白雨
2024-12-08 23:49:59
10442文字
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極夜とシュテルン

信仰心ゼロの神父×お人好しシトリー(悪魔/魔神)パロの明主。
趣味全開でかっ飛ばしています。我に返ったので途中で終わります。


 きっとあの姿を生涯忘れる事はない。

 青い閃光の中でローブを翻す彼の姿は、自らの目に焼き付いている。

 認めたくはない。そんな自分を許せない。けれどあの瞬間、彼はあの悪魔に心を奪われてしまったのだろう。

 そして心を奪われた理由が「あの悪魔が美しかったから」などという至ってシンプルかつ馬鹿げた感情からのものでなければ。そうすれば今よりきっと、ずっと楽だった。同時に全てが色褪せ退屈なままだった。

 ──極夜で輝く星に手を伸ばしてしまったが最後、もう二度と後には戻れない。




 平和な町は一夜にして地獄と化した。

 一体何が目的だったのか。彼の何代も前から、それこそ数ある聖職者たちが何重にも掛けていたはずの結界は呆気なく破られていた。たまたま遠出をしていた彼が戻ってきた頃には、襲撃を掛けた悪魔どもに蹂躙された町は火の海だった。老若男女問わず喰われ嬲られ弄ばれ、生き残りも毒に侵され屍鬼に変わる。間抜けな事に、留守を任せた聖職者たちも揃いも揃って皆同じ状態だった。無能どもがと罵ろうにも相手はすでに死んでいる。それに、不覚を取ったのは彼も同じだった。

 咳き込んだ時、不快な水音が混じった。見ると掌が赤黒い液体で塗れている。舌打ちをして、傷付いた身体を休めるように物陰に身を隠す。周りの部屋からはけたたましい嗤い声と物が壊れる音。這いずり回る何かと悲鳴。折れる。泣き叫ぶ。引き裂かれる。潰される。命乞いと断末魔。さながら退屈な宗教画に描かれる地獄絵図だなと他人事のように思う。

 幼い頃、よく今のようにこの棚の影に隠れて本を読んでいた。教会の片隅にある、ほとんど誰も近寄らない部屋には埃だらけの本が転がっていた。神聖なる教会にはそぐわない類の書物に手を出しては、「彼女」に見つかり嗜められる。その繰り返しだった。しかしその部屋も、今は黒い煙で充満している。見つかって喰われるのが先か煙を吸って死ぬのが先か、最早死に方くらいしか選べまい。こんな時でも皮肉げにそんな事を考えて、それから唇を噛んだ。

 それでも死ぬ訳にはいかない。

 やるべき事があった。何としてでも生き残らねばならなかった。だから諦める訳にはいかなかった。

 しかしそう強く思ったとして、非力な人間の身に何が出来ようか。神の定めた運命に抗うだけの力が、人の身にあるとでも?

 神の僕たる彼の周りの人間ならば、喜んでその運命に身を差し出すだろう。しかし生憎、彼は一欠片の信仰心も持ち合わせていなかった。結局遠い昔の約束に従い、生きるためにこの場所に身を寄せているだけ。

 一度たりとも見た事もない王や彼方の異国のように、天上にあそばされる神とやらはいるだろう。けれど神が何をしてくれるというのか。万物を創り、気紛れに祝福を授け、気紛れに罰を与え──そんな創造主に、何を祈り、崇めれば良いというのか。慎ましく淑やかに日々を営み、神に祈り続けた者ですら、神は一切の守護を与えず見殺しにした。自分が唯一大切にしていたものすら呆気なく奪い去る、そのような存在を許容出来るはずもない。

 天命だの運命だのくだらない。他者の思い通りになる自分など許せはしない。

 「──抗ってやるさ、最期まで」

 息も絶え絶えに、しかし吐き捨てるように呟いた時、すぐ近くで炎が弾けた。暴力的な熱に顔を顰め、僅かに身体を炎から遠ざけようとした時、床についた彼の指先にぴりっと刺激が走る。反射的に手を引っ込め、その場所を見やる。煤に汚れる石畳の床の一部分が不自然に綺麗なままだ。もう一度触れれば、再び一瞬だけの刺激。微量でも分かる。魔力反応だ、と頭で意識するよりも先に、他者より魔力に敏感な身体はその場所に手をかけていた。簡単にスライドした石畳の下、その漆黒の穴の中に、躊躇せずに身体を滑り込ませる。

 真っ暗な空間の中で入口を塞ぎ、悪魔どもに検知されぬよう小さな炎を指先に灯す。どうやらその場所は地下室らしい。長年使われていない様子の大量の古びた棚に机と椅子、そして燭台。生活には必要最低限のものしか置かれていないが、魔術に使われる道具と書物の豊富さは凄まじい。どうやらここでは魔術師による魔術の研究が行われていたらしい。

 長年ここで暮らすはずの彼ですら、こんな場所は知らなかった。大体にして神の僕たる敬虔な者たちは、神の授けたる力ではない魔術というものを嫌う。大いなる主と敵対する悪魔や堕天使の類こそが魔術師の祖なのだと、信徒は往々にして口にする。要するに魔術とは異端の力だというのが、教会の主張である。そんな理由もあり、敬虔な信徒の多いこの地方では魔術師は迫害される存在だ。もっともその「信徒」たちのほとんどは、神力と魔力の判別が出来ない一般人でしかないのだが。

 そんな教会でわざわざ魔術で隠された部屋だ、他にも何かある。そう直感した時、階上で轟音がした。先程まで身を隠していた部屋に悪魔どもが侵入したのだろう。それなりの強度の魔術で封じたはずの扉は、どうやら時間稼ぎにしかならなかったらしい。咄嗟に近くにあった扉へ踏み出そうとして、走る激痛に身体がふらついた。弾みで炎が消える。潰されかけた右脚とどこかの内臓が悲鳴をあげている気がしたが、知った事ではない。額から流れ落ちてくる血を乱暴に拭い、彼は手探りで扉の中に飛び込んだ。折れそうな膝で身体を支えて息を荒げ、歯を食い縛りながら、それでも顔を上げる。

 その部屋はまるで先程まで誰かが存在していたかのようだった。異国の香、恐らく麝香の香りが充満している。部屋中に配置されたメノラーは煌々と灯り、空中でゆらめく燭台の蝋燭の炎が揺れている。そしてメノラーと蝋燭に照らされた部屋の中央には、赤い塗料で描かれた巨大なペンタクルが鎮座していた。

 「ソロモン、の──」

 そのペンタクルを目にした彼が呆然と呟き、それから嗤い出しそうになる。悪魔召喚のための儀式に必要なものがこんな場所にあるなんて。禁じられた太古の秘術が、清廉な教会の地下に存在していたなどとはまさか誰も思うまい!

 誰が何のために、こんなものを。しかし彼にはそんな事はもうどうでもよかった。最期の力を振り絞り、忍ばせていたアサメイで手首を切る。指先へと伝った鮮血が地面に滴った途端、空気が急激に冷えていく。ペンタクルを形作る線が、鮮血を吸収するように光り出す。それを確認してから、彼は六芒星の描かれた魔法円の中心に立った。ペンタクルと向かい合うようにして前を向いた途端、噎せ返るような麝香の香りを含む風が肩にかかる髪を靡かせた。それでも強固な決意を宿す瞳は揺らがない。

 「禁術でも構わない。こんなところで死ぬ訳にはいかない」

 メノラーと蝋燭。両者の赤い炎が変化していく。揺らめく炎は青く輝き出す。

 「目的を果たすまで、止まる訳にはいかない」

 青い閃光がペンタクルを走り出す。

 「どこの誰でもいい。魂くらい、悪魔にだって売ってやる! 俺に応えろ!」

 護身用の魔力を込めたアサメイを、切先に血のついたまま放り投げる。ペンタクルの中心へと落ちていくそれを飲み込むように、青い光が炸裂した。強烈な魔力の波動が空気中のマナに共鳴していく衝撃に、腕で顔を庇うようにして耐える。魔術の素養がない人間ではまず耐えられない、そして並の魔術師や聖職者ですら意識を失いそうな魔力の波は、海嘯の如く精神を揺さぶる。そうして訪れた静寂の後、鼈甲のように低く艶めく声が部屋に響いた。

 「聖職者の癖に随分酔狂な奴だな」

 ばっと顔を上げた彼の視界に映り込んだのは、未だ青い閃光が残火のように弾けるペンタクルの中心に立つ男だった。すっぽりとフードを被り、黒いローブを着た男。人間のようにしか見えないその男を言葉もなく見つめている彼に、男は小さく笑ったようだった。

 「シジルも正式な触媒もなしで魔神の召喚なんて自殺行為だぞ。俺みたいな物好きが応じなければ、今頃お前は肉片ひとつ残さず消し飛ばされてる」

 そんな事は分かっている。乾いた唇を舐め、慎重に口を開いた。

 「でも、君は応じた」
 「まあ召喚の術式は完璧だったし、血が凄く美味しかったからな。魔力が異様に身体に馴染むというか。あれお前の血?」

 随分と親しげで威厳も緊張感の欠片もない口調と声色だが、相変わらずフードのせいで顔は全く分からない。表情も姿も不明なままの男に僅かな戸惑いを抱きながらも、彼は頷く。

 「ふーん……?」

 何事か考え込むような素振りを見せた男から目を逸らさずにいると、再び階上で轟音がした。ぱらぱらと落ちてくる砂が、この地下室も恐らくはもう長くもたない事を示唆していた。

 「訳ありみたいだな。ま、見た瞬間から分かってたけど。せっかく可愛い顔してるのに血塗れじゃ台無しだ」

 男が纏う空気が変わる。ぞわりと肌が粟立つのは、本能が目の前の何かへの警鐘を鳴らしているからか。飄々とした態度が消え去った今、目の前に存在するのはよく通る声で淡々と、しかし確かな威厳に満ちて言葉を紡ぐ悪魔だ。

 「お前は俺が悪魔だと、それも名のある魔神だと分かっていて喚び出したのか? リスクは承知済みか?」

 失敗ではなかった。名前は分からないが、頭上で虐殺を働く下級の悪魔どもとは比べ物にならない上級の悪魔である事は間違いない。それも恐らく、彼の有名な古代の王が使役した魔神たちの一柱。地に貶められた異国の神や天使たちの成れの果て。そんな存在を正式な手順なしで召喚出来るこの空間に一抹の疑問は過るが、今はそれどころではない。食い入るように男を見つめ、掌をぎゅっと握る。

 「っ、分かってる」
 「代償についても?」
 「覚悟の上だ」
 「名前も姿も分からない悪魔でも?」

 試されていると直感した。だから即答した。

 「構わない」

 石畳を抉るような音が彼方で響く。けれどそんな音よりも、すぐそばの吐息のみの笑い声の方がずっと大きく聞こえた。

 ローブの隙間から伸ばされた手で指差される。衣服に包まれていない素肌は透けるように白い。塗られた爪紅だけが紅く輝いて見えた。軽い呪いでも掛けられたのか、一瞬視界が揺らいだが持ち堪える。そんな彼に機嫌を良くしたのだろう、男の声が楽しげに弾んだ。

 「じゃあ契約だ。お前は俺に何を望む?」
 「現状の打破。延いては或る男への復讐」
 「代償は?」
 「全部終わったら僕の魔力でも身体でも魂でも、いくらでもくれてやる。好きなように使え」

 死んでも死後の世界へと迎えられず、魂だけが悪魔によって永遠に弄ばれる。この地に住む知性ある全ての生物にとって、それは最悪の結末に他ならない。約束された休息である死すら許されず止め処無い苦痛に苛まれ続ける、遠い国の宗教用語を借りるならば無間地獄。悪魔にとっては、無窮の中で唯一許された退屈凌ぎ。今生が終われば悪魔に利しかないような条件も、彼にとっては取るに足らない事だった。

 全てはとある男の罪の精算を果たすため。それが叶うならば、何もかもが安いものだ。毅然と言い放つ彼に、男は歌うように言う。

 「いいだろう。契約成立だ」

 青い炎が再びペンタクルで燃え上がり、同時に彼の左手の甲にナイフで突き刺したような痛みが走る。見ると、青く発光するシジルが手の甲に焼き付いていた。一瞬で消えたそれから目を離し、ローブとフードに手をかける悪魔を見つめる。いや、正しくは目を奪われていた。

 磨き上げられたアンティークの銀細工。艶やかな黒薔薇。しなやかな黒豹。きっとどの比喩表現も、彼を喩えるには不十分だ。

 床へと落ちたローブの下から、男性的だがすらりとした体躯が現れる。身体のラインがはっきりと分かる、袖のないハイネックの黒いインナーのみの上半身と、ぴったりとした黒いズボンと、ヒールの高いブーツ。肌を露出するのはご法度と言われる時世には刺激的な格好だが、悪魔にはそんなものは関係ないのだろう。決して女性的な風貌ではないはずなのに、さながら蝶を惹きつける花のように、見る者の心を惑わし引き寄せる妖艶な色香を纏っている。

 しかしここに来て彼の心を乱したのは、灰色に強く光る猫のように大きな瞳だった。挑発的ににやりと笑う顔に、視線に、射抜かれたのは何処だったのか。

 男はとても美しかった。

 黒い癖毛の優男だった。外見だけならば恐らくは同年代。成人したかしていないかくらいの年齢の青年だろう。蠱惑的な格好をしている割に、どこか幼さの残る端麗な顔立ちはアンバランスだが劣情を唆る。人間の心を掻き乱し愉しむその様は、正しく魔性であり悪魔だった。恭しく頭を下げ一礼をする、そんな劇役者のように芝居がかった動作ですら、婀娜めくも美しい。

 けれど見てくれは美しくとも、その男は人間に非ず。人間とは異なる麗姿で誘惑し、惹き寄せ、堕とした後は骨の髄まで、魂の破片ひとつすら残さず食い尽くす。それが悪魔だ。人ならざるそれの頭にはネコ科の獣が持つような獣耳、背にはローブのどこに収まっていたのか不思議な程立派な猛禽類の翼。どちらも男の髪と同じく、夜夜中の帳の色をしている。

 「我は地に堕とされた神であり、唯一神への反逆の牙を研ぐ者。偉大なる地獄の君主。名を、シトリー」

 ようやく相手の正体が分かった事への安堵など、彼の名を聞いた途端に消えていく。一瞬思考回路が停止し、覚えている限りの情報について記憶領域から引っ張り出す。それから改めて愕然とした。

 ──シトリーだと?

 背後の部屋で何かが崩れた音がする。直後、扉をけたたましく叩く音。魔術で封じられた扉を乱暴に開こうとする有象無象などまるで気にもかけていないというように、美しい悪魔は長い脚でこちらに近付いてくる。自身を召喚したペンタクルの縁を乗り越え、魔性から召喚者を守護するはずの魔法円さえ乗り越え、彼の目の前で悪魔は止まる。至近距離の男はこんな状況だと言うのに目を細めた。

 「すぐ片付けるからな」

 余りにも自然に頬を撫でていくその手を拒絶出来なかった。一気に全身が脱力していくのは恐らく魔術によるものだ。傾く身体は当然のように受け止められ、そのままその場に座らせられる。何のつもりだと、力加減も忘れてその腕を掴んだ。

 「おい、待て!」

 続きは言えなかった。彼の唇に自らの人差し指を当て、その男は反論を封じる。悪魔とは思えない程柔らかく微笑み、幼子にするように優しく頭を撫でていく。視界の端で魔法円が光り輝くのが見えた。守護の魔術をかけ直したのだろうか。

 「少し休んでろ。この術式はお前を守るためだけに編まれたものみたいだ。安心していい」

 抵抗する間もなく意識が遠ざかっていく。急激に閉じていく意識の淵で最後に彼が見たのは、美しい男の姿が翼の生えた漆黒の豹へと変貌していくところだった。




 小さな歌声が聞こえる。

 奔放なようで温かな声だ。ゆっくりと頭を撫でているのは、きっとこの声の主だろう。遠い昔、唯一大切にしていたひとがしてくれたように、髪を掻き分けるようにして動く指先が心地良かった。腹の上に置かれた手にも指が絡んでいる。手袋無しの素手が他人に触れられるのはいつ以来だろう。信仰における祈りのようでもあり、睦み合う恋人たちのような手の繋ぎ方でもある、そんな形。触れ合う部分から、温かく優しい体温が浸透していく気がした。

 それはまるで、無償の愛を注がれているかのような。

 そんなものはこの世界に残ってなどいないと知っているのに。

 引っ張り上げられる意識のまま彼はぼんやりと瞼を押し上げる。寝転がったまま見上げる先にいた男は遠くを見つめていたが、すぐに視線に気付いたようで、彼を見て静かに微笑んだ。月光を含んだ黒い髪と姿態は艶やかに、整った顔が浮かべる微笑みは淑やかに。月明かりに照らされたその姿に一瞬見惚れる。ぴこんと動く獣の耳ですら、神々しい何かに見える。

 「おはよう」

 綺麗だなと素直に思った。正確には「きれ……」まで考えた寝惚けた思考を理性が急停止させた。直後、それを塗り潰すような違和感。やけに近くないかと。というか、見上げてる事自体おかしくないかと。優秀なはずの頭脳がそれに対する解答を導き出すまで約三秒。飛び起きるなり距離を取ると頭と身体が酷く痛んだが二の次だ。

 「待っ、──は……!?」
 「すごい反応だな。元気一杯で何よりだ」

 全力で逃げたかったが身体がついて来なかったため、尻餅をついた状態である。ぜいぜいと息を荒げながら睨みつける彼を面白そうに眺め、その男は悠々と脚を崩している。ついでに気を失う彼の身体に掛けていたらしいローブも、回収して羽織っている。どうやら膝枕されていたらしいという受け入れ難い事実を前に動揺していると、木に寄りかかって座ったまま男は首を傾げた。そういえば背中の翼は仕舞っているらしく見当たらない。

 「別に取って食おうとはしない。というか、殺すならお前が気を失ってる時に殺してた」

 そうして言葉を挟む間も無く、にやっと笑って。

 「狼藉を働いた悪魔は始末。残党もなし。気絶するお前を炎の中から引っ張り出して助けた。火事を鎮火させて生き残りも探したし、今いるこの場所はお前のために張った結界の中。傷の手当てまでしてやった。そんな俺に何か言う事は?」

 素早く目を走らせると、どうやらここは教会から少し離れた丘のようだった。少し離れた丘の麓から煙が上がっている。足元には青い結界。自分の身体の傷は完治している訳ではないが、確かに出血が止まっている。辺りは静かなものだ。恐らく男の発言は本当だろうと踏んで、渋々彼は口を開く。

 「礼を言う」
 「そんな偉そうな態度でよく聖職者やってこれたな」

 呆れた様子の悪魔は黙殺する。悪魔如きに説教されたくはない。大体本性など他者には見せないし、普段は物腰柔らかな振りをしている。余計なお世話だと思ったが口には出さない。

 「……教会にいた悪魔は本当に皆殺しにしたのか。逃したりしてないだろうな」

 長い睫毛に縁取られた大きな瞳がぱちりと瞬く。きょとんとしていた瞳は、次の瞬間探るような瞳に変わる。

 「最初に訊くのがそれなのか?」
 「何?」
 「もっと大切な事があるんじゃないのか。俺はしっかり『生き残りを探した』と口にしたはずだ」

 そこでようやく男の言わんとする事が分かった。せせら笑って、鏡のような瞳を見つめ返す。

 予感はしていたが、この男。

 「つまり君は、僕に生き残りの有無を訊かせたいのか? 悪魔の癖に?」
 「ああ、そうだ。人間も悪魔も、同胞を想う心に違いはないはずだ」

 今度こそはっきりと彼は歪んだ自嘲の笑みを浮かべる。どうやら悪魔ですら持つ心とやらを、人間であるはずの自分は持っていないらしい。

 「同胞とやらを始末した悪魔が、どの口で偉そうに」
 「その指摘はごもっともだな。そして俺もちょっと意地悪だった。俺が彼らを始末した理由とお前が生き残りを探さなかった理由は、多分同じだから」

 淡々とそう口にする男の表情が僅かに翳る。それは男の目の前にいる自分も同じはずだった。

 信仰心など一欠片もないとはいえ、彼は一応は聖職者の身だった。蹂躙される人々を助けようとはしたのだ。それは正義感や善性によるものではなく、ただの義務感によって。だが失敗した。あれはもうどうしようもなかった。生き残りすらも屍鬼もしくは悪魔に変えられていくのならば、情を捨てて葬り去るのが最も誠意のある対処だった。

 そしてこの男の口ぶりからすると、どうやらそれは町を襲った悪魔も同じらしい。

 「同胞の悪魔を殺す理由があったと?」
 「そうだな。あれは……手遅れだったから。あそこまで見境なく人間を虐殺する悪魔は、流石に殺さないと止められない。話が通じる相手じゃない。今ここにいる人間と悪魔は、お前と俺だけだよ」

 つまりお互い「他に選択肢がなかった」。重苦しい沈黙の中、男が気を取り直すように言う。

 「お前だけでも助けられてよかったよ」

 何処か悲しそうに微笑む目の前の悪魔は──男は、どうやら相当なお人好しらしい。悪魔の癖にと心の中で吐き捨て、こちらも気を取り直し問いかけた。

 「君はシトリーなの? 本当に?」

 正直なところこちらについては否定して欲しかったが、男は誇らしげににやりと笑い胸を張っている。

 「本物のシトリーだよ。欲望と性愛に関してはお手のものだ」

 シトリー。それは人間の劣情を掻き立て、欲情させる事に特化したタチの悪い魔神だ。その癖魔神の中でも相当上位の力を持つのが尚更タチが悪い。やけに蠱惑的な姿をしているのはそのせいかと舌打ちをする。同胞とやらの説教を垂れた時の何倍も不快感を覚えたのは、その悪魔の在り方が生理的な嫌悪感を煽ったからだ。無尽蔵の魔力を持ちながら、ほとんど淫魔に近い性質の「それ」はわざとらしく彼に身体を寄せてくる。

 「お前が望むならいくらでも相手してやるよ」
 「そんなものは求めてない。契約した内容だけこなしてくれればそれでいい」

 伸ばされた手をぱしんと振り払うと残念そうな顔をされた。素直なのかなんなのか、拒絶すれば渋々引き下がってはくれるらしい。

 「復讐だっけ? 可愛い顔した聖職者から出る言葉とは思えないけど、具体的な相手は?」

 関係ないだろうと突っぱねる──のは、流石に悪手だろう。その力を利用する以上、相手の情報を共有した方が効率良く事が進む。迷った挙句、彼は情報の一部だけを伝える事にした。

 「……シドウって男だよ。あれに復讐する手立てが欲しい」

 ふうんと軽く流すものだと思っていた。それこそ先程までのように、飄々とした態度で「なるほど」と頷くものだと。しかし目の前の男はその名を聞いて一瞬目を見開いた。猫のような大きな目に浮かんだ感情の名は掴めない。負の感情である事は確かだった。

 「シドウ? シドウ・マサヨシか?」

 形の良い唇から溢れる仇の名に顔が強張った。その名を聞くだけで昏い怒りと憎しみで腑が煮え繰り返る。何故その名を知っている。何故そんな顔をする。問い詰めたい事はいくらでもあった。その全てを飲み込み、「そうだよ」とだけ答える。彼をじっと見つめていた魔神は、少しの間を空けてから笑った。今までの余裕めいたものとは違う。ほんの僅かに浮かぶそれの名は、今度は彼にもはっきりと掴めた。

 「ああ、なるほど。なんで縁もゆかりも無さそうな俺を召喚出来たのか謎だったけど、そういう事か。……復讐って程じゃない。でも、俺にはあの男に借りを返さなきゃならない理由があるんだよ」
 「借り?」
 「そう。つまり今完全に利害も目的も一致した」

 男の中で話はまとまったようだ。何も言葉を重ねずとも納得した様子なのは無駄がなくてありがたいが、それにしても急過ぎる。確かなのは、どうやら魔神のはずのこの男も、自分が復讐を望む相手との因縁があるらしいという事だけだ。それならば確かにこの悪魔が選ばれた事に納得出来る。

 けれど何故だろう。自分がこの悪魔と縁を結んだ理由はそれだけではないような気がした。

 「俺の事はジョーカーって呼んでくれ。お前の事はなんて呼べいい?」

 先程までの様子とは打って変わり、悪魔は再びマイペースに尋ねてくる。調子が狂う。人を騙し嬲る、もっと悪魔らしい悪魔が来るものだとばかり思っていた。実際に喚ばれた悪魔は人間よりも友好的とすら言える。「シトリー」ではなく、自らが持つ本当の名前ですら呆気なく開示した。油断させるためなのか、自分の力に自信があるのか、それとも何も考えていない馬鹿なのか。全く掴めない自分を歯痒く思いながら、彼は一言答えた。

 「クロウ」

 目を合わせたままの「ジョーカー」はゆったりと尻尾を揺らしている。口角を上げたそれは、のんびりと首を傾げた。

 「本名じゃないな」
 「悪魔に本名を教えると思う?」

 名前とはそのものが強力な縛りと化す。名を知られる事はそれだけで弱みになる。通常召喚した側もされた側も、名を教え合う事などあり得ない。だから、彼は──「クロウ」は自らの名を伏せた。元より本名など誰にも教えた事はないので、自ら開示しない限りはこの悪魔に知られる事はない。気を悪くした様子もなく「教えないだろうな」と頷いた。

 「契約の代償はその内考えるよ。とりあえずお前の生き様を見せてくれ。面白そうだ」
 「人の生き方を『面白い』で片付けるなよ。消費されているみたいで不快だから」

 つくづく気に障る男だ。ふんと鼻を鳴らすクロウを楽しそうに眺めていた男は、芝居がかった仕草で恭しく胸に手を当てた。

 「我が名はシトリー。偉大なる地獄の君主。この世全ての官能と共に堕落を始めよう。欲望のままに──淫蕩に、逸楽に耽ろうか。クロウ」

 それはまるで歌うように。教会で燦然と輝く宗教画のように。この世のものとは思えぬ程美しい星月夜を背景に、一際輝く星は朗々とそう口にした。声も出せずそれに魅入られかけたクロウは、次の瞬間ぱちんと泡が弾けるように我に返った。

 「なんて、堅苦しいのはなしにしよう。ご指名ありがとうございまーす♡」

 この悪魔が馬鹿で助かったと、心の底からそう思った。