シノハラ
2024-12-07 15:38:55
2720文字
Public アルカヴェ♀
 

完済ハイの先輩に一生に一度の不意打ちを食らう後輩のアルカヴェ♀


 アルハイゼン、結婚しよう。
 青天の霹靂とはこのことである。加えて白昼堂々行われたその申し出が見事にアルハイゼンの思考の歯車の間に挟まったらしく、ほとんど動かなくなってしまった。
 往来に面した酒場の出入り口は常にざわめきが起きていたというのに、しんと水を打ったように静まり返ってしまったのを彼女だけが気にしていない。一目で常在らざると気づける爛々とした眼差しがアルハイゼンを見上げて、まあこれはさっき偶然見つけた既製品なんだけどなんて手の内にある指輪についてカーヴェがコメントする。
 きっかけは彼女の借金なのは間違いなかった。彼女が家を失う原因にもなった借金の返済が、どうやらようやく終わったらしい。サングマハベイの手腕によるところも大きいだろうが、予定よりも一年は前倒しで完了した事を証明するためにも書類の手続きが必要なのだとか。
 それを済ませば晴れて自由の身なのだとカーヴェはにこにこと笑って、みんなとお祝いをするのは別の日で調整するとしてとりあえず二人で飲もうと提案されたのだ。二つ返事で了解すると、カーヴェの用事が済むタイミングに合わせられるように早退の申請も出した。アルハイゼンからしても彼女の借金云々の話は重大事であったのだ。
 当日の朝アルハイゼンを送り出す彼女の浮かれっぷりは相当のもので、借金が如何に彼女の精神の負担になっていたのかを忍ばせた。まあ、経験のないアルハイゼンからすれば心理的負荷はどうしても推測の域を出ないものではあるのだけれど。
 いつもより気持ち豪華な弁当を持たされて家を出て、そう長くもない通勤経路を歩くアルハイゼンは彼女との結婚の事を考えていた。元々彼女がそういう関係を構築することに抵抗があるのはもちろんだったが、借金がその傾向に拍車をかけていたとアルハイゼンは思っている。
 額の大小はともかく、計画的に作った訳でもない借金を抱える人間が誰かと籍を入れる資格はない。まだ自分達がただのルームメイトだったときに過去の学友の結婚式に参列したカーヴェがくたくたになって帰ってきて、そんなことを言っていたのを思い出す。みんな大人になっていて偉いな、と呟いたのはおそらく借金とは全く違う理由の後ろめたさによるものだったのだろう。
 その後者がカーヴェの中から綺麗さっぱりなくなる日はないはずだが、長い時間をかけて少しずつ角が取れてきた感触はアルハイゼンも感じていた。そんな最中に自分達の関係を変えようとするのであれば、このタイミングが適切だろうとも。
 とはいえ、ストレートに申し込みをするのではなく、段階を踏んで少しずつ慣らしてやった方が彼女のためだとアルハイゼンは思っていたのに。たとえば、カーヴェの実母と義父の下に二人で挨拶に行って交際関係を認めてもらうとか、これから十年、二十年先の話をしてその時に自分達がどうなっていてほしいのかを考えるとか。
 とにかくそういう。彼女が突然の環境の変化にびっくりしないように、ゆっくり足先から掛け湯をして暖めるような進め方をアルハイゼンは選ぼうとしていた訳である。
 その矢先のカーヴェの発言がこれだった。不意打ちをかまされただけでこれだけ動揺して鼓動も大変な事になっている野だから、やはりアルハイゼンの考えは正しかったのだと思う。
「婚約指輪にしては安物なんだけど、君に似合うだろうからプレゼントとでも思ってくれればいい」
 姿を見せたカーヴェは約束の時間に少々遅れてしまっていたが、当初のアルハイゼンは気にしてもいなかった。借金を完済した程度でサングマハベイがカーヴェを手放すとは思えないので、早速とばかりに仕事を振られて帰るタイミングを逃しているのだろうと思っていたのだ。
「結婚指輪は僕がデザインしたいんだが構わないか? もちろん君の意見も取り入れたいと思ってる。二人でいつまでも身につけていられるものを作ろう」
 そろそろ先に入って席を確保しておこうと思った矢先に、カーヴェはアルハイゼンの前に現れた。遅刻をしている自覚があったのか小走りで駆け寄ってきたせいで、首の後ろで押さえている髪が少々乱れてふわふわとしていたのを覚えている。
 健康的に紅潮した頬に相応しい生き生きとした眼差しがアルハイゼンを見て、手に握り締めていた小箱を開けた瞬間にカーヴェはアルハイゼンに結婚の申し込みをしてきた。驚天動地の展開にアルハイゼンが硬直しているのも気がつかないまま、カーヴェは今も好き勝手に先々の話を続けている。
「式はした方がいいのかなとは思うんだけど、君が嫌ならちょっとしたお祝いみたいな感じにしたら良いんじゃないか? そういうのでもきっと楽しいと思う」
 実際の額を聞いたことは一度もなかったが、彼女が抱えていた借金の総額が一般人には一生をかけても返済できない代物であったことは想像に難くない。冗談でも薄給とは言えないアルハイゼンであったとしても、生涯をかけて何とか返済できるかどうかくらいだったのだろう。
 それを完済した達成感と開放感はいかばかりか。ちょっとした万能感が込み上げてもおかしくないのは間違いない。
 というより、そういう状況に陥っているのが目の前の彼女なのだろう。ちょっと良くない薬効が効いてしまっていると言われても、アルハイゼンは不思議には思わなかったに違いない。
 何せ、彼女はアルハイゼンがまだ一つも反応も答えも返していないのに、恋人からの答えを少しも疑っていないのだ。それどころかまるで答えをもらった後であるかのように先々の話を勝手に展開している。
 どこからどう見ても尋常ではないが、尋常でなく愛おしい。アルハイゼンのカーヴェへの愛情を他でもない彼女が少しも疑っていない事実が、堪らなく嬉しく思えてならなかった。
 翌朝を迎えて正気になった途端に後悔した彼女がベッドの上で芋虫になってしまわないようにも、その認識が正しいのだと一晩かけて肯定してやりたいと思う。足の小指の先まで甘やかされた彼女の砂糖菓子のような微笑みをアルハイゼンに与えてほしかった。
……俺も君となら式を挙げたい」
「本当か? ええと、実は僕も一回くらい結婚衣装は着ておきたくて……君の奴も見たいし、せっかくだし写真も撮ろうな」
 指輪を箱ごと受け取りながら告げると、やっぱりそういう憧れがあるのだとふにゃりと笑いながら箱から指輪を取り出してアルハイゼンの指に収めてくれる。彼女の指先が自分の指の股辺りに微かに触れるのを感じてしまうと、この後酒場で酒なんかを楽しんでいる場合ではないのではなかろうかとただそれだけが悩ましく思えて仕方がなかった。