【カブミス25のお題】24.笑顔/瞳の代わりに

海辺でシーグラスを拾うカブルーとミスルンの話。

 あの人を好きになった理由を探すとき、必ず彼の笑みが頭に浮かぶ。
 彼の笑みは、どういうわけなのかひどく俺を困らせた。あのとき俺に向かって初めて向けられたそれもそうだった、自分でも馬鹿みたいに動揺したのを覚えていて、それは人生で最初で最後の恋に対する予感でもあった。もしかしたらあれが、彼を愛し始めていたのだと気付かされた瞬間だったのかもしれない。
 とにかく、滅多に笑わないあの人の表情に俺は振り回されて、真っ逆さまに恋というものに落ちてしまったのだった。そしてそれは今も続いている。彼の笑顔に、俺は振り回され続けているのだ。
 彼の笑顔は俺を困惑させる。でも、俺はそれを幸福に思ってもいる。あの人が、ミスルンさんが向けてくれる笑顔を、俺は何よりも大切に思っている。もしかしたら世界で一番、あの人の笑顔を大切に思っている。
 
 
 もうすぐ春が来ようというころ、俺たちは海に出かけていた。もちろん名目はあった。俺は一大交易地になったメリニの港湾がどんな様子かの偵察、ミスルンさんは海近くにある大使館に女王への書状を届けること。でもそれらはすぐに終わってしまって、俺たちは自然と人気のない海辺へと流れ着いた。
 その間、俺たちはいろんな話をした。といっても、それらはいつも寝床でするような、毒にも薬にもならないくだらない話だ。俺はライオスさんやマルシル、ヤアドたちの黄金城での些細なやり取りを、ミスルンさんは迷宮に潜ったときに出会ったモンスターをどう倒したかなどを、冷たい海風に吹かれながら語った。とはいえ、ミスルンさんの灰色がかった銀の髪がなびくさまがとても美しかったので、俺は途切れ途切れに喋らなくちゃならなかったけれど。
 俺たちは今までにないくらい満たされていた。港湾で働く人々も、大使館で働く人々も、厳しい冬が終わり、春が来ることを喜んでいた。それらには人種は関係なく、思惑もなく、人々は同じことを語った。それはやっぱり毒にも薬にもならない世間話だったけれど、それは俺をとても喜ばせた。
「冬の海もいいでしょう?」
 夏場は海水浴場になる小さな海岸にたどり着いたとき、俺は履いていたブーツや靴下を脱ぎながらまだ冷たい海に足を浸し、そんなふうにささやいてミスルンさんの様子を伺った。するとミスルンさんは「風で聞こえない!」と大きな声を出し、同じようにブーツを脱いで俺に近づいた。
 本当に聞こえなかったのか、俺に近づく口実がほしかったのかは分からない。でも今隣に彼がいることに、俺は鼓動が速まる気持ちだった。俺たち以外には誰もいない場所で、寝室ですらない場所で、こんなふうに隣に愛しい人がいることを、俺は喜んでいた。
「確かに、冬の海もいい」
「なんだ、聞こえてたんじゃないですか」
「全部は聞こえなかったから、当てずっぽうを言ったんだ」
 彼はそんなふうに言って口角を上げ、俺を困らせた。そう、ミスルンさんの笑みはいつだって俺を困らせる。すごく愛しくなって、彼が全部ほしくなって、たまらない気持ちにさせるのだ。ほほ笑まれなければこんな気持ちにはならないのに、この人は気づいているのだろうか? 自分が俺を振り回していることを。俺がこんなにもあなたに振り回されて、それを幸福とすら思っていることを。
 そのとき、さざなみが押し寄せる足元がきらりと光った。貝殻だろうか? そう思い俺はしゃがみ込む。もちろんその光をミスルンさんに見せてあげるために。片目しかないこの人の視野の代わりになるために。
「あれ、貝殻じゃないな。シーグラスだ」
 誰かが海に落とした瓶が波に揉まれ、角が取れて丸くなったそれはどこまでも青く、今日の空の色に似ていた。そう、今日の空は晴れ渡っていて、雲一つなかった。俺はそのシーグラスを手のひらの上で転がし、太陽にかざす。するとそれは足元にまた光の影を作って、俺たちのつま先を青く染めた。
「お前の目の色みたいだ」
 その光景を見たミスルンさんが、しみじみと感じ入ったように言う。俺の目の色はこんな色なんだろうか? 晴れ渡った空の色、父とも、母とも違った青い目。
「触らせてくれ」
 俺がぼんやりしていると、ミスルンさんはそう言って俺の手のひらからシーグラスを取った。ひんやりと冷えた氷のようなそれが、彼の手に青い影を作る。ミスルンさんは愛おしげにそれを撫で、まるで俺を愛するときのように唇を寄せた。俺はその仕草に顔が熱くなり、耳まで火照っていることを知らされる。もちろん海風の冷たさもあったのだが、それよりもずっと彼の口付けは熱かったのだ。
……それ、あなたにあげます」
「本当に?」
「しょっぱいのに、キスするくらい好きなんでしょう?」
「本当にそれだけだと思ってるのか?」
 ミスルンさんがまた笑う。分かってる、彼が俺にキスする代わりにその硝子の欠片に口付けたってことは。人がいないとはいえ、誰が来るともしれない場所では、俺たちは目立ちすぎたから。でも、
「俺もキスしたいな。黒いやつってないんですかね」
「少なくとも私は見たことがないな」
 俺たちはそんなくだらないことを言って、海を歩く。足元にはシーグラスが一本の線に連なって、それは妖精が通った足跡みたいだった。あまりにもその線が美しいので俺はそれにはしゃぎそうになり、でも、子どもっぽく思われたくなくて言葉を飲み込む。いや違うな、俺がはしゃぎたかったのは、硝子の美しさより、彼がくれた愛みたいなささやきについてだ。シーグラスを俺の目に見立て、愛しげに唇を寄せた彼に、俺はいつの間にか降参させられていたのだ。
「やっぱり、あなたにキスがしたいな」
「こんな誰が来るともしれないところで?」
「あなた、羞恥心が戻ったんですか?」
「さぁ、どうだか」
 ミスルンさんはそうやって俺をはぐらかし、笑いながら海辺を進む。歩くたびに足が砂浜に沈み、でも、それすらも波がさらってゆく。ミスルンさんは俺の隣から離れ、先を進む。そして振り返る。でも太陽が逆光になって、彼がどんな表情をしているのか、それは見えなくなる。笑っているのかどうか、俺にはもう分からない。
 でもそれでいいんだろう。彼が笑っていたって、泣いていたって、愛しい人ってことには変わりはないんだから。俺の瞳の色に似ているらしい青いシーグラスに口付けたあの人が何を考えていたって、俺はミスルンさんのことが愛しいのだから。
 春を予感させる風が吹く。もうすぐやってくる季節の中で、俺たちはどう変化するのだろう。ミスルンさんは俺と会えない間、あのシーグラスに瞳の代わりに口付けるのだろうか?
 だったら俺はそれを振り切って会いに行こう。そして俺は絶対にあなたに口付ける。誰も入ってこられない部屋で、二人きりで、あの秘密の部屋で、青い空や太陽すらさえぎってしまえる、あの二人きりの部屋で。