〉という結論がなおさらまっすぐ重く響くように感じました。
 歌のシチュエーションは重ならないのですが、小説『ボトルネック』(米澤穂信)を連想します。──Dr.ギャップ

★作者コメント
漫画『SLAM DUNK』の三井寿で詠みました。彼は高校3年生で、高1のときに大きな怪我をして入院し、挫折したことのあるバスケットボール選手です。挫折のあとは2年間不良仲間とつるみ、バスケ部の後輩をリンチして返り討ちにされ、その復讐として体育館を襲撃する事件を経て、バスケを手放したくない自分自身の思いに気づかされ、競技へ復帰することになります。

漫画の最終話では、主人公である桜木花道が試合で負った怪我のリハビリのため、おそらく入院している描写があります。そんな桜木へ三井が何かを伝えようとしたとき、ふとこれは自分宛てに言ってほしかった言葉かもしれないと思えてきて、口を開けなくなるようなことがあるかもしれないと思いながらつくった歌です。

個人的に、三井が挫折のときに負った心の傷は十分にケアされたわけではなく、桜木を見舞ったり、その不在を織り込んで戦ったりする中でまた疼き出すのではないかと考えています。復帰のためにリハビリをこなす後輩と接する中で、過去の自らを思い出すことも増えるでしょう。復帰を待たれるキーパーソン(桜木/三井)と、先を行くめきめきと才を伸ばす者たち(流川/赤木)で対比にもなる部分があって、しかし細部に異なるところもあります。桜木は初心者から抜け出したばかりですが、三井は中学の県大会で優勝チームを率い全国出場の経験もある選手でした。怪我をした当時になくしたままの心の置きどころを、似て非なる痛みを抱えた桜木との交流、取り巻く人々との対話で見いだすようなことがあってもいいなと妄想しています。──霜柱

森思い 震えるそなたの 悲しみを 今は静かに ただ抱きとめる  ぱるき
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● 「そなた」の抱える悲しみをいたわろうとするやさしい手ですね。「森」は「そなた」にとってどんな場所なのでしょうか。失われた、帰れない、もしくは遠い故郷など、なかなか実際訪れることのできない大事な場所なのか……想像が膨らみますね。情景を思い浮かべると、なんとなく静謐な夜のイメージがあります。
また、「ただ抱きとめる」から主体が感じる少しの無力感に思いを馳せました。痛感している、というよりはここでできる精一杯の寄り添い、というような。懸命に大切な人の悲しみの発露を受け止め、寄り添おうとする等身大のいたわりが伝わってきます。──霜柱

● 「そなた」と呼ばれる人物は自然を愛しているように感じました。「悲しみ」とあるので自然が破壊されたのでしょう。抱きとめる主体もきっと自然を愛しているのだろうと思います。その上で主体が「そなた」の悲しみを受け止めているのに深い愛を感じました。原作はもののけ姫ではないかと思っています。──アサコル

● 映画『もののけ姫』を想像しました。森を思い震えるサンを抱きとめるのは、モロかアシタカか、森そのものか。あるいはサンを見守る皆の心を抽象化した視点かもしれないと思いました。悲しみ、苦しみに寄り添いながらも、どうしてやることもできないやるせなさが伝わってきました。──ゆの

● 「そなた」「森思い」などの単語がジブリや「もののけ姫」を思わせるファンタジックな世界観を構築しています。「悲しみ」とはどのような「悲しみ」なのか、作中主体は何を思ったのか。解説を楽しみに待ちたいと思います。──おかのきくと

● 静かなそして大きな相手への感情が伝わる歌だと思います。震えるほどの悲しみは相手を深く傷つけているのでしょう。ただ静かにそばにいる、寄り添うことにとても深い愛情を感じました。初句「森思い」からもののけ姫のイメージが湧きました。──山と森と街

● ワードチョイスからもののけ姫の歌かなと思って読みました。──池田いくら

● 〈震えるそなたの 悲しみ〉を受けて“私”が選ぶのが〈ただ抱きとめる〉なのが良いな、素敵だなと思います。震えを止めようとするのではなく、癒そうとするのではなく、ただ寄り添い受けとめることを選ぶところから、相手のそのままを尊重しようとする姿が想像されました。
〈森〉〈震える〉〈そなた〉〈悲しみ〉といった語から映画《もののけ姫》と主題歌を連想したのですが、〈そなた〉にサン、“私”にアシタカを置いて読むと、森/里の対比のなかで里側にいるアシタカにはサンを〈抱きとめる〉以上のことはできないのかな、とも思いました。サンに悲しんでほしくない、けれどサンを悲しませている原因は自分たちにある、という矛盾のなかに〈ただ抱きとめる〉があるのかなと。そう思えば、〈今は〉そうする、そうすることしかできないけれど、これからは、というアシタカの静かな思いが見えてくるようです。──Dr.ギャップ

★作者コメント
映画「もののけ姫」終盤、シシ神が首を失い森が死んでいくのを目の当たりにし「私は山犬だ」と激昂するサン。そんなサンの思いを全て受け止めるように抱きしめるアシタカを、彼の視点で詠みました。──ぱるき

風が吹く「どうか貴方にく在れ」と 窓は開けっ放しでいるから  しまおかさよ
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● つつがなく幸せに暮らしていてくれという祈りの風をうけながら窓を「開けっぱなし」にしている姿に、ただ祈られる安寧を享受するだけでない胆力が見えました。吹いた風は待たれている誰かの祈りが乗ったものかもしれないし、世界に吹きわたる大きな祈りでもあるのかもしれません。

「幸くあれ」を調べていて出てきた万葉集の「父母が頭かきなで幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる」と重ねて、長年離れることがわかっている、もしかしたらもう二度と会えないかもしれない対象なのかもとも思いました。意識的に外へ開く場所を作ることは、いつでも帰ってきてねの証のようでも、いつでも繋がっているからねの証のようでもあります。

また、逆に窓を開けっぱなしにしている主体の祈りが風に合わせて外へ出ていっているようにも読めそうかもと思いました。幸せでいてねという願いでありつつ、けれど開け放した窓から帰ってきたひとがたとえ幸せでなかったとしても受け止めてくれそうな、懐の深さがあるなあと思いました。──霜柱

● 映画の一場面のような景が浮かぶ1首だと思います。頬や髪に吹く風が「幸せにいて、幸せであってほしい」とあの人の手のように撫でてくれている、と読みました。「窓は開けっ放しでいるから」がその人をいつまでも待つこと、風にその人を感じるので会えなくても開け放して感じていたいというのが1字あけの後に続くことで覚悟のような強い気持ちを感じました。──山と森と街

● 「風」がどのように「吹」くのか。「開けっ放し」の「窓」から入ってくるのか、出て行くのか。「開けっ放しでいるから」の後にどのような言葉が入るのか。含みがあり一筋縄ではいかない歌だと感じました。
 「窓は開けっ放しでいるから」、あなたが風に乗せる言葉をすべて受け止めますよ、ということでしょうか。それとも視点を反転させて、どんなあなたも「幸くあれ」と包み込んでくれる風といった、無条件の愛情のようなものかもしれません。どちらにせよ根底には相手を無条件に愛する優しさと信頼が横たわっているように思います。──おかのきくと

● 優しい歌だな、というのが第一印象でした。遠くにいるのでしょうか、風に乗せて「幸く在れ」と言う人も、その風が届くように窓を開けっぱなしにしている人も、とても優しくてあたたかな人なのでしょう。どんな作品か気になります。──月ノ華

● 風と共に去っていってしまった大切な人を想う歌と読みました。相手は旅の空の下でしょうか? 「窓は開けっ放しでいるから」という言葉から、帰りを待ち望んでいる様子も窺えて、明るい悲しさが部屋いっぱいに広がっているようです。カーテンが揺れるたび、主体は相手の幸せを想うのでしょう。物語のエピローグのような余韻が素敵でした。──ゆの

● 旅立った人を想う様子が切ない歌です。
開ける場所が扉ではなく窓なのは、窓から出入りする人(猫や鳥の動物もあるかもしれません)なのでしょうか?比喩でも美しくて好きです。
居場所があると伝えつつ、幸せを願う姿が切ないです。
旅立つ人を想起させる風、窓の言葉選びが好きです。──海月雪夜

● とてもやさしい歌で素敵だな、と印象に残りました。恐らくこれは「貴方」との別れのシーン(或いはもう別れた後のシーン)だろう、と取ったのですが、遠い地にいる大切な人の幸福を願う主体のその背中にも、また追い風が吹いているような気がします。「窓は開けっ放しでいるから」の下の句が個人的にとても好きで、旅立つと決めた覚悟を疑うわけではなく、ただいつでも帰れる場所としてそこにある、という優しさが伝わってくると感じました。──古月もも

● 主体は建物の中にいて、言葉をかけたい相手は野外にいるのかな?と思いました。
自身は壁に守られた場所にいるけれど、相手のことを案じており、相手が外の世界で感じているであろう風に触れることで何かを分かち合いたいという感情があると想像します。この歌のおいしいところは主体と相手の対比であると思っていて、主体は安全である一方で自由がなく、相手は身軽である一方身の保障がないのですよね。相手に向いている感情は湿度が低くて、あなたにはあなたの生き方があるということを受け入れているのではないかなと思います。──池田いくら

● こちらの窓は空いているから、いつでも帰っておいでというような思いを感じる一首。「幸く(さく)」という言い回しが素敵です。──萩野すい

● 〈風〉と、窓を開ける“私”がそれぞれ、あるいは同じように〈貴方〉の幸福を願っているものとして読みました。〈風〉と“私”の口調が異なることもあり、“私”の願いが風に託されているというのではなく、それぞれ独立した存在や願いとしてあるのだろうと感じます。また、〈窓は開けっ放しでいるから〉の言いさしの続きに「だから、この風を受けてくれ」という形を思い浮かべるのですが、つまり“私”が貴方のために直接できることはなく、風に小さく手を貸すことしかできない(そのことを“私”も承知している)というイメージを持ちました。
 涼やかな言葉が並び、「幸くあれ」という願いが中心にある明るい歌である一方、“私”の無力感やさみしさがどこかにちらつくようで切なく感じる歌でもありました。自分がキャラクターの諦念に惹かれがちなので、そこに引っ張られて読んでいたら申し訳ないのですが……──Dr.ギャップ

★作者コメント
『NO.6』あさのあつこ
中学1年生の時に、学校の図書室で出会ってからずっとだいすきな物語です。
物語の主軸である紫苑とネズミを、10年ちょっと前に梶くんと細谷さんでアニメ化した時の嬉しさが、今年(というか先月)、今牧くんと古田さんでミュージカル化したことでよみがえり、短歌を詠むことにしました。
観ました?観ましたか!?観て!おやすみのキスを観てーーー!!!!
(YouTubeで、約11分ダイジェスト映像が見れます………)
この短歌の下地には、額田王の「君待つと吾が恋ひをれば我が屋戸のすだれ動かし秋の風吹く」のイメージが、うっっっすらあります。うっすらすぎて薄味すぎますが……。ネズミを待つ紫苑にも、風の音に懐かしい人の片鱗を感じてはっとする時間があって。でも、再会の約束がある彼らにとって、それは切なさよりももう少し穏やかなものであるのかもな、と。
9月7日、風ととも舞い込んで来た運命を奇跡と呼んでいたその姿……を噛み締めて、2人が再会する「いつか」に想いを馳せる、我が人生です。──しまおかさよ

さよならをやり直す手に巻き付いた糸は初めて風に靡いて  古月もも
コメント

● 「運命の赤い糸」という言葉があるように、「糸」とは縁の象徴でしょう。作中主体に「巻き付いた糸」はどこに繋がっているか明記されていませんが、一度「さよなら」した相手がいたと言うことは分かります。それでも縁を切ることができなくて、再び巡り会ったのでしょう。一度した「さよなら」が意味を成さないくらい二人は強い縁で結ばれています。「糸」が「風に靡く」とは、二人の関係性が新しいものになる、風通しのよいものになることの例えだと読解しました。今までの二人とは違う、健全な絆を結べることを「風」が祝福しているのだと思います。──おかのきくと

● この歌の「糸」は運命の赤い糸に似たものかなと想像しつつ、恋愛的な赤い糸と言うより糸は縁にも置き換えられるのかなと思います。さよならを「やり直す」「巻き付いた」というのが何度も出会った腐れ縁のようなイメージとも。その糸は「初めて風に靡いて」と続くことで今までとは違う新しいもの、自由への喜びを感じる歌だなと思いました。そして得た自由さだけではなく決別したものへきちんと「さよなら」をするというのが嫌な別れ方ではないようなこの歌をほんのり明るく照らしているような気がしています。──山と森と街

● やり直す、ということは二度目の別れなのですね。手に巻き付いた糸が物理的なものなのか、運命の赤い糸的なものなのか分からないのですが、靡くということは切れているのでしょう。二人をつなぐ糸から、二度目にしてようやく解放された、その心の動きが糸の靡きと重なっているのだと思いました。──ゆの

● これまで風がない場所、密閉された室内にいたということでしょうか。もしくはその糸ごと手を縛り上げられていて風に靡くような状態ではなかったということでしょうか。なんにせよ、主体の決別とスタートを予感させる清々しさがある歌だとおもいました。──池田いくら

● 「はじめて風に靡いて」という結句から、何かのしがらみから自由になる主体の気持ちを感じました。少し切ないですがすっと胸に風が吹き込み新たな出発をするようなお歌だと思いました。──水川怜

● ずっとひとりで手慰みに触っていた手の内の糸がはじめて外の空気に触れた、秘めた思いが別れの際に開放されたような印象を受けました。「秘めた思い」と表現したのは赤い糸を想起したためですが、「やり直す」ということはその相手との何度目かのお別れで、それなのに「初めて」靡く「手に巻き付いた糸」の積年感といいますか……。しかし風が吹き抜ける情景はあくまでさわやかで、そのぶん全体的に軽やかな印象なのが好きです。
「さよならをやり直す」に滲む悔いのようなエッセンスもいいなと思いました(後悔とか心残りとかが癖な人間なので)。どうかもう一度、と願った結果がいまなのか、偶然に訪れたもう一度のさよならなのかはわかりませんが、このお別れが糸を揺らした風のように、どちらにとってもさわやかなものならいいなと思いました。──霜柱

● とてもドラマチックで印象的な歌でした。糸(運命の赤い糸を思わせる)が靡く様子も鮮やかですが、〈やり直す〉〈初めて〉から感じる時間の奥行きにもドラマを感じます。
〈さよならをやり直す〉といういま〈初めて風に靡いて〉ということは、前回のさよならのときにはまだ糸が相手とつながっていたのか、あるいは手を振る動作を前回はしなかった(さよならを受け入れられなかった)のかな、と想像しました。どちらかというと後者寄りで読んでいるのですが、だとすると〈さよならをやり直す〉が単なる二回目ではなく正しく「やり直す」なんだなと感じていっそう沁みるようでした。別離などの仕方なさを受け入れるというシチュエーションに弱いんです自分は……とはいえ、さみしさもあるけれどどこかさっぱりしたような、次の一歩に踏み出せそうな予感もある印象でした。
 また〈手に巻き付いた糸〉は運命の赤い糸に限らずマリオネット的な糸としても読めるように思いました。その場合、“私”はマリオネット側だったのか、それを支配する側だったのか。背景が気になります。──Dr.ギャップ

★作者コメント
原作はペルソナ5Rです。3学期の明智と主人公について詠みました。──古月もも

さらさらと 優しく触れる せせらぎは あの日の川へ 私をいざなう  ぱるき
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● 「さらさら」「せせらぎ」のサ音が澄んだ水の流れを想起させます。澄んだサ音がトリガーになり、「あの日の川」へ読み手を「優しい」思い出へ「いざなう」追体験が可能です。
また、自分は柿本人麻呂の「笹の葉はみ山もさやにさやげどもあれは妹思ふ別れ来ぬれば」という歌を思い出しました。日本人はサ音に対してノスタルジーというか、清らかでいて、同時に物悲しいものを思い浮かべるのかもしれません。──おかのきくと

● 音、韻律の美しい1首です。「さらさらと 優しく触れる」は川へのイメージと誰か特定の人物に触れる/触れられる感覚を連れてきます。「あの日の川」がその相手との思い出の一つでそこにせせらぎは連れて行ってくれる。水光がゆれる美しい景が浮かびました。──山と森と街

● 目の前にある小さな流れから、記憶の中にある深い大河へ一気にイメージが広がる感じが心地よいです。この主体の心は常に「あの日の川」に繋がっていて、日常のふとした瞬間でも、想起させるものがあればたちどころに戻ってしまうのかなと思いました。そこまで心に刻まれる何があったのか、バックストーリーが気になりました。──ゆの

● たぶん、私と同じ原作「千と千尋の神隠し」を歌った短歌かと思います。この映画の普遍的なテーマの一つを詠み込んだ素敵な歌だと思いました。──水川怜

● 今主体は川にいないはずなのに川を感じている、もしくはある川の前で他の川のことを考えているというシーンかなと思いました。──池田いくら

● 「優しく触れる せせらぎ」なのに、下の句で暗がりから過去へおいでおいでといざなうような得体のしれなさを見せてくるのが面白いなと思いました。川は純粋にせせらいでいるだけなのに「あの日の川へ」いざなわれていると感じる主体の、うしろめたさにも似たその過去に対する思いの強さがうかがえて引き込まれます。慕わしい過去に慰められているとも、苦々しい過去に蝕まれているとも思えるような不思議な感覚を覚えました。──霜柱

● このまま回想シーンが始まりそうな印象の一首で、〈せせらぎ〉の流れや音がそっと、けれど確かに〈私をいざなう〉様子が瞼に浮かびました。〈さらさら〉〈せせらぎ〉というs音とr音の繰り返しが耳に優しく感じられます。〈あの日の川〉という示し方には郷愁の手触りがあり、今は川のない土地に暮らしているとか、土地の開発によって埋め立てられてしまった川を回顧しているのかも、という状況が思い浮かびました。
 また無作法な推測をまずお詫びするのですが、句ごとに一字空けを入れる作り方が5番の歌と共通しており、もし作者の方が同じであればジブリつながりで映画《千と千尋の神隠し》が原作かもと思いました。千尋がハクの正体を思い出すシーンが下敷きになっているのかなと。そう思うと〈いざなう〉がいっそう鮮やかに感じられ、また〈あの日の川〉以上に描写を割かれている〈せせらぎ〉への眼差しのやわらかさが腑に落ちるようでした。──Dr.ギャップ

★作者コメント
映画「千と千尋の神隠し」から、千尋がハクの名前を思い出すシーン。千尋の視点で詠みました。
靴を拾おうとして川に落ちてしまった千尋。忘れていたあの夏の日。その大切な記憶はハクが自分の名を思い出すきっかけになりました。──ぱるき

死に水をとるということ墨染の袖に涙と月は隠して  水川怜
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● 人が亡くなった後の色々の儀式はどことなく行動と感情が少しずれているように思うことがあります。「ーということ」が事実として目の前にあるけれど少し離れているような視点があり、まだ揺らぎの中にいると感じました。看取りの中で最後の水を渡すこと/黒染めの染/涙と染みるような喪失、心の湿度が伝わってきます。「月」も袖に隠すとあるところに静かででも誰にも見られたくない、悲しみを自身で受け止めたいと確かな覚悟も感じる1首だと思います。──山と森と街

● 拙者レトリック大好き侍と申します。和歌のエッセンスのようなものを感じ、非常に興奮しました。ありがとうございます。
 「死に水をと」ったことに対して「袖を濡らす」と言う言葉が使われていることから、恋人かそれに準ずる人の死と読みます。「水」と「涙」の対応が効いています。
 自分が好きなのは、更に「涙」を隠すのが「黒」く染めた袖という点です。悲しくても絶対に涙を隠す、という作中主体の強い決意を受け取りました。「黒い」ではなく「黒染」なところがミソだと思います。ただそこにあった「黒」ではなく、作中主体の意志を持って「染」めた(もしくは染められた)「黒」という感じがしました。涙と共に隠されるのは「月」です。涙のとっぷりと溜まった皿に映る月を思わせる、静謐で美しい情景です。──おかのきくと

● 主体は今まさに大切な人を一番近くで見送ろうとしている、その苦しさを初めて実感する重みが伝わってきました。「墨染の袖」という言葉から平安時代あたりかと想像します。その袖が涙だけではなく月も隠してしまう。心に重くたれこめる絶望の表現が美しいと思いました。──ゆの

● 「死に水をとるということ」という二句でぐっと心を掴まれてしまいました。死に水をとる、いいよなあ……と思います。
主体の着ている墨染の服に涙と月を隠す、という三句目以降もすごく素敵です。
涙と同列に月を隠す、というのは、死に水をとる相手に対してすらも涙を見せたくないし夜の光に晒されないところで看取りたいということなのかな、と思って、すごく静かで静謐なシーンが思い浮かびました。それと独占欲も感じます。
全体的な調和が取れていて、薄墨色に一定のトーンでまとまっていて美しいと感じました。──米田

● 情景から仏教的な背景がある歌かなと思いました。モチーフの取り合わせや語の選択が古風な感じがするので、現代日本ではない時代が舞台の歌としても読めるような気がします。
袖と涙と月が一緒に登場するとコンボボーナスが発生してなにかの暗示となっていそうなんですが、私があまり古典に明るくないのでそこまでは読めませんでした。和歌の教養がある方の感想を聞いてみたいです。──池田いくら

● 「死に水をとる」のは人が亡くなってから最初に行われるお別れの儀式だそうですね(www.famille-kazokusou.com/magazine/otsuya/267)。
「死に水をとるということ」とその行為そのものにフォーカスをしている最初の57が、その儀式に臨む自身のことを現実味なく見ているというか、「こういうことなんだなあ」とまさにその瞬間に実感を深めながら儀式にあたっているさまを表しているようにも感じました。
しかし、「涙と月」を隠すような状況にもあるというのがミソだと思います。涙を見せてはいけないのは誰に対してか、月に見せたくないものは何か、と想像が膨らみますね。なんとなくこの儀式を先導しなければならない立場にあるひとが涙を隠して気丈にふるまいながらも、亡くなったその人を想って月から隠すような、やわらかな労りにも思えました。
閉じた世界の静謐さを望んでいるのに、どうしてもそれだけではいられないなかで、それでも誠実であろうとするいじらしさを感じます。──霜柱

● 覚悟と、もしかしたら諦観の歌なのかなと思いました。〈ということ〉とあるので、〈死に水をとる〉は今まさにしている、しなければならないことではなく、いつかそうするだろうという予感としてあるものとして読みました。また〈墨染〉は喪服のほか僧侶の衣に使われる色とのことなので、僧侶(やそれになぞらえられるような、葬送を担う立場の人)が親しい方の死を悟ったり、死に水を取るような関係性になったことを噛み締めているのかなと想像しました。
〈涙と月は隠して〉の並置が印象的で、〈涙〉は墨染の袖に吸わせたり目元を覆ったりということかと思うのですが、〈月〉を隠すとはいったいどういう行為で意味を持つのか気になりました。原作特有の意味があるのかもしれないとも思うのですが……月光が故人にかからないようにして二人きりになろうとするような、あるいは満月を袖口にころんと仕舞ってしまうような、そんなイメージをぼんやりと浮かべています。──Dr.ギャップ

★作者コメント
「八咫烏シリーズ 烏は主を選ばない」から「追憶の烏」の奈月彦の死に水を取る浜木綿の歌です。
今回は縁語や結びつきのある語句を取り入れてみました。「墨染の袖」の「墨」は浜木綿の真名の「墨子」、浜木綿が身分を隠していた頃の名前、同時に奈月彦の偽名である「墨丸」、そして喪服として用いられる「墨染」からです。黒い烏のイメージもあります。「袖」は「涙」の縁語です。「月」は奈月彦の月です。「隠して」の隠すは身分が高い人が亡くなった際に使われる「お隠れになる」からです。──水川怜

燃えさしをどこへやろうか 息を吐くときに必ず軋む脳梁  トラネ
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● 歌を読んで「燃えさしをどこにやろうか」の紫煙のゆらゆら、「息を吐く」の呼吸、生命活動「軋む脳梁」のぎしぎしと歌から体感に繋がっていてキャラクターをすごく感じます。「軋む脳梁」から記憶や情報の危うさも感じつつ、そこがまた魅力的な歌の雰囲気になっていると思いました。個人的にどの作品・キャラクターなのかとても気になりました。──山と森と街

● 煙草でしょうか(自分が元喫煙者なのでそう思うだけかもしれません……)。煙草の煙を吐き出す時、「脳漿」が「軋む」ような痛みを感じることがあります。自分の存在が小さく縮んでいくような感覚です。ですが同時に、自分の存在を感じる瞬間でもあります。煙を吸い込むと痛いのですが、その痛みが実存を際立たせるのです。
 煙草の「燃えさし」をどこへやろうかと手を彷徨わせている作中主体は、自分という存在もどこか宙ぶらりんだと感じているように思えました。当方喫煙描写が好きなので、作品が気になります。──おかのきくと

● 「脳梁」が分からず調べてしまいました。「大脳の両半球をつなぐ交連繊維からなる構造」とのこと。脳梁がきしむ、は、右脳と左脳のバランスがきしむ、と読み替えられるでしょうか。主体が燃えさしの始末を考えるとき、論理的思考と創造的思考が相反する状態になる。そんなバグを引き起こす燃えさしは何を燃やしたものなのか。ミステリーの一場面のようです。──ゆの

● 燃えさしというのは煙草だと私は解釈しました。煙草を吸って、息を吐く時、脳梁が軋むのを感じる。
それってどういう時に感じるんだろうなと思うと、私だったら気圧の変化が大きい時には頭がぎしぎしいうような感覚を覚えるのですが、主体の置かれた状況はきっとそういった一般的なものではないんだろうなと思って、何か主体にとって煙草を吸う時に思い出すものがあって、それが脳裏にちらつくから脳梁が軋む、という表現になるのかなと思いました。
燃えさしというのは燃え切らずに残った火がくすぶった状態のことを言うそうなので、燃えさしをどこへやろうか、と考えている主体の中にもくすぶった残り火があるという暗喩なのかなと考えました。
気だるげでアンニュイに感じられる雰囲気が好きだなと思います。──米田

● 脳梁の機能をよく知らなかったため、この機会に調べたところ、「左右の大脳半球をつなぐ」機能を持つようです。だから主体はそういう架け橋のような人だったのかな、と想像しながら読みました。そう考えると「燃えさし」というアイテムがもう終わってしまった関係性の比喩であるように取れ、その関係への未練/感情を仕舞う場所に困っている主体の姿が浮かび上がり、情景の重ね方がとても良いな、と印象に残りました。個人的には呪術廻戦の家入硝子さんが想起させられました。──古月もも

● 脳梁、初めて聞いた言葉だったので調べました。普段の呼吸で脳に繋がっている神経を意識することってないので、主体には特殊な身体感覚や事情があるのかもしれません。上の句、何かが起きていると思うんですが、下の句の語の不穏な感じから察するに事故現場みたいなもののなのだろうか...と想像しました。──池田いくら

● 「どこへやろうか」とさまよう手に、「必ず軋む」脳梁が警鐘を鳴らしているような印象を受けました。何かを主体は忘れてしまっているのでしょうか。その燃えさしには元々行くべきところがあったのかもしれません。「燃やす」という言葉は情熱の暗喩かなと思いもして、消え切らずまた燃やし尽くすこともなく半端なままで忘れ去られてしまった情熱の残り火が、現在の主体に強く呼びかけているようにも思えます。呼びかけは強いものなのに、メッセージとしては不鮮明なまま届いているのが逆に焦燥感を煽られるような……軋むのが「息を吐く」ときなのも、ひと息ついて力がうっすら抜けたときほど呼びかけが木霊する、そんな緊張感の表れのように思えてたまりません。──霜柱

● 古い傷跡が疼くような、そんなシーンをイメージしました。〈燃えさし〉は比喩としてのそれで、完全燃焼できなかった何かが自分のなかにあることが理由で〈息を吐くときに必ず軋む脳梁〉となっているのかなと。〈息を吐く〉という動作から空気の動く様子が想起されて、その動きにともなって〈燃えさし〉の熾火がちらちらするような、空気が抜けて気圧が下がった体内だからこそ脳梁の軋みが意識されるようなイメージがあります。
 また〈どこへやろうか〉から、燃えないことをそのままそこに置いておけない人なんだという印象があって、そこがとても好みに刺さりました。燃え尽きられなかったそれを手元に置いて撫でることはせず、手放したい人なんだなあと。〈必ず〉という言い方はある程度それが手元にありつづけたからであろうと思いますし、つまりはどこへもやれない人なんじゃないかなという気もしますが、そこも含めて好みです。好みに寄せすぎた読みかもという危惧はあるのですが、もし当たっているとしたらかなりツボなのでいっそう原作が気になっています……──Dr.ギャップ

★作者コメント
『キングダム』より、桓騎の短歌を詠みました。
彼の苛烈さ、残虐さ、激しさと、誰よりも諦めきれていないところが大好きです。諦観がない訳じゃないけれど、そこに浸りきれずに、誰よりも激しく怒りが両立し続けているさまに目が離せませんでした。そんな自身を「燃えさし」と呼称する自嘲じみた気配を彼に感じていて、そんな風に自嘲していたらどうしよう、という気持ちがありました。──トラネ

ここからは独りの輪舞曲ロンド 板はまだやわい素足じゃ少し冷たい  古月もも
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● 「ここからは独り」ということは誰かが居たのであろうと推測します。
少し冷たいのは、素足だからだけではないのだと、そんな想像が掻き立てられるよい句です──ましも

● 大勢で踊っている中から一人での踊りへと向かう心細さを「独り」「素足じゃ少し冷たい」から感じました。「まだやわい」は子どもの年齢のキャラクター、もしくは踊りの技術として未熟なのかなとも想像します。それでも素足でありのままの姿で板の上(舞台)にすでに立っているのであろう主体の緊張と静かな闘志のようなものを感じる1首だと思いました。──山と森と街

● 「板」「ロンド」という言葉から、バレエか歌劇がテーマの作品だと推察します。「まだやわい素足」から作中主体の未熟さが分かります。未熟であるにもかかわらず「ここからは独り」で舞台に立たなくてはなりません。「板」が「冷たい」ということは、お客も場も作中主体を手放しで歓迎しているわけではないのでしょう。「こいつは演者としてどうなんだ」と値踏みされているのかもしれません。それでも、舞台をどんなものにするかは、作中主体の手腕にかかっています。静謐で「冷たい」舞台へ、たった「独り」で踏み出していくことへの、静かな興奮を感じました。──おかのきくと

● 輪舞曲は大勢が円になって踊る舞曲ですね。それを主体は独りで、裸足で踊っていかなければならない。心細さよりも、主体の強い決意のようなものが伝わりました。「ここからは」でたくさんの仲間と踊った熱気の記憶を感じられます。そして板を冷たいと感じる裸足を描くことで、逆説的に主体自身の持つ熱を表現していると思いました。──ゆの

● 劇団とかに所属している舞台人か床の上で競技する体操選手とかが主体かなと想像しながら読みました。板は舞台とかの床の部分だろうと思います。
床がやわく感じられるというのはどういう状況かわからなくてずっと考えて何回も読み返していたんですが、やわいのは板じゃなくて素足の方ですね!!??と評期間最終日に思いついてすごくすっきりしました。手練れの職人の手が長年の仕事で硬くなっているように、舞台に慣れた人の足は硬くなってゆくということでしょうか。──池田いくら

● まだ若く見習いのような立場にあった、そしてそこから今まさに一歩を踏み出そうとするバレリーナやダンサーをイメージしました。〈輪舞曲〉は基本的に大勢で踊るものとのことですが、もうその皆はいない、ということで〈ここからは独り〉なのかなと想像します。これが独り立ちを表しているのか、他に何か事情があり本来はまだ〈独り〉になるべきタイミングではないのか、いずれにせよ緊張感やさみしさがうっすらとあるように感じました。
〈まだやわい素足〉も一人前には少し早い、経験を積んでいる最中といった印象なのですが、一方で〈ここからは独りの輪舞曲〉の言いきりは力強く、覚悟を感じます。緊張や寂しさだけではない覚悟の印象。〈少し冷たい〉の先、けれどと一歩を大きく踏み出す姿や、力強く前を向く視線をイメージしました。──Dr.ギャップ

● 独り立ちした雛鳥が堂々と踊っている、しかしその中にひとひらある寂しさと心細さを感じました。どんなひとがいままで共に踊ってくれていたのでしょう。卒業、惜別、訣別、どんな別れの形だったとしても、「少し」という言葉からは、冷たさ/心細さが心を支配しているわけではなく、「ここからは独りの輪舞曲(ロンド)」と自らの意思で決めて、力強くステップを踏んでいるそのさなかに、まだ踊り慣れずやわらかいままの足裏から伝わってくる冷たさにふと想いを馳せているようにも思います。きっと惹きつけられるステップなのだろうなと思いました。──霜柱

● あの、好きです……歌の雰囲気がめっちゃ好きです……──月ノ華

★作者コメント
原作は『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』です。大場ななさんのことを考えながら詠みましたが、劇場版の九九組みんなに当てはまるかもしれない……と思いました。──古月もも

目覚ましが栞になって日常はただ平凡なこどもだったら  月見里 花火
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● モチーフの読み方に悩みました。「目覚まし」は「栞」であるということは明らかになっています。それでは「日常」に「栞」が挟まるとはどういう意味でしょうか。ルーティンの目印として「目覚まし」というアイテムが機能しているとも考えられますし、「日常」が「栞」を起点に変わってしまう……特異点として読むこともできるでしょう。
 更に「日常」が作中主体にとってどちら側にあるのか、という読み方でも迷いました。「目覚ましが栞にな」る「日常」は作中主体の生きる世界なのか、それとも想像の世界なのか。
ただ、作中主体の願いが「ただ平凡なこどもだったら」ということを踏まえると、「目覚ましが栞になる」日常は、「非凡」な作中主体の空想として読解するのが妥当でしょうか。これを踏まえて、「栞」は作中主体にとって、「日常」と非日常、「非凡」と平凡を分かつ境界線・特異点だと解釈します。
 「目覚まし」は一日の始まりを告げるアイテムです。それを境にして、ある日突然「日常」と非日常、非凡と「平凡」がオセロのようにひっくり返ってしまうような、SFチックなイメージを持ちました。──おかのきくと

● 「目覚ましが栞」というのがキャッチーだなと思いました。目覚ましが栞なので眠っている夢を見ている状態から栞を挟んで起きなければいけない。そして「ただ平凡なこどもだったら(いいのにな。に続くのかな?)」から夢の中にいたいのかなと想像します。「平凡なこどもだったら」は「今、平凡ではない・普通のこどもならばしなくてもいいことの最中にいる」と読めるので切なくなりました。本は基本白い紙あかるい色味に印刷しているので栞を挟んで閉じることが明るさを閉じて起きる、暗闇にいる景が浮かびました。──山と森と街

● 目覚ましが何かをスイッチする役割として置かれていて、それを栞と表現されているところが面白いと思いました。栞をはさみ本をパタンと閉じる感じが、夢の世界を閉じたイメージと重なって素敵だと思いました。──水川怜

● 「目覚ましが栞になる」という比喩が好きです。日々というページはどんどんめくられてしまうから、そこに錨のように栞をはさんでその日を生きる、そんな意識を感じます。でもそれはありふれた、無防備に迎えられるものではなく、どこか緊張感がある日常なのかなと思いました。──ゆの

● 結句のカーブが印象的な歌だなと思いました。連続して流れていく時間を区切るものである「目覚まし」を「栞」に例えている比喩が綺麗だな~と思ってみとれていたら、下の句の急カーブで振り落とされました。
各句ごとの意味はわかるのに上から順番に追っていって「こどもだったら」という謎かけのような結句に出会ったときにそこで立ち尽くしてしまう、魔法みたいな歌だなと思います。──池田いくら

● 〈日常は〉〈ただ平凡な〉で切れるかどうか、ひいては〈たら〉の仮定が一首全体にかかるのか、〈ただ〉以降にだけかかるのかで二通りの読みがあると思うのですが、自分は切れないものとして読みました。
〈目覚ましが栞になって〉が印象的で、かつまたこの“私”にとって日常は平凡と言えるものではないというのがますます面白く感じました。平凡な日常と物語じみた夢(眠りの世界)という対比にはならない人なんだと。それでいて栞としての目覚ましが睡眠中と覚醒時をはっきり切り分けていることを面白く感じます。栞を挟んで夢を中断して、この〈だったら〉の世界=平凡には過ごせない日常に戻らされてしまう“私”。
〈目覚まし〉そのものは日常的で平凡なアイテムなので、だからこそ「もっと平凡なこどもの日常であれば」という連想の起点になったのかなと思いました。どういった点で平凡でない(と感じている)のか気になります。──Dr.ギャップ

● この主体にとっての日常は「ただ平凡な子ども」とはかけ離れていて、起きる瞬間に鳴る目覚ましが栞代わりになるような……と思うと、昼間の生活を終え、夜にベッドへ入ったときにこそこの子の"本当"があるのかなと思いました。起きている間はずっと夢を見ているような、自分の人生とは思えないような生活なのかもしれません(例えば王侯貴族で、生活そのものが公に近いものになっているなど)。
そうした立場から、平凡な毎日を夢想する子どものいたいけさを感じました。自分にとっての日常から遠く離れた存在を思うこの子が見る夢はどんなものなのだろうと、想像が膨らみます。夢としてみるとしたら、一番近い平凡な誰かから得た情報から組み立てるのか、それとも書物や記録から情報を得るのでしょうか。子どもであるならより触れられる世界は狭いものだと思います。こんな平凡な誰かに、という望みはもしかしたら実は現実味のないものなのかもしれず、それでもこの主体にとっては紛れもない"本当"であるということが、行き場のない豪奢な宝箱の中だけで反射するきらめきのようで好きです。──霜柱

★作者コメント
原作『ワールドトリガー』
実力派エリート迅悠一を浮かべながらよみましたが、他のボーダー隊員やモブ市民にも当てはまる部分があるのではないかなと思っています。
特別な能力やバトルメイトたちと切磋琢磨する日々はただの楽しむべき夢で、目が覚めたら戦争なんてなくて刺激が欲しくなるような日々であったなら。──月見里 花火

次はちゃんとボクを倒して 終局の果てに息を吐く日を探す  Dr.ギャップ
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● 作中主体は「息を吐く」ことさえできない日々を送っていて、それは「倒」されるまで続くと言います。果てしない孤独を誰かに救って欲しいと願っています。ですが、「終局」は既に訪れている。物事は全て終わっていて、作中主体は更にその「果て」を歩んでいます。「次はちゃんとボクを倒して」とありますが、果たして「次」なんてあるんでしょうか。「倒して」「倒して」と繰り返しながら、果てしなく彷徨い続ける場合もあるのでは。作中主体が救われる日、救ってくれる相手が訪れることを切に願います。──おかのきくと

● 「次はちゃんと」と繰り返し・転生の物語なのかなと読んでいきました。「ボク」は自分を倒してほしいと願っている。その我儘っぽさとボク表記なのが幼さを感じます。前半はボクのセリフ(主体から視点の回想)後半は主体自身のことでしょうか。「終局の果てに息を吐く」から今は息を詰めている→解放される日を探し彷徨っているのかなと想像しました。歌全体にある物語、繰り返しの世界観が魅力的な1首です。「終局(ボクが倒される)」が良いことなのか不明瞭なところもこの歌を深くしていると思いました。──山と森と街

● ヴィラン視点の歌でしょうか?
歌全体から感じる自分では終わらせることができない辛さ、誰かに終わらせてほしいと切実に願う様子に切なくなりました。──海月雪夜

● 主体は倒されることを望んでいるんですね。「倒して」という言葉遣いに、どこか幼さや親しい相手に甘える柔らかい心があるように感じました。「息を吐く日を探す」という表現が好きです。──ゆの

● 終局とあるので将棋などの勝負のシーンだと思うのですが、二句目に漂う自分を凌ぐ存在にはついぞ出会えていないとでもいうような圧倒的強者感から想像するに、彼らは将棋ではなく命の取り合いをしているんじゃないかと思えてなりません。──池田いくら

● 主体が「ボク」とカタカナなことや、「次」があることからゲームのキャラクター、ステージ内の敵キャラの歌かな?と読みました。主体は、自分がそういったゲーム内のシステムであることや自身の立ち位置をどこかで分かっていそうで、自分が倒された先の世界のことを見通していそうだな、そういう彼の心情や考えが広く知られることは無いのかもしれない、などと感じてグッときました。──トラネ

● 倒されることを待つラスボスの、勇者へ向けた優しくも切なるエールとして読みました。"倒される"という明確な帰結を想定しながら、とても長い旅をしてきたひとの疲れも下の句から伺えます。

きっと勇者たちはそれなりの死闘を経た大きいイベントの中で、このボスに勝てなかったのだと思うのですが、それを経て漏れる言葉が「ちゃんと」というのがどことなく優しいダメ出しのようで、懇願よりも期待をかけているようなやわらかさが好きだなと思いました。それでいてこのポジションを担っていることに対する虚無感や疲れがあとから襲ってきている、このひとのやすめる日がいつか来るのでしょうか。はたまた、勇者たちはこのボスが望んでいる終局を是とせずに、別の道を照らしてくれてもいいなと思います。なんだか色々な未来に思いを馳せてしまいました。──霜柱

★作者コメント
 原作はジャンプ+で連載中の将棋漫画『目の前の神様』(久野田ショウ)です。高天恒彦名人を視点人物に置いて作りました。
 将棋の才能という部分から言えば、高天名人は「才能がある側」として描かれていると思います。しかし、高天名人自身は「将棋しかできない」「会社員になりたい」「時間どおり動いて 人と上手く会話できる そんな仕事ができたら」と言います。「特別な才能」と「みんなが持っている一般的な社会生活を送るための力」は決してトレードオフの関係ではないのだけれど、高天名人にとっては「あっちはできず、こっちしかできない」自分の現実があり、「これでしか社会に存在を認めてもらえない気がする」という思いから強い棋士でありつづけていて、そのことを思うといつも胸が引き絞られるような気持ちになります。なんだかもうどうにもままならなくて仕方なくて。幸せになってくれ~!
 セリフやモノローグなど言葉の見せ方、使い方が抜群に鮮やかで、キャラクターやキャラクター同士の関係性もすごく魅力的な作品です。未読の方は1話だけでもぜひ! 格好良すぎて何度も読み返したくなるモノローグが1話からあって、その1話は無料公開されているので……!──Dr.ギャップ

花束を置く交差点朝焼けにあなたの顔ももうかすみそう  おかのきくと
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● 「花束を置く」は弔いの為のように感じられました。「交差点」は小さなものなのかもっと大きなものなのか、想像のしがいがあって面白いです。私は大きなスクランブル交差点をイメージしたのですが、そこに置かれた花束と朝焼けがとてもマッチしてると思いました。また朝焼けにかすんでいきそうなあなたの顔というのが美しくて切なくて胸がキュンとしました。主体が悲しみを乗り越えられるように願っています。──アサコル

● 1首読んで美しくて切ない歌だなと思いました。「花束を置く交差点」から故人を悼む場面を想像します。朝焼けに染まり人の疎らな交差点でひとり静かに相手を思っているのでしょうか。「もうかすみそう」と続くことで別れからの時間の経過も感じました。ひらがなにひらいているのが幼さ、まだ受け入れられていないことも感じます。「朝焼け」にかすんでいく。相手は朝焼けの色の髪の毛やイメージカラーなのかなと想像しています。──山と森と街

● 「あなた」は交通事故か何かで亡くなったのでしょうか。花束が何の花かわからないですが、下句の「かすみそう」からかすみ草の花束を連想しました。──水川怜

● 花束のかすみ草と記憶が薄れていく様子をかけた最後の「かすみそう」が大変巧い!と思った一首。体言止めになることによって、終わりの唐突さが事故の唐突さや「あなた」のいない日々を生きている自分の区切りなどにも作用している印象を受けます。──萩野すい

● 交通事故で亡くなった方へ語りかける場面を思い浮かべました。「あなた」の顔を忘れてしまいそうになるほど長い時間が経ったことへの感慨と、それでも変わらぬ主体の深い愛を感じました。──ゆの

● 交通事故で大事な人を亡くした主体が新しい花束を手向けるシーンかなと思います。大事な人の顔はそうそう忘れないでしょうから、とても長い時間が経っているのでしょうね。交差点は行くのが特別大変な場所ということではないだろうし、花を供えるのが習慣になっていたら辞めどきというのは自分では決められないのかもしれませんが、始まりを思わせる朝焼けのなかに故人の存在が溶けていっているような主体の心象風景は、心の整理がつきはじめている表れなのかなと想像しました。花束の花は霞草でしょうか(とてもシリアスなシーンだったらふざけた評ですみません...)。──池田いくら

● 交通事故など交差点で亡くなった〈あなた〉がいて、でも過去になりつつあって、だから〈あなたの顔ももうかすみそう〉なのかなと読みました。〈花束を置く〉からは〈あなた〉を悼む気持ちが見えるのですが、一方で〈かすみそう〉なことに後ろめたさや焦りがあまり感じられず、“私”のなかではもう手放しつつある、手放すことができつつあるのかなという予感があるのが印象的でした。
 道具立てがとても絶妙で、〈花束〉が〈交差点〉と組み合わさるからこそ死の気配を感じるのに、〈花束〉と〈朝焼け〉が揃うことで明るさや祝福のイメージも浮かびました。〈あなた〉を忘れることそのものにポジティブな印象があるとまでは思わないのですが、輝く朝焼けのなかに明るい気持ちで、仕方ないなと〈あなた〉を手放すことができるような。──Dr.ギャップ

● 切ないですね……顔がかすみそうなくらいの時間が経っているのに、朝焼けということは相当早朝からこのひとは参ってくれていて、それでも時の流れには抗えない無情を感じます。忘れるのは大事な機能ではあるけれど、それでも、大切な人の顔すらとどめておけないのは悲しいことですね。
カスミソウは小さい花の群れなんですよね。遠くから見ると全体像がはっきりしないふわふわとした繊細さがあって、名付けに「霞」はよく合ってるなと思います。かさりと揺れて朝焼けに照らされたカスミソウの向こうで笑う見えない顔の誰かに対して目を凝らすような切実さを感じました。──霜柱

● 「かすみそう」がひらがななので想像力が爆発する。技術力を感じる一作と思いました!──しまおかさよ

★作者コメント
「ペルソナ5 ザ・ロイヤル」より 芳澤かすみ
芳澤かすみのとある朝を詠みました。ある雨の日、彼女はある大切な人を亡くし、同時に大切な人のことを忘れてしまいます。いなくなった大切な人を悼んで、交差点に霞草の花束を手向けている場面です。──おかのきくと

降り立てばあるのは呼吸こころ鼓動からだだけ静かの海に獣を放つ  ゆの
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● 「静かの海」に降り立って「獣を放つ」、獣はこのキャラクター自身、もしくは獣化した自身のことかなと読みました。宇宙空間、月面に獣を放ったらどこまでも駆けていきそうです。音のない月面で聴こえるのは自分自身の呼吸(こころ)と鼓動(からだ)なんですね。ルビが面白いです。どことなく無機物→有機物(ロボット→肉体を得たみたい)っぽくも感じるルビです。ふと獣はどんな姿をしてるのかなとも想像します。人間かな。狼、海獣(鯨とか)も合いそうです。小さな白兎もいいな。少し怖くて孤独で自由で。このキャラクターがとても魅力的に感じました。──山と森と街

● 「呼吸」「鼓動」の読ませ方が良いです。作中主体が「降り立」つのはどこなのでしょうか。肉体が強調されているので、何かしらの精神的な世界から、私たちが住んでいる世界という読み方ができます。作中主体は肉体を得て、「静かの海」に「降り立」つのです。「呼吸」「鼓動」に「こころ」「からだ」と当てることにより、「静か」な「海」に呼吸と鼓動が響いているような臨場感が生まれています。
 作中主体が「静かの海」に解き放つ「獣」とはどのようなものなのでしょうか。物質的な獣なのか、それとも精神的なものなのか。肉体と精神が息づく、力強い歌です。──おかのきくと

● 呼吸(こころ)と鼓動(からだ)のルビが素敵です。静かの海は月の静かの海でしょうか。酸素がない月の地平で、さらに呼吸と鼓動の存在が際立ちます。──萩野すい

● ルビがかなり力強い詠みぶりだなと思いました。獣と水辺、入水?遠泳?捕食?などいろいろなシーンで読めそうな感じがします。主体=獣なのか、そうではないのかで読みの方向性が大きく変わってくると思いました。──池田いくら

● 文法構造として複雑な箇所はなく、語彙もルビこそ特殊なものの難解ではないのに、どこか不思議でつかみどころがないような印象のある、少し分かったと思ったらまた揺らぐような、そんな印象の歌でした。そして〈静かの海に獣を放つ〉がすごく格好よくて好きです。
 不思議だなと感じた理由の一つが、〈こころとからだ〉以外の何があるはずだというんだろう、もともとそうではないのか、という部分でした。〈静かの海〉は月面にあるので宇宙服などのことを指しているのかもしれないし、〈こころとからだ〉の存在をそれぞれいっそう確かに強く感じるという話であれば、こんな風に突っ込むのは野暮ではとも思うのですが。
 もう一つ不思議だったのが〈呼吸〉に〈こころ〉とルビが振られていることで、自分にとっては呼吸も体に属するものなので、そういう捉え方があるのか、そういう人物なのかと印象的でした。緊張を鎮めるための深呼吸などのイメージを引いているのかなとも思います。
 あくまでなんとなくですが、〈静かの海に獣を放つ〉は、それまで抑制していたものをようやく解き放つようなイメージがあり、それは宇宙飛行士という特殊な閉鎖空間で高度な作業を要求される“私”にとても映えると感じる一方で、月以外を住処とする宇宙人の“私”が宇宙服などもまとわず身一つで静かの海にいる可能性もあるよなと思いました。宇宙人の“私”を思い浮かべると、身一つのシルエットが〈静か〉の印象といっそう響き合って涼しげです。──Dr.ギャップ

● 「降り立てば」「静かの海」から月を連想しました。「呼吸(こころ)と鼓動(からだ)」というそのひと自身の持ち物だけを持って、月の表面に降り立つ瞬間。宇宙では音が聞こえないことも相まって、獣を放っているにもかかわらず、とても静謐な情景に思えました。抑えつけているわけでも飼い慣らしているわけでもなく、それなのに不思議と秩序が保たれているような、奇妙な感覚があります。

呼吸が「こころ」であり鼓動が「からだ」なのはどうしてでしょう。どちらも身体が刻むリズムであり、情動と密接に関係している身体の動きです(心と落ち着けるための深呼吸、ドキドキする鼓動など)が、このときの主体にとってより「こころ」に近いのが呼吸で、「からだ」に近いのが鼓動なのかなと思いました。全体的に鎮静寄りな空気が主体の実感として表れているのかなと。言葉選びがこの情景を前提としてなされていて、世界の強度の補強に一役買っているのがすごいなと思いました。──霜柱

★作者コメント
漫画『メダリスト』より、主人公・結束いのりを詠みました。
女子フィギュアスケートの世界を描いた熱いスポーツ漫画で、選手たちの名前の多くは動物がモチーフになっています。スケートと勝利に対する貪欲さや闘争心が“獣の本能”のようにギラリと光るスケートシーンは、本物の試合を観戦しているような迫力を味わえます。
コーチ、トレーナー、保護者など、周囲のたくさんの人々の祈りを束ねて、最後は一人で氷上に立つスケーターたち。主人公だけではなく全選手を表現した歌でもあります。
リンクで音を待つ、演技が始まる直前の一瞬。誰も立ち入ることのできない静寂と張りつめた空気を表現できていれば嬉しく思います。──ゆの

そんじゃまぁ付いてきますよ、最期まで (命短し 死ぬなよ、マスター)  月ノ華
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● FGOの斎藤一を詠んだ歌かなと思いました。口調の軽さと"最期"までの重さ、そして口には出さない括弧書きの本音が好きです。最期まで付いては行くけど、本当なら最期なんて見届けたくないという想いが込められていたらいいな。──月見里 花火

● 砕けた言い方に主体の相手への深い信頼を感じられて微笑ましくなりました。「最期まで」「死ぬなよ」でこの二人が過酷な環境で生きているのかが想像でき、「マスター」でこの二人が主従関係にあるのが理解できました。主従関係にあるのに従の側が砕けた言い方してるのとても好きです。マスターは軽口を叩く従者をたしなめるのか、それとも真意を汲んだ上で何か反応するのか、その後の展開を妄想するのもおいしいですね。FGOかな?と思いますが自信ないです。──アサコル

● 「Fate」シリーズでしょうか。個人的にはクー・フーリンを思い出しました。きっとFGOにはもっとサーヴァントがいるはずなのですが、彼は「そんじゃまぁ」でついてきてくれそうです。「そんじゃまあ」と軽い文句でありながら、作中主体は命のやりとりの危険さ、命の重さを分かっているんだと思います。それを踏まえ、心のなかで「死ぬなよ」と語りかけています。作中主体が持つ「ギャップ萌え」が伝わってきます。──おかのきくと

● セリフと丸括弧でのモノローグという形がとても軽やかにでもしっかりと感情を伝えてきます。「最後まで」と「死ぬなよ」というのや、ちょっと斜に構えたようなしゃべり口調からもキャラクター像が立ち上がってきますね。下の句の(死ぬなよ、マスター)のマスター呼びがまたいいなと思いました。(好きなタイプのすてきなキャラクター像なのでどの作品かなと楽しみです)──山と森と街

● 主体のちょっとぞんざいで飄々とした口調が、余裕を感じられてかっこいいです。しかしそんな上の句の口調と裏腹に、死地に赴くマスターにどこまでもついていく覚悟と忠義を秘めた下の句の対比も熱いですね。──ゆの

● かっこよすぎる!カッコ内に思いが込められていて、命短しと詩情を含んでいるのもいい。上の句の口調とも相まって、主体は、どこかキザなところがある人情味あるキャラクターなのかな、と感じた。語りかけ先が「マスター」なのも、主体とその人物?との関係性を感じていいな。戦いや運命を共にしてきた仲間なんだろうなとか。戦友のような、ロマンがあるアツい歌だと感じました。──トラネ

● FGOのどなたかかなと思いながら読みました。軽い口調の裏の思いが憎いですね、かっこいい!──萩野すい

● 初読では一種ベタな印象のある歌だったのですが、細かく見ていくとこの“私”や短歌ならではのポイントがあちこちに感じられて味わい深かったです。
 初読時は〈(あなた=マスターの)最期まで〉〈付いてきますよ〉かと思ったのですが、〈死ぬなよ、マスター〉で締められていることから〈(自分の)最期まで〉なのだろうと読みました。自分は死ぬつもりだけど、マスターには〈死ぬなよ〉と思う。それでいて〈付いてきますよ〉という言葉選びからは「自分が命に代えても守るから死なないでほしい」とは違う温度を感じて、そのややドライな感じというか、割り切った様子に(好きなタイプのキャラな気がするな~!)と思いました。〈命短し〉と切り出しておいてすぐに〈死ぬなよ〉と続けるのも無茶ぶりというか勝手な感があって好きです。相手は〈マスター〉なのに。
 戦いに赴く前のワンシーンとしてイメージが立ち上がる一方、〈命短し〉というフレーズからは目の前の戦闘とは別の理由が背景にあるのではと思わせ、〈死ぬなよ〉はそうした定めに対する言葉がけでもあるのかもしれない、と思いました。あるいは一字空けの前後で声掛けの相手は分かれていて、〈命短し〉はマスターではなく自分自身への声かけという可能性もあるのかなと思います。──Dr.ギャップ

● 軽い口調で重い誓いをぽんと手渡すのに、下の句の内心では切実に無事を祈っている、飄々としながらその実「マスター」のことをとてつもなく重要視している人間性がうかがえます。マスター自身はそれに気づいていても気づいてなくてもおいしいなと思います。「最期」もただ声で伝えるときには"最後"と聞こえる言葉なあたり、重くなり過ぎないよう細心の注意をもってマスターへその忠誠心を差し出しているような感じも受けました。
「マスター」という単語からFateかな、と連想をしました。ロビンフッドかななんとなく……でも結構飄々としたキャラクターは多いので他にも当てはまる英霊がいるかもしれませんね。──霜柱

★作者コメント
原作:「Fate/Grand Order」斎藤一
皆大好きはじめちゃんです。私のカルデアでは最初期からいる方でめちゃくちゃお世話になってます。ヘラヘラしてるはじめちゃんもシリアスなはじめちゃんも愛してます。
はじめちゃんのマイルームボイスに「遊ぶ時は遊んだ方がいいよ。死んだら遊べないから。昔から言うでしょ、『命短し遊べよ若人』ってね。違ったかな」というのがあるんですが、これの元ネタ「命短し恋せよ乙女」(吉井勇『ゴンドラの唄』)が初出されたときってはじめちゃんまだ生きてたの……!?というのが衝撃すぎて詠んだ歌です。生きることにかけては新選組イチのはじめちゃんに、なにかと命の危機にさらされがちなマスターちゃんに「死ぬなよ」って言って欲しかったんです。でも直接は言わないかな……と思ったのでカッコ書きで表現しています。ヘラヘラなはじめちゃんとシリアスなはじめちゃん、どちらも表現できていたら幸いです。──月ノ華

始めから居られた奴のお下がりが届きつづけるみたいな暮らし  池田いくら
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● 「始めから居られた奴」という言い方に謎があると思いました。学校や会社の創立から「居られた」先輩? 才能や豊かさをはじめから持っていた人とも読めるのではないかと思いました。
 「お下がり」という言い方に作中主体の卑屈さが読み取れます。それが「暮らし」全体にどんよりとした雲をかけているようです。その一方で、「つづける」が平仮名にされていることにより、全体的にやわらかな印象があります。作中主体は「暮らし」のことを、ある程度は平穏なものだと思っているのかもしれません。──おかのきくと

● このキャラクターは今の暮らし、状態を良しとしていないのだろうなと感じました。「初めから居られた奴」と相手と自分の同じ境遇だからこそ強く差が見える、違うところがわかってしまうモヤモヤ感、「お下がり」が「届きつづける」という自分が常にないという実感が読んでいて強く伝わってきます。歌の初句から結句手前までの単語と韻律が音に出すとどんどん自分に圧が降りかかってくるようで苦しさがあります。結句の「みたいな暮らし」が投げやりというか諦めも感じます。1首の中で抑圧されているのが伝わる歌だと思います。──山と森と街

● 主体の現在の生活への鬱屈と苛立ちがひしひしと感じられます。自分の意思を無視して自動的に施されるものがあり、主体は受け身であることを強要されている状況、その比喩が面白いです。「届き続ける」の部分に主体の怒りとともに無力感、諦念も表れているように感じました。──ゆの

● ひとは、切なさと達観がないまぜになった感情を、持て余しながらも捨てることはできない、そういうもんだよな……となりました。──しまおかさよ

● 居場所のないさみしさ、惨めさ、憤りといった感情を思い浮かべつつ、けれどそれはあくまで自分がこの歌から想起する感情がそうというだけで、歌の淡々としたトーンからすればこの“私”にはそうした感情も強い形では生じないのかなという感じがします。諦念ですらない受容という印象。
“私”を取り巻く状況の提示の仕方が抜群で、〈始めから居られた奴〉が相手であることからは本人の能力や努力に帰せない問題で手詰まりという印象を受け、〈お下がり〉からは悪意はなくとも絶対的に二番手以下、一番として新品をもらえないのだという心がざらつくような感じがして、それが〈暮らし〉という絶え間ない“今ここ”としてあることで逃げ場のない印象と、これからも続くのだろうという予感を覚えます。明確に決定的な何かがあるわけではないけれど、確かに絶え間なく心が削られるような。
 何らかのチームの先代と現役のような、ともすれば“私”はその〈奴〉と直接の面識はないのに〈奴〉をなぞることを周囲からそれとなく求められているような、じわじわとした息苦しさを思いました。──Dr.ギャップ

● 期せずして誰かの代わりになってしまった誰かなのかなと最初は思いましたが、成功した(と思われている)誰かをなぞるようにと圧をかけられる誰かの歌としても読めるなと思いました。

たぶんこの主体は"居る"ことそのものに成功できていなくて、それはもしかしたら周りから見るとどうして? と思うようなことなのかもしれません。そうして、ただただ善意でそれを成功させられた誰かの生き方をなぞるようにアドバイスが届けられる。これがあの子のお下がりよ、ほら着られるでしょう、という具合に。居場所や生き方がお下がりになった途端にこんなにもどうしようもない息苦しさが生まれるのだと、目を開かされたような心地です。──霜柱

★作者コメント
山姥切長義/刀剣乱舞──池田いくら

早咲きの造花は気高く美しく本物よりも目立って咲くきみ  ましも
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● 「早咲きの造花」でまずときめきました。造花は比喩で、実際は人に似た生命(あるいは機械?)のことを指しているのではないかと思ってます。早咲きはもしかして短命を象徴しているのかなとも。そんな造花の「きみ」が本物より目立って、しかも気高く美しいという。とても素敵だと思います。偽物でも美しく咲くことができるのは素晴らしいことだと個人的に思います。──アサコル

● ツミキの「フォニイ」という曲の「この世で造花より綺麗な花はないわ」という一節を思い出しました。
 「早咲きの造花」などこの世には存在しません。ですがその非現実さが「本物よりも目立って咲くきみ」を強調しています。
 「造花」が「早咲き」とはどういうことでしょうか。才能が早くに開花したということでしょうか? 謎があり楽しい言葉選びだと感じました。
 一方で「本物よりも」ということは、「きみ」は偽物であり、「本物」とされる、正解や理想のようなものがどこかにあるということでしょう。どんなに「気高く美しく」てもその本物に勝てないということが歯がゆく、そして儚いと思いました。──おかのきくと

● 「きみ」は「造花(にせもの)」だけれども「気高く美しく」咲いている、にせものが本物を上回っていくというのが面白いなと思いました。「早咲き」の部分が読み切れていないのですが、まだ蕾の状態=可能性の象徴なのかなとも。原作の物語の芯みたいなものと密接な歌かなと想像しています。どことなくファンタジーの世界を感じる1首だと思いました。──山と森と街

● 「君」は影武者なのでしょうか。造花という言葉から想像しました。影武者なのに主体にとっては本物よりも心惹かれる存在なのかなと思いました。ほのかに感じる思慕の感情が表れていて素敵だと思いました。──水川怜

● 「早咲きの造花」という言葉の違和感・不自然さがいいですね。人工物に生命が宿ってしまったような、美しくも少し不気味さのある感じが「本物よりも目立って」咲く存在にふさわしいと思いました。──ゆの

● 「早咲きの造花」というワードに一目で心を奪われました。「きみ」が何をしている人なのかはわかりませんが、偽物でありながら、本物を凌駕する輝きを放つためにはきっと血の滲むほどの努力が必要だったのだろう、と思います。私の好きなキャラクターである花海咲季さん(学園アイドルマスター)ととても重ねてしまいました。──古月もも

● 〈造花〉という形容は対比される生花があることを前提としたものと思うのですが、その本物/偽物としての対比に加え〈早咲き〉という要素があるところに味を感じました。造花である以上〈早咲き〉も何も開花という変化を経ることはないはずなのですが、造花であったとしても花は花とその美しさを称える“私”の眼差しや、あるいは生花でないことを〈きみ〉がすでに悟り引き受けているのかも、という想像が広がりました。
〈造花〉という形容には「模造品・偽物」というニュアンスが付随するように感じられますが、そんな〈きみ〉の歌が本人視点ではなく、二人称視点で“私”が〈きみ〉を讃えるものになっているところに救いのような嬉しさのようなものを感じます。これはツイステのヴィル先輩を想起したからというのもあるかと思うのですが……
 また一方で、〈造花〉は単なる本物/偽物の対比と言いきりがたいような気もして、人工物/自然物という軸での対比でも受け取れるなと思いました。たとえばヒューマノイドやクローンの〈きみ〉に寄せる歌として読むと、〈早咲きの造花〉はまた別のニュアンスの、力強さすら感じる讃辞にも見えてきます。──Dr.ギャップ

● 「早咲きの造花」ってどんなものだろう? と考えたときに、"プログラムされた開花時期より早く咲いた造花"というイメージが浮かびました。少なくとも蕾から咲くプロセスが存在する造花です。"早咲きの品種"ではないあたりと併せて逆にオンリーワンな印象も受けます。
なんとなく気高さと美しさは創造主から期待された想定スペックなのかなと思うのですが、「早咲き」なことと「目立って咲く」ことは「きみ」がそう在りたいと思ってそう在るような自負として受け取りました。それでいて「本物」との比較からは逃れられないところもあって、しかしつくられた枠を少し飛び越えて咲く造花の奔放さと自由さが核にあると思います。魅力的な花なんだろうな。見てみたいですね。──霜柱

★作者コメント
作品:学園アイドルマスター
花海咲季ちゃんというアイドルは、アイドル育成学校である初星学園の入学試験に主席で合格するほどに才能高く、そして4月2日生まれで学年で誰より先にお誕生日がやってくる子です。
誰よりも早く咲いて、誰よりも早くその道を極めていく彼女。
だけど、「偽物の天才」である彼女の成長はいつか頭打ちになり、「本物の天才」であるライバルたちには敵わない、と思われたがーーー。
この短歌はそんな彼女が自らの課題を克服した先のステージの景色を見て詠みました。
ぜひ、造花が本物の花たちよりも目立って咲く時季を見届けてください。──ましも

来た道が違えどここが俺たちの生きる場所だと杯よっつ  月ノ華
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● 素敵な仲間が想像できます。
ルーツが異なる人々が4人集まり、一緒に行動していく様子が思い浮かびます。
結句がもたらす余韻が好きです。──海月雪夜

● 人生賛歌の歌だと思いました。「来た道が違えど」が「生きる場所」へと繋がるのがドラマを感じます。「杯よっつ」なのでこの「俺たち」は四人でしょうか。二人以上になると冒険物のパーティー感も感じますね。「よっつ」とひらがななのが乾杯をしたあとの万能感のように感じいいなと思いました。──山と森と街

● 四つの別々の道が「杯」によって結びつく。三国志の「桃園の誓い」のようだと思いました。「俺たち」は「ここ」に骨を埋めるのでしょうか。それとも、合わせた杯がそれぞれの口へ運ばれるように、いずれ道を違うのでしょうか。「俺たち」の連帯性、そして運命というものの一回性を強く感じる歌だと思いました。──おかのきくと

● 様々な生い立ちを抱えながら不思議な縁で集った仲間なのでしょう。酒を酌み交わし語り合う四人の姿が浮かんできました。結句で明るく転調する構成が素敵です。──ゆの

● たとえば冒険者パーティーの日常が目の前に浮かぶ、明るさや嬉しさ、親し気な空気に読んでいて嬉しくなる一首でした。夕飯や宴会での乾杯であると同時、〈俺たち〉が巡り会えたことや、〈生きる場所〉を見つけて腰を下ろせたことへの乾杯にも見え、明るい祝福の空気を感じます。〈生きる場所〉という言葉があることで、明日も明後日も〈俺たち〉が〈ここ〉で道行きを共にする、連帯が続くことが想像されて、その温かさを嬉しく感じます。読むたびに嬉しくなって、好きが大きくなっていく歌でした。
『ダンジョン飯』(九井諒子)や『吸血鬼すぐ死ぬ』(盆ノ木至)のような、いろんなバックグラウンドを持つひとびと(人外も含む)が、なんやかんやと楽し気に過ごす日常の一幕をイメージします。──Dr.ギャップ

● 何かを終えたあとの祝杯なのか、それとも何かに挑む前に交わす杯でしょうか。「生きる場所」を「ここ」と定める宣言を酒とともに飲み下し、自らの血肉にするような力強さを感じました。「来た道」"は"ではなく「が」とするところに来し方と現在を対比させすぎない感じがあるというか、あくまで現在の場所にフォーカスをしているように思えるのがいいなと思います。──霜柱

★作者コメント
原作:「文豪とアルケミスト」太宰治、坂口安吾、織田作之助、檀一雄
転生した文豪たちのうち「無頼派」というカテゴリーで括られる四人の歌です。図書館での日常を詠んだ想定でいますが、読み返してみたら「舞台文豪とアルケミスト 戯作者ノ奏鳴曲(ソナタ)」の影響もだいぶ受けてるな〜と思いました。
出身地も違えば学校も違う、同じ雑誌をやっていたわけでもなければ四人が生前に一堂に会したわけでもない。それでも「無頼派」として図書館に集った彼らの日常を詠みました。──月ノ華

ポラリスの消えた夜空に幼子が、海獣が返らない名を呼ぶ  しまおかさよ
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● 「ポラリスの消えた夜空」で地球の遠い未来を思い浮かべました。また「幼子」と「海獣」が呼ぶ「返らない名」に興味をそそられました。今は在りし日の地球にまつわる何かの概念なのか、それとも既に亡くなった人物または生物なのか。そんな事を考えていると、しるべとなる星を喪った夜空の寂しさ心もとなさをより感じられて最高でした。スプラトゥーンシリーズのどれかではないかと予想しています。──アサコル

● 本当になんとなくなのですが、米津玄師の「海の幽霊」を思い出しました。ポラリス=北極星は自分を支えてくれたものや指標の比喩でしょうか。「名」が「返らない」とありますが、韻律自体は「幼子が、海獣が」とリフレインになっています。それによって、「幼子」「海獣」が「呼ぶ」名前は、歌の中で輪唱のように反響しています。
 「海獣」とは海にいる哺乳類のことだそうですが、歌のなかに流れる反響を踏まえると、クジラではないかと思いました。クジラは、仲間を呼ぶために他の生物では分からない周波数で鳴くからです。
 北極星のなくなった真っ暗な空の下、寄る辺を求めて鳴く「海獣」と「幼子」の孤独が冷たくて静かな海に溶けていくような、美しい情景の歌だと思いました。──おかのきくと

● ポラリス北極星が消えた夜空というのがとても心細さを連れてきます。船旅の目印と考えると尚更です。また、下の句も「海獣が返らない名を呼ぶ」と海獣がどのようなもの(実際の鯨とかなのか、なにかキャラクターをあてているものなのか)わからないながらやはり同じように、幼子が何かを呼ぶイメージをするとそこにも心細さ=迷子の姿が浮かびました。その幼子のいる夜の景を見ている主体にも言葉にはしていなくても幼子と同じように不確かさを感じているのではないかなと想像しています。キンと冴えていく手先が冷えていく感覚のする歌だと感じました。──山と森と街

● 「海獣」は海に住む哺乳類のことなのですね。オットセイやセイウチを想像しました。彼らの鳴き声は、どこか苦しげに絞り出しているように聞こえるんですよね。北極星のような導き手をなくした海獣の子どもの泣き声が、暗い夜の海と空の間に響く情景が浮かび、孤独感に胸が締め付けられました。幼子と海獣の関係に悩みましたが、「、」は言い換えを表していてイコールととりました。──ゆの

● ものすごく切ない歌だと感じました。「ポラリスの消えた空」と「返らない名前」という言葉に胸が締め付けられました。──水川怜

● 消えたというのはどういう状況でだろうかということが気になりました。雲に隠されて一瞬翳っただけか、超常現象などで地球から観測できなくなっているだけか、侵略などで粉砕されてしまったのか、など色々な場合があるかと思います。歌にはひとつだけでも歌の顔になれるようなインパクトのあるパーツが多くちりばめられていて、なにかとんでもない事件が起こっているんだろうなという気配を感じました。──池田いくら

● 〈ポラリス〉は北極星のこと。北極方向に地軸を伸ばした先にある星を指すもので、どの星がその位置に来るかは時代によって変化するそうです。そのため〈ポラリスの消えた〉は特定の星がなくなってしまったシーンではなく、ポラリスのように思っていた存在がいなくなってしまったという比喩として読みました。ポラリスは地上からはほとんど動かないように見えることから、古くから方角を知るときの目印にされていたそうです。そうした導き手、指針のような誰かが失われてしまったという状況を思います。
〈返らない名を呼ぶ〉は、「返ってこないその人の名を呼ぶ」ようでも「応えの返らない名を呼ぶ」ようでもあります。前者だとすれば「帰らない」ではないのが印象的で、根源的に失われてしまったような、ぽっかりした寂しさを覚えました。
〈幼子が、海獣が〉という並列の仕方からは、たとえば相棒というようなセット感はないような気がして、立場の異なる二つの存在からそれぞれに慕われていた“あなた”という構図を思いました。ただ、唱和の構図から両者が“あなた”への慕わしさやその欠落への悲しみでつながる印象もあります。冴え冴えとした冷たい夜の空気を思い浮かべました。──Dr.ギャップ

● 壮大な海洋冒険小説のラストシーンのような、大きな物語を内包した一首だと思いました。「ポラリス」はもうきっと戻らない存在で、それを知ってか知らずか呼びかける小さな子どもの声と海獣の鳴き声がこだまする入江の情景が思い浮かびます。
海を旅するうえでは、方角を指し示すものとしてポラリス(北極星)はとても重要な存在だと思います。それが失われてしまったという世界にとっての大きな喪失と、そうした有用性とはきっと別のところでポラリスを乞うて呼ぶこの子たちの声は、とてもさびしく響いただろうと思いました。──霜柱

★作者コメント
『メダリスト』つるまいかだ
 ▶︎岡崎いるか
今、この世の中で一等にホットホットアチチ話題沸騰な漫画である自信があります!!!ありがとう米津玄師……推しキャラを教えてください…………
今回は、私の最近の刺さりキャラのひとり、岡崎いるかちゃんで詠みました。
私のオタク解釈では、大人に翻弄され、傷つけられた、幼い頃のいるかちゃんにとって、実叶ちゃん(主人公「いのり」の姉)は、夜空に浮かぶ北極星のように、彼女の生き方の指針になった人だったのではないか……が、いるかちゃん創作の根本にあります。
今回は、どんなに暗い夜でも空を見上げればいつだってそこにあった光が、ある日突然無くなったこと。ひかりがいなくなってもなお、暗い水面から名前を呼ばずにはいられない幼子の、さみしい背中を思い浮かべて詠みました。
いつか2人が、対等に笑い合える、そんな日が来るといいなと思います。──しまおかさよ

靴紐を右から結び深呼吸天才に為る秘訣はここに  ましも
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● スポーツ選手はよく験担ぎをすると聞きます。「靴紐を右から結び深呼吸」という験担ぎが575にきれいに収まっている所がリズミカルでこのキャラクターが心の中でいつも呟いていそうでいいなと思いました。しかもそれが「天才に為る」ための秘訣というのが「天才」ではなく努力したり験担ぎじみたことをしているというキャラクターの人となりを感じます。何のスポーツかな?天才と呼ばれているので周りに人がたくさんいる、チームメイトの多いスポーツかなと想像しています。──山と森と街

● 「靴紐を右から結び深呼吸」とは、ジンクスの典型です。作中主体は何かが上手くいってほしいと思っています。自分の通っていた小学校では「靴紐を左から結ぶと好きな人と話ができる」たるジンクスが流行っていましたが、「天才に為る秘訣」と続くところから、そんな少女漫画的な内容というよりは、どちらかというと少年漫画に近いのでしょう。「ハイキュー!」などのスポーツ漫画だと推察しました。
 「天才になる秘訣」が「ここ」にあると言いますが、「ここ」とはどこなのでしょうか。「靴紐を右から結び深呼吸」している作中主体自身なのか。「靴紐を右から結び深呼吸」する「天才」のジンクスを模倣しているようにも思えます。「天才」なのは作中主体なのか、「靴紐」を結ぶ誰かなのか。解説が楽しみです。──おかのきくと

● 主体はアスリートでしょうか。短距離走、または長距離走のランナーを想像しました。質の高い集中と自己暗示のためのルーチンを心得ている人物ですね。冷静さと熱さが同居している感じが好きです。──ゆの

● 靴を履く時や紐を結ぶ時、踏み出す時の足などを必ず左右のどちらかにする、というジンクスはよく聞きます。「天才に為る」ということは、詠み手は自分自身を天才だとは思っていないのか、それとも天才の側にいる詠み手がそう感じているのか。「深呼吸」がパフォーマンス前の緊張感を演出していてとても好きです──萩野すい

● 〈天才に為る〉という言い回しに目を引かれました。〈天才〉は生得的なものではという印象が自分のなかにあるので、まず「なる」という動詞にミスマッチな感触があり、さらに「成る」という「成長・完成」に使われる字ではなく変質を思わせる〈為る〉が来ることで、逆説的にこの“私”は天才ではないのだろうと思いました。
 こうした印象から〈靴紐を右から結び〉を自分に言い聞かせる呪文のように読みました。たとえば試合や試験のような大舞台を前にして自分は天才である、この勝負の間だけでも天才に為ることができるのだと言い聞かせているような(インタビューで天才の秘訣を公開するような状況も考えられはするのですが、〈靴紐を〉と具体的な行為から歌が始まるので、今まさにそれをしているという手触りを感じます)。
 もうひとつ面白く感じたのが、〈天才に為る〉というのは「マラソンで誰にも負けたくない」や「トップアイドルになる」のような、「それそのもの」からは少し外れている気がする点でした。そのフィールドで評価される存在でありたいというのと同時、具体的になぞろうとしている天才や、負けたくない相手としての天才がいるのかもな、と思いました。──Dr.ギャップ

● 「靴紐を右から結」ぶというジンクス的なことと「深呼吸」を「天才に為る」秘訣としているところに、些細なアクションや習慣をも積み上げてきているのであろう主体の道行きを垣間見られます。また「為る」という言葉選びが主体による天才性は生得的ではないという自負を示しているようで、高潔なプライドのうかがえる歌だと思いました。

靴ということはスポーツ選手なのかなと思いますが、他者が簡単に呼ぶ「天才」という呼称の裏に潜む主体の努力、積み重ねが巧みに表現されていると感じました。ただひたすら前のみを見ていると言うだけではなく、そういった周囲からの声も織り込んだうえで己が道はこうして積み上げてきたものなのだと示してやるような、反骨心が気持ちいいと思います。──霜柱

★作者コメント
アイドルマスターSideM
「通りすがりの、ただの天才。それ以上でもそれ以下でもないよ」
天峰秀くんの初登場時のこの台詞はいろんな意味でプレイヤーに衝撃を与えました。
自信たっぷりの自称・天才。実際に歌もダンスも作曲もなんでもそつなくこなす器用型。
そんな天才──天才に”為“りたいひとりの少年を形造るのは凡人の何十倍何百倍もの努力と研究、それからジンクス。
靴紐を右から結ぶ。そんな些細なことから天才の1日ははじまるのです。──ましも

魂はcardiaに至る 旅に出る 己が性分の悲しい 木馬  トラネ
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● 休符で読ませる歌です。短歌では、各句の後にスペースを入れるケースは稀ですが、この歌においては句の切れ目と空白のタイミングが違っており、意図的な空白であることが分かります。更に「cardia」という英単語も、日本語の詩である短歌にぽっかりと風穴を開けています。自分は単語の意味を知りませんでした。分からない単語を前にすると、私たちは「とりあえず後で調べよう」となってしまうため、空洞が生まれます。「風通しが良い」を通り越して、しゃれこうべの穴を吹き抜ける風のようなもの悲しい感じさを感じる歌です。
 歌の内容としては「旅に出る」と言っているのに作中主体の前にあるのは本物の馬ではなく「木馬」。「旅に出」ようとするも頼れるものはない「己が性分の悲し」さが強調されているように感じました。韻律と意味の両方から「悲し」さを感じる短歌です。──おかのきくと

● 不思議な読み口の歌ですね。「魂はcardiaに至る」cardiaは心臓。魂は心臓にたどり着く、でも「旅に出る」その「己が性分の悲しい」と続きます。至るに目的地に着いた感覚があるのにまた旅に出てしまい、どことなく心と体のちぐはぐさを感じました。結句の「木馬」は繰り返し読んでいくうちに回転木馬、メリーゴーラウンドが浮かび、動きと根底にある停滞みたいなものを想像します。作品がわかった時に読みが深くなりそうな1首だと感じました。──山と森と街

● 「cardia」には複数の意味があり悩みましたが、「心」の意味で読ませていただきました。魂が心に至る、という表現になりますが、主体が旅立たずにはいられない衝動が満タンになるとか、何か条件が満たされることと受け取りました。その性分が悲しい、なぜなら自分の意思で、足で旅立つのではないから。その不本意さを「木馬」に例えているのかなと思いました。──ゆの

● 〈cardia〉は心臓・胸・心あたりの意味で読みました。胃の一部も指すようですが、この歌の雰囲気において魂が宿る場所としては釣り合わないかなと。
 一字空けの前後がそれぞれどうつながるとして読むかに悩んだのですが、上の句は「魂は(いつか)cardiaに至る (そしていま己は)旅に出る」と読みました。下の句は整理しきれておらず……強いて言葉にすれば「己の性分は悲しく、悲しい木馬のようである」かなあと思うのですが、論理だった言葉としてというより一首の言葉がまとう雰囲気をそのまま味わう歌のように思っています。〈悲しい〉についてはあくまでなんとなくですが、人との馴染めなさや「ふつう」であれないことを指しているのかなと思いました。〈旅に出る〉に、群れから離れるイメージを受けたからかもしれません。また〈木馬〉は幼児が跨って遊ぶあれか、メリーゴーラウンドのあれか、あるいは〈cardia〉がギリシャ語なのでギリシャつながりでトロイの木馬か……と考えつつ、具体的にどれというよりは「生き物の形をしているが動けない、温度のないもの」という〈悲しい〉存在として想像しました。
 全体的に孤独な印象を受ける歌で、〈旅〉も放浪に近いものをイメージしました。〈魂はcardiaに至る〉というのは目指すべき、理想とされる結末として語られている印象であると同時、今は魂の置き場が定まっていないような、不安定さを感じもします。──Dr.ギャップ

● 「魂はcardiaに至る/旅に出る/己が性分の悲しい/木馬」
これらの句の中で、どことどこを関連づけるべきなのかを迷いました。最後の「悲しい」は「木馬」にかかるのかなと思いつつ、これらの間は一字空きになっているので、どうしようもない「己が性分」を悲しむ余韻の中で木馬が一台ぽつんとゆらゆら揺れている、そんな情景がぽこんと思い浮かびました。

「cardia」は調べたところ「噴門(食道と連絡する胃上部の開口部)」とあり、語源に心臓を意味する「καρδια」を持つ単語です。単純に"心臓"やギリシャ語を使用しないところにねらいがあるように感じました。体の中で言えば確かに位置関係が似通っていて、心臓との違いは何かと言えば飲み込んだものが通る場所であることかなと思いました。食道を通り、胃の腑へ至るその道は、口から心臓へ近いところへ魂を運ぶ経口唯一の道なのかなと。
魂に近い大切なものを口にしながらどこか遠くへ行くこと、童話の『青い鳥』ではありませんが、すでに手にしている大切なものがあるにもかかわらず、旅立つことを選んでしまうのが主体の性分で、それを悲しくも思っている。木馬は郷愁に紐づくものなのかもと思うと、それでもずっと主体の心臓に近いところには魂が揺れ続けているのかもしれませんね。──霜柱

★作者コメント
「ヒストリエ」より、主人公エウメネスの歌を詠みました。
二次創作短歌を作るにあたって、その作品やキャラクターのモチーフを散りばめれはいい訳じゃないと思ってはいるのですが、それでも入れずにいられなかったのが「木馬」です。
彼は自分や、自分を取り巻く世界を俯瞰的に見ることができる人物です。そういう視点から、世界に対して冷めたような部分がない訳じゃないのですが、それでも自身の感情を意味のないもの、世界の上で些細なこととしては扱っていない人間らしさがあります。しかし、自分の立ち位置を正確に理解している、そこからくる寂しさを彼に感じている部分がありました。どこまで行っても本当の自由なんてないと深く彼が感じていること。頭が良くて、行動力があって、人間臭い部分もあって、どこか寂しい。

ヒストリエでは、「魂は脳に宿るのか心臓に宿るのか」が後編の大きなテーマになっています。
そんな作品の中で、主人公の彼が育ったまちが「カルディア」であること(これは史実の通りです)何かを感じさるを得ません。──トラネ

雲梯で見上げたスピカ右膝に咲いた痣さえきらめきだった  おかのきくと
コメント

● 「スピカ」で春の夜空の情景がパッと浮かんできました。主体は雲梯しながらスピカを見上げてるようですが、なんとなく行動力がある人物のように感じます。ややポジティブではないイメージのある「痣」を「咲いた」と表現し、その上で「きらめきだった」と結んでいるのがとても美しいです。主体が痣のことをどう思っているのか、どんな性格なのか分かって爽やかなものを感じました。──アサコル

● 初読で物語を1首から感じました。遊具の雲梯から見る夜空、ピカピカと輝く明るい星。雲梯、右膝の痣と続くことで子ども(夜の公園にいるので中高生かなとも)の姿がすっと浮かびました。右膝の痣は「咲いた」「きらめき」とあり単なる傷や挫折ではなく、花開くための努力の一つとして思えます。最後が「だった」とそのきらめきを少し手放しているようにも見えますが歌全体にある暗闇の中での輝き、あかるさを感じ再出発の予感のある歌だと思いました。──山と森と街

● 子どもの頃の思い出でしょうか。少しでも夜空に近づきたくて雲梯にのぼり、スピカと痣が響き合ってとても美しい歌だと思いました。──水川怜

● 校庭に雲梯があるのは小学校くらいまでですよね。もう戻れない子どもの頃の思い出、郷愁が美しく描かれていて泣きそうになりました。好きな歌です。「右膝に咲いた痣さえきらめきだった」の表現に心を掴まれました。──ゆの

● 痣は雲梯から落ちてできたものでしょうか?主体は雲梯練習中?星が見える時間帯になるまで雲梯に夢中になれるのは小学生くらいの年頃かなと思うのですが、この歌では主体はもう大人になっていて、そこから過去を懐かしんでいると読みました。何回か読んで、やっぱり「痣」が「咲いた」と美しく修飾されているのがこの歌のポイントなのかなと思うので、雲梯から振り落とされてできた痛みを伴う傷としての痣ではなくて、主体が持って生まれついた痣(何か宿命の、とか物語のあるもの)の線もアリかなという気がします。──池田いくら

● 子どもの頃の記憶。雲梯の「雲」「スピカ」で「きらめき」が天空に関するイメージにつながり、スケールの広がりを助けているなと感じます。──萩野すい

● すごーく好きな歌です。〈右膝に咲いた痣〉を練習や特訓ゆえのものではと捉えているのですが、それが〈きらめき〉というのが、しっかり胸を張って進む“私”の横顔を想像させて、胸が詰まりました。応援したくなる……! 〈咲いた〉という描写も素敵で、確かに痣ってぱっと生まれて広がる感じが〈咲いた〉だよなと納得するからこそ、〈きらめき〉にもいっそうの納得感を覚えるのだと思います。痣は咲くもの、咲くものは花、花はきらめき。
 また〈雲梯〉が絶妙で、遊具のなかでもトレーニング器具寄りの印象があって、〈痣〉=練習という連想はここからくる部分もあるのではと思います。またその名前の由来は「雲まで届きそうなほど長い梯子」とのことで、星にだって届くのではと思わせてくれます。〈スピカ〉は春から初夏にかけて見られる一等星。今は見上げているその星にだって、いつか。──Dr.ギャップ

● 子どもの頃の視点ってどうしてこんなに何もかもが輝いて見えるのでしょうね……痛みとともにある記憶かもしれないのに、この主体にとっては星を見上げた記憶と紐づいて、光る思い出になっているところが眩しいなと思いました。それを示すための「右膝に咲いた痣」という表現も素敵です。赤や青に変わった色もこの子には花や火花に見えたんだなと思うと、どれだけこの記憶が鮮やかなものであるか窺い知れます。

「雲梯」という場所も、例えばジャングルジムのような座ることができるものというよりはぶら下がるものの印象が強くて、そこでスピカを見上げるシチュエーションがどんなものなのだろうなと想像しながら読んでいました。何度も落ちて痣を作りながら、それでも向こう端へ行こうと練習する子が腕の辛さに耐えかねて顔を振り上げた先にスピカが光っていたのかもとか、運動神経のいい子で雲梯の上に登って空を見上げた記憶なのかもとか考えていましたが、よく考えたら星が見えるということは夜なのですよね。夜に遊具を遊ぶ子どもという線だけではなく、遊具を夜に見つけた大人が小さな雲梯に登って空を見上げている、ノスタルジーにひたっているとも取れると思いました。そうすると、今度は大人の視点で見る読者と同じように子どもの時のことを懐かしく眩しく思う主体の目線とシンクロしたような気がして面白かったです。──霜柱

★作者コメント
「プロジェクトセカイfeat.初音ミク」より Leo/need
 「プロセカ」に登場する高校生ガールズバンド「Leo/need」について詠みました。
 メンバーの四人は幼なじみです。幼い頃、雲梯(作中ではジャングルジム)に登って見上げた流星群は、彼女たちの大切な思い出であり、四人の仲睦まじさを象徴するエピソードとして描かれます。
 メンバーは中学時代に一度疎遠になってしまうのですが、その頃の彼女たちが幼少期を振り返ったら、遊びながら作った「痣」も、愛しい幼少時代への「きらめき」と感じるのではないかと思いました。
 ボカロがテーマのゲームなのでボカロ曲から何かを引きたいと思い、とくPの「SPiCa」という曲を使わせてもらいました。彼女たちも聴いていたらいいなと思います。ス「ピカ」と「きら」めきが呼応して、キラキラしてる感じが出ていたらいいなと思います。──おかのきくと

あたたかい思い出にはなれなくても君の名前を呼べる幸せ  雪宮斎希
コメント

● 「あたたかい思い出」とは作中主体が思い描く理想の「幸福」なのでしょう。それとは別に「君の名前を呼べる幸せ」があると言います。ですが「君の名前を呼べる幸せ」は、理想の思い出にはなり得ないと言います。「君の名前を呼べる幸せ」を「あたたかい思い出」にすることを、諦めてしまったのかもしれません。「なれなくても」が六音になっていることから、作中主体の悔しさが流れ出しているように思いました。──おかのきくと

● 結句が「幸せ」とありますがとても切ない歌だなと思いました。「あたたかい思い出にはなれなくても」と相手にとって自分はいいものではないと認識した上でそれでも君の名前を呼べる、その嬉しさが切ないです。上の句のひらがなの多い感じと下の句も漢字のバランスが歌と合わさると「幸せ」の現実、実感というのが強く伝わる1首だと思います。──山と森と街

● 名前を呼ぶことすら許されない時期を越えてたどり着いた、小さくてもかけがえのない幸せなのだと思います。相手との新しい距離と関係を受け止め、かみしめている主体の思いが健気です。──ゆの

● 幸せなだけの結末にはなれなかったかもしれない、なかったことにしたかった思い出だってあるかもしれない。それでも今君の名前を呼べることがなんて幸せななんだろう。
自分の推しカプはすぐ片割れがロストしてしまうので、この素敵な短歌のような未来があったならと思いを馳せてしまいました。すごく好きです。──月見里 花火

● 〈あたたかい思い出にはなれなくても〉をどう取るかは複数の解釈があると思うのですが(過去を指して言っているのか、今やこれからのことなのか)(〈君〉にとってなのか、“私”にとってなのか)(その理由は何か。あえて憎まれ役を引き受けた? 〈君〉がいずれ記憶を失ってしまう定めである?)、「君はやがて記憶を失ってしまうので、どれだけ時間を積み重ねても君のあたたかい思い出になることはできない」と読みました。〈君の名前を呼べる幸せ〉というストレートさにはそれが一番似合うかなという個人的な好みでしかないのですが……
 あたたかい思い出にはなれなくても、“私”にとって〈君〉はあたたかな感情で思う存在なのだということを思うと、〈君の名前を呼べる〉という幸せの形のつましさと切なさが胸を打ちます。〈君〉がその場にいてもいなくても〈名前を呼べる幸せ〉は成り立つのですが、一緒にいて直接呼びかけていてほしい、いつか“私”だけの持ち物になるとしても今は二人で時間を積み重ねているところであってほしい……! と勝手ながら思います。──Dr.ギャップ

● ささいな喜びを宝物みたいに抱く、いじらしい歌だと思いました。「あたたかい思い出」にはなれないのは、主体と「君」の立場や情勢によるものなのでしょうか。名前を呼ぶということに大きな意味を見出している、そうせざるを得ない切ない状況に思いを馳せたくなります。また、ここで「あたたかい思い出」という言葉が出てくるということは、それをあげられたら良かった、という気持ちが少なからずあるのかなとも思えて、よりいっそう切ない気持ちになります。

この主体が感じている幸せをきっと「君」は知らなくて、ともすれば憎むくらいの破綻があってもいいですね。覚悟のもとになされた選択の末にそうなったのか、数奇な運命があったのかはわかりませんが、たったひとことずつでも「君」の名前を呼ぶたびに主体は幸せを噛み締めるのでしょう。取り返しのつかない破綻、失敗、それらの中でも確かにある幸せを、ある意味で見逃さなかった強さのあらわれなのではないかとも思いました。──霜柱

★作者コメント
原作:ノラガミ
原作紹介
祀られる社の一つもない貧乏でマイナーな神様・夜卜と半妖(魂が抜けやすい体質)になってしまった良家の令嬢・壱岐ひより。さらに夜卜に拾われ神器(神様が使う道具)となった死者の少年・雪音とともに、人間に害を与える妖や、因縁の相手との戦いを繰り広げ、絆を深める物語。
神様や神器たちは人に認識されにくい、記憶に残りにくいという特徴がある。また、ノラガミにおいて、「名前」は非常に重要視されている。

夜卜、もしくは雪音からひよりへの歌として詠みました。彼岸のものである彼らは、ひよりに忘れられてしまう。けれど一緒に居る今だけは、記憶に残って、あなたの隣で名前を呼べるね、という歌です。2人のキャラ的に、比喩を多用するのは違うかなと思いまして、割とストレートにいきました。
ノラガミを最後まで読んだ方にはまた違う味わいがあると思います。ぜひ、ノラガミ読了後に、この歌を見返してみてください。──雪宮斎希

夜の城黎明もたらす来訪者君に見せよう夢物語  海月雪夜
コメント

● 「城」「来訪者」「夢物語」と名詞で区切られており、ぼそ、ぼそと話す作中主体の朴訥さ? のようなものを感じました。
 作中主体がいるのは「夜の城」。「来訪者」のことを「黎明もたらす」と呼んでいるということは、普段あまり人と話さないし、城に訪ねてくる人もいないのではないでしょうか。「夜の城」に閉じこもり他者を拒絶する作中主体が、「夢物語」を「見せよう」と思い立つのは「来訪者」が城だけでなく作中主体にも朝日を運んできた証左です。
 自分は「魔法使いの約束」のオズとアーサーのようだなと感じました。孤独な魔法使い・オズの「城」にアーサーという少年が「来訪」し、オズはアーサーに「夢物語」を聞かせるくらいの愛情を抱くようになるからです。──おかのきくと

● ツイステのマレウスかな?と思いました。ユニーク魔法使っているんでしょうか?──月ノ華

● 単語のチョイスが煌びやかですてきだなと思いました。「夜の城」へと「黎明」夜明けが来る、黎明期の予感を連れてくる来訪者というのがドラマチックです。そこから「君に見せよう夢物語」と続くのが眼前に舞台のようなイメージを映し出します。また、それぞれ句切れが「城/来訪者/夢物語」と単語なのがカメラアングルの変化、場面の転換を想像しました。「君(来訪者)」を前に両手を広げている主体が浮かんでくるようで。ここから黎明期も夢物語も始まる。という漫画やアニメで言う「引き」のある1首だと感じます。──山と森と街

● ディズニー映画のようなゴージャスな物語の導入にワクワクしました。魔法の世界へ足を踏み入れた気持ちにさせてくれる楽しい歌です。──ゆの

● クラシカルな印象の歌で、ちょっとダークな世界観の化粧品の新製品リリースとかで見たらわくわくするだろうなと感じました。──池田いくら

● 〈来訪者〉は“私”の仲間なのか敵なのか分からないのか。一首を頭から読んでいったとき、〈夜の城黎明もたらす来訪者〉では夜明けの使者=よい変化をもたらす客人という印象だったのですが、〈君に見せよう夢物語〉と続くことで〈君〉を夜の側に引きずり込むように見え、夜と黎明は対立関係を暗示しているのか……? という気がしてきました。〈夢物語〉も、素敵なものでもてなすというよりは、口当たりの良いまやかしの幸福で煙に巻くような印象があります。あくまで〈夢〉であって実現しない(少なくとも発話者はそう捉えている)という。
 夜の存在として誇りを持つ“私”から来訪者への名乗り口上、言挙げのようで、とても格好いい一首だと思いました。クラシカルな吸血鬼の姿を想像します。──Dr.ギャップ

● 常夜の城の住人が、「来訪者」へマジックショーを見せるような、夜空だからこそ際立つ夢の明るさを感じました。明けを持ち込んだ来訪者すら面食らうほど、常闇に映える「夢物語」だったらいいなと。夜に見る夢の終わりは夜明けとともに現れます。次のページへ進ませるために現れた来訪者が、一夜の幕引きをするのが惜しくなるような「黎明」が見えるようで、なんだか勝手にひとつの喜劇を観たような気持ちになりました。「君に見せよう」がどことなくエンターテイナーの口上めいていて、誰かを楽しませようとする遊び心をのぞかせているのもひとつの要因だと思います。「夜の城」「黎明」と荘厳さが際立ちそうなワードも揃っていますが、下の句がそうした明るさを持っていることで夜空を照らす花火のような華やかさを備えた一首になっていると感じました。──霜柱

★作者コメント
原作:ディズニー映画「美女と野獣」(アニメ版)
 劇中歌「ひとりぼっちの晩餐会」の日本語版の歌詞「豪華絢爛な夢物語を」が特に好きで、一部入れてみました。──海月雪夜

正しさはわからないけどただひとつあなたの名前だけは忘れない  月見里 花火
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● 「正しさは分からないけど」「あなたの名前だけは忘れない」とあり、つまり「あなたの名前だけ」が「正しさ」だと思っています。この世界は常に誰かと誰かの「正しさ」がぶつかっていて、絶対的な正解はありません。誰かの「正しさ」は誰かの間違いだからです。作中主体はそのことをよく理解しています。人生を戦い抜いて、世界が「正しさ」だけで動いているわけではないことに気づいているのです。
 そんな生活のなかで「あなたの名前」だけは「忘れない」。「あなたの名前」を「忘れ」ずにいられる限り、作中主体のなかには「あなた」という「正しさ」が根を下ろします。何も分からない世界で、「あなた」という存在が唯一、「正し」いものになるのです。──おかのきくと

● 立場や考えによってわからないことは世の中にたくさんあって、その中でも「正しさ」はむずかしい。この歌の中では「わからないけどただひとつあなたの名前だけは忘れない」と続きます。それは主体に取って石碑や旗のように自分を確かにするものなのかもしれませんね。あなたとはすでに別離していそうですがそのキャラクターの根底を垣間見ることのできる歌だと思いました。──山と森と街

● はじめから終わりまでスムーズで、水のようにするする飲み込める、こういう歌が詠みたいなあと思う歌です。「あなたの名前」は主体にとって善悪や正誤を越えた真理のようなもの、道しるべになるものなのかなと思いました。──ゆの

● 〈正しさ〉と〈あなたの名前〉が対比とも言いきれない塩梅で並置されているのが不思議で印象的でした。“私”にとって〈あなた〉はどんな存在なのだろうと。最初は師匠的な〈正しさ〉やそれに準じるものを示してくれた人なのかなと思ったのですが、〈正しさはわからないけど〉=「正しさの基準はわからないけど」ではなく、「あのとき自分がしたことが正しいのかどうかはわからないけれど」かもしれないと思って以降、「あの時あなたにしたことが正しかったのかは今でも分からないけれど、あなたの名前は忘れない」という構図で読んでいます。
〈正しさ〉の軸で見れば誇らしさにも後悔にもならない宙ぶらりんな出来事なのでしょうが、〈あなた〉を覚えているのはその存在が大きく大切だからだろう、という気がします。それから、師匠的な存在ではなくとも、その宙ぶらりんさからこそ〈正しさ〉を考えるときに〈あなた〉のほうを振り返る、という存在になっているのではないかなとも。
〈正しさ〉を求められるヒーローや警官のような“私”の過去回想という手触りを感じているのですが、一方で原作を聞いたら全然違って転げまわる予感もあります。──Dr.ギャップ

● 正誤判断の確立より先に「あなたの名前」を知った、すこし幼い存在の歌なのかなと感じました。また、「あなた」は正誤の境界に立っている揺らぎをもった存在なのかもと思います。

あえて「あなた」の視点に思いを巡らせてみると、先述した揺らぎ≒迷いとなったときに、この主体が「あなた」の名前を覚えていてくれることは、立ち位置を思い出す錨のようになるのではないかと思いました。「あなた」自身が正しさを見失いそうになったとしても、名前を読んでくれる存在があるというのはそれくらいの意味があるものだと感じます。「わからないけど」というすこし拙い言葉から、力関係の逆転というか幼さからくる率直さがもたらす救いのようなものが見えるのがいいなと思いました。──霜柱

★作者コメント
原作『バトルスピリッツ ブレイヴ』
ヒロイン ヴィオレ魔ゐが主人公 馬神弾を想うシーンを書きました。
世界を救いたいダンと自分を犠牲にしないで欲しい魔ゐ様がバトスピで決着をつけるシーンが1番好きです。──月見里 花火

わたくしのたましひ燃ゆるあをあをと貴方をさいなむ針となる骨  ゆの
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● 静かな復讐の歌かなと読みました。自分の魂を燃やす、その色が青というのが静かで何よりも熱を持ち強い感情なのだろうと感じました。その魂は相手を苛む「針となる骨」というのが美しくって怖さが伝わります。細く硬く鋭いものが刺さる……想像しただけでも痛覚を刺激されそうで、それほどの思いをこのキャラクターは持っているのだろうと想像しました。なんとなく読み込まれていませんがこのキャラクターの視線、眼力みたいなものをすごく感じました。美しい1首だと思います。──山と森と街

● 韻律が素敵です。「わたくし」「たましひ」の[s][sh](摩擦音)で静かに始まり、「あをあを」「貴方」のア段・オ段で開放的になった後、再び[sa][ha][ho]と静かな子音で完結します。「わたくし」「たましひ」「あをあを」が平仮名であることによって、上の句の滞空時間が延び、読者の心に重たく響きます。上質な独唱を聞いているような心持ちです。
 「たましひ」が「貴方を苛む針」であり「骨」である。「針」とはどのような形状なのか。縫い針なのか、釣り針なのか。「針」「骨」と聞いて、自分は魚を連想し、釣り針だと思いました。小骨が喉につっかえるような存在になりたい、ということではないかと読みます。
 また「たましひ」が「燃ゆる」ことと「貴方を苛む針となる骨」になることの間に、上の句/下の句であることとは違った、意味としての断絶があるような気がします。「たましひ」は「あなたを苛む針」になるけれど、それはそれとして「あをあをと燃」えていますよ、というような……
 作中主体は「貴方」に依存しきっているという訳では無くて、「たましひ」を「あをあをと燃」やしながら(ある程度自分の足で立ちながら)、それでも「貴方を苛む」存在になりたい、と思っているような雰囲気を受け取りました。──おかのきくと

● 古式ゆかしい感じと、その中でまさしく燃えている苛烈さみたいなものが好きです。
貴方を苛む針となる骨、かっこよすぎます。
骨が針となって貴方に突き刺さる、その様を見ている主体の瞳の奥がごうごうと燃えているところを思い浮かべました。
骨が出てくるので主体はもう死んでいるんだろうか、と思って、死後に相手を苛む針となるのかっこよすぎる、とまた思って最高だな〜!とテンションが上がりました。
主体の呪詛のような感情は死後もきっと燃え尽きることはなく、相手を呪い続けるのだと思いました。──米田

● 一見お淑やかなお嬢様が、「貴方」に向かって、食い尽くしてしまいそうなほどの大きな執着を見せる苛烈な一面をのぞかせた情景を感じました。文語体で書かれているのが、この歌の持つ上品さの演出装置として働いているように見受けられます。脱帽としかいいようがありません。個人的にはサンドリヨンのミクさんを思い浮かべました。──雪宮斎希

● これまで主体を顧みてこなかったとか裏切ったとかの背景(想像です)がある「貴方」に死を持って一矢報いたい、死んでなお相手の元に骨を残すことを復讐とするという内容かと読みました。
「燃ゆる」や「苛む」など描写は淡々としているんですが、滲みこむような怨みがあるような気がします。主体は肉体も魂もほろんでしまうので「貴方」の反応を知ることはできませんが、個人的には主体が復讐の行方を見届けられないのはかえって幸せかもしれないと思います。主体が人生を終わらせるというカードを切るしかないところまで追い詰められても、ささやかなダメージしか与えられないようなの距離感の相手に、主体が期待したほど捨て身の一撃が効いてくれるとは思わないからです。主体と貴方の関係性にもよりますが、一方通行の感があって切ないなあと思いました。──池田いくら

● 〈たましひ燃ゆるあをあをと〉が炎でありつつ冷たい印象で、どこか物悲しいイメージを受けました。一方で〈あをあをと〉や〈燃ゆる(音が萌ゆるに通ずる)〉から植物が茂るイメージが重なり、情念で燃える炎ではあるものの憎しみや恨みだけではない、もうちょっと複雑で矛盾するものを孕みつつ膨らんでいく様を想像しました。
 道具立てと〈わたくし〉という人称から、映画《鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎》に登場する沙代ちゃんを連想しており、読みもこの連想にやや引っ張られているかもしれません。──Dr.ギャップ

● 「あをあをと」の言葉が炎にみずみずしさを与えている上の句から、「貴方」へ向かう骨のするどさへエネルギーを失わないまま移行する下の句への流れが美しいと思いました。身体が魂に焼き尽くされたあとに残る骨が「苛む針となる」という執念の表し方が秀逸だと思います。剣やナイフや槍よりもなんだか長く苛んでくれそうです。骨になる主体は「貴方」を置いていく方にもかかわらず、そのままずっと残る何かを遺していきそうなエネルギーの強さを感じます。──霜柱

★作者コメント
映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』より、龍賀沙代を詠みました。
おぞましい一族の業から抜け出そうとあがき、東京から来た主人公・水木に愛され救われることを願いながらも、叶わず燃え尽きた悲しい少女です。
パンフレットに、彼女の最期の瞬間の台本のト書きが載っています。
「実は悲惨な最期を水木に見せつけて水木の記憶に残ろうとする沙代の復讐であった」。
水木は彼女のことも含め村での記憶を失ってしまいますが、東京に戻った後も沙代が残した爪痕は針のように魂に残り、彼を苦しめる夜もあったのではないかと思います。──ゆの

摘まなくていい花がらの見極めばかりうまくなる神さまの御手みて  霜柱
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● 「摘まなくていい花がら」というのが何なのかとても気になります。「神さまの御手」とあるので、この場合死者の魂のことなのではと。なんとなくですが、助けなくて良い死者の見極めがうまくなった神さまの悲哀を詠んでいるように思いました。北欧神話のエインヘリャルが思い浮かびます。原作にはそれと似たようなシステムか設定があるのではと推測しています。──アサコル

● 花がら(枯れて散っていない花びら)なので本来いらない方を「摘むもの」だと思うのですが「摘まなくていい」方、残し生かしておく方を見極めるという視点が神さまと合わせるとなんだかリアルで花がらを摘む「神さまの御手」の中に神さまの視線、意志をすごく感じる歌だと思いました。そして、そんな「見極めばかりうまくなる」の「ばかり」という所に他の見極め「摘む方を選ぶ」「花がらになった時点で全て摘む」をするべきという感じが周りにあるのかな、この神さまは摘まない生かすことが念頭にあるのかなとも想像します。空からふっと現れる神さまの人々への選別と妙な人間味も感じますし、神さま=戦いを生業とする人(鬼神のように強い人的な)意味合いでその生き方を詠んでいるようにも思いました。──山と森と街

● 「花がら」とは「咲き終わってしおれた花」のこと。
 「神さま」の「見極めばかり上手くなる」ということは、作中の「神さま」には、「花がら」の「見極め」が下手だった時期があるということでしょう。「摘んではいけない咲いた花」を摘みとる失敗をしながら「摘まなくていい花がらの見極め」を学習してきたということです。失敗を繰り返したが故の諦念と読めます。
 この歌の「神さま」は、必ずしも全知全能で完璧な存在ではないのです。「御手」という畏まった言い回しが皮肉に聞こえてきます。「咲いている花も摘んでしまう無能な神」の手を「御手」と呼んでいるのかもしれないなとも思いました。少々斜に構えすぎでしょうか。
 「咲いた」から「才能」などを連想したので、過去に何か失敗をして、繰り返すまいと保守的になっている、コーチや指導者の歌なのかな? と思いました。──おかのきくと

● 咲き終わり枯れた花を詰むのは、見映えを整えるためのときもあれば、病気を防ぐためのときもありますね。必要な処理ですが、摘まれた花がらはごみとなってしまいます。なので「摘まなくていい」かどうかを見極めてしまうこの神様は、優しい神様なのだと思います。命の峻別へのためらいと、「ばかり」に込められた自嘲が神様をグッと人間くさくしていて好きです。──ゆの

● 神さまという大いなる存在を、さらに外側から見守っている慈愛の歌と読みました。──池田いくら

● 〈神さま〉が実景(あるいは神様に準ずる権能を持つ誰かがいる)で花がら摘みが比喩なのか、花がら摘みが実景で〈神さま〉が比喩なのか、二通りの読みができると思うのですが、自分は前者寄りで読みました。
〈花がら〉は、枯れたけれど散らずに残っている花のこと。普通は花の本体が弱らないよう摘むものらしいので、〈摘まなくていい〉とされているのはなぜだろうと不思議でした。また〈神さま〉を眼差している“私”が誰かというのも不思議で、〈御手〉という言い方からは神様を仰ぐ立場の存在だと思うのですが、であれば〈摘まなくていい花がらの見極めばかりうまくなる〉というのは不遜な物言いに感じられます。〈摘まなくていい花がら〉には「見逃す」ニュアンスがあるように思い、そこへの言及は憎まれ口のように見えたので。“私”自身が見逃されたのだとしても、“私”にとって敵のような存在が見逃されたのだとしても、神様の見る目のなさへ反語的に言及している印象でした。──Dr.ギャップ

★作者コメント
スマホアプリゲーム『魔法使いの約束』のフィガロというキャラクターで詠みました。気が遠くなるほどの長い間、世界の花がら摘みを担ってきたひと、という印象です。彼は、人間と、不思議な力を持つ魔法使いが共生できる世界を推進するため、害のある生物を滅ぼしたり、盗賊の魔法使いを監獄へ入れたり、未開の地を開拓して人間や魔法使いが住みやすいよう整えたりしました。それよりももっと昔には、とある村の神様として人間から崇められていた過去や、同じ師匠を持つ弟弟子に付き合って世界征服をしていた(途中でやめた)過去があります。最終的にはバランサーとしての振る舞いをしていますが、人間にとっても魔法使いにとっても、善とも悪ともとれる立場を担ってきたことのある人物です。

世界を整える役割を担ってきたことを誇りに思う気持ちも、いつまでそうして管理者気取りでいるのだろう、と自嘲する気持ちもどちらも持っているキャラクターですが、今回は自嘲寄りで詠みました。これは摘まなくてもいいかな、と思いながら同じ世界で暮らす隣人を眺める神さまの気持ちはどんなものだろう、とふと思いを馳せることがあります。ともすれば、摘んでしまわねばと明確に突き動かされるより、そのほうがすり減ることもありそうだなと思っています。──霜柱

神の不在あるいは見捨てられたことやわらかな手に握られた葦  米田
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● 近代哲学を感じます。「神の不在」はニーチェ、「葦」は「人間は考える葦である」としたパスカルでしょうか?
 私たちは考える葦なのか、それとも愚かな雑草なのか。現代においてそれを決めるのは、もう神様ではありません。神が現代に存在しないのは、本当に神様が存在しないからなのでしょうか。もしかすると、神様は存在するけれど、私たちを見捨てたからかもしれません。コペルニクス的転回というやつです。──おかのきくと

● 全体に広がる心細さ不安さが強くある歌だと思いました。「神の不在」「見捨てられた」に近い状態、その中でその人物の手には葦が握られているのを主体は見ている。「やわらかな手」から幼さやその不安定な状態に対応できないか弱さをイメージしました。「葦」が何を示しているのか読みきれていませんが、パスカルのパンセに出てくる葦から自然の中で傷つきやすくか弱い存在という事かなと想像します。読んでいて不安さがある中でパンセの「人間は考える葦である」考える事ができるというのがやわらかな手の人物と主体の物語の希望としてこの状態から変えることができるに繋がっていればいいなと考えたりもしました。──山と森と街

● 人間は考える葦である、という言葉を連想させる歌です。「やわらかな手」の持ち主は子どもか、女性か。いずれにせよ力強い手ではありません。そんな手にも簡単に刈り取られてしまう葦の弱さ、非力さが、最後に上の句の絶望感に説得力を持たせてつながる感じが素敵です。──ゆの

● 〈神の不在〉と〈(神に)見捨てられたこと〉が並列なのが切なくて心臓にきます。最初からいないのと、いるけど見捨てられるのではかなりニュアンスが違うように思うのですが、この“私”にとっては(きっとそれ以前には存在を信じていた)神がいようがいまいが「助けてくれなかった」ことだけが確かなんだなと思わされて……
〈やわらかな手〉から子どものそれを想像し、転じて「神様の加護のない世界でこの子どもは生きていかなければならないのだ」という“私”の眼差しを想像しました。風景としては穏やかなものをイメージするのですが、でも“私”は神の加護がここにないことを強く確信している様子で、その目を通してこの世界を見ていて、そうした落差にどきどきします。
 ただ下の句には明るい印象があり、特に〈葦〉から「人間は考える葦である」というパスカルの言葉を連想して、神に頼らずとも人間の力だけで生きていけるものだという手触りがあるように感じました。──Dr.ギャップ

● 歴史上の人物の格言や名著のタイトルのように決まっていて、すばらしく格好のいい一首です。「神の不在」と言ってしまえばそれまでなのかもしれませんが、そのあとに続く「あるいは見捨てられたこと」というフレーズが、神はいたかもしれないけれど自分を見捨てたのだ、いまとなってはどちらにせよ同じことだという切ないまでの諦めを感じさせます。しかし詠み手は、作中主体の手を「やわらかな」と表現する。ここには主体のやさしさと、それに着目する詠み手自身のやさしい視線も示唆しているようです。葦の葉は鋭く、やわらかな手には傷をつけるかもしれません。それでも主体が葦をにぎりしめるのは、そこに神のいない厳しい人生を引き受けるという覚悟があるからでしょう(もしかしたら、葦はパスカルの名言の引用で、人間そのものであるのかもしれません)。美しい一首だと思います。──せいら

● 「葦」からは日本神話の「豊葦原」を連想します。キリスト教にも出てくるワードですが、上の句は「神の不在あるいは見捨てられたこと」です。明確に対比がなされることで、この世界の「神の不在」がより一層際立つなと思いました。しかもただ不在なのではなく「見捨てられた」のですよね……。偉大なものにかつて見守られていた世界で、神話にもうたわれていた葦という植物が、もうすでになんの意味も持たないものになって、「やわらかな手」に握られている。幼子の手を連想しますが、それがやわらかいままであれるのは、この世界ではもう僅かな間でしかないのかもしれません。そんな瞬間にフォーカスを当てた歌なのかもと思いました。──霜柱

★作者コメント
『魔法使いの約束』フィガロ
「流離の神に捧ぐ祈りは」というイベントを読んで、フィガロは昔神様として崇められたけど、じゃあフィガロにとって神様として心の支えになってくれるような存在はいなかったんだね、ということを考えました。
何かを崇拝することはいいことだけではないけれど、つらい時や悲しい時、信じるものがあるということは心強いもので、そういったものを持たなかったフィガロは、つらい時や悲しい時、どうしていただろう。
彼の二千年という長い人生の中で、心を許したもの、心を砕いたものがあっても、それは彼にとっては「いずれは雨粒のように流れていくもの」。そう思わなければやっていけなかったということでもあると思う。
でも彼は考えることのできる人だから、ちゃんと、自分から手放さないように、心を伝えることができる、ようになるはず。今まさに、そのようになっている途中であると思っています。
葦を掴んだ手を誰かがそっと握って離さずにいてくれることを願っています。──米田

見ていてよ鏡に描く祝福と挑み続ける銀の軌跡を  萩野すい
コメント

● 読んでいてすごくスポットライトのような明るさを感じる歌でした。鏡、描く、銀、軌跡の単語でフィギュアスケートの選手の歌かな?と想像しています。鏡は鏡面のような氷でしょうか。2句目以降のことばの並びや伸びやかな韻律が初句の「見ていてよ」と合わせるととても力強く、こちらに真っ直ぐな眼差しを向けてくれているような気持ちになりました。──山と森と街

● 「鏡」と「銀の軌跡」ときて、ユーリ・オン・アイスのようなスケートがモチーフになっているのかな、と推察しました。モチーフのとりかたが清純で、澄んでいます。冬のしんとした空気を吸っているかのようです。「見ていてよ」の初句切れで、二句以降とぱっきりカメラワークが分かれています。作中主体が「鏡に描く祝福」も、「銀の軌跡」も、とても美しいものなのだろうな、というのが伝わってきました。──おかのきくと

● 鏡、銀、とキラキラ反射するものでまとまっていてとてもきれいな歌です。主体の自信、自己肯定感の高さが表れているようで、歌自体にまぶしさがあって素敵だなあと思いました。──ゆの

● 銀の軌跡というのがこの歌の読み解きの肝かと思い、前半に出てくる鏡のことかなあと考えたのですが「軌跡」と続くのがどうも合わないような気がして、銀幕や銀盤(のキャリア)として読む方がしっくりくるように感じました。銀の弾丸や銀のナイフの軌道かもしれないけれど。また、「鏡に描く」というのは直にペンなどの筆記具で鏡面に何か祝福に類するものを書いているとも言えるかもしれませんが、もっと示唆的に、鏡に向かってなにかポーズを取っている、鏡の前で練習をしている景なのだろうと想像します。──池田いくら

● 〈鏡に描く〉というフレーズが最初不思議だったのですが、〈鏡に描く〉〈銀の軌跡〉が組み合わさることでフィギュアスケートに連想がつながりました。スケートリンクを鏡に見立てているのかなと。
 フィギュアスケートの歌として読むと、〈祝福〉と〈挑み続ける〉が並ぶこと、そして〈祝福〉が先に来るところにハッとするしぐっときました。挑むから祝福があるのではなく、そもそも祝福は選手である“私”に贈られるのではなく“私”が描くものである。ストイックな姿を想像します。
〈銀の軌跡〉は特定の(これから滑る)演目のというよりは、この“私”のプレイヤーとしての歩みのすべてという印象があり、だとすると〈祝福〉の宛先もまた今の演技を見ている観客だけにとどまらず、もっと広い〈見ていてよ〉であるように感じました。〈見ていてよ〉のほんのり強気な、挑発的な印象がとても格好良くて好きです。──Dr.ギャップ

● 「鏡に描く」「銀の軌跡」でなんとなくスケートリンクを連想しました。誰かに見ていてと祈る初句から、「挑み続ける銀の軌跡」という深い覚悟のうかがえる結句まで、晴れやかな決意が滲んでいるようにも見えます。
最初の連想からフィギュアスケートの選手が主体かもしれないと思ったので、優美な曲とともに氷へ引かれる曲線たち、それらを祝福と呼ぶ美しさと、それと同じものを称する言葉なのに今度はは力強さを伴った「銀の軌跡」という言葉になっているのが素敵だなとも思いました。銀色に輝く軌跡をどこかで見せたい相手は見てくれているのでしょうか。その目に映れば、きっとどこまでも主体の生み出す曲線は光り輝くことだろうと思います。──霜柱

★作者コメント
原作:ユーリ!!!onICEより。
こんにちはスケオタです(自己紹介)。物心ついたころから冬はフィギュアスケートを見るのが当然で、そのまま立派なスケオタになりました。その流れで(?)放送当時も楽しく見ておりましたが、そういえばまだ詠んだことがなかったなあと思いこの機会に詠ませていただきました。
現実の選手たちのコメントを読んでいると、試合(演技)を「見てもらう」ことがかなりキーなのだなあと感じます。「フィギュアスケートの一番の応援は見ることです」と町田樹氏も言ってますし。確かに演技時間一杯が全部自分のもので、会場全体が自分ひとり(ひと組)だけを見つめている、という状況はなかなか他の競技にはないものです。対戦型のスポーツはもとより、採点競技でも体操なんかは会場の複数箇所で同時進行したりしますし。
YOIでも「見る」という言葉が印象的なセリフに使われているので、今回のメインに持ってきました。「鏡」「描く」「銀」「軌跡」は個人的にスケートの縁語だと思っています。フィギュアスケートのフィギュアとは、図形のこと。氷の上にエッジ(スケート靴の刃)で図形を描いて行くのがフィギュアスケートです。氷の上で動けば誰でも跡を残します。その軌跡を採点されるのです。
最終的にYOIというよりスケート全般の概念みたいになってしまったので、ちょっとそこは反省点ですね──萩野すい

痛かっただけで割れないこの窓の向こうのクリームソーダがほしい  池田いくら
コメント

● 窓のこちらにいる自分自身の慟哭が痛いほど伝わると同時に憧れの象徴のクリームソーダが眩しく見えてきます。
クリームソーダに憧れるということは少し前の時代でしょうか?
レトロな雰囲気と前時代的な価値観の息苦しさを同時に感じました。──海月雪夜

● 「痛かっただけで割れないこの窓」にとても惹きつけられました。強化ガラスか何かでしょうか。決して踏み入れられない境界線の暗喩のようにも読めました。窓の向こう側には楽園が広がっているように感じます。きっとその象徴として「クリームソーダ」が選ばれたのだろうと思いますが、それが微笑ましくて好きです。いつか主体が窓の向こうでクリームソーダをゲットできますように。──アサコル

● クリームソーダはなんだか特別で綺麗で美味しいものに美味しいものが重なって自由な感じがします。クリームソーダはお店の中で飲むものかなと思いますが、この歌では窓の向こうにあります。その窓を叩いたけれど「割れない」、「ほしい」けど届かない。クリームソーダが美しくあるほどその手にできない思いがこちらへと伝わってきます。窓枠から見える透き通るような青い空と白い雲、クリームソーダは自由の姿なのかなと想像しました。──山と森と街

● 誠に勝手ながら「ヒプマイ」の白膠木簓と躑躅森蘆笙をイメージしました。簓をクリームソーダ、作中主体が蘆笙として読みました(違う作品のことだと思いますので、たわごとだと思ってください)。簓はクリームソーダが好きです。
 「窓の向こうのクリームソーダ」に例える誰かのことが羨ましくて、その人のことや才能を自分のものにしたい。けれど何度ぶつかっても「痛」いだけで手に入らなかったのでしょう。「この窓の」「向こうの」という助詞の連なりが後半のテンポを速めており、「痛」みを抱えながら「窓」にぶつかっていく作中主体のけなげさを感じました。──おかのきくと

● 「痛かっただけで割れないこの窓の」というフレーズに欲しいものが手に届かないもどかしさ、切なさがとてもよく伝わってきました。──水川怜

● 見えるのに手が届かないものへの強い憧憬。憧憬を超えて怨み、憎しみに至りつつあるかもしれない危うい感じが「ほしい」というストレートな表現に込められている気がしました。痛みという代償を払っているからこそ、破れなかった窓から見る手の届かないクリームソーダは余計に美しく、美味しそうに見えるのだろうと、最後にクリームソーダの緑色が心に残りました。(メロンクリームソーダだと思って読んでいます) 緑色は嫉妬を表す色でもありますね。──ゆの

● 隣の芝生は青いといってしまえば簡単ですが、決して届かぬものに手を伸ばす感情をこう表現するとは……と、最初に感じました。短歌単体として見て、非常に魅力的であると思います。「この窓の向こうのクリームソーダがほしい」と帰結するあたり、もしや鬼太郎誕生ゲゲゲの謎の龍賀沙代ちゃんではないでしょうか。東京への憧れを持ちながら、多くのしがらみによって叶うことがない彼女の心持ちを表現したように思われて、胸が痛くなりました。──雪宮斎希

● 〈クリームソーダ〉と見れば、映画《鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎》に登場する沙代ちゃんを連想してしまう読者です……しかも〈ほしい〉と手に入らないものとして置かれているのでなおさらでした。窓を割ろうとして叩いた。でも手が痛むだけで窓は割れない。欲しいクリームソーダはその向こうにある。クリームソーダが手に入らないことそのものだけでなく、窓を割る力がない、欲しいものを手に入れられないのは自分に力がないからでもあるのだ、という構図が印象的でした。
 一首の語彙も語順もすごく素直で、だからこそなお内容に切ない気持ちになります。クリームソーダなんて、そこまでしなくても手に入れられる人のほうが多いだろうに。なのに。──Dr.ギャップ

● どうしようもない無力感と渇望、それでいてほしいものが「クリームソーダ」なことの叶えてあげたくなる気持ちに胸が苦しくなりました。抗っても声を上げても届かなかった痛み、誰も聞き届けてはくれなかった絶望、透明なのに確実に存在する壁という無念さが感じられます。また、「クリームソーダ」というワードでゲ謎の沙代さんと、その身に降りかかった割れない窓の内側での暴力を思い起こしました。劇中での扱いとリンクする話ではありますが、クリームソーダってわりと現代でも夢の飲み物だと思っていて、それが内包する希望や素晴らしさ、わくわくする気持ちをただ窓越しに見ることしかできないこと、それを「ほしい」という素朴な言葉でほしがる主体がいじらしく、切ない気持ちになります。──霜柱

★作者コメント
龍賀沙代/鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎──池田いくら

人生の打火のごとく向かい合う暗き盤面を進むと決めよ  山と森と街
コメント

● 「打火」は火打ち石を擦り合わすこと。「打火のごとく向かい合う」は、どちらかというと火打ち石で火をおこす時のようにぶつかり合う情景のはずですが、「向かい合う」という深閑とした言葉の選び方が面白いと思いました。相手をきっと睨み付け、視線の火花を散らすことも確かに「打ち火のごとく向かい合う」です。
 「向かい合う」相手は人ではないかと思いましたが、「盤面を進む」と決めた自分自身や「盤面」そのものとしても読めます。対象との関係性の在り方が火花という小さなモチーフに込められているようです。「暗き」という言葉が「盤面」にかかるだけでなく、「打火」がきらめく空間とも呼応しています。非常に抽象的で、夢のある歌だと思いました。──おかのきくと

● 語彙がなくて申し訳ないのですが、かっこよくて何度も復唱したくなりました。
暗闇の中に沈んで姿の見えない、けれど出会えば火打石のように火花を散らしぶつかり合う相手がいる。一時も油断できない状況ですが、そんな先の見えない危険な人生を歩むと自分で決めることに意味がある。勇気の歌でもあると思いました。「盤面」という言葉からチェスなど知的遊戯のイメージが想起されるのもかっこいいです。──ゆの

● 将棋やチェス等の盤上で駒を進めるタイプのゲームを行っているシーンと読みました。「人生の打火のごとく」という言い切りが本当に恰好良くて、力強くて、でも技巧としては繊細で、ほれぼれしてしまいます。
初句に「人生」の語が出ていることから駒の進退が主体の人生ともリンクしてくるような感覚があり、遊びの形式を取っていてもお互いにとって勝負なのだろうなと思います。
こういうキリっとした歌のスタイルが本当に好きです。──池田いくら

● 囲碁・将棋・チェスといったボードゲームの対戦中を描いた歌として読みました。こうしたゲームを扱う作品はたくさんあるはずなのですが、自分は漫画『目の前の神様』(久野田ショウ)を思い出しました。〈人生の打火〉〈暗き盤面〉という形容がドンピシャで……! 人生という大して明るくもない道行きを一時照らす火花が対戦のなかにはあって、でも対戦の盤面そのものは決して明るくはなくむしろ暗く、勝利のために足掻く必要があって……〈打火〉という語が本当に良くて、この語が対戦の比喩に当てられるの、自分で見つけたかったなと思います。
 他の作品でも盤上の戦いを繰り広げる人々には似たところはあるということなのかもしれないし、ボードゲームの歌ですらないのかもしれませんが、大好きな作品にドンピシャの歌で……素敵な歌をありがとうございました!──Dr.ギャップ

● 「向かい合う暗き盤面」は、将棋やチェスの盤面で敵味方が相対している様子、とすると「進むと決めよ」と言われているのはその駒なのでしょうか、それとも棋士なのでしょうか。どちらにせよ、「人生の打火」のように、すでに戦いの火ぶたは切って落とされたのでしょう。詠み手は「進むと決めよ」と、背中を押しているというよりさらに強く鼓舞しているようです。しかしそこには、あなたなら大丈夫という心強い応援があります。「打火」は火打石でつけた火ですが、家人が出かける際の厄除けとして用いられることもあったようで、であればこれは命令口調でありながらやはりエールを送っている歌なのだと解釈しました。中島みゆきの「ファイト!」という曲も思い出させる、熱い一首に惹かれました。──せいら

● 「打火」は火打ち石を打ち合わせて起こる火のことですが、
「人生の打火」とは何かと考えたときに、人の足を前に進ませる契機やエネルギーのようなものかもと思いました。「向かい合う」「盤面」からは勝負事の匂いがしますし、暗ければなおのこと人の足は竦むものですが、運命は決然ともう進むしかない暗闇にお互い足を踏み入れていけ、という指令を下します。主体が向かい合っている者たちではなく、運命そのもののように読めるのが面白いと思いました。──霜柱

★作者コメント
3月のライオン 羽海野チカ(白泉社)
3月のライオン8巻「焼野が原」より柳原棋匠で詠みました。
3月のライオンは主人公の桐山零の物語です。魅力的なキャラ、また一人一人の生き方を噛みしめていくような物語がたくさんあります。特に桐山零も含めたプロ棋士たちの戦いはどの話も熱いです。中でも個人的に8巻は前半の桐山零と宗谷名人による対局パートと後半の柳原棋匠と島田八段による永世棋匠と初タイトルをかけた対局の対比、またChapter78、83もふくめ進むことへの眼差しが見えるとても好きな一冊です。
羽海野チカ作品はセリフ+縦書きモノローグ+横書きモノローグでの心情表現が魅力的ですてきです。その表現に重ならないように、また柳原棋匠の一瞬を詠めたらなぁと作りました。17巻まで発行されています。18巻も楽しみです。──山と森と街

厳かに積み重なった死よ砂よ上昇粒子は静寂しじまを歌う  アサコル
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● 漫画『宝石の国』を想像しました。石や宝石たちが意思をもつ遠い未来を描いた作品なのですが、その無機質で、宇宙の真空のように静かで壮大な世界観にとても合っているように個人的に思いました。原子に還元された何かからまた新しい命が生まれてくるような、厳粛な気持ちになる歌でした。──ゆの

● 「死よ砂よ」の繰り返しで、「死」=「砂」であることが分かります。
「上昇粒子」のとり方に迷いました。
 上昇粒子は「粒子の速度が上がること」と書いていました。AIの言うことなのであまりアテになりませんが、「運動速度が上昇する」のに「静寂を歌う」とは妙です。
液体が気体になるように、目に見えないものに変わってしまう、転生するということの比喩でしょうか。ジャリジャリと鳴る砂も、不可視になってしまえば確かに音は鳴りませんし、「静寂を歌う」のかもしれません。何も無い(ようにみえる)空間で「粒子」が「静寂を歌う」ように、死した者もその場に居て、音のない歌を歌っているのかもしれないなと思いました。無だと思っていた場所に、何かがある。ルビンの壺を見せられたような感覚です。──おかのきくと

● 浮かぶイメージの動きが不思議でおもしろいなと感じました。上の句は「積み重なった死よ砂よ」で上から下への移動。「厳かに」で降雪のイメージもありましたが死や砂と重なることで海底でのマリンスノーかなと思っています。下の句は「上昇粒子」と下から上への移動です。マリンスノーだとすると異質な動きかなと思いますが上昇することがただの死ではない、もしくは生へと繋がる想像でき不思議と死という言葉が怖くなく、受け入れるという感じでしっくりときます。その粒子は「静寂を歌う」とここでは静かさと歌(音)のイメージのギャップの不思議さもあり、また「静寂を歌う」は粒子が揺蕩っていることなのかも書きながらふと思いました。死という静かな中に動きがあって美しいです。──山と森と街

● 死や砂が積み重なる静の上の句から上昇、歌うという言葉で動きを感じる下の句の対比が好きです。
歌全体から感じる厳かな雰囲気と下の句から感じる赦しの雰囲気が素敵です。──海月雪夜

● 純粋にかっこいいなと思って取りました。
死と砂が積み重なるものとして重ねられている。死=砂、というわけではないのかもしれないけれど、『吸血鬼すぐ死ぬ』の吸血鬼を連想しました。
死んだら砂になる存在の死が積み重なっている、というのは、幾重にも死を重ねることができるということなのかなと思います。
その上で上昇粒子という語が出てくるのが、前半との繋がりがスムーズでいいですね。
『吸血鬼すぐ死ぬ』はギャグ漫画だったかと思うのですが、その上で「静寂」という語を使っているとしたらテクニカルといいますか、逆のテンションに持っていくところがうまい!と思いました。
この作品のことを表現しているのでなくても、単体として美しくかっこいい歌であるなと思います。──米田

● 〈上昇粒子〉が始めて見る単語だったので調べたのですが、調べてみてもよくわからず……空気のなかを上昇する粒子(〈砂〉の一部が空気に乗って舞い上がっているのかな?)くらいの雰囲気で読んでいます。映画《風の谷のナウシカ》で、ナウシカがメーヴェごと落ちていった、砂の地下空間のような場所を想像しました(記憶違いがあったら申し訳ないです……)。死んで風化が進んで砂になる。あるいは《風の谷のナウシカ》を離れれば海底という想像もできると思いました。静かで、生よりも死の気配に満ちていて、砂が積もっていて、細かい粒子がちらちらと舞い上がっている様子が両者には共通するように思います。
 ただ、いずれのシーンにしても重苦しい印象はなく〈上昇〉〈歌う〉といった語彙からどこか安らかな快さがあるように思いました。美しさをも伴う光景として想像します。──Dr.ギャップ

● 膨大な時間を内包した生物の死骸も混じる白砂が暗い中で舞い上がっていくような、幻想的な情景の歌ですね。「上昇粒子」が調べた感じ固有名詞かなとも思いつつ、語句から単純に受ける意味でも読めるなと思い、そのまま想像に浸りました。現地に住む人というよりはその場所の物語を知って訪れた旅人のような気がします。
結句の「歌う」は積み重なった歴史と相性がいい言葉だなと個人的に思っていて、もうすでに物言わぬ景色の一部となっている生き物たちが言葉もなく語りかけてくるような、場所の持つパワーが表現されているなと思います。上の句と下の句で句切れになっていますが、どちらにも静かさと厳かさが通底していてまとまっているなと思いました。──霜柱

★作者コメント
ゲーム「ゼノブレイドクロス」で登場するフィールド、白樹の大陸について詠ませていただきました。
辺り一面真っ白な砂に覆われたフィールドで、高レベルの敵が徘徊している中での探索はひどく骨が折れました。その代わりどこまでも続く幻想的で厳かな風景は私の心を震わせました。「上昇粒子」はこのフィールド独特の天候で、微細な粒子が静かに煌めきながら上昇していく様はこの地で息絶えた生物達を弔っているように見えたのでそれを表現できていれば幸いです。──アサコル

この空に命の名前を解き放つ 君とわたしの小さな神話  水川怜
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● 壮大な物語の始まりを詠んだのではないかと感じました。「命の名前」というのが何か想像できませんが、特別な名前なのでしょう。最初こそ二人だけの小さな物語はいつしか壮大な神話となっていくそんな展開をこの歌から想像しました。原作は分かりませんが、ファンタジー系ではないかと予想しています。──アサコル

● 『千と千尋の神隠し』より、千尋がハクに彼の本当の名前を教え、彼を解放した場面を想像しました。二人で空を落下しながら泣き、笑い合う、歓びにあふれた美しいシーンは、神話と呼ぶにふさわしいのではないかと思います。──ゆの

● 「わたし」と「君」の物語は、「小さ」くても「神話」であることに変わりありません。ひそひそ話のように、二人のなかで語り継いでいくものなのかもしれません。新海誠監督作品のような、ボーイ・ミーツ・ガールかつセカイ系の趣があります。
 「神話」ひいては神様にとって大切なものの一つが「真名」です。キリスト教では、イエス・キリストの名をみだりに唱えてはいけません。英雄を扱った「Fate」シリーズにも真名の概念があり、ゆえに彼らは本名ではなく「セイバー」「ランサー」などのクラス名を名乗ります。本名を名乗ると弱点がバレるからです。
 その大切な「命の名前」を、「わたし」は「空」に解き放ちます。
 この「空」というのも神話にとっては重要なファクターであるように思われます。ギリシャ神話では、生前良い行いをしたり、哀れまれた生物や人は星座として空に上げてもらえるからです。
 「わたし」は「命の名前」を「空」へ「解き放つ」ことで、「わたし」と「君」の「小さな」物語を本物の「神話」へと昇華しようとしているのではないか、と読解しました。──おかのきくと

● 歌の中に空間の視点の変化がありすてきな1首です。上の句の「命の名前」が何を表しているのかは読みきれていませんが「空/解き放つ」の広々とした心地・見上げている感じと下の句の「君/私」「小さな」の手の届く範囲感、また「神話」の深いイメージが重なり魅力的だと思いました。空/解き放つから空が青空ならドラゴンがいそう。空が夜空なら神話も合わせて星座・魔法などファンタジーを想像しています。大きな世界観の中の君とわたし、「小さな神話」は上の句へと繋がっていて特別なことだろう解き放つことをします。「神話」の神々しいイメージ、そしてこの歌全体からもう少し身近な、ありふれた「約束」の気配を感じました。──山と森と街

● 千と千尋の神隠しのハクが名乗るシーンかなと思いました。2人だけが知る空で語られた秘密の神話。そんな情景が浮かびました。「小さな神話」という言葉選びがすごく好きです。──月見里 花火

● 青空のようで明け方にも思え、あるいは夜空かも知れない。ふたりの目の前に広がる空へ壮大な物語が紡がれていくような感じでした。──ぱるき

● 上の句と下の句の行間にある物語を教えて~~~!!!と思いました。「君とわたし」二者間の出来事が読み手には共有されないまま、この歌は始まって終わるのですが、その箱庭感が「小さな」ということなのかなと想像します。──池田いくら

● 映画《千と千尋の神隠し》あるいは漫画『夏目友人帳』(緑川ゆき)を連想しつつ読みました。〈神話〉からは前者の気配をより濃く感じます。
〈命の名前を解き放つ〉がどういった状況か掴み切れずにいるのですが、歌に使われている言葉たちの素直で明るい印象から、抜けるように青くて美しい空に大切なものを「自由に生きておいで」と送り出すようなイメージを持ちました。
 一字空けの前後でのスケールの大小、広く解き放つイメージと〈君とわたし〉のなかに小さく閉じるイメージの対比が印象的で、どんなにスケールが大きくてもわたしたちにとってはあくまで〈君とわたしの小さな神話〉なのだという、爽やかなジュブナイルの気配を感じました。──Dr.ギャップ

● 「命の名前」というおおきな言葉に身構えますが、結句の「小さな神話」からすると、もしかしたら世界からしたら取るに足らないようなシンプルなことなのかもしれないとも思いました。けれど「命の名前」が示すのは鳥などのありふれたものよりはなにかふわふわした生き物や、もっと形のないもののようにも思えます。その振れ幅を許す言葉選びが面白い歌だなと思いました。「神話」と名付けることによってわくわくするような物語が息づいていて、そこには「君とわたし」しか知らない名付けの物語、冒険譚があるのかもしれないとわくわくした気持ちになりました。──霜柱

★作者コメント
「千と千尋の神隠し」から、ハクが千尋の幼い頃の話をきいてついに本当の名前を思い出す場面の歌です。あの瞬間、ハクはついに呪から解き放たれました。二人にとって、特に千尋にとって生きてきた中でドラマティックな出来事であり経験だったでしょう。しかしそれは誰も知らない二人だけの神話になるのだと思います。──水川怜

鳴り止まぬ拍手のような雑音が止んだ夕暮れ手放した青  アサコル
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● 「夕暮れ」と「青」の対比が妙です。「鳴り止まぬ拍手のような雑音」が「止んだ」一瞬。「手放された」晴れやかな青空が一転、暗い夕暮れになるような不穏さがあります。たった一瞬の出来事ですが、作中主体にとっては決定的な瞬間です。──おかのきくと

● 離別の歌かなと読みました。「鳴り止まぬ拍手」は「雑音」に繋がりますが拍手とある所が雑音だけれどもうれしいもの良いもののイメージを連れてきます。下の句の「雑音が止んだ夕暮れ」「手放した青」からその雑音(と言いつつうれしいもの)は止んでしまう、青も手放してしまう所に相手との別れ(唐突で思ってもみなかった)を感じました。「青」は夕暮れから青空を想像しつつ恐らく相手のイメージカラー、目や髪の色なのかなと思っています。夕暮れの中で主体が呆然と立っているようなイメージを連れてくる1首です。──山と森と街

● 空の色が変わる「夕暮れ」の一瞬に「青」を手放す瞬間の動作の取り合わせが、イメージ的にも美しく言葉としても効いているなと思います。青は若さの象徴か特定の誰かもしくは何かか。──萩野すい

● にぎやかな昼が終わり夜へ移り変わっていく夕暮れの様子に、何が重ねられているのでしょうか。晴れやかな「青」を手放した心許なさ、さみしい夜の予感が漂う歌の余韻が素敵だなあと思いました。──ゆの

● 青空が夜空に変わっていく状況かなと思ったのですが、前半の描写からは通常の日暮れのように徐々に切り替わる感じじゃなくて、スイッチをぱちんと消すような唐突さがあるように感じます。──池田いくら

● 〈鳴りやまぬ拍手のような雑音〉という比喩にハッとしました。確かに拍手ってうるさくも感じられて、〈鳴り止まぬ〉ならいっそうそう感じるだろうと思います。それが止んでハッピーエンドかというとそういうわけでもなさそうで、ネガティブともポジティブとも割り切れない、複雑微妙な味わいの歌でした。
〈夕暮れ〉と〈手放した青〉が通じているものと読んでいるのですが、構われているうちが華、斜陽といった状況を想像します。〈手放した〉ということは “私”が主体的にそうなることを選んだのだろうと思うのですが、「そうか、本当に止まるのか」と驚いているような。まだ後悔や寂しさといったところまでは進んでいない印象でした。
〈青〉は夕暮れの前の空の色というだけでなく原作由来の象徴があるような気がしていて気になっています。──Dr.ギャップ

● 「拍手のよう」なのに「雑音」なあたりに、がちゃがちゃとした不快感と自分のコントロール下にないものに対する気持ち悪さのようなものが見えるなと思います。「手放した青」と「夕暮れ」の情景から、なんだかもう青空がやってこないかのような、途方もない喪失感を感じました。雑音が止んだこと自体はいいことなのではないかと思うのに、決定的な何かがなくなっているのです。もしかしたら主体も、手放すことでその喪失が待っていることは分かっていたのかもしれません。"雑音が止むこと"は"青を手放すこと"より先に詠まれていて、喪失は織り込み済みのようにも思えました。主体にとって世界はどんなふうに変わって見えたのか、夕暮れという寂しさを湛えた情景と相まって想像を巡らせたくなる一首だと思いました。──霜柱

★作者コメント
漫画「呪術廻戦」に登場する夏油傑について、彼が離反を決めた瞬間を詠みました。彼のあの時抱えていた答えのない苦悩を「鳴り止まぬ拍手のような雑音」として、また「手放した青」でそれまでの輝かしい青春を捨て親友から離れる覚悟をした彼を表現したつもりです。
漫画の方は既に完結しましたが、アニメの方がとても楽しみです。──アサコル

触れふるえおそれてやっとあらわれた世界のかたちそれがこの春  萩野すい
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● 「触れ」「ふるえ」「おそれ」「あら」「それ」「春」のラ行が韻律の根幹となり、するすると流れていきます。途中に「やっと」という休符が挟まることによって、一瞬我に返るというか、作中主体にとって待ちわびた「春」が本当に「やっとあらわれた」という印象を受けます。「世界のかたち」を象徴する「春」。「触れ」て「ふるえ」て「おそれ」を感じてこそ手に入るものであり、世界そのものだといいます。そこに至るには痛みや苦しみがあったはずで、そういうものが全て報われた「やっと」は作中主体にとって救いそのものだったはずです。──おかのきくと

● 「触れふるえ」の「ふ」の重なりリフレインがやっとに繋がって「やっとあらわれた」が強く表現されていると感じました。そのやっとあらわれた「世界のかたち」は「この春」である、となるのが面白いです。おそれながらも待ち望んだ世界=春、芽吹きや柔らかさ明るさのある世界なんだろうなと想像しうれしい気持ちになりました。また「この春」は季節だと思うのですが、どことなく「触れ」ている「おそれて」いたこともあると考えると特定の人物なのかもとも思っています。──山と森と街

● 「触れふるえ」で始まる語感がいいですね。世界に触れる驚きと喜びが伝わってきます。引きこもりからようやく外に出られた、みたいな場面を想像しました。長い葛藤の苦しみの末に触れる春はどんなに喜ばしいことでしょうか。結句の「それがこの春」という言い切りが、感動をより強く印象的にしていると思いました。──ゆの

● 〈この春〉は“私”にとって喜ばしい形だったんだろうか、そうならいいなと思いました。〈ふるえ〉と〈おそれて〉がそれぞれ置かれているのが印象的で、〈ふるえ〉からも恐怖や怯えを想像しますが、〈おそれて〉が別に置かれているということは〈ふるえ〉は恐れによるものではないのかな(驚きによるのかも)、〈おそれて〉は「恐れて」だけでなく「畏れて」の意味も重なっているのかな、〈ふるえ〉はもしかしたら相手の反応なのかもしれないな、など想像しました。
 また冒頭の動詞三連続が〈触れ〉から始まっているのが印象的で、触れて初めておそれが生まれるという、体感や経験の先に〈やっと〉が来るところにしみじみ納得感がありました。〈やっと〉も含め一歩ずつ進んでいく感じがあって、その先にあるのが〈この春〉というのはやっぱり祝福であってほしいな、祝福なんじゃないかな、と思います。一歩ずつ進んだ先でぱっと花開くように現れる春を思います。──Dr.ギャップ

● 結句「それがこの春」で一気に力を解放するような、開けた感じに満ちた歌だなと思いました。四句目までは助走としての役割を果たしていて、綺麗なクレッシェンドが見えるようです。春はもともとなにかの始まりや生物の動き始めなど、開放感に満ちた季節でもあると思いますが、そのパワーが増幅されているように思います。
「触れふるえおそれて」のこわごわとした動きで世界と接することをためらいながらも近づくさまを表現しながら、輪郭を確かめる過程を経て「やっとあらわれた」ともったいぶる感じが好きです。──霜柱

★作者コメント
原作:恩田陸さんの小説『Spring』より。バレエダンサーにしてコレオグラファー(振付家)、萬春(よろず・はる)について、彼自身含め複数の人物の視点から描いた作品です。
ドイツのバレエ団に在籍し、普段は欧州で活躍する春は、節目の公演を母国日本で行うことになります。演目は数々のコレオグラファーが振り付けてきた「春の祭典」。その観客の印象のつもりです。
私が東北出身だからかもしれませんが、春という季節へ恐怖というか、おぞましさの印象を持っています。何もかも清潔で凍てついて変化がなく、美しく静謐だった冬から、地面が融けて水が流れて生命が蠢いて、土埃の舞ううるさい春。このキャップが小さい頃はとても嫌だったのですが、少し大人になって、その生々しさこそが生きるということなのかもしれないと感じるようになりました。
ちなみにスケートは物心ついた頃から見ていますが、バレエもそれより前から見ています。今回詠んだ歌が大体同じカテゴリに向けてになってしまったのも反省点です。──萩野すい

とん、とん、と葱を刻んできみを待つだけの恋だし許してほしい  せいら
コメント

● 愛しい誰かのためにねぎを刻む瞬間の風景や主人公の(早く帰ってこないかな)というそわそわした気持ちが伝わってくるよい一句だと思いました。
ねぎを刻み、食卓を囲むような関係でありながら「きみを待つだけの恋」と片思いを連想させるようなフレーズも想像を掻き立てられます──ましも

● 「とん、とん、と」がリズミカルでとても可愛らしいです。「きみを待つだけの恋」ということなので秘めた恋なのでしょう。秘めた恋、良いですよね。前半のほのぼのとした情景から後半の少しミステリアスな空気がマッチしていて素敵だと思います。原作はストーリーに料理が関係するのではないかと推測しています。──アサコル

● 葱を刻む「とん、とん、」が一定で時計の音にも聞こえ、それが「待つだけ」に重なるのがいいなと思いました。料理を作って待つことのできる関係だけれども伝えられないこと、結句が「許してほしい」なことが近くにいても結ばれることのない相手への歌なのかもと想像します。リズミカルな韻律がさらに寂しさと諦めを強くしていると感じました。──山と森と街

● のっけから「とん、とん」の「葱を刻」むリズムで読み手をぐっと惹きつける手腕に脱帽です。「とん、とん」は読み手にとっても後の句を「待つ」時間であり、「待つだけの恋」がどのようなものなのかを読み手に体感させています。刻むのが「葱」という生活感のある小道具も、生活のなかにいつも「きみ」がいることを感じさせます。
 短歌はつい先へ先へと流れることを重視してしまいますが、だからこそ、このように滞空時間を持たせる短歌を魅力的だと感じます。いっとう好きです。──おかのきくと

● 切ない!つくってるのはお味噌汁でしょうか?とん、とんのリズム感がひとりきりのキッチンのさびしさを強調していてとても良いです──月ノ華

● 主体のどうにもならない恋しさ、自ら動けないもどかしさが、葱を刻むという動作によく表れていると思いました。刻んでいるのは葱ですが、待つ時を刻んでいるようにも思えます。──水川怜

● ご飯の支度をして待つほどの仲でありながら、片思いをしているような、踏み込みきれない切なさを感じました。よく、創作では買い物袋から葱がはみ出している描写が見受けられます。そこから、葱は実に家庭的なモチーフではないかと、個人的には考えます。しかし、その後に「君を待つだけの恋だし許してほしい」が来ることによって、一気に家庭から離れたイメージに振り切ってくるのが、読んでいて非常にテンションが上がりました。好きです。──雪宮斎希

● 主体は「きみ」と生活を共にしているのですね。葱を刻むという日常的な切り口が二人の近しさを強調しているようでもあり、秘められた恋の八つ当たりをしているようでもあり、面白いです。「だけ」と言いつつ、自分の献身にも気付いてほしいという気持ちもあるのかなと思いました。──ゆの

● もし私が主体と友だちで、この歌を見たら「う〜〜〜〜ん……」と言ってしまうかもしれないなと思って読みました。歌の形式の話ではなくて、主体と「きみ」の関係性が気になってしまって。「きみ」は主体のところへどんな顔して帰ってくるんですか?「きみ」は主体が作ったこの料理をおそらく食べるんですか?食べるんですよね?こんな状態で主体に「待つだけの」なんて言わせているのか?この「きみ」って奴はちょっと頼りなさすぎないか😭外野が言うことではないのかもしれないけど、それでも、そんなに「きみ」がいいのか?あなたは……😭と言うかもしれない。──池田いくら

● いじらしいな~もう! と、ついジタバタ暴れたくなってしまう歌でした。〈待つだけ〉と何もする気配がないのに、それでもなお〈許してほしい〉なんて! どうしてそんなに秘めようとするんだ!
 とはいえ〈葱を刻んできみを待つ〉というのはストレートに考えれば同居、そうでなくともどちらかの家で食事を共にできる仲なので(飲食関係の職場で相手の出勤を待っている、前世の知己である〈きみ〉が転生してくるのを待っている、などといった可能性もあるとは思います)、恋仲にはなっていないしその感情を表に出すこともしないと決めている割には物理的な距離は近い様子です。いったいどういう関係で、どうして〈許してほしい〉なんて思っているのか……気になる……
 それと、〈許してほしい〉はこの“私”にとって動かない感情だとしても、〈きみ〉に向ける思いが〈とん、とん、と葱を刻んできみを待つだけの恋〉という切り取り方になるのは、それでも〈きみ〉のために食事を作ること、そしてそれを自分の〈恋〉だと“私”が捉えていることが見えて、ああそこに“私”は恋心を託してるんだなとあったかいような切ないような気持ちになりました。
〈とん、とん、と〉のリズムがゆっくり刻み込むようで、〈許してほしい〉もそうして自分に言い聞かせてるんだろうなと感じます。──Dr.ギャップ

● かわいい歌だなと思いました。「とん、とん、」という擬音についた読点からひとつひとつの動作をゆっくり丁寧にやっているさまが読み取れてなんともかわいいですね。「きみ」は葱が好きなのかしら。でも葱はポピュラーな薬味ですから、味噌汁にいれるのかもしれないし、揚げだし豆腐に散らすのかもしれません。日常的に、それなりの頻度で食事を供するような関係性なのかなと。
「きみ」にごはんをつくることは恋とは別の文脈でこの主体にゆるされていて、ほんとうはそこに恋もある。でもそれ以上のことはないから「許してほしい」と祈る。"それ以上"をある種の罪だと思う気持ち、他者の心への侵襲を抑制する手の引っ込め方がとても好みです。──霜柱

★作者コメント
原作は『てだれもんら』というBLマンガです。好きな人への思いを秘めつつ、夕食をつくりながら待つキャラクターのことを詠みましたが、そのままに過ぎたかもしれないと反省しています。──せいら

地球ほしを出て銀河を巡る渡り鳥住めたらいいと囀りあって  海月雪夜
コメント

● まず「銀河を巡る渡り鳥」がSFっぽくて良いなと思いました。渡り鳥はもしかして宇宙船のことでしょうか。美しい暗喩だと思います。「住めたらいい」で渡り鳥(あるいは宇宙船)が新天地を求めているように読めて想像をかきたてられました。良い星を見つけられると良いですね。原作は巨大ロボが出てきそうだなと思ってます。──アサコル

● SF作品の宇宙移住をする物語でしょうか。(SF、宇宙、鳥と来ると手塚治虫の火の鳥を思い出しますが今回の歌の原作とは違うかなと思いつつ)人を鳥にしているところが好きです。「囀りあって」が宇宙という広大な場所で身を寄せ合っている長い旅の中での安息を感じます。その中で「渡り鳥/住めたらいい」がどことなく「たどり着けない/暮らせない」感覚を根底に感じ、思い美しくけれど少し不安もある雰囲気で好きな1首です。──山と森と街

● 「地球を出て銀河を巡る」とカメラが引いていきます。そのままもっと広い場所へ出て行くのかと思いきや、小さな「囀り」を交わす「渡り鳥」へと急にカメラが寄るところに驚きがあります。「渡り鳥」にとってのお互いは、地球や銀河に匹敵するほど大きな存在である一方で、自分たちの存在が「地球」や「銀河」よりも大きいのだと信じて疑っていないようです。若さというか、視野が狭いがゆえの勢いや、ある種の浅ましさを感じる歌だと思いました。──おかのきくと

● SFだ!スペースシップ!とテンションが上がった作品。二次創作短歌でSFって珍しいような気がします。故郷の惑星を出てから流浪しているであろう人々を「渡り鳥」としているのが印象的です。宇宙にあまり鳥のイメージがないので、新鮮に感じました。──萩野すい

● 宇宙開拓移民団とか、そういうSF的な物語でしょうか。渡り鳥に例えることで幻想的なイメージが広がって、鳥たちの囀りもどこか楽しげです。遥か宇宙を旅するのは困難ばかりだろうけれど、共に渡る仲間がいることに希望を感じる終わり方が好きです。──ゆの

● おとぎ話のような肌触りの歌。この銀河がリアル銀河だった場合ものすごい広いと思うんですが、そこを軽々と渡ってゆける鳥たちはパワーとか凄そうで生態が気になります。
渡り鳥(鳥とは言っていない)みたいな可能性もあるのかもしれません。──池田いくら

● SFあるいはファンタジー的なシチュエーションとしてイメージされると同時、〈住めたらいい〉になんとなく親近感があるような、しかも〈囀りあって〉と複数羽で鳴き交わしているのが可愛らしくて、どこか親しみやすい可愛らしさを感じる歌でした。
 鳥の〈渡り鳥〉は季節によって住処を変え定住地を持たない一方、住む土地そのものは固定されているので〈住めたらいい〉という言葉が出てくる〈渡り鳥〉は比喩的な、定住地を持たず放浪している存在を指しているのかなと思います。ただ、理屈ではそう思うのですが〈囀る〉も相まって小鳥のシルエットがちらつき、小鳥が星々の間を渡り歩いては〈住めたらいいね〉としているイメージが本当に可愛くて……
〈住めたら〉という仮定には住めない可能性も大きめに含まれており、また「住みたい」ともニュアンスが異なると感じます。ただ住めなさへの悲しさやがっかり感を前提にした「駄目だろうけど住めたらいい」という雰囲気でもなく、〈囀り〉なのがやっぱり楽しそうです。結局この星も飛び立って広い銀河をめぐる旅に戻るのかなという気がするのですが、その旅のなかで〈住めたらいい〉と思うくらい素敵な星の発見と〈囀りあって〉という共有を繰り返していくのだろうなと思うと、やっぱり明るく楽しい気持ちになります。──Dr.ギャップ

● まず読んで、「銀河を巡る渡り鳥」が一羽きりじゃないことにああ、よかったなと思いました。宇宙は暗くて銀河まで行けば故郷も遠くなりますが、囀りあう相手がいればきっと旅路は孤独ではないでしょう。しかし、鳥たちは「住めたらいいと囀りあ」います。どこかとまり木のような場所、棲み着ける場所を欲し、探している途中なことがわかると、急に地に足がつかないようなさみしさがあらわれます。もしかしたら今はふたりぼっちの鳥たちも、いっしょに棲めればよいですが、片方が棲家を見つけてしまってもう片方は見つけられなかったらひとりぼっちになってしまうのだなと思うと、なんとも儚いバランスのうえで成り立っている関係性なのかも知れないと思います。
それでもなお、二羽以上で銀河を巡っている、「住めたらいい」と言葉をかわし合っているこの瞬間があることが尊いのだとも思いました。帰着はどうあれ、旅路はもう存在しているのです。居場所を探す旅路が、居場所が見つかっても見つからなくても、鳥たちにとってかけがえのないものになったらいいなと勝手に祈りたくなりました。──霜柱

★作者コメント
原作: 東崎惟子『少女星間漂流記』(電撃文庫、既刊2冊)
 この作品は天才科学者のリドリーと彼女の用心棒で人見知りのワタリ、二人の少女が人間の住めなくなった地球を離れ、安住の地を探すSFライトノベルです。彼女たちが様々な星に立ち寄る短編で構成されています。
 東崎先生がXで二人を「ワタリドリ」と呼んだポストが印象的で使わせていただきました。
 また夜の羊雲先生によるコミカライズが「コミックフラッパー1月号」(KADOKAWA)から連載開始しました。──海月雪夜

花の咲く終点までは待てなくてたとえ夢でもきみに触れたい  雪宮斎希
コメント

● 40句で唯一、元ネタがわかりました。
31文字の制限ですごくわかりやすくモチーフを拾ってきていると感じます。
一方で二次創作短歌だと書かれていなかったらきっと誰かの片思いの句として読者の想像を掻き立てるとともに、各々の情景を思い浮かべることができる、そんな句だと感じました。
わかる人にはわかる。知らない人も楽しめる。
その塩梅がすごく上手だと思います。──ましも

● 強く求める相手との離別と希求の歌と読みました。「花の咲く終点」が相手が亡くなっていること、天国にいる・いける人物であることを言い表していてすてきだと思います。自分の人生を全うするまで待てない、夢でもいいから会いたいという強い思いに震えるようでした。──山と森と街

● 「きみ」は「花の咲く終点」にいます。この「終点」には、自ら探求しなくとも、「待」つことさえできれば至れるようです。作中主体にとってはその時間さえも長く感じてしまうので、「たとえ」ゆめまぼろしでも「きみに触れたい」と言います。
「待」つことは人生の時間を消化するということ。
「待てなくて」とありますが、作中主体は「きみ」に向かってなりふり構わず会いに行くような人物ではないようです。「夢」の「きみ」を所詮夢だと判断できる冷静さを感じました。──おかのきくと

● 別離の後に大切な誰かを想う切ない作品。なのですが、最後向こう側で再会できることが前提となっていて、ふたりのこれまでのたしかな絆を感じました。故人のことを考えるとあの世で花が降る、という説も思い出させます。──萩野すい

● 主体は「きみ」をとても愛しく思っているということが「花の咲く終点」という初句が、きみと触れ合える幸せな世界の象徴であるように感じました。しかし終点に待てないという表現で愛しさがより胸に迫ってきます。──水川怜

● 「きみ」を慕う心がやわらかな表現で綴られていて、主体の繊細さと、ひょっとしたら臆病さを表しているのかなと思いました。「きみ」の実在もあやふやな気がして、この歌そのものが夢か幻のようです。──ゆの

● 儚い雰囲気の砂糖菓子みたいな歌だな〜と思いました。終点という語があるので私のイメージでは電車なんですけど、終点に花が咲き乱れている景は夢うつつな感じで、この世に足がついている実感はないんですよね。「たとえ夢でも」といっているので現時点では夢のなかにいるとして、終点まで行った先でもそこはずっと夢の中なのだろうなと思って読みました。──池田いくら

● 切実で深刻なシチュエーションなのだろうという予感がかなり強くありつつ、でも言葉もその並びもとても素直で可愛らしく、どうにもきゅんとくる歌でした。〈待てなくて〉〈たとえ夢でもきみに触れたい〉のストレートさ。
〈花の咲く終点〉から天国や極楽を連想しており、とてもシリアスな状況なのだろうという予感があります、〈きみ〉は死後の世界でないと会えない、つまりすでに亡くなっているのではないか。なんらかの出来事の決着を待っているだけと読むには〈終点〉は含みのある語彙だと感じます。
 ただ一方で〈花の咲く〉があることで明るい印象も受けます。死後の世界とはいえあくまで天国や極楽であり、終点が明るいものであることが確信されている気配に救いを感じるような。死後の再会というと「地獄でまた会おう」というパターンも好きなのですが、それとはまたまったく違う魅力のある、善性によって報われる(ことを願いたくなる)二人をイメージしました。〈終点〉にまつわる過酷さへの言及が歌の中になく、“私”が〈きみ〉のことしか見ていないのでなおさら明るくまっすぐした印象を受けるのかなと思います。──Dr.ギャップ

● 花の咲く終点で待ってくれている「きみ」がいる、そんな人生って素敵だなと思うと同時に、そこまでいかないと会えないつらさも感じました。死別とも、主体が生き抜いた先で出会う約束をしている何かが「きみ」であるともとれると思いましたが、後者だとしたら夢に来れるような力も持ってそうな気もして、そんな存在のおとないを待っている主体の健気さも感じられました。逆に前者だと、人生の終わり、死後の世界を「花の咲く終点」だと素朴に信じているところがいいなと思いました。

また、「花の咲く終点」という言葉からは、なんとなくFateの衛宮士郎やセイバー、マーリンのことを思い起こしました(マーリンは待っている方ですね)。士郎もセイバーも、逆に周りやプレイヤーがさみしくなるくらい脇目も振らずに生きていくひとですが、いつかの夜に、こんなふうに相手に会いたいなと思う瞬間があったのかもしれないと思うとたまらない気持ちになります。──霜柱

★作者コメント
原作:原神
原作紹介
7つの元素が絡み合う幻想世界「テイワット」。主人公は連れ去られた双子の片割れを探すため、相棒のパイモンとともにテイワットの国々を順に巡る旅に出る。広大な世界を自由に冒険するオープンワールドRPG。
プレイヤーはゲーム冒頭にて、主人公である双子の兄妹・空と蛍のどちらかを選択する。選択した方を操作し、もう片方を探すこととなる。

この歌は旅人から片割れへの歌です。自分は空を選んだので、空から蛍ちゃんへの歌のつもりで詠みました。愛する妹に会いたい、けれども会えない。いつか旅の終わりには会えるだろうか。夢でも良いから会いたいという感情をストレートに歌にしました。

花の咲く終点に詳しく言及しますと、メインストーリーのネタバレになりますので差し控えます。ただ、魔人任務4章6幕「ベッドタイムストーリー」に情緒がぐちゃぐちゃになりながら詠んだ歌だということだけは申し添えておきます。──雪宮斎希

ゆびとゆび小さく結ぶ約束は花かんむりの形だったね  山と森と街
コメント

● 子供同士の何気ない約束を、子供の頃よく作る花かんむりで表しているのかなと思いました。"ゆび"がひらけているところが幼さを感じてとても好きです。だったねと過去形になっているということはもう主題の人物たちは大人になっているのでしょうか?今その約束を思い出して笑いあってるシーンだったら嬉しいなって思います。──月見里 花火

● 「ゆびとゆび」がひらがななのが幼い感じがして可愛らしくて好きです。結句の「だったね」から結んだ約束は遠い過去の出来事であると読み取りましたが、主体はどんな気持ちで相手に呼びかけているのか気になりました。懐かしさなのか諦めなのか約束が果されそうで嬉しいのか逆に約束が果されなさそうで悲しいのか。色んな読み取り方があって面白い歌だと感じました。──アサコル

● 「ゆびとゆび」が平仮名であることから、「約束」が「結」ばれたのがはるか過去のことであると分かります。作中主体が「約束」を「結」んだ人は幼い頃の知り合いであり、「花かんむり」を共に作って遊ぶ仲です。「花かんむりの形『だった』ね」というのがミソで、「形だね」だとこのノスタルジーは生まれないと思います。
 作中主体にとって「約束」は大切なもの。「花かんむり」の色形までありありと思い出せるのでしょう。幼い約束は作中主体にとって宝でもあり、同時に呪いでもあるのかもしれません。絆は時間と共に変容するからです。約束が鮮やかであればあるほど、作中主体は「ゆび」を「結んだ」相手を置き去りにして未来に進むことを、躊躇うでしょう。──おかのきくと

● 幼子の約束でしょうか。確かに指切りは花かんむりの形ですね。比喩がとても素晴らしく可愛いらしさがよく表れていて素敵な歌だと思いました。──水川怜

● おとぎ話のような、とても優しくあたたかな雰囲気が感じられました。交わした約束も生涯忘れることのない、大切なものなのだと思いました。──ぱるき

● 指切りをする一瞬のポーズを花冠に見立てる発想がとても素敵でした。花冠で遊ぶのは基本的には子供だと思うのですが、子供の頃の、小さなとりとめのない約束が主体にとってとても大切で、特別なものであったのだと伝わってきます。結句の語末が「ね」という、誰か(恐らく約束の相手?)に話しかける表現も、関係の継続・時間の繋がりが感じられます。──古月もも

● 子どもの頃の約束を思い出している場面でしょうか。指切りや花冠に象徴されるいとけなさ、無邪気さが微笑ましいです。そしてその記憶そのものをいとおしむ眼差しが、「だったね」という優しい語尾に出ていて素敵だなあと思いました。──ゆの

● 小指同士での指切りの仕草が、花かんむりを構成する蓮華たちの結び目のように見えるという喩えの歌と読みました。繊細かつ美しい比喩で、過去の約束というノスタルジックなテーマと響きあっており素敵です。──池田いくら

● 〈ゆびとゆび小さく結ぶ〉〈約束は花かんむりの形だったね〉が切れるかどうかで印象が変わるように思いました。
 切れないなら「指きりげんまん、と指を小さく結んで約束したそれは花かんむりの形だったね」という回想の歌と読みました。〈小さく〉から幼さの印象を受けるのに加え、秘密や躊躇い、あるいは気恥ずかしさがあったのかなとも思います。〈花かんむりの形〉からは結婚や戴冠を連想しました。今まさに約束を果たそうとしている場面での回想にも見えるし、反対に約束を違えようとしていて思い出しているようにも見えます。後者の想像が出てくるのは読者である自分の好みやこれまで読んできたものの傾向による偏りが出ているのかもとも思いますが……皆さんどう読まれているんだろう……
 また切れるなら、〈ゆびとゆび小さく結ぶ〉=今まさに結んだ約束と、〈花かんむりの形だったね〉=過去にした約束がそれぞれあると読みました。ただどちらの約束も内容自体は同じで、幼い頃に交わした約束を今あらためて結び直しているという風に想像しました。〈小さく〉が気恥ずかしさから来ているのではと思うと、とても甘酸っぱい気持ちになります。──Dr.ギャップ

● 指切りと花冠のイメージがすっとつながり、幼少期の淡い記憶を彩ります。王侯貴族の冠でなく花冠なのが純粋だったなと思いました。──萩野すい

● 「ゆびとゆび」というひらがなでの表現、「だったね」という結語が幼さを演出していて、あかるい花園で結ばれた約束とその象徴となる「花かんむり」になんとなく微笑ましくなる歌でした。
花かんむりを作るときの茎に茎を結んでいく形も約束をするときの指の形に重ねられて、層が厚い歌だなと思います。「花かんむりの形」というのが、単にそうした比喩と言うだけではなく約束にまつわるアイテムとしても取れるあたりに、花園で過去に紡がれた物語を垣間見た気がしました。過去を振り返っている形の歌ですが、約束は無事に守られたのでしょうか。結果に思いを馳せると、少しほろ苦くも思えるきらめきの多面性が好きです。──霜柱

★作者コメント
環と周 よしながふみ(集英社)
コミック袖に「いろいろな時代の環と周の話です。」と書かれているように年齢や性別、環境などの違うそれぞれの環と周のお話が読める一冊です。どの話も好きですし、未読でしたらぜひぜひ読んでいただきたいなと思っています。全一巻です。
歌に関しては特定のエピソードからではなく、環と周を読み終わった時に感じたふたりの目線や生きようを詠めたらと作りました。──山と森と街