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史加
2024-12-06 23:27:46
9743文字
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原神(鍾タル)
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破っていいのは初請いだけ
鍾タル/冥婚を目論むも失敗する鍾離の話
「百年待ってもらえるかい」
一世一代の告白に対する返答は、義理も人情もないひどいものだった。
そう、鍾離は記憶している。
六千年の歳月を魔神として生きた鍾離にとって、百年とは瞬きのように過ぎ去ってゆくものだ。しかしこの百年は今までと異なり、千年とも、または二千年とも感じられるような、長い、長い時間だった。
機が熟すのを待つのは別に不得意ではない。契約の神として国を築いた男は、ひとつの法が成立し、民の間に定着し、効力が目に見えてあらわれるまでに時間を要する光景を幾度となく見守ってきた。手塩にかけてひとつの国を育てきったのだから、時間をかけて丁寧に事を成し、成果が挙がるのを待つのはすっかり慣れている。
そんな男が十倍にも二十倍にも長く感じた百年の終わりは、妙に清々しいものだった。
初冬を迎えて空気の冷え始めた街の中を、軽い足取りで歩いていき、何年も前から調べをつけていた文具屋で封筒をひとつ買う。便箋も、墨も不要だ。封筒さえあればいい。
ずいぶん足りないように思える買い物を済ませたあとは家へ戻り、百年前に友人に頼んで用意してもらった一枚の写真と、赤朽葉色の毛髪を包んだ懐紙を文机の引き出しから取り出した。写真は少し色褪せていたが、そこに映る人物の笑顔は鍾離の記憶にあるものと違わず、あどけなくてまぶしい。懐紙の中の毛髪は少し手を加えておいたので色素が抜けることもなく、指先で触れるとやわらかな質感を保っていた。
購入した封筒の中に丁寧にそれらを入れる。蝋でしっかりと封をする間も心臓はとくとくと期待に脈を打っていた。もうすぐ、もうすぐこの百年が報われるのだ。そう思うと甘酸っぱくも歯がゆく、苦い想いが鍾離の胸を焦がす。
ある契約を結ぶための媒体は、一時間とかけずに完成した。と言ってもこの契約に強制力はない。伝統と作法を重んじる鍾離らしからぬ、非常に粗雑で簡略化した手順を踏んで、ままごとにも似た一方的な繋がりを得ようとしているだけだ。それも、生者の心を慰めるために。
本当は血縁のある者、あるいは友人に手伝ってもらえば、この契りは多少なり本来のやり方に沿うものとなる。しかしもう血縁者をたどることは出来ず、頼れる友人はこの世界を去った後だ。旧くより付き合いのある仙に頼めば間違いなく正気を疑われ、制される行為だとも理解している。叶えるには、すべて自らの力で成さなければならない。
封筒を見つめて、鍾離はまなじりを緩める。
決行は、今夜だ。
澄み切った夜が訪れた。
雲ひとつない黒檀の空に星が冴え冴えと輝いている。頬に触れる風は昼間のものよりも冷たい。
夜が更けても眠ることを知らぬ我が子は今日も絢爛で、あたたかな橙の灯りに彩られていた。正しさに重きを置いて育てた国は立派に成長し、己の手を離れて百年の時が経っても不朽の城として存在し続けている。その強かさと美しさから目を逸らすように鍾離は踵を返し、人はおろか野生動物すら姿を見せぬ天衡山を登り始めた。
標高が高くなるにつれて、ますます風は冷たくかわいていく。頬がひりひりと痛み出すのに、いつだったか冬国の寒さを語ってくれた声を思い出す。
かの国で吹きすさぶ雪風は身体の熱をたちまちのうちに奪い、容赦なく頬を刺し、睫毛さえも凍らせるほどのものだと言っていたか。特に真冬は寒さもだが、空気の乾燥により皮膚が荒れたり、喉や鼻の粘膜を痛めやすくなるのが悩ましいという。その割に、彼の頬はきめが細かく、陶器のようになめらかで美しかった。武の道を往く者らしく、手には傷跡と胼胝がいくつも出来ていたが、乾いて割れた皮膚や逆剥けの類はひとつもなかったことを覚えている。
雄弁にものを語る唇のつややかさも、隙間から見える歯の白さも、紺碧のひとみを飾る睫毛の長さも、鍾離はつぶさに思い出せる。思い出せるくらいには、彼をかたちづくるもののすべてに心を惹かれていた。
別に永遠が欲しかった訳ではないのだ。
ただ、もう少し、あと少しと、刹那にも等しい逢瀬の時間を引き延ばすあの惜しさを、ふたりで大切にしてみたかっただけで。
「言われた通り、俺は百年待ったぞ。だがお前は約束を
……
契約を果たしにはこなかった。ならば
……
」
天衡山の頂に辿り着いた鍾離は、その身を龍へと変える。鋭い鉤爪の間に器用に封筒を挟み、夜空へと飛び上がる。
無妄の丘か、霊矩関あたりなら早朝にひとが通ることはないだろう。それにこの地に暮らす民ならば、わざわざ不吉の象徴を拾い上げるような真似もしない。
人の身で璃月港より向かいやすい距離を考えて、龍はその身を夜闇に隠しながら霊矩関へと駆けた。古き時代の遺跡や、調査のため派遣されていた異国の使者の野営の跡がそこかしこに残る地にぽとりと封筒を落として、天衡山へと引き返していく。頂に降りて人の姿へ戻ると、逸る鼓動に背を押されながら山を降り、封筒を落とした場所へ向かって歩いていった。
最低限整備された道を進むうちに、空が白んでいく。
璃月の険しい山の端が輪郭を帯びて、冬の始まりを迎えてもなお色鮮やかなままの景色が徐々に浮かび上がっていく。濃紺の空を塗り潰した黎明の光が、鍾離の横顔を照らす。
念には念を入れて、封筒は舗装された道から少し外れた茂みの中に落とした。訪れた朝に背を向け、鍾離は道を外れて、真新しい記憶を頼りに封筒を探す。この辺りの自然にはない色をしているから、きっとすぐに見つかるだろう。
まだ太陽の熱の伝わっていない、冷たい空気に撫でられ続けた頬が痛かった。鼻先も、耳もかじかんで、封筒と揃いの色になっている。けれどもうすぐ、もうすぐこの百年が報われるのだ。そう思うと腹の底から込み上げる歓喜と背徳が、鍾離の身体を熱くさせた。
霜の降りた草地を歩く。背の高い草や低木についた露が衣服の裾を濡らすのも気にせずに封筒を探す。白と緑と茶色ばかりの世界に、あの鮮やかな色彩を探す。
やがて、黄金のひとみに紅が映り込んだ。生娘のように鍾離は嬉々と微笑み、屈もうとして
――
ふっと、封筒の上に影が落ちる。
「!」
白くなめらかな手が、鍾離の目の前でさっと封筒を拾い上げた。
瞬間、頭を金槌で殴られたような衝撃が走る。
まずい。
その封筒は忌み物。不吉の証。生者と死者の間に契約を結ぶための媒介。契約の対象となるのは最初にそれを拾った者だから、鍾離以外の誰の手にも渡ってはいけない。口を持たぬ死者の許可を得ずとも、生者の憐れみというエゴで以て成すことの出来るものだから、大人しく百年の間待ち続けたというのに。
すべてが徒労に終わり、目の前が真っ暗になる。
鍾離の目論見は完璧だったはずだ。冬を迎えたばかりの、まだ身体が寒さになれておらず外出を控える者が増えるこの時期、それもいっとう冷え込む深夜を選び、誰の目にも触れることのないよう慎重に事を進めた。唯一気付くことの出来るであろう友も次なる星へと旅立って、誰も鍾離の浅ましい計画を妨げられるはずがなかった。だのにここで失敗するとはどういうことなのだろうか。
……
否、本当は分かっている。これは許されてならぬ行為だ。
不公平な契約を一方的に、己の心を慰めるために結ぼうとした。罰が下って突然のことを鍾離は実施しようとした。だから本当は失敗するのが正解なのだ。
鍾離の聡明な頭は、封筒を拾い、愚行を阻止した者へ感謝を伝えなければならないと、そしてゆるしを願った己の愚かさを省みなければならないと、きちんと理解している。理解した上で、ままならない凡人としての心が悲鳴を上げるのを止められずにいる。
あの日と同じ絶望の辛酸が胸の奥に染みて、あまりの痛みに立ち尽くすことしか出来ない。だがこのままではあまりにも不審で、無礼だろう。せめて正しき道を歩くひとの顔だけでも確かめなければと、俯いていた顔を上げる。
顔を上げて、絶句する。
「やあ、久しぶりだね鍾離先生。これ、先生の落とし物だろう?」
あろうことかそこには、すでに記憶の中の住人となったはずの青年が、五体満足で立っていた。
「こう、し
……
?」
まさか、本来のやり方に則っていない手順を踏んでしまったせいで、鍾離も知らぬまじないがたまたま発動して、魂でも喚び寄せてしまったのだろうか。
うっかり悪魔を召喚してしまった霊媒師さながらの表情を見せる鍾離に、封筒の拾い主はからりと笑う。
「なんだい、幽霊でも見たような顔をして。それよりずいぶんと面白そうなことをしているじゃないか。わざわざ仙体になってひとけのないところに落とした封筒を自分で拾おうなんて、一体何の儀式だい? 詳しく教えてくれよ」
この世には、穴があったら入りたい、という言葉がある。
その言葉の意味を正しく理解した鍾離は、朝日に照らされた青年の足元より伸びる影の存在を確かめて、たいそう困惑しながらも頷くしかなかった。
ココナッツヒツジの一件をはるかに上回る大爆笑がとどろいた。
腹を抱えて笑い、噎せて咳き込み、ひいひいと呼吸困難に陥りながらも青年、タルタリヤは笑い続けた。顔を真っ赤にし、目には涙まで浮かべて笑い転げる姿を見ては、もう目の前の男が誤って召喚した悪鬼の類ではないかと疑う気にもなれない。璃月港にある自宅ではなく、洞天にある邸宅に連れてきて正解だったと深く息を吐く。
「ひーっ、ははっ、ほ、本当に
……
っくく、面白すぎる
……
ッ」
「
……
いつまで笑うんだ」
「だってさ、鍾離先生ともあろうお方が悪名高いファデュイの執行官に告白をした挙句、振られたものだと思い込んで、言われた通り百年経っても俺が何も返事をしにこなかったから、契約違反の罰として勝手に婚姻を結ぼうとしただなんて、ぶふっ、だ、だめだ、ははっ、まだ笑える
……
ッあはははは!」
まともに話せるようになったかと思いきや、またタルタリヤは床を叩いて笑い出した。これはもうしばらく使い物にならないだろう。そうしたのは鍾離だが、ここまで笑いものにされると一周まわって腹立たしい気分になってくる
大体、元を正せば悪いのはタルタリヤではないだろうか。神の心を手放して凡人となった鍾離の真剣な告白に対し、ただの人間の身であんな返事をして、初恋を踏みにじって。あのときのタルタリヤはどこからどう見ても
――
それこそ魔神の目で魂を視ても、人間だった。そう、百年と生きるはずのない、人間だったのだ。
百年先では確実に死んでいる人間に「百年待て」と返されるなど、振られたものだと理解するのが当然だろう。
なのに、予想に反してタルタリヤは百年経った今も生きていた。どういうわけか、あのときと同じ二十代前半の若き青年の姿を保ったまま、長き時を生きるものになっている。
「
……
お前は、人間ではなかったのか」
笑い声が収まりだした頃合いを見計らって、鍾離はタルタリヤへと尋ねた。床をのたうち回らん勢いで笑い続けていた諸悪の根源はようやく居住まいを正して、鍾離を真っ直ぐ見つめる。
「人間だったよ。だけど今はこの通り、置いていかれる側に仲間入りしている」
「なぜだ」
「そりゃあもちろん、約束を守るためさ」
にっこりと、光を反射しない瑠璃のひとみを細めてタルタリヤは可憐に笑った。
彼の言う約束が何を指すのか、気付けぬほど鍾離は鈍感ではない。どくんと期待に弾んだ心臓が痛くて、思わず唇を引き結ぶ。
「俺は義理も人情もわからないけど、血のつながりすらない誰かから好きだと言われたからには、軽はずみな気持ちでそれに応えてはいけないと思っている」
あどけない笑みが、達観した寂しげな表情へと一変する。
「人間は簡単に心移りしてしまうものだ。何かに夢中になっても飽きる瞬間を迎えることがほとんどで、ずっと熱中し続けていられるものに出会えることのほうが少ない。まして鍾離先生は凡人になったとはいえ、何百年、何千年と生き続けることに変わりないだろう。だから俺も、真剣に考えないといけなかった。もし百年、二百年と時が過ぎて、世界を征服し、家族に置いていかれたとしても、先生には飽きずにいられるのか
……
ってね」
眉を下げ、いっそうひとみの色を深くしたタルタリヤを前に、鍾離は言葉を失った。
だってタルタリヤの言葉は、まるで最初から彼が鍾離を好ましく思っていたと、そう捉えられるものだったからだ。
「確かめないといけないことはいくつもあった。もしもあんたの想いを受け取るなら、俺はどうしたいのか。いっときの気の迷いみたいなものじゃないのか。どんなにあんたの話が面白くても、何十年と聞き続けていたら飽きるんじゃないかとか、色々
……
色々考えて、確かめるためには少なくとも百年必要だと思った」
いつになく落ち着いた声で紡がれる言葉には、タルタリヤという男の、懐に入れた者に対する愛情深さが滲んでいる。
当時の鍾離は、タルタリヤの若さや立場を鑑みて、勢いで頷いてもらえる可能性と、断固として拒否される可能性が半々だろうと考えていた。頷いてもらえたのなら大切にしようと思っていたし、きっぱり拒否されたのならそれまでで、深追いすることなく諦めようとも思っていた。けれど実際に彼から返ってきたのは予想だにしない言葉だったから、こうも引きずって温め続けてしまった。
そう、想定になかったのである。同じ想いをタルタリヤが心のやわいところに隠し持っている可能性なんて。
「
……
なら、お前のあの返答は、正真正銘の、偽りのないものだったというのか」
「ああ、そうだ。俺の言葉が足りなかったばかりに、先生にはとんだ勘違いをさせてしまったけど。あの頃の俺はまだ若かったんだ、許してくれよ。ああいや、今でも先生よりはうんと若いほうか」
真剣に話すのがいたたまれなくなったのか、あるいは別に思うところがあるのか。タルタリヤは揶揄うように言ってから、そういえば、と卓上に置かれた封筒を指した。
「これ、中には何が入ってるの?」
問いに対して回答を拒否するという選択肢は鍾離に与えられていない。そもそもタルタリヤを死んだものと思い込み、破れた初恋の痛みを慰めるために冥婚という方法で彼とのつながりを得ようとして、その一部始終を本人に目撃された挙句阻止されるという醜態を晒した後だ。これ以上知られて恥ずかしいものなんてなかった。
「お前の写真と毛髪だ」
「
……
撮らせた記憶もあげた記憶もないんだけど!?」
ぎょっとしたタルタリヤが素っ頓狂な声を上げる。
「写真は旅人に依頼して撮ってもらった。髪は、お前と手合わせをしてやった時にな」
「前者はともかく、後者にまったく気付かなかったなんて、戦士として名折れだ
……
」
驚愕していたかと思えば、今度はがっくりと肩を落としてと、相変わらず青年の表情の変化は忙しない。
昔からタルタリヤはそうだ。人の子らしくころころと表情を変えて、彼の胸の裡にある瑞々しい感情の数々を鍾離の前で見せてくれる。鍾離が凡人ならざる言動を取ってしまったとしても、神への畏怖を抱きその振る舞いを変えることはしない。なんの飾り気もなく隣に立ってものを語り、同じ目の高さで世界を見て、鍾離とは違う考えを抱く。その純粋さとまぶしさに、百年前からずっと心惹かれてきた。
飽きる、飽きないの話を彼は口にしたが、この百年間、鍾離の胸の中には絶えず恋という名の執着があった。冥婚という、欺瞞と我欲に満ちた方法を取ってでもつながりを得ようとするくらいの、おそるべき情熱だ。もし仮に成功していたとして、それでつながりを得た程度で鍾離が満足したかと問われれば、今となっては頷ける自信がない。きっと成功しても虚しさの詰まった封筒だけが手のひらの上に残ったことだろう。
もう訪れることのない、あったかもしれない未来を想って伏せられたひとみに寂寥が滲む。タルタリヤとの再会は喜ばしいことである一方、鍾離の選択がいかに愚かしく、救いにならないものであったかを浮き彫りにした。
妄執で心の穴を埋めたところで、あたたかな充足は得られない。そんなこと、六千年も生きて数え切れないほどの出会いと別れを繰り返す中で理解し尽くしたはずなのに、タルタリヤという男は鍾離をそこまで狂わせたとも言える。
青年から封筒へと視線を移して、鍾離は黙り込んでしまう。先程まで賑やかだったのが嘘のように、辺りはしんと静まり返った。
「鍾離先生」
重い沈黙を破ったのは、タルタリヤだ。いつもと変わらぬ声音で鍾離を呼んだから、もしかすると彼はこの静けさに質量なんて感じていないのかもしれない。
顔を上げると、目の前の男は卓の上の封筒を攫っていく。
「これ、俺が貰っていくよ。色々とおかしいところだらけだけど、先生から俺へのラブレターみたいなものだし、ずっとこんなものばかり抱えられていても面白くない。
……
明日また会いに来るから、もう一度だけ待っていてくれるかい」
かつて鍾離を想う心をひそかに育んでいたタルタリヤが、此度の愚行に呆れたのかも、失望したのかも、何ひとつ聞ける雰囲気ではなかった。想定外の再会により頭の中はぐちゃぐちゃに乱れてしまったままで、普段のように冷静に情報を処理することも出来ないでいるから、まずは整理する必要がある。あまりにも唐突だったせいで、今の鍾離にはほんの目先の未来について考える余裕すらない。
「
……
ああ」
タルタリヤの言葉に対しても深く考えることが出来ず、頷いてみることしか出来なかった。
また待つのか、という苦い思いと、また会えるという喜びが胸の中で混ざり合う。ただ「明日」なんて、この百年に比べたら瞬きみたいなものだろう。今は一旦己の心を落ち着かせるのが最優先だ。
その後、鍾離はタルタリヤが洞天を出ていくのを見送った。去り際にタルタリヤがどんな顔をしていたのか、正直はっきりとは覚えていない。待ち合わせは封筒を拾った場所でというので、せめて明日は寒くなければいいと思った。
六千年も生きていれば、頭の中の情報を整理し、心をなだらかに保つのはそう難しいことではなくなる。
明くる日を迎えた鍾離は、迷いなく待ち合わせの場所へと向かって歩き出した。
冷静に考えると、少なくとも百年前のタルタリヤには鍾離を憎からず想う心があった。今も、もう一度だけ待っていてほしいと、百年間健気に待ち続けた凡人にゆるしを乞うだけの情を持ち合わせている。ならばきっと、こちらからあれもこれもと聞かずとも、タルタリヤは必要なことをすべて話してくれるだろう。
どうして彼は今も生きているのか。
この百年の間何を想って過ごしていたのか。
そして、百年前は聞かせてくれなかった告白の返事は、決まったのか。
それらをすべて受け止めた上で、鍾離は己の裡に生まれる願いに正直になればいいだけだ。
相変わらずひとけのない道を進んでいく。空はからりと晴れていて、頭上に昇る太陽も燦々と輝いているのに、辺りの空気はかわいていて冷たい。手套を着けていてもなお、指先から熱が奪われてかじかんでいく。
目的地には少し早く着く予定だった。しかし、昨日と同じように舗装された道から外れたところで、草木の茂るその場所にすでに人影があるのに気付く。厚手の外套を纏い、赤い襟巻に顔を埋めるようにして立っているタルタリヤは、さくさくと草を踏む足音を耳にするなり顔を上げて、ひらひらと手を振ってみせた。
「やあ鍾離先生。待ち合わせの時間まであと一時間もあるっていうのに、ずいぶん早いじゃないか」
「そういうお前こそ、早いな」
「散々待たせた相手をこれ以上不必要に待たせてはいけないと思ってね。寒空の下で長話もなんだし、なるべく簡潔に、誤解のないように済ませよう」
平素と変わらぬ声で言うタルタリヤを前に、思わず手のひらを握り締める。冷えていた指先に熱が戻り、じっとりと汗が滲みだした。
なるべく顔には出さないようにと努めるも、それがかえって鍾離の表情を硬くする。常人には気付かれぬ程度の強張りだとしても、目の前の武人には筒抜けだろう。海の深さを知るひとみが少しだけ丸くなったあと、穏やかに緩むのが見えた。
タルタリヤは外套のポケットに手を突っ込んで、何かを取り出すと鍾離へ差し出す。
彼の耳朶や鼻先と同じ色をした封筒だった。
「
……
これは」
記憶に新しいそれは、一見すると昨日彼がさらっていったものと同じようだった。しかしよく見ると朝露が染みたり、土埃のついた痕跡はなく、ここまで一度も落としたりせず大切に扱われてきたものだと分かる。わざわざ新しいものを買って用意したのだろう。
「手紙をもらったんだから、手紙で返すのは当然だろう? それに先生は手紙の書き方をわかっていないよ。こういう封筒っていうのは写真だとか形見の品みたいなものを入れるための袋じゃない。お気に入りのインクで文字を綴った便箋を入れてやらないと」
「あ、ああ
……
」
タルタリヤの言うことはもっともだ。しかし今ここで言う必要のあることなのだろうか。
彼の真意を掴むには手紙を受け取って読むしかないだろう。鍾離は赤い封筒を受け取ると、手套を片方外し、湿った指先で封蝋をはがす。中から現れた二つ折りの白い便箋を引っ張り出し、おそるおそる開いた。
親愛なる鍾離先生へ
この百年間で、俺はいろんなことを経験してきたよ。
さすがに世界は征服出来なかったけど、木の根の隙間に蔓延る強敵を倒して回った。
長居しすぎたせいで気付いたらこのとおり、置いていかれる側の仲間入りを果たしたわけだけど、わざわざ師匠を探して方法を教えてもらう必要がなくなったのは好都合かな。聞いたところできちんと教えてくれるとは限らない相手だからね。
両親も、兄弟も、全員看取った。兄弟たちの子どもや、そのまた子どもたちは今も故郷で生きているようだけど、親戚を名乗ると色々まずいことになるのは言うまでもない。だから今の俺は家族もいなければ帰る場所もない、ただの戦士といったところだ。
もちろん、もう「公子」でもない。その名はすでに、女皇様に返上した。
うーん、手紙を書くのももうずいぶん久しぶりだから、昔みたいに上手く書けないな。インクもすっかり持ち歩く癖がなくなってしまって、新しく買ったくらいなんだ。だから俺の言いたいことが上手く伝わっていなかったらごめん。
なあ、鍾離先生。
人間じゃなくなって、大切な家族に置いていかれて、神に忠誠を誓ってもいないただの戦士にならないと、あんたの想いに応えていいのかあの時の俺にはわからなかった。
百年前にあんたが好きだと言ってくれた俺は、ある意味もうこの世には存在しない。考え方によっては先生の契約は結ばれたとも言えるだろうね。
だけど、俺はこうして百年経って会いに来て、ようやく確信出来たよ。
これだけのことを成し遂げてしまうくらいに、俺は鍾離先生が好きなんだ。
だから今の「俺」を、あんたに好きになってほしい。
過去ばかり見つめて寂しそうにしながら、百年前の俺となんて契約しないでくれ。
そいつじゃあ先生のことを幸せにしてやれないんだからさ!
癖のある字で精一杯に、真っ直ぐに綴られた文字の羅列の、なんと熱烈なことだろうか。
「
……
ああ、そうだったな」
締めくくりの文の後に綴られた、見知らぬ並びの文字を指先でなぞって、鍾離は固く目を閉じる。
「すまない、公子殿。お前と結ぼうとした契約は、なかったことにしてくれ。
……
婚姻という契約は、両者の幸福のためにあるのだから」
――
初恋はたった今、ようやく美しい死を迎えた。
その死に至るまでに知ったおぞましい執着では愛せないものが、きっと次に目を開けたときには笑っている。
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