ゆい
2024-12-09 16:04:35
5509文字
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【宗みか】君を欲で満たせば

パリでデートするふたり。

「お師さん起きてぇ。もうお昼になってまうよ」

 日溜まりに名前を呼ばれた気がして目が覚めた。窓から差し込む光は朗らかに目を焼き、目蓋は眩しさに耐え切れず焦点を結ぶ前にまた落ちる。途端にぶり返した眠気は瞬く間に身体中を巡り、微睡みの予兆に容易く指先まで痺れた。ここ数日作業や打ち合わせで夜更しが続いていたせいか、目蓋が鉛のように重い。隣の喧しさを道連れに再びベットへ沈もうと声がした方に腕を伸ばすが、五本の指は熱では無くて宙を掴む。目蓋の代わりに掌を開いて再度周囲を叩き探しても、温もりと呼べるものは掠めない。帰国は明日だったはず、と眩む記憶を漁っても寝起きの脳では昨日の終わりすら不明瞭だった。人肌が離れて久しいらしいシーツを掻く度に焦燥とも憤然ともつかない不愉快さが胸に溜まる。恐らくこちらの手が届かないギリギリの場所から甘い含み笑いが漏れ聞こえるのも面白くない。分厚い夜の気配を振り切るように目蓋を抉じ開け、被った毛布から顔だけ出せば僕の目線の高さで星は瞬く。ベッドの横にしゃがみこんでにやける顔は、きっと昨晩の僕によく似ていることだろう。

「寝過ぎも身体に良くないで。お天気も良いし、そろそろお布団から出よ?」
「‥今日は何の予定も無い」
「無くても起きるのが大人やろ。ほら、おれがコーヒー淹れるからお師さんは顔洗ってきてや」

  影片に大人のいろはを説かれるのは些か不服だが、この有り様では何を言われても甘んじるしかない。敢え無く黙り込む僕に影片は再度吹き出しながら、鞠のように立ち上がりキッチンへと消えていく。こちらの返事も待たずにケトルを取り出す気配を聞きながら光で溢れた室内を見渡す。カーテンを大きく開いて取り込んだ春は目に映る全ての輪郭を柔らかく溶かし、食器棚や冷蔵庫の前で右へ左へと忙しない背中まで煌めかせている。昔は僕が抱き起こすまで精神的にも肉体的にもベッドから離れられなかったのに。それが今では僕よりも早く起きて、着替えも掃除も済ませて朝の準備に励むようになるとは。しみじみとその成長を噛み締めかけて、すぐに今朝の違和感に気付く。よくよく顧みれば疲れているのは目蓋だけで、身体の方はそのまで精魂尽きていない。加えて、段々と蘇る記憶の内、日付を超える頃まで交わした議論と身体の、どちらもこれからの場面以降がすっぽり抜け落ちている。ざぁっ、とせっかく微睡みに満ちていた身体からありとあらゆる血の気が引く。うっかり睡魔に負けて全て中途半端に手放したせいで、寝巻きも寝具も普段より整っているのが漸く後ろめたくなった。果たしてカフェイン程度でこの心苦しさは飲み下せるものなのだろうか。滝行も兼ねて冷水のシャワーでも浴びようかと血迷いながら、いい加減目覚めきった身体を起こした。見下ろすシーツや毛布にもやっぱり寝相以上の乱れは無い。どんな謝罪で昨日を巻き返そうかと頭を抱える僕の耳に、次の新曲で使うつもりのフレーズが鼻歌混じりで流れてくる。今のところ、機嫌はそこまで損ねていないようだ。必死に状況を整理する情緒など露も知らず、こちらが話し出す前に脳天気な声が掛かる。

「お師さん、牛乳ってもう無いっけ?」
「‥昨日の昼で使い切ったよ。影片、コーヒーの前に話が‥」
「んあっ、もしかしてバケットももう無い?」
「代わりに卵を焼くから少し待ちなさいって、まず昨晩の――
「あっ!それならお願いがあるんやけど」
「お願い?」

 僕の弁解には耳も貸さず矢継ぎ早に続いた問い掛けの最後に、弾けるような笑顔がキッチンの入り口から覗く。疲れや憂いを欠片も乗せずに浮かれてみせる頬や瞳に、言い募る筈だった舌先が縺れたように動きを止めた。出会ってからもう何度目かの春を迎えても、影片が僕へ向ける笑顔に大した変化は無い。強いて言うならばより甘ったるく、より無頓着になっただろうか。見慣れて免疫もついた僕以外がうっかり浴びれば、人生だって容易く狂わせてしまうだろう。しっかり僕のものにしておいて良かったと内心頷く僕には構わず、影片が笑顔のまま跳ねて全身を見せる。鍛えた体幹は足元を勿論揺らすことなく、どこもかしこも痛んだり庇ったりする様子は無い。この元気を褒めるべきか謝るべきかまた悩むけれど、やけに満ち足りた笑みは僕と視線が絡んだ途端に一層無邪気さと凶悪さが増した。

「おれとデートしよ、お師さん!」 

 綺麗に傾げられた小首と語尾までたっぷり浮かれた誘い文句の後ろで、警告音のように甲高く湯の湧く音がした。



 ※
「‥これはデートと言わない。ただの買い出しだ」
「二人で歩いてたら立派なデートですぅ」 

 怨嗟に近い愚痴を垂れる僕に影片が小憎らしく唇を尖らせて反論する。僕の傍らを付かず離れず跳ねる足音と陽光の下でも悪戯げに光る瞳に昨晩の遺恨の影は見当たらない。胸を撫で下ろすにはまだ早いと分かっていても、いざいつも通りの上機嫌を目の当たりにすると合わせる顔に迷う。結局無難な顰めっ面を装って石畳を並んで進む度、互いの胸に抱えた紙袋達が質量に応じて大小の音を立てる。昔より随分と気安くなった返事を終えた影片は、僕のよりずっと軽い紙袋を掛け声と共に両手でまた持ち直している。筋肉とか体力の話では無く、影片が鈍臭いのは単純に要領と見通しが滅茶苦茶なせいだ。僕が全て持つと言ったのにバゲットくらいはと譲らない頑張りを見守りつつ、明日からまた一人に戻る食卓には明らかに多い香ばしさを嗅ぐ。カレンダーに出来るだけ小さく書き加えて会話の俎上に乗らぬよう慎重に努めても、別れの日はいつだって折り目正しく訪れる。異なる夜と朝を過ごすことになっても、自分が一番輝きたい場所にいよう。離れ離れが今より珍しかった頃、別れの度に顔を曇らせた影片にそう誓わせたのは僕だ。叶うことならずっと手元に置いておきたかったし、成長も躍進も一番そばで見守ってやりたかった。愛しさが先走って、彼がこの地に根を下ろすよう手回ししたことだってある。だけど、羽化したばかりの才能に相応しい環境を、異国の地ですぐに用意してやれないことも分かっていた。だから、彼が僕の提案を断る筈が無いことは承知の上で、その従順に付け入るような真似をした。芸術の名の下に、二人は似て非なる道を往く。お互いに手放せない意地があって、妥協も譲歩も上手く出来なかった若さを今更になって責めることはしない。――しない、けれど。何度繰り返しても慣れない寂しさは、大人になっても確かにある。

――お師さん?」

 遠く聞こえた呼び掛けに思わず惰性の足が止まる。唯一の声が一気に鳴り出した雑音に紛れてしまう前に慌てて顔を上げれば、影片は随分先に立っていた。いつまでも隣を歩いていたつもりなのに、気付かぬ内に歩みは鈍っていたらしい。立ち止まる二人を避けるようにいくつもの影と生活が過ぎていく。太陽を背に立つ影片の表情は降り注ぐ煌めきに邪魔されて上手く読めない。いくつもの可能性でごった返す、せっかくの大道ですら影片はあっさり引き返して僕の元までやってくる。光に怯えて眇めた目をやっと開く頃にはもう、見慣れた笑みが進路を塞ぐように正面に立つ。
 
「ごめんなぁ、歩くの速かったやろ」
「待たせてすまない、早く帰ろう」
「お腹ぺこぺこやもんね。沢山食べて、荷造り頑張らんといけんわぁ」

 まだパンツも仕舞ってへんもん。往来でけろりと曰う靭やかさを僕は確かに好ましく思う。たとえその無垢が作り物や強がりだったとしても。あらゆる理由が僕に起因するものならば、どんな努力も等しく愛してやるべきだから。
 綺麗に口角を上げ下げし終えた影片がワルツのターンで音も無く定位置へと戻る。いついかなる時でも僕の隣を歩きたがる物好きは今日もかわいこぶったまま、上目遣いでこちらの一歩目を待っていた。横目で見下ろす頬はこの陽気に少し火照り、やっと落ち着き出した紙袋を抱く爪先が日差しを弾いて白く光る。荷物が無ければ、たちまち手を引いてやれるのに。大袈裟に買い込んだ諸々を両手に抱えながら、期待を上回ってやれない不甲斐無さを胸中で詫びる。だけど、為す術無く踏み出した足にも影片は容易にタイミングを合わせて、分身を気取るように歩みは再び揃い出す。家路を急ぐ光の中、角を一つ曲がる度に人影は消え、自らが生み出す音と形ばかりが石畳を駆けていく。やがて、見慣れた壁色が遠く視界に入り始める頃、不意に傍らから口笛にも似たやけに軽やかな溜め息が漏れる。

「やっぱり荷造りなんて嫌や。また半月もお師さんに会えんとか耐えられへん」
「毎日電話をしてもまだ寂しいのかい」
「そりゃ寂しいやろ。声を聞いたら会いたくなるし、会えない時ほど触られたいもん」
 
 今、信号が赤に変わらなくとも、きっと僕はみっともなく立ち止まっていたことだろう。とっくに声変わりも済ませた大人の本音にこちらが口篭れば影片もぴたりと口を噤み、ちょうど吹き抜けた風が艶やかな黒髪を疎らに攫って表情を隠す。背中を冷たい汗が一筋落ちて、罪悪感に舌の付け根がきんと痺れる。車も人も通らない二人きりの時間に、赤信号が正しく警告を示して煌々と燃える。だけど、このまま黙り込んでしまえばもう一生口を挟めなくなりそうで、駆け引きの準備も整わぬ内に舌先だけで追い縋ってみる。

昨日、あのまま起きていたの」
「好き勝手撫で回されて、ようやくって期待したところで放り出されたら、流石に眠気も吹き飛ぶやろ」
「本っ当に申し訳無い!!」

 やっぱり荷物があって良かった、もし手持ち無沙汰だったら華麗な土下座を決めていた。危うく守られたプライドも殆ど溝に捨てながら、言い逃れも出来ずに頭を上げる。だけど、両手の荷物に遮られて会釈を見紛う角度しかつかない。せめて声に切実さを込めてみても、ひっくり返るやら掠れるやらで結局目も当てられなかった。恐々と見下ろした横顔は尚も遮られたまま、真一文字の唇も凪いだ瞳も見切れてばかり。その間も人気の絶えた道を太陽だけが過ぎ、僕達の醜態を白日の下に晒していく。いつもより長い待ち時間が沈黙で埋め尽くされていくのを見送りながら、続くべき言葉を必死に探す。言い訳ならこの期に及んでいくらでも思いついた。だけど、口が裂けても音にしたくなくて、歯痒さだけが募っていく。とりあえず二の句を、と上滑る意識を集中させかけて、ちょうどのタイミングで半身に触れた温もりに息が止まる。

「なんちゃって。お師さんが疲れとるの知ってて意地悪言ってもうた」
神に誓って寝るつもりは無かったけれど、結果として君を放置することになり、‥すまない」
「堅苦しい弁解やなぁ。連日徹夜やったし仕方ないやろ、むしろそんな夜に強請ったおれがあかんね」

 やっと口に出来た素直さを、僕の肩に頭を預けて並び寄り掛かった影片が笑い飛ばす。先程より随分見下ろしやすい表情は思いの外穏やかで、こちらを見上げる瞳にも煩いや陰りは映らない。だけど、その健全さすら今の僕には負い目になって、居た堪れなさにまた奥歯を強く噛んだ。

「別れの前の貴重な時間を無駄にした」
「無駄やないよぉ。お師さんの寝顔眺めとるのも楽しかったもん」
僕だって、色んな君を眺めたかったし朝まで触れていたかったよ」
「じゃあ今夜全部やったらえぇやん」

 半月分愛してや。いつかの春なら照れて早口になっていた台詞を、いつかの冬なら躊躇いがちに浮かべた笑みで囁く影片は、きっと今年だけのものだ。想定外に息を呑みながら、不意にそんなことを思う。これから季節が巡る先で様変わる君の一部始終を見届けられないことは寂しい。だけど、自業自得な矛盾を抱えて僕が立ち尽くす度に、影片はそれも楽しいねってさかさまに笑う。あの日、唇を噛んで僕の我儘に頷くばかりだった小鳥は、いま麗しくとも強かな羽根を手に入れて未開の日々を伸びやかに飛ぶ。取り戻せない過去も有り得た未来も選び取った今で黙らせていく様は、僕のそれに少し似ていて。新しく見慣れない君と出会う度、鳥籠を仕掛け損ねた自分を褒めてやりたくなるよ。
 いかにも澄まして透き通る瞳に面食らう僕が丸く映る。許しを告げる青が無防備な額や鎖骨を不健全に染めても、唇の弧や眉の下がり角度が変わることは無い。だけど、揺れる髪の毛の隙間から徐々に紅色へ染まる耳先がなけなしの強がりを雄弁に語るから。耐え切れず余裕を真似る顔にぐいと亀のように首を伸ばして射程を詰める。自滅や自虐に振り切れていた心が水を吸った砂のように息を吹き返すのが分かる。あんなに強張って色を失っていた筈の肌や目元が現金に次々緩み出して、本当馬鹿みたいだ。調子に乗り出す僕とは対照的に、一気に零へ傾いた距離に慌てて結ばれた唇や狼狽え出す視線が愛しい。ここまで食べ頃な据え膳をみすみす見逃すなんて無理だ。散々けしかけておいて無自覚だったとは言わせない。

「荷造りは明日僕も手伝う。帰ったらそれ以外をしよう」
せめて腹拵えはさせてな」
「勿論。朝まで倒れないようにしっかり食べたまえ」

 本当ならキスの一つも降らせてやりたいところだが、眼差しだけで勘弁してあげる。冗談と本心のどちらに取られても構わない誘いに、影片はとうとう頬まで染めてこちらを睨む。その顔も今日で見納め、次会う君は一体どんな真新しさを見せてくれるのだろう。いつまでも尽きない楽しみを思いつつ、僕もやっと少し笑った。